Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


富岡市、甘楽町、下仁田町、南牧村

日本一の大黒様は野球の神様? -中之嶽大国神社-
日本一の大黒様 -中之嶽神社-
富岡市・西小野神社
富岡市大島・北向観音
富岡市大島地区の氏神さま -鎮火神社-
素晴らしい漆喰彫刻 -富岡市・成田山不動堂-
旧高瀬村の総鎮守 -高瀬神社-
白鳳時代の創建 -小舟神社-
原田篠の薬師様 -田篠の石造如来三尊坐像-
小さいながらも充実の展示 -富岡市郷土館-
富岡市妙義町・女神像碑と十一面観音菩薩碑
富岡市・高瀬26号古墳
富岡市・粘土山古墳
富岡市・伊勢塚古墳
富岡市・太子堂塚古墳
恵心僧都作の十一面観音像 -寿福寺-
子授け・安産の観音様 -小桑観音堂-
木彫馬頭観音立像 -藤木観音堂-
円空作の十一面千手観音立像 -黒川不動堂-
山田道政の館跡 -若宮八幡神社-
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甘楽町轟・厳島神社
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富岡製糸場物故者慰霊碑 -一峰公園-
富岡市妙義町・弘法の井戸
姫街道の関所跡 -西牧関所跡-
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大隅流の装飾彫刻 -下仁田諏訪神社-
下仁田町・伊勢山の百庚申
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下仁田町馬山地区の総鎮守 -馬山神社-
富岡市・鳴沢不動尊の霊泉
富岡市最古の板碑 -仁治の碑-
鬼子母神御取子 -本城寺-
小幡氏歴代の墓 その2 -興巌寺-
織田の御馳走門 -長岡家の薬医門と四脚門-
那須与一所縁のお社 -与一八幡社-
甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-
甘楽町・城町下薬師堂の石仏
上野蔵屋敷跡 -吉田家の土塁・濠跡-
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文永5年銘の小幡型板碑 -甘楽町・宝勝寺-
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大隅流素木造りの山門 -最興寺-
元磨墨神社の大絵馬 -伏見神社-
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万葉集東歌の歌碑 -丹生神社-
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建治銘の石造地蔵菩薩像 -額部神社-
元応2年・貞治2年銘の板碑 -富岡市・西方寺-
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稲部市五郎種昌の墓 -富岡市・金剛院-
橋本暮村の墓 -伝宗寺-
満願虚空蔵菩薩 -星田の虚空蔵堂-
甘楽町・天引の笠塔婆 その2
仮面ライダーゴーストの大天空寺! -光厳寺-
高田大和守憲頼の墓 -陽雲寺-
千鳥破風の鬼面彫刻 -富岡市妙義町・菅原神社-
鏑川上流の渓谷 -不通渓谷-
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いろいろな碑が建っている -貫前神社前公園-
ゆかりは古し貫前神社 再訪
平安時代の創建 -高太神社-
彦狭島王の墳墓? その3 -天王塚古墳-
富岡市・田篠しの塚古墳
黒岩の大日堂 -遍照寺-
甘楽町・天引の笠塔婆と板碑
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伝・庭屋氏累代の墓 -甘楽町・庭谷の五輪塔-
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富岡市上高瀬の薬師堂
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七日市藩前田家の元祖廟 -前田家御宝塔-
昭和初期の近代和風建築 -富岡市社会教育館-
甘楽古代館再訪
本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
荒船・妙義山系山岳信仰 -黒瀧山不動寺-
生物の進化が分かる -群馬県立自然史博物館-
富岡製紙工女の墓 その2 -海源寺-
高橋道斎の墓 -常住寺-
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下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-
驚き!の空堀 -麻場城址-
甘楽町・天引中宿の薬師様
小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-
ナニコレ珍百景に登場 -夫婦岩-
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「おのれの滝」の水源 -曽木神社-
昭憲皇后(明治天皇妃)の歌碑とおのれの滝
お菊の墓が旧妙義町にもあった
前田利家側室・明運尼の墓 -永心寺-
上野国十二之宮 -宇芸神社-
小野小町の開基 -得成寺-
組石造りの地蔵像 -法華経供養遺跡-
笹森稲荷神社と笹森古墳
日本一大きい磨崖仏・・・ -長厳寺-
お菊伝説 -宝積寺 その2-
小幡氏歴代の墓 -宝積寺-
無料こんにゃく料理バイキング -こんにゃく博物館-
日本最古の一般住宅? -旧茂木家住宅-
七日市藩主の菩提寺 -長学寺-
七日市前田家の崇敬社 -蛇宮神社-
県立富岡高校内にあります -七日市藩陣屋跡-
富岡製紙工女の墓 -龍光寺-
甘楽町・松井家住宅
拝殿の天井絵がみたい! -小幡八幡宮-   
中世の薬師如来像 -宝泉寺-
土日・祭日は休館って・・・ -甘楽古代館-
下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館
学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-
唯一残る大名公園 -楽山園-
織田家7代の墓碑
富岡市・もみじ平総合公園
本殿は修理中でした・・・ -妙義神社- 

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甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽大国神社。
前回の中之嶽神社の境内社。(中之嶽神社は「日本一の大黒様 -中之嶽神社-」参照)

