Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市吉井町吉井の菩提山法林寺。

法林寺 (1)
法林寺は天正8年(1580年)の草創、開院は文禄2年(1593年)で開山は住蓮社安誉上人。

法林寺 (2)
法林寺 (3)
法林寺 (4)
六地蔵と願就地蔵尊。願就地蔵って、名前がいいね。

法林寺 (5)
通称「法れん寺」横丁というところが参道で、本堂は北向きである。本尊の阿弥陀如来像は鋳造で、鎌倉時代の作と推定される。総高42.8cmで、重さが10kg以上ある。

法林寺 (6)
法林寺 (7)
蔵のような建物の中を見たら仏像が多数並んでいた。本堂には「西国、坂東、秩父の併せて百体の観世音菩薩像が掲げられている」とのことなので、それらを移したのではないかな。

法林寺 (8)
鐘楼堂。宝永7年(1694年)鋳造の梵鐘があり大正時代には吉井町の時報に使用されていたが、先の大戦時に供出。

法林寺 (9)
墓地内にあるカヤの木。樹高約38m、目通り周4.2m、根元周り7m。枝張りは東西11m、南北13mなっている。本幹上部は剪定されているようだが、落雷でもあったのか(分からないけど)。

法林寺 (11)
吉井藩の代官を務めた橳島(ぬでじま)家の墓がある。初代・丹斎高堅、2代・丹太夫高茂、3代・丹治高行は、藩政と領内の民政に尽力している。

吉井藩は宝永6年(1709年)松平信清によって再々立藩以降、藩主は代々江戸定府のため、代官は地元でも最高責任者。3代・丹治高行の時に明治維新を迎え、高行は岩鼻県監察を務めている。

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高崎市吉井町多比良の粟島神社。

粟島神社 (1)
粟島神社 (2)
多比良粟島神社は寛政年間(1798~1801年)の創建。現在は多比良神社の境内にある。以前は多比良神社から数十mのところにあったが、県道拡張工事に伴い遷座している。

粟島神社 (3)
粟島神社 (4)
木像らしきものが2体あるが、いずれも首がない。老朽化? それとも・・・。

多比良粟島神社の創建には次のような逸話がある。寛政年間に多比良地区に粟島明神の像を背負った巡礼者がやってきた。その巡礼者は2~3年ほど多比良地区で過ごした後、出立することになった。その際「地区の皆さんには世話になったが自分には何もない。あるのはこの粟島明神の像だけだ」と、像を残していった。

像は名主の家の床の間に飾っていたが、これを見た祈祷師(アガタ)が「こんな荒神を置いておくのはよくない。早く社を造ってお祀りする方が良い」というので、早速お社を造り祭祀したといわれる。

天下泰平の石塔
また巡礼者は出立する際に、日本各地を旅して集めたお札を地に埋め、その上に「天下泰平」と刻した石塔を建立したという。この石塔は多比良中組の共同墓地の端に現存している。

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高崎市吉井町岩崎の岩崎神社。

岩崎神社 (1)
岩崎神社は大正10年(1921年)に、字馬場にあった菅原神社を中心に旧岩崎村33社を合併し岩崎神社と改称、現在地に移転している。当所は密蔵院に合併した衆福寺の跡地。
(密蔵院は「高崎市吉井町・岩崎山密蔵院」参照)

岩崎神社 (2)
岩崎神社 (3)
社殿前の高灯籠は享保11年(1726年)の奉納。菅原神社のものを移したのだろうか。

岩崎神社 (4)
岩崎神社 (5)
岩崎神社 (6)
社殿は最近新築建立されたようだ。

岩崎神社 (7)
岩崎神社 (8)
社殿裏の末社群。稲荷社・新宮社・秋葉社の石祠は令和元年(2019年)の建立。

先も書いたように、当所は衆福寺の跡地となる。明治の中期には衆福寺本堂が岩平小の仮校舎として使用されている。ちなみ岩平の村名は明治22年(1889年)の町村制施行の際、岩崎と奥平から一文字づつとったもの。

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高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

