Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-
義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓
高崎市倉渕町・長井石器時代住居跡
高崎市上里見町・橋場の地蔵尊
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
高崎市・西間野(猿落し)の磨崖碑
井伊直政の伯母・恵徳院の開基? -萬松寺-
高崎市箕郷町・松山寺
果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-
高崎市中室田町・岩井堂の石幢
高崎市倉渕町・石上神社
高崎市倉渕町・榛名山座主の森
室田之滝不動 -高崎市室田・大福寺-
羊太夫を祀る その2 -多胡神社-
高崎市吉井町・恩行寺古墳
鎌倉時代の創建 -恩行寺-
長根氏の居城 -長根城址-
権田栗毛の観音像を祀る -岩窟観音-
大戸浦野氏の中興開基 -全透院-
高崎市吉井町・南高原1号古墳
高崎市吉井町・片山1号古墳
羊太夫が乗ってきた舟? -舟石-
高崎市・金古愛宕山古墳
高崎市吉井町・御穴塚古墳
羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-
高崎市吉井町・馬庭飯玉神社
吉井藩陣屋跡(春日社跡)
吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-
福田赳夫元首相の銅像
高崎市吉井町・馬庭念流道場
利根川100景 -東谷渓谷-
高崎市吉井町・住吉神社
剣聖・塚原卜伝の勧請? -卜神諏訪神社-
延文の板碑 -折茂観蔵院-
萌え系絵馬 -白山神社-
長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
箕輪城水の手曲輪 -法峰寺-
柏木沢の蚕影碑
由良国繁の墓? -箕郷町・金龍寺-
吉井町・小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-
榛名富士に登ったぞ! ロープウェイでだけど
榛名公園ビジターセンター
木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-
木部姫伝説 -御沼オカミ神社-
細川興秋の末裔・長岡家の供養施設 -弥勒寺-
日本三妙見 -妙見寺/妙見社-
木曽義仲の父・源義賢の館跡 -多胡館跡-
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
高崎市新町・神流川合戦の供養塔
土師清大夫の墓 -浄泉寺-
元禄と享保の石鳥居が保存されている -高崎市新町・諏訪神社-
小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-
遊女奉納の絵馬 -高崎市新町・八幡宮-
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓 -宝勝寺 その2-
小判供養塔 -宝勝寺-
高崎市新町・明治天皇行在所
遊女・於菊物語 -於菊稲荷神社-
福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-
高崎市榛名歴史民俗資料館
情緒のある佇まい -延命密院-
小串氏の墓所と南北朝時代の石仏 -地勝寺-
奥平氏発祥の地 -奥平神社-
多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
吉井藩代官・橳島家3代の墓 -法林寺-
菅沼定利の墓 -玄太寺-
県内屈指の大伽藍 -仁叟寺-
義民・白田六右衛門の顕彰碑 -龍源寺-
吉井・多胡薬師塚古墳
里見城址に行ってきた?? -里見城址-
里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-
里見義俊の菩提寺 -光明寺-
伝・権田栗毛 終焉の地
小栗上野介忠順 終焉の地  
井伊直政の開基 -龍門寺-
ちょっと荒れ過ぎ・・・ -石上寺-
石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-
立派な前方後円墳なんだけど・・・ -保渡田八幡塚古墳-
白岩観音 -長谷寺-
内藤塚 -善龍寺-
伝・長野業盛の墓
長野業盛の墓があるって聞いたけど・・・ -大円寺-
長野業正の墓 -長純寺-
長野氏累代の墓 -長年寺-
堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-
吉井藩陣屋の表門
吉井藩の歴史を勉強しました -吉井郷土資料館-
合併記念の碑だった -入野碑-
埋もれた名城 -箕輪城-
見晴らしはいいけど・・・ -吉井・牛伏山-
戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-
あれっ? 何でこんなに混んでるの? -榛名神社-
アララギ派って? -土屋文明記念文学館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-
小栗上野介の墓 -東善寺-

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高崎市箕郷町和田山の和田の館跡。

和田の館跡 (1)
和田の館跡は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた和田義盛の6男・義信、もしくは8男・義国の館跡と伝わる。

