Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


甘楽郡下仁田町下仁田の伊勢山の百庚申。

伊勢山百庚申 (1)
伊勢山百庚申 (2)
伊勢山の庚申塔の多くは紀年銘が磨耗し不明な物が多いが、分かるものでは元禄7年(1694年)、享保18年(1733年)、寛政9年(1797年)、文政10年(1827年)などがある。

元禄と文政では100年以上の間隔があり、長きに渡り徐々に建立されたものとされる。

伊勢山百庚申 (3)
この碑には南牧村の不動寺住職・月船(当時)による「庚申始末記」(庚申の由来)が刻まれている。

伊勢山百庚申 (4)
伊勢山百庚申 (5)
伊勢山百庚申 (6)
山の東面(だと思う)に多くの庚申塔が並ぶ。

この山の中を古道が通っていたと地元の人から聞いたので、その古道に沿って庚申塔を建立したのかもしれない。

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甘楽郡下仁田町下仁田の松露山霊山寺。

霊山寺 (1)
霊山寺 (2)
霊山寺(りょうぜんじ)は約400年前に畠山重俊と流れを同じくする重全和尚により開山された。いつから400年前かよく分からないが、創建は1600年頃かな。

本堂は一般的なお寺建築とは趣を異にする造り。平らな屋根に子屋根を設け、宝珠を乗せている。

霊山寺 (4)
余り広くない境内の壁沿いに十八羅漢が並ぶ。

霊山寺 (5)
霊山寺 (6)
鐘楼は平成11年(1999年)の建立。何となく大陸風の雰囲気がある。それと関係するか分からないが、梵鐘は中国上海製。梵鐘は平成2年(1990年)の鋳造。

梵鐘の中央部に刻まれている梵字は、触れただけで無量の福徳が授かり、7度唱えれば総ての罪障を滅すといわれる光明真言というものらしい。

毎朝・毎夕、この鐘が下仁田に響き渡っている。

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甘楽郡下仁田町宮室の宮室山常光寺。

常光寺 (1)
常光寺は明応元年(1492年)に慈光阿闍梨が開山したと伝わる。

常光寺 (2)
石段の途中には、檀家の方を偲んだ不動明王が鎮座している。

常光寺 (3)
常光寺 (4)
度重なる火災に見舞われたが、現在の本堂は文政元年(1818年)の再建。昭和期に大改修が行われている。本尊は阿弥陀如来で、天保13年(1842年)に日光・養源院から寄贈されている。(ちなみに養源院は明治期に廃寺となっている)

常光寺 (5)
常光寺 (6)
境内はあまり広くないが、観音様が参拝客を迎える配置になっている。

常光寺は「鏑川七福神」の寿老人を祀っている。

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甘楽郡下仁田町下仁田の安養山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺は、鎌倉時代の有力御家人・畠山重忠の弟である重俊が、兄の菩提を弔うために開山した。重忠の没年は元久2年(1205年)なので、この辺りの創建と思われる。

清泉寺 (2)
山門の天井絵。

清泉寺 (3)
清泉寺 (4)
現在の本堂は文政11年(1828年)の再建。

清泉寺 (5)
清泉寺 (6)
梵鐘は安永9年(1780年)、地元の鋳物師・太田長左衛門尉藤原順本によって鋳造された。高さ142.5cm、口径75cm。寺の概略と畠山家先祖の追福のために鋳造された旨、銘文が刻まれている。

鋳物師名として「太田長左衛門尉藤原順本」と下仁田町のHPに書かれているのでそのまま書いたが、これはどう解釈すればいいの?左衛門尉って官名(後世は受領名が多い)だと思うが・・・。それとも太田長左衛門と藤原順本の2人?

