Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

群馬五郎満行を祀る ー戸榛名神社ー
豊城入彦命の末裔・車持氏を祀る ー車持神社ー
高崎市箕郷町富岡・飯玉神社
高崎市箕郷町・道場山真福寺
高崎市井出町・意玉山大円寺
景行天皇の創建? ー井堤神社ー
長野業盛伝説 ー落合観音堂ー
高崎市箕郷町・慈眼山龍昌寺
高崎市箕郷町生原・厳島神社
高崎市箕郷町生原・原新田北野神社
閑院宮載仁親王殿下がご参拝 ー柏木沢八坂神社ー
高崎市箕郷町善地・駒寄神社
高崎市箕郷町善地・月波神社
高崎市箕郷町下芝・竜宮神社
高崎市箕郷町・下芝山万福寺
小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー
慈覚大師の開山 ー大獄山瀧澤寺ー
高崎市箕郷町・西うらの池と鴫上道祖神
高崎市箕郷町・白川陣屋跡
高崎市箕郷町松之沢・榛名若御子神社
高崎市箕郷町和田山・菅原神社
武田信玄のさかさ梅 -極楽院跡-
高崎市箕郷町和田山・熊野神社
高崎市箕郷町金敷平・大山祇神社
高崎市箕郷町東明屋・諏訪神社
高崎市箕郷町西明屋・東向八幡宮
堀部安兵衛築造の庭園? -妙福寺-
里見城の鬼門除け -城山稲荷神社-
高崎市吉井町・小野小町の休み石
高崎市吉井町多比良・西深沢の石造薬師如来坐像
高崎市吉井町・多比良古墳(諏訪前古墳)
新堀城主・多比良友定の創建 -多比良神社-
源義経・弁慶が参拝? -赤城若御子神社-
高崎市箕郷町・今宮八幡宮
高崎市箕郷町・向滝八幡宮
高崎市箕郷町・妙法山不動寺
義民・三木市右衛門の墓
高崎市吉井町・黒熊山延命寺
関東管領平井城の宝物城 -新堀城跡-
高崎市吉井町・瑠璃山普賢寺
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓
高崎市新町・藤木山龍光寺
高崎市新町・八坂神社
高崎市新町・笛木山専福寺
上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-
義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓
高崎市倉渕町・長井石器時代住居跡
高崎市上里見町・橋場の地蔵尊
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
高崎市・西間野(猿落し)の磨崖碑
井伊直政の伯母・恵徳院の開基? -萬松寺-
高崎市箕郷町・松山寺
果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-
高崎市中室田町・岩井堂
高崎市倉渕町・石上神社
高崎市倉渕町・榛名山座主の森
室田之滝不動 -高崎市室田・大福寺-
羊太夫を祀る その2 -多胡神社-
高崎市吉井町・恩行寺古墳
鎌倉時代の創建 -恩行寺-
長根氏の居城 -長根城址-
権田栗毛の観音像を祀る -岩窟観音-
大戸浦野氏の中興開基 -全透院-
高崎市吉井町・南高原1号古墳
高崎市吉井町・片山1号古墳
羊太夫が乗ってきた舟? -舟石-
高崎市・金古愛宕山古墳
高崎市吉井町・御穴塚古墳
羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-
高崎市吉井町・馬庭飯玉神社
吉井藩陣屋跡(春日社跡)
吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-
福田赳夫元首相の銅像
高崎市吉井町・馬庭念流道場
利根川100景 -東谷渓谷-
高崎市吉井町・住吉神社
剣聖・塚原卜伝の勧請? -卜神諏訪神社-
延文の板碑 -折茂観蔵院-
萌え系絵馬 -白山神社-
長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
箕輪城水の手曲輪 -法峰寺-
柏木沢の蚕影碑
由良国繁の墓? -箕郷町・金龍寺-
吉井町・小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-
榛名富士に登ったぞ! ロープウェイでだけど
榛名公園ビジターセンター
木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-
木部姫伝説 -御沼オカミ神社-
細川興秋の末裔・長岡家の供養施設 -弥勒寺-
日本三妙見 -妙見寺/妙見社-
木曽義仲の父・源義賢の館跡 -多胡館跡-
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
高崎市新町・神流川合戦の供養塔
土師清大夫の墓 -浄泉寺-
元禄と享保の石鳥居が保存されている -高崎市新町・諏訪神社-
小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-
遊女奉納の絵馬 -高崎市新町・八幡宮-
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓 -宝勝寺 その2-
小判供養塔 -宝勝寺-
高崎市新町・明治天皇行在所
遊女・於菊物語 -於菊稲荷神社-
福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-
高崎市榛名歴史民俗資料館
情緒のある佇まい -延命密院-
小串氏の墓所と南北朝時代の石仏 -地勝寺-
奥平氏発祥の地 -奥平神社-
多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
吉井藩代官・橳島家3代の墓 -法林寺-
菅沼定利の墓 -玄太寺-
県内屈指の大伽藍 -仁叟寺-
義民・白田六右衛門の顕彰碑 -龍源寺-
吉井・多胡薬師塚古墳
里見城址に行ってきた?? -里見城址-
里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-
里見義俊の菩提寺 -光明寺-
伝・権田栗毛 終焉の地
小栗上野介忠順 終焉の地  
井伊直政の開基 -龍門寺-
ちょっと荒れ過ぎ・・・ -石上寺-
石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-
立派な前方後円墳なんだけど・・・ -保渡田八幡塚古墳-
白岩観音 -長谷寺-
内藤塚 -善龍寺-
伝・長野業盛の墓
長野業正の墓 -長純寺-
長野氏累代の墓 -長年寺-
堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-
吉井藩陣屋の表門
吉井藩の歴史を勉強しました -吉井郷土資料館-
合併記念の碑だった -入野碑-
埋もれた名城 -箕輪城-
見晴らしはいいけど・・・ -吉井・牛伏山-
戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-
あれっ? 何でこんなに混んでるの? -榛名神社-
アララギ派って? -土屋文明記念文学館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-
小栗上野介の墓 -東善寺-

