Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市箕郷町和田山の極楽院跡。正式には和田山極楽院清涼寺。

極楽院跡 (1)
極楽院は箕輪城主・長野業正の開基、良雲法印の開山と伝わる。創建年は不詳だが、弘治から永禄4年(1555~1561年)あたりかな。永禄4年は業正の没年。その後、京都聖護院直系の関東における主要な修験道場となっている。

箕輪落城時、長野業盛(業正の嫡男)の一子・亀寿丸(2歳)が家臣とともに落ち延びて、極楽院に匿われたとされる。

極楽院跡 (2)
理由は不明だが明治6年(1873年)に廃寺になっている。年代的に廃仏毀釈の影響かな。不完全形だが、今も多くの宝塔などが残っている。五輪塔の中に康永3年(1344年)のものがあるので、極楽院創建以前からなにがしかの施設があったのではと思われる。

極楽院跡 (3)
極楽院跡 (4)
亀寿丸が極楽院に匿われているとの噂を聞いた信玄が極楽院を訪れた際、鞭として使っていた梅枝を地面に逆に挿したものが芽吹いたとされる「さかさ梅」。

根回り2mを超え(伝承通りなら樹齢は約450年になる)、紅を含んだ八重咲きの花はみな下を向いて咲くらしい。これは信玄に対応した良雲が「花は逆さに咲かせましょう」と、暗に亀寿丸は仏の道で生涯を終わらせることを約束したためとされる。

このためか、信玄は亀寿丸を見逃している。まあ「居場所は分かっているから、刃向かえばいつでも始末するぞ」との警告込みだろうが。後に信玄は極楽院に対して「安堵状」を発行し庇護している。

ちなみに、亀寿丸は後に出家して鎮良と名乗り極楽院2代目の院主となり、慶長12年(1607年)46歳で没したとされる。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時2歳だとすると、46歳ってのは合わないけど・・・。

関連
 「伝・長野業盛の墓

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高崎市箕郷町和田山の熊野神社。

和田山熊野神社 (1)
和田山熊野神社 (2)
和田山熊野神社は天正10年(1582年)に和田義盛の家臣・松本兵部の末裔である松本彦蔵が、鬼門守護のために創建したという。和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた有力御家人。

他説では、和田義盛の8男・義国の勧請という。義国は義盛が北条氏との争いで敗れた際、上野国に逃れてきたとされている。なお、上野国に逃れてきたのは6男・義信ともいわれる。こちらの説では、創建年代は鎌倉時代となる。

いずれにせよ、上野和田氏関係の創建である。
(「上野和田氏の館跡? -和田の館跡-」参照)

和田山熊野神社 (3)
和田山熊野神社 (4)
境内の馬頭観音像。詳細不明。

和田山熊野神社 (5)
和田山熊野神社 (6)
境内社の神明宮。ただ、木祠の中にご神体らしきものは見えない。

和田山熊野神社 (7)
和田山熊野神社 (8)
春日神社、稲荷神社、戸隠神社などの境内社、末社群。

和田氏は当地から赤坂(後の和田、現高崎)に移っているが、赤坂にも熊野神社(現在の高崎神社)を勧請している。熊野神が和田氏の氏神なのかな。

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高崎市箕郷町金敷平の大山祇神社。

大山祇神社 (1)
大山祇神社 (2)
金敷平大山祇神社の創建は不詳。ご祭神の大山津見神は「大山に鎮まる霊」で、山々を統括する神。金敷平地区は山あいなので、林業の安全と繁栄を願っての建立と考えられる。

鳥居は天明3年(1783年)建立。灯籠(半分しか写ってないけど)は明治5年(1872年)の奉納。

大山祇神社 (3)
大山祇神社 (4)
社殿の建立年などは不明。外観がまだ綺麗なので、近年の再建もしくは修築と思われる。

大山祇神社 (5)
大山祇神社 (6)
境内社の千勝神社。天保12年(1841年)の建立。余り聞かない名称なので、よく分からない。

大山祇神社 (7)
庚申塔2基は万延元年(1860年)と寛政年間(1789~1801年)の造立。右から2番目は馬頭観音で文化6年(1808年)の造立。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
明治27年(1894年)に合併された金敷平愛宕神社。金敷平愛宕神社の創建は不詳。

愛宕神社 (3)
大山祇神社の境内脇から山へ登っていくように参道がある。距離は長くないがけっこうな坂道。急坂以上に難渋したのが大量のクモの巣。例祭時くらしか訪れる人もいないのだろうけど。まあ地域の神社って、だいたいそんなもんだけど。

愛宕神社 (4)
石祠もちょっと崩れてしまっている。

金敷平愛宕神社はもともと当地にあったのか、合併で遷座してきたのかは分からない。

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高崎市箕郷町東明屋の諏訪神社。

東明屋諏訪神社 (1)
東明屋諏訪神社 (2)
東明屋諏訪神社の創建は不詳。箕輪城落城後に勧請されたと考えられているようだ。箕輪城落城は永禄9年(1566年)のこと。

