Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市吉井町長根の医王山恩行寺。

恩行寺 (1)
恩行寺は堤宗重の開基で、創建は正和2年(1313年)である。応永10年(1403年)医王山恩行寺と改称。元亀元年(1570年)に長根城主・小幡縫殿介の援助により堂宇を改修している。

開基の堤宗重については一切不明。小幡縫殿介は年代的に小幡憲重あたりではないか?

恩行寺 (2)
現在の本堂は元禄4年(1691年)の建立。当然、改修が多々行われているが、平成に入ってから屋根の吹き替え、床・天井の張り替えを行っている。

恩行寺 (3)
恩行寺 (4)
境内の草木の中にお堂が見えたので覗いて見たら、座棺輿らしき物があった。座棺輿とは、土葬する際に座った姿勢で遺体を納め(座棺)、それを運ぶ輿のこと。土葬が行われなくなって久しいと思われ、お堂も草木に埋もれてしまっている。

恩行寺 (5)
恩行寺 (6)
本堂の南側にある峰薬師堂。名前の通り薬師如来が祀られていると思うが、残念ながら中は見えなかった。平成20年(2008年)に改築されている。

恩行寺 (7)
平成19年(2007年)開眼の「ながね観音」。

恩行寺の南側の山には恩行寺古墳がある。
(次回紹介予定)

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高崎市吉井町長根の長根城址。

長根城址 (1)
長根城は鏑川南の段丘端に築かれた長根氏の居城である。永禄年間(1558~70年)長根重清の築城とされる。

長根重清は児玉党・小幡氏の出で、関東管領上杉氏に従い、武田信玄の西上州侵攻後は武田氏に従っている。天正8年(1580年)の武田勝頼の膳城素肌攻めの際に討死している。
(膳城の素肌攻めは「武田勝頼の素肌攻め -膳城跡-」参照)

両側は墓地になっているが、この土壇は虎口の名残りではないだろうか。

長根城址 (2)
長根城址 (3)
本丸跡は畑になっている。往時は南から西にかけて堀が巡っていたらしい。

長根城址 (4)
長根城は天正18年(1590年)の北条氏滅亡時に廃城になったと推定されるが、その後本丸跡には光円寺が建立された。六地蔵はその名残か。

明治8年(1875年)から同42年(1909年)までは長根学校が置かれており、その後農地化が進んだと考えられる。

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高崎市倉渕町権田の岩窟観音。

岩窟観音 (1)
岩窟観音は熊谷次郎直実の愛馬・権田栗毛の母衣についていた金の観音像(一寸八分:約5cm)を胎内に奉蔵した観音像を祀る。

岩窟観音 (2)
岩窟観音 (3)
江戸時代末に建てられた観音堂があったが、平成12年(2000年)に背後の岩山が崩れ押しつぶされてしまった。
*幸いにも、観音像は無傷であった

お堂の彫刻類は旧お堂のものを一部再利用している。

岩窟観音 (4)
これ権田栗毛かな? なでているのは観音様??

岩窟観音 (5)
背後の岩山もコンクリートで補強された。

倉渕町には権田栗毛ゆかりの地がいくつかあるので、また行ってみよう。(今回の訪問時はまだ雪が残っていて、あまり回れなかった)

関連記事
 「伝・権田栗毛 終焉の地

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高崎市倉渕町三ノ倉の三倉山全透院。

全透院 (1)
全透院 (2)
全透院は延徳元年(1489年)木部新九郎の開基と伝わる。木部氏は応永(1394~1427年)から永正(1504~20年)の始めまで三ノ倉地方を支配していた。

その後、大戸(現、東吾妻町)を拠点とする浦野氏に支配が代わり、大永2年(1522年)に浦野重勝が堂宇を建立し、長年寺5世・紹舜を招き中興開基している。全透院は浦野重勝の法名「青霄院関翁全透居士」にちなんでいる。

全透院 (3)
全透院 (4)
重勝の子・重成、重次は武田氏に従い倉渕地方を支配している。そのためか、本堂の屋根には武田菱が掲げられている。(アップの写真を撮ってくるのを忘れた・・・)