清泉寺 (7)
清泉寺 (8)
墓地にある宝篋印塔。この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇をかたどった軸部と中台を置く形式のもの。富岡・甘楽地域では唯一の須弥壇式宝篋印塔である。造立は明徳2年(1391年)で、下仁田町では最古の宝篋印塔。

ちなみに、明徳は北朝の年号。明徳2年は南朝では元中8年。富岡・甘楽地区に残る石塔は、そのほとんどが北朝の年号を用いている。この地区が北朝側の影響下にあった証拠である。

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甘楽郡下仁田町馬山の勝馬山栄命寺。

栄命寺 (1)
栄命寺は安和元年(968年)慈恵大師の開基である。慈恵大師は、一般的には元三大師の名で知られる。第18代の天台座主。延暦寺の中興の祖とされている。

栄命寺 (2)
栄命寺 (3)
本堂は平成16年(2004年)に改修されている。

栄命寺 (4)
墓地の入口には奪衣婆と思われる像があった。奪衣婆は三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた、亡者の衣服を剥ぎ取る老婆である。

生前に死後の裁きを軽くしてもらえるよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだりなでたりする風習がある。像の擦り減り方から奪衣婆かなと思ったということ。

栄命寺の山号である勝馬山とは、この地の産業である馬の飼育と、その売買の繁盛を願ったものといわれている。地名も馬山というくらいだから、古来から馬の飼育が行われていたんだと思う。

現在、馬山地区は下仁田ネギの主産地として名を馳せている。

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甘楽郡下仁田町馬山の馬山神社。

馬山神社 (1)
馬山神社 (2)
馬山神社は、明治10年(1877年)に稲荷神社が若宮に遷座したことに伴い、その跡地に旧馬山村に散在していた神社を合祀し創建された。合祀した神社以外にも当地へ移転安置した末社は30社にのぼる。

馬山神社 (3)
鳥居をくぐると、社殿へは下って行く。

馬山神社 (4)
馬山神社 (5)
社殿はこじんまりとしているが、厳かな良い雰囲気である。

馬山神社 (6)
神楽殿。毎年、秋の例祭には獅子舞が奉納される。馬山地区は獅子舞が盛んな地域で、白山、鎌田、四村、若宮、蒔田の5つの組で伝統が残っている。

馬山神社 (7)
神饌舎と思われる建物。神饌とは神様へのお供え物のこと。

実は別の場所に行こうとして迷ってしまい、車を回そうと入り込んだら馬山神社だった。結果的にラッキーだった。

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富岡市上丹生の鳴沢不動尊。

鳴沢不動尊 (1)
鳴沢不動尊 (2)
鳴沢不動尊 (3)
鳴沢不動尊は、空海が全国の名滝、霊山に安置した不動尊60体のうちの1体といわれる。とすると、創建は弘仁(810~24年)、天長(824~34年)あたりか。

鳴沢不動尊 (4)
御堂の裏手には大桁山から湧き出す「霊泉」が流れ落ちている。水量が多く、滝行ができそうな勢い。

鳴沢不動尊 (5)
鳴沢不動尊 (6)
石垣上には不動明王が鎮座している。

鳴沢不動尊 (7)
左側の石垣から水汲み用と思われるパイプが出ている。手ですくって飲んでみたらおいしかった。

「霊泉」には様々な伝説があるとのことだが、調べても分からなかった。


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富岡市下高尾の仁治の碑。

仁治の碑 (1)
仁治の碑は高さ276cm、最大幅96cmの緑泥片岩製。仁治4年(1243年)の銘がある。富岡市最古の板碑で、県内でも3番目に古い。

仁治の碑 (2)
上部に五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)と薬師如来を表す梵字が刻まれている。天台密教系の信仰に基づいている。

造立者として、「壬生・六人部(むとべ)・小野・藤原・春日・物部・大宅・安部」など20数人の名前が列記されている。これらの人物は当時の有力者と考えられ、当地の歴史を知るうえでも貴重な資料となっている。

甘楽町にある「仁治3年の板碑」と基本的に同一構成だが、こちらは県の重文指定。甘楽町は1年古いが、風化が進んでいるためか、甘楽町の重文とまり。
(「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-」参照)

ちなみに、群馬県内の板碑では、前橋市・小島田の供養碑が仁治元年(1240年)で1番古い。甘楽町の仁治3年、この仁治4年と続く。

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富岡市富岡の朗惺山本城寺。

本城寺 (1)
本城寺は鎌倉御家人・三浦氏の流れをくむ石井長勝(鎌倉・長勝寺を開山)の子孫が、慶長3年(1598年)に長勝寺から日皆上人を招いて創建したといわれる。

本城寺 (2)
本城寺 (3)
本堂は安政元年(1854年)の建立。

本城寺 (4)
境内の鬼子母神。
鬼子母神は子供の健やかな成長を願うもの。人々の子供を取って喰った悪女をお釈迦様が戒めたことから、悪女は子供を護ることを誓い鬼子母神となったという。