延暦3年(1213年)に、執権・北条氏との争い(和田合戦)で敗れた和田氏の内、義盛の6男・義信、もしくは8男・義国が上野国に逃れ、当地に住み着いたとされる。

和田の館跡 (2)
和田の館跡 (3)
三方を山に囲まれた地形は、潜居(隠れ住む)には適している。周囲には濠跡も認められるという。よく分からなかったけど。現在も当地には和田氏末裔の方々(名字は異なるが)が、多く在住しておられる。

次第に勢力を増した和田氏は、寛喜2年(1230年)もしくは寛元元年(1243年)に赤坂(後の和田、現高崎)に移り、上野和田氏の祖となった。ちなみに、「上野国誌」は上野和田氏の祖を義信とし、「和田記」では義国としている。

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高崎市新町の諏訪神社。
以前、旧中山道沿いの諏訪神社を紹介したが、こちらは烏川沿い(岩倉橋の袂側)の諏訪神社。どう書き分ければいいのか難しい・・・。

新町諏訪神社2 (1)
諏訪神社は延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わる。毘沙吐村は現在の埼玉県上里町毘沙吐。神流川と烏川が合流する辺り。

弘化3年(1846年)に同村を襲った大洪水のため壊滅的な被害を受け、安政年間(1855~60年)ころまでに全村で新町の下河原に移り住むことになった。同時期に諏訪神社も現在地に遷座している。

新町諏訪神社2 (2)
新町諏訪神社2 (3)
新町諏訪神社2 (4)
社殿は宝暦年間(1751~64年)の建立。

新町諏訪神社2 (5)
中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社を祀る三社宮となっている。写真では分かりづらいが、諏訪社は海老虹梁の彫刻など精巧な造りとなっている。

新町諏訪神社2 (6)
境内には沿革を記した碑がある。昭和10年(1935年)の建立。

ちなみに、上里町毘沙吐地区は住民登録0人で、地名のみが残っているだけだという。

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高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。

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高崎市倉渕町権田の長井石器時代住居跡。

長井石器時代住居跡 (1)
長井石器時代住居跡は縄文時代後期の遺跡で、平らな石を巧みに敷き詰めた住居跡。標高550mにあり、約9度の勾配を持った南西向きの傾斜面に位置し、昭和28年(1953年)に開田作業中に発見されている。

長井石器時代住居跡 (2)
長井石器時代住居跡 (3)
1辺3mの隅丸方形に石を敷き並べ、西側に張り出しを持つ柄鏡形の敷石住居である。中央には90cm×60cm方形の石囲炉がある。

炉の北西70cmほど離れたところにも方形の石組みを備えている。これは底面にも板石が敷かれており箱状になっているが、炉石のような火熱を受けた痕跡がなく、祭祀的な施設と考えられている。

住居内から壺状の土器、石棒片、磨製石斧などが出土している。

覆屋のガラス面に張り紙があり(1枚目写真参照)、そこには「マムシ注意」の文字が。覆屋周りは草が伸びており、けっこうビビりながらの見学だった。

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高崎市上里見町の橋場の地蔵尊。

上里見橋場の地蔵尊 (1)
上里見橋場の地蔵尊 (2)
橋場の地蔵尊(坐像)は宝暦14年(1764年)の建立で、総高は210cmの大きさ。傍らにある同型像が破損したため、再建されたようだ。信州高遠の石工の作で、旧榛名町内で最大規模を誇る。

当地は旧榛名街道の渡河点があったところ(だから「橋場」)で、草津信州道と榛名街道の分岐点にあたる。往来の旅人の安全を祈願して建立されたと考えられる。

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高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。

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上野三碑がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された(2017年)のを機に、多湖碑(高崎市吉井町池)、金井沢碑(高崎市山名町)、山ノ上碑(高崎市山名町)を再訪した。

多胡碑
多湖碑は和銅4年(711年)に多胡郡が設置され、その郡吏に羊太夫という人物が任命されたのを記念して造られたという説が有力。

以前の訪問は2010年(「上毛かるた紀行」)だが、変わったところは案内板がきれいになっていたことくらい。従来から「吉井いしぶみの里公園」として整備され、「多胡碑記念館」も併設されていたので。(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