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高崎市神戸町の戸榛名神社。

戸榛名神社 (1)
戸榛名神社 (2)
戸榛名神社は天応年間(781~82年)の創建と伝わる。往古は榛名神社と称していた。上野国神名帳記載の榛名大明神は当社とされる。ご祭神の群馬五郎満行が当地で善政を敷いたので、里民はその徳を感じ満行を祭祀したという。

また、満行が都に上洛していたとき、紫宸殿上に黒雲が湧き上がり雷鳴が轟いた。光仁天皇が黒雲を射よと命じ、それに応じた満行は7尺2分の白木の大弓から矢を放つと、黒雲内の化け物は退散したという。光仁帝は大いに歓び、従三位の官位と藤原朝臣満行の名を賜ったといわれる。満行の死後、都で様々な凶事が起きたため、帝は満行の故郷(当地)へ勅使を遣わし、満行を祀った神社を建立したという説もある。

戸榛名神社 (3)
参道を進むと鬱蒼とした森の中に社殿がある。

戸榛名神社 (4)
戸榛名神社 (5)
戸榛名神社 (6)
火災などにより当地へ遷座してきたとの伝承もあるが、ここには長野勢の高浜砦の支砦(神戸砦)があったため、武田氏の西上州攻略戦の際に焼失。箕輪城攻めの際に、武田信玄が再興し戦勝祈願をしたといわれる。

現在の社殿の建立年などは分からないが、近年改修が行われているようだ。

戸榛名神社 (7)
神楽殿。大正5年(1916年)の建立。天井絵が施された立派なもの。古くから神楽が伝承されてきたが、現在は中断している。

戸榛名神社 (8)
戸榛名神社 (9)
社殿を囲むように多くの境内社・末社群がある。養蚕関係(蚕蟄国霊神)や農耕関係(地神)。

戸榛名神社 (10)
石祠の後ろに巨岩が置かれている。何か特別な意味があるのかな。

ちなみに、満行の8男・八郎満胤を祀った「八郎神社」が伊勢崎市福島町にある。8男だが総領(跡取り)になっため兄たちの恨みを買い殺されてしまうのだが、大蛇となって大暴れしたとの伝説がある。(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社-」参照)

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高崎市十文字町の車持神社。

車持神社 (1)
車持神社 (2)
車持神社の創建は不詳だが、当地を治めていた車持氏の館跡に祠を建て、車持氏に榛名大神を合わせ祀ったものと伝わる。上野国神名帳記載の車持若御子明神に比定される古社である。

車持氏は豊城入彦命の8世孫・射狭君が、雄略天皇のとき乗輿を献上したことから車持姓を賜ったとされる。

車持神社 (3)
車持神社 (4)
社殿は天正8年(1580年)の建立との記録が残る。現在の社殿の建立時期は不明。

車持神社 (6)
車持神社 (5)
御嶽山など、石碑や石祠が並ぶ。

車持神社 (7)
車持神社 (8)
社殿左に鳥居があり、下(沢が流れている)に降りられる石段がある。

車持神社 (9)
車持神社 (10)
下には不動明王像や「泰賢行者」「普寛行者」などと刻まれた石碑がある。榛名山や当地で修行した修験者が祀ったものかな。

車持氏は豊城入彦命の後裔「東国六腹朝臣」(飛鳥時代)のひとつの氏族。車持氏が統治していたので車郷(くるまのさと)や車評(くるまのこおり)と呼ばれるようになり、後の群馬県名の元になったともいわれる。また当地は旧久留馬村(旧榛名町に編入後、高崎市に編入)で、これも車持氏から来ている。

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高崎市箕郷町富岡の飯玉神社。

富岡飯玉神社 (1)
富岡飯玉神社 (2)
富岡飯玉神社は天文年間(1532~55年)の創建と伝わる。箕輪城主・長野業正の崇敬厚く、その後業正の弟・直業が下館に住んで常に崇拝したという。直業は富岡城主。また直業は小塙髙成と改名し、小塙7村を領有したともいわれる。

鳥居は文化2年(1805年)の建立。扁額の揮毫は源(岩松)徳純。

富岡飯玉神社 (3)
社殿の建立年などは不明。

富岡飯玉神社 (4)
富岡飯玉神社 (5)
社殿裏の境内社・末社群。

由緒は箕郷町誌(昭和50年:1975年)から調べたが、群馬郡誌(大正14年:1925年)では寛永6年(1629年)の創建となっている。

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高崎市箕郷町富岡の道場山真福寺。

真福寺 (1)
真福寺の由緒は不詳。現状を見ると観音堂(写真)以外何もないので、既に廃寺になっている? それとも観音堂以外移転している?

箕郷町誌(昭和50年:1975年)には写真入りで真福寺が載ってるので、それ以降に変化があったようだ。

真福寺 (2)
真福寺 (3)
観音堂は「箕郷三観音」と言われ、旧箕郷町三観音堂のひとつとされる。

真福寺 (4)
観音堂に掲げられている歌の奉納額。明治16年(1883年)に西群馬郡金敷平村の方が奉納。金敷平村は現在の箕郷町金敷平。

真福寺 (5)
観音堂の裏に石仏群が並んでいる。庚申塔が2基あり、1基は寛政12年(1800年)の造立で市川米庵の書。もう1基は安政7年(1860年)の造立で安中藩の儒者・太山融斎の書。

真福寺 (6)
青面金剛像と薬師如来像。薬師如来像には安永9年(1780年)の銘がある。

真福寺 (7)
真福寺 (8)
地蔵菩薩像と並び、阿弥陀三尊の梵字を刻んだ板碑がある。紀年銘はないが、総高95cmは旧箕郷町では唯一の大型板碑。ただ、残念ながら上から28cmのところで折れてしまっている(補修されているけど)。

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高崎市井出町の意玉山大円寺。

大円寺 (1)
大円寺は正慶年間(1332~33年)僧・慶運が現在の元井出に創建。その後、元和から寛永2年(1615~25年)の間に井出集落の移動が行われ現在地の移転している。その後、宝暦9年(1759年)に僧・寛良が中興している。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
大円寺 (4)
本堂は明和年間(1764~72年)に井堤神社境内に建立。井堤神社は大円寺のすぐ隣にある。(「景行天皇の創建? ー井堤神社ー」参照)