本来は日蓮の亡くなった法要で御会式といい、11月12日が祭日。境内から一帯に露店が軒を連ね、稚児行列が行われる。御取子は数え7歳までの子が法華経守護神の鬼子母神の弟子となることで、その健康を祈り加持祈祷するもの。

本城寺は鏑川七福神の毘沙門天を祀る。興味がないので見つけもしなかったが・・・。創建後、何度も火災にあったことから、本堂建立時(安政元年:1854年)に毘沙門天を祀り、火災から免れるよう願ったのが始まりという。

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甘楽郡甘楽町国峰の興巌寺。

興巌寺 (1)
興巌寺 (2)
興巌寺(こうがんじ)の由緒は不明。

興巌寺 (3)
本堂は平成12年(2000年)の新築。本堂新築記念碑に「450余年」とあったので、単純計算で1550年前後、天文から弘治(1532~58年)あたりの創建?

興巌寺 (4)
興巌寺は小幡七福神の大黒天を祀る。

興巌寺 (5)
墓地内にある一石五輪塔。その名の通り、1つの石から彫り出した五輪塔。3基とも天引石(砂岩)で造られている。高さは56~58cmとそれほど大きくない。いずれも直線的な軒型をしており、13~14世紀の造立と推定される。小幡氏、藤田氏の供養塔と伝えられているが、定かではない。

風化のためか火輪と風輪間には亀裂が入っており、分離状態(上に乗っているだけ)になっている。

興巌寺 (6)
興巌寺 (7)
墓地内に「国峯城主 小幡氏歴代」という碑があったので、その後ろを見たら小幡氏歴代の墓(宝篋印塔)があった。塔身部は後世のもののようだが、そこには「顕高」「信龍斎全賢(憲重)」「泉龍斎聖賢(不明)」「信定」「重定」「信貞」「信真」の名がみえる。
*( )内はオレの記載

小幡氏に関しては詳しくないが、顕高、憲重、信貞は親子孫の関係で、顕高の法名が「興巌宗賢庵主」とあったので、勝手な想像を働かせると、興巌寺は憲重が父・顕高の菩提を弔うため創建したのかも。

後付けの塔身部に弘治3年(1557年)ともあったので、単純計算からの創建推定年とだいたい合っている。うぅ~ん、自己満。(一石五輪塔の年代とは、ちょっと合わないけど・・・)

ちなみに、小幡氏歴代の墓は宝積寺にもある。
 「小幡氏歴代の墓 -宝積寺-

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甘楽郡甘楽町造石の長岡家の薬医門と四脚門。

長岡家の門 (1)
薬医門は切妻屋根の草葺きで、江戸時代初期の建築と推定される。門の両側には石塁の跡が残り、城構えの門のような形式をとっていたと考えられる。写真に見える石積みは、もちろん後世のもの。

長岡家の門 (2)
四脚門は薬医門の内側にあり、切妻屋根で現在は瓦が乗っている。扉は引戸式になっていたらしく、敷居に1本の溝が残っている。

四脚門は、小幡藩織田氏(織田信雄の4男・信良)が福島村に仮陣屋を構えてから(元和3年:1617年)小幡に陣屋を築くまでの間、長岡家が米・塩などの補給を行ったので、その返礼をして建てられたといわれる。そのため「織田の御馳走門」と呼ばれている。

長岡家は細川藤孝(幽斎)の長男・忠興とガラシャ(玉)の次男・興秋の末裔といわれている。細川輿秋は慶長10年(1605年)人質として江戸に向かう途中に出奔し、その後慶長19年(1614年)の大坂の冬の陣では豊臣方に加担したため、戦後忠興の命により切腹したといわれている。しかし興秋は長岡大学と名を改め、甘楽町造石に土着したという。

これを事実と仮定すると、なぜ造石に土着したかは、織田信雄が小幡を所領した(元和元年:1615年)からと思われる(織田家は元の主君)。さらに想像を巡らせると米・塩の返礼に門を建てたのも、長岡家当主が輿秋だったからではないか?