金井沢碑 (1)
金井沢碑は神亀3年の(726年)の建碑で、高崎佐野にあった屯倉の管理者の子孫が、先祖の冥福を祈るため仏教に入信するという誓いが刻まれている。

金井沢碑 (2)
きれいな歩道(木道)が整備され、碑までの通路が大きく改善されていた。以前の訪問時(2010年)は、訪れる人もほとんどいないため、あぜ道のような通路はクモの巣だらけで、巣を払いながら登って行った。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

山ノ上碑 (1)
山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、隣の古墳(山ノ上古墳)に眠ると考えられている放光寺の僧・長利の母の墓誌と考えられている。
(「最後の上野三碑 -山ノ上碑-」参照)

山ノ上碑 (2)
山ノ上碑も道路から石段までの間にきれいな木道が整備されていた。また、石段周りも樹木が伐採され、すっきりしていた(前回訪問2010年)。

上野三碑を訪問した2010年は、「上毛かるた紀行」「上州まったり紀行」を始めた年で、紀行文を改めて読み直すと稚拙な文章で恥ずかしい。また、写真もひどいなぁ。

ところで、もともと三碑とも国の特別史跡に指定されていたにも関わらず、金井沢碑と山ノ上碑は歩道の整備に問題があった。それが「世界記憶遺産」登録を目指す一環として、2015年に木道やトイレなどが整備され、これだけきれいになった。やる気になればできるんだから、他の文化財保護などもよろしく。もちろん、高崎市以外も。

世界記憶遺産登録活動、そして登録で、どれくらい見学者(観光客?)が増えているか知らないが、碑を守ってきてくれた地域住民の方々への配慮も必要だね。特に山ノ上碑は少し狭い生活道を行くことになるので。

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高崎市吉井町小串の一行山光心寺。

光心寺 (1)
光心寺は、義民・堀越三右衛門の霊を弔うため、寛文8年(1668年)に近郊村民が万日堂を建立したのが始まり。その後、元禄13年(1700年)に三木市右衛門の霊をあわせ弔うため光心寺と改められている。(両名については「義民・堀越三右衛門の墓」参照)

堀越三右衛門が刑死したのは寛文7年(1667年)、三木市右衛門が獄に繋がれたのが寛文8年(1668年)。また、市右衛門が亡くなったのは元禄12年(1699年)とされる。

光心寺 (2)
光心寺 (3)
光心寺は堀越三右衛門が処刑された跡地に建つ。
本堂は享保2年(1717年)に焼失したが、寛保2年(1742年)に再建されている。

光心寺 (4)
堀越三右衛門、三木市右衛門の遺徳碑。平成元年(1989年)の建立。

堀越三右衛門の墓はお参りさせてもらっているが、三木市右衛門の墓は当時見つけることができず未参拝になっているので、改めて参拝させてもらおう。

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高崎市吉井町馬庭の薬師堂。

馬庭の薬師堂 (1)
吉井高のすぐ北側に薬師堂があり、その堂内に3体の石仏が安置されている。3体とも坐像で牛伏砂岩製。

馬庭の薬師堂 (2)
写真左が薬師如来坐像。左手に薬壷を持ち、光背は桃形である。厚肉彫りで肩の張りは大きく、膝は張りが少ない。

中央は阿弥陀如来座像。阿弥陀定印を結び、頭部はやや猪首状である。通肩厚肉彫りで肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高99.5cm。

右は地蔵菩薩坐像。秘印を結び、光背は舟形、頭部はやや猪首状、通肩厚肉彫りで、肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高86.5cm。

3体とも砂岩製なので、風化が進んでいる。お堂ができる前は露座であったためであろう。

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高崎市上大島町の笠塔婆。

安養寺跡の笠塔婆 (1)
安養寺跡の笠塔婆 (2)
この笠塔婆は、高さ94cm、幅34cm、厚さ29cmの安山岩製。正面下部に文永元年(1264年)の銘がある。群馬県内最古の笠塔婆である。