中之嶽大国神社 (1)
中之嶽大国神社 (2)
中之嶽大国神社は弘仁9年(818年)藤原冬嗣と弘法大師(空海)が登嶽し、大国主命を祀ったの始まりといわれる。

藤原北家で当時大納言(後に左大臣、死後に太政大臣が贈られた)の冬嗣と、弘仁7年(816年)朝廷から高野山を賜り、当時は金剛峯寺の開創に着手していた空海が、そろって上野国くんだりまで来るとは思えないけどね。

中之嶽大国神社 (3)
中之嶽大国神社 (4)
中之嶽大国神社 (5)
社殿は明治以降の建立(詳細不明)。

中之嶽大国神社 (6)
中之嶽大国神社 (7)
狛犬などの代わりに大黒天が2体。上の写真はは小槌をもつ大黒様、下は剣をもつ大黒様。

中之嶽大国神社 (8)
中之嶽大国神社 (9)
大黒様のご利益で「縁結び」「縁切り」を願う「願い玉」が多数奉納されている。縁切り願いもけっこうあるんだね。

中之嶽大国神社 (10)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。中之嶽大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々の奉納。

中之嶽大国神社 (11)
中之嶽大国神社 (12)
中之嶽神社・大国神社には甲子講中からの寄進物が目につく。江戸時代中頃から、大黒天の縁日が甲子(きのえね)の日であることから、甲子講が盛んになった。

中之嶽大国神社では年6回「甲子(きのえね)祭」を行っている。甲子は「気が栄える」と言い、大黒様のご利益を最大限に受け運気が高まる日とされる。

最近では、この「甲子」が「甲子園」と結びつき、野球の神様としても人気になっている。甲子園球場も甲子の年に完成したので甲子園と名付けられた。「野球お守」「野球絵馬」「願いバット」などの授与品の他、必勝祈願お祓いなどを受けに来るチームも多い。

実は宮司さんのご子息は、前橋育英が甲子園で優勝したときのレギュラーメンバー。そんなこともあり、ご利益が大きいのがよく分かる(笑)。

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甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽神社。

中之嶽神社 (1)
中之嶽神社 (2)
中之嶽神社は欽明天皇の御代(539~71年)に妙形氏が創建したといわれる(公式サイトより)。妙形氏について分からないが、なんとなく「妙義」を思い浮かばせる。

北甘楽郡郷土誌(大正6年:1917年)には白鳳2年(674年)の創建とある(天皇で言うと天武天皇)。日本武尊が東征のおり山中に住む賊を成敗し、また弟橘姫を偲び追想の情を発したのを見て、村人が武尊大神と称し社宇を建立したといわれる。

寿永2年(1183年)には藤原祐胤が宝剣を献納している。剣は現存し、神宝となっている。

元和2年(1616年)、北条氏家臣であった加藤長清(妙義山の岩穴に長く住んでいたといわれる)が、神殿・社殿を再築し金洞山巌高寺という巨刹を創建している。この際、弘仁9年(818年)創建の大国神社(大黒天)を前宮、武尊大神を奥宮と位置づけた。

その後、幕末に山火事により被災。そのまま明治維新・神仏分離を経て、中之嶽神社、境内社の大国神社の関係になっている。公式サイトを見ると現在も、大国神社を「前宮」・中之嶽神社を「奥宮」としている。

中之嶽神社 (3)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。一般的に大黒様は小槌をもっているが、この大黒様は剣を持っている。不動明王と大黒様が融合したもの説、中之嶽神社の神宝が剣だから説などがある。

ただ厳密に言えば、境内社である大国神社(ご祭神は大黒天)に由来するものである。奉納者も大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々。(中之嶽大国神社については別途書くよ)

中之嶽神社 (4)
中之嶽神社 (5)
社務所やお土産物店を過ぎると二ノ鳥居。公式サイトでは「中之嶽大国神社」の鳥居となっているが、扁額は中之嶽神社となっている。「前宮」「奥宮」の関係だから区別してないのかな。

中之嶽神社 (6)
中之嶽神社 (7)
ご神橋。下の沢(?)に水は流れていなかった。

中之嶽神社 (8)
中之嶽神社 (9)
社殿はこの急な石段の上。頑張って登ろう。

中之嶽神社 (10)
社殿までもう少し。後ろに見えるのは轟岩。

中之嶽神社 (11)
中之嶽神社 (12)
中之嶽神社 (13)
拝殿の建立年などは分からないが、先に書いた由緒から明治以降と思われる。拝殿後ろの「轟岩」をご神体としているので、拝殿のみとなっている。また、轟岩の下部にめり込む形になっている。

中之嶽神社 (14)
加藤長清の碑(長清道士の碑)。高橋道斎が厳高寺・慈海和尚の依頼を受け、安永7年(1778年)に撰文・建碑したもの。

長清は由緒にも書いたように巌高寺を創建した人物。妙義山中で剣の道に励んだ後、仏道を修行、晩年には仙人のような生活から不死の法(長生の法)を修め、148歳まで生きたといわれる。

まあ不躾な言い方をすれば、山中から出てこないんだから、生死も分からなかったんだと思う。気がついたと時の計算で148歳ってことかな。

ついでに、高橋道斎は下仁田出身の漢学者・俳人・書家。上野三碑のひとつである多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世に紹介し、現在に至る多胡碑研究の起点となった人。(「高橋道斎の墓 -常住寺-」参照)