関連
 「組石造りの地蔵像 -法華経供養遺跡-
 「細川興秋の末裔・長尾家の供養施設 -弥勒寺-

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甘楽郡甘楽町秋畑の与一八幡社。

与一八幡社 (1)
与一八幡社の詳細は不詳だが、那須与一が創建したとの伝承がある。那須与一は「平家物語」に記される屋島の戦いで、扇の的を射抜いた話が有名な武将。

与一八幡社 (2)
与一八幡社 (3)
小さな木製の祠があるだけの質素なお社。

なぜ秋畑地区に那須与一所縁のお社があるかというと、与一が所領していたとも、与一の兄が所領していたともいわれる。現に当地は那須地区という地名である。

与一はここを訪れ(住み)、弓の稽古をしたと伝えられている。その場所は「的場」という地名となって残っている。また、弓の稽古後に与一が水を飲みに来た湧水が「与一の渡井戸」として残っている。

実は「与一の渡井戸」を一生懸命探したのだが、なにしろ道は狭いわ坂は急だわで、結局見つからなかった。帰宅後に地図で再調査したところ、すぐ近くまで行っていたことが判明した。あの狭い坂道を登って行く勇気はなかった。(秋畑那須地区のみなさん、失礼な物言いでごめんなさい)。

ということで、機会があれば再訪したい。

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甘楽郡甘楽町小川の仁治の板碑。

仁治の板碑 (1)
仁治に板碑は、高さ348cm、幅83cm、厚さ9cmの緑泥片岩製で、仁治3年(1242年)の銘がある。甘楽町最古の板碑である。群馬県内でも2番目に古い。

ちなみに、甘楽町で2番目に古い板碑は、養学寺跡にある建長3年(1251年)銘の板碑。(「甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-」参照)

仁治の板碑 (2)
金剛界五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)を表す梵字が刻まれている。碑文から集団・結衆(仏と縁を結ぶ)によって建てられた碑と言える。

しかし風化が進んでおり、ほぼ判読できない。どうやら長い間、付近を通る鎌倉街道の石橋にされていた影響が大きいようだ。

貴重な板碑と認められ、現在地へ移転されたのは明治14年(1881年)になってからである。

なお、富岡市下高尾に「仁治の碑」(仁治4年:1243年)と呼ばれる五智如来と薬師如来を表す梵字を刻んだ板碑があるが、別の板碑なのでお間違えないように。
ちなみに、富岡市の「仁治の碑」は状態も良く(梵字も判読できる)、群馬県の重文になっている。まだ行ってないので、そのうちにでも。

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甘楽郡甘楽町秋畑の建長の板碑。

建長の板碑 (1)
板碑は養学寺(廃寺)跡にあり、高さ302cm、幅43cm、厚さ12~14cm。結晶片岩製で建長3年(1251年)の銘がある。甘楽町では2番目に古く、群馬県内でも4番目に古い板碑である。

建長の板碑 (2)
碑の上部に胎蔵界大日如来を示す梵字を刻む。碑文は亡くなった母親のために、5人の子供が大日如来を祀って供養する旨が書かれている。

平成5年(1993年)に当碑を10mばかり移動した際、元は別の場所に建っていたものを移し、建て直していることが分かったという。

建長の板碑 (4)
建長の板碑 (5)
付近には他の板碑やその残骸が残っており、この辺では古くから板碑での供養が行われていたことを示している。

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甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

城町薬師堂の石仏 (1)
織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の信仰を集めていた。ここは下薬師。高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されている。

城町薬師堂の石仏 (2)
向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。この石仏は上薬師から遷されたといわれている。

中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。(これは重文ではない)

左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。頭部が欠損しているうえ風化が激しい。

薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置からこの3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ19cm、頭部が欠損してしまっている。

今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気もする・・・。

言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち着いて見てられなかったんだよね。

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甘楽郡甘楽町上野の吉田家の土塁・濠跡。

吉田家の土塁 (1)
吉田家の土塁 (2)
吉田家の土塁・濠跡は、室町から戦国期の方形館跡の周囲の土塁と濠跡である。土塁は方形館を囲んでいたが、特に西側は素晴らしい形で現存している(北側は約半分、東側は一部現存、南側は削平)。

吉田家の土塁 (3)
吉田家の土塁 (4)
西側土塁は長さ約70m、下幅約8m、上幅約2.5m、高さ2.5mの規模を誇る。

吉田家の土塁 (6)
西側濠跡は長さ約80m、幅は約6m。素人目にも濠跡だと分かる形で残っている。野菜が植えられているのは、ありがちだ。

当地は江戸時代初期に直轄地として代官・深谷氏が居住しており、その時の館跡の形状を維持していると考えられる。(その後、旗本・河野氏の知行地となり、明治に至る)