中興時の宝暦9年の建立との記録もあるようだ。昭和59年(1984年)に大改修が行われている。明治初年の神仏分離で、明確に境内が分離されたのだと思う。本尊の地蔵菩薩像は弘法大師の作と伝わる。

大円寺 (5)
本堂に掲げられている「長野業盛奮闘の図」。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時自刃した長野業盛の遺骸は、移転前の大円寺に葬られたとされる。移転時にお墓は元井出に残されている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

箕輪城内で自刃した業盛の遺骸をなぜ井出の僧がと思うが、業盛が井出で自刃したとの伝説もあるので。なんとなく関連性がある? と考えてしまう。
(「長野業盛伝説 ー落合観音堂ー」参照)

大円寺 (6)
大円寺 (7)
境内の阿弥陀堂。木彫阿弥陀如来坐像を祀る。檜の寄木造りで像高85cm。鎌倉時代中期のものと推定される。越後国から運ばれてきたと伝わる。

大円寺 (8)
参道の供養塔。天保15年(1844年)の建立。着色は建立時のものではなく最近のようだ。多分随時行われているのだと思う。

大円寺 (9)
境内の宝塔は享保20年(1735年)の建立。

大円寺 (10)
境内の長谷観音。詳細不明。

大円寺 (11)
境内の一角に馬頭観音がまとめられている。なんとなく長野業盛伝説(上記落合観音堂)との関連性を考えてしまう。考えすぎかな。

大円寺 (12)
大円寺 (13)
大円寺 (14)
墓地に如意輪観音形の墓石が40基以上ある。宝永5年(1708年)、寛保2年(1742年)などの銘があるものもあるが、無銘・無戒名も多い。確認出来た戒名に「童女」とあったので、幼くして亡くなった女の子や女性の墓石として用いられたのだろうか。

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高崎市井出町の井堤神社。

井堤神社 (1)
井堤神社 (2)
井堤神社の創建年は不詳。上野国上名帳の「大井明神」とされる。伝承では景行天皇(第12代)が東国へご巡幸の際、当地に清泉が湧出するのを見て社を建てさせ「井堤の社」と名付けたとされる。

ちなみに景行天皇の即位は西暦51年とされる。景行天皇は有名な日本武尊の父。

井堤神社 (3)
鳥居前の大灯籠は日露戦争戦勝記念として明治40年(1907年)の造立。

井堤神社 (4)
水鉢は高崎市住吉町の神成伝吉の奉納。伝吉は井出出身で「村伝」の初代店主。

井堤神社 (5)
井堤神社 (6)
社殿の建立年などは不明。社殿前の灯籠は天明2年(1782年)の奉納。

井堤神社 (7)
井堤神社 (8)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。ただ保護金網の目が細かくて、上手く写真が撮れなかったのは残念。

井堤神社 (9)
社殿裏の境内社、末社群。古峯神社など。

井堤神社 (10)
境内はずれの青面王・一石庚申塔。嘉永5年(1852年)の造立。道路沿いにあったものを平成26年(2014年)に移動。

日本書紀によれば、景行天皇は日本武尊の死を悲しみ、追慕して東国巡幸に出たとされる。景行天皇53年(西暦103年)のこと。群馬にはなじみの豊城入彦命の子・彦狭島王、孫・御諸別王を東国(関東)に派遣したのも景行天皇とされる。

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高崎市保渡田町の落合観音堂。

落合観音堂 (1)
落合観音堂の創建年は不詳だが、箕輪城落城時の長野業盛に関する伝承がある。

永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、城から脱出した業盛は傷馬に鞭を打ち落合まで落ち延びてきた。当地(観音堂)から東南の井野川畔といわれる。そこで馬を処分した業盛は井出野にて自刃。

その後、落合付近では災いが多発。旅の僧が「畜馬の霊障がある」と言うので調べると、砂中から馬の亡骸と朽ちた鞍が見つかった。そこで村人は相談のうえ小宇を建立し馬頭観音を祀った。その結果、災いは起らなくなったという。

現在の観音堂は嘉永2年(1849年)の建立、明治23年(1890年)の改築。

落合観音堂 (2)
落合観音堂 (3)
本尊の馬頭観音は一寸八分(約5.5cm弱)。厨子の前に馬頭観音像らしきものが見えるが、前立像的なものかな。一寸八分より大きいし。ただ厨子が開いていて、中には板碑の一部が置かれている。本尊は別の場所に安置されている? 本尊は1月2日のみご開帳される。

落合観音堂 (4)
床下の軽石はイボを取る効果があるといわれ、治ると倍にして返す風習がある。

落合観音堂 (5)
落合観音堂 (6)
落合観音堂 (7)
社務所らしき建物の中には釈迦誕生像らしき像や古い位牌などが見られる。詳細は不明。

落合観音堂 (8)
落合観音堂 (9)
多くの石仏が並べられている。

一般的には、長野業盛は箕輪城内・御前曲輪の持仏堂にて自刃したとされ、城外に落ち延びたとはされていない。ただ、その遺骸はどういう経緯か高崎市井出町に葬られている。当地の僧により葬られたとされるが、その明確な根拠はなく、あくまで「伝」業盛の墓となっている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

井出野にて自刃という落合地区の伝承も含め、想像力を働かせて歴史を考えるのもおもしろい。

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高崎市箕郷町生原の慈眼山龍昌寺。

箕郷町・龍昌寺 (1)
龍昌寺は川浦四郎左衛門が川浦家の菩提寺として龍善寺5世・大安堯覚を開山として招き創建。大安堯覚の入寂が万治3年(1660年)なので、創建は江戸初期となる。

川浦氏は地元の有力者で、生原厳島神社に祀られている弁天さまを発見したとされる。(「高崎市箕郷町生原・厳島神社」参照)

