Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市箕郷町東明屋の育王山萬松寺。

萬松寺 (1)
萬松寺 (2)
萬松寺 (3)
萬松寺は大永年間(1521~27年)井伊直政の伯母・恵徳院の開基、大光普照禅師の開山と伝わる。恵徳院の没年は大永元年(1521年)とされているので、大永元年の創建か?

萬松寺 (4)
萬松寺 (5)
本堂は平成14年(2002年)の新築。

萬松寺 (6)
萬松寺 (7)
境内の如意輪堂。如意輪観音が祀られているのだろうが、中は覗けなかった。

萬松寺 (8)
なぜか六地蔵がヘルメットを被っている(笑)。なんとなくかわいく見えるから不思議だ。

井伊直政が恵徳院の菩提を弔うために創建した恵徳寺は、直政の高崎転封の際に市内に移っている。恵徳寺と萬松寺の関係性は、あるのかないのかも含め、知識がなく分からない。
(「井伊直政の伯母のお寺 -恵徳寺-」参照)

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高崎市箕郷町西明屋の青龍山松山寺。

松山寺 (1)
松山寺 (2)
松山寺 (3)
松山寺の由緒は調べたが分からなかった。

松山寺 (4)
松山寺 (5)
梵鐘は享保12年(1727年)、代官・下田理左衛門が鋳造し松山寺に寄進したものである。しかし延亨元年(1745年)火災により鳥有(うゆう)に帰す。その後、理左衛門の孫・理太夫政廣が天明3年(1783年)に改鋳している。戦時中も供出を免れている。

下田家はもともと長野氏の家臣(家老とも)。武田信玄の箕輪城攻めの際に時の当主・正勝は長野業盛とともに討死し、下田家は当地に土着している。その後、天和2年(1682年)に白岩、富岡、西明屋など近郷7村が安房勝山藩(酒井氏)の所領となり陣屋が置かれ、下田家(正勝子孫)が代官となっている。

下田家の屋敷のうち書院と庭園が残っており、庭園は赤穂浪士・堀部安兵衛が設計・築造したといわれている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市下室田町の大森神社。

大森神社 (1)
大森神社 (2)
弘仁6年(815年)に上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行が領地を見廻った際、既に祠が祀られていたという。それが「大森渓の日影の社」で、大森神社の前身といわれる。

ちなみに、群馬大夫満行の8男・八郎満胤を祀っているのが、伊勢崎の八郎神社である。
(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社」参照)

大森神社 (3)
大森神社 (4)
拝殿は宝暦9年(1759年)の造営で、明治35年(1902年)に再建。昭和7年(1932年)に改築されている。

拝殿前に狛犬のようなものがあったが、見ると「果売箱」とある。なんと、中国の「ゴミ箱」ではないか!中国の観光地などに、オブジェを兼ねてよく置いてある。

宮司さんは「ゴミ箱」だと知って置いているのだろうか? 中国出身者の寄付? それにしても・・・。

大森神社 (5)
大森神社 (6)
大森神社 (7)
本殿も昭和7年(1932年)に改築されている。

大森神社 (8)
境内摂社の金鑽神社。ここにも「果売箱」が置かれていた・・・。

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高崎市中室田町大久保の岩井堂。

岩井堂の石幢 (1)
岩井堂は永禄年間(1558~70年)石井讃岐守の発願で、長年寺7世・天産受蓮を招いて開創。上野国観音霊場の第22番札所になっている。

ちなみに石井讃岐守(石井信房)は里見義堯と長野業政の娘との間の子。業政の養子になったとされる。当時は室田鷹留城主で、永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、鷹留城も落城。石井讃岐守も討死したとされる(諸説有り)。

岩井堂の石幢 (2)
お堂は後ろの崖をえぐるように建っており、平成5年(1993年)に改修されている。中を覗いてみたけど、観音様は見えなかった。改修の際、仏像や墨書された板などが多数確認され、特に秩父34霊場に関わる観音像が8体発見されている。当時は34体あったと思われる。

