Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 安中市


安中市簗瀬の城山稲荷神社。

城山稲荷神社 (1)
城山稲荷神社は原市の個人邸内に鎮座していたが、文化年間(1804~18年)に現在地に遷座している。

城山稲荷神社 (2)
城山稲荷神社 (3)
城山稲荷神社 (4)
拝殿は文政6年(1823年)、本殿は文化年間(1804~18年)の造営。

城山稲荷神社は中御門家の祈願所となっており、同家が文政7年(1824年)に奉納した抱柏御葉牡丹の紋の「紫縮緬幕」が社宝となっている。

城山稲荷神社 (5)
境内地は簗瀬城址と伝えられる。建治元年(1275年)の築城ともいわれるが、資料的な裏付けはない。

写真の案内板が立っているところは虎口の雰囲気。社殿裏(北側)には土塁が残っている。とは言え、周囲は住宅地になっており、オレのような素人は言われなければ城址と気づかない可能性が大きい。

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安中市板鼻1丁目の金井忠兵衛の墓。

金井忠兵衛の墓
金井家墓所にある金井忠兵衛の墓。

金井家は倉賀野城主・金井秀景の末裔といわれ、中山道・板鼻宿で牛馬宿を営んでいた名家。牛馬宿は宿場の本陣・脇本陣に次ぐ宿格で、その名の通り牛や馬などを泊める以外にも幕府役人などの定宿となっていた。

ちなみに本陣は木島家で、幕末の公武合体で14代将軍・徳川家茂に嫁ぐため中山道を下った和宮内親王がご宿泊された書院が残っている。
(「皇女和宮のご泊所 -板鼻本陣跡-」参照)

忠兵衛は旅日記「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」を残したことで、その名を残している。文化5年(1822年)に自身の伊勢神宮、長崎、出雲大社などへの旅の記録。

この旅行記には、各地の宿の食事の内容や、泊まり心地の善し悪しなど、現在のガイドブックブックとグルメ本を合わせたような内容。

さらには、各地の文化風習に加え、どこそこに美人がいたなどの記載もある。長崎では、地元では絶対にお目にかかれない異国人(オランダ人や清国人)や異国船の様子も綴っている。

忠兵衛の「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、末裔が土蔵から発見したものであるが、当時の旅事情のみならず各地の食文化を知る上で大きな役割を果たしている。

なお、この「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、平成3年(1991年)に「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社)として出版されている。

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安中市中宿の諏訪神社。

中宿諏訪神社 (1)
中宿諏訪神社の創建は天正年間(1573~93年)と伝わる。

中宿諏訪神社 (2)
中宿諏訪神社 (3)
中宿諏訪神社 (4)
当地を治めていた安中氏は、永禄5年(1562年)武田氏に服属していることから、領内に諏訪神社を創建したと考えられる。(武田氏が諏訪明神を守護神として信奉していたため)

この辺の事情は、小幡氏が領内(富岡・甘楽)に諏訪神社を多数勧請しているのと同様と思われる。

中宿諏訪神社 (5)
中宿諏訪神社 (6)
境内の御嶽山座王権現。多数の白狐が奉納されていた。御嶽山と白狐の関係は分からない。

中宿諏訪神社 (7)
明治天皇が明治11年(1878年)北陸・東海巡幸のおり、当地で小休止した際に腰掛けた石がある。

中宿諏訪神社には、明暦年間(1655~58年)に始まる「糸繰り灯籠人形」が伝承されている。和紙製の人形の中にカンテラを灯し糸で操る物。明治時代に途切れたが、昭和28年(1953年)に復活し、現在も不定期に境外公演されている。

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安中市野殿の薬王山宗泉寺。

宗泉寺 (1)
宗泉寺 (2)
宗泉寺 (3)
宗泉寺は天正12年(1584年)小幡信秀が、甘楽町の向陽寺4世・伝州を招いて開山した。小幡信秀は国峰城落城時の城主・小幡信貞の養嗣子。

小幡氏は北条氏に仕えていた(当時)ため、豊臣秀吉の小田原攻めにより国峰城は落城(天正18年:1590年)。これにより上野国の本領を失っている。信秀の子・直之は江戸時代に旗本として取りたてられ、野殿を拝領している。以後、幕末まで野殿は旗本・小幡氏の知行地であった。