箕郷町・龍昌寺 (2)
入口には回国供養塔や庚申塔が建っている。

箕郷町・龍昌寺 (3)
境内は狭く、しかも本堂前には樹木が有りよく見えない。小さな池もあったけど、どうしても上手く写真が撮れなかった。

箕郷町・龍昌寺 (4)
箕郷町・龍昌寺 (5)
朱色のお堂があったが、中は物置同然になっており詳細不明。上郊(かみさと)村誌(昭和51年:1976年)によると、寺域に朱鳥居と稲荷堂があると書いてあったのでその名残かな。鳥居はなかったと思う。

ちなみに、旧上郊村は昭和32年(1957年)昭和の大合併で、生原地区のみが箕郷町へ編入、他の中里、保渡田、井出地区は群馬町へ編入している。まあ、結局は平成の大合併(平成18年:2006年)で箕郷・群馬の両町は高崎市へ編入合併しているので、現在は旧上郊村はすべて高崎市となっている。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の厳島神社。

生原厳島神社 (1)
生原厳島神社 (2)
生原厳島神社は享保年間(1716~36年)の創建。生原の原新田地区は水利の便が悪く、近くにあった唯一の湧水池を貴び、水の神・市杵島姫命を祀ったといわれる。

鳥居は安永5年(1776年)の建立。扁額は弁財天。ご祭神の市杵島姫命は本地垂迹では弁天さまに比定される。

生原厳島神社 (3)
灯籠は天明6年(1786年)に当地の川浦氏の奉納。

生原厳島神社 (4)
中は見られなかったが、高さ18cmの弁天さまが納められている。この弁天さまは、川浦氏が新田開墾時に石臼を2つ合わせたものを掘りあて、その中に入っていたといわれる。

川浦氏についてはよく分からないが、新田開発の中心的な役割を果たしているようなので、名主的な存在だったのかな。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の北野神社。
生原地区には北野神社が2つあるが、原新田(字名)にある北野神社。

生原(原新田)北野神社 (1)
原新田北野神社は生原北野神社より分霊を勧請して創建。

伊香保街道の整備で榛名登山客などの往来が増え、街道沿いに休憩所や民家が集まり生原地区が次第に東側に発展し、原新田集落が形成された。戸数も増えたので、新たに生原北野神社より分霊を勧請したようだ。よって創建は江戸時代の初期から中期くらいかな。
(生原北野神社は「小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー」参照)

生原(原新田)北野神社 (2)
鳥居がなく境内に地区集会所があるので神社らしくない佇まい。境内側から見ると灯籠があるので、かろうじて神社と認識できる。灯籠は安永2年(1773年)の奉納。

生原(原新田)北野神社 (3)
生原(原新田)北野神社 (4)
生原(原新田)北野神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

生原(原新田)北野神社 (6)
生原(原新田)北野神社 (7)
境内社の古峯神社と秋葉大権現、御嶽山大権現、愛宕大神の石碑。

地区が大きくなったから分社を造るということは、北野神社が生原地区の鎮守さまの位置づけなのかな。

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高崎市箕郷町柏木沢の八坂神社。

柏木沢八坂神社 (1)
柏木沢八坂神社の創建年は不詳。永禄9年(1566年)武田信玄の箕輪城攻めの際に焼失。安永4年(1775年)に再建されている。鳥居は昭和12年(1937年)の建立。

柏木沢八坂神社 (2)
柏木沢八坂神社 (3)
鳥居から入ると社殿は左側にある。正確な方角は分からないが、鳥居は西面、社殿は南面かな。

明治30年(1897年)に再度火災で焼失。同年再々建されている。

柏木沢八坂神社 (4)
柏木沢八坂神社 (5)
拝殿前に木くずが落ちていたので、上を見ると屋根裏が剥がれかけている。地域の神社はなかなか修理もままならないね。

柏木沢八坂神社 (6)
閑院宮載仁親王が大正2年(1913年)に相馬原の陸軍演習場へお成りの際、当社に参拝している。その記念碑。

閑院宮載仁親王は伏見宮家から閑院宮家を継ぎ、皇族軍人や貴族院議員として活躍された。昭和20年(1945年)の終戦直前に薨去。閑院宮家は春仁王が継承したが、戦後GHQの政策により閑院宮家など11宮家は皇籍離脱・臣籍降下されている。閑院宮家は春仁王で絶家となっている。

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高崎市箕郷町善地の駒寄神社。

駒寄神社 (1)
駒寄神社は文久元年(1861年)地元の堀田彦右衛門、剣持与惣次ら7名の世話人が、月波神社の分霊を勧請したもの。以前は分霊月波神社とか別院月波神社と呼ばれていた。平成17年(2005年)榛名神社の分霊も迎え駒寄神社となっている。駒寄は字名。
(月波神社は「高崎市箕郷町善地・月波神社」参照)

駒寄神社 (2)
鬱蒼とした森(と言うか山林)の中に鎮座している。

駒寄神社 (3)
駒寄神社 (4)
駒寄神社 (5)
質素な作りの社殿だが、地域の鎮守として崇敬されている。

駒寄神社 (6)
県道沿いの庚申塔と百番供養塔。案内板もあったのだが、ちょっと高い所にあり登れなかったので読めなかった。

駒寄神社は月波神社からさらに奥に行った旧箕郷町の最北端になる。神社前の県道をそのまま行けば榛名湖に至る。当時は月波神社まで参拝に行ったのだろうが、けっこう難儀だったので地域の神社として月波神社を勧請したのだろう。

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高崎市箕郷町善地の月波神社。

月波神社 (1)
月波神社 (2)
月波神社は安閑天皇元年(531年)の勧請と伝わる。上野国神名帳記載の「月波明神」に比定される古社である。

月波神社 (3)
月波神社 (4)
二の鳥居の扁額は「月並神社」になっている。当社は元は榛名神社の参道で、榛名神社の月並(月次の意味)祭り時に遙拝したことから、月並神社の名になったとされる。