箕輪軍記に出てくる「上野城」に比定するむきもあるが、詳細は不明である(甘楽町は「上野城」と考えているようだ)。また、代官が居住していたことから、上野陣屋跡と呼ぶ場合もある。

上野城かどうかはともかく、これだけの土塁が現存していることは驚きである。

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甘楽郡甘楽町上野の医王山今宮寺。

今宮寺 (1)
今宮寺 (2)
今宮寺 (3)
今宮寺の由緒は不明。

今宮寺 (4)
今宮寺 (5)
天引石に彫られた阿弥陀三尊石仏。
主尊・阿弥陀如来(中央)、脇侍・観音菩薩(向かって右)、勢至菩薩(同左)を配している。高さ67cm、幅65cm、厚さ20cm。

天引石は砂岩のため、三尊仏はかなり風化が進んでいる。

今宮寺 (6)
三尊仏とともに覆屋内には2基の板碑があった。詳細は不明。

今宮寺 (7)
今宮寺 (8)
境内にある今宮寺稲荷。
立派な石祠は昭和54年(1979年)の再建。由緒碑らしきものがあったが、ほとんど判読できず・・・。わずかに読めたのは、「今宮寺稲荷の創建は不詳なり」。

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甘楽郡甘楽町天引の鍛冶屋沢の松。

鍛冶屋沢の松 (1)
鍛冶屋沢の松 (2)
鍛冶屋沢の松は盆栽を植え替えた「庭木盆栽式アカマツ」で、幹の曲がり具合や枝ぶりが盆栽時の形状を残している。また、盆栽時に巻かれていた銅線の痕跡が数か所に残っている。

鍛冶屋沢の松 (3)
推定樹齢は約360年、樹高5.8m、枝張り東西9m、南北9.3m。平成13年(2001年)に樹木医により樹勢回復治療が実施され、現在も樹勢は良い。

盆栽は植木鉢の中で自然を再現するものだが、それを植樹すると普通に育つんだね。当たり前か?

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甘楽郡甘楽町天引の友月山向陽寺。

向陽寺 (1)
向陽寺 (2)
向陽寺の由緒は不明だが、参道に「向陽寺開創450年記念 地蔵菩薩建立記念碑」(平成17年春彼岸)があったので、単純に逆算すると開創は1555年頃となる。年号で言うと天文から弘治あたり。

向陽寺 (3)
参道の「可愛い系」の六地蔵。普通の(と言うのも変だが)六地蔵もあった。

向陽寺 (4)
参道脇には檀家の方々が奉納した石仏が並ぶ。

向陽寺 (5)
開創450年記念の地蔵菩薩。

向陽寺 (6)
無事帰るからの交通安全以外にも、お金が返る、貸した物が返るなどの祈願もある福カエル祈願。

戦国期の向陽寺僧・伝州は、国峰城落城時(天正18年:1590年)に国峰城を守っていた小幡信秀(城主・小幡信貞の養嗣子)を寺僧として匿ったといわれる。後に信秀が旗本として取り立てられた際、知行地(安中市野殿)に寺を創建して伝州を迎えたという。

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甘楽郡甘楽町天引の諏訪神社。

天引諏訪神社 (1)
天引諏訪神社 (2)
天引諏訪神社は天正4年(1576年)に信州・諏訪神社より分霊を勧請したとされる。国峰城主・小幡氏が武田氏に従った際、領内に多数の諏訪神社を勧請しており、そのひとつと考えられる。(武田氏が諏訪明神を守護神として信奉していたため)

天引諏訪神社 (3)
天引諏訪神社 (4)
石段を登ると立派な割拝殿がある。

天引諏訪神社 (5)
天引諏訪神社 (6)
現在の社殿は昭和6年(1931年)の建立。

天引諏訪神社 (7)
参道の桜。創建時に植えられたといわれているので、樹齢は400年以上。根周り3.7m、目通り3.5m、樹高約10m、枝張り10m。地上3mで幹が2本に分かれ、東側の分岐した幹は病虫害のため切断され、残念ながら昔日の面影はない。