岩井堂の石幢 (3)
お堂の石段下には石幢があり、竿石には文明4年(1472年)の銘がある。残念ながら龕部は失われているが、輪廻車のはめ込まれていた穴は残っている。高崎市の重文に指定されている。

岩井堂の創建と石幢の造立年が合わないことから、岩井堂自体の開創がもっと古い可能性もある。

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高崎市倉渕町三ノ倉の石上神社。

倉渕・石上神社 (1)
石上神社の創建は不明だが、奈良山辺郡の石上神宮の分霊を勧請したもの。平安時代に編纂された上野国神名帳に「従四位 石神明神」が見える。

倉渕・石上神社 (2)
倉渕・石上神社 (3)
拝殿の中に本殿が鎮座している。

石上神宮は古代の豪族・物部氏の氏神社であることから、当社も物部氏との関係が想像できる。上野国の物部氏は、上毛野国を治めた上毛野国に従い大和地方から移住してきたといわれる。後に石上朝臣となり石上部の君を名乗っている。
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高崎市倉渕町三ノ倉の榛名山座主の森。

榛名山座主の森 (1)
榛名山座主の森 (2)
榛名山座主の森は榛名山座主・快尊、忠尊、快承の墓といわれる。森という名称だが、円墳のような形状である。昔は鬱蒼とした森の中にあったのかもしれない。

座主とは一般的に天台宗のトップをことを言うが、住職の最上位職の別称でもある。榛名山座主とは、榛名神社の僧職の最高位のこと。神社の僧職というとおかしく感じるが、榛名神社(に限らないが)は古くから神仏習合が定着し、山中には9世紀ごろの僧坊とされる巌山遺跡もある。(神社から仏教が排除されたのは、明治の神仏分離以降のこと)

榛名山座主は藤原道長の子孫が代々受け継いだとされており、快尊は道長4代の孫・忠実の子孫といわれ、4代榛名山座主である。忠尊、快承は快尊の子。

快尊父子は榛名山執行職・頼印と座主の座を争い、烏川沿岸で敗死したしたという。快尊、忠尊は観応3年(1352年)、快承は文和2年(1353年)の死去。抗争に勝利した頼印は鎌倉公方の信任厚く、鶴岡八幡宮社家執事などを経て、応安4年(1371年)に榛名山座主に就いている。

快尊父子と頼印の争いは、榛名山の支配権をめぐる争いだが、当時の南北朝の代理戦争的な意味合いもあった。

榛名山座主の森 (3)
榛名山座主の森 (4)
鎌倉時代末と推定される多宝塔の残骸と2基の板碑などがある。板碑には元享2年(1321年)の銘が読み取れる。

それぞれが僧兵を指揮し争ったのだろうか? 権力争いはいつの時代も立場を超えて起こるものだ。

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高崎市下室田町の秀巌山大福寺。

大福寺 (1)
大福寺の創建年代は不詳だが、最澄が東国巡錫のおり不動明王像を当地に堂を建立して安置したのが始まりと伝えられる。ちなみに、最澄の東国巡錫は弘仁6年(815年)からとされている。

大福寺 (2)
大福寺 (3)
現在の本堂は享和2年(1802年)建立と伝わる。

滝不動 (1)
滝不動 (2)
滝不動 (3)
滝不動 (4)
大福寺から数Km離れたところにある滝不動。大福寺の境外仏堂という位置づけになる。住所は高崎市中室田町になる。

不動堂は明和4年(1767年)に室田村の名工・清水谷仁右衛門、藤原貞宴による作と伝わる。

滝不動 (5)
最澄が手にしていた法具「独鈷(とくこ)」を近くの岩に投げつけたところ、そこから清泉が湧きだしたといわれる。これよりこの泉を「独鈷泉」と言う。但し、写真が「独鈷泉」かというと分からない。他に泉っぽいのはなかったけど・・・。鯉が泳いていて、池かなぁ~。

滝不動 (6)
滝不動 (7)
最澄が「滝に沐浴すれば総じて苦悩を洗い、去りて秘境の極に至ることこの清泉に勝るものなし」と言ったらしいが、不動明王が滝にうたれている。滝は人工みたいだけど。

上記写真以外にも不動明王がたくさん鎮座している。

滝不動 (8)
烏天狗顔。迦楼羅なのか?

