上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 高崎市(旧群馬郡)


高崎市箕郷町西明屋の「左道通行」道標。

箕郷町・左道通行道標 (1)
群馬県立農林大前あたりの群馬県道28号(高崎東吾妻線)は、それぞれの車線が中央の杉並木を避けるように一方通行的な構造になっている。この箕郷側と榛名山側に、それぞれ左側通行であることを示す「左道通行」の道標(現在の道路標識とも言える)が設置されている。

箕郷町・左道通行道標 (2)
箕郷側の道標。大きさは約1m30cmで、昭和10年(1935年)に群馬県が設置している。当時この道は榛名山への登山道になっており、交通量の増加により二車線化する際にこのような構造になった。

箕郷町・左道通行道標 (3)
箕郷町・左道通行道標 (4)
榛名山側の道標。

箕郷町・左道通行道標 (5)
既に設置から90年近く経っているが、まだ現役の道標(交通標識)だ。とは言っても両側とも大きな矢印板が設置されており、道標に気づく人は少ないだろう。逆に矢印板が無く、道標だけだと危ないと思うけどね。

同様の「左道通行」道標が高崎市倉賀野町の旧中山道にあり、それを見てこの場所を思い出したと言うこと。(「高崎市倉賀野町・旧中山道『左道通行』道標」参照)

旧中山道の場合、道標や並木にぶつかる事故が多発したため撤去されたが、こちらはそういうことも少なかったようなので残されているのだろう。確かに旧中山道とは比べものにならないくらい交通量は少ない。


高崎市足門町の八坂神社。

足門八坂神社 (1)
足門八坂神社の由緒は不詳。口碑では千葉常将が長元4年(1031年)に船尾山楊沢寺(息災寺)に向かう途上、当地で戦勝祈願をしたことに由来するといわれる。

ただ一般的には八坂神社の上野国への勧請(尾張八坂御師の布教)は15世紀以降とされる。そのため足門八坂神社の勧請も15世紀以降と考えられているようだ。そのため当初は八坂神社ではなかった可能性もあるということ。

足門八坂神社 (2)
足門八坂神社 (3)
鳥居は境内地(と思われる)に入ってから少し奥にある。

足門八坂神社 (4)
足門八坂神社 (5)
桜の根元に「福田赳夫先生 内閣総理大臣就任記念」という碑があるので、就任時に植樹されたのかな? そうだとすると昭和51年(1976年)からで樹齢は50年近くになる。

足門八坂神社 (6)
足門八坂神社 (7)
足門八坂神社 (8)
社殿は武田信玄の箕輪城後略の際に焼失したと伝わる。箕輪城の落城は永禄9年(1566年)とされる。現在の拝殿は明治4年(1871年)の建立。本殿奥には八坂神社の本地仏・午頭天王の懸仏があり、背面に宝永元年(1704年)の朱書きがある。

足門八坂神社 (9)
足門八坂神社 (10)
足門八坂神社 (11)
本殿には見事な彫刻が施されている。そのうちの「天女の舞」(彫刻写真3枚目)は昭和54年(1979年)の復元。落下し破損したのだが、原因は当時行われていた上越新幹線のトンネル工事で使用したダイナマイト爆破の振動とされる。

足門八坂神社 (12)
足門八坂神社 (13)
秋葉大権現、御嶽大権現の石塔。昭和41年(1966年)に現在地に遷されている。

由緒(口碑)に書いた千葉常将は船尾山楊沢寺(息災寺)を焼き討ちしている(「相満の変」)。詳細は下記参照。
 「吉岡町漆原・矢落観音
 「榛東村山子田・船尾山柳沢寺
 「榛東村山子田・常将神社


高崎市足門町の薬師堂。
天王山徳昌寺の境外仏堂である。
(徳昌寺は「福田赳夫元首相の墓・天王山徳昌寺」参照)

足門の薬師堂 (1)
慶応3年(1867年)に金古町111号墳と呼ばれる径約16mの円墳上に飯島雪斎の碑を建立するため地ならしをしたところ、地中から足門村の開祖とされる長野氏家臣・岸忠清の名が刻まれた壺が出土した。

壺の中には土偶や刀剣などとともに金無垢の薬師如来像があったので、この地に薬師堂を建立して祀ったと伝えられている。後に古墳は「薬師さま古墳」とも呼ばれるようになった。

足門の薬師堂 (2)
現在のお堂は平成11年(1999年)の建立。

足門の薬師堂 (3)
飯島雪斎の碑。飯島雪斎は享和2年(1802年)足門村生まれ。江戸や大阪、長崎で西洋医学を学び、帰郷後に医院を開設し地元医療に貢献。また私塾を開き青少年の育成にも尽力している。元治元年(1864年)に死去。

足門の薬師堂 (4)
薬師堂脇の「足門村発祥之地」と書かれた本型のモニュメント。書かれている内容を要約すると、第12代景行天皇がこの地に薬師堂を創建したので、その名の「足の御門(たらしのみかど)」から足門(村)となったという。

