上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 安中市


安中市松井田町原の川久保薬師堂。

川久保薬師堂 (1)
川久保薬師堂の創建は定かではないが、中山道の碓氷関所が現在地に設置された元和9年(1623年)以降とされる。「入鉄砲出女」を厳しく取り締まり、加えて碓氷峠が間近に控えるため旅人は難渋を極めた。そこで無事通過の願いと感謝を込めて薬師如来を祀る薬師堂が建立されたという。

川久保薬師堂 (2)
燈籠は昭和53年(1978年)の奉納。

川久保薬師堂 (3)
川久保薬師堂 (4)
川久保薬師堂 (5)
薬師堂内にはTVも置かれており、地域の集会所のような佇まいとなっている。薬師如来座像の造立年などは分からないが、病気治癒の霊験あらたかであることから地域の人々から篤く護られている。

薬師の湧水 (1)
薬師の湧水 (2)
薬師堂から数十m上ると薬師の湧水がある。この日は水が出ていなかった。たまたま? 枯れてはいないと思うが。

薬師の坂碑
川久保薬師堂の手前からは上り坂となっており、心太坂と呼ばれて親しまれた。これは湧水を使った心太(ところてん)屋さんがあったため。現在は「薬師坂」と記された石碑がた建っている。平成15年(2003年)の建立。ちなみにこの坂道は旧中山道になる。


安中市松井田町横川の百合若大臣の足痕石。

百合若大臣の足痕石 (1)
百合若大臣の足痕石は、その名の通り百合若大臣が足で踏み潰したといわれる石。その昔、百合若大臣という大男の若者がいて、大きな弓と長い矢で川向こうの山(妙義山)に向け矢を放つ際に、後ろ足を踏ん張った時に石が凹んだといわれる。

百合若大臣の足痕石 (2)
百合若大臣の足痕石 (3)
確かに足跡のような感じで凹んでいる(写真だと分かりづらいが)。

百合若大臣の足痕石 (4)
案内板のすぐ横にも、同様に足跡のように凹んだ石がもうひとつあり、「あれ、どっちだ?」状態に。多分、大きめの石の方だと思うが、案内板がちょっと微妙な位置にある。

裏妙義
百合若大臣が矢を射たのを見ていた家来のひとりも負けてはならぬと思い、腰に下げていた弁当のおむすびを山に向かって力一杯投げた。すると、百合若大臣の大臣の矢と、家来のおむすびの2つ穴があいたという。

その穴が今でも夜空の星のように見え、「星穴岳」と呼ばれるようになったいわれている。百合若大臣がそのときに使った弓矢は、妙義神社に奉納されている。

写真は横川辺りから見える妙義山(総称)だが、星穴岳を調べてみたら下仁田町の中之嶽神社あたりから登っていく相当な岩山らしい。横川からだと5km以上は優にあるだろう。百合若大臣(と家来)恐るべし(笑)。

百合若大臣
もちろん百合若大臣は実在の人物ではないが、日本全国にその伝説が残っている(特に大分県に多いらしい)。


安中市松井田町横川の旧国鉄浄化貯水槽跡。

国鉄浄化貯水槽跡 (1)
浄化貯水槽跡は矢の沢川の水を浄化するための施設で、浄化した水は横川駅などの旧国鉄施設に給水され、飲料水・生活用水やSL(蒸気機関車)などに使われていた。特に昭和40年代(1970年前後)まで信越線を走っていたSLは、石炭を燃やし蒸気を発生させるために大量の水を使用したため、水の供給は重要であった。

国鉄浄化貯水槽跡 (2)
10年ほど前まで水が貯められていたようだが、現在は水は抜かれ砂で埋められている。

国鉄浄化貯水槽跡 (3)
裏側には配管も残っており、往時を偲ばせる。

国鉄浄化貯水槽跡 (4)
貯水槽上部にはレンガが使われており、旧信越本線の碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)と同じレンガといわれる。めがね橋は明治26年(1893年)に竣工しているので、浄化貯水槽も同期時の建設だろうか。(めがね橋は「碓氷峠のめがね橋・碓氷第三橋梁」参照)