月波神社 (5)
月波神社 (6)
梅林にはさまれた参道を過ぎ県道を渡ると、1段高いところが境内。立派な割拝殿(かな?)。

月波神社 (7)
月波神社 (8)
年代は分からないが愛嬌のある狛犬。阿形(写真上)は昔のアニメでこんな風貌のキャラを観たことがあるようなないような。

月波神社 (9)
月波神社 (10)
月波神社 (11)
社殿は正保4年(1647年)建立といわれる。その後、幾度かの改修を経て現存する社殿は元文元年(1736年)の建立とされる。拝殿の扁額も「月並神社」。

月波神社 (12)
月波神社 (13)
拝殿の龍と麒麟の彫刻。

月波神社 (14)
月波神社 (15)
本殿彫刻。題材は分からない。

月波神社 (16)
境内の十三重塔。初詣時に塔の小さな穴へ米粒を入れると、ご利益があるといわれている。

延暦年間(782~806年)に豊城入彦命の末裔とされる車持氏が、坂上田村麻呂の蝦夷討伐に参戦。その功績により「善知」の姓を授かったことから、当地を「善地」と呼ぶようになったといわれる。

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高崎市箕郷町下芝の竜宮神社。

竜宮神社 (1)
竜宮神社は箕郷町上芝字竜の宮の龗(オカミ:雨かんむりの下に口をよこ並びで3つ、その下に龍)神社からの勧請と伝わる。龗は水神・淤加美神(おかみのかみ)のこと。
*龗(オカミ)は場合によっては文字化けする可能性有り

鳥居は正徳3年(1713年)の建立。

竜宮神社 (2)
竜宮神社 (3)
明治期に西明屋の東向八幡宮に合祀されたが、昭和23年(1948年)に再度分離されている。

竜宮神社 (4)
境内の道祖神は天保年間(1831~45年)の造立。

竜宮の名称から、浦島太郎伝承との関係があるのかと思ったが、水の神を祀る神社のようだ。稲の豊作や雨の恵みを願い感謝するということ。

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高崎市箕郷町下芝の下芝山万福寺。

万福寺 (1)
万福寺の創建は数度の火災により古記録が失われたため不詳だが、開山の英伝法印の入寂が永正2年(1505年)とされるので、それ以前の創建と考えられる。

現在の本堂は安永7年(1778年)の再建。

万福寺 (2)
万福寺 (3)
青柳紋右衛門友忠が祖先供養のために百番霊場を巡拝(巡礼)、建立した宝篋印塔。安永4年(1775年)の造立。中には仏像が。青柳家は長野氏家臣の家柄。

万福寺 (4)
百番霊場巡拝供養塔。六角形の多宝塔型で安永5年(1776年)の造立。これも青柳紋右衛門友忠の造立と考えられる。

一般的に西国33札所巡拝などの諸国巡拝達成記念に建てられる供養塔。百番は西国33ヶ所、板東33ヶ所、秩父34ヶ所の100霊場。先の宝篋印塔は祖先のために建て、供養塔は地域の方々のために建てたということかな。

お年寄りや身体の弱い方などが、この供養塔をお参りすることで、100ヶ所巡拝したことと同じご利益が得られるとされるので、江戸時代に全国的の造立されている。

万福寺 (5)
観音菩薩と地蔵菩薩。平成2年(1990年)の造立。

万福寺 (6)
墓地の五輪塔。赤城型といわれるもので高さ145cm。「并諸檀那奉逆修応永廿八年拾月」の銘がある。逆修なので生前造立。また、応永28年は1414年。と言うことは、応永年間には万福寺は創建されていたということかな。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の北野神社。
生原地区には北野神社が2つあるが、フレッセイ箕郷店のすぐ東にある北野神社。

生原北野神社 (1)
生原北野神社 (2)
生原北野神社は永禄2年(1559年)の勧請と伝わる。現地説明板には永禄3年とある。(永禄2年は群馬郡誌から)

生原北野神社 (3)
現在の社殿は文久元年(1861年)の建立。棟梁は清水和泉、彫刻は小林源太郎正俊。

彫刻師・小林源太郎正俊は「関東の名工」と称され、榛名神社の双龍門の龍を手がけたことで有名。その他、県内では桐生天満宮、植野稲荷神社(前橋市)などにも華麗な彫刻が残されている。

生原北野神社 (4)
生原北野神社 (5)
生原北野神社 (6)
生原北野神社 (7)
拝殿は向背彫刻や水引虹梁、木鼻の龍鼻などを上手に残し、柱などを改修しているようだ。

生原北野神社 (8)
生原北野神社 (9)
生原北野神社 (10)
生原北野神社 (11)
生原北野神社 (12)
本殿は木造桧皮葺き唐破風造りで、精巧な彫刻で彩られている。高崎市の重文に指定されている。

生原北野神社 (13)
北野神社らしく牛の石像。大正14年(1925年)の奉納。風に晒されたせいか、かなり丸みを帯びている。菅原道真と牛の逸話は、道真が丑年生まれで丑の日に亡くなったとか、茸狩りの時に牛が寄ってきたとか、太宰府に流されていくときに藤原氏の刺客を倒したとか、いろいろある。

関連
 「桐生の総鎮守 ー桐生天満宮ー
 「『関東の名工』小林源太郎の彫刻 -植野稲荷神社-

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高崎市箕郷町白川の大獄山瀧澤寺。

瀧澤寺 (1)
瀧澤寺は相馬岳不入瀧澤に天台宗・満行山瀧澤寺として創建。寺伝では比叡山延暦寺2世・慈覚大師の開山とされる。その後、平常将が楊沢寺(現柳沢寺)を焼き払った事件(相満の変)の際に焼失。難を逃れた僧が当地に一堂を建立したという。

その後荒廃したが、天正年間(1573~92年)に井伊家家臣・中野直之が永源寺5世・厚山慶淳を迎え、曹洞宗・大獄山瀧澤寺として再興。直之の妻は井伊直盛(直政の父)の妻の姉のため、井伊直政の伯父にあたる。井伊家の箕輪入りは天正18年(1590年)なので、その頃かと。