高崎市吉井町・岩崎山密蔵院
菅沼定利の墓 ー玄太寺ー
高崎市棟高町・旧勧学院観音寺
鳥居扁額は「毘沙門天王」 ー中里猿田彦神社ー
高崎市中里町・多聞山徳蔵寺
高崎市保渡田町・紫雲山西光寺
高崎市本郷町・榛名木戸神社
「顔切り薬師」伝説 ー永光山金剛寺ー
群馬五郎満行を祀る ー戸榛名神社ー
豊城入彦命の末裔・車持氏を祀る ー車持神社ー
高崎市箕郷町富岡・飯玉神社
高崎市箕郷町・道場山真福寺
高崎市井出町・意玉山大円寺
景行天皇の創建? ー井堤神社ー
長野業盛伝説 ー落合観音堂ー
高崎市箕郷町・慈眼山龍昌寺
高崎市箕郷町生原・厳島神社
高崎市箕郷町生原・原新田北野神社
閑院宮載仁親王殿下がご参拝 ー柏木沢八坂神社ー
高崎市箕郷町善地・駒寄神社
高崎市箕郷町善地・月波神社
高崎市箕郷町下芝・竜宮神社
高崎市箕郷町・下芝山万福寺
小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー
慈覚大師の開山 ー大獄山瀧澤寺ー
高崎市箕郷町・西うらの池と鴫上道祖神
高崎市箕郷町・白川陣屋跡
高崎市箕郷町松之沢・榛名若御子神社
高崎市箕郷町和田山・菅原神社
武田信玄のさかさ梅 -極楽院跡-
高崎市箕郷町和田山・熊野神社
高崎市箕郷町金敷平・大山祇神社
高崎市箕郷町東明屋・諏訪神社
高崎市箕郷町西明屋・東向八幡宮
堀部安兵衛築造の庭園? -妙福寺-
里見城の鬼門除け -城山稲荷神社-
高崎市吉井町・小野小町の休み石
高崎市吉井町多比良・西深沢の石造薬師如来坐像
高崎市吉井町・多比良古墳(諏訪前古墳)
新堀城主・多比良友定の創建 -多比良神社-
源義経・弁慶が参拝? -赤城若御子神社-
高崎市箕郷町・今宮八幡宮
高崎市箕郷町・向滝八幡宮
高崎市箕郷町・妙法山不動寺
義民・三木市右衛門の墓
高崎市吉井町・黒熊山延命寺
関東管領平井城の宝物城 -新堀城跡-
高崎市吉井町・瑠璃山普賢寺
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓
高崎市新町・藤木山龍光寺
高崎市新町・八坂神社
高崎市新町・笛木山専福寺
上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-
義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓
高崎市倉渕町・長井石器時代住居跡
高崎市上里見町・橋場の地蔵尊
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
高崎市・西間野(猿落し)の磨崖碑
井伊直政の伯母・恵徳院の開基? -萬松寺-
高崎市箕郷町・松山寺
果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-
高崎市中室田町・岩井堂
高崎市倉渕町・石上神社
高崎市倉渕町・榛名山座主の森
室田之滝不動 -高崎市室田・大福寺-
羊太夫を祀る その2 -多胡神社-
高崎市吉井町・恩行寺古墳
鎌倉時代の創建 -恩行寺-
長根氏の居城 -長根城址-
権田栗毛の観音像を祀る -岩窟観音-
大戸浦野氏の中興開基 -全透院-
高崎市吉井町・南高原1号古墳
高崎市吉井町・片山1号古墳
羊太夫が乗ってきた舟? -舟石-
高崎市・金古愛宕山古墳
高崎市吉井町・御穴塚古墳
羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-
高崎市吉井町・馬庭飯玉神社
吉井藩陣屋跡(春日社跡)
吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-
福田赳夫元首相の銅像
高崎市吉井町・馬庭念流道場
利根川100景 -東谷渓谷-
高崎市吉井町・住吉神社
剣聖・塚原卜伝の勧請? -卜神諏訪神社-
延文の板碑 -折茂観蔵院-
萌え系絵馬 -白山神社-
長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
箕輪城水の手曲輪 -法峰寺-
柏木沢の蚕影碑
由良国繁の墓? -箕郷町・金龍寺-
吉井町・小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-
榛名富士に登ったぞ! ロープウェイでだけど
榛名公園ビジターセンター
木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-
木部姫伝説 -御沼オカミ神社-
細川興秋の末裔・長岡家の供養施設 -弥勒寺-
日本三妙見 -妙見寺/妙見社-
木曽義仲の父・源義賢の館跡 -多胡館跡-
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
高崎市新町・神流川合戦の供養塔
土師清大夫の墓 -浄泉寺-
元禄と享保の石鳥居が保存されている -高崎市新町・諏訪神社-
小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-
遊女奉納の絵馬 -高崎市新町・八幡宮-
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓 -宝勝寺 その2-
小判供養塔 -宝勝寺-
高崎市新町・明治天皇行在所
遊女・於菊物語 -於菊稲荷神社-
福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-
高崎市榛名歴史民俗資料館
情緒のある佇まい -延命密院-
小串氏の墓所と南北朝時代の石仏 -地勝寺-
奥平氏発祥の地 -奥平神社-
多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
県内屈指の大伽藍 -仁叟寺-
義民・白田六右衛門の顕彰碑 -龍源寺-
吉井・多胡薬師塚古墳
里見城址に行ってきた?? -里見城址-
里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-
里見義俊の菩提寺 -光明寺-
伝・権田栗毛 終焉の地
小栗上野介忠順 終焉の地  
井伊直政の開基 -龍門寺-
ちょっと荒れ過ぎ・・・ -石上寺-
石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-
立派な前方後円墳なんだけど・・・ -保渡田八幡塚古墳-
白岩観音 -長谷寺-
内藤塚 -善龍寺-
伝・長野業盛の墓
長野業正の墓 -長純寺-
長野氏累代の墓 -長年寺-
堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-
吉井藩陣屋の表門
吉井藩の歴史を勉強しました -吉井郷土資料館-
合併記念の碑だった -入野碑-
埋もれた名城 -箕輪城-
見晴らしはいいけど・・・ -吉井・牛伏山-
戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-
高崎市榛名山町・榛名神社
アララギ派って? -土屋文明記念文学館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-
小栗上野介の墓 -東善寺-