滝不動 (9)
滝不動のすぐ前には烏川が流れている。のんびり眺めているのもいいかも。

古くから「室田之滝不動」として霊験があると広まり、江戸時代以降病気平癒を願う人の参拝が絶えないという。

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高崎市上里見町東間野の多胡神社。

多胡神社 (1)
多胡神社の創建は不明だが、羊太夫の流れをくむ多胡氏が当地に移り住み、先祖(羊太夫)を崇め祀ったといわれる。(羊太夫自身が落ち延びたとの伝承もある)

夏場の訪問のため雑草が生い茂り、参道(石段)がやっと見える程度。

多胡神社 (2)
鳥居はなく、神域を示すように竹竿に紙垂(しで)が垂らされている。

多胡神社 (3)
社殿は質素な造り。中を覗いたところ、明治13年(1880年)再建、平成17年(2005年)改修という文字が見えた(写真はうまく撮れなかった)。

多胡神社 (4)
多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(多胡碑?)。
寛延元年(1748年)の建立といわれるが、よく分からない。

ちょっと草がすごくて、近寄って碑文を読む元気もなかったが、安中市・羊神社の多胡碑と同様に見えた。
(「羊太夫を祀る -羊神社-」参照)

本家多胡碑(高崎市吉井町)はこちら。
(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

また、本家多胡碑のレプリカが辛科神社(高崎市吉井町)にある。
(「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-」参照)

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高崎市吉井町長根の恩行寺古墳。

恩行寺古墳 (1)
恩行寺古墳は鏑川右岸の上位段丘面の先端部に築かれた円墳で、墳丘径40m、高さ7mの規模を誇る。墳頂部には17mの平坦面を作っている。

恩行寺古墳 (2)
恩行寺古墳 (3)
墳丘外面には河原石を使用した葺石が確認されている。西から南側にかけて周堀の跡が残り、主体部は竪穴式と推定されるが、未調査のため埋葬施設や副葬品については不明である。

現地案内板には6世紀後半から7世紀前半の築造と書かれていたが、高崎市HPでは5世紀前半と書いてあった。時期が大きく違うが・・・。

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高崎市吉井町長根の医王山恩行寺。

恩行寺 (1)
恩行寺は堤宗重の開基で、創建は正和2年(1313年)である。応永10年(1403年)医王山恩行寺と改称。元亀元年(1570年)に長根城主・小幡縫殿介の援助により堂宇を改修している。

開基の堤宗重については一切不明。小幡縫殿介は年代的に小幡憲重あたりではないか?

恩行寺 (2)
現在の本堂は元禄4年(1691年)の建立。当然、改修が多々行われているが、平成に入ってから屋根の吹き替え、床・天井の張り替えを行っている。

恩行寺 (3)
恩行寺 (4)
境内の草木の中にお堂が見えたので覗いて見たら、座棺輿らしき物があった。座棺輿とは、土葬する際に座った姿勢で遺体を納め(座棺)、それを運ぶ輿のこと。土葬が行われなくなって久しいと思われ、お堂も草木に埋もれてしまっている。

恩行寺 (5)
恩行寺 (6)
本堂の南側にある峰薬師堂。名前の通り薬師如来が祀られていると思うが、残念ながら中は見えなかった。平成20年(2008年)に改築されている。

恩行寺 (7)
平成19年(2007年)開眼の「ながね観音」。

恩行寺の南側の山には恩行寺古墳がある。
(次回紹介予定)

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高崎市吉井町長根の長根城址。

長根城址 (1)
長根城は鏑川南の段丘端に築かれた長根氏の居城である。永禄年間(1558~70年)長根重清の築城とされる。

長根重清は児玉党・小幡氏の出で、関東管領上杉氏に従い、武田信玄の西上州侵攻後は武田氏に従っている。天正8年(1580年)の武田勝頼の膳城素肌攻めの際に討死している。
(膳城の素肌攻めは「武田勝頼の素肌攻め -膳城跡-」参照)