瀧澤寺 (2)
入口にはお地蔵さんや供養塔が並ぶ。

瀧澤寺 (3)
瀧澤寺 (4)
山門の扁額は「𢮦黙院」。瀧澤寺の院号は「不入院」なので、「𢮦黙院」は仏教用語なのかな。

瀧澤寺 (5)
瀧澤寺 (6)
中興後も3度火災により焼失。寛政2年(1790年)再建の記録が残る。現在の本堂はまだ新しく、近年の建立のようだ。

瀧澤寺 (7)
山門前には湧き水が引かれている。写真には写ってないが、柄杓が置かれていたので、飲んだり持ち帰ったりしてもいいようだ。ただ、飲料水の基準を満たしているかは不明。

瀧澤寺 (8)
瀧澤寺 (9)
その湧き水を湛える池には、大きな鯉が優雅に泳いでいた。

瀧澤寺 (10)
門前の仁王像の横にある経蔵。間口3.6m、奥行き4mの方魚尾根造り。経典を納めた6角形に区切られた棚が回る仕掛けになっている。そのため「巡り経蔵」と言われる。外観がかなり綺麗なので、最近改修が行われたようだ。

「相満の変」については下記参照。
 「空から飛来した観音様 -矢落観音-
 「五重塔がある! -柳沢寺-
 「平(千葉)常将を祀る -常将神社-

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高崎市箕郷町白川の西うらの池と鴫上道祖神。

西うらの池と鴫上道祖神 (1)
鴫上(しぎあげ)地区の貴重な水源となっていた「西うらの池」。昭和32年(1957年)に簡易水道が引かれるまで、数ヶ所の湧水池と井戸水が貴重な生活用水となっていた。現在残っている湧水池は「西うらの池」のみである。

この湧水池は年間を通して16℃ほどで、冬季など低温期の早朝には水面が湯気のように立ちこめ、幻想的な姿を見せるという。

西うらの池と鴫上道祖神 (2)
「西うらの池」と道をはさんで道祖神が祀られている。宝暦12年(1762年)ころの造立。道祖神の両側には「前橋 至室田街道」と記された道標石と、馬頭観音像がある。

ちなみに鴫上という地名は、長野村(現在の沖町)方面から見ると、鴫が飛び立つように見えることからその名が付いたといわれる。

鴫
鴫と言われてもまったくピンとこないので、ウィキペディアから写真を拝借。最近、日本では減少傾向にあるらしいが、地名が付いた頃は当たり前のように空を飛んでいたと思われる。

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高崎市箕郷町白川の白川陣屋跡。

白川陣屋跡 (1)
白川陣屋跡 (2)
現在の白川地区から高崎市高浜町にかけての7村は、天和2年(1682年)に安房勝山藩・酒井家の飛び地領となった。そのため勝山藩の陣屋が白川に置かれた。陣屋の敷地は、北12間(約21.6m)・西17間(30.6m)、南27間(48.6m)で、取り調べ用の白洲もあった。

現在は畑になっており、遺構などは素人目には分からない。

ちなみに、代官を務めたのは西明屋の下田家。下田家には旧赤穂浪士で、吉良邸討ち入り47士のひとり堀部安兵衛が出入りしており、その際に設計・築造したといわれる庭園が残されている。(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市箕郷町松之沢の榛名若御子神社。

榛名若御子神社 (1)
榛名若御子神社 (2)
榛名若御子神社 (3)
榛名若御子神社の創建年は不詳だが、榛名神社の分霊を勧請し榛名神社として創建。明治期に火産霊命を合祀し、榛名若御子神社と改称している。

鳥居は享保2年(1717年)の建立。扁額は「満行宮」。石灯籠は享保元年(1716年)の奉納。

榛名若御子神社 (4)
榛名若御子神社 (5)
榛名若御子神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

榛名若御子神社 (7)
榛名若御子神社 (8)
拝殿前に丸太があると思ったら賽銭入れ(箱ではない)だった。必要以上に賽銭入れの周りをウロウロして、在らぬ疑いを掛けられても困るので下の方はよく見てこなかったけど、下側から中をくり抜いてあるのかな。

榛名若御子神社 (9)
榛名若御子神社 (10)
境内社・末社群。

榛名若御子神社 (11)
双体道祖神。箕郷・榛名・倉渕あたりには道祖神が多い。

榛名若御子神社の氏子さんたちは、例祭前夜から社域に灯をともし、当日は早朝から毎戸赤飯を準備し、手に提灯をかざし神前に集り、提灯を拝殿の鴨居に掛け赤飯酒等を献じ祭を行うという。昭和50年(1975年)刊行の箕郷町誌から要約。

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高崎市箕郷町和田山の菅原神社。

和田山菅原神社 (1)
和田山菅原神社 (2)
和田山菅原神社は天正19年(1591年)の創建。前回の極楽院跡のすぐ隣にある。極楽院との関係は不明だが、明治以前は神仏習合の関係にあったと考えられる。
(極楽院跡は「武田信玄のさかさ梅 -極楽院跡-」参照)

現在の鳥居は平成8年(1996年)の建立。

和田山菅原神社 (3)
和田山菅原神社 (4)
社殿も新しいので、鳥居の建立と同時の再建かな。灯籠は寛保3年(1743年)の奉納。

和田山菅原神社 (5)
内部の本殿は古そうだが、築造年などは不明。

和田山菅原神社 (6)
和田山菅原神社 (7)
参道脇に庚申塔などがまとめられている。大きさなどから、百庚申として建碑されたものかな。

和田山菅原神社 (8)
境内社の八幡宮など。明治期の合祀かな。

極楽院跡の「さかさ梅」前にある説明板には「信玄入道偶々極楽院を訪い天満宮に詣ぜし」とあるが、箕輪城落城は永禄9年(1566年)。由緒に書いた天正19年は群馬郡誌から。この辺の違いや経緯は分からない。

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高崎市箕郷町和田山の極楽院跡。正式には和田山極楽院清涼寺。

極楽院跡 (1)
極楽院は箕輪城主・長野業正の開基、良雲法印の開山と伝わる。創建年は不詳だが、弘治から永禄4年(1555~1561年)あたりかな。永禄4年は業正の没年。その後、京都聖護院直系の関東における主要な修験道場となっている。