安中市松井田町横川の諏訪神社。

横川諏訪神社 (1)
横川諏訪神社 (2)
横川諏訪神社の由緒は不詳だが、碓氷関所(番所)が関長原から横川へ移転すると同じく、諏訪神社も同所から遷座してきたという。明治10年(1877年)に稲荷神社と八幡宮を合祀している。

横川諏訪神社 (3)
社殿へは急な石段を上っていく。

横川諏訪神社 (4)
横川諏訪神社 (5)
社殿は明治44年(1911年)の建立。

横川諏訪神社 (6)
境内社・末社群。詳細は分からない。

横川諏訪神社 (7)
横川諏訪神社 (8)
双体道祖神。上の写真の双体道祖神には天保10年(1839年)の銘があった(下のは不明)。

横川諏訪神社 (9)
横川諏訪神社には江戸時代中期に始まったといわれる獅子舞が伝承されている。碓氷関所の役人まで倒れてしまうほど疫病が流行った際には、疫病退散の獅子舞を関所上段の間で舞ったところ疫病が治まったという。そのため神社だけでなく、関所にも奉納することが恒例になったと伝えられている。

後継者不足からたびたび途絶えたが、平成21年(2009年)に復活。碓氷関所まつりや諏訪神社秋季例大祭で奉納されている(写真は安中市HPから拝借。碓氷関所まつり)。


安中市松井田町横川の招魂碑と鎮魂碑。

招魂碑&鎮魂碑 (1)
招魂碑&鎮魂碑 (2)
鎮魂碑・招魂碑は碓氷馬車鉄道・信越線アプト式鉄道・国道18号線等の建設に関わり殉職・殉難された方々、さらに碓氷路において交通事故等に遭遇し尊い命を亡くされた方々を鎮魂するもの。

招魂碑&鎮魂碑 (3)
招魂碑は鹿島組(現、鹿島建設)が明治25年(1892年)に建立したとされる。碓氷峠のアプト式鉄道の敷設は技術的にも困難を極めたが、非常に短期間でその開通を迎えている。記録は散逸しているようだが、相当数の犠牲者も出ていたようだ。

そのため鹿島組は招魂碑を建立したと考えられるが、永い年月の間に忘れ去られた存在になっていた。表には兵庫県加古郡草谷村(現、稲美町)魚住八十松 他五百名とある。500名の犠牲者が出ていたとするなら大惨事だが・・・。

招魂碑&鎮魂碑 (4)
鎮魂碑は「うすいの歴史を残す会」が平成8年(1996年)に建立。翌年の長野新幹線(現、北陸新幹線)の開通に伴い信越本線の横川・軽井沢間が廃線となるのを機に、各種交通機関の建設・発展に尽くした方々、思わぬ事故や災害で命を失った人たちを慰霊を目的としている。

招魂碑をこちらに移転し整備したのも「うすいの歴史を残す会」である。同会は毎年碓氷線交通殉難者鎮魂碑招魂碑慰霊祭を開催している。


安中市松井田町横川の碓氷関所史料展示室。
観光案内所内にある。

碓氷関所史料展示室 (1)
碓氷関所史料館は平成29年(2017年)まで関所跡(東門の西側)にあったが、平成30年(2018年)4月から碓氷峠鉄道文化むらの北にある「観光案内所」内に移っている。この建物自体の名称は知らない(観光案内所以外も入っているようだ)。

碓氷関所史料展示室 (2)
碓氷関所史料展示室 (3)
碓氷関所史料展示室 (4)
碓氷関所史料展示室 (5)
碓氷関所史料展示室 (6)
碓氷関所史料展示室 (7)
碓氷関所史料展示室 (8)
スペースも広くはなく、目を見張るほどの史料があるわけでもないが、碓氷関所の歴史、役人の仕事内容、関所破りに関してなどの史料やパネルが展示されている。

関所跡の史料館は土日・休日しか開館していなかったが、こちらは年末・年始以外は開館しており、見学者からすると都合がよくなった。
(碓氷関所跡は「安中市松井田町横川・碓氷関所跡」参照)