両側は墓地になっているが、この土壇は虎口の名残りではないだろうか。

長根城址 (2)
長根城址 (3)
本丸跡は畑になっている。往時は南から西にかけて堀が巡っていたらしい。

長根城址 (4)
長根城は天正18年(1590年)の北条氏滅亡時に廃城になったと推定されるが、その後本丸跡には光円寺が建立された。六地蔵はその名残か。

明治8年(1875年)から同42年(1909年)までは長根学校が置かれており、その後農地化が進んだと考えられる。

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高崎市倉渕町権田の岩窟観音。

岩窟観音 (1)
岩窟観音は熊谷次郎直実の愛馬・権田栗毛の母衣についていた金の観音像(一寸八分:約5cm)を胎内に奉蔵した観音像を祀る。

岩窟観音 (2)
岩窟観音 (3)
江戸時代末に建てられた観音堂があったが、平成12年(2000年)に背後の岩山が崩れ押しつぶされてしまった。
*幸いにも、観音像は無傷であった

お堂の彫刻類は旧お堂のものを一部再利用している。

岩窟観音 (4)
これ権田栗毛かな? なでているのは観音様??

岩窟観音 (5)
背後の岩山もコンクリートで補強された。

倉渕町には権田栗毛ゆかりの地がいくつかあるので、また行ってみよう。(今回の訪問時はまだ雪が残っていて、あまり回れなかった)

関連記事
 「伝・権田栗毛 終焉の地

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高崎市倉渕町三ノ倉の三倉山全透院。

全透院 (1)
全透院 (2)
全透院は延徳元年(1489年)木部新九郎の開基と伝わる。木部氏は応永(1394~1427年)から永正(1504~20年)の始めまで三ノ倉地方を支配していた。

その後、大戸(現、東吾妻町)を拠点とする浦野氏に支配が代わり、大永2年(1522年)に浦野重勝が堂宇を建立し、長年寺5世・紹舜を招き中興開基している。全透院は浦野重勝の法名「青霄院関翁全透居士」にちなんでいる。

全透院 (3)
全透院 (4)
重勝の子・重成、重次は武田氏に従い倉渕地方を支配している。そのためか、本堂の屋根には武田菱が掲げられている。(アップの写真を撮ってくるのを忘れた・・・)

全透院 (5)
本堂隣の地蔵堂。堂内には室町初期の造立と推定される延命地蔵像が安置されている。地蔵堂は全透院の前身の寺であったと考えられる。

全透院 (6)
墓地の入口にある閻魔大王と奪衣婆像。

全透院 (7)
全透院 (8)
全透院 (9)
境内には十三仏霊場があった。十三仏は冥界の審理に関わる13の仏で、13の追善供養を司る仏としても知られている。

ちなみに十三仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩。

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高崎市吉井町池の南高原1号古墳。

南高原1号古墳 (1)
南高原1号古墳 (2)
南高原1号古墳 (3)
南高原1号古墳は、元々吉井町神保にあった径17mの円墳。低い基壇を有する二段築成を呈している。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には葺石が残っていた。7世紀の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

南高原1号古墳 (4)
南高原1号古墳 (5)
石室は南側に開口する横穴式。石室全長は約8mで、石材は牛伏砂岩を用いている。

南高原1号古墳 (6)
南高原1号古墳 (7)
巨大な天井石。

発掘調査時、石室の天井石、奥壁、袖部を除く左右の側壁、羨道の左右側壁が残っていた。

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高崎市吉井町池の片山1号古墳。

片山1号古墳 (1)
片山1号古墳 (2)
片山1号古墳は、元々吉井町片山にあった径32.6mの円墳。周囲に巡る堀跡を含めると径約50mの規模を誇る。4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