宗泉寺 (4)
宗泉寺 (5)
境内の薬師堂。薬師如来を祀る。

宗泉寺 (6)
宗泉寺 (7)
宗泉寺 (8)
鐘楼、聖観音、六地蔵。

小幡信秀に関しては、国峰城落城時に甘楽町・向陽寺の伝州に匿われ、その後、江戸時代に旗本として取り立てられた際、当時の恩義から伝州を招き宗泉寺を創建したとの説もある。
(「甘楽町天引・向陽寺」参照)
そうすると、宗泉寺の創建は江戸時代となる。

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安中市中秋間の瑞林山全性寺。
全性寺には珍しい悟留譜観世音菩薩(ゴルフ観音)あり以前紹介したが(「ゴルフ観音 -全性寺-」参照)、安中忠政のお墓もあるので再訪した。

全性寺 (1)
全性寺 (2)
全性寺 (3)
全性寺は安中忠盛が父・忠政の菩提を弔うために創建した。

全性寺 (4)
安中忠政の墓。
明治33年(1900年)、安中氏家臣の家系である奥原氏が再建したもの。奥原氏は秋間七騎に数えられている。

忠政の父・忠清の墓は久昌寺、祖父・忠親の墓は桂昌寺にある。
安中忠清の墓 -安中・久昌寺-」「安中忠親の墓 -安中・桂昌寺-」 をそれぞれ参照。

本ブログでは、安中忠親、忠清、忠政と「忠」名を使っているが、顕繁、長繁、重繁と「繁」名の記録もある。それだけ安中氏の素性は諸説あり、よく分かっていないということ。

全性寺 (5)
最後に、やっぱり全性寺と言えば「ゴルフ観音」なので、再掲。

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安中市板鼻の荒木寅三郎の墓。

龍的山古墳 (1)
龍的山古墳 (2)
荒木寅三郎の墓は龍的塚古墳の墳頂にある。龍的塚古墳は、直径40mの円墳で、竪穴式の石室を持つ。周濠の中に陪塚が確認されている。築造は5世紀と推定され、付近では最古の古墳とされている(前方後円墳との説もある)。

荒木寅三郎の墓 (1)
墓までは石段が設置されている。

荒木寅三郎の墓 (2)
荒木寅三郎の墓 (3)
荒木寅三郎の墓。

荒木寅三郎は慶応2年(1866年)に板鼻の町医の家に生まれる。東京帝大医科大学を卒業後家業を継ぐ。その後、ドイツ留学、第三高医学部教授、京都帝大医科大教授などを経て、大正15年(1915年)に京都帝大総長、昭和4年(1929年)に学習院院長に就任。昭和17年(1942年)に逝去、75歳。

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安中市野殿の白山比咩神社。

白山比咩神社 (1)
白山比咩神社 (2)
白山比咩神社は戦国期の永禄6年(1563年)の創建と伝わる。扁額は「白山姫神社」となっている。

白山比咩神社 (3)
明治6年(1873年)に村社となり、明治41年(1908年)に近隣の社を合祀している。

白山比咩神社 (5)
明治18年(1885年)建立の神楽殿。寛文5年(1653年)創始の太々神楽が伝わる。現在は休止状態のようだが、かつては鷺宮・咲前神社の太々神楽と共に有名で、市内各社にも奉納されたという。

現在は、雨乞い祈願から始まったといわれる、稲荷流獅子舞が秋祭に奉納されている。

隣接する岩井地区、大谷地区にも白山比咩神社が鎮座している。

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安中市西上秋間の飽馬神社。

飽馬神社 (1)
飽馬神社の創建は不明だが、平安時代に編纂された「上野国神名帳」に「従三位飽馬明神」と記される古社である。

飽馬神社 (2)
飽馬神社 (3)
飽馬神社 (4)
飽馬神社 (5)
鎌倉時代には飽馬太郎(地元の御家人?)ら、武門の崇敬が厚かったという。南北朝期に一時衰退したが、室町期初期に再建されている。

扁額の銘が「源希典」とある。乃木希典大将のことだが、出雲源氏・佐々木氏の末裔を称していたから。

飽馬神社 (6)
神楽殿では昭和10年(1935年)頃まで、鷺宮の太々神楽を招き春祭に奉納していた。

飽馬は「秋間」の地名の元であるが、そこには日本武尊にまつわる伝説がある。日本武尊が東征のおり乗馬に飽きて、この地で休憩したことから「飽馬」と呼ばれるようになったという。また、飽馬神社も日本武尊が伊勢神宮から勧請したともいう。