箕輪落城時、長野業盛(業正の嫡男)の一子・亀寿丸(2歳)が家臣とともに落ち延びて、極楽院に匿われたとされる。

極楽院跡 (2)
理由は不明だが明治6年(1873年)に廃寺になっている。年代的に廃仏毀釈の影響かな。不完全形だが、今も多くの宝塔などが残っている。五輪塔の中に康永3年(1344年)のものがあるので、極楽院創建以前からなにがしかの施設があったのではと思われる。

極楽院跡 (3)
極楽院跡 (4)
亀寿丸が極楽院に匿われているとの噂を聞いた信玄が極楽院を訪れた際、鞭として使っていた梅枝を地面に逆に挿したものが芽吹いたとされる「さかさ梅」。

根回り2mを超え(伝承通りなら樹齢は約450年になる)、紅を含んだ八重咲きの花はみな下を向いて咲くらしい。これは信玄に対応した良雲が「花は逆さに咲かせましょう」と、暗に亀寿丸は仏の道で生涯を終わらせることを約束したためとされる。

このためか、信玄は亀寿丸を見逃している。まあ「居場所は分かっているから、刃向かえばいつでも始末するぞ」との警告込みだろうが。後に信玄は極楽院に対して「安堵状」を発行し庇護している。

ちなみに、亀寿丸は後に出家して鎮良と名乗り極楽院2代目の院主となり、慶長12年(1607年)46歳で没したとされる。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時2歳だとすると、46歳ってのは合わないけど・・・。

関連
 「伝・長野業盛の墓

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高崎市箕郷町和田山の熊野神社。

和田山熊野神社 (1)
和田山熊野神社 (2)
和田山熊野神社は天正10年(1582年)に和田義盛の家臣・松本兵部の末裔である松本彦蔵が、鬼門守護のために創建したという。和田義盛は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた有力御家人。

他説では、和田義盛の8男・義国の勧請という。義国は義盛が北条氏との争いで敗れた際、上野国に逃れてきたとされている。なお、上野国に逃れてきたのは6男・義信ともいわれる。こちらの説では、創建年代は鎌倉時代となる。

いずれにせよ、上野和田氏関係の創建である。
(「上野和田氏の館跡? -和田の館跡-」参照)

和田山熊野神社 (3)
和田山熊野神社 (4)
境内の馬頭観音像。詳細不明。

和田山熊野神社 (5)
和田山熊野神社 (6)
境内社の神明宮。ただ、木祠の中にご神体らしきものは見えない。

和田山熊野神社 (7)
和田山熊野神社 (8)
春日神社、稲荷神社、戸隠神社などの境内社、末社群。

和田氏は当地から赤坂(後の和田、現高崎)に移っているが、赤坂にも熊野神社(現在の高崎神社)を勧請している。熊野神が和田氏の氏神なのかな。

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高崎市箕郷町金敷平の大山祇神社。

大山祇神社 (1)
大山祇神社 (2)
金敷平大山祇神社の創建は不詳。ご祭神の大山津見神は「大山に鎮まる霊」で、山々を統括する神。金敷平地区は山あいなので、林業の安全と繁栄を願っての建立と考えられる。

鳥居は天明3年(1783年)建立。灯籠(半分しか写ってないけど)は明治5年(1872年)の奉納。

大山祇神社 (3)
大山祇神社 (4)
社殿の建立年などは不明。外観がまだ綺麗なので、近年の再建もしくは修築と思われる。

大山祇神社 (5)
大山祇神社 (6)
境内社の千勝神社。天保12年(1841年)の建立。余り聞かない名称なので、よく分からない。

大山祇神社 (7)
庚申塔2基は万延元年(1860年)と寛政年間(1789~1801年)の造立。右から2番目は馬頭観音で文化6年(1808年)の造立。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
明治27年(1894年)に合併された金敷平愛宕神社。金敷平愛宕神社の創建は不詳。

愛宕神社 (3)
大山祇神社の境内脇から山へ登っていくように参道がある。距離は長くないがけっこうな坂道。急坂以上に難渋したのが大量のクモの巣。例祭時くらしか訪れる人もいないのだろうけど。まあ地域の神社って、だいたいそんなもんだけど。

愛宕神社 (4)
石祠もちょっと崩れてしまっている。

金敷平愛宕神社はもともと当地にあったのか、合併で遷座してきたのかは分からない。

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高崎市箕郷町東明屋の諏訪神社。

東明屋諏訪神社 (1)
東明屋諏訪神社 (2)
東明屋諏訪神社の創建は不詳。箕輪城落城後に勧請されたと考えられているようだ。箕輪城落城は永禄9年(1566年)のこと。

一の鳥居の扁額は「満行宮」。満行権現は榛名神のことで、第2次大戦後に村内の榛名神社が合祀されているので、その鳥居かな。

東明屋諏訪神社 (3)
元はこちらが一の鳥居だったと思われる。扁額は「諏訪大明神」。扁額の写真は逆光で上手く撮れなかった。

東明屋諏訪神社 (4)
参道の灯籠は文久2年(1862年)石上寺住職の奉納。当社と石上寺の関係はよく分からないが、石上寺境内に創建されたといわれる石上神社も、大戦後に当社に合祀されている。

東明屋諏訪神社 (5)
東明屋諏訪神社 (6)
拝殿を覗くと、上に続く階段が見える。

東明屋諏訪神社 (7)
東明屋諏訪神社 (8)
拝殿・本殿は第2次大戦後の建立。本殿内宮は文政5年(1808年)の造営。軒札に「当国新井村 阿左見日向藤原光督」らの名前がある。

東明屋諏訪神社 (9)
東明屋諏訪神社 (10)
東明屋諏訪神社 (11)
拝殿左手の鳥居は境内社「天満宮」のもの。石祠が本殿横に鎮座する。

当社に合祀された榛名神社は天暦年間(947~57年)、石上神社は貞観16年(874年)の創建と伝えられる古社である。これらの神社の方が歴史が古いが、明治期に諏訪神社が村社になったことから、両社がこちらに合祀されたようだ。