中之嶽神社 (15)
長清の碑は、長清の墓の側石碑とされる。近くに長清のお墓があるのかなと思い探してみたら、写真の石祠があったが、未確認だし自信もない。

中之嶽神社 (16)
中之嶽神社 (17)
下仁田町側から見える金洞山(1094m)は別名中之嶽と呼ばれる。中之嶽神社の名はそこから来ている。拝殿から先に進めば妙義山の登山道に入る。第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩などの岩石群は、日本屈指の山岳美とされている。

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富岡市藤木の西小野神社。

西小野神社 (1)
西小野神社 (2)
西小野神社の由緒は不明。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

西小野神社 (3)
西小野神社 (4)
石段を登り、さらに一段高いところに、こぢんまりとした社殿が建っている。扁額は「白山」。

西小野神社 (5)
本殿前の箱(?)にも「白山大権現」の文字が見える。

大正6年(1917年)刊行の「北甘楽郡郷土誌」の小野村の項に白山神社の名が見られ、「大字藤木村字小浜にあり菊理姫命を祀る」と記載されている。

以上から推察するに、年代不明だが加賀国の白山比咩神社の分霊(菊理姫命、白山比咩神と同一神とされる)を勧請し、白山神社として創建。明治以降、村内の他社を合祀した際に、西小野神社と改称ってところかな。

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富岡市大島の北向観音。
大島北向観音は、大島地区西端の山腹に位置し「厄除け観音」とも呼ばれている。

大島北向き観音 (1)
大島北向き観音 (2)
いきなり「ケガ・事故については一切の責任は負いません」との案内板。多少ビビりながら坂道を登って行く。

大島北向き観音 (3)
確かにけっこう急な坂道。でも、そんなに歩くことなくお堂に到着する。

大島北向き観音 (4)
北向観音は弘仁5年(814年)弘法大師が東国を行脚した際、信州小県郡で桂の神木から3体の観音像を彫刻し、下野国・信州別所・大島にそれぞれ安置したのが始まりと伝わる。後の平安時代末、源頼義がお堂を建てたとも伝わる。頼義は八幡太郎義家の父。前九年の役、後三年の役などの道中で、頼義は上野国内に多くの足跡を残している。

大島北向き観音 (5)
大島北向き観音 (6)
大島北向き観音 (7)
大島北向き観音 (8)
現在のお堂がいつ建立されたかは不明だが、極彩のお堂となっている。海老虹梁が龍の透かし彫りになっているなど、全体的の精巧な彫刻が施されている。

大島北向き観音 (9)
大島北向き観音 (10)
お堂から少し下って、崖縁の狭い通路を行くと奥の院がある。奥の院は崖の窪地なのか、崖をくり抜いたのか分からないが、地上約20mの崖にめり込むように建っている。

大島北向き観音 (11)
毎年1月第2日曜日の例祭の日は、さきほどの通路から参拝者が崖下へ厄除けとして銭などを投げ、崖下では地域の子ども達がそれを拾う。そして家に帰る前に使うというのが慣わし。この銭投げの風習は、江戸時代初めころから行われており、約400年の歴史がある。

大島北向き観音 (12)
崖下から見るとこんな感じ。上から落ちてくる小銭を見つけるのも大変なような気がしないでもないし、万一当たったら痛そう。

大島北向き観音 (13)
奥の院からは貫前神社の鳥居が見える。

大島北向き観音 (14)
大島北向き観音 (15)
お堂の裏山側へさらに登って行くと上信越自動車道に行き着く。

大島北向観音は厄除けの他、安産・交通安全・家内安全・学業授受など、広く御利益があるといわれており、近郷のみならず遠方からの参拝者も多い。

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富岡市大島の鎮火神社。

鎮火神社 (1)
鎮火神社 (2)
明治42年(1909年)に高瀬村各地区の17社を合祀し高瀬神社とした際に、大島地区の若宮八幡神社なども合祀された。大正9年(1920年)に空宮となった若宮八幡神社の社殿を鎮火神社に移し、さらに大島地区内の8社を合祀している。

鎮火神社は大島地区のほぼ中央に位置することから、地区の氏神さまとして地域の崇拝を受けるとともに、高瀬神社の遙拝所の役割も果たしている。遙拝所は離れたところから神仏などを拝む場所のこと。

関連
 「旧高瀬村の総鎮守 -高瀬神社-

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富岡市富岡の成田山不動堂。

成田山不動堂 (1)
不動堂は当地に古くからあった修験者・多治見福寿坊の内仏堂で、享保元年(1716年)の創建といわれ、福寿坊第23世・多治見賢友が不動尊を勧請したのが始まりという。明治5年(1872年)に福寿坊が廃坊となったため、明治17年(1884年)に成田山新勝寺(千葉県)で不動尊を再開眼、分霊所となった。

成田山不動堂 (2)
成田山不動堂 (3)
現在の不動堂は明治17年(1884年)の建造。土蔵造りで、正面に軒唐破風の向背が設けられている。お堂内外のほとんどの壁に、立体的な漆喰彫刻が施されている。彫刻師は宮峯吉という左官職人と伝わる。

お堂は老朽化が激しく、覆屋で保護している状態。

成田山不動堂 (4)
堂内には本尊の不動明王が鎮座している。よく見えなかったが、内部の彫刻、特に天井の彫刻は大部分が剥落しているという。

成田山不動堂 (5)
成田山不動堂 (6)
正面向背の虹梁には2匹の龍が彫られ、その上には鶴に乗った女神? 仙人? と思われる人物がいる。

多分、お堂の彫刻全体が中国の故事(二十四孝だと思う)にちなんでいるのだろうが、いかんせん知識がなくよく分からない。トンチンカンなことを書いていたらごめんなさい。

成田山不動堂 (7)
成田山不動堂 (8)
両扉は外れてしまっている。左側(写真上)は楊香(虎退治)っぽいが、右側(大蛇退治?)は分からない。

成田山不動堂 (9)
成田山不動堂 (10)
成田山不動堂 (11)
東側の彫刻は人物の頭が取れてしまっている。1枚目は舜、2枚目は董永、3枚目は王祥の逸話だと思う。