一の鳥居の扁額は「満行宮」。満行権現は榛名神のことで、第2次大戦後に村内の榛名神社が合祀されているので、その鳥居かな。

東明屋諏訪神社 (3)
元はこちらが一の鳥居だったと思われる。扁額は「諏訪大明神」。扁額の写真は逆光で上手く撮れなかった。

東明屋諏訪神社 (4)
参道の灯籠は文久2年(1862年)石上寺住職の奉納。当社と石上寺の関係はよく分からないが、石上寺境内に創建されたといわれる石上神社も、大戦後に当社に合祀されている。

東明屋諏訪神社 (5)
東明屋諏訪神社 (6)
拝殿を覗くと、上に続く階段が見える。

東明屋諏訪神社 (7)
東明屋諏訪神社 (8)
拝殿・本殿は第2次大戦後の建立。本殿内宮は文政5年(1808年)の造営。軒札に「当国新井村 阿左見日向藤原光督」らの名前がある。

東明屋諏訪神社 (9)
東明屋諏訪神社 (10)
東明屋諏訪神社 (11)
拝殿左手の鳥居は境内社「天満宮」のもの。石祠が本殿横に鎮座する。

当社に合祀された榛名神社は天暦年間(947~57年)、石上神社は貞観16年(874年)の創建と伝えられる古社である。これらの神社の方が歴史が古いが、明治期に諏訪神社が村社になったことから、両社がこちらに合祀されたようだ。

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高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

高崎市箕郷町西明屋・東向八幡宮
堀部安兵衛築造の庭園? -妙福寺-
里見城の鬼門除け -城山稲荷神社-
高崎市吉井町・小野小町の休み石
高崎市吉井町多比良・西深沢の石造薬師如来坐像
高崎市吉井町・多比良古墳(諏訪前古墳)
新堀城主・多比良友定の創建 -多比良神社-
源義経・弁慶が参拝? -赤城若御子神社-
高崎市箕郷町・今宮八幡宮
高崎市箕郷町・向滝八幡宮
高崎市箕郷町・妙法山不動寺
義民・三木市右衛門の墓
高崎市吉井町・黒熊山延命寺
関東管領平井城の宝物城 -新堀城跡-
高崎市吉井町・瑠璃山普賢寺
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓
高崎市新町・藤木山龍光寺
高崎市新町・八坂神社
高崎市新町・笛木山専福寺
上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-
義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓
高崎市倉渕町・長井石器時代住居跡
高崎市上里見町・橋場の地蔵尊
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
高崎市・西間野(猿落し)の磨崖碑
井伊直政の伯母・恵徳院の開基? -萬松寺-
高崎市箕郷町・松山寺
果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-
高崎市中室田町・岩井堂
高崎市倉渕町・石上神社
高崎市倉渕町・榛名山座主の森
室田之滝不動 -高崎市室田・大福寺-
羊太夫を祀る その2 -多胡神社-
高崎市吉井町・恩行寺古墳
鎌倉時代の創建 -恩行寺-
長根氏の居城 -長根城址-
権田栗毛の観音像を祀る -岩窟観音-
大戸浦野氏の中興開基 -全透院-
高崎市吉井町・南高原1号古墳
高崎市吉井町・片山1号古墳
羊太夫が乗ってきた舟? -舟石-
高崎市・金古愛宕山古墳
高崎市吉井町・御穴塚古墳
羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-
高崎市吉井町・馬庭飯玉神社
吉井藩陣屋跡(春日社跡)
吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-
福田赳夫元首相の銅像
高崎市吉井町・馬庭念流道場
利根川100景 -東谷渓谷-
高崎市吉井町・住吉神社
剣聖・塚原卜伝の勧請? -卜神諏訪神社-
延文の板碑 -折茂観蔵院-
萌え系絵馬 -白山神社-
長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
箕輪城水の手曲輪 -法峰寺-
柏木沢の蚕影碑
由良国繁の墓? -箕郷町・金龍寺-
吉井町・小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-
榛名富士に登ったぞ! ロープウェイでだけど
榛名公園ビジターセンター
木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-
木部姫伝説 -御沼オカミ神社-
細川興秋の末裔・長岡家の供養施設 -弥勒寺-
日本三妙見 -妙見寺/妙見社-
木曽義仲の父・源義賢の館跡 -多胡館跡-
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
高崎市新町・神流川合戦の供養塔
土師清大夫の墓 -浄泉寺-
元禄と享保の石鳥居が保存されている -高崎市新町・諏訪神社-
小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-
遊女奉納の絵馬 -高崎市新町・八幡宮-
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓 -宝勝寺 その2-
小判供養塔 -宝勝寺-
高崎市新町・明治天皇行在所
遊女・於菊物語 -於菊稲荷神社-
福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-
高崎市榛名歴史民俗資料館
情緒のある佇まい -延命密院-
小串氏の墓所と南北朝時代の石仏 -地勝寺-
奥平氏発祥の地 -奥平神社-
多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
吉井藩代官・橳島家3代の墓 -法林寺-
菅沼定利の墓 -玄太寺-
県内屈指の大伽藍 -仁叟寺-
義民・白田六右衛門の顕彰碑 -龍源寺-
吉井・多胡薬師塚古墳
里見城址に行ってきた?? -里見城址-
里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-
里見義俊の菩提寺 -光明寺-
伝・権田栗毛 終焉の地
小栗上野介忠順 終焉の地  
井伊直政の開基 -龍門寺-
ちょっと荒れ過ぎ・・・ -石上寺-
石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-
立派な前方後円墳なんだけど・・・ -保渡田八幡塚古墳-
白岩観音 -長谷寺-
内藤塚 -善龍寺-
伝・長野業盛の墓
長野業盛の墓があるって聞いたけど・・・ -大円寺-
長野業正の墓 -長純寺-
長野氏累代の墓 -長年寺-
堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-
吉井藩陣屋の表門
吉井藩の歴史を勉強しました -吉井郷土資料館-
合併記念の碑だった -入野碑-
埋もれた名城 -箕輪城-
見晴らしはいいけど・・・ -吉井・牛伏山-
戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-
あれっ? 何でこんなに混んでるの? -榛名神社-
アララギ派って? -土屋文明記念文学館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-
小栗上野介の墓 -東善寺-