安中市松井田町横川の碓氷関所跡。
「上毛かるた」に「碓氷峠の関所跡」と詠まれている。

碓氷関所跡 (1)
碓氷関所跡 (2)
碓氷関所は昌泰2年(899年)盗賊の取り締まりのために碓氷坂に関所を設け、交通を監視したのが始まりとされる。その後、江戸時代の慶長19年(1614年)に井伊直勝が関長原(安中市松井田町横川関長)に仮番所を作り関東防衛の拠点とした。元和9年(1623年)に現在地に移されている。

寛永12年(1635年)の参勤交代制度の確立後は「入鉄砲出女」を厳しく取り締まり、関所手形の提出が必要であった。明治2年(1869年)に廃関となっている。

碓氷関所跡 (3)
碓氷関所跡 (4)
関所の門(東門)は昭和34年(1959年)の復元である。門柱や門扉は廃関時に使用されていたもの。他に屋根材と台石も当時のものである。東門が復元・設置されている場所は番所跡にあたる。そのため門の前にある石段は番所へ上っていく階段ということ。

碓氷関所跡 (5)
東門前の「おじぎ石」。元は番所前にあったことになる。通行人は番所前のおじぎ石に手をつき、ひざまづいて手形を差し出し検分を受けた。

碓氷関所跡 (6)
碓氷関門復元碑。昭和35年(1960年)の建碑。関所の歴史にプラスして、昭和30年(1955年)に保存されていた関門の一部が発見され、復元の声が起こったようなことが書かれている。

碓氷関所跡 (7)
碓氷関所史料館。昭和36年(1961年)の開館、平成29年(2017年)まで史料を展示していた。現在は観光案内所内に移されている。

ちなみに関所は代々安中藩が管理(警固)していたが、西門(碓氷峠側)だけは幕府の直轄で「天下門」と呼ばれていた。


安中市安中の大日山慈恩寺。

慈恩寺 (1)
慈恩寺 (2)
慈恩寺は元亀・天正年間(1570~92年)の創建と伝わる。元は湯沢山中にあったが、中山道の整備とともに交通の流れが変わると、寛永(1624~45年)の頃に現在地へ移っている。創建場所と伝わる地には、大日如来を祀った大日堂がある。

慈恩寺 (3)
慈恩寺 (4)
六地蔵が彫られている宝塔。風化の具合でお地蔵さんの目がくりっとして、可愛く感じられる。

慈恩寺 (5)
安中藩士・関島成章の墓。関島は安中藩の祐筆で「両野私記」などの著作を残している。その中で「八重が淵伝説」の基になった記録を書いている。それは安中藩主・水野元知の奥方は嫉妬深く、側女を毒虫と共に箱に入れて淵に沈めたという「伝聞」。

水野元知は安中水野家2代目。元知は寛文7年(1667年)に乱心し妻を切りつけたとして改易されている。しかし実は奥方の嫉妬が酷く、腰元を寵愛していると疑い切りつけたのを、逆に元知が切りつけたと幕府に報告されたため。報告したのは奥方の父・水野忠善とされる。

関島は板倉家が藩主時代の文化年間(1804~18年)に亡くなっている人物。150年近く前の「伝聞」を書いただけなんだけど、現在まで語り継がれることになった。

関連
 「安中市安中・八重が渕の碑


安中市古屋の島野山法楽寺。

法楽寺 (1)
法楽寺 (2)
法楽寺は応永年間(1394~1428年)法印慶秀の開山と伝えられる。寛文年間(1661~73年)法印弁阿の中興。

法楽寺 (3)
法楽寺 (4)
本堂脇に仏堂がある。中に祀られているのはが大日如来かな?