成田山不動堂 (12)
成田山不動堂 (13)
成田山不動堂 (14)
西側の方が保存状態が良い。1枚目は郭巨、2枚目は曾参、3枚目は剡子(ぜんし)かな。

漆喰彫刻は昭和4年(1929年)に修理が行われているが、現状は破損・剥落がかなり進んでいる。早めに何か対策や保護をした方がいいと思うぞ。

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富岡市中高瀬の高瀬神社。

高瀬神社 (1)
高瀬神社 (2)
高瀬神社 (3)
高瀬神社は建仁3年(1203年)に八幡宮として創建されている。明治42年(1909年)に高瀬村17社を合祀し高瀬神社と改称。以来、高瀬村の総鎮守として崇敬されている。

高瀬神社 (4)
高瀬神社 (5)
現在の社殿は江戸時代末の改築と伝えられる。拝殿の質素感と比べると本殿は彫刻も施され重厚感がある。

高瀬神社 (6)
二重虹梁蟇股になっており、鬼(かな?)が虹梁に噛み付いている。鬼だとしたらやさしい顔をしている。

春の例祭には中高瀬獅子舞や式三番などの伝統芸能が演じられていたが、現在は休止されている。式三番は群馬県内では高瀬神社と二宮赤城神社(前橋市)のみ現在まで伝承されている。また、毎年7月には桐渕地区の氏子による「凶事(まがごと)流し」という穢れを乗せた小舟を鏑川に流す神事が行われており、富岡市の無形文化財に指定されている。

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富岡市富岡の小舟神社。

小舟神社 (2)
小舟神社 (3)
小舟神社は白鳳7年の創建と伝わる。白鳳は正式な元号ではなく、寺社縁起などに使われている私元号。白鳳の期間として650年から、661年から、672年からなど複数の説がありはっきりしない。いずれにせよ、小舟神社の創建は飛鳥時代と称される年代になる。

小舟神社 (4)
小舟神社 (5)
小舟神社 (6)
小舟神社 (7)
元は字小舟という場所にあったが、火災に遭い元禄年間(1688~1704年)に現在地に再建されたといわれる。拝殿は平成3年(1991年)に修築されているようだ。また、拝殿前の狛犬は新しく、平成27年(2015年)の設置。

小舟神社 (1)
境内入口の標柱に、貫前神社の「境外摂社 舊祓戸」と刻まれていた。「舊祓戸」は禊ぎを行う場所の意味。

伝承では貫前神社の経津主神が舟を使ってやってきて、当地で禊ぎをしてから貫前神社に入ったことから「舊祓戸」になっており、またその舟を祀ったことから小舟神社という名称になったといわれている。そのため、後に貫前神社参拝時の前宮となっている。

小舟神社の主祭神も貫前神社同様主祭神は経津主神である。

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富岡市田篠の石造如来三尊坐像。

田篠の石造三尊坐像 (1)
田篠の石造如来三尊坐像は、「原田篠の薬師様」と地域での信仰も厚い。南北朝時代(1300年代後半)の特徴を有している。いずれも材質は牛伏砂岩である。右から阿弥陀如来、胎蔵大日如来、弥勒菩薩である。地元では「薬師様」と呼ばれているが、なぜか薬師如来は含まれていない。(この3体が富岡市の重文になっている)

田篠の石造三尊坐像 (2)
坐像の隣に一石三尊石像がある。これ薬師三尊像? 風化していてわかりずらいのとオレの知識不足のため、明確には分からない。

当所には他にも石仏があるので、すべてまとめて「薬師様」と信仰されてきたと考えた方がいいのだろう。

「石造如来三尊坐像」というのが富岡市の重文の名称だが、これはまぎらわしいな。

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富岡市妙義町上高田の富岡市郷土館。
妙義庁舎の敷地内にある。

富岡市郷土館 (1)
富岡市郷土館は平成28年(2016年)の開館。富岡市のHPを見ると、リニューアルオープンとあったので、以前から展示施設があったのかも。1Fは市内文化財のパネル展示と富岡製糸場関連、2Fは埋蔵文化財を年代別に展示している。

富岡市郷土館 (2)
富岡市郷土館 (3)
富岡市郷土館 (4)
遺跡の発掘パネルや富岡製糸場から出土した瓦など。1Fはちょっと残念感が漂いまくりで、余り期待しないで2Fへ。

富岡市郷土館 (5)
富岡市郷土館 (6)
富岡市郷土館 (7)
打って変わって2Fの出土遺物展示は、オレの興味・嗜好に合致! 縄文土器の「獣面把手」など興味をそそりまくり。

富岡市郷土館 (8)
富岡市郷土館 (9)
富岡市郷土館 (10)
古墳時代、古代・中世の遺物もまったく飽きずに見ることができた。余り広くはないけど、2Fは楽しかった。展示物が多いわけではないが、けっこうな時間居たと思う。