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安中市安中(2丁目)の洞谷山龍昌寺。

過去2回紹介したが、2度目の訪問の際、境内に「世界乗物館」という小さいな建屋を見つけた。過去の訪問記は下記参照。
 「和合の鐘 -龍昌寺-
 「山田三川の墓 -龍昌寺 その2-

その際、境内に「世界乗物館」という小さいな建屋を見つけた。

世界乗物館(龍昌寺) (1)
世界乗物館(龍昌寺) (2)
恐る恐る入ってみた。確か「ご自由にお入りください」とあったような気がするが、定かではない。

世界乗物館(龍昌寺) (3)
世界乗物館(龍昌寺) (4)
世界乗物館(龍昌寺) (5)
大量のミニカーが並んでいた。かなりの数だ。
定番のスポーツカーからバスやトレーラーまである。

世界乗物館(龍昌寺) (6)
ポルシェ911。

世界乗物館(龍昌寺) (7)
ベンツのクラシックカー(SSKL)。

世界乗物館(龍昌寺) (8)
フェラーリテスタロッサ。

よく位置づけが分からない施設だが、個人的にはけっこう楽しめた。住職さんの趣味?


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安中市安中(2丁目)の洞谷山龍昌寺。
以前訪問済みだが(「和合の鐘 -龍昌寺-」)、龍昌寺には儒学者・山田三川の墓がある。

山田三川の墓
山田三川(1804~62年)は安中藩の儒学者。三川は号で、名は飛、諱は戴飛である。出身は伊勢国三重郡平尾村だが、江戸に出て昌平坂学問所で学ぶ。松前藩に召し抱えられるが、職を辞し下総国に隠蔽。

その後、徳川斉昭の紹介で嘉永5年(1852年)から安中藩に仕えている。嘉永5年は、ペリーが浦賀に来航する前年である。

三川は郷学校「桃渓書院」設立や藩校「造士館」で経済学・詩文・吏事などを教え、安中藩の教育向上に貢献した。

ちなみに、三川の使えた板倉勝明は安政遠足(あんせいとおあし)を行ったことで有名。

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安中市安中(3丁目)の法昌山蓮久寺。

蓮久寺 (1)
蓮久寺 (2)
蓮久寺 (3)
蓮久寺 (4)
蓮久寺は明応年間(1492~1501年)日敬上人の開山。開基は安中忠親の母・法昌院である。

蓮久寺 (5)
蓮久寺 (6)
本堂は質素で小さい。日蓮の銅像の方が目立っている。

蓮久寺 (7)
境内にあった「おもかる石」。願い事をして黒い石を持ち上げるのだが、石の重さが自分の予想より軽ければ願いが叶い、重く感じれば願いが叶わないという。

やってみたら重かった・・・。

蓮久寺 (8)
この慈母観音は「特攻慈母観音」と呼ばれる。2代前の日醍上人が、自身の参戦体験から戦地に散った特攻隊員の功績を忍び威徳を伝えるため、昭和58年(1983年)の終戦記念日に建立。

ある筋の人々は、こういうのを特攻賛美とか言いかねないが、とんでもないことだ。不戦を誓うとともに戦地に散った英霊をお祀り・慰霊するすることは、現代に生きる我々の勤めでもある。

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安中市安中(3丁目)の久光山妙光院。

妙光院 (1)
妙光院 (2)
妙光院 (3)
妙光院 (4)
妙光院は応永年間(1394~1428年)慶秀法印の開山と伝わる。永禄2年(1559年)安中忠政が祈願所として再興したといわれる。

妙光院 (5)
永禄2年(1559年)安中忠政が祈願所として堂宇を再建。以後、井伊直勝、板倉重形も祈願所とするなど、歴代安中藩主から崇敬を受けた。

妙光院 (6)
安中藩は井伊直政長男・直勝に始まるが、板倉家は天和元年(1681年)から元禄15年(1702年)、寛延2年(1749年)から明治4年(1802年)の廃藩置県まで、2回計140余年に渡り藩主を務めている。

写真では分かりづらいが、屋根には「板倉九曜巴」の家紋が輝いている。板倉家藩主時代(2回目と思われる)に本堂は再建されているようだ。

妙光院 (7)
妙光院墓地には、新島襄の祖父・弁治と弟・雙六の墓がある。祖父・弁治は明治3年(1870年)85歳、弟・雙六は明治4年(1871年)25歳で亡くなっている。