景行天皇の和風諡号は「大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけ)」なので「足の御門」なのかな。ちなみに景行天皇は日本武尊の父である。

足門の薬師堂 (5)
庚申塔(青面王塔)の隣には、なぜか小便小僧の像がある。

足門村発祥の伝承に景行天皇が出てくるが、少し南の井出町の井堤神社は景行天皇の創建と伝わっている。なぜ旧群馬町に景行天皇の伝承が残っているのかは分からない。
(「高崎市井出町・井堤神社」参照)


高崎市冷水町の小祝(おぼり)神社。

小祝神社 (1)
小祝神社の由緒は不詳だが、上野国神名帳記載の「従四位上小祝明神」が当社とされる。

小祝神社 (2)
現在は小祝神と記された宝暦4年(1754年)銘の石宮があるのみである。

「花園星神記」によると、和銅7年(714年)に上野国大掾(律令制下の国司)・藤原忠明が当地に下向した際、夜半に目覚めてあたりを見渡すと光明が立ち上っているのが見えた。不思議に思い調べさせると、冷水町の小祝池からであった。そこで水中を探らせたところ、目が赤く首の白い不思議な亀を見つけた。これを時の天皇に献上したところ天皇は大いに喜ばれ、元号を霊亀に改元したという。

群馬郡誌(大正14年:1925年刊)は、この伝承を元に小祝神社の創建を和銅7年としている。

小祝神社 (3)
石宮前には特に何もなく草が生えているだけだが、ここは元は湧水池で不思議な亀の見つかった小祝池跡だとされる。また、地名の冷水もこの故事の霊水にちなんでいると伝えられている。


高崎市冷水町の神明宮。

冷水神明宮 (1)
冷水神明宮は寛文3年(1663年)の勧請とされる。鳥居はなく、代わりに神域を示す注連縄が張られている。

冷水神明宮 (2)
冷水神明宮 (3)
社殿の改修や境内整備は平成21年(2009年)に行われている。境内はブロック塀で囲まれている。

冷水神明宮 (4)
境内社・末社群。詳細は分からない。

冷水神明宮 (5)
穂結・枠結大神と刻された石塔がある。明治20年(1887年)の建立。穂結は火産霊神(ほむすび)、枠結は稚産霊神(わくむすび)の事と思われる。一般的には火産霊神は火災除け・土地の守護、稚産霊神は養蚕と五穀豊穣の神とされる。

当て字っぽいけど、土地(農業)と養蚕の振興、五穀豊穣を願っての建立だと思う。


高崎市金古町の諏訪神社。

金古諏訪神社 (1)
金古諏訪神社 (2)
金古諏訪神社の由緒は不詳。鳥居は元禄7年(1694年)の建立。

金古諏訪神社 (3)
金古諏訪神社 (4)
金古諏訪神社 (5)
社殿は昭和6年(1931年)の建立。建築に際しては伊勢神宮の内宮正殿の古材を使用している。20年毎の式年遷宮が昭和4年(1929年)に行われているので、その時のものだろう。

金古諏訪神社 (6)
拝殿前の狛犬は昭和11年(1936年)の造立。

金古諏訪神社 (7)
神楽殿。金古諏訪神社の太々神楽は毎年3月・5月・12月に奉納される。江戸時代から続いているとされるが、明治17年(1884年)に六郷村小塙の稲荷神社(現、高崎市上小塙町の烏子稲荷神社)から所作の伝授を受け、現在の様式になっている。
(烏子稲荷神社は「高崎市上小塙町・烏子稲荷神社」参照)

金古諏訪神社 (8)
金古諏訪神社 (9)
金古諏訪神社 (10)
社殿脇から裏にかけて境内社・末社が祀られている。社殿両側に境内社への鳥居が建っている。明治42年(1909年)に合祀された菅原神社や琴平宮の他、上野国延喜式内12社(抜鉾(貫前)神社・赤城神社・榛名神社・倭文神社など)も祀られていた。

金古諏訪神社 (11)
境内社・末社群の中に「奥之宮 諏訪大明神」と書かれた石祠があった。2枚の扁額も置かれている(いずれも「諏訪大明神」)。

金古諏訪神社 (12)
金古諏訪神社 (13)
金古諏訪神社 (14)
境内の祭器庫。平成19年(2007年)の建築。額には「土俵諏訪獅子舞保存会」とある。この「土俵」と「諏訪」は旧字名になる。「諏訪」は諏訪神社があるからだろうが、「土俵」とは珍しい。

ある時、金古宿に泊まった旅人が伝染病に罹患しており、それが元で町中に拡まってしまった。たまたま相撲取りが興業に来ていたので、疫病退散のため相撲をしたところ伝染病が治まったので土俵という地名がついたとされる。相撲ってやっぱり神事なのかね?