富岡市が「これはすばらしい! という逸品を展示」「出土品の中から選りすぐりのものを展示」と書くだけはあると思った。1Fをもう少しどうにかしてくれると何回も行くと思う(無料なので)。

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富岡市妙義町菅原の女神像碑と十一面観音菩薩碑。

女神像碑 (1)
女神像碑 (2)
女神像碑は高さ77cm、幅31cmの自然石に、線刻で女性の合掌像が刻まれている。裏面に永徳2年(1382年)の銘がある。ちなみに、永徳は南北朝期の北朝の年号。現在でも女性像がはっきり見て取れるが、この女性が何を表しているかは不明。

十一面観音菩薩碑 (1)
十一面観音菩薩碑 (2)
十一面観音菩薩碑は高さ117cm、幅40cmの自然石に、線刻で十一面観音が刻まれている。残念ながら逆光だったことと苔が多数付いていることなどから、線が見える程度で像容は分からず。

女神像と十一面観音像があるのは菅原の波己曽神社跡地。妙義山麓には「七波己曽」と呼ばれる7社の波己曽神社があったが、ここはそのひとつ。有名なのは元波己曽神社の妙義神社。その他、現在も波己曽神社として残っているのは1社のみで、他に合祀されたりしている。3社は場所も不明のようである。

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富岡市中高瀬の高瀬26号古墳。

高瀬26号古墳 (1)
高瀬26号古墳 (2)
高瀬26号古墳は盛土が失われており、主体部の横穴式石室の石材が剥き出しになっている。もとは径22mの円墳で、その周囲に6m幅の周濠が巡らされていたと考えられている。築造は7世紀と推定される。

高瀬26号古墳 (3)
高瀬26号古墳 (4)
高瀬26号古墳 (5)
南向きの横穴式石室だが、崩れてしまっているので詳細は不明。

桐渕住宅団地造成時に発掘調査されたようだが、よく潰されなかったと思う。周りは県営、市営の桐渕住宅団地で多くの古墳が消滅したらしいが、逆に石材が剥き出しだったので残ったのかも。

現在の中高瀬・下高瀬地区にまたがる桐渕古墳群には、40基以上の古墳が確認されているが、現存しているのは数基である(素人のオレが古墳だと判断できるレベルのものは6基)。

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富岡市中高瀬の粘土(ねばつち)山古墳。

粘土山古墳 (1)
粘土山古墳 (2)
粘土山古墳は2段造りの前方後円墳。しかし前方部は大きく削られている。そのため円墳と考えられていたが、昭和45年(1970年)の調査で前方後円墳と判明している。また、周囲に堀が巡らされていたことも、併せて判明している。

もともとは全長62m、後円部径39m、最大幅44m、堀幅9mの大きさと考えられている。6、7世紀の築造と推定される。

粘土山古墳 (3)
粘土山古墳 (4)
主体部は南西に開口する横穴式石室だが、天井石が持ち去られており、石室の詳細は分かっていない。後円部も破壊が進んでいたが、近年保存のための整備が行われたようだ。

北側は道路に面しているが、周りはすっかり住宅街となっており、よく潰されなかったと思う。富岡市内では大きい部類に入るので、重文には指定されていないが保存されたのかな。

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富岡市下高瀬の伊勢塚古墳(高瀬村36号墳)。

富岡伊勢塚古墳 (1)
富岡伊勢塚古墳 (2)
伊勢塚古墳は直径約42m、高さ5.5mの円墳。

横穴式石室があるらしいが、南側(写真正面)には見当たらず。北側に回ってみたが、マンションの壁で見えず。2枚目の写真のように、横から墳頂に登ろうと思えば登れたのだが、ちょっと急いでいたのでパスした。実は、粘土山古墳を目指していていた際に、少し迷った時に見つけたので。

ところで、当地の旧字名が伊勢塚なので伊勢塚古墳なのか、伊勢塚古墳があるから旧字名が伊勢塚なのかは知らないが、名称が付いていることを考えると、もう少しよく見てくれば良かったかもしれない。

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富岡市一ノ宮の太子堂塚(旅寝塚)古墳。

太子堂塚古墳 (1)
太子堂塚古墳 (2)
太子堂塚古墳は前方後円墳だが、後円部の大半は大きく削られているため、本来の大きさは不明。前方部は長さ30m、幅40m、高さ6mの規模を誇り、原形は全長70mほどであったと推定される。

中心の主体部には横穴式石室があったと伝えられているが、既に破壊されている。また、前方部の周囲に20mほどの周堀跡が認められる。

6世紀後半の築造と推定される。

太子堂塚古墳 (3)
前方部墳頂には、松尾芭蕉の句碑(左)と雲裡房の句碑(右)がある。芭蕉の句碑は、地元の俳人が雲裡房の指導のもと寛延4年(1751年)に建立したもの。「芭蕉翁 花の蔭 諷に似たる 旅寝かな」と刻まれている。太子堂塚古墳の別称である「旅寝塚古墳」は芭蕉の句から来ている。

雲裡房の句碑は、芭蕉の句碑造立に尽力した雲裡房を顕彰するために、宝暦12年(1762年)に建立されている。雲裡房は渡辺雲裡房といい、松尾芭蕉の幻住庵を再興した俳人。宝暦11年(1761年)に亡くなっているので、翌年に顕彰句碑が造立されたんだと思う。

