Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


富岡市、甘楽町、下仁田町、南牧村

原田篠の薬師様 -田篠の石造如来三尊坐像-
小さいながらも充実の展示 -富岡市郷土館-
富岡市妙義町・女神像碑と十一面観音菩薩碑
富岡市・高瀬26号古墳
富岡市・粘土山古墳
富岡市・伊勢塚古墳
富岡市・太子堂塚古墳
恵心僧都作の十一面観音像 -寿福寺-
子授け・安産の観音様 -小桑観音堂-
木彫馬頭観音立像 -藤木観音堂-
円空作の十一面千手観音立像 -黒川不動堂-
山田道政の館跡 -若宮八幡神社-
甘楽社小幡組由来碑
甘楽町轟・厳島神社
圓通閣の地蔵菩薩坐像
富岡製糸場物故者慰霊碑 -一峰公園-
富岡市妙義町・弘法の井戸
姫街道の関所跡 -西牧関所跡-
下仁田町・鏑神社
下仁田戦争・水戸天狗党戦死者の墓
大隅流の装飾彫刻 -下仁田諏訪神社-
下仁田町・伊勢山の百庚申
下仁田の鐘 -霊山寺-
下仁田町宮室・常光寺
下仁田町最古の宝篋印塔 -清泉寺-
慈恵大師の開基 -栄命寺-
下仁田町馬山地区の総鎮守 -馬山神社-
富岡市・鳴沢不動尊の霊泉
富岡市最古の板碑 -仁治の碑-
鬼子母神御取子 -本城寺-
小幡氏歴代の墓 その2 -興巌寺-
織田の御馳走門 -長岡家の薬医門と四脚門-
那須与一所縁のお社 -与一八幡社-
甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-
甘楽町・城町下薬師堂の石仏
上野蔵屋敷跡 -吉田家の土塁・濠跡-
天引石の阿弥陀三尊 -今宮寺-
庭木盆栽式アカマツ -鍛冶屋沢の松-
甘楽町天引・向陽寺
奉行ザクラ -天引諏訪神社-
文永5年銘の小幡型板碑 -甘楽町・宝勝寺-
力士・柳川子之吉の碑
大隅流素木造りの山門 -最興寺-
元磨墨神社の大絵馬 -伏見神社-
奪衣婆がお出迎え -永隣寺-
万葉集東歌の歌碑 -丹生神社-
横尾丹波守吉泉の墓
建治銘の石造地蔵菩薩像 -額部神社-
元応2年・貞治2年銘の板碑 -富岡市・西方寺-
富岡市・北山茶臼山古墳
稲部市五郎種昌の顕彰碑
稲部市五郎種昌の墓 -富岡市・金剛院-
橋本暮村の墓 -伝宗寺-
満願虚空蔵菩薩 -星田の虚空蔵堂-
甘楽町・天引の笠塔婆 その2
仮面ライダーゴーストの大天空寺! -光厳寺-
高田大和守憲頼の墓 -陽雲寺-
千鳥破風の鬼面彫刻 -富岡市妙義町・菅原神社-
鏑川上流の渓谷 -不通渓谷-
下仁田町・安楽地の板碑
いろいろな碑が建っている -貫前神社前公園-
ゆかりは古し貫前神社 再訪
平安時代の創建 -高太神社-
彦狭島王の墳墓? その3 -天王塚古墳-
富岡市・田篠しの塚古墳
黒岩の大日堂 -遍照寺-
甘楽町・天引の笠塔婆と板碑
庭屋氏の居城 -庭谷城址-
伝・庭屋氏累代の墓 -甘楽町・庭谷の五輪塔-
樹齢800年の大杉 -宮崎神社-
富岡市上高瀬の薬師堂
富岡市・横瀬八幡宮
世界遺産・荒船風穴
群馬自由民権の碑 -光明院-
富岡市・堂山稲荷古墳
七日市藩前田家の元祖廟 -前田家御宝塔-
昭和初期の近代和風建築 -富岡市社会教育館-
甘楽古代館再訪
本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
荒船・妙義山系山岳信仰 -黒瀧山不動寺-
生物の進化が分かる -群馬県立自然史博物館-
富岡製紙工女の墓 その2 -海源寺-
高橋道斎の墓 -常住寺-
下仁田町・山際稲荷神社
下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-
驚き!の空堀 -麻場城址-
甘楽町・天引中宿の薬師様
小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-
ナニコレ珍百景に登場 -夫婦岩-
地方商人の家宝(?) -岡部温故館-
「おのれの滝」の水源 -曽木神社-
昭憲皇后(明治天皇妃)の歌碑とおのれの滝
お菊の墓が旧妙義町にもあった
前田利家側室・明運尼の墓 -永心寺-
上野国十二之宮 -宇芸神社-
小野小町の開基 -得成寺-
組石造りの地蔵像 -法華経供養遺跡-
笹森稲荷神社と笹森古墳
日本一大きい磨崖仏・・・ -長厳寺-
お菊伝説 -宝積寺 その2-
小幡氏歴代の墓 -宝積寺-
無料こんにゃく料理バイキング -こんにゃく博物館-
日本最古の一般住宅? -旧茂木家住宅-
七日市藩主の菩提寺 -長学寺-
七日市前田家の崇敬社 -蛇宮神社-
県立富岡高校内にあります -七日市藩陣屋跡-
富岡製紙工女の墓 -龍光寺-
甘楽町・松井家住宅
拝殿の天井絵がみたい! -小幡八幡宮-   
中世の薬師如来像 -宝泉寺-
土日・祭日は休館って・・・ -甘楽古代館-
下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館
学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-
唯一残る大名公園 -楽山園-
織田家7代の墓碑
富岡市・もみじ平総合公園
本殿は修理中でした・・・ -妙義神社- 
日本一の大黒様 -中之嶽神社-