安養寺跡の笠塔婆 (3)
正面に阿弥陀如来像半陽刻されている。実は左右の側面にも不動明王像、毘沙門天像が線刻されていたのだが、見落としていた。

安養寺跡の笠塔婆 (4)
ここは安養寺というお寺だったらしいが、現在は上大島町の公民館になっている。

安養寺跡の笠塔婆 (5)
安養寺跡の笠塔婆 (6)
笠塔婆の横には石塔群、公民館脇には六地蔵が残されており、寺跡であることを偲ばせる。ただ六地蔵は相当新しそうだが。

公民館の西(?)の民家庭先にも石塔が数基見えたので(もちろん入っていない)、安養寺もそれなりに大きかったと思われる。

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高崎市上里見町本庄の地蔵尊坐像。

本庄辻の地蔵尊 (1)
本庄辻は、旧草津街道と中山道から風戸峠を経由してきた榛名道との交点で、そこに宝暦12年(1762年)銘の地蔵尊坐像が鎮座している。竿石は妙義、高崎、榛名方向を示す道標になっている。(後付けのようだが)

本庄辻の地蔵尊 (2)
地蔵尊のお顔は穏やかである。

本庄辻の地蔵尊 (3)
少し高い岩の上に鎮座しており、非常に見えずらい。当時は往来する人々を温かく見守っていたのだろうが、現在はほとんど気がつかれないだろう。我ながら、よく見つけたものだ。

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高崎市上里見町西間野の磨崖碑。

西閒野猿落し磨崖碑 (1)
草津街道の西間野地区猿落しには、かつて「暗がり」と呼ばれる難所があり、人馬の交通が困難だったため、文化6年(1609年)に旧道の上方に平坦な新道が開削された。この碑は、その難事業を記念し崖面に刻まれたものである。

西閒野猿落し磨崖碑 (2)
磨崖碑は現在地より10mほど山側にあったが、平成3年(1991年)県道改修工事に伴い、岩ごと切り取って移設されている。

けっこう近寄って見たけど、何が書かれて(刻まれて)いるのか分からなかった。

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高崎市箕郷町東明屋の育王山萬松寺。

萬松寺 (1)
萬松寺 (2)
萬松寺 (3)
萬松寺は大永年間(1521~27年)井伊直政の伯母・恵徳院の開基、大光普照禅師の開山と伝わる。恵徳院の没年は大永元年(1521年)とされているので、大永元年の創建か?

萬松寺 (4)
萬松寺 (5)
本堂は平成14年(2002年)の新築。

萬松寺 (6)
萬松寺 (7)
境内の如意輪堂。如意輪観音が祀られているのだろうが、中は覗けなかった。

萬松寺 (8)
なぜか六地蔵がヘルメットを被っている(笑)。なんとなくかわいく見えるから不思議だ。

井伊直政が恵徳院の菩提を弔うために創建した恵徳寺は、直政の高崎転封の際に市内に移っている。恵徳寺と萬松寺の関係性は、あるのかないのかも含め、知識がなく分からない。
(「井伊直政の伯母のお寺 -恵徳寺-」参照)

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高崎市箕郷町西明屋の青龍山松山寺。

松山寺 (1)
松山寺 (2)
松山寺 (3)
松山寺の由緒は調べたが分からなかった。

松山寺 (4)
松山寺 (5)
梵鐘は享保12年(1727年)、代官・下田理左衛門が鋳造し松山寺に寄進したものである。しかし延亨元年(1745年)火災により鳥有(うゆう)に帰す。その後、理左衛門の孫・理太夫政廣が天明3年(1783年)に改鋳している。戦時中も供出を免れている。

下田家はもともと長野氏の家臣(家老とも)。武田信玄の箕輪城攻めの際に時の当主・正勝は長野業盛とともに討死し、下田家は当地に土着している。その後、天和2年(1682年)に白岩、富岡、西明屋など近郷7村が安房勝山藩(酒井氏)の所領となり陣屋が置かれ、下田家(正勝子孫)が代官となっている。