妙光院は新島家の菩提寺なのかな。ちなみに、新島襄の両親(民治、とみ)の墓は、襄とともに京都にある。

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安中市安中(1丁目)の愛宕神社。

安中愛宕神社 (1)
安中愛宕神社 (2)
安中愛宕神社は元禄年間(1688~1704年)に祠を祀り、柳沢豊昵の夢告によって手水鉢を奉納したのが始まりと伝わる。

安中愛宕神社 (3)
安中愛宕神社 (4)
安中愛宕神社 (5)
この辺りはかつで古墳で、「永禄二己未年(1559年)谷間なりしを土をならして家をたつ。ゆえに谷津村となづけしとなん」と記録に残る。

安中愛宕神社 (6)
愛宕神社のご祭神は軻遇突智命(かぐつちのみこと)であり、別名火産霊神といい防火の神である。

明治の神社合併の際、愛宕神社を熊野神社に合祀しようしたが、愛宕神社は火の神、熊野神社の末社諏訪社は水の神であるから、合併しなかったという逸話が伝えられている。

また、祭りに雨が降っても火伏せの神であるので、かえって喜ばれるという。

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安中市安中(5丁目)の遠丸石。

遠丸石 (1)
伊勢三郎義盛は源義経の家来として知られている。義盛の生涯、特に出生地については諸説あるが、安中市の板鼻や松井田に伝説が多く残っている。

義盛は板鼻で旅人から金品を奪う盗賊をしていたが、ある夜に明け鶏が鳴いたので引きあげたが、いつまでも夜が明けない。何日かそんなことが続いたので、不思議に思い鳴き声がしたあたりを見ると、そこには2つの石があるだけだった。

天が鶏の鳴き声で盗賊をやめさせようとしたと悟り、義盛は盗賊をやめたという。また、この故事からこの地は、長鳴き鶏の名から遠丸という地名になったという。

遠丸石 (2)
立派な御影石に解説が彫られているが、上の方で折れてしまっている。

ところで「遠丸」って、「唐丸」と書くのが一般的。江戸時代に中国から入ってきた鶏と越後の地鶏や軍鶏を交配したもの。(オランダから入ってきたという説もある)

ということは、この伝説ができたのは江戸時代? それとも、昔からあった伝説を江戸時代に遠丸石とした?
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安中市安中(4丁目)の正龍寺。

正龍寺 (1)
正龍寺 (2)
正龍寺は関東管領・山内上杉家家臣の松本右近将監経重が、応永年間(1394~1427年)に信州での合戦のおり黄金の千手観音を授かり、それを館近くの森にお堂を建てて祀ったのが始まりという。

山門は平成3年(1991年)、本堂は平成2年(1990年)の再建。

正龍寺 (3)
正龍寺 (4)
堂内には33体の観音様の中央に千手観音が鎮座している。黄金色で綺麗だが、室町時代の作とは思えない。(もちろん本物の黄金なら、こんなところに置いておけないだろうが)

正龍寺 (5)
本堂前の馬頭観音。

ここは以前紹介した安中草三(草三郎)に関連がある。噺の中に登場する女性が出家し、照念尼として隠棲したお堂のモデルとなっている。お堂は馬頭観音堂となっている。
(「安中草三の碑」「安中草三郎の妻・歌の墓? -東光院-」参照)

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安中市安中(3丁目)の十輪山東光院。
前回の「安中草三の碑」で書いた安中草三郎の妻の墓がある。

東光院 (1)
東光院の創建年は不明だが、慈覚大師円仁の開祖。

東光院 (2)
お寺の由緒はないが、安中草三郎のことを書いた説明版はあった。小さくて読めないと思うが(申し訳ない)、実在の人物とは書いていないが、何がしかのモデル事案(色恋沙汰)はあったのではないか? 的なことが書いてある。

東光院 (3)
東光院 (4)
東光院 (5)
本堂は銅板葺き、入母屋造り屋根、平入り、流れ向拝。平成10年(1998年)に改修されている。

東光院 (6)
東光院 (7)
境内の観音堂には、如意輪観音が安置されている。

東光院 (8)
安中草三郎の妻・歌の墓。
噺の中では草三に首を切られて殺されている。詳細を書くと長くなりそうなので省略するが、草三郎に横恋慕した女性の家と一悶着が起こってしまったから。