主体部は8.8mの長大な粘土郭が確認されている。粘土郭中からは小型倣製の内行花文鏡の他、縦櫛、鉄剣、鉄鍬、鉄斧、勾玉などが出土している。

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高崎市吉井町東谷の舟石。

舟石 (1)
舟石 (2)
舟石は、多胡碑に刻まれている「羊」と考えられている羊太夫が、天から降りてきた時に乗ってきた船といわれている。

県道沿いの畑(道より少し高い)の端っこ、県道側に(ポツンと言うかデンッて言うか)ある。舟石の周りは同様の巨石はなく、確かに意味深な状況である。

舟石 (3)
舟石 (4)
全長3mくらい、高さ1.5mくらい(いずれも目測)。ただ、上部がえぐれてはいない。羊太夫の時代からは既に約1300年も経っているから、長い年月で土砂などで埋まったとも考えられるけどね。

天から降りてくるのに石の船に乗ってきたら、「降りる」ではなく「落ちる」じゃないか、などと無粋なことを言ってはいけない(笑)。

羊太夫に関してはよく分かっていないというというのが本当のところ。オレも知識はあまりないので、下記に関羊太夫に関係する過去記事を載せておくので、興味があったらどうぞ。

過去記事
 「昔を語る多胡の古碑
 「藤岡市・七輿山古墳
 「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
 「舟形石棺が保存されている -宗永寺-
 「羊太夫を祀る -羊神社-
 「中臣羽鳥連の墓 -釈迦尊寺-
 「羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-

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高崎市金古町の愛宕山古墳。

金古愛宕山古墳 (1)
金古愛宕山古墳は径約30m、高さ3mの円墳で、古墳時代後期の6世紀末から7世紀前半に築造されたと推定される。

金古愛宕山古墳 (9)
金古愛宕山古墳 (2)
金古愛宕山古墳 (3)
墳丘上には愛宕神社が鎮座している。

金古愛宕山古墳 (4)
石室は南東に開口している。入口付近は左にカーブしており、石積みも含めて後世の手が加わっているようだ。

金古愛宕山古墳 (5)
金古愛宕山古墳 (6)
石室は自然石の乱石積手法を用いた横穴式両袖型で、全長9m、玄室長3.2m、最大幅2.1m、高さ2.3mという規模を誇る。

金古愛宕山古墳 (7)
金古愛宕山古墳 (8)
石室の天井石は巨大。巨石を積上げる技術はすごい。

金古地区北西部の牛池川、染谷川流域には、昭和10年(1935年)の調査で111基の古墳があったと報告されているが、愛宕山古墳はその中で最も保存状態の良いものとして貴重である。

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高崎市吉井町馬庭の御穴塚古墳。

御穴塚古墳 (1)
御穴塚古墳 (2)
御穴塚古墳は径約10m、高さ3.4mの円墳である。馬庭飯玉神社の社殿裏(北側)にあり、その社殿により墳丘はかなり削られている。(「高崎市吉井町・馬庭飯玉神社」参照)

御穴塚古墳 (3)
御穴塚古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口しているが、羨道などは失われている。奥壁と天井石は巨石を使用している。

御穴塚古墳 (5)
墳丘もかなり削られていると思われ、天井石が露出している。

石室内には葺き替えた(?)飯玉神社の瓦が置かれていた。ちょっとした物置になっている(笑)。

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高崎市吉井町馬庭の疋田山随雲寺。

随雲寺 (1)
随雲寺 (2)
随雲寺の創建は不明だが、文禄4年(1595年)に馬庭飯玉神社の別当寺となり、当地(馬庭飯玉神社の境内)に移っている。(「高崎市吉井町・馬庭飯玉神社」参照)

随雲寺 (3)
写真では見ずらいが、本堂のガラス戸には新田氏の大中黒の家紋が描かれている。

明治期の神仏分離により、飯玉神社境内の分割を受けている。

随雲寺には羊太夫にまつわる伝説がある。羊太夫が毎日奈良まで朝参するのに乗っていた龍馬(権田栗毛)が雲に乗って去った場所といわれる。随雲寺が現在地に移ってくる前の場所は不明だが、羊太夫と関係があるならば、創建は奈良時代の670~80年ということになる??