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高崎市吉井町岩崎の岩崎山密蔵院覚性寺。

密蔵院 (1)
密蔵院 (2)
密蔵院は僧・良尊の開創と伝わる。良尊の入寂が永和2年/天授2年(1376年)とされるので、南北朝期の創建となる。江戸時代末、駒形山衆福寺を合併している。衆福寺は当地の郷氏・岩崎氏の祈願所であったとされる。

密蔵院 (3)
山門前の六地蔵。

密蔵院 (4)
本堂には恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を祀る。この阿弥陀像は合併した衆福寺の本尊であったようだ。

密蔵院 (5)
密蔵院 (6)
境内の聖観音像と地蔵菩薩像。お地蔵さまは昭和58年(1983年)の奉納。

密蔵院 (7)
密蔵院 (8)
密蔵院 (9)
境内のお堂。扁額等ないので詳細不明だが、中を見ると愛染明王らしき像が見えた。堂内は少し乱雑だ。

密蔵院 (10)
堂前には新旧取り混ぜた石仏が並んでいる。

密蔵院には岩崎左衛門入道教阿の位牌が残されている。元々は衆福寺にあったが、合併の際に密蔵院に移されている。岩崎左衛門は密蔵院から数百m離れた所にあった岩崎城の城主とされる。

弁天池 (1)
池(弁天池)の向こう側が岩崎城址。単郭式の山城で、本丸は長径30mほど。弁天池は岩崎城の南西麓にある長さ200m、幅50mのため池。

弁天池 (2)
弁天池の中ほどに小島があり、そこに岩崎左衛門の墓とされる宝篋印塔(集成)があるという。小島に渡る手段もなく、草に覆われ宝篋印塔などもまったく見えない。以前は古碑もあり「宝徳元年(1449年)12月14日 岩崎左衛門入道教阿」と刻されていたという。これは密蔵院の位牌と同一文。

弁天池は江戸時代に山麓を流れる足沢の流れを変え、灌漑用水池として作られている。それにより、岩崎左衛門の墓が池の小島になったという。

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高崎市吉井町吉井の吉井山玄太寺

玄太寺 (1)
玄太寺は慶長5年(1600年)吉井藩主・菅沼定利の開基、仁叟寺10世・月峯牛雪の開山。菅沼氏の祈願所となった。

玄太寺 (2)
門標横には地蔵菩薩像。

玄太寺 (3)
本堂は昭和30年(1955年)に焼失、同32年(1957年)に再建されている。

旧吉井町役場(吉井支所)の近くにあり、街中のため境内は非常に狭い(昔は広かったんだろうけど)。パッと見、境内中お墓と思えるほど。

玄太寺 (4)
本堂前の菅沼定利の墓。菅沼定利は領内で検地を実施し、六斎市を催すなど治政の安定化に努めた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の一員として信州上田城の真田昌幸攻めに参加している。ただ、これが原因で秀忠軍は関ヶ原に遅参している。

定利は慶長7年(1602年)に死去すると、同じく吉井町の仁叟寺に葬られたが、宝暦6年(1756年)末裔・菅沼定用により玄太寺に移されている。

玄太寺 (5)
観音堂。観音堂は玄太寺より古く、菅沼定利が関ヶ原出陣時にこの観音さまに戦勝祈願を行い出陣している。定利は戦中に危ういところ難を逃れたので、この観音さまを大いに信仰し玄太寺を創建したとされる。

玄太寺 (6)
玄太寺 (7)
玄太寺 (8)
本尊の聖観音像は弘法大師の御作とされる。弘法大師が修行中のまだ25歳のとき、大病を患い一命が危うい状態となった。その際、観音さまの霊夢を感じ観音像を彫り祈願したところ、たちどころに快癒したという。その観音像を守護し巡国中、当地に堂庵を結び観音像を安置したという。

観音堂は天保5年(1835年)焼失、明治13年(1880年)の再建。扁額はほぼ読めない。

玄太寺 (9)
観音堂境内の弘法大師像。

玄太寺 (10)
宝塔。立派な宝塔である。ただ、紀年銘などは見てこなかった。

玄太寺 (11)
阿弥陀三尊石像。中央の阿弥陀如来像は後背が一部欠損している。他の二尊は観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像と思われる。上部が欠損しているが、いずれも阿弥陀如来の脇侍と思われる。鎌倉時代の作と推定されている。

相当風化が進んでおり、屋根だけでなく、覆屋で防護するなりの対策が必要だと思う。

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高崎市棟高町の旧勧学院観音寺。

旧観音寺 (1)
当所は平安時代末に創建されたといわれる勧学院観音寺跡。地名にもなっているので、相当な規模の寺院だったと思われる。観音寺は明治10年(1877年)廃寺になっている。現在は馬頭観音を祀る観音堂と大師堂が残る。

写真の観音堂は嘉永6年(1853年)に修復された記録が残っている。軸組構法を用い、躯体にはほとんど釘を使っていない。彫刻も施されているが、防護ネットが巡らされており上手く写真が撮れなかった。

旧観音寺 (2)
旧観音寺 (3)
旧観音寺 (4)
大師堂は万延元年(1860年)に観音寺別当であった浄広の発願により建立。
堂内には奉納された24体の弘法大師像が安置されている。