全透院 (5)
本堂隣の地蔵堂。堂内には室町初期の造立と推定される延命地蔵像が安置されている。地蔵堂は全透院の前身の寺であったと考えられる。

全透院 (6)
墓地の入口にある閻魔大王と奪衣婆像。

全透院 (7)
全透院 (8)
全透院 (9)
境内には十三仏霊場があった。十三仏は冥界の審理に関わる13の仏で、13の追善供養を司る仏としても知られている。

ちなみに十三仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩。

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高崎市吉井町池の南高原1号古墳。

南高原1号古墳 (1)
南高原1号古墳 (2)
南高原1号古墳 (3)
南高原1号古墳は、元々吉井町神保にあった径17mの円墳。低い基壇を有する二段築成を呈している。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には葺石が残っていた。7世紀の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

南高原1号古墳 (4)
南高原1号古墳 (5)
石室は南側に開口する横穴式。石室全長は約8mで、石材は牛伏砂岩を用いている。

南高原1号古墳 (6)
南高原1号古墳 (7)
巨大な天井石。

発掘調査時、石室の天井石、奥壁、袖部を除く左右の側壁、羨道の左右側壁が残っていた。

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高崎市吉井町池の片山1号古墳。

片山1号古墳 (1)
片山1号古墳 (2)
片山1号古墳は、元々吉井町片山にあった径32.6mの円墳。周囲に巡る堀跡を含めると径約50mの規模を誇る。4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

主体部は8.8mの長大な粘土郭が確認されている。粘土郭中からは小型倣製の内行花文鏡の他、縦櫛、鉄剣、鉄鍬、鉄斧、勾玉などが出土している。

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高崎市吉井町東谷の舟石。

舟石 (1)
舟石 (2)
舟石は、多胡碑に刻まれている「羊」と考えられている羊太夫が、天から降りてきた時に乗ってきた船といわれている。

県道沿いの畑(道より少し高い)の端っこ、県道側に(ポツンと言うかデンッて言うか)ある。舟石の周りは同様の巨石はなく、確かに意味深な状況である。

舟石 (3)
舟石 (4)
全長3mくらい、高さ1.5mくらい(いずれも目測)。ただ、上部がえぐれてはいない。羊太夫の時代からは既に約1300年も経っているから、長い年月で土砂などで埋まったとも考えられるけどね。

天から降りてくるのに石の船に乗ってきたら、「降りる」ではなく「落ちる」じゃないか、などと無粋なことを言ってはいけない(笑)。

羊太夫に関してはよく分かっていないというというのが本当のところ。オレも知識はあまりないので、下記に関羊太夫に関係する過去記事を載せておくので、興味があったらどうぞ。

過去記事
 「昔を語る多胡の古碑
 「藤岡市・七輿山古墳
 「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
 「舟形石棺が保存されている -宗永寺-
 「羊太夫を祀る -羊神社-
 「中臣羽鳥連の墓 -釈迦尊寺-
 「羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-

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高崎市金古町の愛宕山古墳。

金古愛宕山古墳 (1)
金古愛宕山古墳は径約30m、高さ3mの円墳で、古墳時代後期の6世紀末から7世紀前半に築造されたと推定される。

金古愛宕山古墳 (9)
金古愛宕山古墳 (2)
金古愛宕山古墳 (3)
墳丘上には愛宕神社が鎮座している。

金古愛宕山古墳 (4)
石室は南東に開口している。入口付近は左にカーブしており、石積みも含めて後世の手が加わっているようだ。

金古愛宕山古墳 (5)
金古愛宕山古墳 (6)
石室は自然石の乱石積手法を用いた横穴式両袖型で、全長9m、玄室長3.2m、最大幅2.1m、高さ2.3mという規模を誇る。

金古愛宕山古墳 (7)
金古愛宕山古墳 (8)
石室の天井石は巨大。巨石を積上げる技術はすごい。

金古地区北西部の牛池川、染谷川流域には、昭和10年(1935年)の調査で111基の古墳があったと報告されているが、愛宕山古墳はその中で最も保存状態の良いものとして貴重である。