東光院へは首のみ葬られており、胴体は正徳寺(噺中なので架空)に葬られている。正徳寺は同じく安中市にある長徳寺のことといわれる。長徳寺にも行ってみようかな。

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安中市安中(3丁目)の安中草三の碑。

草三の碑
安中草三とは、三遊亭圓朝が明治5年(1872年)に創作した落語「後開榛名梅香」に登場する。三遊亭円生の「あんもの草三」や「榛名の梅吉」を下敷きにしている。後に、講談や浪曲、歌舞伎でも演じられる人気作だったようだ。

創作落語の登場人物なので創作上の人物と考えられるが、モデルがいたともいわれる。

どうやら安中草三郎という侠客者がいたようだ。草三郎は江戸時代の盗賊で、脱獄し追われる身となり「榛名の梅吉」と名乗り逃亡していたが、伊香保で捕縛され文政4年(1821年)に小塚原で処刑されたという。享年36歳。

圓朝が安中や伊香保を実際に訪れ、細かく取材を行い創作したため、実在の人物との混同が生まれている。

「後開榛名梅香」は大長編なので、全ストーリーを把握できていないが、碑が建てられるほど「安中草三」は地元の方々から慕われていたということだろうか?

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安中市下秋間の聖不動威怒明王(しょうふどういぬみょうおう)。

聖不動威怒明王 (1)
桂昌寺14世・乾海和尚が元禄13年(1700年)に寺領に十三仏を造立。その1番・聖不動威怒明王をこの地と定めた。ここは昔より良水があり、動物・鳥類が傷ついた体を休めるようになり、聖不動威怒明王像を奉安したのが始まりという。

また、古老の夢に不動明王が現れ、お告げに従い崖崩れで埋まった同不動を見つけ、現在の場所に移したとも伝えられている。

聖不動威怒明王 (2)
聖不動威怒明王 (3)
聖不動威怒明王 (4)
聖不動威怒明王像は秋間石造りで、元禄13年と桂昌寺14世・乾海和尚の銘がある。

近年には参拝すると「病まずにポックリ逝ける」と、お年寄りらの口コミで広まり、参拝に訪れる人が多い。

どういう経緯で「ぽっくり不動」と呼ばれるようになったかは不明。

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安中市下秋間の熊峯山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺 (2)
桂昌寺は永正10年(1513年)安中忠親の開基、天陰玄鎖の開山による創建と伝わる。桂昌寺は桂昌院といったが、徳川5代将軍・綱吉の生母が桂昌院と名乗ったことから桂昌寺に改めている。(と言うか、改めさせられた)

桂昌寺 (3)
桂昌寺 (4)
金色に光り輝く本堂屋根の鴟尾が眩しい(笑)。

桂昌寺 (5)
桂昌寺 (6)
2代安中藩主・井伊直好の正室・長生院の菩提を弔うために、寛文3年(1663年)に鋳造された鐘。鐘の音の響きが悪くなったので、嘉永3年(1850年)に高崎の鋳物師・小林弥兵衛によって鋳直されている。歴史的意味合いや美術的価値が評価され、戦時中の供出を免れている。

桂昌寺 (7)
安中忠親の墓。
忠親は榎下城を築いた安中忠清の父親である(兄という説もある)。

墓石の右側面には「後嵯峨院第一皇子宗尊親王八代後胤」とある。ちなみに、宗尊親王は鎌倉幕府6代将軍であり、初の皇族将軍である。
(安中氏、安中忠清は「安中忠清の墓 -安中・久昌寺-」参照)

桂昌寺 (8)
井伊直好の正室・長生院の墓。
長生院は酒井忠勝の娘である。忠勝は2代川越藩主で、初代厩橋藩主・重忠の弟。重忠の家系は有名な雅楽頭酒井家の宗家。

井伊直好は正保2年(1645年)に三河西尾に移封されているので、長生院の菩提を弔う鐘が鋳造されたのは水野家の藩主時代になる。

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安中市原市の月桂山久昌寺。

久昌寺 (1)
久昌寺 (2)
久昌寺 (3)
久昌寺は大永5年(1525年)安中忠清の開基、月巣玄鶴の開山と伝わる。忠清は松井田(西)城より現在の久昌寺の地に移って榎下城を築いている。