馬庭地区内には龍馬が倒れた場所に龍馬観音があり、堂内には八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあるという。場所を調べて行ってみようかな。

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高崎市吉井町馬庭の飯玉神社

飯玉神社 (1)
馬庭飯玉神社の創建は不明だが、神紋が大中黒のため新田氏が栄えた時代に創建されたと推測される。鎌倉時代と考えるのが妥当かな。

飯玉神社 (2)
飯玉神社 (3)
弘治年間(1555~58年)に、馬庭豊前守重直が社殿を再建したといわれる。馬庭重直はよく分からないが、総社長尾氏(顕方)に仕えていたようだ。ちなみに、馬庭念流道場付近は馬庭氏の居城跡といわれている。(「高崎市吉井町・馬庭念流道場」参照)

現在の社殿は昭和35年(1960年)の再建であるが、外観は比較的新しいようなので、適宜補修が行われてきたようだ。

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高崎市吉井町吉井の吉井藩陣屋跡。

吉井藩陣屋跡 (1)
吉井藩陣屋跡 (2)
吉井藩陣屋は宝暦2年(1752年)鷹司松平家3代藩主・信有が矢田から吉井へ移し構えたもの。藩主は代々江戸定府のため、陣屋といっても代官を置く程度の規模であった。

写真は陣屋の西南の隅にあった春日社跡。鷹司松平家の氏神・春日神社を寛政3年(1791年)に京都より勧請したもの。

吉井藩陣屋跡 (3)
吉井藩陣屋跡 (4)
春日社跡には、皇太后、皇后の御駐輦碑(建立大正10年:1921年)と吉井藩治址碑(建立大正4年:1917年)が建っている。

皇太后、皇后の御駐輦碑は、明治6年(1873年)に、昭憲皇后(明治天皇妃)が明治天皇のご生母で孝明天皇妃の英照皇太后と一緒に、官営・富岡製紙へ行啓された際、休憩されたことを記念する碑。

陣屋は明治4年(1871年)の廃藩置県により解体、春日神社も明治末に吉井八幡宮に合祀された。(吉井八幡宮は「吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-」参照)

なお、陣屋表門は吉井文化会館脇に移築・復元されている。
(「吉井藩陣屋の表門」参照)

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高崎市吉井町吉井の八幡宮。

吉井八幡宮 (1)
吉井八幡宮 (2)
吉井八幡宮は、天正18年(1590年)吉井2万石に封じられた菅沼定利が自らの氏神「乾」八幡を祀ったものといわれる。明治41年(1908年)には吉井藩陣屋内にあった春日社が合祀されている。

吉井八幡宮 (3)
吉井八幡宮 (4)
東向きに社殿が鎮座する。弘化5年(1848年)の再建。

吉井八幡宮 (5)
本殿は高崎鍛冶町の彫り物師・勘蔵の作。総檜造り木組みと彫刻は精緻で、建築構造上きわめて貴重である。本殿を覆屋のガラス越しに覗いて見たが、あまり見えないのがちょっと残念。

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高崎市足門町の市立群馬図書館に福田赳夫元首相の銅像がある。

福田赳夫像
調べたんだけど、いつ建てられたかなどの由緒は分からず。群馬図書館の隣には、市民活動センターと群馬児童館があるが、ここは旧群馬町中央中の跡地らしい。

実物を見たときは、比較的似てるなと感じたんだけど、写真を見るとかなりイメージが違う。後ろの木や影の影響と思うが・・・。

関連
 「福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-

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高崎市吉井町馬庭の馬庭念流道場。

馬庭念流道場 (1)
馬庭念流道場 (2)
馬庭念流は樋口家17代当主・樋口定次が、友松氏宗より学んだ念流を元に確立した(定次は念流8世)。剣術を中心に長刀(薙刀)術、槍術も伝える古武道の流派。定次が馬庭に道場を開いたため、馬庭念流と呼ばれる。