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高崎市吉井町馬庭の御穴塚古墳。

御穴塚古墳 (1)
御穴塚古墳 (2)
御穴塚古墳は径約10m、高さ3.4mの円墳である。馬庭飯玉神社の社殿裏(北側)にあり、その社殿により墳丘はかなり削られている。(「高崎市吉井町・馬庭飯玉神社」参照)

御穴塚古墳 (3)
御穴塚古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口しているが、羨道などは失われている。奥壁と天井石は巨石を使用している。

御穴塚古墳 (5)
墳丘もかなり削られていると思われ、天井石が露出している。

石室内には葺き替えた(?)飯玉神社の瓦が置かれていた。ちょっとした物置になっている(笑)。

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高崎市吉井町馬庭の疋田山随雲寺。

随雲寺 (1)
随雲寺 (2)
随雲寺の創建は不明だが、文禄4年(1595年)に馬庭飯玉神社の別当寺となり、当地(馬庭飯玉神社の境内)に移っている。(「高崎市吉井町・馬庭飯玉神社」参照)

随雲寺 (3)
写真では見ずらいが、本堂のガラス戸には新田氏の大中黒の家紋が描かれている。

明治期の神仏分離により、飯玉神社境内の分割を受けている。

随雲寺には羊太夫にまつわる伝説がある。羊太夫が毎日奈良まで朝参するのに乗っていた龍馬(権田栗毛)が雲に乗って去った場所といわれる。随雲寺が現在地に移ってくる前の場所は不明だが、羊太夫と関係があるならば、創建は奈良時代の670~80年ということになる??

馬庭地区内には龍馬が倒れた場所に龍馬観音があり、堂内には八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあるという。場所を調べて行ってみようかな。

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高崎市吉井町馬庭の飯玉神社

飯玉神社 (1)
馬庭飯玉神社の創建は不明だが、神紋が大中黒のため新田氏が栄えた時代に創建されたと推測される。鎌倉時代と考えるのが妥当かな。

飯玉神社 (2)
飯玉神社 (3)
弘治年間(1555~58年)に、馬庭豊前守重直が社殿を再建したといわれる。馬庭重直はよく分からないが、総社長尾氏(顕方)に仕えていたようだ。ちなみに、馬庭念流道場付近は馬庭氏の居城跡といわれている。(「高崎市吉井町・馬庭念流道場」参照)

現在の社殿は昭和35年(1960年)の再建であるが、外観は比較的新しいようなので、適宜補修が行われてきたようだ。

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高崎市吉井町吉井の吉井藩陣屋跡。

吉井藩陣屋跡 (1)
吉井藩陣屋跡 (2)
吉井藩陣屋は宝暦2年(1752年)鷹司松平家3代藩主・信有が矢田から吉井へ移し構えたもの。藩主は代々江戸定府のため、陣屋といっても代官を置く程度の規模であった。

写真は陣屋の西南の隅にあった春日社跡。鷹司松平家の氏神・春日神社を寛政3年(1791年)に京都より勧請したもの。

吉井藩陣屋跡 (3)
吉井藩陣屋跡 (4)
春日社跡には、皇太后、皇后の御駐輦碑(建立大正10年:1921年)と吉井藩治址碑(建立大正4年:1917年)が建っている。

皇太后、皇后の御駐輦碑は、明治6年(1873年)に、昭憲皇后(明治天皇妃)が明治天皇のご生母で孝明天皇妃の英照皇太后と一緒に、官営・富岡製紙へ行啓された際、休憩されたことを記念する碑。

陣屋は明治4年(1871年)の廃藩置県により解体、春日神社も明治末に吉井八幡宮に合祀された。(吉井八幡宮は「吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-」参照)

なお、陣屋表門は吉井文化会館脇に移築・復元されている。
(「吉井藩陣屋の表門」参照)

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高崎市吉井町吉井の八幡宮。

吉井八幡宮 (1)
吉井八幡宮 (2)
吉井八幡宮は、天正18年(1590年)吉井2万石に封じられた菅沼定利が自らの氏神「乾」八幡を祀たものといわれる。明治末には吉井藩陣屋内にあった春日社が合祀されている。