法楽寺 (5)
本堂裏の中興・弁阿の碑。大正12年(1923年)の建碑。

法楽寺 (6)
法楽寺 (7)
法楽寺 (8)
同じく本堂裏には五輪塔や石仏が並んでいる。

大正時代の法楽寺住職は、若者のために英語や数学を教授し、地域の若者育成に力を注いだという。また、碓氷社の取引書類などを英文翻訳もしていたという。


安中市古屋の野後(のじり)神社。

野後神社 (1)
野後神社は八幡神社として創建され(由緒は不詳)、古屋村・高別当村の鎮守社として崇敬されてきた。明治40年(1907年)に両村の他社を合祀し野後神社と改称している。

鳥居は大正11年(1922年)の建立。

野後神社 (2)
狛犬は平成17年(2005年)、灯籠は明治12年(1879年)の奉納。

野後神社 (3)
野後神社 (4)
野後神社 (5)
社殿は天保15年(1844年)に再建されている。

野後神社 (6)
境内社の稲荷社。嘉永5年(1853年)の銘があった。

野後神社では平成に入ってから大歳参りが行われるようになった。県道から神社まで雪洞(せっとう、ぼんぼり)を灯し、境内では福笹や破魔矢などの授与を行っている。


安中市原市の標陀山満福寺。

満福寺 (1)
満福寺は永享7年(1335年)法印恵深の創建。慶安2年(1649年)僧・覚誉が中興している。

満福寺 (2)
本堂は安永5年(1776年)に火災に遭い翌年に再建されている。この時は全焼でなく骨組みは残ったので、それを利用し再建したという。そのため、現在の本堂の間取りなどは当時のままという。

満福寺 (3)
弘法大師像。昭和62年(1987年)の建立。

満福寺 (4)
境内の地蔵尊。

満福寺 (5)
少し離れたところにある墓地の庚申塔。

以前紹介した八本木地蔵堂は、満福寺の境外仏堂になっている。地蔵堂には室町時代初期の作と推定される延命地蔵像が祀られている。地蔵像は秘仏で100年に1度ご開帳される。また、安中市最古とされる寛永2年(1625年)庚申石祠がある。
(「安中市原市・八本木延命地蔵尊」参照)


安中市簗瀬の不動山聖明寺。

聖明寺 (1)
聖明寺は天和3年(1683年)瑞巌元祥の開創。当地は滝山城跡と伝わり、城跡には不動山称名寺というお寺があり、それが廃寺となり不動堂のみが残されていたといわれる。その後荒廃したが、明治8年(1875年)祖禅通知が再興している。

聖明寺 (2)
境内入口の青面金剛塔と双体神。

聖明寺 (3)
門前の石段などは、滝山城(土塁)の名残りかな。

聖明寺 (4)
聖明寺 (5)
山門の扁額は「第一義」。これは最高の道理、究極の真理などを意味する仏教用語。もちろん、一般用語でも使う(最も大切な根本的な意義、価値)。

聖明寺 (6)
聖明寺 (7)
本堂は昭和59年(1984年)の建立。扁額は「不動寺」。

聖明寺 (8)
聖明寺 (9)
本尊の不動明王を祀る。

聖明寺 (10)
境内のペット供養塔。平成22年(2010年)の建立。

聖明寺 (11)
開山・瑞巌元祥の供養塔。

聖明寺 (12)
祖禅通知(明治に再興した和尚)の供養塔。明治43年(1910年)の建立。

聖明寺は先に書いたように滝山城跡にある。滝山城の詳細は不明だが、安中氏の支城のひとつではないかと思う。南側はすぐに碓氷川なのだが、けっこうな断崖になっている(10mくらいあるような気がする)。ロープが張ってあるが、南側には近づき過ぎない方がいい。


安中市原市の悪途山観乗院大蔵寺。

観乗院 (1)
観乗院は応永20年(1413年)法印長慶の創建。創建当初は鎗崎にあったが、後に現在地(悪途)に移転しているそのため、山号を悪途山としている。

観乗院 (2)
観乗院 (3)
観乗院 (4)
石段を上るとプレハブ(失礼!)のような小さな本堂。

観乗院 (5)
観乗院 (6)
境内の小堂に人物像が納められていた。観乗院は真義真言宗なので、真言宗の祖・空海か、真言宗中興で真義真言宗の教学の元になった興教大師あたりかな。