太子堂塚古墳 (4)
墳頂にもうひとつ碑のようなものがあるが、なんだか不明。

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富岡市富岡の小幡山寿福寺。

寿福寺 (1)
寿福寺 (2)
寿福寺 (3)
寿福寺の由緒は不明。

寿福寺 (4)
寿福寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。明治15年(1882年)の建立。もとは富岡の多治見福寿坊に安置されていたものを寿福寺に移したという。

寿福寺 (6)
寿福寺 (7)
この十一面観音像は恵心僧都の作といわれ、江戸幕府4代将軍・家綱の生母である宝樹院(お楽の方)の寄進とされる。宝樹院と富岡の繋がりはまったくないと思うので、福寿坊に所有されていた経緯はよく分からない。

ちなみに宝樹院は農民(後に下級武士)の子で、春日局の目にとまり大奥にあがり家光の側室になっている。しかも世継ぎを生んだので、弟2人は大名にまで取り立てられている。すごい成り上がりだ。

ついでに、観音像の作者とされる恵心僧都は平安時代の天台宗の僧侶。恵心僧都の「往生要集」を読んだ浄土宗の開祖・法然は、これにより浄土思想を知ることになるなど、法然や弟子の親鸞に大きな影響を与えたとされる。

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富岡市小桑原の小桑観音堂。

小桑観音 (1)
小桑観音堂は得成寺の僧・亮賢が、徳川綱吉の守り本尊として開基したと伝わる。得成寺は小野小町が開基したと伝わるお寺。(「小野小町の開基 -得成寺-」参照)

小桑観音 (3)
比較的新しい山門には仁王像が鎮座している。

小桑観音 (4)
小桑観音 (5)
小桑観音 (6)
本堂は平成8年(1996年)に改築されている。正面の扁額は江戸時代の儒学者・東江源鱗(とうこうげんりん)の書である。

厨子が少し開いていて、ご本尊の十一面千手観音像が見えた。昔から子授け・安産の観音様として信仰されている。近郷のみならず、遠方からも多くの参拝者が訪れる。

小桑観音 (7)
小桑観音 (8)
本堂裏手の一段高いところに石仏群が安置されている。中心の如意輪観音石像は、南の「仏法谷」と呼ばれる谷の奥にあったものを盗人が持ち出したが、余りの重さに仏法谷の堤に捨てたのを村人が見つけ仏法谷の出口に置き、後にこの場所に移したといわれている。

周りに石仏が多くあるが、子どもを授かりたい人はここから1体借り受け、抱いて眠ると子どもを授かるといわれる。そして、子どもを授かったら借りたものと新しいものの2体を奉納する。

ところで、先ほどの観音石像の逸話(仏法谷から盗み出されて云々)は、本尊の十一面千手観音像のことだとする説もある。

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富岡市藤木の観音堂。

藤木観音堂 (1)
藤木観音堂 (2)
藤木観音堂は、江戸時代まで当地にあった普門寺の一部だったと考えられている。

藤木観音堂 (3)
藤木観音堂 (4)
藤木観音堂 (5)
ご本尊の木彫馬頭観音立像は厨子内に収められており、見ることはできない。三面六臂の馬頭観音像は高さ55cmの檜の一木造り。全身に薄く赤い彩色の跡が残っているという。

背面に「永禄10年(1567年)」の銘と「小幡右衛門尉」の名が墨書されている。小幡右衛門尉は国峰城主の小幡信貞と思われる。

藤木観音堂 (6)
堂内の天井には天井絵が施されている。

藤木観音堂 (7)
観音堂の脇には松尾芭蕉の句碑が建っている。高さ124cmの自然石に「観音能 甍見也李都 花の雲(かんのんの いらかみやりつ はなのくも)」の句が刻まれている。

裏には発願者として白石淺水ら7名の名がある。造立年の記載はないが、淺水の没年や天保14年(1843年)が芭蕉没後150年にあたることなどから、その前後(天保から安政)の造立と推定される。

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富岡市黒川の不動堂。

黒川不動堂 (1)
黒川不動堂 (2)
不動堂は明治初年に当地へ移転されたという。

黒川不動堂 (3)
堂内には運慶作と伝わる不動明王像と円空作の十一面千手観音像があったが、不動明王像は昭和40年(1965年)ころ盗難に遭い現存していない。十一面千手観音像は重文に指定されたことや盗難防止の観点から、石段脇の収蔵庫内に安置されている。

不動堂と言うくらいだから、元々不動明王像が安置されていたんだと思う。運慶の方が円空より年代的にも古いし。

黒川不動堂 (4)
黒川不動堂 (5)
黒川不動堂 (6)
円空作の十一面千手観音立像。
観音像は全体に黒く煤けているように見える。口元がうっすら朱色に塗られているが、後付けのような気がする。腕は差し込み式のようだが、全部は残っていない。また、一部位置が違うのでは? と感じてしまった(素人意見です)。

円空は延宝9年(1681年)上野国にて布教や彫像をしており、貫前神社に滞留していた。その際にこの像を作ったとされる。当初は貫前神社に併設されていた寺院の観音堂に収められていたが、明治初年の神仏分離令での仏像廃棄を逃れるため、この黒川不動堂へ移されたといわれる。実際に相当数の貫前神社所蔵の仏像が燃やされている。