相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされ、庶民の護身術として上州を中心に関東各地で広範囲に受け入れられたため、廃れずに今日まで続いている。

現存道場は念流20世定広の代、慶応3年(1867年)門人により建てられたものである。道場の名は傚士館(こうしかん)という。建屋は平屋瓦葺きで、建物は東(写真右側)より土間・門・板張りの道場・上段の間となっている。

太刀割石
山名八幡宮にある「太刀割石」。定次が枇杷(びわ)の木刀で割ったという伝説がある。

慶長5年(1600年)、定次は天真流・村上天流と試合をすることになり、必勝祈願のため山名八幡宮に参籠。21日目の満願の日、枇杷の木刀でこの石を断ち割ったと伝えられている。その後、烏川畔において天流を打ち破っている。

ちなみに、この枇杷の木刀は吉井町東谷・住吉神社境内の枇杷の木から作ったものという。

定次は天流との試合に勝った後、後を弟の頼次(念流9世)に譲り、自身は彦根の友松氏宗のもとに旅立った。その彦根で右京という者と闘い敗死したと樋口家の縁の松本家に伝わっている。

関連
 山名八幡宮 「山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
 住吉神社 「高崎市吉井町・住吉神社

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高崎市吉井町東谷の東谷渓谷。

東谷渓谷 (1)
東谷渓谷 (2)
前回の住吉神社の東側に大沢川が流れていて小さな渓谷を形成しており、東谷渓谷と呼ばれている。全長30mくらいの「淵」って感じだけど、遊歩道まで作ってあり意外と整備されている。(住吉神社は「高崎市吉井町・住吉神社 」参照)

東谷渓谷 (3)
東谷渓谷 (4)
対岸に向け橋が架けられており、そこに不動明王が祀られている。

東谷渓谷 (5)
東谷渓谷 (6)
渓谷の途中にゴミ止めがあるので、その下流の水は非常に綺麗だ。川底の小石まではっきり見える。

東谷渓谷は「利根川100景」に数えられているらしい(群馬県のHPに書いてあった)。ふぅ~ん・・・。

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高崎市吉井町東谷の住吉神社。

住吉神社 (1)
住吉神社 (2)
住吉神社の由緒は分からないが、境内にいくつかの神社と合併して(合祀)住吉神社になったようなことが書いた碑があった。ただ、よく読めなかったので、正確かどうかは??

住吉神社 (3)
住吉神社 (4)
田舎の神社(失礼!)にしては立派な社殿。拝殿は切妻で縦長。本殿は千鳥破風。

住吉神社 (5)
住吉神社 (6)
社殿奥に「住吉神社資料館」という建物があった。宝物庫兼祭具置き場といったところか。一般公開しているなら覗いてみたい。

ところで、馬庭念流8世・樋口定次が枇杷の木刀で岩を割ったという伝説があるが、その琵琶の木はこの住吉神社から切り出したといわれている。

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高崎市箕郷町矢原の卜神(ぼくしん)諏訪神社。

卜神諏訪神社 (1)
卜神諏訪神社 (2)
卜神諏訪神社は、鹿島新当流を開いた剣聖・塚原卜伝が、永禄3年(1560年)に勧請したと伝わる。当地は字卜神というが、地名がなんとなく卜伝を彷彿させる。

卜神諏訪神社 (3)
境内にある碑に上記由緒が書かれている。

卜神諏訪神社 (4)
卜神諏訪神社 (5)
ムラの神社って感じのこじんまりとした社殿。本殿は覆屋に覆われていて見ることはできない。

塚原卜伝は茨城県鹿島の出身で、後に塚原家の養子となっている。卜伝は実父からは鹿島古流を、義父からは天真正伝香取神道流をそれぞれ学んだ。

なぜ塚原卜伝が群馬に?
卜伝は「廻国」という修行の旅に出ており、その3回目が弘治3年(1557年)から永禄9年(1566年)まで、伊勢、甲斐、上野、下野などを廻ったということなので、箕輪城下を訪れている可能性はあるけど・・・。