観乗院 (7)
観乗院 (8)
境内の六地蔵は3体は修理済みのようだが、他の3体は未着手のようだ。

観乗院 (9)
境内の如意輪観音像。

観乗院 (10)
路傍の百番供養塔や庚申塔。百番供養塔は秩父・板東・西国・四国とあったので、百三十三番供養塔と言うべきか(こんな言い方があるかは知らないけど)。

ところで悪途って字名は、昔は碓氷川からの傾斜地で途(みち)が不便ってことにちなんでいるのだろうが、もちろん現在そんなことはない。まあ、坂道は多いけどね。


安中市安中3丁目の旧安中町4号墳。

稲荷神社 & 安中4号墳 (1)
安中町4号墳は現状約30mの円墳。街中のためそれなりに削平されている。墳丘上には稲荷神社が鎮座している。社殿下の石垣は後世のもの。稲荷神社(社殿)を建立する際に補強したと思われる。

稲荷神社 & 安中4号墳 (2)
稲荷神社 & 安中4号墳 (3)
稲荷神社 & 安中4号墳 (4)
稲荷神社の社殿直下に横穴式石室が開口している。石室は全長約8m、羨道約3.5m、玄室長約4.5m、高さ約1.7mの両袖式で自然石乱石積み。

稲荷神社 & 安中4号墳 (5)
稲荷神社 & 安中4号墳 (6)
墳丘上の稲荷神社の由緒などは分からない。


安中市安中2丁目の一心山清照寺。

清照寺 (1)
清照寺は寛永12年(1635年)僧・清照の開山で、浄土真宗の寺院として開創。その後、文化年間(1804~18年)まで長楽寺と称し真言宗になっていたが、文政元年(1818年)藤野浄照が再び浄土真宗に改宗・中興している。

清照寺 (2)
本堂などは天明2年(1782年)の火災で焼失。現在の本堂は大正14年(1925年)に再建。

清照寺 (3)
親鸞の像。浄土真宗の寺院であることを示している。

街中のお寺なので、境内は余り広くない。すぐ隣は旧安中高なので、開校時に寺域を提供しているのかもしれない。安中高は安中総合高の開校に伴い平成20年(2008年)に閉校している。現在は体育館のみ安中体育館として利用されている。

安中市安中3丁目の碓氷山長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺 (2)
長徳寺は正中年間(1324~26年)呑海上人の開創。呑海は遊行上人4世。遊行上人とは時宗の指導者に対する敬称。

長徳寺 (3)
山門前の青面金剛塔などの庚申塔。

長徳寺 (4)
本堂は明治39年(1906年)の安中谷津の大火で類焼・焼失。長期に渡り庫裡を兼用本堂としていたが、昭和35年(1960年)に再建している。

長徳寺 (5)
暦応3年(1340年)銘のある板碑。南無阿弥陀仏と彫られている。ちなみに、暦応は南北朝期の北朝の元号で、南朝は延元・興国。

長徳寺 (6)
踊躍念仏供養塔。安政2年(1856年)の造立。「踊躍」というくらいだから、念仏踊りを伴っていたのかな。

ところで、長徳寺には安中草三郎の妻・歌の胴体が葬られているともいわれる。これは噺と現実がごっちゃになっている面もあり、事実かは分からないのだが(噺中では正徳寺となっている)。歌は草三郎に首を切られて殺されてしまい、首は同じく安中の東光院に葬られている(とされる)。

関連
 「安中草三の碑
 「安中草三郎の妻・歌の墓?・十輪山東光院


安中市安中2丁目の常香山安楽寺。

安楽寺 (1)
安楽寺 (2)
安楽寺は長禄2年(1458年)尋海の開山。正保2年(1646年)に常木から当地に移転している。常木にあったので常香山と称している。

安楽寺 (3)
文化年間(1804~18年)に火災により焼失。古記録などを失っている。こじんまりした本堂はまだ新しそうだが、建立年などは分からない。

安楽寺 (4)
境内の六地蔵。

安楽寺は旧中山道に面しているが、南側は碓氷川に向かっての河岸段丘のような感じになっており、墓地などは傾斜地を階段状に整備している。


安中市岩井の多層塔。

岩井の多層塔
岩井の多層塔は、昭和19年(1944年)岩井西の平古墳より出土。形状などから造立は鎌倉時代と推定される。

案内板には「安中市にただ一基だけの貴重な塔」ってあったけど、安中市には他にそれなりの時代の宝塔の類い(五輪塔など)は残ってないの?