高崎市金古町の桃山稲荷神社。

桃山稲荷神社 (1)
桃山稲荷神社 (2)
桃山稲荷神社は大永6年(1526年)箕輪城主・長野信業が本丸の乾の方角(西)に一祠を建立し、山城国伏見稲荷の分霊を勧請したのが始まりとされる。永禄9年(1566年)の箕輪城落城前に時の城主・業盛が遷座(箕輪城内から退避)させたといわれる。

桃山稲荷神社 (3)
桃山稲荷神社 (4)
桃山稲荷神社 (5)
社殿は平成15年(2003年)に屋根を銅板葺に改修している。拝殿の扁額は「鎮西五社稲荷大神」。社殿前の灯籠は向かって右は大正7年(1918年)、左は天保5年(1835年)の奉納。

桃山稲荷神社 (6)
境内の松が良い雰囲気を醸し出している。

桃山稲荷神社 (7)
桃山稲荷神社 (8)
桃山稲荷神社 (9)
鳥居扁額には「五社稲荷大神」とあるので、桃山稲荷神社の旧鳥居と思われる。そうすると祠は本宮かな?

桃山稲荷神社 (10)
桃山稲荷神社 (11)
神楽殿。毎年、例大祭時に金古太々神楽が奉納される。

由緒に書いた長野信業は憲業とも言われ、有名な業正の父とされる。一部には信業の実在性を疑問視する説もあり、その場合は業正は方業の子とされる。また、一般的には方業は信業の弟とされている。分かりづらいけど、長野氏の系譜ははっきりしないということ。


高崎市金古町の甲州稲荷神社。

甲州稲荷神社 (1)
甲州稲荷神社 (2)
甲州稲荷神社は文化4年(1807年)甲州の正一位稲荷大明神の分霊を勧請し創建。解説板にはこう書いてあったが、正一位は稲荷神の神階なので、何てことはない甲州(山梨県)のどこかの稲荷大明神(神社)からってこと。

稲荷神社は県内にも多いので、なぜ甲州から? との疑問は残るが。とは言え、こちらで「甲州稲荷」と固有名詞になっているのは、地域に根付いている証拠だろう。

ちなみに昔は伏見稲荷大社の稲荷神が正一位で、そこから分霊した稲荷神は別途神階を得る必要があった。しかし鎌倉時代から分霊神も正一位に叙することが可能となり、今では全国どこの稲荷神社(分霊の分霊でも)も正一位を名乗っているが実情である。

甲州稲荷神社 (3)
甲州稲荷神社 (4)
甲州稲荷神社 (5)
覆屋内には祠が鎮座し、狐像が多く納められている。

甲州稲荷神社 (6)
覆屋前には稚産霊神(わくむすびのかみ)の石碑がある。明治20年(1887年)の大霜により桑畑に大きな被害が出たため、農家はやむを得ず蚕を土に埋める苦渋の選択をした。その蚕の霊を供養するため建立したもの。

神話では稚産霊神の頭の上に蚕と桑が生じ、臍(へそ)の中に五穀が生じた(日本書紀)とあることから、養蚕と五穀豊穣の神とされる。


高崎市金古町の医王山本光寺。

本光寺 (1)
本光寺は寛文年間(1661~73年)高崎藩主・安藤重博の開創とされる。

山門はなく、千部供養塔と宝篋印塔が並ぶ。ところが、その先の境内に何もない。宝篋印塔の先に写っているプレハブの建物にはそろばん塾の名が。何もない写真は撮るのを忘れた。改めて調べ直すと、昭和44年(1969年)に火災で焼失したとあった。どうやらそれ以降、本堂を再建していないようだ。

本光寺 (2)
ブロック塀に「本光寺境内整備記念」というプレートが埋め込まれており、平成2年(1990年)の日付がある。廃寺になったわけではないようだ。整備とは境内地を均したということかな。(プレートには関係者のお名前が刻まれているので黒塗りにした)

本光寺 (3)
本光寺 (4)
参道とおぼしきところには念仏供養塔や庚申塔、馬頭観音塔が建っている。

本光寺 (5)
本光寺 (6)
本光寺 (7)
境内の西側には二十三夜堂がある。中には如意輪観音石像があった。一瞬あれ? って思ったが、少し小さめの勢至菩薩木像もあった。二十三夜講の本尊は勢至菩薩のため(二十二夜講は如意輪観音が本尊)。

本光寺 (8)
本光寺 (9)
二十三夜堂の隣には薬師如来石像が3体あったが、いずれも破壊されている。明治初期の神仏分離による廃仏毀釈の影響と思われる。

本光寺 (10)
境内の北西の隅に無縫塔や石仏が並んでおり、かろうじて寺(跡)だということを偲ばせる。


高崎市金古町の鈷守(こもり)稲荷神社。
常仙寺の参道にある。(常仙寺は「高崎市金古町・金陽山常仙寺」参照)

鈷守稲荷神社 (1)
鈷守稲荷神社 (2)
鈷守稲荷神社の由緒は不詳。鈷守は「金古を守る」の当て字だと思う。

鈷守稲荷神社 (3)
鈷守稲荷神社 (4)
社殿(と言うかお社というか)は昭和6年(1931年)の金古宿絹市場の火災により焼失。その後再建されている。また、近年改修が行われている。扁額の「鈷守」の鈷が、金古が縦になっている。これからも「鈷守」が当て字と分かるというもの。