黒川不動堂 (7)
収蔵庫には寄贈された不動明王像も安置されている。

ちなみに盗難に遭った運慶作の不動明王像も、運慶が貫前神社に滞在していたときの作品だという。事実なら国宝ものだけど・・・。

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富岡市岡本の若宮八幡神社。

若宮八幡神社 (1)
若宮八幡神社 (2)
当所は白倉城主・白倉右近道佐の子・山田道政の館跡。屋敷内の東北隅に諏訪神、西南隅に若宮八幡神を祀り、鬼門と裏鬼門封じとしたもの。現在は山田家の墓所になっている。

道佐の没年は天正8年(1580年)なので、道政が当地に館を作ったのも同時期と推定される。

若宮八幡神社 (3)
祠の両脇には樹齢400年以上といわれる杉の大木が神社を護っている。

白倉氏は関東管領・上杉家に使える名家で、道佐の父・重佐は上杉憲政の宿老を務めている。上杉憲政が越後に逃げた後は、武田、滝川、北条に従属し、北条の滅亡(1590年)により山田道政は土着、帰農したと思われる。

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甘楽郡甘楽町福島の甘楽社小幡組由来碑。

小幡組由来碑
甘楽社は明治11年(1878年)に結成された農民の組合製糸結社(当初は北甘楽製糸会社)。養蚕農家が地区ごとに「組」を作り、農家自らで生糸の品質を統一し共同販売したもの。その組のひとつが小幡組。

由来碑は甘楽社小幡組の歴史と発展を後世に伝えるため、大正6年(1917年)に同組合敷地内に建てられた。昭和53年(1978年)に現在地(JA甘楽富岡・甘楽支店)に移設されている。

甘楽社小幡組倉庫
甘楽社小幡組の繭や生糸を保管するために、大正15年(1926年)に建てられたレンガ造りの倉庫は、現在の甘楽町歴史民俗資料館として使われている。
(「学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-」参照)


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甘楽郡甘楽町轟の厳島神社。

厳島神社 (1)
厳島神社 (2)
厳島神社は元和年間(1615~24年)に、安芸国(広島)厳島神社の分霊を勧請し創建したと伝わる。年代的に勧請者は織田信良(信雄4男)か。

厳島神社 (3)
厳島神社 (4)
明治42年(1909年)に小幡赤城神社に合祀されたが、昭和24年(1949年)に分祀・再建されている。

厳島神社 (5)
本殿覆屋は比較的新しいので、近年の再建もしくは大改修と思う。

轟地区には神楽獅子舞が伝わっており、厳島神社の例祭で奉納されている。

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甘楽郡甘楽町天引の圓通閣の地蔵菩薩坐像。

円通閣 (1)
円通閣 (2)
円通閣 (3)
圓通閣(観音堂)の詳細は不明。

円通閣 (4)
円通閣 (5)
境内の地蔵菩薩坐像3体。
天引砂岩で作られており、室町時代初期から中期の作と推定される。元々は境内に散在していたが、覆屋内に安置・保存している。向かって右から
 高さ95cm、幅43.6cm、厚さ39cm。
 高さ52cm、幅36.6cm、厚さ21.4cm。光背の上部が欠損している。
 高さ70cm、幅48cm、厚さ27cm。光背はほぼ欠損している。

中世の地蔵信仰を示す貴重な石仏である。ただ、砂岩でできているため劣化が進んでおり、今後さらなる保存法も検討した方がいいと思う。

円通閣 (6)
石段脇の石仏はみな首がなくなっていた。明治初年の廃仏毀釈の影響だと思う。「神仏分離」の拡大解釈による数年の出来事ではあるが、各地にその痕跡が残る。

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富岡市七日市の一峰公園。

一峰公園 (1)
一峰公園 (2)
一峰公園は桜の名所として有名。東西に縦長の丘陵に100本ほどの桜があり、多くの市民が訪れる。この日も美しい花を咲かせていた。公園からは富岡市の郊外が見渡せる。写真は南側に見える鏑川。

一峰公園 (4)
昭和41年(1966年)建立の忠霊塔。三重塔を思わせる威容。

一峰公園 (5)
一峰公園 (6)
忠霊塔と向き合う位置には大正8年(1919年)建立の忠魂碑。揮毫は福島安正陸軍大将。

一峰公園 (3)
公園内の富岡製糸場物故者慰霊碑。
実はこの碑を見るために一峰公園を訪れた。明治5年(1872年)に創業した富岡製糸場は日本の絹産業に大きな役割を果たした。全国各地から集まった工女さん達は、帰郷後も指導者として地元の製糸業発展に大きく貢献した。しかし不幸にも富岡の地で亡くなった人も多く、その冥福を祈るために昭和53年(1978年)に建立されたもの。

一峰公園には、他に吉野秀雄の歌碑や高校生(富岡高)の碑などもあった。

関連
 「富岡製糸工女の墓 -龍光寺-
 「富岡製糸工女の墓 その2 -海源寺-

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富岡市妙義町八木連の弘法の井戸。

弘法の井戸 (1)
弘法の井戸 (2)
弘法の井戸 (3)
弘法の井戸は、その名の通り弘法大師(空海)が見つけた水源。と言うか、湧き出させたと言うべきか。

当地区(大久保地区)は水がなく困っていたところに弘法大師が来て、錫杖を立てたところ、そこから水が湧き出したという。そしてその水が涸れないように、金の独鈷を埋めたといわれる。