岩井大河原の庭園にて保存されていたが、平成14年(2002年)に現在地(岩野谷公民館)に移転されている。ちょっと駐車場の隅で、余り良い場所ではないかな。


安中市岩井の医王山昌井寺。

昌井寺 (1)
昌井寺は慶長6年(1601年)僧・快秀が一庵を建立したのが始まりと伝わる。寛文3年(1663年)に僧・清存を開山に招き、岩井村の中島理左衛門が開基となり昌井寺として創建。

昌井寺 (2)
門前の馬頭観音。

昌井寺 (4)
明治39年(1906年)に堂宇を焼失、現在の本堂は大正11年(1922年)の建立。焼失前には観音堂、薬師堂、不動堂があったとされる。

昌井寺 (5)
歴代住職の墓(と思われる)には五輪塔が並ぶ。

昌井寺 (6)
法印会慶の供養塔。天保3年(1833年)に入寂とあったが、特別に供養塔が建っていることから、中興などの扱いなのかな。


安中市板鼻の釜渕山大乗院如来寺。

大乗院 (1)
大乗院の創建は不詳。慶長年間(1596~1615年)に堀口出羽守貞忠が中興したとされる。堀口貞忠については分からない。

大乗院 (2)
大乗院 (3)
境内は旧18号バイパスで南北に分断されている。南側には薬師堂がある。

大乗院 (4)
境内の聖観音。また新しそうなので、お寺として存続しているようだ。

大乗院 (5)
北側(高台)には歴代住職の墓地と並んで2基の石幢がある。いずれも六地蔵が施されている。どちらか確認出来なかったが、明暦2年(1656年)の銘があるという。

境内の南側はかつて断崖で、直下に碓氷川が流れていた。そこに釜が渕と呼ばれる深淵があったことから、山号が釜渕山となったとされる。


安中市下秋間の榛名神社。

下秋間榛名神社 (1)
下秋間榛名神社 (2)
下秋間榛名神社は長禄2年(1458年)の勧請と伝わる。

下秋間榛名神社 (3)
社殿裏側にも鳥居がある。旧鳥居かな。

下秋間榛名神社 (4)
下秋間榛名神社 (5)
下秋間榛名神社 (6)
社殿は江戸後期の建立とされ、棟札に文化13年(1816年)の再建とある。外陣天井絵には安政7年(1860年)とある。

下秋間榛名神社 (7)
下秋間榛名神社 (8)
神楽殿があるが、相当新しい。現在も神楽が奉納されているのかな。

下秋間榛名神社 (9)
境内には大きな灯籠がある。

下秋間榛名神社 (10)
社殿裏の境内社・末社群。御嶽山以外は分からない。

秋の例祭には下秋間上組により黒駒流の獅子舞が奉納される。


安中市下秋間の八幡宮。

下秋間八幡宮 (1)
下秋間八幡宮 (2)
下秋間八幡宮は康元元年(1256年)の創建と伝わる。

下秋間八幡宮 (3)
下秋間八幡宮 (4)
鳥居の先にはよく分からない建物。割拝殿か、神楽殿か。

下秋間八幡宮 (5)
ちょっと急な石段を上ると社殿。

下秋間八幡宮 (6)
下秋間八幡宮 (7)
拝殿は寛政3年(1791年)の再建。棟札が残されている。

下秋間八幡宮 (8)
拝殿には「太々御神楽」の扁額も掛かる。先の建物は神楽殿のようだ。

下秋間八幡宮 (9)
本殿は嘉永元年(1848年)の建立。本殿には彫刻が施されているとのことだが、それらしき物は見えない。写真は覆屋かもしれない。

下秋間八幡宮 (10)
秋の例祭では、下秋間中組による「ささら獅子舞」が奉納される。獅子舞の始まりは幕末といわれる。写真は獅子頭などの保管庫と思われる。

神楽については、現在も行われているかは分からない。


安中市磯部の神明宮跡。
神明宮は明治14年(1881年)に磯部神社に合祀され、現在は中磯部住民センターなどになっている。(磯部神社は「安中市下磯部・磯部神社」参照)