江戸時代、年貢を納める割当てを桜が開花する時期に行っており、この桜が満開の年は豊作になるといわれた。そのため作物の作況を占う「奉行ザクラ」と呼ばれれる。

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甘楽郡甘楽町金井の歓喜山宝勝寺。

宝勝寺 (1)
宝勝寺 (2)
宝勝寺の縁起を記した「宝勝寺起立文書」という古文書が甘楽町の重文になっているが、調べてもその内容が分からなかった。ということで、宝勝寺の由緒は分からない。

宝勝寺 (3)
宝勝寺 (4)
本堂は平成18年(2006年)の改築。

宝勝寺 (5)
室町時代の特徴を持つ地蔵菩薩石像と薬師如来石像。
ともに天引石製で地蔵菩薩は58cm、薬師如来は60cm。天引石は砂岩のため、風化がかなり進んでいる。

石造は近隣にあった薬師堂に安置されていたが、薬師堂が焼失し野ざらしになっていたため、昭和59年(1984年)に宝勝寺に遷座している。でも、野ざらしは変わらず。覆屋を作ってあげた方がいいと思う。

宝勝寺 (6)
鎌倉時代の文永5年(1268年)の銘がある板碑。
緑色片岩製で高さ136cm。全体の幅が広く、特に下幅が広い将棋形で、13世紀後半に甘楽地方を中心に造立された小幡型板碑と呼ばれている。

偈文と呼ばれる「経」の文字が刻まれている板碑は、群馬県内では本板碑だけで、全国的に見ても極めて少ない。

宝勝寺 (7)
室町時代の応永8年(1401年)銘の宝篋印塔。安山岩製で高さ約70cm。

宝勝寺 (8)
小幡藩織田家家老・吉田玄番家累代の墓。
元和元年(1615年)から小幡藩は織田信長2男・信雄の所領となっていたが、7代藩主・信邦の代に明和事件に連座し、信邦は蟄居、養嗣子・信浮は出羽高畑へ移封となった。

吉田玄番はその当時の家老職で、出羽移封時に責任をとって自決したと伝わる。(妻子共々越後に逃れたという伝承もあり)玄番自身の墓はないが、過去帳に法名が残されている。

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富岡市岡本の柳川子之吉の碑。
以前、同所の西方寺を紹介した際、同寺前にあったこの碑も紹介したが、由緒が分からなかった。(「元応2年・貞治2年銘の板碑 -富岡市・西方寺-」参照)

今回、由緒が判明したので再度紹介する。

柳川子之吉の碑
柳川子之吉は、岡本地区で大正から昭和にかけて、地元の青年相撲を指導した人物のようである。もちろん自身も相撲をとっていた。当時の岡本地区は学校の授業で相撲が行われるほど盛んであり、岡本青年相撲という行事があり、みなが競いあったという。

この碑は柳川子之吉を顕彰するため、昭和5年(1930年)に建立されている。

*桺は柳の旧字なので(実は知らなかった)、今回は「柳」と表記。

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富岡市南蛇井の大徳山最興寺。

最興寺 (1)
最興寺は南北朝期の初め(1330年代)に天台宗の寺院として創建。その後一時衰退したが、戦国時代(1470年代)に曹洞宗の寺院として再建されたと伝えられる。

最興寺 (2)
最興寺 (3)
最興寺 (4)
最興寺 (5)
山門は間口三間・奥行二間の入母屋造桟瓦葺の二層門。文久3年(1863年)の建立。江戸時代後期に長野・諏訪地方で成立した大隈流の建築様式。大隅流棟梁・矢嵜善司銘の設計図も残されている。

最興寺 (6)
最興寺 (7)
最興寺 (8)
本堂の屋根には立派な鯱が取り付けられている。元々は鴟尾が中世以降転じたものだが、魚が水面から飛び上がり尾を水面上に出した姿を具象化したもの。屋根の上面が水面を表し、水面下にあるもの(建物)は燃えないとの言い伝えから、防火のおまじないとして用いられてきている。また鯱は建物が火事の際には水を噴き出して火を消すともいわれている。