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高崎市箕郷町西明屋の東向八幡宮。

東向八幡宮 (1)
東向八幡宮 (2)
東向八幡宮は文明6年(1474年)に箕輪城主・長野尚業が石清八幡宮の分霊を勧請し創建、箕輪城の総鎮守とした。有名な業正は尚業の孫に当たる。

徳川家康の関東移封後、井伊直政が箕輪城主になったが、慶長3年(1598年)に高崎に移ったため社殿は荒廃。元禄5年(1692年)に勝山藩主・酒井安芸守隼人正が社殿を造営している。(当時、安房勝山藩の飛び地領になっていた)

酒井安芸守が重病に罹った際、夢枕に「領内に東向八幡あり。我に祈願すれば必ず平癒する」とのお告げがあり、当社に平癒祈願をしたところ快癒したといわれる。以来、東向八幡宮と呼ばれるようになった。

東向八幡宮 (3)
東向八幡宮 (4)
現在の社殿は寛政元年(1789年)の再造営。最近では昭和42年(1967年)に修復されている。

東向八幡宮 (5)
東向八幡宮 (6)
本殿は昭和29年(1954年)に修復されている。彫刻も施され荘厳な佇まいを醸している。

東向八幡宮 (7)
東向八幡宮 (8)
本殿横に石幢がある。総高222cmで十三仏が浮彫りされている。文明6年(1474年)の銘があり、八幡宮創建時のものとされる。十三仏の彫刻入石幢は珍しい(六地蔵はなどが多い)。

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高崎市箕郷町西明屋の長中山妙福寺。

妙福寺 (1)
妙福寺は長野氏がまだ長野郷(現在の浜川町周辺)に居住していた頃、祈願所として創建したとされる。長野氏が箕輪城を築城し箕輪に移ると、戦国大名として名を成した業正が箕輪城の裏鬼門にあたる当地に移している。

箕輪城は永正9年(1512年)長野業尚の築城とも、大永6年(1526年)業尚の子・信業の築城ともいわれる。なお業正は信業の子とされるが、長野氏の系譜ははっきりしない。

妙福寺 (2)
妙福寺 (3)
「鬼子母神を祀り、毎年11月12日に行われる『子育鬼子母神大祭』では、参道に露店が立ち並び、多くの人で賑わいます」と高崎市のHPにあったが、ご本尊は釈迦牟尼仏と群馬郡誌にはある。

鬼子母神を祀るようになった経緯は分からないが、群馬郡誌は鬼子母神について一切触れてないので、群馬郡誌刊行(大正14年:1925年)以降のことと推察される。

妙福寺 (4)
境内のしだれ桜。

妙福寺 (5)
妙福寺 (6)
石祠内に仏像らしきものが見えたので覗いてみたら、弁天さまのようだ。

妙福寺 (7)
妙福寺 (8)
本堂左(南)の庭園は忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の設計・築造とされる。上毛三山を模し、池泉が配されているとのことだが、それっぽくない。後に墓地用地として削られてしまった?