下田家の屋敷のうち書院と庭園が残っており、庭園は赤穂浪士・堀部安兵衛が設計・築造したといわれている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市下室田町の大森神社。

大森神社 (1)
大森神社 (2)
弘仁6年(815年)に上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行が領地を見廻った際、既に祠が祀られていたという。それが「大森渓の日影の社」で、大森神社の前身といわれる。

ちなみに、群馬大夫満行の8男・八郎満胤を祀っているのが、伊勢崎の八郎神社である。
(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社」参照)

大森神社 (3)
大森神社 (4)
拝殿は宝暦9年(1759年)の造営で、明治35年(1902年)に再建。昭和7年(1932年)に改築されている。

拝殿前に狛犬のようなものがあったが、見ると「果売箱」とある。なんと、中国の「ゴミ箱」ではないか!中国の観光地などに、オブジェを兼ねてよく置いてある。

宮司さんは「ゴミ箱」だと知って置いているのだろうか? 中国出身者の寄付? それにしても・・・。

大森神社 (5)
大森神社 (6)
大森神社 (7)
本殿も昭和7年(1932年)に改築されている。

大森神社 (8)
境内摂社の金鑽神社。ここにも「果売箱」が置かれていた・・・。

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高崎市中室田町大久保の岩井堂の石幢。
石幢は岩井堂の石段下にある。

岩井堂の石幢 (1)
岩井堂の石幢 (2)
岩井堂の建立等は不明。後ろの崖をえぐるように建っている。岩井堂は上野国観音霊場の第22番札所ということで、中を覗いてみたけど、観音様は見えなかった。

岩井堂の石幢 (3)
石幢の竿石には文明4年(1472年)の銘がある。残念ながら龕部は失われているが、輪廻車のはめ込まれていた穴は残っている。

この石幢は、別の場所に行こうとして道に迷ってウロウロしていた時に見つけた。解説版が目に入ったので停まってみたら、高崎市(旧榛名町)の重要有形民俗文化財の石幢があったということ。

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高崎市倉渕町三ノ倉の石上神社。

倉渕・石上神社 (1)
石上神社の創建は不明だが、奈良山辺郡の石上神宮の分霊を勧請したもの。平安時代に編纂された上野国神名帳に「従四位 石神明神」が見える。

倉渕・石上神社 (2)
倉渕・石上神社 (3)
拝殿の中に本殿が鎮座している。

石上神宮は古代の豪族・物部氏の氏神社であることから、当社も物部氏との関係が想像できる。上野国の物部氏は、上毛野国を治めた上毛野国に従い大和地方から移住してきたといわれる。後に石上朝臣となり石上部の君を名乗っている。
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高崎市倉渕町三ノ倉の榛名山座主の森。

榛名山座主の森 (1)
榛名山座主の森 (2)
榛名山座主の森は榛名山座主・快尊、忠尊、快承の墓といわれる。森という名称だが、円墳のような形状である。昔は鬱蒼とした森の中にあったのかもしれない。

座主とは一般的に天台宗のトップをことを言うが、住職の最上位職の別称でもある。榛名山座主とは、榛名神社の僧職の最高位のこと。神社の僧職というとおかしく感じるが、榛名神社(に限らないが)は古くから神仏習合が定着し、山中には9世紀ごろの僧坊とされる巌山遺跡もある。(神社から仏教が排除されたのは、明治の神仏分離以降のこと)

榛名山座主は藤原道長の子孫が代々受け継いだとされており、快尊は道長4代の孫・忠実の子孫といわれ、4代榛名山座主である。忠尊、快承は快尊の子。

快尊父子は榛名山執行職・頼印と座主の座を争い、烏川沿岸で敗死したしたという。快尊、忠尊は観応3年(1352年)、快承は文和2年(1353年)の死去。抗争に勝利した頼印は鎌倉公方の信任厚く、鶴岡八幡宮社家執事などを経て、応安4年(1371年)に榛名山座主に就いている。