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富岡市田篠の石造如来三尊坐像。

田篠の石造三尊坐像 (1)
田篠の石造如来三尊坐像は、「原田篠の薬師様」と地域での信仰も厚い。南北朝時代(1300年代後半)の特徴を有している。いずれも材質は牛伏砂岩である。右から阿弥陀如来、胎蔵大日如来、弥勒菩薩である。地元では「薬師様」と呼ばれているが、なぜか薬師如来は含まれていない。(この3体が富岡市の重文になっている)

田篠の石造三尊坐像 (2)
坐像の隣に一石三尊石像がある。これ薬師三尊像? 風化していてわかりずらいのとオレの知識不足のため、明確には分からない。

当所には他にも石仏があるので、すべてまとめて「薬師様」と信仰されてきたと考えた方がいいのだろう。

「石造如来三尊坐像」というのが富岡市の重文の名称だが、これはまぎらわしいな。

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富岡市妙義町上高田の富岡市郷土館。
妙義庁舎の敷地内にある。

富岡市郷土館 (1)
富岡市郷土館は平成28年(2016年)の開館。富岡市のHPを見ると、リニューアルオープンとあったので、以前から展示施設があったのかも。1Fは市内文化財のパネル展示と富岡製糸場関連、2Fは埋蔵文化財を年代別に展示している。

富岡市郷土館 (2)
富岡市郷土館 (3)
富岡市郷土館 (4)
遺跡の発掘パネルや富岡製糸場から出土した瓦など。1Fはちょっと残念感が漂いまくりで、余り期待しないで2Fへ。

富岡市郷土館 (5)
富岡市郷土館 (6)
富岡市郷土館 (7)
打って変わって2Fの出土遺物展示は、オレの興味・嗜好に合致! 縄文土器の「獣面把手」など興味をそそりまくり。

富岡市郷土館 (8)
富岡市郷土館 (9)
富岡市郷土館 (10)
古墳時代、古代・中世の遺物もまったく飽きずに見ることができた。余り広くはないけど、2Fは楽しかった。展示物が多いわけではないが、けっこうな時間居たと思う。

富岡市が「これはすばらしい! という逸品を展示」「出土品の中から選りすぐりのものを展示」と書くだけはあると思った。1Fをもう少しどうにかしてくれると何回も行くと思う(無料なので)。

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富岡市妙義町菅原の女神像碑と十一面観音菩薩碑。

女神像碑 (1)
女神像碑 (2)
女神像碑は高さ77cm、幅31cmの自然石に、線刻で女性の合掌像が刻まれている。裏面に永徳2年(1382年)の銘がある。ちなみに、永徳は南北朝期の北朝の年号。現在でも女性像がはっきり見て取れるが、この女性が何を表しているかは不明。

十一面観音菩薩碑 (1)
十一面観音菩薩碑 (2)
十一面観音菩薩碑は高さ117cm、幅40cmの自然石に、線刻で十一面観音が刻まれている。残念ながら逆光だったことと苔が多数付いていることなどから、線が見える程度で像容は分からず。

女神像と十一面観音像があるのは菅原の波己曽神社跡地。妙義山麓には「七波己曽」と呼ばれる7社の波己曽神社があったが、ここはそのひとつ。有名なのは元波己曽神社の妙義神社。その他、現在も波己曽神社として残っているのは1社のみで、他に合祀されたりしている。3社は場所も不明のようである。

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富岡市中高瀬の高瀬26号古墳。

高瀬26号古墳 (1)
高瀬26号古墳 (2)
高瀬26号古墳は盛土が失われており、主体部の横穴式石室の石材が剥き出しになっている。もとは径22mの円墳で、その周囲に6m幅の周濠が巡らされていたと考えられている。築造は7世紀と推定される。