旧観音寺 (5)
旧観音寺 (6)
大般若経や高崎市の重文になっている板碑を納める経堂。大般若教は大師堂、板碑は観音堂に納められていたが、保護のため経堂を建立し移されている。

旧観音寺 (7)
境内の観音像。地元の方(?)がダイヤモンド婚を記念して平成13年(2001年)に建立・奉納。ちなみに、ダイヤモンド婚とは結婚60周年のこと。これはすごいね。

旧観音寺 (8)
お地蔵さんと百番供養塔。

旧観音寺 (9)
樹齢700~800年とされるご神木の大杉。高さ23m、幹周り3.6m。観音寺創建当時に植えられたと推定される。昭和の初め頃までは大杉が林立していたというが、現在はこの1本を残すのみである。

お堂内の馬頭観音は古来から競馬観音として有名で、常設の競馬場があったという。毎年1月17日の定日には関東地方はもちろん、信越地方からも出馬があった。また、馬場の傍らには種付け所や馬市場もあり、多くの人々が集まったといわれる。

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高崎市中里町の猿田彦神社。
前回の徳蔵寺のすぐ隣にある。(「高崎市中里町・多聞山徳蔵寺」参照)

猿田彦神社 (1)
猿田彦神社 (2)
中里猿田彦神社は、元々徳蔵寺の境内にあり毘沙門天を祀っていた。明治初年の神仏分離の際、毘沙門天は徳蔵寺本堂内に残し、堂宇は境外に移し新たに猿田彦神を祭祀したという。

鳥居は安永4年(1755年)の建立。扁額は「毘沙門天王」。

猿田彦神社 (3)
猿田彦神社 (4)
猿田彦神社 (5)
社殿は平成16年(2004年)に補修されている。

猿田彦神社ではあるが、地元の人たちは今も「毘沙門さま」と呼んでいる。

前回の徳蔵寺でも書いたが、当地は旧上郊村大字中里字毘沙門と言う。徳蔵寺の山号・多聞山や毘沙門天を祀っていることから地名になったのか、それとも当地が元々毘沙門天に縁があり、それが地名になり山号や毘沙門天を祀るようになったのかは不明。

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高崎市中里町の多聞山徳蔵寺。

徳蔵寺 (1)
徳蔵寺は永禄年間(1558~70年)清俊法印の開基、清吽重清の開山。

徳蔵寺 (2)
徳蔵寺 (3)
参道には毘沙門天(多聞天)像や梵字を刻んだオブジェが並んでいる。みな新しいので、最近の造立と思われる。

徳蔵寺 (4)
徳蔵寺 (5)
徳蔵寺 (6)
本堂は文政年間(1818~31年)に焼失、天保10年(1839年)の再建。これが現在の本堂かは不明。本尊は不動明王だが、毘沙門天も安置されている。毘沙門天は元々境内に祀られていたが、明治初年に本堂内へ移されている。

徳蔵寺 (7)
境内に2体のライオン(獅子)象。狛犬のイメージなのかな。

徳蔵寺 (8)
徳蔵寺 (9)
鹿と鶴もいる。

徳蔵寺 (10)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。

徳蔵寺 (11)
徳蔵寺 (12)
境内の薬師堂。薬師如来が鎮座するが、由緒などは不明。

徳蔵寺 (13)
本堂横に不完全な宝篋印塔が2基あった。

当地は旧上郊村大字中里字毘沙門と言う。徳蔵寺の山号・多聞山や毘沙門天を祀っていることから地名になったのか、それとも当地が元々毘沙門天に縁があり、それが地名になり山号や毘沙門天を祀るようになったのかは不明。

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高崎市保渡田町の紫雲山西光寺。
西光寺は以前、保渡田薬師塚古墳を紹介した際にちょっと触れただけで、お寺自体の記事になっていなかったので改めて紹介する。
(「石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-」参照)

西光寺 (1)
西光寺は応永2年(1395年)随泉和尚の開山と伝わる。古くは字阿弥陀にあったが、荒廃したため元亀2年(1571年)誓願上人が中興し字元屋敷に移転している。その後、火災で焼失、現在地へ再移転している。

西光寺 (2)
参道の六地蔵は平成3年(1991年)の奉納。

西光寺 (3)
西光寺 (4)
本堂は文化5年(1808年)に焼失、弘化2年(1847年)の再建。

西光寺 (5)
本堂屋根の葺替え前の瓦(だと思う)。

西光寺 (6)
「護り龍不動明王」とあった。平成18年(2006年)の奉納。

西光寺 (7)
「上野里やすらかかんのん」。平成16年(2004年)の造立。由緒などは分からない。

西光寺 (8)
宝塔は文政12年(1829年)の造立。

西光寺 (9)
西光寺 (10)
天和3年(1683年)に薬師塚古墳から舟形石棺や副葬品が発掘される。銅鏡、各種玉類、馬具類などの副葬品は石棺の中にあったとの伝承がある。これらとともに薬師像もあったという。そのため後円部墳上に薬師堂を建立し安置したいわれる。