吉井八幡宮 (3)
吉井八幡宮 (4)
東向きに拝殿・幣殿、その奥に本殿(木造板葺高床一間社流れ権現造り)が鎮座する。本殿は高崎鍛冶町の彫り物師勘蔵が弘化5年(1848年)に造作した。総檜造り木組みと彫刻は精緻で、建築構造上きわめて貴重である。

吉井八幡宮 (5)
本殿を覆屋のガラス越しに覗いて見たが、あまり見えない。ちょっと残念。

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高崎市足門町の市立群馬図書館に福田赳夫元首相の銅像がある。

福田赳夫像
調べたんだけど、いつ建てられたかなどの由緒は分からず。群馬図書館の隣には、市民活動センターと群馬児童館があるが、ここは旧群馬町中央中の跡地らしい。

実物を見たときは、比較的似てるなと感じたんだけど、写真を見るとかなりイメージが違う。後ろの木や影の影響と思うが・・・。

関連
 「福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-

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高崎市吉井町馬庭の馬庭念流道場。

馬庭念流道場 (1)
馬庭念流道場 (2)
馬庭念流は樋口家17代当主・樋口定次が、友松氏宗より学んだ念流を元に確立した(定次は念流8世)。剣術を中心に長刀(薙刀)術、槍術も伝える古武道の流派。定次が馬庭に道場を開いたため、馬庭念流と呼ばれる。

相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされ、庶民の護身術として上州を中心に関東各地で広範囲に受け入れられたため、廃れずに今日まで続いている。

現存道場は念流20世定広の代、慶応3年(1867年)門人により建てられたものである。道場の名は傚士館(こうしかん)という。建屋は平屋瓦葺きで、建物は東(写真右側)より土間・門・板張りの道場・上段の間となっている。

太刀割石
山名八幡宮にある「太刀割石」。定次が枇杷(びわ)の木刀で割ったという伝説がある。

慶長5年(1600年)、定次は天真流・村上天流と試合をすることになり、必勝祈願のため山名八幡宮に参籠。21日目の満願の日、枇杷の木刀でこの石を断ち割ったと伝えられている。その後、烏川畔において天流を打ち破っている。

ちなみに、この枇杷の木刀は吉井町東谷・住吉神社境内の枇杷の木から作ったものという。

定次は天流との試合に勝った後、後を弟の頼次(念流9世)に譲り、自身は彦根の友松氏宗のもとに旅立った。その彦根で右京という者と闘い敗死したと樋口家の縁の松本家に伝わっている。

関連
 山名八幡宮 「山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
 住吉神社 「高崎市吉井町・住吉神社

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高崎市吉井町東谷の東谷渓谷。

東谷渓谷 (1)
東谷渓谷 (2)
前回の住吉神社の東側に大沢川が流れていて小さな渓谷を形成しており、東谷渓谷と呼ばれている。全長30mくらいの「淵」って感じだけど、遊歩道まで作ってあり意外と整備されている。(住吉神社は「高崎市吉井町・住吉神社 」参照)

東谷渓谷 (3)
東谷渓谷 (4)
対岸に向け橋が架けられており、そこに不動明王が祀られている。

東谷渓谷 (5)
東谷渓谷 (6)
渓谷の途中にゴミ止めがあるので、その下流の水は非常に綺麗だ。川底の小石まではっきり見える。

東谷渓谷は「利根川100景」に数えられているらしい(群馬県のHPに書いてあった)。ふぅ~ん・・・。

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高崎市吉井町東谷の住吉神社。

住吉神社 (1)
住吉神社 (2)
住吉神社の由緒は分からないが、境内にいくつかの神社と合併して(合祀)住吉神社になったようなことが書いた碑があった。ただ、よく読めなかったので、正確かどうかは??