榎下城は忠清の子・忠政が永禄2年(1559年)に安中城を築いて移るまでの35年間、安中氏の本拠地として機能した。

久昌寺 (4)
久昌寺 (5)
安中忠清の墓。
安中氏は桓武平氏の平維茂の末裔とする説と、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王の末裔とする説があるが、いずれも定かではない。どちらも皇族につながり、いかにも・・・な系譜である。

ちなみに、維茂は平将門の乱を鎮圧した繁盛の孫であり、宗尊親王は鎌倉幕府6代将軍で初の皇族将軍である。

一般的には、安中氏は長享元年(1487年)に越後から移住してきたとされるが、これも諸説あるようで、結局は安中氏の由緒はよく分からないと言うこと。ただ、安中氏(忠政・忠清の子)が当地一体を野尻から安中に改めたことは確からしい。

ところで、久昌寺には安中忠清の位牌とともに、井伊直孝(彦根藩2代藩主)の位牌も残されている。直孝は幼少時安中で過ごしているが、久昌寺との繋がりはよく分からない。直孝の戒名が「久昌院殿豪徳天英大居士」であることから、久昌寺の寺名の由来になったものと思われる。(「井伊直孝(井伊直政次男)からの書状 -北野寺-」参照)

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安中市鷺宮の聖観音碑。

聖観音碑 (1)
聖観音碑は安山岩の中央に自在観音、右下に勢至観音、左下に普賢観音の観音三尊が半肉彫りされている。造立年や造立者は不明だが、その特徴から鎌倉時代、もしくはそれ以前と考えられている。

聖観音碑 (2)
高さは180cm、下部幅66cm、中央幅75cm。地元では「おびんづる様」とも呼ばれ、崇拝されている。

江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていたという。しかし馬に乗ったまま渡ろうとすると、必ず馬が暴れ落馬するので、村人が改めると観音三尊が彫られていることが分かったので、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれている。

そう言えば、世界遺産への登録を目指している金井沢碑(上野三碑のひとつ)も、江戸時代に農家の洗濯石として使われていたというから、こういうことはよくあったのかもしれない。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

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安中市磯部の栄林山信照寺。

信照寺 (1)
信照寺 (2)
信照寺 (3)
信照寺は慶長4年(1599年)下曽根信正が養父・信照の菩提を弔うために創建したと伝わる。 *信正は信照の弟だが、信照の養子となっている。

下曽根氏は源清光(甲斐源氏の祖)の子である曽禰禅師厳尊を祖とする。しかしその血脈は室町中期に途絶え、武田信重(信玄の5代前)の子・賢信が曽禰氏を再興している。この際に下曽根氏となったといわれる。武田二十四将のひとり・曽根昌世はこの家系である。

信照は武田氏滅亡後徳川氏に仕え、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めでに参陣し、岩槻城攻めで討死している。後を継いだ信正はこの地(碓氷郡内)に1000石の知行を得ている。

信照寺 (4)
下曽根氏累代の墓。
右から信照、信由、信正、信具の墓。信由は信正の子、信具は信由の孫。

戦国末から江戸初期の当主のお墓を紹介したが、信照寺には下曽根氏23代のお墓がある。

信照寺 (5)
信照寺 (6)
境内の池には大きな鯉がたくさん泳いでいた。

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安中市磯部の大手拓次の墓。

大手拓次の墓
大手拓次は明治20年(1887年)、磯部温泉の旅館・蓬莱館に生まれる。早稲田大学在学中に詩の発表を始める。卒論は「私の象徴詩論」。

卒業後はサラリーマンと詩人の2足のわらじ生活を続ける。学生時代以来の左耳難聴や頭痛に悩まされ、その後もさまざまな病気で通院、入院を繰り返すなど健康状態は概して良くなく、最後は結核により昭和9年(1934年)46歳で死去。

生前に書かれた詩作品は2400近いが、詩集が発刊となったのはほとんどが死後である。「藍色の蟇」「蛇の花嫁」「異国の香」などの詩集(誌画集)がある。

墓地からほど近い磯部公園内には、拓次の詩碑がある。そこに刻まれているのは「陶器の鴉」である。(「磯部公園の歌詩碑」参照)