高瀬26号古墳 (3)
高瀬26号古墳 (4)
高瀬26号古墳 (5)
南向きの横穴式石室だが、崩れてしまっているので詳細は不明。

桐渕住宅団地造成時に発掘調査されたようだが、よく潰されなかったと思う。周りは県営、市営の桐渕住宅団地で多くの古墳が消滅したらしいが、逆に石材が剥き出しだったので残ったのかも。

現在の中高瀬・下高瀬地区にまたがる桐渕古墳群には、40基以上の古墳が確認されているが、現存しているのは数基である(素人のオレが古墳だと判断できるレベルのものは6基)。

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富岡市中高瀬の粘土(ねばつち)山古墳。

粘土山古墳 (1)
粘土山古墳 (2)
粘土山古墳は2段造りの前方後円墳。しかし前方部は大きく削られている。そのため円墳と考えられていたが、昭和45年(1970年)の調査で前方後円墳と判明している。また、周囲に堀が巡らされていたことも、併せて判明している。

もともとは全長62m、後円部径39m、最大幅44m、堀幅9mの大きさと考えられている。6、7世紀の築造と推定される。

粘土山古墳 (3)
粘土山古墳 (4)
主体部は南西に開口する横穴式石室だが、天井石が持ち去られており、石室の詳細は分かっていない。後円部も破壊が進んでいたが、近年保存のための整備が行われたようだ。

北側は道路に面しているが、周りはすっかり住宅街となっており、よく潰されなかったと思う。富岡市内では大きい部類に入るので、重文には指定されていないが保存されたのかな。

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富岡市下高瀬の伊勢塚古墳(高瀬村36号墳)。

富岡伊勢塚古墳 (1)
富岡伊勢塚古墳 (2)
伊勢塚古墳は直径約42m、高さ5.5mの円墳。

横穴式石室があるらしいが、南側(写真正面)には見当たらず。北側に回ってみたが、マンションの壁で見えず。2枚目の写真のように、横から墳頂に登ろうと思えば登れたのだが、ちょっと急いでいたのでパスした。実は、粘土山古墳を目指していていた際に、少し迷った時に見つけたので。

ところで、当地の旧字名が伊勢塚なので伊勢塚古墳なのか、伊勢塚古墳があるから旧字名が伊勢塚なのかは知らないが、名称が付いていることを考えると、もう少しよく見てくれば良かったかもしれない。

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富岡市一ノ宮の太子堂塚(旅寝塚)古墳。

太子堂塚古墳 (1)
太子堂塚古墳 (2)
太子堂塚古墳は前方後円墳だが、後円部の大半は大きく削られているため、本来の大きさは不明。前方部は長さ30m、幅40m、高さ6mの規模を誇り、原形は全長70mほどであったと推定される。

中心の主体部には横穴式石室があったと伝えられているが、既に破壊されている。また、前方部の周囲に20mほどの周堀跡が認められる。

6世紀後半の築造と推定される。

太子堂塚古墳 (3)
前方部墳頂には、松尾芭蕉の句碑(左)と雲裡房の句碑(右)がある。芭蕉の句碑は、地元の俳人が雲裡房の指導のもと寛延4年(1751年)に建立したもの。「芭蕉翁 花の蔭 諷に似たる 旅寝かな」と刻まれている。太子堂塚古墳の別称である「旅寝塚古墳」は芭蕉の句から来ている。

雲裡房の句碑は、芭蕉の句碑造立に尽力した雲裡房を顕彰するために、宝暦12年(1762年)に建立されている。雲裡房は渡辺雲裡房といい、松尾芭蕉の幻住庵を再興した俳人。宝暦11年(1761年)に亡くなっているので、翌年に顕彰句碑が造立されたんだと思う。

太子堂塚古墳 (4)
墳頂にもうひとつ碑のようなものがあるが、なんだか不明。

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富岡市富岡の小幡山寿福寺。

寿福寺 (1)
寿福寺 (2)
寿福寺 (3)
寿福寺の由緒は不明。

寿福寺 (4)
寿福寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。明治15年(1882年)の建立。もとは富岡の多治見福寿坊に安置されていたものを寿福寺に移したという。

寿福寺 (6)
寿福寺 (7)
この十一面観音像は恵心僧都の作といわれ、江戸幕府4代将軍・家綱の生母である宝樹院(お楽の方)の寄進とされる。宝樹院と富岡の繋がりはまったくないと思うので、福寿坊に所有されていた経緯はよく分からない。

ちなみに宝樹院は農民(後に下級武士)の子で、春日局の目にとまり大奥にあがり家光の側室になっている。しかも世継ぎを生んだので、弟2人は大名にまで取り立てられている。すごい成り上がりだ。