快尊父子と頼印の争いは、榛名山の支配権をめぐる争いだが、当時の南北朝の代理戦争的な意味合いもあった。

榛名山座主の森 (3)
榛名山座主の森 (4)
鎌倉時代末と推定される多宝塔の残骸と2基の板碑などがある。板碑には元享2年(1321年)の銘が読み取れる。

それぞれが僧兵を指揮し争ったのだろうか? 権力争いはいつの時代も立場を超えて起こるものだ。

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高崎市下室田町の秀巌山大福寺。

大福寺 (1)
大福寺はの創建年代は不詳だが、最澄が東国巡錫のおり不動明王像を当地に堂を建立して安置したのが始まりと伝えられる。ちなみに、最澄の東国巡錫は弘仁6年(815年)からとされている。

大福寺 (2)
大福寺 (3)
現在の本堂は享和2年(1802年)建立と伝わる。

滝不動 (1)
滝不動 (2)
滝不動 (3)
滝不動 (4)
大福寺から数Km離れたところにある滝不動。大福寺の境外仏堂という位置づけになる。住所は高崎市中室田町になる。

不動堂は明和4年(1767年)に室田村の名工・清水谷仁右衛門、藤原貞宴による作と伝わる。

滝不動 (5)
最澄が手にしていた法具「独鈷(とくこ)」を近くの岩に投げつけたところ、そこから清泉が湧きだしたといわれる。これよりこの泉を「独鈷泉」と言う。但し、写真が「独鈷泉」かというと分からない。他に泉っぽいのはなかったけど・・・。鯉が泳いていて、池かなぁ~。

滝不動 (6)
滝不動 (7)
最澄が「滝に沐浴すれば総じて苦悩を洗い、去りて秘境の極に至ることこの清泉に勝るものなし」と言ったらしいが、不動明王が滝にうたれている。滝は人工みたいだけど。

上記写真以外にも不動明王がたくさん鎮座している。

滝不動 (8)
烏天狗顔。迦楼羅なのか?

滝不動 (9)
滝不動のすぐ前には烏川が流れている。のんびり眺めているのもいいかも。

古くから「室田之滝不動」として霊験があると広まり、江戸時代以降病気平癒を願う人の参拝が絶えないという。

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高崎市上里見町東間野の多胡神社。

多胡神社 (1)
多胡神社の創建は不明だが、羊太夫の流れをくむ多胡氏が当地に移り住み、先祖(羊太夫)を崇め祀ったといわれる。(羊太夫自身が落ち延びたとの伝承もある)

夏場の訪問のため雑草が生い茂り、参道(石段)がやっと見える程度。

多胡神社 (2)
鳥居はなく、神域を示すように竹竿に紙垂(しで)が垂らされている。

多胡神社 (3)
社殿は質素な造り。中を覗いたところ、明治13年(1880年)再建、平成17年(2005年)改修という文字が見えた(写真はうまく撮れなかった)。

多胡神社 (4)
多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(多胡碑?)。
寛延元年(1748年)の建立といわれるが、よく分からない。

ちょっと草がすごくて、近寄って碑文を読む元気もなかったが、安中市・羊神社の多胡碑と同様に見えた。
(「羊太夫を祀る -羊神社-」参照)

本家多胡碑(高崎市吉井町)はこちら。
(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

また、本家多胡碑のレプリカが辛科神社(高崎市吉井町)にある。
(「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-」参照)

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高崎市吉井町長根の恩行寺古墳。

恩行寺古墳 (1)
恩行寺古墳は鏑川右岸の上位段丘面の先端部に築かれた円墳で、墳丘径40m、高さ7mの規模を誇る。墳頂部には17mの平坦面を作っている。

恩行寺古墳 (2)
恩行寺古墳 (3)
墳丘外面には河原石を使用した葺石が確認されている。西から南側にかけて周堀の跡が残り、主体部は竪穴式と推定されるが、未調査のため埋葬施設や副葬品については不明である。

現地案内板には6世紀後半から7世紀前半の築造と書かれていたが、高崎市HPでは5世紀前半と書いてあった。時期が大きく違うが・・・。

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高崎市吉井町長根の医王山恩行寺。

恩行寺 (1)
恩行寺は堤宗重の開基で、創建は正和2年(1313年)である。応永10年(1403年)医王山恩行寺と改称。元亀元年(1570年)に長根城主・小幡縫殿介の援助により堂宇を改修している。

開基の堤宗重については一切不明。小幡縫殿介は年代的に小幡憲重あたりではないか?