実際の場所は、この水場から100mほど離れたところだそうだ。

弘法の井戸 (4)
弘法の井戸 (5)
平成11年(1999年)に現在の形に整備されている。

弘法の井戸 (6)
弘法の井戸 (7)
隣には東屋風の休憩所と池があった。水源は一緒なのだろう。

昭和25年(1950年)の水道施設に伴い、水源を広げる工事をしたところ、石の下から独鈷が出てきたという(また埋め戻している)。昭和46年(1971年)の群馬県史跡調査では、独鈷の形状から鎌倉時代のものと推定されるようなことが説明板に書いてあった。

弘法の井戸と呼ばれる水源は全国各地にある。県内にもいくつかある。また弘法大師が開湯したといわれる温泉も多数ある。修善寺温泉や県内では法師温泉。

ついでに、伝教大師(最澄)や行基にも同様の伝説が多く残っている。古来から仏教の高僧には、不思議な力が備わっていると信じられていたということか。

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甘楽郡下仁田町東野牧の西牧関所跡。

西牧関所跡 (1)
西牧関所は文禄2年(1593年)、旧藤井村の下仁田道に設置された関所。

西牧関所跡 (2)
下仁田道は本庄宿から追分宿を結ぶ街道。中山道の裏街道として、女人も容易に通れるので姫街道とも言われた。今も富岡市から下仁田町にかけての国道254号線には「姫街道」の表示がある。

実際の関所跡は鏑川沿いの畑の中にあり、表示板が立っている(らしい)。

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甘楽郡下仁田町西野牧の鏑神社。

鏑神社 (1)
鏑神社 (2)
鏑神社の創建年は不詳だが、京都・御霊神社の分霊を勧請し創建されたと伝わる。明治43年(1910年)に西野牧村内の浅間神社、榛名神社などを合祀し、鏑神社となっている。

鏑神社 (3)
鏑神社 (4)
拝殿は入母屋造り、本殿は神明造り。

鏑神社 (5)
例大祭では獅子舞が奉納され、山車や露店が出て賑わうという。

境内は余り広くないが、木立に囲まれ良い雰囲気である。

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甘楽郡下仁田町の水戸天狗党戦死者の墓。

下仁田は幕末に尊王攘夷を唱える水戸天狗党と幕府の命を受けた高崎藩との間で、激しい戦闘が行われている。世に言う下仁田戦争(元治元年:1864年)。

下仁田戦争は水戸天狗党が勝利しているが、高崎藩戦死者36名、天狗党死者4名。水戸天狗党の死者4名は、下仁田町内に葬られている(3ヶ所)。

本誓寺 (1)
本誓寺 (2)
下仁田町下仁田の光明山本誓寺。本誓寺には水戸天狗党・久保田藤吉、斎藤仲次の墓がある。

久保田藤吉・斎藤仲次の墓
久保田藤吉、斎藤仲次の墓。
下仁田戦争の中でも安導寺の戦いは激戦地の一つであり、この戦いで両名は戦死している。

野村丑之助の墓
同じく下仁田町下仁田にある野村丑之助の墓。
野村は右手を切り落とされる重傷を負ったことから、足手まといになることを潔しとせず切腹して果てている。なんと、僅か13歳。野村の死は下仁田戦争の悲話として語り継がれている。

義烈照千古の碑
野村の墓の傍らには「義烈千古を照らす」の碑が建つ。碑は昭和16年(1941年)下仁田町旭町内有志が募金を募り建立している。碑文は頭山満。頭山満は明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭、玄洋社の総帥。

大曽根繁蔵の墓
同じく下仁田町下仁田にある大曽根繁蔵の墓。
大曽根繁蔵は梅沢峠を見張っていたが、下小坂関口付近で高崎藩と遭遇、安導寺の戦いで戦死している。

里見家蔵 (1)
里見家蔵 (2)
高崎藩の本陣となった里見家の蔵。当時の弾痕が残る。

下仁田戦争は鎧・兜をつけ、槍・刀で白兵戦があった、最後の戦いといわれている。下仁田戦争から4年後、明治の世が訪れ近代国家としての歩みを進めていくことになる。

下仁田戦争関連
 「下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館」(現、下仁田町歴史館)
 「下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-

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甘楽郡下仁田町下仁田の諏訪神社。

下仁田諏訪神社 (1)
下仁田諏訪神社は天保8年(1837年)の再建。創建年は不明だが、国峰城主・小幡氏が武田氏に従った際、領内に多数の諏訪神社を勧請しており、当地にあった八幡神社を諏訪神社と変更したと考えられる。そうすると、創建は天正年間(1573~93年)あたりのこと。

下仁田諏訪神社 (2)
下仁田諏訪神社 (3)
拝殿は弘化3年(1846年)大隅流・矢﨑房之進昭房の建築。入母屋造りで、向拝部は唐破風となっており、正面に千鳥破風がついている。

本殿は天保8年(1837年)、やはり大隅流の矢﨑善次郎の建築。一間社流造りで、拝殿との間は廂(ひさし)で繋がっている。

下仁田諏訪神社 (4)
下仁田諏訪神社 (5)
下仁田諏訪神社 (6)
拝殿・本殿の壁面や虹梁には多くの彫刻が施されている。大隅流の技を伝える素晴らしい装飾彫刻である。

下仁田諏訪神社 (7)
ご神木のケヤキは樹齢600年と推定される。目通り5.35m、根周り7m、高さ25mの大木で、樹勢も旺盛である。

秋の例大祭では各地区から山車が出て、町内を巡行する。明治39年(1906年)に仲町が東京・浅草の山車を譲り受けたのを機に、各町内でも山車を造り、現在の祭りの形になったといわれる。

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