住吉神社 (3)
住吉神社 (4)
田舎の神社(失礼!)にしては立派な社殿。拝殿は切妻で縦長。本殿は千鳥破風。

住吉神社 (5)
住吉神社 (6)
社殿奥に「住吉神社資料館」という建物があった。宝物庫兼祭具置き場といったところか。一般公開しているなら覗いてみたい。

ところで、馬庭念流8世・樋口定次が枇杷の木刀で岩を割ったという伝説があるが、その琵琶の木はこの住吉神社から切り出したといわれている。

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高崎市箕郷町矢原の卜神(ぼくしん)諏訪神社。

卜神諏訪神社 (1)
卜神諏訪神社 (2)
卜神諏訪神社は、鹿島新当流を開いた剣聖・塚原卜伝が、永禄3年(1560年)に勧請したと伝わる。当地は字卜神というが、地名がなんとなく卜伝を彷彿させる。

卜神諏訪神社 (3)
境内にある碑に上記由緒が書かれている。

卜神諏訪神社 (4)
卜神諏訪神社 (5)
ムラの神社って感じのこじんまりとした社殿。本殿は覆屋に覆われていて見ることはできない。

塚原卜伝は茨城県鹿島の出身で、後に塚原家の養子となっている。卜伝は実父からは鹿島古流を、義父からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。

なぜ塚原卜伝が群馬に?
卜伝は「廻国」という修行の旅に出ており、その3回目が弘治3年(1557年)から永禄9年(1566年)まで、伊勢、甲斐、上野、下野などを廻ったということなので、箕輪城下を訪れている可能性はあるけど・・・。

当時の箕輪城主・長野業正の家臣に新陰流を開く上泉信綱がおり、塚原卜伝の弟子とする説もある。

ちなみに、剣豪は宮本武蔵など数多くいるが、剣聖と呼ばれるのは塚原卜伝と上泉信綱の2人だけである。(宮本武蔵、伊藤一刀斎、柳生宗厳なども剣聖と呼ぶ場合もあるけど)

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高崎市吉井町長根の友儀山観蔵院地蔵寺。

折茂観蔵院 (1)
観蔵院の創建は不明だが、境内に残る延文年間(1356~60年)の板碑から、鎌倉時代には寺があったと推定される。(延文は北朝の年号、同時期の南朝年号は正平)

折茂観蔵院 (2)
折茂観蔵院 (3)
堂宇は正徳年間(1711~25年)に焼失し、現在は無住となっている。

折茂観蔵院 (4)
観蔵院には地蔵尊が安置されており、地域住民に信仰されていたということで、平成19年(2007年)に地蔵尊が建立されている。

折茂観蔵院 (5)
折茂観蔵院 (6)
板碑は高さ110cm、幅35cm、月輪径29cmの緑泥片岩製で延文3年(1358年)の銘が刻まれている。主尊の梵字金剛界大日如来の種子が月輪の中に力強く刻まれ、1行17字で5行85文字の長い銘文が記されている。

吉井町長根の折茂地区は、奈良時代の織裳郷の古名につながる地で、機織部(はたおりべ)が居住した地とされる。機織部は古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人のことで、観蔵院の近くには新羅系渡来人によって創建されたと伝わる辛科神社がある。
(「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-」参照)

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高崎市白岩町の白山神社。
白岩観音(長谷寺)の山門脇から、ほんのちょっと登ったところ。
(白岩観音は「白岩観音 -長谷寺-」参照)

白山神社 (1)
白山神社は白鳳年間に伊邪那美の神を祭神として創建されたという。この白鳳は私年号で日本書紀に現れない年号。白雉(650~54年)の美称ともいわれる。また661~83年や672~85年の期間を指すものもある。

白山神社 (2)
白山神社 (3)
白山神社 (4)
現在の社殿は明治14年(1881年)の建立。

白山神社 (5)
羊に乗ったカワイイ巫女さんが描かれた絵馬。萌え系と言うのかな?白山神社の絵馬やステッカーはこんならしい。どうやら初詣期間(1月1日~3日)に先着でもらえるらしい。絵馬は特別祈願(1000円)をした200名、ステッカーは無料で200名。

数年前から作成しているらしく、一昨年(巳年)、昨年(午年)のものはネットで確認できた。素直に「カワイイ!」。来年初詣に行ってみようかなぁ、なんて思ってしまった・・・。

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高崎市箕郷町生原の満行山善龍寺。
善龍寺には内藤昌豊・昌月父子の墓(内藤塚)がある。
(「内藤塚 -善龍寺-」参照)

長野吉業の墓 (1)
長野吉業の墓 (2)
本堂裏にある長野吉業(よしなり)とその長子・福田五郎左衛門の墓。
(写真右が吉業、左が五郎左衛門の墓)
吉業は箕輪城主・業正の長男といわれている。箕輪城落城時の城主・業盛は吉業の弟。