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高崎市箕郷町西明屋の東向八幡宮。

東向八幡宮 (1)
東向八幡宮 (2)
東向八幡宮は文明6年(1474年)に箕輪城主・長野尚業が石清八幡宮の分霊を勧請し創建、箕輪城の総鎮守とした。有名な業正は尚業の孫に当たる。

徳川家康の関東移封後、井伊直政が箕輪城主になったが、慶長3年(1598年)に高崎に移ったため社殿は荒廃。元禄5年(1692年)に勝山藩主・酒井安芸守隼人正が社殿を造営している。(当時、安房勝山藩の飛び地領になっていた)

酒井安芸守が重病に罹った際、夢枕に「領内に東向八幡あり。我に祈願すれば必ず平癒する」とのお告げがあり、当社に平癒祈願をしたところ快癒したといわれる。以来、東向八幡宮と呼ばれるようになった。

東向八幡宮 (3)
東向八幡宮 (4)
現在の社殿は寛政元年(1789年)の再造営。最近では昭和42年(1967年)に修復されている。

東向八幡宮 (5)
東向八幡宮 (6)
本殿は昭和29年(1954年)に修復されている。彫刻も施され荘厳な佇まいを醸している。

東向八幡宮 (7)
東向八幡宮 (8)
本殿横に石幢がある。総高222cmで十三仏が浮彫りされている。文明6年(1474年)の銘があり、八幡宮創建時のものとされる。十三仏の彫刻入石幢は珍しい(六地蔵はなどが多い)。

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高崎市箕郷町西明屋の長中山妙福寺。

妙福寺 (1)
妙福寺は長野氏がまだ長野郷(現在の浜川町周辺)に居住していた頃、祈願所として創建したとされる。長野氏が箕輪城を築城し箕輪に移ると、戦国大名として名を成した業正が箕輪城の裏鬼門にあたる当地に移している。

箕輪城は永正9年(1512年)長野業尚の築城とも、大永6年(1526年)業尚の子・信業の築城ともいわれる。なお業正は信業の子とされるが、長野氏の系譜ははっきりしない。

妙福寺 (2)
妙福寺 (3)
「鬼子母神を祀り、毎年11月12日に行われる『子育鬼子母神大祭』では、参道に露店が立ち並び、多くの人で賑わいます」と高崎市のHPにあったが、ご本尊は釈迦牟尼仏と群馬郡誌にはある。

鬼子母神を祀るようになった経緯は分からないが、群馬郡誌は鬼子母神について一切触れてないので、群馬郡誌刊行(大正14年:1925年)以降のことと推察される。

妙福寺 (4)
境内のしだれ桜。

妙福寺 (5)
妙福寺 (6)
石祠内に仏像らしきものが見えたので覗いてみたら、弁天さまのようだ。

妙福寺 (7)
妙福寺 (8)
本堂左(南)の庭園は忠臣蔵で有名な堀部安兵衛の設計・築造とされる。上毛三山を模し、池泉が配されているとのことだが、それっぽくない。後に墓地用地として削られてしまった?

同じ箕郷町の旧下田邸にも堀部安兵衛設計・築庭とされる庭園が残されている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)

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高崎市下里見町の城山稲荷神社。

城山稲荷神社 (1)
城山稲荷神社 (2)
城山稲荷神社は里見城の鬼門除けとして創建された。里見城は新田義重の庶長子・義俊の築城と伝わる。義俊の没年は嘉応2年(1170年)とも元久元年(1204年)ともいわれているので、城山稲荷神社の創建は平安末ころと思われる。

城山稲荷神社 (3)
城山稲荷神社 (4)
稲荷神社らしく、多数の鳥居が奉納されている。

城山稲荷神社 (5)
参道には多くの歌碑が並ぶ。氏子さんなのか、地元の歌人なのか分からないが。

城山稲荷神社 (6)
城山稲荷神社 (7)
城山稲荷神社 (8)
里見氏が断絶(里見義実が安房に落ち延び安房里見氏の祖となったとされる)すると、城山稲荷神社も衰退し石宮を残すのみとなっていたが、昭和13年(1938年)に地元の方々が社殿を建立している。

その後、昭和49年(1974年)に発生した土砂崩れにより社殿は崩壊、昭和52年(1977年)に現在の社殿が再建されている。

城山稲荷神社 (9)
城山稲荷神社 (10)
社殿裏からすぐの所に奥の院がある。奥の院は昭和49年(1974年)の土砂崩れの被害を免れている。

城山稲荷神社 (11)
城山稲荷神社 (12)
境内の長寿地蔵尊、通称「ぴんころ地蔵」。地域住民の方々への感謝の気持ちと健康長寿を祈念し建立されたもの。まだ新しい。その名の通り、寝込まずに往生してほしいとの願いが込められていいる。

同様のものに「ぽっくり◯◯」というのもあるね。

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高崎市吉井町下長根の小野小町の休み石。

小野小町の休み石と姫街道安全地蔵尊 (1)
小野小町の休み石
小野小町が故郷の出羽国(現在の秋田県湯沢市)へ帰る途中に、池を見ながら腰を降ろして休んだ石といわれる。

富岡市小野地区にも小野小町の伝承があり、いずれも出羽国へ帰る途中のこと。吉井を経由し富岡方面に向かったということになるのかな。小町は富岡で病を患い、小庵を設け治療と仏道の日々を送ったことになっている。ちなみに小野地区の名称は小野小町から来ているとされる。

小野小町関連
 「小野子の町の開基 -得成寺-
 「小野小町所縁の薬師様 -小野の塩薬師-

姫街道安全地蔵尊
隣のお地蔵様は「姫街道安全地蔵尊」。地蔵尊が面している国道254号線は交通量が多く、過去から悲惨な交通事故が度々発生し、その供養と交通安全を祈念し平成23年(2011年)に建立された。

「上州姫街道」とは国道254号線の江戸時代の名称。中山道の裏街道として、藤岡市から吉井町・甘楽町・富岡市・下仁田町を経由し長野県に至る(下仁田道とも呼ばれる)。

確かに、吉井町の中心から西(甘楽町・富岡市方面)へ向かう当地は、道幅も狭く大型車の通行も多い場所。よく通る道だが、常に交通量が多いという印象がある。

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