鈷守稲荷神社 (5)
鈷守稲荷神社 (6)
神社の脇に道祖神と「柳沢翁之碑」がある。柳沢翁とは金古宿絹市場の開設者。

明治に入り質の良い絹の生産地だった群馬県から東京や横浜へ輸送することや、生産者の製糸組合化などもあり、金古宿に絹市場が開設された。その市場があったのが鈷守稲荷神社周辺になる。

「鈷守」は火災後の再建時に、このようなことが二度とないように「金古を守る」との意味合いで付けられたのだと思う。


高崎市金古町の金陽山常仙寺。

常仙寺 (1)
常仙寺は慶長14年(1609年)半田村(現、渋川市半田)の龍伝寺5世・卯山聚寅の開創(開山)。また、寛永5年(1628年)三国街道金古宿の商人・飯塚常仙の開基ともいわれる。常仙寺の名は飯塚常仙からのようだ。

安永年間(1772~81年)に火災で焼失。天明2年(1782年)に再建されている。

常仙寺 (2)
常仙寺 (3)
参道の地蔵堂。延命地蔵を祀る。延命地蔵は新しく生まれた子を守り、その寿命を延ばすご利益がある。常仙寺が経営する幼稚園の脇にあるのも納得かな。

常仙寺 (4)
参道の道元像。ぱっと見、脱衣婆かと思った(苦笑)。平成12年(2000年)の造立。曹洞宗の開祖・道元の生誕800年記念。

常仙寺 (5)
門前の石仏・石塔類。右から馬頭観音、百番供養塔、地蔵像。

常仙寺 (6)
地蔵像は昭和6年(1931年)に金古宿絹市場で発生した火災により被災した方々の供養のため、昭和7年(1932年)に造立されたもの。当日は絹市場で映画が上映されており、映写室から出火したという。

常仙寺 (7)
常仙寺 (8)
本堂は昭和25年(1950年)に火災により焼失。現在の本堂は昭和40年(1965年)の建立。

常仙寺 (9)
常仙寺 (10)
本堂の鬼瓦・・・かと思ったが屋根は銅板葺きなので、これは「鬼板」。平成14年(2002年)に屋根を改修しているようなので、その際の取り付けかな。

常仙寺 (11)
鐘楼は太鼓楼形式。昭和43年(1968年)の建立。

常仙寺 (12)
墓地入口の六地蔵。平成13年(2001年)の造立。

常仙寺 (13)
常仙寺 (14)
六地蔵石幢。

常仙寺 (15)
十一面観音菩薩像。平成4年(1992年)の造立。

常仙寺 (16)
千心宝篋印塔とあった。平成12年(2000年)の造立。これも道元生誕800年記念のようだ。


高崎市後疋間町の福守神社。

福守神社 (1)
福守神社 (2)
福守神社は延宝6年(1678年)の創建と伝わる。

福守神社 (3)
福守神社 (4)
二ノ鳥居は「諏訪大明神」。合祀された諏訪神社の旧鳥居のようだ。

福守神社 (5)
境内は細長く、途中にある灯籠は天保14年(1843年)の奉納。

福守神社 (6)
福守神社 (7)
福守神社 (8)
社殿内には創建時の建立とされる総ケヤキ造りの本殿が鎮座する。ご神体は男根形で「お姿」と呼ばれる。この「お姿」を借りて神棚に安置して祈願すれば、子宝に恵まれるとされる。

福守神社 (9)
願いが成就したお礼参り時には、木製の「お姿」を奉納する風習がある。社殿内には数多くの「お姿」があったが、社殿改築の際に大部分が処分され現在は数少なくなっている。

福守神社 (10)
境内社の秋葉社、天満宮など。

福守神社 (11)
社殿前に大きな切り株がある。これはご神木の椋の木のもの。推定樹齢250年の椋の木は、高さ20m・幹周り10m超の大木であったが、枯死化が進み倒木の危険性が出てきたたため、平成23年(2011年)に伐採されている。

福守神社 (12)
伐採された椋の木は、歴史を示す展示物として現在も境内に置かれている。


高崎市後疋間町の宝塔。

後疋間の宝塔
後疋間の宝塔は基礎部に随求陀羅尼と光明真言の経文を刻み、生前に供養したことを示す逆修の文字もある。向かって右の宝塔は文安3年(1446年)、左の宝塔は宝徳元年(1449年)の銘がある(中央は江戸時代の石塔)。

県内の宝塔で紀年銘があり完全な形をしているものは少ないので、貴重な存在である。


高崎市西国分町の日光・月光菩薩石像。

日光・月光菩薩石像
日光菩薩石像(向かって左)と月光菩薩石像(右)。日光像は総高50cm、像高41cm。月光像は総高60cm、像高42cm。南北朝期の造立と考えられている。

一般的に日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍仏とされているので、薬師如来像と合わせ薬師三尊像であったと思われる。