同じ箕郷町の旧下田邸にも堀部安兵衛設計・築庭とされる庭園が残されている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市下里見町の城山稲荷神社。

城山稲荷神社 (1)
城山稲荷神社 (2)
城山稲荷神社は里見城の鬼門除けとして創建された。里見城は新田義重の庶長子・義俊の築城と伝わる。義俊の没年は嘉応2年(1170年)とも元久元年(1204年)ともいわれているので、城山稲荷神社の創建は平安末ころと思われる。

城山稲荷神社 (3)
城山稲荷神社 (4)
稲荷神社らしく、多数の鳥居が奉納されている。

城山稲荷神社 (5)
参道には多くの歌碑が並ぶ。氏子さんなのか、地元の歌人なのか分からないが。

城山稲荷神社 (6)
城山稲荷神社 (7)
城山稲荷神社 (8)
里見氏が断絶(里見義実が安房に落ち延び安房里見氏の祖となったとされる)すると、城山稲荷神社も衰退し石宮を残すのみとなっていたが、昭和13年(1938年)に地元の方々が社殿を建立している。

その後、昭和49年(1974年)に発生した土砂崩れにより社殿は崩壊、昭和52年(1977年)に現在の社殿が再建されている。

城山稲荷神社 (9)
城山稲荷神社 (10)
社殿裏からすぐの所に奥の院がある。奥の院は昭和49年(1974年)の土砂崩れの被害を免れている。

城山稲荷神社 (11)
城山稲荷神社 (12)
境内の長寿地蔵尊、通称「ぴんころ地蔵」。地域住民の方々への感謝の気持ちと健康長寿を祈念し建立されたもの。まだ新しい。その名の通り、寝込まずに往生してほしいとの願いが込められていいる。

同様のものに「ぽっくり◯◯」というのもあるね。

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高崎市吉井町下長根の小野小町の休み石。

小野小町の休み石と姫街道安全地蔵尊 (1)
小野小町の休み石
小野小町が故郷の出羽国(現在の秋田県湯沢市)へ帰る途中に、池を見ながら腰を降ろして休んだ石といわれる。

富岡市小野地区にも小野小町の伝承があり、いずれも出羽国へ帰る途中のこと。吉井を経由し富岡方面に向かったということになるのかな。小町は富岡で病を患い、小庵を設け治療と仏道の日々を送ったことになっている。ちなみに小野地区の名称は小野小町から来ているとされる。

小野小町関連
 「小野子の町の開基 -得成寺-
 「小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-

姫街道安全地蔵尊
隣のお地蔵様は「姫街道安全地蔵尊」。地蔵尊が面している国道254号線は交通量が多く、過去から悲惨な交通事故が度々発生し、その供養と交通安全を祈念し平成23年(2011年)に建立された。

「上州姫街道」とは国道254号線の江戸時代の名称。中山道の裏街道として、藤岡市から吉井町・甘楽町・富岡市・下仁田町を経由し長野県に至る(下仁田道とも呼ばれる)。

確かに、吉井町の中心から西(甘楽町・富岡市方面)へ向かう当地は、道幅も狭く大型車の通行も多い場所。よく通る道だが、常に交通量が多いという印象がある。

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高崎市吉井町多比良の石造薬師如来坐像。

西深沢の薬師如来坐像 (1)
西深沢の薬師如来坐像 (2)
多比良地区西深沢の墓地内に石造薬師如来坐像が2体安置されている。どちらも牛伏砂岩製で、その特徴から南北朝期の作と考えられている。

向かって左像は、総高78.5cm、像高47.5cm。左手に薬壺を持ち、膝の張りが大きく蓮座は薄い。右像は総高65cm、像高45cm。左像同様、左手に薬壺を持ち膝張りは大きい。光背の一部が欠損している。

実はこの墓地に親戚のお墓がり、子どものころお墓参りに来た記憶がある。上信越自動車道開通時(平成5年:1993年)、一部用地として転用され狭くなっており、昔の記憶と違っている。当然、石仏のことなど子ども心にはまったく残っていない。

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高崎市吉井町多比良の多比良古墳。地元では諏訪前古墳と呼ばれている。

多比良古墳 (1)
多比良古墳は盛土が失われ、横穴式石室の石組だけが露出している。昭和10年(1935年)の調査時には墳丘を有す約12mの円墳だったようだ。

多比良古墳 (2)
多比良古墳 (3)
多比良古墳 (4)
石室の全長は5.54m、玄室の長さ2.7m、羨道の長さ2.8m。石材加工は精巧な切石で、一部切組積み手法をとり入れた高度なものである。石材は牛伏砂岩。

築造年代は、埴輪を所有しないことや切石積み石室などの様相から古墳時代終末の7世紀代と考えられている。

最初に地元では「諏訪前古墳」と呼ばれていると書いたが、これは多比良神社(元は諏訪神社)の前にあるからだと思う。鳥居から約100mくらいの所に、この多比良古墳はあるので。(多比良神社は「新堀城主・多比良友定の創建 ー多比良神社ー」参照)

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高崎市吉井町多比良の多比良神社。

多比良神社 (1)
多比良神社 (2)
多比良神社は永禄年間(1558~70年)に新堀(多比良)城主・多比良豊後守友定が諏訪神社を勧請したことに始まる。大正8年(1919年)に阿夫利神社、粟島神社などを合祀し多比良神社と改称。

新堀城は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州侵攻の際に落城し、多比良友定は自刃したといわれているので、多比良神社の創建は永禄年間前半と思われる。