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安中市下後閑の威徳神社。

威徳神社 (1)
威徳神社 (2)
威徳神社の創建は、建治2年(1276年)に山麓の白梅が紅梅に一夜にして変じるという奇瑞が起き、その際に「北野天満宮を祀るべし」と信託を受けた童子が出現したことによる。ただ、社殿などが整備された応永2年(1395年)を創建としているようだ。

威徳神社 (3)
一の鳥居の両脇は緑に溢れていたが、梅の木だったのかもしれない。呑気に歩いていたので、気にもしなかった。

威徳神社 (4)
威徳神社 (5)
現在の社殿は井伊直孝が、大坂の陣に際して戦勝祈願を行い、武功を立てたお礼に寛永3年(1626年)に整備・造営している。その後も、明治まで井伊家から使者が派遣されてきていた。

明治に入り近隣の神社を合祀した際、直孝ゆかりの北野寺の山号から威徳神社と改称されている。(北野寺は「井伊直孝(井伊直政次男)からの書状 -北野寺-」参照)

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安中市下後閑の威徳山北野寺。

北野寺 (1)
北野寺 (2)
北野寺は永和元年(1375年)慶秀僧正が当地巡下の時、一寺を創建したのが始まりと伝わる。

北野寺 (3)
北野寺 (4)
仁王門は近年修復が行われているようだ。ただ仁王像は凛々しいのだが、目の辺りが朽ちかけており、ミイラを想像してしまう状況。

北野寺 (5)
北野寺 (6)
井伊直政の2男・直孝は、幼少時代に北野寺に預けられ、ここで養育されていた。直孝は徳川家康の裁定により慶長20年(1615年)彦根藩2代藩主となり、異母兄(長男)の直勝は安中藩の藩主となった。直勝が病弱であったためと伝えられている。

直孝は彦根藩主になるにおよんで、恩ある北野寺の堂宇を改築している。

北野寺所蔵文書
北野寺には直孝からの書簡や井伊家からの新年礼守賀状、井伊直弼(幕末の大老)からの賀状が残されている。(写真は安中市HPから)

直孝は3代将軍・家光の後見役(大政参与)に任じられ、これが後の大老職といわれる。また、4代将軍・家綱の元服では加冠を務め、宮参りからの帰りに井伊家屋敷に迎えるなど、幕政の中心で活躍した。

井伊直政の側室の子で、しかも次男という立場でありながら、家康を始め歴代将軍に重用された。このことから家康の「隠し子」ではないか? との噂がある。確かに、直政側室(直孝生母)の伊具氏については、その素性がよく分かっていない。

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安中市板鼻の岸丘山称名寺。

称名寺 (1)
称名寺 (2)
称名寺 (3)
称名寺は天徳元年(957年)慈彗大師の開山、徳定の開基と伝わる。

称名寺 (4)
称名寺 (5)
梵鐘は、元は称名寺の境内寺の泉徳寺の鐘であったが、明治初期に泉徳寺が廃寺となったので、称名寺に帰属している。地元の鋳物師・金井兵部重久の代表的な作品である。

撞座の連弁三鈷杵の特殊な組み合わせや文様下帯の蔓草模様が珍奇であるなど美術的な価値が高い。そのため、戦争中の供出を免れている。宝永5年(1708年)の銘がある。

称名寺 (6)
行ったときは彼岸花が満開だった。彼岸花はその名の通りお彼岸前後に開花する。確か、アルカロイド系の有毒植物だったと思うので、むやにみに触れたりすると吐き気や下痢を引き起こす場合がある。ひどい場合には麻痺して死に至ることもあるらしい。けっこう怖い花なんだね。

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安中市松井田町下増田の光輝山寶蔵寺。

宝蔵寺 (1)
寶蔵寺は仁寿2年(852年)に慈覚大師円仁により創建されたと伝わる。当時は増田山法蔵寺といった。文禄年間(1593~96年)に現在地に移転し、光輝山寶蔵寺となっている。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
大正13年(1924年)落雷により堂宇は全焼。現在の本堂は平成21年(2009年)の新築。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
六地蔵や聖観音が境内にある。