高崎市西国分町の熊野神社。

西国分熊野神社 (1)
西国分熊野神社 (2)
西国分熊野神社の創建は不詳だが、大蔵坊という山伏の坊が紀州熊野三山(本宮・新宮・那智)を勧請したと伝わる。

鳥居は平成9年(1997年)の建立。

西国分熊野神社 (3)
玉垣や境内の整備が昭和63年(1988年)に行われている。

西国分熊野神社 (4)
西国分熊野神社 (5)
西国分熊野神社 (6)
社殿は昭和27年(1952年)に改修(拝殿は全面改築修、本殿は銅板葺へ)されている。これは境内あったケヤキの大木を伐採した資金による。

西国分熊野神社 (7)
西国分熊野神社 (8)
拝殿脇障子の彫刻。

西国分熊野神社 (9)
西国分熊野神社 (10)
蠶(蚕)影太神と境内社・末社の石宮群。

西国分熊野神社 (11)
庚申塔が集積されているが、ちょっと乱雑。

西国分熊野神社 (12)
双体道祖神も集積されている。ひとつには元文(1736~41年)の銘が読読み取れた。

由緒に出てくる大蔵坊は、本山修験宗の総本山である聖護院の門跡・道興准后が文明18年から19年(1486~87年)にかけての東国廻国をまとめた「廻国雑記」中に、上野国の国分で大蔵坊に滞留したと記述されている。この大蔵坊の主家には、今も多くの古文書が残されているという。


高崎市東国分町の国分山常安寺。

常安寺 (1)
常安寺 (2)
常安寺は慶安4年(1651年)法印自賢覚仙の開山、当地の庄屋・盛次の開基と伝わる。文化4年(1807年)隣家の失火により類焼、文化7年(1810年)再建。現在の本堂の様子から無住になって久しいようだ。

常安寺 (3)
境内の宝篋印塔。総高6mに及ぶ大きなもので、当地の住谷勝造が寛政元年(1789年)に造立。銘に「石工信州高遠御堂垣外村住、保科増衛門英親」とある。

常安寺 (4)
常安寺 (5)
墓地の小さなお堂には「へそ抜き観音」が安置されている。石宮には寛永7年(1630年)の銘があった。

観音像は石宮内のため見ることは出来ないが、観音像のお腹に穴が開いている。この穴に指を入れるとお腹が痛くなるといわれる。安産の観音さまとされており、お産を軽くするため指を入れる人が多いという。

常安寺 (6)
常安寺 (7)
歴代住職の墓(無縫塔)の中の行人塚。延宝4年(1676年)に即身仏になったという窩啓法印を葬ったもの。無縫塔の台石に開いている穴は空気取り用の穴とされる。


高崎市稲荷台町の大国主命の石碑。

大国主命の石碑
大国主命の石碑は元治元年(1864年)に稲荷神社の境外碑として造立されている。その石は榛名山から引いてきたと伝わる。台座は国分寺跡の礎石を使っている。
(稲荷神社は「高崎市稲荷台町・稲荷神社」参照)

書は中澤雪城。雪城は越後長岡の生まれで巻菱湖(まきりょうこ)の門に入る。流麗な書風をもって大いに流行し、生方鼎斎らとともに菱湖四天王の一人に数えられた。雪城の手がけた石碑は全国で28基確認されており、この「大国主命の石碑」はその内のひとつである。


高崎市稲荷台町の稲荷神社。

稲荷台稲荷神社 (1)
稲荷台稲荷神社 (2)
稲荷台稲荷神社は元禄15年(1702年)の創建と伝わる。鳥居は安永7年(1776年)の建立。

稲荷台稲荷神社 (3)
稲荷台稲荷神社 (4)
現在の社殿の建立年は不明だが、昭和35年(1960年)に瓦葺きに、平成18年(2006年)にも改修が行われている。

稲荷台稲荷神社 (5)
社殿脇に石宮や石仏が数多く鎮座している。詳細は分からない。

稲荷台村は江戸初期に総社藩・秋元氏の命により、藤井八左衛門を先達に22軒が入植・開拓したという。そして村の発展とともに穀物・農業の神である倉稲魂命を祀り鎮守としたという。


高崎市中泉町の八幡山医光寺。

医光寺 (1)
医光寺は宝徳2年(1450年)恵信阿闍梨の開創と伝わる。八幡山の山号から八幡宮の別当寺であったと考えられる。(八幡宮は「高崎市中泉町・八幡宮」参照)

医光寺 (2)
門前の薬師堂。由緒は不明。

医光寺 (3)
医光寺 (4)
医光寺 (5)
薬師堂前には石仏や石祠が並んでいる。中ほどの地蔵像の下に六地蔵が彫られている。明らかに別物で、六地蔵石幢の幢身上にお地蔵さんを置いている。

医光寺 (6)
二十二夜講の如意輪観音像。

医光寺 (7)
医光寺 (8)
医光寺 (9)
新旧のお地蔵さんと五輪塔が並んでいる。この五輪塔も六地蔵石幢の幢身と組み合わせている。先の地蔵像もそうだが、何のためにこんなことを?