西光寺 (11)
西光寺 (12)
薬師堂内部には厨子があり、薬師像はその中に納められている。薬師像は石棺内にあったといわれているが、薬師塚古墳は5世紀末~6世紀初頭の築造とされており、仏教は伝来していない時代。石棺内にあったとしても後の世のもの。ただ、この薬師像が薬師塚古墳の名の由来である。

西光寺 (13)
薬師塚古墳の舟形石棺。

前回は書かなかったが、薬師塚古墳は車持氏の墳墓との説があるらしい。車持氏は崇神天皇の皇子・豊城入彦命を始祖とする上毛野氏の一族で、豊城入彦命8世孫・射狭君を始祖とする。

車持氏が統治していたので車郷(くるまのさと)や車評(くるまのこおり)と呼ばれるようになり、後の群馬県名の元になったともいわれる。

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高崎市本郷町の榛名木戸神社。

榛名木戸神社 (1)
榛名木戸神社の創建は不詳。上野国神名帳記載の榛名木戸神社とされる古社である。

榛名木戸神社 (2)
杉の大木が境内を囲む。

榛名木戸神社 (3)
二ノ鳥居は昭和45年(1970年)の建立。

榛名木戸神社 (4)
榛名木戸神社 (5)
社殿は明治29年(1896年)の建立。外装が綺麗なので、近年改修されているようだ。

榛名木戸神社 (7)
榛名木戸神社 (8)
覆屋内の本殿は切妻・神明造りで、江戸後期の寛政年間(1789~1801年)の建造と推定される。施されている彫刻は素晴らしい。

榛名木戸神社 (9)
境内社の天満宮。

榛名木戸神社 (10)
社殿脇に庚申塔類が並んでいる。庚申塔には寛政8年(1796年)、二十二夜塔には安永(1772~81年)の銘が読み取れた。本殿が建造された時期と重なるので、このころ神社としてきちんと整備されたのかな。

社殿内に山車の一部分が残されており、過去には山車が存在していたと考えられるが、伝承は残ってないという。ただ社殿内を覗いてみたが、気付かなかった。

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高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。

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高崎市神戸町の戸榛名神社。

戸榛名神社 (1)
戸榛名神社 (2)
戸榛名神社は天応年間(781~82年)の創建と伝わる。往古は榛名神社と称していた。上野国神名帳記載の榛名大明神は当社とされる。ご祭神の群馬五郎満行が当地で善政を敷いたので、里民はその徳を感じ満行を祭祀したという。

また、満行が都に上洛していたとき、紫宸殿上に黒雲が湧き上がり雷鳴が轟いた。光仁天皇が黒雲を射よと命じ、それに応じた満行は7尺2分の白木の大弓から矢を放つと、黒雲内の化け物は退散したという。光仁帝は大いに歓び、従三位の官位と藤原朝臣満行の名を賜ったといわれる。満行の死後、都で様々な凶事が起きたため、帝は満行の故郷(当地)へ勅使を遣わし、満行を祀った神社を建立したという説もある。

戸榛名神社 (3)
参道を進むと鬱蒼とした森の中に社殿がある。

戸榛名神社 (4)
戸榛名神社 (5)
戸榛名神社 (6)
火災などにより当地へ遷座してきたとの伝承もあるが、ここには長野勢の高浜砦の支砦(神戸砦)があったため、武田氏の西上州攻略戦の際に焼失。箕輪城攻めの際に、武田信玄が再興し戦勝祈願をしたといわれる。

現在の社殿の建立年などは分からないが、近年改修が行われているようだ。

戸榛名神社 (7)
神楽殿。大正5年(1916年)の建立。天井絵が施された立派なもの。古くから神楽が伝承されてきたが、現在は中断している。

戸榛名神社 (8)
戸榛名神社 (9)
社殿を囲むように多くの境内社・末社群がある。養蚕関係(蚕蟄国霊神)や農耕関係(地神)。

戸榛名神社 (10)
石祠の後ろに巨岩が置かれている。何か特別な意味があるのかな。

ちなみに、満行の8男・八郎満胤を祀った「八郎神社」が伊勢崎市福島町にある。8男だが総領(跡取り)になっため兄たちの恨みを買い殺されてしまうのだが、大蛇となって大暴れしたとの伝説がある。(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社-」参照)

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高崎市十文字町の車持神社。

車持神社 (1)
車持神社 (2)
車持神社の創建は不詳だが、当地を治めていた車持氏の館跡に祠を建て、車持氏に榛名大神を合わせ祀ったものと伝わる。上野国神名帳記載の車持若御子明神に比定される古社である。

車持氏は豊城入彦命の8世孫・射狭君が、雄略天皇のとき乗輿を献上したことから車持姓を賜ったとされる。

車持神社 (3)
車持神社 (4)
社殿は天正8年(1580年)の建立との記録が残る。現在の社殿の建立時期は不明。

車持神社 (6)
車持神社 (5)
御嶽山など、石碑や石祠が並ぶ。

車持神社 (7)
車持神社 (8)
社殿左に鳥居があり、下(沢が流れている)に降りられる石段がある。

車持神社 (9)
車持神社 (10)
下には不動明王像や「泰賢行者」「普寛行者」などと刻まれた石碑がある。榛名山や当地で修行した修験者が祀ったものかな。

車持氏は豊城入彦命の後裔「東国六腹朝臣」(飛鳥時代)のひとつの氏族。車持氏が統治していたので車郷(くるまのさと)や車評(くるまのこおり)と呼ばれるようになり、後の群馬県名の元になったともいわれる。また当地は旧久留馬村(旧榛名町に編入後、高崎市に編入)で、これも車持氏から来ている。