江戸時代末には寶蔵寺で寺子屋が開かれていたらしく、山村地域の重要な存在だったと考えられる。

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安中市松井田町上増田の龍峩山雲門寺。

雲門寺 (1)
雲門寺 (2)
雲門寺の由緒はよく分からなかった。

鐘楼門はなかなか良い雰囲気。白壁に囲まれているところも趣きを引き立てている。

雲門寺 (3)
雲門寺 (4)
鐘楼門は2階に登れるようになっており、鐘楼をまじかに見ることができる。

雲門寺 (5)
雲門寺 (6)
境内は緑の木々に覆われ、本堂の全景は撮れなかった。

雲門寺はきれいな庭園と山野草がたくさんあるお寺で、四季を通じて何がしかの花が咲いているらしい。ただ、さすがに厳冬期や真夏の一時期などは、その例外にあたるようだ。

行ったときはこの「一時期」にドンピシャで、何にもなかった。紫陽花がいくつか咲いてはいたのだが、もう旬も過ぎしなびた状態。よりによって・・・。

雲門寺の花としては、特に「セツブンソウ(節分草)」というのが有名らしく、開花の時期には多くの人が訪れるという。セツブンソウの開花時期はその名の通り旧暦の節分の頃らしい。

雲門寺 (7)
さっきも言った通り、季節的にまったく合わず・・・。

来年も行こうかな。良い花が咲いてる季節に。

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安中市岩井の冨光山常楽寺。

常楽寺 (1)
常楽寺 (2)
常楽寺 (3)
常楽寺の創建は不詳(は永禄年間(1558~70年)に火災に遭い古記録を焼失したため)。行基の開山との伝承がある。

山門、本堂とも最近の新築のようだ。

常楽寺 (4)
伊勢三郎義盛の墓。義盛は源義経・四天王のひとり。
側面に「正治元歳正月十三日」の銘があり、正治元年は1199年。義盛の没年は文治2年(1186年)とされているので、供養墓ということになる。

義盛の生涯については諸説あり事実はよく分からないが、「平治物語」では上野国で義経が宿泊した宿の息子としている。一般的には伊勢の在地武士とされるが、伊勢鈴鹿山の山賊で捕えられ松井田に流されていたという説もある。

このため、安中市には義盛に由来する場所がいくつかある。鷹巣神社のご祭神のひとりは義盛である。これは義盛を祀る取勝明神を合祀したためである。また同様に合祀された神明宮は伊勢殿と呼ばれていた。また市内板鼻には義盛の館跡といわれる場所もある。

ところで、供養墓の銘に「正治元歳正月十三日」とある。これは源頼朝の命日である。厳密には建久10年1月13日(正治になるのは4月27日以降)なのだが。

頼朝の命日に供養墓を建てたことになる。まあ、あてつけかな。ただ、元号を間違えていることから、この供養墓はその当時に建立されたものではない。

多分、明治に近い江戸時代ではないかな。いろんな書物を読める環境になっていたので、それを読んで触発された(と言うか義憤にでもかられた?)人が建てたといったところかな。

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安中市簗瀬の二子塚古墳。

簗瀬二子塚古墳 (1)
簗瀬二子塚古墳は、安中市域に初めて登場した大型前方後円墳で、古墳時代後期初頭(6世紀)の築造と考えられている。現在整備が進んでいるようで、古墳公園風になっている。(もしかして完成済み?)

簗瀬二子塚古墳 (2)
2段築造の前方後円墳で、全長約80m、後円部径約50m、高さ約8m、前方部幅約60m、高さ約7mの規模を誇る。周囲には2重の堀も確認されており、墓域は130mにもなる。

簗瀬二子塚古墳 (3)
簗瀬二子塚古墳 (4)
後円部南側に開口する石室。
天井石に亀裂が入っているため、残念ながら安全面から入れない。扉にボタンがついていて、押すと中の電気が付くようなのだが、扉のガラス部の汚れが酷く、中はまったくと言っていいほど見えない。

簗瀬二子塚古墳 (5)
簗瀬二子塚古墳 (6)
ということで、現地解説版などの写真で、その雰囲気を味わうしかない。石室の全長は11.54m、羨道長7.47m、玄室長4.07m。天上石には秋間石が使用され、碓氷川の河原石が使用されている壁石には赤色顔料(ベンガラ)が塗彩されている。

簗瀬二子塚古墳 (7)
後円部上にある「布多古塚碑」。
明治19年(1886年)に黒田という人物が建てたようなことが書いてあった。

すぐ西にある「簗瀬八幡平の首塚」に来たときは(2012年)、二子塚古墳は竹林に覆われて、素人目には墳丘もよく分からなかったような記憶がある。キレイになったもんだ。

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