恩行寺 (2)
現在の本堂は元禄4年(1691年)の建立。当然、改修が多々行われているが、平成に入ってから屋根の吹き替え、床・天井の張り替えを行っている。

恩行寺 (3)
恩行寺 (4)
境内の草木の中にお堂が見えたので覗いて見たら、座棺輿らしき物があった。座棺輿とは、土葬する際に座った姿勢で遺体を納め(座棺)、それを運ぶ輿のこと。土葬が行われなくなって久しいと思われ、お堂も草木に埋もれてしまっている。

恩行寺 (5)
恩行寺 (6)
本堂の南側にある峰薬師堂。名前の通り薬師如来が祀られていると思うが、残念ながら中は見えなかった。平成20年(2008年)に改築されている。

恩行寺 (7)
平成19年(2007年)開眼の「ながね観音」。

恩行寺の南側の山には恩行寺古墳がある。
(次回紹介予定)

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高崎市吉井町長根の長根城址。

長根城址 (1)
長根城は鏑川南の段丘端に築かれた長根氏の居城である。永禄年間(1558~70年)長根重清の築城とされる。

長根重清は児玉党・小幡氏の出で、関東管領上杉氏に従い、武田信玄の西上州侵攻後は武田氏に従っている。天正8年(1580年)の武田勝頼の膳城素肌攻めの際に討死している。
(膳城の素肌攻めは「武田勝頼の素肌攻め -膳城跡-」参照)

両側は墓地になっているが、この土壇は虎口の名残りではないだろうか。

長根城址 (2)
長根城址 (3)
本丸跡は畑になっている。往時は南から西にかけて堀が巡っていたらしい。

長根城址 (4)
長根城は天正18年(1590年)の北条氏滅亡時に廃城になったと推定されるが、その後本丸跡には光円寺が建立された。六地蔵はその名残か。

明治8年(1875年)から同42年(1909年)までは長根学校が置かれており、その後農地化が進んだと考えられる。

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高崎市倉渕町権田の岩窟観音。

岩窟観音 (1)
岩窟観音は熊谷次郎直実の愛馬・権田栗毛の母衣についていた金の観音像(一寸八分:約5cm)を胎内に奉蔵した観音像を祀る。

岩窟観音 (2)
岩窟観音 (3)
江戸時代末に建てられた観音堂があったが、平成12年(2000年)に背後の岩山が崩れ押しつぶされてしまった。
*幸いにも、観音像は無傷であった

お堂の彫刻類は旧お堂のものを一部再利用している。

岩窟観音 (4)
これ権田栗毛かな? なでているのは観音様??

岩窟観音 (5)
背後の岩山もコンクリートで補強された。

倉渕町には権田栗毛ゆかりの地がいくつかあるので、また行ってみよう。(今回の訪問時はまだ雪が残っていて、あまり回れなかった)

関連記事
 「伝・権田栗毛 終焉の地

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高崎市倉渕町三ノ倉の三倉山全透院。

全透院 (1)
全透院 (2)
全透院は延徳元年(1489年)木部新九郎の開基と伝わる。木部氏は応永(1394~1427年)から永正(1504~20年)の始めまで三ノ倉地方を支配していた。

その後、大戸(現、東吾妻町)を拠点とする浦野氏に支配が代わり、大永2年(1522年)に浦野重勝が堂宇を建立し、長年寺5世・紹舜を招き中興開基している。全透院は浦野重勝の法名「青霄院関翁全透居士」にちなんでいる。

全透院 (3)
全透院 (4)
重勝の子・重成、重次は武田氏に従い倉渕地方を支配している。そのためか、本堂の屋根には武田菱が掲げられている。(アップの写真を撮ってくるのを忘れた・・・)