医光寺 (10)
医光寺 (11)
本堂は平成30年(2018年)の新築建立。

医光寺 (12)
旧本堂の瓦と思われる。旧本堂は明治初年に瓦葺きに改築されている(棟札が残っている)。

医光寺 (13)
石造十三重塔。

医光寺 (14)
境内のしだれ桜。貞享2年(1685年)に高崎市下滝町の慈眼寺から根分けされたもの。樹齢は約340年になる。
(しだれ桜には触れていないが慈眼寺は「江原源左衛門重久の墓・華敷山慈眼寺」参照)


高崎市中泉町の八幡宮。

中泉八幡宮 (1)
中泉八幡宮の由緒は不詳。源義家が奥州平定の途上、当社に戦勝祈願をしたと伝えられる。その後、鎌倉後期・室町初期に兵火により焼失、戦国時代に長野氏が再建したといわれる。

中泉八幡宮 (2)
灯籠は昭和11年(1936年)の奉納。

中泉八幡宮 (3)
中泉八幡宮 (4)
中泉八幡宮 (5)
社殿は江戸末から明治初期の建立といわれる。本殿内にはご祭神・誉田別命の木彫りの立像が安置されている。

中泉八幡宮 (6)
中泉八幡宮 (7)
中泉八幡宮 (8)
社殿裏の黒髪山大神と八坂神社、蠶(蚕)霊大神、天満宮(写真上から)の石塔。

隣接(南)の福島町の浅間神社も源義家が奥州平定(後三年の役)途上のおり戦勝祈願をしたとされている。(「高崎市福島町・浅間神社」参照)


高崎市福島町の浅間神社。

福島浅間神社 (1)
福島浅間神社 (2)
福島浅間神社の由緒は不詳。社伝によると源義家が奥州平定を祈願し、鎌倉権五郎景正を遣わし幣帛(へいはく)を捧げたとされる。この伝承からすると、平安時代末には創建されていたことになる。

鳥居は東向きで、扁額は「富士山」。

福島浅間神社 (3)
福島浅間神社 (4)
拝殿は令和元年(2019年)の新築建立。本殿は盛り土された上に建つ。本殿覆屋は建て直されていないようだ。

拝殿前の狛犬は昭和63年(1988年)の造立。氏子の方の喜寿記念の奉納。

福島浅間神社 (5)
境内社の菅原神社。石祠は平成16年(2004年)の建立。

福島浅間神社 (6)
福島浅間神社 (7)
石塔(上の写真)は3基とも読めなかった。石宮や祠など(下の写真)は詳細不明。

社伝にある源義家と鎌倉景正の伝承は後三年の役へ向かう途上のことと考えられるが、両者ともに県内に多くの伝承を残している。義家が創建したとされる八幡神社は数多い。また「休み石」や「硯石」など、その名を冠する伝承石もある。

景正に関しても、伊勢崎市の五郎神社にご祭神として祀られている他、各地に伝承が残されている。

興味がある方はブログ内検索をしてみてください。


高崎市三ツ寺町の諏訪神社。

三ツ寺諏訪神社 (1)
三ツ寺諏訪神社 (2)
三ツ寺諏訪神社は慶安4年(1651年)の創建。諏訪大社からの勧請と思われる。石鳥居は享保2年(1717年)の建立。

三ツ寺諏訪神社 (3)
三ツ寺諏訪神社 (4)
社殿の建立年などは不明。社殿前の灯籠は嘉永4年(1851年)の奉納。

三ツ寺諏訪神社 (5)
三ツ寺諏訪神社 (6)
三ツ寺諏訪神社 (7)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。須佐之男命の八岐大蛇退治や天照大神の天岩戸隠れのように見えるが自信はない。

三ツ寺諏訪神社 (8)
三ツ寺諏訪神社 (9)
境内の覆屋内には阿弥陀如来石像と板碑(阿弥陀三尊)があった。板碑は建武2年(1335年)の建碑だが、石破壊により再建とある。再建時期は不明。

三ツ寺諏訪神社 (10)
青面金剛像。右側の像には元禄7年(1694年)の銘があった。

三ツ寺諏訪神社 (11)
三ツ寺諏訪神社 (12)
蠺(蚕)霊神、秋葉大権現、愛宕大権現の石塔と石宮群。

本殿の彫刻が素晴らしいのだが、本殿を囲む板塀によりなかなか上手く写真が撮れなかった。失礼ながら腕を差し込んで撮らせてもらった。


高崎市三ツ寺町の布留山石上寺。

石上寺 (1)
石上寺は貞観4年(862年)在原業平の開基、弘法大師3世の嫡孫・常喜院真覚僧正の開山で箕輪郷に創建される。その後、慶長3年(1598年)に井伊直政が箕輪から高崎に拠点を移した際、石上寺も高崎に移転している。現在の住所で言うと宮元町(東電の営業所あたり)。