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高崎市箕郷町富岡の飯玉神社。

富岡飯玉神社 (1)
富岡飯玉神社 (2)
富岡飯玉神社は天文年間(1532~55年)の創建と伝わる。箕輪城主・長野業正の崇敬厚く、その後業正の弟・直業が下館に住んで常に崇拝したという。直業は富岡城主。また直業は小塙髙成と改名し、小塙7村を領有したともいわれる。

鳥居は文化2年(1805年)の建立。扁額の揮毫は源(岩松)徳純。

富岡飯玉神社 (3)
社殿の建立年などは不明。

富岡飯玉神社 (4)
富岡飯玉神社 (5)
社殿裏の境内社・末社群。

由緒は箕郷町誌(昭和50年:1975年)から調べたが、群馬郡誌(大正14年:1925年)では寛永6年(1629年)の創建となっている。

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高崎市箕郷町富岡の道場山真福寺。

真福寺 (1)
真福寺の由緒は不詳。現状を見ると観音堂(写真)以外何もないので、既に廃寺になっている? それとも観音堂以外移転している?

箕郷町誌(昭和50年:1975年)には写真入りで真福寺が載ってるので、それ以降に変化があったようだ。

真福寺 (2)
真福寺 (3)
観音堂は「箕郷三観音」と言われ、旧箕郷町三観音堂のひとつとされる。

真福寺 (4)
観音堂に掲げられている歌の奉納額。明治16年(1883年)に西群馬郡金敷平村の方が奉納。金敷平村は現在の箕郷町金敷平。

真福寺 (5)
観音堂の裏に石仏群が並んでいる。庚申塔が2基あり、1基は寛政12年(1800年)の造立で市川米庵の書。もう1基は安政7年(1860年)の造立で安中藩の儒者・太山融斎の書。

真福寺 (6)
青面金剛像と薬師如来像。薬師如来像には安永9年(1780年)の銘がある。

真福寺 (7)
真福寺 (8)
地蔵菩薩像と並び、阿弥陀三尊の梵字を刻んだ板碑がある。紀年銘はないが、総高95cmは旧箕郷町では唯一の大型板碑。ただ、残念ながら上から28cmのところで折れてしまっている(補修されているけど)。

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高崎市井出町の意玉山大円寺。

大円寺 (1)
大円寺は正慶年間(1332~33年)僧・慶運が現在の元井出に創建。その後、元和から寛永2年(1615~25年)の間に井出集落の移動が行われ現在地の移転している。その後、宝暦9年(1759年)に僧・寛良が中興している。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
大円寺 (4)
本堂は明和年間(1764~72年)に井堤神社境内に建立。井堤神社は大円寺のすぐ隣にある。(「景行天皇の創建? ー井堤神社ー」参照)

中興時の宝暦9年の建立との記録もあるようだ。昭和59年(1984年)に大改修が行われている。明治初年の神仏分離で、明確に境内が分離されたのだと思う。本尊の地蔵菩薩像は弘法大師の作と伝わる。

大円寺 (5)
本堂に掲げられている「長野業盛奮闘の図」。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時自刃した長野業盛の遺骸は、移転前の大円寺に葬られたとされる。移転時にお墓は元井出に残されている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

箕輪城内で自刃した業盛の遺骸をなぜ井出の僧がと思うが、業盛が井出で自刃したとの伝説もあるので。なんとなく関連性がある? と考えてしまう。
(「長野業盛伝説 ー落合観音堂ー」参照)

大円寺 (6)
大円寺 (7)
境内の阿弥陀堂。木彫阿弥陀如来坐像を祀る。檜の寄木造りで像高85cm。鎌倉時代中期のものと推定される。越後国から運ばれてきたと伝わる。

大円寺 (8)
参道の供養塔。天保15年(1844年)の建立。着色は建立時のものではなく最近のようだ。多分随時行われているのだと思う。

大円寺 (9)
境内の宝塔は享保20年(1735年)の建立。

大円寺 (10)
境内の長谷観音。詳細不明。

大円寺 (11)
境内の一角に馬頭観音がまとめられている。なんとなく長野業盛伝説(上記落合観音堂)との関連性を考えてしまう。考えすぎかな。

大円寺 (12)
大円寺 (13)
大円寺 (14)
墓地に如意輪観音形の墓石が40基以上ある。宝永5年(1708年)、寛保2年(1742年)などの銘があるものもあるが、無銘・無戒名も多い。確認出来た戒名に「童女」とあったので、幼くして亡くなった女の子や女性の墓石として用いられたのだろうか。

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高崎市井出町の井堤神社。

井堤神社 (1)
井堤神社 (2)
井堤神社の創建年は不詳。上野国上名帳の「大井明神」とされる。伝承では景行天皇(第12代)が東国へご巡幸の際、当地に清泉が湧出するのを見て社を建てさせ「井堤の社」と名付けたとされる。