鯱は姿は魚で頭は虎、尾ひれは常に空を向き、背中には幾重もの鋭いとげを持っているという想像上の動物。漢字は魚偏に虎とそのまま。

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富岡市妙義町下高田の伏見神社。

伏見神社 (1)
伏見神社は大正2年(1913年)に鹿島神社・諏訪神社・磨墨神社・賀茂神社が合祀してできた神社。

伏見神社 (2)
伏見神社 (3)
細く急な石段をけっこう登って行く。

伏見神社 (4)
伏見神社 (5)
伏見神社 (6)
鬱蒼とした山腹(?)の森の中に、こじんまりとした社殿が現れる。

伏見神社 (7)
伏見神社 (8)
拝殿内に掲げられている大絵馬。もともとは磨墨神社に奉納されていたもの。

中が真っ暗なうえ、向かって右の壁に掛けられており、こんな写真に。と言うことで、富岡市教育委員会文化財保護課の資料から(下の写真)。

絵馬は高さ105cm、屋根の幅172cm、板面の幅118cm。馬に乗る大国主命と馬を引く馬方が描かれている。弘化3年(1846年)に「甘楽郡虻田邑 小板橋亀吉」が奉納したとある。

磨墨神社の由緒によると、磨墨は大桁山の生まれで年老いて故郷に帰ってきたが力尽き、大桁山に向かって立ったまま死んだという。そこに村人が磨墨神社を建てたという。

磨墨は寿永3年(1184年)の「宇治川の戦い」先陣争いで有名な名馬。この合戦で梶原景季が乗っていたのが磨墨。

前橋市の祝昌寺には磨墨の墓がある。(「名馬・磨墨の墓 -祝昌寺-」参照)

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富岡市下丹生の正寿山永隣寺。

永隣寺 (1)
永隣寺 (2)
永隣寺は永禄7年(1564年)、国峰城主・小幡信氏の開基と伝わる。

永隣寺 (3)
永隣寺 (4)
永隣寺 (5)
江戸時代に数度にわたり火災で全焼したが、明治30年(1897年)に再建されている。

永隣寺 (6)
永隣寺 (7)
境内に鳥居がありお堂のようなものがあったので、中を覗いたら何もなかった。何??

永隣寺 (8)
石段下に奪衣婆像があった。奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

生前に死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだといわれる。確かに、山門から境内へと墓地の分かれ道に鎮座している。

この奪衣婆像は帽子や肩掛けを付けており(檀家の方が付けたのかな?)、遠目からは本当にお婆さんが腰かけているように見えた。

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富岡市下丹生の丹生神社。

丹生神社 (1)
丹生神社の創建は不明だが、「日本三代実録」(901年)、「上野国神名帳」(1298年)などに名前が見られる。

丹生神社 (2)
丹生神社 (3)
丹生神社 (4)
社殿は慶応3年(1867年)に火災で焼失し、後の再建。

丹生神社 (5)
神楽殿。毎年3月27日には、丹生神社多々神楽保存会の皆さんによる神楽の奉納が行われる。

丹生神社 (6)
境内の万葉歌碑。昭和11年(1936年)の建立。万葉集に東歌として載っている(巻14-3560)。「真金吹く 丹生のまほその 色に出て 言はなくのみそ 吾が恋ふらくは」

万葉集の成立年は諸説あるが、延暦2年(783年)頃(奈良時代末)といわれており、この時代に丹生という地名が存在していたことになる。

「真金吹く」とは鉄を精錬するという意味。丹生あたりで鉄が採れたとは聞かないが・・・。一応、この歌は近江国で歌われたという説もあることを書いておく。

ついでに、歌自体の意味は、
「鉄を製錬する丹生の赤土のように顔色に出して言わないだけです。私が恋しているということは」

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富岡市原の横尾丹波守吉泉の墓。

横尾丹波守吉泉の墓
横尾吉泉は平清盛の異母弟・忠度(ただのり)の末裔と伝わる。吉泉の父・平信光が信濃国小県郡横尾村の領主となり、横尾姓を名乗っている。

横尾信光は天文17年(1548年)の上田原の合戦で討死。吉泉は幼かったため当地に落ち延び、土着したといわれる。その後、小幡氏に仕え丹波守を名乗っている。吉泉は信望が厚く、原野を切り拓き丹生村の基礎を築いたという。(以上、富岡市教育委員会文化財保護課の資料から)

ところで、いろいろ調べていた中で、上田市のHPに横尾城の話が載っていた。それによると、「室町時代にこの地を支配していた豪族の横尾氏が築城した」とあった。

吉泉の父・信光が横尾を名乗ったと書いたが、それ以前から横尾氏だった可能性もある。上田市のHPにも「天保17年(1548年)の上田原合戦で横尾信光が討死し」とあるので、信光が信濃国にたことは間違いないようだ。(上田市HPの天保は天文の間違い)