多比良神社 (3)
多比良神社 (4)
社殿は明治期に建立されたが、平成14年(2002年)に改築されている。

粟島神社 (1)
粟島神社 (2)
粟島神社 (3)
合祀された粟島神社が境内にある。もとの社殿を持って来たものと思われる。

多比良神社 (7)
「忘れん 降雹災害之碑」。平成7年(1995年)の建碑とあったので、最近のものだ。

平成6年(1994年)9月に、多比良・多胡・安坪地区を中心に玉子大の雹と暴風雨により、田畑・桑園だけでなく家屋にも甚大な被害がでた。また、被害総額3億5000万に対し救済費がわずか190万だったことの両方を「忘れん」ということらしい。

多比良神社 (8)
社殿裏の双体道祖神。

多比良神社 (5)
多比良神社 (6)
境内の非板状の塔婆(板碑)。総高101cm、幅41cm、厚さ27cmで、牛伏砂岩製。上部に二条線、碑面に枠線を有し、阿弥陀如来を示す種子が彫られている。鎌倉時代・建治2年(1276年)の銘がある。

吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えることなどから、多比良氏が当時からこの地に勢力をはり、板碑の建碑にも関係していると考えることもできる。

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高崎市箕郷町柏木沢の赤城若御子神社。

赤城若御子神社 (1)
赤城若御子神社は大化元年(645年)の創建と伝わる古社である。元は字鼓ヶ塚にあり柏木沢の総鎮守として奉祀されていたが、後に当地に遷座し覚満大神と称している。覚満とは当地の旧名のことで、覚満山本田赤城の森と言ったらしい。明治6年(1873年)に現在の赤城若御子神社になっている。

赤城若御子神社 (2)
鳥居の扁額は「覚満大明神」。

赤城若御子神社 (3)
赤城若御子神社 (4)
赤城若御子神社 (5)
赤城若御子神社 (6)
社殿の建立年などは不明だが、扁額が「赤城若御子神社」になっているので、明治期以降と思われる。

赤城若御子神社 (7)
赤城若御子神社 (8)
境内社の天満宮と胎内神社、浅間神社。浅間神社の隣の大岩はご神石かな。

赤城若御子神社 (9)
社殿裏にも境内社・末社群が並ぶ。

赤城若御子神社には社宝として源義経、弁慶の借用証が残されている。文治元年(1185年)、義経・弁慶が奥州を目指していた時に当社に参拝し、粟7斗と馬を借用したとある。

真偽は不明だが、箕郷町柏木沢から榛東村広馬場にかけては「義経街道」と呼ばれる道があり、いくつかの逸話(伝説)も残っている。榛東村広馬場の黒髪山神社には弁慶の遺書といわれる歌が残されている。(「弁慶の遺書 -黒髪山神社 その2-」参照)


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高崎市箕郷町柏木沢の八幡宮。
柏木沢地区には複数の八幡宮があり、字名から今宮八幡宮と呼ばれる。

今宮八幡宮 (1)
今宮八幡宮は文永元年(1264年)に京都・石清水八幡宮の分霊を勧請と伝わる。

今宮八幡宮 (2)
今宮八幡宮 (3)
鳥居は宝暦9年(1759年)の建立。訪問時は七夕飾りが鳥居に彩りを添えていた。

今宮八幡宮 (4)
今宮八幡宮 (5)
今宮八幡宮 (6)
社殿の建立年などは分からないが、昭和29年(1954年)に瓦葺きに改修されている。社殿前の灯籠は平成6年(1994年)の奉納。扁額の揮毫は衆議院議員・小渕優子。政治資金や後援会の問題以来、あまり名前を聞かないが。

今宮八幡宮 (7)
今宮八幡宮 (8)
石堂内にいるのは阿弥陀如来さま。

今宮八幡宮 (9)
中央の馬頭観音は203cmあり、旧箕郷町では2番目の大きさ。幕末の造立。

今宮八幡宮 (10)
女人講(二十二夜講)の如意輪観音の刻像塔。

平成27年(2015年)10月には「750年祭」が行われ、上小塙町・烏子神社の太々神楽が奉納されたという。


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高崎市箕郷町柏木沢の八幡宮。
柏木沢地区には複数の八幡宮があり、字名から向滝八幡宮と呼ばれる。

向滝八幡宮 (1)
向滝八幡宮 (2)
向滝八幡宮は文永元年(1264年)に京都・石清水八幡宮の分霊を勧請と伝わる。

向滝八幡宮 (3)
向滝八幡宮 (4)
参道の先は鎮守の森といった風情。拝殿前には縁起の良い松が覆う。灯籠は大正10年(1921年)の奉納。

向滝八幡宮 (5)
向滝八幡宮 (6)
向滝八幡宮 (7)
社殿は天明3年(1783年)に再建されている。現在の社殿?