一般的には、吉業は天文15年(1546年)の河越夜戦の傷が元で16歳の若さで死去したといわれている。当然、男の子はいない。ところが、善龍寺の解説板では永禄6年(1563年)に武田軍との戦いで吉業、五郎左衛門ともども討死したとある。吉業38歳、五郎左衛門18歳。

なお、五郎左衛門は善龍寺の開基ということになっている。当時は神明山善龍寺。武田信玄の箕輪城攻めの際焼失し、その後内藤昌豊が再興した際、現在の満行山になったという。

まあ、通説とお寺の由緒が異なるということはよくあり、それぞれに謂れがあるので、あんまり気にしないけどね。

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高崎市箕郷町西明屋の箕輪山法峰寺。

法峰寺 (1)
法峰寺 (2)
法峰寺 (3)
法峰寺は天安2年(858年)慈覚大師円仁が開山と伝わる。本堂は昭和48年(1973年)に全焼、再建されている。

法峰寺 (4)
法峰寺 (5)
この辺りは箕輪城の水の手曲輪にあたる。城で使う水が湧き出していたところ。周囲の地形が「箕」のような形をしているので、箕輪の地名もここから起こったという。

法峰寺 (6)
境内の湧水を利用して、参道脇に「蛍峰園」という蛍の飼育場が平成6年(1994年)に造られている。毎年7月には「みさとホタル祭」が開催され親子連れなどで賑わうという。

法峰寺 (7)
参道にある歌碑。「水汲みに行くのが地獄の一の木戸 行くとは見えて帰る人なし」。
武田信玄の箕輪城攻めの際、籠城した長野業盛派が水を汲みに行くのも命がけだったことを唄ったものかな。

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高崎市箕郷町柏木沢の蚕影碑。

柏木沢の蚕影碑 (1)
柏木沢の蚕影碑 (2)
明治20年(1887年)5月、60cmに及ぶ降雹があり、桑畑に大きな被害が出た。ちょうど養蚕期であったため蚕の飼育が困難となり、農家はやむを得ず丘に蚕を埋める苦渋の選択をした。蚕を葬った後には蚕影山大神を祀り、蚕の霊を慰めた。

蚕影碑は、このときの惨状を後世に伝えるため明治30年(1897年)に建てられている。養蚕が盛んな群馬らしい、蚕を祀る碑である。

それにしても雹が60cmも積もったとは驚きだ。

同様な碑
 「霜災懲毖之碑 -絹笠神社-

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高崎市箕郷町上芝の太田山金龍寺。

金龍寺 (1)
金龍寺 (2)
金龍寺 (3)
寺伝では、天正4年(1576年)に由良国繁が先祖供養のため創建したといわれる。

金龍寺 (4)
本堂には新田氏家紋・大中黒・新田一つ引が。由良氏(横瀬氏)は新田義貞3男・義宗の家系を自称していたため、新田一族ということになっている。

金龍寺 (5)
由良国繁の墓と伝わる石塔。国繁は下剋上で岩松氏から太田・金山城を奪った成繁の嫡男。

なんで、箕輪城下に太田・由良氏の創建寺があるのだろう。金龍寺創建年といわれる天正4年(1576年)は武田氏の勢力圏である。武田氏は天正3年(1575年)の長篠の戦で大敗したとはいえ、まだ西上州を勢力に入れていた。

ただ、箕輪城代であった内藤昌豊は長篠の戦で戦死しており、その養子である昌月が城代になったのは天正7年(1579年)なので、すきを狙って進出した??