明治になり寺領が上地(政府に公共地として没収されること)になり、明治24年(1891年)堤ヶ岡村(現高崎市三ツ寺町)の宗慶寺に寺格を移し、同寺に移転している。

宗慶寺は明徳3年(1392年)慶秀法印の開山で石上寺の末寺であったが、明治初年に廃寺になっていた。

石上寺 (2)
石上寺 (3)
本堂は昭和28年(1953年)の建立だが、相当老朽化している。

石上寺 (4)
石上寺 (5)
屋根瓦の一部は剥げ落ちている。

もしかしたら改修工事、または新築のための解体工事前なのかもしれない。工事用の資材らしき物が置いてあったし、山門周りや境内に何もなくなっているので。

ところで、箕郷町(高崎市箕郷町東明屋)には元の石上寺が残っている。移転後にどういう経緯があったかは不明だが、現在は布留山石上寺が箕郷町と三ツ寺町にそれぞれある(院号は三ツ寺:清浄光院、箕郷:潜龍院)。(「高崎市箕郷町東明屋・布留山石上寺」参照)


高崎市菅谷町の瀧宮神社。

瀧宮神社 (1)
瀧宮神社 (2)
瀧宮神社の由緒は不詳。上野国神名帳記載の息津宮明神は当社のこととされる。瀧宮神社のご祭神が田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神の「宗像三女神」であるので、宗像大社からの勧請と考えられる。

お隣の棟高町・胸形神社も同じ宗像大社からの勧請とされる。群馬県には宗像大社と関連性のある神社が約300社あるとされ、これは全国2位の数である。
(胸形神社は「高崎市棟高町・胸形神社」参照)

瀧宮神社 (3)
瀧宮神社 (4)
現在の社殿は昭和61年(1986年)の建立。社殿前の狛犬は昭和14年(1939年)の奉納。

瀧宮神社 (5)
社殿左側には猿田彦神や庚申塔、石宮が数多く並んでいる。

瀧宮神社 (6)
石宮などの一番端に松尾芭蕉の句碑がある。「名月や 池をめくりて 夜もすから」。建碑の経緯などは不明。

瀧宮神社 (7)
境内には子ども用の遊具(ブランコ・滑り台)が設置されている。昔は神社の境内が遊び場の定番だったが、最近は遊んでいる子どもを見ることはあまりないかな。


高崎市菅谷町の菅谷山大壱寺。

大壱寺 (1)
大壱寺は大同2年(807年)霊伝上人の開山と伝わる古刹である。

大壱寺 (2)
境内入口脇の六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

大壱寺 (3)
大壱寺 (4)
本堂は平成6年(1994年)の建立。明治31年(1898年)建立の前本堂が昭和36年(1961年)に火災で焼失。それ以降、仮本堂で凌いできていた。

大壱寺 (5)
聖観音。平成6年(1994年)の造立。

大壱寺 (6)
大壱寺 (7)
石塔や仏塔・石仏群。

大壱寺 (8)
本堂前に3基の五輪塔がある。康永2年(1343年)、永和9年(1383年)、明徳4年(1393年)の銘がある室町初期(南北朝期)の宝塔。当地の豪族の墓(もしくは供養塔)と考えられている。旧群馬町最古の五輪塔とされている。

ちなみに高崎市の旧市部最古の五輪塔も康永2年の造立で、倉賀野町の玄頂寺にある。
(「高崎市阿久津町・大翁山玄頂寺」参照)

ところで本堂の新築を記した記念碑に、当地に菅谷城があり長野業正の長男・吉業の居館であったと書かれている。また天文5年(1546年)川越夜戦の戦傷により没した吉業は当寺(大壱寺)に葬られたとある。さらに弟で箕輪城主の業盛についても、討死後に首級は井出の原、胴体は当寺に収められたとある。

長野氏に関しては不明な点も多く、いろんな説や伝承があると言うこと。

関連
 「長野業正の長男 吉業の墓・満行山善龍寺 その2
 「伝・長野業盛の墓
 「高崎市保渡田町・落合観音堂


高崎市菅谷町の石塚の虎薬師(石塚は旧字名)。

石塚の虎薬師 (1)
虎薬師の由緒は不詳だが、口碑では応仁元年(1467年)祐賢というものが菅谷村に落ち着き、仏門に入り一宇を建立し薬師如来を安置したといわれる。祐賢は浄眼寺の開山とされている。(「高崎市菅谷町・昌徳山浄眼寺」参照)

石塚の虎薬師 (2)
石塚の虎薬師 (3)
虎薬師という名称の由来は、どの方向に向けて据えてもいつの間にか寅の方角(東北東)を向いてしまうからといわれる。現在の薬師如来像は宝暦5年(1755年)の造立。

石塚の虎薬師 (4)
虎薬師は眼病に霊験があるとされる。虎薬師前にはご利益があった方がお礼参り時に奉納したと思われる石仏が多数ある。ほとんど読めない案内板には「お出子」を供える慣習があるとあった。「お出子」って何? 石仏のこと?