ついでに、観音像の作者とされる恵心僧都は平安時代の天台宗の僧侶。恵心僧都の「往生要集」を読んだ浄土宗の開祖・法然は、これにより浄土思想を知ることになるなど、法然や弟子の親鸞に大きな影響を与えたとされる。

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富岡市小桑原の小桑観音堂。

小桑観音 (1)
小桑観音堂は得成寺の僧・亮賢が、徳川綱吉の守り本尊として開基したと伝わる。得成寺は小野小町が開基したと伝わるお寺。(「小野小町の開基 -得成寺-」参照)

小桑観音 (3)
比較的新しい山門には仁王像が鎮座している。

小桑観音 (4)
小桑観音 (5)
小桑観音 (6)
本堂は平成8年(1996年)に改築されている。正面の扁額は江戸時代の儒学者・東江源鱗(とうこうげんりん)の書である。

厨子が少し開いていて、ご本尊の十一面千手観音像が見えた。昔から子授け・安産の観音様として信仰されている。近郷のみならず、遠方からも多くの参拝者が訪れる。

小桑観音 (7)
小桑観音 (8)
本堂裏手の一段高いところに石仏群が安置されている。中心の如意輪観音石像は、南の「仏法谷」と呼ばれる谷の奥にあったものを盗人が持ち出したが、余りの重さに仏法谷の堤に捨てたのを村人が見つけ仏法谷の出口に置き、後にこの場所に移したといわれている。

周りに石仏が多くあるが、子どもを授かりたい人はここから1体借り受け、抱いて眠ると子どもを授かるといわれる。そして、子どもを授かったら借りたものと新しいものの2体を奉納する。

ところで、先ほどの観音石像の逸話(仏法谷から盗み出されて云々)は、本尊の十一面千手観音像のことだとする説もある。

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富岡市藤木の観音堂。

藤木観音堂 (1)
藤木観音堂 (2)
藤木観音堂は、江戸時代まで当地にあった普門寺の一部だったと考えられている。

藤木観音堂 (3)
藤木観音堂 (4)
藤木観音堂 (5)
ご本尊の木彫馬頭観音立像は厨子内に収められており、見ることはできない。三面六臂の馬頭観音像は高さ55cmの檜の一木造り。全身に薄く赤い彩色の跡が残っているという。

背面に「永禄10年(1567年)」の銘と「小幡右衛門尉」の名が墨書されている。小幡右衛門尉は国峰城主の小幡信貞と思われる。

藤木観音堂 (6)
堂内の天井には天井絵が施されている。

藤木観音堂 (7)
観音堂の脇には松尾芭蕉の句碑が建っている。高さ124cmの自然石に「観音能 甍見也李都 花の雲(かんのんの いらかみやりつ はなのくも)」の句が刻まれている。

裏には発願者として白石淺水ら7名の名がある。造立年の記載はないが、淺水の没年や天保14年(1843年)が芭蕉没後150年にあたることなどから、その前後(天保から安政)の造立と推定される。

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富岡市黒川の不動堂。

黒川不動堂 (1)
黒川不動堂 (2)
不動堂は明治初年に当地へ移転されたという。

黒川不動堂 (3)
堂内には運慶作と伝わる不動明王像と円空作の十一面千手観音像があったが、不動明王像は昭和40年(1965年)ころ盗難に遭い現存していない。十一面千手観音像は重文に指定されたことや盗難防止の観点から、石段脇の収蔵庫内に安置されている。

不動堂と言うくらいだから、元々不動明王像が安置されていたんだと思う。運慶の方が円空より年代的にも古いし。

黒川不動堂 (4)
黒川不動堂 (5)
黒川不動堂 (6)
円空作の十一面千手観音立像。
観音像は全体に黒く煤けているように見える。口元がうっすら朱色に塗られているが、後付けのような気がする。腕は差し込み式のようだが、全部は残っていない。また、一部位置が違うのでは? と感じてしまった(素人意見です)。

円空は延宝9年(1681年)上野国にて布教や彫像をしており、貫前神社に滞留していた。その際にこの像を作ったとされる。当初は貫前神社に併設されていた寺院の観音堂に収められていたが、明治初年の神仏分離令での仏像廃棄を逃れるため、この黒川不動堂へ移されたといわれる。実際に相当数の貫前神社所蔵の仏像が燃やされている。

黒川不動堂 (7)
収蔵庫には寄贈された不動明王像も安置されている。

ちなみに盗難に遭った運慶作の不動明王像も、運慶が貫前神社に滞在していたときの作品だという。事実なら国宝ものだけど・・・。

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富岡市岡本の若宮八幡神社。

若宮八幡神社 (1)
若宮八幡神社 (2)
当所は白倉城主・白倉右近道佐の子・山田道政の館跡。屋敷内の東北隅に諏訪神、西南隅に若宮八幡神を祀り、鬼門と裏鬼門封じとしたもの。現在は山田家の墓所になっている。