由良氏が従っていた北条氏が箕輪城を手にするのは天正10年(1582年)なので、よく分かんない。

金龍寺 (6)
長野氏家老・町田兵庫助の顕彰碑。由良氏の建てた寺に長野氏の家老の碑がある。しかも顕彰碑。いつの建立か不明だが、ますます金龍寺の由緒が分からなくなった・・・。

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高崎市吉井町小暮の穴薬師。

小暮の穴薬師 (1)
小暮の穴薬師 (2)
小暮の穴薬師は、鏑川左岸に切り立った南向き急斜面の中腹に横穴墓が掘られている。横穴墓じたいは7世紀後半から8世紀初頭の掘削と推定される。

小暮の穴薬師 (3)
小暮の穴薬師 (4)
横穴墓の大きさは全長2.5mほどで、平面形態は基本的に隅丸台形である。天井は「かまぼこなり」を呈すド-ム状で、奥壁は半円形である。かつては、横穴中に鎌倉期の作と考えられる薬師如来石像があったという。

小暮の穴薬師 (5)
小暮の穴薬師 (6)
横穴墓の両側には磨崖仏が彫られているが、風化が激しく進んでいる。左側(写真上)はもう石仏に見えない。右側(写真下)はかろうじて石仏には見えるが像種は分からない。それ以上に顔が怖い!

高崎市のHPによると、昭和52年(1977年)の調査で完全な横穴墓3基と崩落した横穴墓5基が確認されたとあるので、もうちょっと奥に進めばあと何基か見られたのかもしれない。

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高崎市吉井町矢田の石造地蔵菩薩坐像。

石造地蔵菩薩坐像 (1)
石造地蔵菩薩坐像 (2)
前回の天久沢観音堂境内にある石造地蔵菩薩坐像。この地蔵菩薩像は矢田字夜明地区内にあったものを、昭和60年(1985年)に当地へ移設し覆屋を設置したもの。地元では「夜明の薬師」と言われていたが、像容から地蔵菩薩である。

像容は頭が僧形で、手は秘印を結んだ通肩厚肉彫りである。首には三道があり、肩はなで肩で、光背は桃形である。総高86cm、総幅56cm、像高58cm、像幅45cmで、製作年代は南北朝末期で、石材は牛伏砂岩を使用している。

案内板に覆屋ってあったので、どれ?って思っってしまった。これだと風雨は殆どしのげないような気がするので、風化が心配される。

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高崎市吉井町矢田の天久沢観音堂。

天久沢観音堂 (1)
永禄6年(1563年)武田信玄が西上州攻略の際に築いた陣城跡。現在は天久沢公園として遊具なども整備され、地元の方々の憩いの場所になっている。

天久沢観音堂 (2)
天久沢観音堂 (3)
天久沢観音堂 (4)
この陣城に滞在中に、信玄の愛馬・天久(あまく)が死んだので、陣城内に天久を葬り馬頭観音を祀った。

天久沢観音堂 (5)
観音堂横には、地元の小学生が描いたと思われる馬(天久?)の絵が奉納されていた。

天久沢観音堂 (6)
観音堂内の天井には、まだ新しいと思われる天井絵が飾られている。素朴な感じなので、これも地元の方々の筆かな?

天久沢観音堂 (7)
天久沢観音堂 (8)
天久沢観音堂 (9)
陣城跡には楕円形の馬場が整備されており、3月18日(天久の命日?)には神事として神馬を走らせたり、草競馬などが催されていた。(明治から昭和初期の頃)
戦後になると馬の飼育農家がなくなったため、草競馬などの催しはなくなったという。

馬場跡は現在散歩コースになっており、この時期は桜吹雪の中を歩くことができる。1周だけ歩いてみたけど気持ち良かった。

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高崎市榛名湖町の榛名富士。

榛名富士 (1)
榛名山のほぼ中央に位置する火口丘である榛名富士。標高1391m。榛名山を構成する峰の中で榛名富士が最も高いのかと思っていたけど、掃部ヶ岳(標高1449m)が1番高いと今さらながらに知った。

榛名富士 (2)
榛名富士 (3)
上毛かるた紀行で榛名湖周辺に来たときは登らなかった榛名富士へ今回は登ってみた。もちろんロープウェイで。(「登る榛名のキャンプ村」参照)

30分間隔くらいで運航しているようだ。無計画で乗り場に行ったのでしばし待つ。運賃は往復で840円。ロープウェイはけっこう早く、3分くらいで頂上へ着く。

榛名富士 (4)
この日は曇りだったので、展望台からの景色もいまいち。(下界は晴れていたのに・・・)
案内板だと富士山やスカイツリーが見えるとあったが、写真のように前橋市街地も良く見えず。残念。