向滝八幡宮 (8)
境内社の石尊大権現。両脇に大天狗と小天狗を従えている。石尊大権現は大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神。優れた力を持った仏僧、修験者などが死後大天狗になるといわれる。

向滝八幡宮 (9)
向滝八幡宮 (10)
社殿裏に剣を持つ武人(?)不動明王(?)が線刻されている碑があった。詳細は不明。

元和5年(1619年)には、高崎城主・安藤重信より社領(田畑)寄進されるなど崇敬されていた。

この記事は、基本的に群馬郡誌(大正14年:1925年)の記述を参考にしている。しかし箕郷町誌(昭和50年:1975年)には明和6年(1769年)の創建とある。そうすると一部記載内容に年代的齟齬が生じるが、素人ブログなのでご容赦を。

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高崎市箕郷町柏木沢の妙法山不動寺。

不動寺 (1)
不動寺 (2)
不動寺は延慶年間(1308~11年)良栄法印の開山といわれる。山門は平成11年(1999年)の新築。

不動寺 (3)
山門の龍の彫刻。

不動寺 (4)
不動寺 (5)
本堂も平成11年(1999年)の新築。

不動寺 (6)
不動寺 (7)
境内の南滝不動尊。現在のお堂は平成4年(1992年)の建立。

不動寺の南方、初瀬川と唐沢川が合流するあたりに、高さ7、8mの南滝と呼ばれる滝があった。この南滝辺りに不動明王を安置した不動堂があり、行者が滝行などを行っていた。昭和30年代後半の河川改修により南滝がなくなり、お堂は不動寺境内に移されている。

1月と3月の不動縁日には、護摩供祈願が行われる。

不動寺 (8)
不動寺 (9)
不動寺 (10)
同じく境内の柏木天満宮。菅原道真を祀っていると思われるが、由緒などは分からない。

不動寺は船尾山楊沢寺(息災寺とも)の一寺(坊)跡に開創されている。楊沢寺は平常将に焼き討ちされたが、坊(大寺院に付属する子院や塔頭)が3000もあったとされる。現在の柳沢寺(榛東村)で、五重塔があることで知られる。
(「五重塔がある! -柳沢寺-」参照)

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高崎市吉井町黒熊の三木市右衛門の墓。

三木市右衛門の墓 (1)
上信越自動車道北側の側道脇にある墓地に標柱が立っている。

三木市右衛門の墓 (2)
三木市右衛門の墓 (4)
三木市右衛門の墓。

市右衛門は当地を領していた旗本・倉橋内匠の圧政に耐えかねた農民の代表として幕府への直訴に及び、投獄・所払いの罰を受けた旧黒熊村の名主。

緑埜村(藤岡市)の名主・堀越三右衛門が、寛文7年(1677年)にまず直訴に及び成功したが、同年に死罪となる。しかし、倉橋内匠は懲りずに過酷な年貢取り立てを止めなかったため、市右衛門が翌年に2度目の直訴に及んだ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。

しかし2人の身を捨てた訴えにより、年貢を減らす処置がとられ、倉橋は追放となっている。

関連
 「義民・堀越三右衛門の墓
 「義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-

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高崎市吉井町黒熊の黒熊山延命寺。

延命寺 (1)
延命地は文禄元年(1592年)の創建と伝わる。

延命寺 (2)
慶長元年(1596年)に焼失、翌年順慶法師が再建している。室町時代の作とされる一木彫りの勢至菩薩像(像高37cm)がある。本尊は薬師如来なので、阿弥陀三尊の脇侍と思われる勢至菩薩像は、もともと別寺のものか。

延命寺 (3)
延命寺 (4)
延命寺 (5)
墓地の宝篋印塔と五輪塔。宝篋印塔のひとつには元文3年(1738年)の紀年名が読み取れた。

延命寺 (6)
明治7年(1874年)には黒熊小学校(現入野小)が置かれた。現在も境内にブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

延命寺の院号は地蔵院と言い、境内に地蔵菩薩を祀る地蔵堂があるとのことだったが、それらしきお堂は見あたらなかった。見逃したかな。

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高崎市吉井町多比良の新堀城跡。

新堀城跡 (1)
新堀城は多比良城とも呼ばれ、平井城(藤岡市)の別城であった。築城年代は不明だが、多比良氏の居城だった。多比良氏についてはよく分からないが、吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えるので、鎌倉時代から当地に根付いていたと考えられる。

新堀城跡 (2)
現在は畑が拡がっており、素人のオレには遺構らしきものは見分けられなかった。

新堀城は平井城の背後を守る城であると同時に、関東管領・山内上杉氏の宝物を保管する宝物城であったとされる。永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に落城・焼失。

時の城主・多比良友定は「上杉家の宝物を信玄に奪われては末代までの恥。今日は北風が強いので火をかけて焼いてしまおう。自分は宝物が焼けるのを見届けて自害する」と言い火をかけたとされる。多比良氏方は全滅したと伝わる。

地元には、宝物に関する伝説が残っている。「朝日さす 夕日かがやく 楠のふもとに 小判千枚朱が千枚」との宝のありかを示すような歌が伝わっている。当時、大手門横に楠の大木があり、30日も焼け続けたといわれている。この楠(跡)の下に埋まっている?