道佐の没年は天正8年(1580年)なので、道政が当地に館を作ったのも同時期と推定される。

若宮八幡神社 (3)
祠の両脇には樹齢400年以上といわれる杉の大木が神社を護っている。

白倉氏は関東管領・上杉家に使える名家で、道佐の父・重佐は上杉憲政の宿老を務めている。上杉憲政が越後に逃げた後は、武田、滝川、北条に従属し、北条の滅亡(1590年)により山田道政は土着、帰農したと思われる。

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甘楽郡甘楽町福島の甘楽社小幡組由来碑。

小幡組由来碑
甘楽社は明治11年(1878年)に結成された農民の組合製糸結社(当初は北甘楽製糸会社)。養蚕農家が地区ごとに「組」を作り、農家自らで生糸の品質を統一し共同販売したもの。その組のひとつが小幡組。

由来碑は甘楽社小幡組の歴史と発展を後世に伝えるため、大正6年(1917年)に同組合敷地内に建てられた。昭和53年(1978年)に現在地(JA甘楽富岡・甘楽支店)に移設されている。

甘楽社小幡組倉庫
甘楽社小幡組の繭や生糸を保管するために、大正15年(1926年)に建てられたレンガ造りの倉庫は、現在の甘楽町歴史民俗資料館として使われている。
(「学問のすすめの意外な事実 -甘楽町歴史民俗資料館-」参照)


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甘楽郡甘楽町轟の厳島神社。

厳島神社 (1)
厳島神社 (2)
厳島神社は元和年間(1615~24年)に、安芸国(広島)厳島神社の分霊を勧請し創建したと伝わる。年代的に勧請者は織田信良(信雄4男)か。

厳島神社 (3)
厳島神社 (4)
明治42年(1909年)に小幡赤城神社に合祀されたが、昭和24年(1949年)に分祀・再建されている。

厳島神社 (5)
本殿覆屋は比較的新しいので、近年の再建もしくは大改修と思う。

轟地区には神楽獅子舞が伝わっており、厳島神社の例祭で奉納されている。

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甘楽郡甘楽町天引の圓通閣の地蔵菩薩坐像。

円通閣 (1)
円通閣 (2)
円通閣 (3)
圓通閣(観音堂)の詳細は不明。

円通閣 (4)
円通閣 (5)
境内の地蔵菩薩坐像3体。
天引砂岩で作られており、室町時代初期から中期の作と推定される。元々は境内に散在していたが、覆屋内に安置・保存している。向かって右から
 高さ95cm、幅43.6cm、厚さ39cm。
 高さ52cm、幅36.6cm、厚さ21.4cm。光背の上部が欠損している。
 高さ70cm、幅48cm、厚さ27cm。光背はほぼ欠損している。

中世の地蔵信仰を示す貴重な石仏である。ただ、砂岩でできているため劣化が進んでおり、今後さらなる保存法も検討した方がいいと思う。

円通閣 (6)
石段脇の石仏はみな首がなくなっていた。明治初年の廃仏毀釈の影響だと思う。「神仏分離」の拡大解釈による数年の出来事ではあるが、各地にその痕跡が残る。

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富岡市七日市の一峰公園。

一峰公園 (1)
一峰公園 (2)
一峰公園は桜の名所として有名。東西に縦長の丘陵に100本ほどの桜があり、多くの市民が訪れる。この日も美しい花を咲かせていた。公園からは富岡市の郊外が見渡せる。写真は南側に見える鏑川。

一峰公園 (4)
昭和41年(1966年)建立の忠霊塔。三重塔を思わせる威容。

一峰公園 (5)
一峰公園 (6)
忠霊塔と向き合う位置には大正8年(1919年)建立の忠魂碑。揮毫は福島安正陸軍大将。

一峰公園 (3)
公園内の富岡製糸場物故者慰霊碑。
実はこの碑を見るために一峰公園を訪れた。明治5年(1872年)に創業した富岡製糸場は日本の絹産業に大きな役割を果たした。全国各地から集まった工女さん達は、帰郷後も指導者として地元の製糸業発展に大きく貢献した。しかし不幸にも富岡の地で亡くなった人も多く、その冥福を祈るために昭和53年(1978年)に建立されたもの。