当時の箕輪城主・長野業正の家臣に新陰流を開く上泉信綱がおり、塚原卜伝の弟子とする説もある。

ちなみに、剣豪は宮本武蔵など数多くいるが、剣聖と呼ばれるのは塚原卜伝と上泉信綱の2人だけである。(宮本武蔵、伊藤一刀斎、柳生宗厳なども剣聖と呼ぶ場合もあるけど)

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高崎市吉井町長根の友儀山観蔵院地蔵寺。

折茂観蔵院 (1)
観蔵院の創建は不明だが、境内に残る延文年間(1356~60年)の板碑から、鎌倉時代には寺があったと推定される。(延文は北朝の年号、同時期の南朝年号は正平)

折茂観蔵院 (2)
折茂観蔵院 (3)
堂宇は正徳年間(1711~25年)に焼失し、現在は無住となっている。

折茂観蔵院 (4)
観蔵院には地蔵尊が安置されており、地域住民に信仰されていたということで、平成19年(2007年)に地蔵尊が建立されている。

折茂観蔵院 (5)
折茂観蔵院 (6)
板碑は高さ110cm、幅35cm、月輪径29cmの緑泥片岩製で延文3年(1358年)の銘が刻まれている。主尊の梵字金剛界大日如来の種子が月輪の中に力強く刻まれ、1行17字で5行85文字の長い銘文が記されている。

吉井町長根の折茂地区は、奈良時代の織裳郷の古名につながる地で、機織部(はたおりべ)が居住した地とされる。機織部は古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人のことで、観蔵院の近くには新羅系渡来人によって創建されたと伝わる辛科神社がある。
(「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-」参照)

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高崎市白岩町の白山神社。
白岩観音(長谷寺)の山門脇から、ほんのちょっと登ったところ。
(白岩観音は「白岩観音 -長谷寺-」参照)

白山神社 (1)
白山神社は白鳳年間に伊邪那美の神を祭神として創建されたという。この白鳳は私年号で日本書紀に現れない年号。白雉(650~54年)の美称ともいわれる。また661~83年や672~85年の期間を指すものもある。

白山神社 (2)
白山神社 (3)
白山神社 (4)
現在の社殿は明治14年(1881年)の建立。

白山神社 (5)
羊に乗ったカワイイ巫女さんが描かれた絵馬。萌え系と言うのかな?白山神社の絵馬やステッカーはこんならしい。どうやら初詣期間(1月1日~3日)に先着でもらえるらしい。絵馬は特別祈願(1000円)をした200名、ステッカーは無料で200名。

数年前から作成しているらしく、一昨年(巳年)、昨年(午年)のものはネットで確認できた。素直に「カワイイ!」。来年初詣に行ってみようかなぁ、なんて思ってしまった・・・。

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高崎市箕郷町生原の満行山善龍寺。
善龍寺には内藤昌豊・昌月父子の墓(内藤塚)がある。
(「内藤塚 -善龍寺-」参照)

長野吉業の墓 (1)
長野吉業の墓 (2)
本堂裏にある長野吉業(よしなり)とその長子・福田五郎左衛門の墓。
(写真右が吉業、左が五郎左衛門の墓)
吉業は箕輪城主・業正の長男といわれている。箕輪城落城時の城主・業盛は吉業の弟。

一般的には、吉業は天文15年(1546年)の河越夜戦の傷が元で16歳の若さで死去したといわれている。当然、男の子はいない。ところが、善龍寺の解説板では永禄6年(1563年)に武田軍との戦いで吉業、五郎左衛門ともども討死したとある。吉業38歳、五郎左衛門18歳。

なお、五郎左衛門は善龍寺の開基ということになっている。当時は神明山善龍寺。武田信玄の箕輪城攻めの際焼失し、その後内藤昌豊が再興した際、現在の満行山になったという。

まあ、通説とお寺の由緒が異なるということはよくあり、それぞれに謂れがあるので、あんまり気にしないけどね。

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