磯部神明宮跡 (1)
少しばかりの境内跡に、神明宮のご神木であったとされるヒイラギが残っている。

樹齢は250年以上と推定される。写真では分からないが、反対側の幹の内側は大きな空洞になっている。ただ、写真のように緑の葉が覆い、樹勢は旺盛に見える。

磯部神明宮跡 (4)
境内跡の隅に、「五六七会 タイムカプセル」と書かれた標柱があった。何の会かは知らないが、思い出の品などが埋められているようだ。

磯部神明宮跡 (2)
磯部神明宮跡 (3)
神明宮跡地は日本武尊が東征の折、行在所としたと伝わっており、その際に冠を掛けた「冠石」、腰を掛けた「腰掛石」がある。(もちろん、いずれも伝承)

一応、それらしき写真を撮ってきたが、まったく分からない。広くはない境内跡地や住民センター周りを探したが、上の写真くらいしか、それらしき物は見つけられなかった。


安中市中秋間の大森神社。

大森神社 (1)
大森神社 (2)
中秋間大森神社の創建は不詳だが、もともと飽馬神社だったといわれる。弘治年間(1555~58年)に「飽馬」から「秋間」に文字が変わったとされるので、神社の創建はそれ以前と推定される。

飽馬神社時代に洪水で社殿が流され、里人が樫の木に繋いで流出をくい止めたという。その場所の近傍(現在地)に遷座した際に、大森神社と改称しという。

大森神社 (3)
大森神社 (4)
大森神社 (5)
大森神社 (6)
社殿の棟札に寛永3年(1626年)のものがあり、大工・小藤金左衛門、石井久四郎とある。

大森神社 (7)
木鼻(獅子鼻と漠鼻)がカラフルに着色されているが、これは何?? どういう意図なのかと、ちょっと思案してみたが・・・思い浮かばない。


安中市東上秋間の三角の橋供養塔。

三角の橋供養塔(1)
供養塔は慶長15年(1610年)に東上秋間村の磯貝伊豆守が、秋間川支流の久保川に石橋をかけ供養したもの。磯貝伊豆守についてはよく分からない。また、石橋は現存していない。群馬県内で最古の橋供養塔といわれる。

三角の橋供養塔(2)
阿弥陀三尊を示す種子と「奉造立石橋者我一心志」。磯貝伊豆守の名とともに、願主として甚左衛門(同二拾人)という名も見える。

群馬県最古の橋供養塔と安中市HP、安中市教育委員会案内板に書かれている。調べてみたところ、全国でも慶長以前の橋供養塔は見つからない。なので、全国最古ではないかと思う。


安中市中後閑の中後閑神社。

中後閑神社 (1)
中後閑神社の創建は文安4年(1447年)と伝わる。元は諏訪神社であったが、明治43年(1910年)近隣の熊野神社、大山祇神社、八坂神社、浅間神社などを合祀し、中後閑神社と改称。

中後閑神社 (2)
けっこう急な石段を登っていく。

中後閑神社 (3)
割拝殿と思われる。境内は草が生い茂っており、あまり訪れる人もいない?