ちなみに室町初期の平新光の時に横尾姓に改称した説もあり、その時代から信濃国に土着していた可能性もある。

ということで、横尾氏が信濃国横尾村に来た時期はよく分かんないけど、横尾信光が討死し吉泉が当地に落ち延び、丹生村の基礎を築いたことは確かなようだ。

*写真は後に建てた墓碑の可能性がある。当地(横尾家墓地)に吉泉の墓があるのは確かであるが、墓石は別である可能性もある。それらしき墓石も見つけたのだが、判読できなかった。

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富岡市南後箇の額部神社。

額部神社 (1)
額部神社 (2)
額部神社の創建は不明だが、小幡藩歴代藩主の崇敬を受け、祭祀料などの寄付を賜っていた。

明治42年(1909年)に岡本・岩染・南後箇の諸社を合祀し、染箇岡神社となる(地名を一字ずつ取った)。その後、明治45年(1912年)野上の諸社も合祀し、現在の額部神社となる。

額部神社 (3)
額部神社 (4)
額部神社 (5)
額部神社 (6)
ご祭神は学問の神である菅原道真。地元受験生には人気のスポットらしい。とは言え、絵馬などが飾ってあるでもなし。

額部神社 (7)
額部神社 (8)
建治2年(1276年)建立の石造地蔵菩薩像。像の頭光背の上部が斜めに欠けているが、半肉彫の地蔵菩薩は完形で残っている。

鎌倉時代の特徴をよく表しており、また群馬県内最古の半肉彫石造地蔵である。

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富岡市岡本の西方寺。

西方寺 (1)
西方寺 (2)
西方寺 (3)
西方寺 (4)
西方寺の由緒は不明。

西方寺 (5)
元応2年銘と貞治2年銘の板碑。両板碑とも石材は地元の点紋緑泥片岩

西方寺 (6)
鎌倉時代末、元応2年(1320年)の建立。上部が割れて(欠けて)いるが、高さ242cmを誇る。群馬県内で2番目に大きい。

西方寺 (7)
南北朝期、貞治2年(1363年)の建立。大日如来が刻まれている。貞治は北朝の年号。

富岡から甘楽、下仁田にかけて北朝の勢力下にあったのか、意外と北朝方に縁故のものがある。
 富岡・光厳寺(北朝初代・光厳天皇の開基)
 下仁田・貞治6年銘の板碑
 甘楽・観応元年の五輪塔(庭谷の五輪塔)

西方寺 (8)
門前の「力士 桺川子之吉の碑」。地元出身の力士なのか、調べても分からなかった。

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富岡市南後箇の北山茶臼山古墳。

茶臼山古墳 (1)
茶臼山古墳 (2)
茶臼山古墳は北山の山頂にある。実は北山を見くびっていた。古墳があるくらいだから、ちょっとした丘くらいだと思っていたら、そうではなかった・・・。標高だと260mくらいらしいが、けっこう山道は大変。

茶臼山古墳 (3)
途中にヘビが通せんぼ。行くなってことか?

茶臼山古墳 (4)
なんとなく円墳ぽいのが見えてきた。久しぶりに疲れた。

茶臼山古墳 (5)
北山の山頂兼茶臼山古墳の墳頂。

茶臼山古墳は径約35m、高さ約5mの円墳で、北側に祭壇だといわれる造り出しがある。表面には河原石を敷きつめ、周囲には埴輪が並べ立ててあった。築造時期は4世紀末から5世紀初めと推定される。

茶臼山古墳 (6)
明治27年(1894年)、地元住民によって偶然に青銅鏡や石釧(石製の腕輪)などが掘りだされ、初めて古墳であることが分かった。その他、刀剣や玉類など、豊富な副葬品が発掘されている。その経緯や発掘の状況を記した碑が建っている。

特に青銅鏡は直径24.9cmで、3世紀に中国・魏で作られた「三角縁神人車馬竜虎画像鏡」(三角縁神獣鏡の一種)で、同じ鋳型で作られたものが奈良県・滋賀県・岡山県で出土している。

このことから、被葬者は畿内(大和朝廷)と強い結びつきがあった豪族と推定される。

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