一峰公園には、他に吉野秀雄の歌碑や高校生(富岡高)の碑などもあった。

関連
 「富岡製糸工女の墓 -龍光寺-
 「富岡製糸工女の墓 その2 -海源寺-

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富岡市妙義町八木連の弘法の井戸。

弘法の井戸 (1)
弘法の井戸 (2)
弘法の井戸 (3)
弘法の井戸は、その名の通り弘法大師(空海)が見つけた水源。と言うか、湧き出させたと言うべきか。

当地区(大久保地区)は水がなく困っていたところに弘法大師が来て、錫杖を立てたところ、そこから水が湧き出したという。そしてその水が涸れないように、金の独鈷を埋めたといわれる。

実際の場所は、この水場から100mほど離れたところだそうだ。

弘法の井戸 (4)
弘法の井戸 (5)
平成11年(1999年)に現在の形に整備されている。

弘法の井戸 (6)
弘法の井戸 (7)
隣には東屋風の休憩所と池があった。水源は一緒なのだろう。

昭和25年(1950年)の水道施設に伴い、水源を広げる工事をしたところ、石の下から独鈷が出てきたという(また埋め戻している)。昭和46年(1971年)の群馬県史跡調査では、独鈷の形状から鎌倉時代のものと推定されるようなことが説明板に書いてあった。

弘法の井戸と呼ばれる水源は全国各地にある。県内にもいくつかある。また弘法大師が開湯したといわれる温泉も多数ある。修善寺温泉や県内では法師温泉。

ついでに、伝教大師(最澄)や行基にも同様の伝説が多く残っている。古来から仏教の高僧には、不思議な力が備わっていると信じられていたということか。

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甘楽郡下仁田町東野牧の西牧関所跡。

西牧関所跡 (1)
西牧関所は文禄2年(1593年)、旧藤井村の下仁田道に設置された関所。

西牧関所跡 (2)
下仁田道は本庄宿から追分宿を結ぶ街道。中山道の裏街道として、女人も容易に通れるので姫街道とも言われた。今も富岡市から下仁田町にかけての国道254号線には「姫街道」の表示がある。

実際の関所跡は鏑川沿いの畑の中にあり、表示板が立っている(らしい)。

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甘楽郡下仁田町西野牧の鏑神社。

鏑神社 (1)
鏑神社 (2)
鏑神社の創建年は不詳だが、京都・御霊神社の分霊を勧請し創建されたと伝わる。明治43年(1910年)に西野牧村内の浅間神社、榛名神社などを合祀し、鏑神社となっている。

鏑神社 (3)
鏑神社 (4)
拝殿は入母屋造り、本殿は神明造り。

鏑神社 (5)
例大祭では獅子舞が奉納され、山車や露店が出て賑わうという。

境内は余り広くないが、木立に囲まれ良い雰囲気である。

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甘楽郡下仁田町の水戸天狗党戦死者の墓。

下仁田は幕末に尊王攘夷を唱える水戸天狗党と幕府の命を受けた高崎藩との間で、激しい戦闘が行われている。世に言う下仁田戦争(元治元年:1864年)。

下仁田戦争は水戸天狗党が勝利しているが、高崎藩戦死者36名、天狗党死者4名。水戸天狗党の死者4名は、下仁田町内に葬られている(3ヶ所)。

本誓寺 (1)
本誓寺 (2)
下仁田町下仁田の光明山本誓寺。本誓寺には水戸天狗党・久保田藤吉、斎藤仲次の墓がある。

久保田藤吉・斎藤仲次の墓
久保田藤吉、斎藤仲次の墓。
下仁田戦争の中でも安導寺の戦いは激戦地の一つであり、この戦いで両名は戦死している。

野村丑之助の墓
同じく下仁田町下仁田にある野村丑之助の墓。
野村は右手を切り落とされる重傷を負ったことから、足手まといになることを潔しとせず切腹して果てている。なんと、僅か13歳。野村の死は下仁田戦争の悲話として語り継がれている。

義烈照千古の碑
野村の墓の傍らには「義烈千古を照らす」の碑が建つ。碑は昭和16年(1941年)下仁田町旭町内有志が募金を募り建立している。碑文は頭山満。頭山満は明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭、玄洋社の総帥。

大曽根繁蔵の墓
同じく下仁田町下仁田にある大曽根繁蔵の墓。
大曽根繁蔵は梅沢峠を見張っていたが、下小坂関口付近で高崎藩と遭遇、安導寺の戦いで戦死している。

里見家蔵 (1)
里見家蔵 (2)
高崎藩の本陣となった里見家の蔵。当時の弾痕が残る。

下仁田戦争は鎧・兜をつけ、槍・刀で白兵戦があった、最後の戦いといわれている。下仁田戦争から4年後、明治の世が訪れ近代国家としての歩みを進めていくことになる。

下仁田戦争関連
 「下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館」(現、下仁田町歴史館)
 「下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-