中後閑神社 (4)
中後閑神社 (5)
中後閑神社 (6)
中後閑神社 (7)
主祭神が伊邪那美命・速玉之男命・事解之男命になっており、先に諏訪神社に各社を合祀したと書いたが、存続社は熊野神社のようだ。

この熊野神社は、室町時代に後閑城を築城した依田氏が鎮守として碓氷峠の熊野神社から勧請したもの。歴代後閑城主の崇敬を受けていた。
(後閑氏・後閑城は「安中市中後閑・後閑城址」参照)


安中市東上秋間の十二山神社。
前回の東神社の境内社となっている。
(「安中市東上秋間・東神社」参照)

十二山神社 (1)
十二山神社 (2)
十二山神社の創建は元和8年(1622年)と伝わる。もともとは源為朝陣屋跡との伝承がある神水の地に鎮座していた。

石祠は埋没していたが、大正5年(1916年)に永楽通宝などの多数の古銭とともに発見された。以後、山の守護、諸病平癒の神として信仰されてきた。平成11年(1999年)安中榛名駅の駅前開発に伴い、東神社の境内に遷座している。

源為朝は源為義の8男。剛弓の使い手で剛勇無双を謳われた。保元の乱(1156年)で兄・義朝や平清盛らに敗れ、伊豆大島に配流されている。

その生涯で安中はおろか上野国との関わりも見つけられない。なぜ為朝の陣屋が安中に? どういう伝承なんだろうか?


安中市東上秋間の東神社。

東神社 (1)
東神社 (2)
東神社 (3)
東神社は天福元年(1233年)の創建と伝わる。創建当初からかは不明だが、諏訪神社として地元に根付いていた。そのため、現在も東神社の標柱と諏訪神社の標柱も建っている。

東神社 (4)
明治42年(1909年)近隣の八坂神社、熊野神社、榛名神社などを合併し東神社と改称している。

東神社 (5)
東神社 (6)
東神社 (7)
「祝神社合併俳句奉納額」明治44年(1911年)と記載されており、この時点で神社合祀事業が完了したと考えられる。

東神社 (8)
境内に旧東秋間村から発掘された小型の石棺「馬舟さま」がある。長さ約1mで材質は地元の秋間石(溶結凝灰岩)、一般的な石棺と比較すると明らかに小さい。蓋と身は別物で、複数あった石棺の蓋と身と考えられている。

この石棺に水を汲み、日本武尊の馬に水を飲ませたという伝説がが残っており、このため「馬舟さま」と呼ばれている。また、日照りの際の雨乞いにも使われたという。



安中市下磯部の磯部神社。

磯部神社 (1)
磯部神社 (2)
磯部神社は鷺宮村の上諏訪神社が、慶長元年(1596年)に当地に遷座したのが始まり。そのため主祭神は建御名方命。

磯部神社 (3)
磯部神社 (4)
その後、数々の神社を合祀し、明治14年(1881年)に磯部神社と改称している。

磯部神社 (5)
磯部神社 (6)
拝殿は入母屋造り、本殿は流造り(と言っても見えないが)。

磯部神社 (7)
神饌舎? かなぁ。

享保8年(1723年)銘の灯籠は、大野九郎兵衛(赤穂事件時の赤穂藩家老)と目される「林遊謙」奉納といわれる(社殿前の灯籠かは不明)。

大野九郎兵衛と目される林遊謙に関しては下記参照。
(「伝赤穂藩士 大野九郎兵衛の墓・磯明山松岸寺」)


安中市中野谷の熊野山清元寺。

清元寺 (1)
清元寺は文禄元年(1592年)から慶長6年(1601年)まで当地を治めていた秋元長朝の屋敷跡である。そのため、長朝が総社へ加増・転封(1万石)で移った慶長6年あたりの創建と考えられる(詳細不明)。

清元寺 (2)
清元寺 (3)
本堂屋根には「三つ柏」と「五七桐」の家紋がある。

清元寺 (4)
清元寺 (5)
清元寺 (6)
山門前の六地蔵と境内の石仏。

秋元長朝は北条氏に仕えていたが、豊臣秀吉の小田原攻めの後、井伊直政の推挙で徳川家臣となり、当地(2000石)を与えられている。その後、長朝は関ヶ原の戦い後に上杉景勝に降伏を勧める使者として会津に赴き、景勝に降伏を受け入れさせた。この功績により、総社(前橋)に1万石を与えられて大名となっている。

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