ちなみに景行天皇の即位は西暦51年とされる。景行天皇は有名な日本武尊の父。

井堤神社 (3)
鳥居前の大灯籠は日露戦争戦勝記念として明治40年(1907年)の造立。

井堤神社 (4)
水鉢は高崎市住吉町の神成伝吉の奉納。伝吉は井出出身で「村伝」の初代店主。

井堤神社 (5)
井堤神社 (6)
社殿の建立年などは不明。社殿前の灯籠は天明2年(1782年)の奉納。

井堤神社 (7)
井堤神社 (8)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。ただ保護金網の目が細かくて、上手く写真が撮れなかったのは残念。

井堤神社 (9)
社殿裏の境内社、末社群。古峯神社など。

井堤神社 (10)
境内はずれの青面王・一石庚申塔。嘉永5年(1852年)の造立。道路沿いにあったものを平成26年(2014年)に移動。

日本書紀によれば、景行天皇は日本武尊の死を悲しみ、追慕して東国巡幸に出たとされる。景行天皇53年(西暦103年)のこと。群馬にはなじみの豊城入彦命の子・彦狭島王、孫・御諸別王を東国(関東)に派遣したのも景行天皇とされる。

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高崎市保渡田町の落合観音堂。

落合観音堂 (1)
落合観音堂の創建年は不詳だが、箕輪城落城時の長野業盛に関する伝承がある。

永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、城から脱出した業盛は傷馬に鞭を打ち落合まで落ち延びてきた。当地(観音堂)から東南の井野川畔といわれる。そこで馬を処分した業盛は井出野にて自刃。

その後、落合付近では災いが多発。旅の僧が「畜馬の霊障がある」と言うので調べると、砂中から馬の亡骸と朽ちた鞍が見つかった。そこで村人は相談のうえ小宇を建立し馬頭観音を祀った。その結果、災いは起らなくなったという。

現在の観音堂は嘉永2年(1849年)の建立、明治23年(1890年)の改築。

落合観音堂 (2)
落合観音堂 (3)
本尊の馬頭観音は一寸八分(約5.5cm弱)。厨子の前に馬頭観音像らしきものが見えるが、前立像的なものかな。一寸八分より大きいし。ただ厨子が開いていて、中には板碑の一部が置かれている。本尊は別の場所に安置されている? 本尊は1月2日のみご開帳される。

落合観音堂 (4)
床下の軽石はイボを取る効果があるといわれ、治ると倍にして返す風習がある。

落合観音堂 (5)
落合観音堂 (6)
落合観音堂 (7)
社務所らしき建物の中には釈迦誕生像らしき像や古い位牌などが見られる。詳細は不明。

落合観音堂 (8)
落合観音堂 (9)
多くの石仏が並べられている。

一般的には、長野業盛は箕輪城内・御前曲輪の持仏堂にて自刃したとされ、城外に落ち延びたとはされていない。ただ、その遺骸はどういう経緯か高崎市井出町に葬られている。当地の僧により葬られたとされるが、その明確な根拠はなく、あくまで「伝」業盛の墓となっている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

井出野にて自刃という落合地区の伝承も含め、想像力を働かせて歴史を考えるのもおもしろい。

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高崎市箕郷町生原の慈眼山龍昌寺。

箕郷町・龍昌寺 (1)
龍昌寺は川浦四郎左衛門が川浦家の菩提寺として龍善寺5世・大安堯覚を開山として招き創建。大安堯覚の入寂が万治3年(1660年)なので、創建は江戸初期となる。

川浦氏は地元の有力者で、生原厳島神社に祀られている弁天さまを発見したとされる。(「高崎市箕郷町生原・厳島神社」参照)

箕郷町・龍昌寺 (2)
入口には回国供養塔や庚申塔が建っている。

箕郷町・龍昌寺 (3)
境内は狭く、しかも本堂前には樹木が有りよく見えない。小さな池もあったけど、どうしても上手く写真が撮れなかった。

箕郷町・龍昌寺 (4)
箕郷町・龍昌寺 (5)
朱色のお堂があったが、中は物置同然になっており詳細不明。上郊(かみさと)村誌(昭和51年:1976年)によると、寺域に朱鳥居と稲荷堂があると書いてあったのでその名残かな。鳥居はなかったと思う。

ちなみに、旧上郊村は昭和32年(1957年)昭和の大合併で、生原地区のみが箕郷町へ編入、他の中里、保渡田、井出地区は群馬町へ編入している。まあ、結局は平成の大合併(平成18年:2006年)で箕郷・群馬の両町は高崎市へ編入合併しているので、現在は旧上郊村はすべて高崎市となっている。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の厳島神社。

生原厳島神社 (1)
生原厳島神社 (2)
生原厳島神社は享保年間(1716~36年)の創建。生原の原新田地区は水利の便が悪く、近くにあった唯一の湧水池を貴び、水の神・市杵島姫命を祀ったといわれる。

鳥居は安永5年(1776年)の建立。扁額は弁財天。ご祭神の市杵島姫命は本地垂迹では弁天さまに比定される。

生原厳島神社 (3)
灯籠は天明6年(1786年)に当地の川浦氏の奉納。

生原厳島神社 (4)
中は見られなかったが、高さ18cmの弁天さまが納められている。この弁天さまは、川浦氏が新田開墾時に石臼を2つ合わせたものを掘りあて、その中に入っていたといわれる。