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甘楽郡下仁田町下仁田の諏訪神社。

下仁田諏訪神社 (1)
下仁田諏訪神社は天保8年(1837年)の再建。創建年は不明だが、国峰城主・小幡氏が武田氏に従った際、領内に多数の諏訪神社を勧請しており、当地にあった八幡神社を諏訪神社と変更したと考えられる。そうすると、創建は天正年間(1573~93年)あたりのこと。

下仁田諏訪神社 (2)
下仁田諏訪神社 (3)
拝殿は弘化3年(1846年)大隅流・矢﨑房之進昭房の建築。入母屋造りで、向拝部は唐破風となっており、正面に千鳥破風がついている。

本殿は天保8年(1837年)、やはり大隅流の矢﨑善次郎の建築。一間社流造りで、拝殿との間は廂(ひさし)で繋がっている。

下仁田諏訪神社 (4)
下仁田諏訪神社 (5)
下仁田諏訪神社 (6)
拝殿・本殿の壁面や虹梁には多くの彫刻が施されている。大隅流の技を伝える素晴らしい装飾彫刻である。

下仁田諏訪神社 (7)
ご神木のケヤキは樹齢600年と推定される。目通り5.35m、根周り7m、高さ25mの大木で、樹勢も旺盛である。

秋の例大祭では各地区から山車が出て、町内を巡行する。明治39年(1906年)に仲町が東京・浅草の山車を譲り受けたのを機に、各町内でも山車を造り、現在の祭りの形になったといわれる。

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甘楽郡下仁田町下仁田の伊勢山の百庚申。

伊勢山百庚申 (1)
伊勢山百庚申 (2)
伊勢山の庚申塔の多くは紀年銘が磨耗し不明な物が多いが、分かるものでは元禄7年(1694年)、享保18年(1733年)、寛政9年(1797年)、文政10年(1827年)などがある。

元禄と文政では100年以上の間隔があり、長きに渡り徐々に建立されたものとされる。

伊勢山百庚申 (3)
この碑には南牧村の不動寺住職・月船(当時)による「庚申始末記」(庚申の由来)が刻まれている。

伊勢山百庚申 (4)
伊勢山百庚申 (5)
伊勢山百庚申 (6)
山の東面(だと思う)に多くの庚申塔が並ぶ。

この山の中を古道が通っていたと地元の人から聞いたので、その古道に沿って庚申塔を建立したのかもしれない。

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甘楽郡下仁田町下仁田の松露山霊山寺。

霊山寺 (1)
霊山寺 (2)
霊山寺(りょうぜんじ)は約400年前に畠山重俊と流れを同じくする重全和尚により開山された。いつから400年前かよく分からないが、創建は1600年頃かな。

本堂は一般的なお寺建築とは趣を異にする造り。平らな屋根に子屋根を設け、宝珠を乗せている。

霊山寺 (4)
余り広くない境内の壁沿いに十八羅漢が並ぶ。

霊山寺 (5)
霊山寺 (6)
鐘楼は平成11年(1999年)の建立。何となく大陸風の雰囲気がある。それと関係するか分からないが、梵鐘は中国上海製。梵鐘は平成2年(1990年)の鋳造。

梵鐘の中央部に刻まれている梵字は、触れただけで無量の福徳が授かり、7度唱えれば総ての罪障を滅すといわれる光明真言というものらしい。

毎朝・毎夕、この鐘が下仁田に響き渡っている。

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甘楽郡下仁田町宮室の宮室山常光寺。

常光寺 (1)
常光寺は明応元年(1492年)に慈光阿闍梨が開山したと伝わる。

常光寺 (2)
石段の途中には、檀家の方を偲んだ不動明王が鎮座している。

常光寺 (3)
常光寺 (4)
度重なる火災に見舞われたが、現在の本堂は文政元年(1818年)の再建。昭和期に大改修が行われている。本尊は阿弥陀如来で、天保13年(1842年)に日光・養源院から寄贈されている。(ちなみに養源院は明治期に廃寺となっている)

常光寺 (5)
常光寺 (6)
境内はあまり広くないが、観音様が参拝客を迎える配置になっている。

常光寺は「鏑川七福神」の寿老人を祀っている。

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甘楽郡下仁田町下仁田の安養山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺は、鎌倉時代の有力御家人・畠山重忠の弟である重俊が、兄の菩提を弔うために開山した。重忠の没年は元久2年(1205年)なので、この辺りの創建と思われる。

清泉寺 (2)
山門の天井絵。

清泉寺 (3)
清泉寺 (4)
現在の本堂は文政11年(1828年)の再建。

清泉寺 (5)
清泉寺 (6)
梵鐘は安永9年(1780年)、地元の鋳物師・太田長左衛門尉藤原順本によって鋳造された。高さ142.5cm、口径75cm。寺の概略と畠山家先祖の追福のために鋳造された旨、銘文が刻まれている。

鋳物師名として「太田長左衛門尉藤原順本」と下仁田町のHPに書かれているのでそのまま書いたが、これはどう解釈すればいいの?左衛門尉って官名(後世は受領名が多い)だと思うが・・・。それとも太田長左衛門と藤原順本の2人?