榛名富士山神社 (1)
山頂駅前の広場には小さな祠がある。榛名富士山神社の遙拝所のようだ。

榛名富士山神社 (2)
榛名富士山神社 (3)
榛名富士山神社 (4)
山頂駅から数分登った榛名富士の頂上にある榛名富士山神社本殿。富士山とよく似ており、榛名富士と呼ばれていることから浅間神社と同じ木花開耶姫が祀られている。

榛名富士山神社の由緒は不明のようだが、現在は榛名神社の末社となっている。明治時代には社があり自然石がご神体として祀られていたようだが、昭和33年(1958年)のロープウェイ開設時には、その残骸もなかったという。現在の社殿は昭和39年(1964年)の再建。

大昔の記憶をたどると、小学4年生のバス旅行が榛名山で、その時榛名富士の登ったような気がする。多分それ以来だと思うので、何年ぶりだ??

あと、今回ロープウェイでどこかの幼稚園のみんなと一緒になった。ゴンドラにオレ以外はすべて幼稚園児(+先生)という状況だった。たった数分だけど、いろいろ話をしてもらって嬉しかった(^0^)。

遊覧船
遊覧船にも乗ってくればよかったと、ちょっと後悔。次回(あるか分からないけど)の楽しみということで。

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高崎市榛名湖町の榛名公園ビジターセンター。

榛名ビジターセンター (1)
榛名公園ビジターセンターは、動植物や地質の面から、榛名山の成り立ちや現在の様子を知ることができる施設。展示スペースは広くはないが、ちょっとした展示物がある。

榛名ビジターセンター (2)
榛名ビジターセンター (3)
榛名ビジターセンター (4)
榛名ビジターセンター (5)
榛名ビジターセンター (6)
やっぱりクマが目立つね。

榛名ビジターセンター (7)
売店(ロッジ)が併設されていて、軽食を取れお土産も買える。ロッジの目の前は榛名湖。景観は非常に良い。

この日もロッジにはそれなりに人がいたが、展示を見てる人はいなかった。まあ、こういう展示を見る人は少ないのでしょうがないか。

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以前紹介した、高崎市下室田町の室田山長年寺。
(「長野氏累代の墓 -長年寺-」参照)

前回、榛名湖畔の御沼オカミ神社の記事で木部姫伝説を紹介したが、ここにも木部姫伝説が残っている。(「木部姫伝説 -御沼オカミ神社-」参照)

長年寺2 (1)
長年寺2 (2)
この井戸は、木部姫が箕輪城から落ち延び榛名山(榛名湖)方面へ向かう際、手足を洗ったといわれるもの。「手洗いの井戸」「化粧の井戸」などと呼ばれている。(榛名山への参拝バージョンでも同様)

長年寺2 (3)
さらに、後日譚あり。
ある雨の晩、住職のところへ美しい娘が訪ねて来て、「血脈譜(家系図)が欲しい」と泣きながら願った。だが住職は、襖に映る女の影が蛇の姿だっためこれを拒んだ。すると女は、自分は木部姫であること、榛名湖に入り大蛇になったなどと素性を明かした。そのため住職が血脈譜を渡した。女は喜び、厚く礼を言って立ち去ったという。後に寺の境内に、清水が湧出したという。これが、この井戸は、榛名湖とつながっているという伝説になった。

さらに、木部姫の母(長野業正の娘)が、榛名山へ参拝した折、龍神の子を懐妊し、それが木部姫だというのもある。そうすると、大蛇になった木部姫が、自分のルーツを確認するために血脈譜を欲しがったとつながる。

だったら、こちらのバージョンでも木部姫は龍になった方がすっきりするけど・・・。

まとめると、
木部姫=長野業正の娘→龍、木部姫=長野業正の娘の娘→大蛇というパターン。
どちらも腰元は蟹。
大蛇バージョンでは血脈譜入手→実は業正の娘が龍神の子を宿す。これが木部姫。

榛名湖にはもともと、龍神が棲むというのと大蛇が棲むという2パターンの伝説があり、これと木部姫伝説が微妙につながり、微妙に違う伝説がいくつか残ったということかな。

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