ところで、虎薬師が鎮座しているのは石塚古墳(薬師塚古墳、堤ヶ岡5号墳などとも)と呼ばれる円墳上である。ほとんど削られており面影はない。ちなみに、すぐ側を通る高渋線バイパスの交差点の名称は「石塚古墳南」である。


高崎市菅谷町の昌徳山浄眼寺。

浄眼寺 (1)
浄眼寺は応仁元年(1467年)阿闍梨法印祐賢の開山と伝わる。

浄眼寺 (2)
山門横の六地蔵。平成7年(1995年)の造立。

浄眼寺 (3)
浄眼寺 (4)
元文4年(1739年)建立の本堂が老朽化したため、平成4年(1992年)に新築建立。

浄眼寺 (5)
浄眼寺 (6)
境内の真言供養塔や石仏など。

浄眼寺 (7)
浄眼寺 (8)
お堂があったので中を見させてもらったら、金毘羅宮だった(お札が貼られているだけ)。

先述の浄眼寺の由緒は境内にあった「浄眼寺改築之記」(石碑)から抜粋したが、群馬郡誌(大正14年:1925年刊)には天正年間(1573~92年)長野信濃守の開基とあった。

長野信濃守と言えば一般的には長野業正を指すが、業正は永禄4年(1561年)に死去しており、天正年間まで生存していない。後継の業盛も信濃守を自称しているが、永禄9年(1566年)に武田勢に攻められ自害しており、やはり天正年間まで生存していない。

と言うことで、群馬郡誌の天正年間と長野信濃守の組合わせは間違いのようだ。


高崎市棟高町の堤下公園。
その一角に詩人・山村暮鳥の詩碑がある。

山村暮鳥の碑
山村暮鳥の詩碑。詩集「三人の処女」中の「独唱」が刻まれている。昭和56年(1981年)箕郷ライオンズクラブの建碑。除幕は翌57年。

山村暮鳥(本名土田八九十、旧姓志村、小暮)は明治17年(1884年)に西群馬郡棟高村(現高崎市棟高町)に生まれる。訳あって母方の祖父の次男(志村姓)として届け出。後に実父の養子となる(小暮姓)。大正2年(1913年)の結婚時に夫人の姓である土田となっている。

暮鳥は堤ヶ岡小の代用教員を務めながら、前橋の聖マッテア教会の英語夜学校に通う。その後、東京の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として布教活動に携わっている。

神学校在学中より詩や短歌の創作を始め、木暮流星の筆名で短歌などを発表。明治42年(1909年)に人見東明から山村暮鳥の筆名をもらう。暮鳥は斬新な詩風の作品を書き、それは時に毀誉褒貶あい半ばする評価を受けることとなった。

大正13年(1924年)肺結核に悪性腸結核を併発し、茨城県大洗町で死去。40歳。

暮鳥の詩碑は土屋文明記念文学館前や足門町市民センター、前橋こども公園内など県内に多数ある。また終焉の地である大洗町や水戸市、東海村など茨城県内にも複数ある。


高崎市棟高町の山王猿の石神。

山王猿の石神 (1)
ここは棟高の庚申塚と呼ばれ、青面金剛塔や猿田彦神の石塔、庚申塔などの庚申信仰(講)関連の石塔・石碑が並ぶ。

山王猿の石神 (2)
中央の石宮は日吉(ひえ)宮で、隣にその使いである山王猿がいる。

山王猿の石神 (3)
この山王猿は雌で、子授け・婦人病などに霊験があるとされる。そして大願が成就すると、猿像の陰部に紅(朱)色を入れて供物をあげる風習が残っている。そのため猿像には赤い(色落ちしてピンクになっているが)腰巻きが巻かれている。

山王猿の石神 (4)
山王猿の石神 (5)
庚申塔と青面金剛塔。

庚申信仰は平安時代に日本に入ってきたとされるが、民間信仰として盛んになったのは江戸時代のことである。庚申の「申(サル)」から「猿」が庚申の神使とされた。これは天台宗の総本山・比叡山の地主神・山王(日吉大社)の神使「猿」の影響もあってのことと思われる。

ついでに、神道における庚申の主神は、猿つながりから猿田彦神とされる。地方の道ばたに猿田彦神の石塔(石碑)をよく見かけるが、これも庚申塔の一種である。もちろん、もともとの意味合いである道しるべ・道祖神としての場合も多い(こっちの方が多いかな)。


高崎市棟高町の如意山大乗寺。

大乗寺 (1)
大乗寺 (2)
大乗寺は正和元年(1312年)僧・深秀の開山、当地の志村挙尊の開基とされる。その後の経緯は分からないが、法印敞長が中興開山している(年代不明)。

大乗寺 (3)
大乗寺 (4)
本堂には本尊の不動明王を祀る。また源信寿筆の「農事一式の図」六曲一双の屏風が保存されている。通称「農耕図屏風」と言い、江戸時代前期における農作業を描写したもの。

大乗寺 (5)
墓地の六地蔵。

大乗寺 (6)
十三重塔。平成9年(1997年)の建立。

大乗寺 (7)
大乗寺 (8)
歴代住職の墓域には立派な宝篋印塔が並ぶ。その中の中興開山・法印敞長の墓。

明治5年(1872年)には大乗寺を仮校舎として、現在の堤ヶ丘小が開校している(当時は発育小)。明治32年(1899年)に大乗寺東側に本校舎が建設されるまで使用された。

↑このページのトップヘ