清泉寺 (7)
清泉寺 (8)
墓地にある宝篋印塔。この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇をかたどった軸部と中台を置く形式のもの。富岡・甘楽地域では唯一の須弥壇式宝篋印塔である。造立は明徳2年(1391年)で、下仁田町では最古の宝篋印塔。

ちなみに、明徳は北朝の年号。明徳2年は南朝では元中8年。富岡・甘楽地区に残る石塔は、そのほとんどが北朝の年号を用いている。この地区が北朝側の影響下にあった証拠である。

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甘楽郡下仁田町馬山の勝馬山栄命寺。

栄命寺 (1)
栄命寺は安和元年(968年)慈恵大師の開基である。慈恵大師は、一般的には元三大師の名で知られる。第18代の天台座主。延暦寺の中興の祖とされている。

栄命寺 (2)
栄命寺 (3)
本堂は平成16年(2004年)に改修されている。

栄命寺 (4)
墓地の入口には奪衣婆と思われる像があった。奪衣婆は三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた、亡者の衣服を剥ぎ取る老婆である。

生前に死後の裁きを軽くしてもらえるよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだりなでたりする風習がある。像の擦り減り方から奪衣婆かなと思ったということ。

栄命寺の山号である勝馬山とは、この地の産業である馬の飼育と、その売買の繁盛を願ったものといわれている。地名も馬山というくらいだから、古来から馬の飼育が行われていたんだと思う。

現在、馬山地区は下仁田ネギの主産地として名を馳せている。

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甘楽郡下仁田町馬山の馬山神社。

馬山神社 (1)
馬山神社 (2)
馬山神社は、明治10年(1877年)に稲荷神社が若宮に遷座したことに伴い、その跡地に旧馬山村に散在していた神社を合祀し創建された。合祀した神社以外にも当地へ移転安置した末社は30社にのぼる。

馬山神社 (3)
鳥居をくぐると、社殿へは下って行く。

馬山神社 (4)
馬山神社 (5)
社殿はこじんまりとしているが、厳かな良い雰囲気である。

馬山神社 (6)
神楽殿。毎年、秋の例祭には獅子舞が奉納される。馬山地区は獅子舞が盛んな地域で、白山、鎌田、四村、若宮、蒔田の5つの組で伝統が残っている。

馬山神社 (7)
神饌舎と思われる建物。神饌とは神様へのお供え物のこと。

実は別の場所に行こうとして迷ってしまい、車を回そうと入り込んだら馬山神社だった。結果的にラッキーだった。

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富岡市上丹生の鳴沢不動尊。

鳴沢不動尊 (1)
鳴沢不動尊 (2)
鳴沢不動尊 (3)
鳴沢不動尊は、空海が全国の名滝、霊山に安置した不動尊60体のうちの1体といわれる。とすると、創建は弘仁(810~24年)、天長(824~34年)あたりか。

鳴沢不動尊 (4)
御堂の裏手には大桁山から湧き出す「霊泉」が流れ落ちている。水量が多く、滝行ができそうな勢い。

鳴沢不動尊 (5)
鳴沢不動尊 (6)
石垣上には不動明王が鎮座している。

鳴沢不動尊 (7)
左側の石垣から水汲み用と思われるパイプが出ている。手ですくって飲んでみたらおいしかった。

「霊泉」には様々な伝説があるとのことだが、調べても分からなかった。


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富岡市下高尾の仁治の碑。

仁治の碑 (1)
仁治の碑は高さ276cm、最大幅96cmの緑泥片岩製。仁治4年(1243年)の銘がある。富岡市最古の板碑で、県内でも3番目に古い。

仁治の碑 (2)
上部に五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)と薬師如来を表す梵字が刻まれている。天台密教系の信仰に基づいている。

造立者として、「壬生・六人部(むとべ)・小野・藤原・春日・物部・大宅・安部」など20数人の名前が列記されている。これらの人物は当時の有力者と考えられ、当地の歴史を知るうえでも貴重な資料となっている。

甘楽町にある「仁治3年の板碑」と基本的に同一構成だが、こちらは県の重文指定。甘楽町は1年古いが、風化が進んでいるためか、甘楽町の重文とまり。
(「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-」参照)

ちなみに、群馬県内の板碑では、前橋市・小島田の供養碑が仁治元年(1240年)で1番古い。甘楽町の仁治3年、この仁治4年と続く。

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