全透院 (5)
本堂隣の地蔵堂。堂内には室町初期の造立と推定される延命地蔵像が安置されている。地蔵堂は全透院の前身の寺であったと考えられる。

全透院 (6)
墓地の入口にある閻魔大王と奪衣婆像。

全透院 (7)
全透院 (8)
全透院 (9)
境内には十三仏霊場があった。十三仏は冥界の審理に関わる13の仏で、13の追善供養を司る仏としても知られている。

ちなみに十三仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩。

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高崎市吉井町池の南高原1号古墳。

南高原1号古墳 (1)
南高原1号古墳 (2)
南高原1号古墳 (3)
南高原1号古墳は、元々吉井町神保にあった径17mの円墳。低い基壇を有する二段築成を呈している。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には葺石が残っていた。7世紀の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

南高原1号古墳 (4)
南高原1号古墳 (5)
石室は南側に開口する横穴式。石室全長は約8mで、石材は牛伏砂岩を用いている。

南高原1号古墳 (6)
南高原1号古墳 (7)
巨大な天井石。

発掘調査時、石室の天井石、奥壁、袖部を除く左右の側壁、羨道の左右側壁が残っていた。

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高崎市吉井町池の片山1号古墳。

片山1号古墳 (1)
片山1号古墳 (2)
片山1号古墳は、元々吉井町片山にあった径32.6mの円墳。周囲に巡る堀跡を含めると径約50mの規模を誇る。4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

主体部は8.8mの長大な粘土郭が確認されている。粘土郭中からは小型倣製の内行花文鏡の他、縦櫛、鉄剣、鉄鍬、鉄斧、勾玉などが出土している。

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高崎市吉井町東谷の舟石。

舟石 (1)
舟石 (2)
舟石は、多胡碑に刻まれている「羊」と考えられている羊太夫が、天から降りてきた時に乗ってきた船といわれている。

県道沿いの畑(道より少し高い)の端っこ、県道側に(ポツンと言うかデンッて言うか)ある。舟石の周りは同様の巨石はなく、確かに意味深な状況である。

舟石 (3)
舟石 (4)
全長3mくらい、高さ1.5mくらい(いずれも目測)。ただ、上部がえぐれてはいない。羊太夫の時代からは既に約1300年も経っているから、長い年月で土砂などで埋まったとも考えられるけどね。

天から降りてくるのに石の船に乗ってきたら、「降りる」ではなく「落ちる」じゃないか、などと無粋なことを言ってはいけない(笑)。

羊太夫に関してはよく分かっていないというというのが本当のところ。オレも知識はあまりないので、下記に関羊太夫に関係する過去記事を載せておくので、興味があったらどうぞ。

過去記事
 「昔を語る多胡の古碑
 「藤岡市・七輿山古墳
 「多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
 「舟形石棺が保存されている -宗永寺-
 「羊太夫を祀る -羊神社-
 「中臣羽鳥連の墓 -釈迦尊寺-
 「羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-

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高崎市金古町の愛宕山古墳。

金古愛宕山古墳 (1)
金古愛宕山古墳は径約30m、高さ3mの円墳で、古墳時代後期の6世紀末から7世紀前半に築造されたと推定される。

金古愛宕山古墳 (9)
金古愛宕山古墳 (2)
金古愛宕山古墳 (3)
墳丘上には愛宕神社が鎮座している。

金古愛宕山古墳 (4)
石室は南東に開口している。入口付近は左にカーブしており、石積みも含めて後世の手が加わっているようだ。

金古愛宕山古墳 (5)
金古愛宕山古墳 (6)
石室は自然石の乱石積手法を用いた横穴式両袖型で、全長9m、玄室長3.2m、最大幅2.1m、高さ2.3mという規模を誇る。

金古愛宕山古墳 (7)
金古愛宕山古墳 (8)
石室の天井石は巨大。巨石を積上げる技術はすごい。

金古地区北西部の牛池川、染谷川流域には、昭和10年(1935年)の調査で111基の古墳があったと報告されているが、愛宕山古墳はその中で最も保存状態の良いものとして貴重である。

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