また、堀の北西端の外に「殿様井戸」と呼ばれる古井戸があり、落城時に宝物を投げ込んだともいわれる。もちろん現在井戸は埋まっているが、今も水が湧き出ているという。

新堀城自体は、武田氏の後、織田氏(滝川一益)、北条氏と城主が変わったが、豊臣秀吉の北条攻め(天正18年:1590年)により廃城となっている。

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高崎市吉井町多比良の瑠璃山普賢寺。

普賢寺 (1)
普賢寺は延喜年間(901~23年)に比叡山13世座主・法姓坊尊意が当地で修行中に開山したという。明治末から大正年間に、近隣の柳谷阿弥陀堂、諏訪前観音堂、西浦大日堂などを合併。昭和30年(1955年)には清瀧寺、瀧の前観音堂を合併している。

普賢寺 (2)
普賢寺 (3)
堂宇は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に焼失(直接は新堀城落城時の火災)。貞享年間(1684~87年)に再建されている。現在も本堂下や付近を掘ると、焼けた瓦や土が出てくるという。(関連「武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-」)

普賢寺 (4)
普賢寺 (5)
鐘楼は昭和13年(1938年)の再建。梵鐘は先の大戦中に供出されたが、再鋳されている。

普賢寺 (6)
境内の宝篋印塔。相輪部がない。寛保3年(1743年)の銘が見て取れた。

普賢寺 (7)
普賢寺 (8)
境内の天満宮。中には天神様(菅原道真)と思われる像がおられる。祠は平成20年(2008年)の新築建立。合併された清瀧寺から遷されたもの。

清瀧寺は菅原道真ゆかりの寺で(真偽不明だが)、境内には道真が幼少時に苦学したところと伝わる「天神の井戸」があった。また、道真直筆とされる法華経が伝わっており、これも普通賢寺に移されている。

ついでの話として、清瀧寺の本堂は昭和31年(1956年)に神流町(当時は万場町)柏木の大林寺に移築されている。
(「255年間土中に埋まっていた銅鑼 -大林寺-」参照)

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高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。

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高崎市新町の藤木山龍光寺。

新町・龍光寺 (1)
龍光寺は寛永元年(1624年)、毘沙吐(びさど)村(埼玉県上里町)に僧・文応が開山。弘化3年(1846年)に同村を襲った大洪水のため壊滅的な被害を受け、安政年間(1855~60年)ころまでに全村で新町に移住することになった。同時期に龍光寺も現在地に遷っている。

同様に諏訪神社も毘沙吐村から遷っている。
(「毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-」参照)

新町・龍光寺 (2)
新町・龍光寺 (3)
新町に遷った後の明治12年(1879年)に本堂を建立したが、明治34年(1901年)に事情により寺号を喪失。そのため荒廃してしまったが、昭和4年(1929年)に安中の海雲寺住職・土屋楳堂が檀徒の依頼により再興(寺号の再取得は昭和23年:1948年)。現在の本堂は平成7年(1993年)の新築。

新町・龍光寺 (4)
境内の六地蔵などの石仏群。前列に並んでいる六地蔵などは新しそうだが、後列の石仏は毘沙吐村当時のものだろうか?

新町・龍光寺 (5)
宝篋印塔。基礎部分は別石のようだ。

新町・龍光寺 (6)
忠霊供養塔。墓地にも英霊のお墓が整然と並んでいた。

ところで、寺号を喪失するとはどういうことなのかな。本堂新築記念碑には尾張国知多郡荒尾村に「移す」とあったけど。

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高崎市新町の八坂神社。

新町八坂神社 (1)
新町八坂神社 (2)
新町八坂神社の創建は不詳だが、中山道の上野国玄関口にあたるため、疫病の侵入と蔓延を防ぐことを祈願して建立されたと伝えられる。

新町八坂神社 (3)
新町八坂神社 (4)
新町八坂神社 (6)
現在は小さな祠が覆屋の中に鎮座しているのみである。

新町八坂神社 (5)
八坂神社の脇に(境内かも)、「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」の芭蕉の句碑がある。地元の俳人である小渕湛水と笛木白建が、寛政5年(1793年)から天保5年(1835年)の間に建てたとされる。

新町八坂神社 (7)
江戸時代、八坂神社の隣には「柳茶屋」と呼ばれた島田屋があり、旅人の憩いの場となっていた。「柳茶屋」と呼ばれたのは近くに柳の大木があったからで、そのため湛水らはこの地を選んで柳にまつわる句碑を建碑したと考えられる。写真は神社横に掲示されている当時の想像図。

句碑は「柳茶屋」の廃業(時期不明)とともに行方知れずになっていたようで、現在の場所に戻ってきたのは昭和29年(1954年)のことである。

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高崎市新町の笛木山専福寺。

専福寺 (1)
専福寺は万治3年(1660年)仙雅房賢宗の開山。

専福寺 (2)
本堂は寛文6年(1666年)に火災により焼失、安永3年(1715年)に再建されている。その後、大正15年(1926年)に大改修が行われている。火災により本尊(不動明王)も焼けてしまい、現在の本尊は元禄7年(1694年)のもの。なお、火災時に東方へ飛んで行く不動明王を小林伊左衛門というものが見たと伝わっている。

ついでの話だが、小林伊左衛門は新町宿本陣・小林甚左衛門の弟で、倉賀野宿から新町宿間の烏川の渡船を賃金を取って営業することを前田家から許された人物。加賀・前田家が、従来の玉村宿を過ぎてから渡川する中山道を、新町宿手前で渡川するルートに変えたため新町宿が形成され、この辺りは加賀街道と呼ばれ、前田家が一種の権限を持っていたとされる。

専福寺 (3)
境内にも不動明王像が鎮座していた。

専福寺 (4)
梵鐘は昭和54年(1979年)に檀徒から寄進されている。

専福寺 (5)
専福寺 (6)
境内の薬師堂。

専福寺 (7)
樹齢400年といわれるクスノキとカヤ。

以前、新町宿の見通し灯籠を紹介したときに、新町宿に滞留していた小林一茶が半ば強制的に寄進させられた逸話を紹介したが、寄進をしつこく依頼したのは専福寺の世話人だという。(「小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-」参照)

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高崎市箕郷町和田山の和田の館跡。

和田の館跡 (1)
和田の館跡は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた和田義盛の6男・義信、もしくは8男・義国の館跡と伝わる。

延暦3年(1213年)に、執権・北条氏との争い(和田合戦)で敗れた和田氏の内、義盛の6男・義信、もしくは8男・義国が上野国に逃れ、当地に住み着いたとされる。

和田の館跡 (2)
和田の館跡 (3)
三方を山に囲まれた地形は、潜居(隠れ住む)には適している。周囲には濠跡も認められるという。よく分からなかったけど。現在も当地には和田氏末裔の方々(名字は異なるが)が、多く在住しておられる。

次第に勢力を増した和田氏は、寛喜2年(1230年)もしくは寛元元年(1243年)に赤坂(後の和田、現高崎)に移り、上野和田氏の祖となった。ちなみに、「上野国誌」は上野和田氏の祖を義信とし、「和田記」では義国としている。

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高崎市新町の諏訪神社。
以前、旧中山道沿いの諏訪神社を紹介したが、こちらは烏川沿い(岩倉橋の袂側)の諏訪神社。どう書き分ければいいのか難しい・・・。

新町諏訪神社2 (1)
諏訪神社は延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わる。毘沙吐村は現在の埼玉県上里町毘沙吐。神流川と烏川が合流する辺り。

弘化3年(1846年)に同村を襲った大洪水のため壊滅的な被害を受け、安政年間(1855~60年)ころまでに全村で新町の下河原に移り住むことになった。同時期に諏訪神社も現在地に遷座している。

新町諏訪神社2 (2)
新町諏訪神社2 (3)
新町諏訪神社2 (4)
社殿は宝暦年間(1751~64年)の建立。

新町諏訪神社2 (5)
中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社を祀る三社宮となっている。写真では分かりづらいが、諏訪社は海老虹梁の彫刻など精巧な造りとなっている。

新町諏訪神社2 (6)
境内には沿革を記した碑がある。昭和10年(1935年)の建立。

ちなみに、上里町毘沙吐地区は住民登録0人で、地名のみが残っているだけだという。

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高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。

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高崎市倉渕町権田の長井石器時代住居跡。

長井石器時代住居跡 (1)
長井石器時代住居跡は縄文時代後期の遺跡で、平らな石を巧みに敷き詰めた住居跡。標高550mにあり、約9度の勾配を持った南西向きの傾斜面に位置し、昭和28年(1953年)に開田作業中に発見されている。

長井石器時代住居跡 (2)
長井石器時代住居跡 (3)
1辺3mの隅丸方形に石を敷き並べ、西側に張り出しを持つ柄鏡形の敷石住居である。中央には90cm×60cm方形の石囲炉がある。

炉の北西70cmほど離れたところにも方形の石組みを備えている。これは底面にも板石が敷かれており箱状になっているが、炉石のような火熱を受けた痕跡がなく、祭祀的な施設と考えられている。

住居内から壺状の土器、石棒片、磨製石斧などが出土している。

覆屋のガラス面に張り紙があり(1枚目写真参照)、そこには「マムシ注意」の文字が。覆屋周りは草が伸びており、けっこうビビりながらの見学だった。

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高崎市上里見町の橋場の地蔵尊。

上里見橋場の地蔵尊 (1)
上里見橋場の地蔵尊 (2)
橋場の地蔵尊(坐像)は宝暦14年(1764年)の建立で、総高は210cmの大きさ。傍らにある同型像が破損したため、再建されたようだ。信州高遠の石工の作で、旧榛名町内で最大規模を誇る。

当地は旧榛名街道の渡河点があったところ(だから「橋場」)で、草津信州道と榛名街道の分岐点にあたる。往来の旅人の安全を祈願して建立されたと考えられる。

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高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。

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