川浦氏についてはよく分からないが、新田開発の中心的な役割を果たしているようなので、名主的な存在だったのかな。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の北野神社。
生原地区には北野神社が2つあるが、原新田(字名)にある北野神社。

生原(原新田)北野神社 (1)
原新田北野神社は生原北野神社より分霊を勧請して創建。

伊香保街道の整備で榛名登山客などの往来が増え、街道沿いに休憩所や民家が集まり生原地区が次第に東側に発展し、原新田集落が形成された。戸数も増えたので、新たに生原北野神社より分霊を勧請したようだ。よって創建は江戸時代の初期から中期くらいかな。
(生原北野神社は「小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー」参照)

生原(原新田)北野神社 (2)
鳥居がなく境内に地区集会所があるので神社らしくない佇まい。境内側から見ると灯籠があるので、かろうじて神社と認識できる。灯籠は安永2年(1773年)の奉納。

生原(原新田)北野神社 (3)
生原(原新田)北野神社 (4)
生原(原新田)北野神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

生原(原新田)北野神社 (6)
生原(原新田)北野神社 (7)
境内社の古峯神社と秋葉大権現、御嶽山大権現、愛宕大神の石碑。

地区が大きくなったから分社を造るということは、北野神社が生原地区の鎮守さまの位置づけなのかな。

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高崎市箕郷町柏木沢の八坂神社。

柏木沢八坂神社 (1)
柏木沢八坂神社の創建年は不詳。永禄9年(1566年)武田信玄の箕輪城攻めの際に焼失。安永4年(1775年)に再建されている。鳥居は昭和12年(1937年)の建立。

柏木沢八坂神社 (2)
柏木沢八坂神社 (3)
鳥居から入ると社殿は左側にある。正確な方角は分からないが、鳥居は西面、社殿は南面かな。

明治30年(1897年)に再度火災で焼失。同年再々建されている。

柏木沢八坂神社 (4)
柏木沢八坂神社 (5)
拝殿前に木くずが落ちていたので、上を見ると屋根裏が剥がれかけている。地域の神社はなかなか修理もままならないね。

柏木沢八坂神社 (6)
閑院宮載仁親王が大正2年(1913年)に相馬原の陸軍演習場へお成りの際、当社に参拝している。その記念碑。

閑院宮載仁親王は伏見宮家から閑院宮家を継ぎ、皇族軍人や貴族院議員として活躍された。昭和20年(1945年)の終戦直前に薨去。閑院宮家は春仁王が継承したが、戦後GHQの政策により閑院宮家など11宮家は皇籍離脱・臣籍降下されている。閑院宮家は春仁王で絶家となっている。

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高崎市箕郷町善地の駒寄神社。

駒寄神社 (1)
駒寄神社は文久元年(1861年)地元の堀田彦右衛門、剣持与惣次ら7名の世話人が、月波神社の分霊を勧請したもの。以前は分霊月波神社とか別院月波神社と呼ばれていた。平成17年(2005年)榛名神社の分霊も迎え駒寄神社となっている。駒寄は字名。
(月波神社は「高崎市箕郷町善地・月波神社」参照)

駒寄神社 (2)
鬱蒼とした森(と言うか山林)の中に鎮座している。

駒寄神社 (3)
駒寄神社 (4)
駒寄神社 (5)
質素な作りの社殿だが、地域の鎮守として崇敬されている。

駒寄神社 (6)
県道沿いの庚申塔と百番供養塔。案内板もあったのだが、ちょっと高い所にあり登れなかったので読めなかった。

駒寄神社は月波神社からさらに奥に行った旧箕郷町の最北端になる。神社前の県道をそのまま行けば榛名湖に至る。当時は月波神社まで参拝に行ったのだろうが、けっこう難儀だったので地域の神社として月波神社を勧請したのだろう。

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高崎市箕郷町善地の月波神社。

月波神社 (1)
月波神社 (2)
月波神社は安閑天皇元年(531年)の勧請と伝わる。上野国神名帳記載の「月波明神」に比定される古社である。

月波神社 (3)
月波神社 (4)
二の鳥居の扁額は「月並神社」になっている。当社は元は榛名神社の参道で、榛名神社の月並(月次の意味)祭り時に遙拝したことから、月並神社の名になったとされる。

月波神社 (5)
月波神社 (6)
梅林にはさまれた参道を過ぎ県道を渡ると、1段高いところが境内。立派な割拝殿(かな?)。

月波神社 (7)
月波神社 (8)
年代は分からないが愛嬌のある狛犬。阿形(写真上)は昔のアニメでこんな風貌のキャラを観たことがあるようなないような。

月波神社 (9)
月波神社 (10)
月波神社 (11)
社殿は正保4年(1647年)建立といわれる。その後、幾度かの改修を経て現存する社殿は元文元年(1736年)の建立とされる。拝殿の扁額も「月並神社」。

月波神社 (12)
月波神社 (13)
拝殿の龍と麒麟の彫刻。

月波神社 (14)
月波神社 (15)
本殿彫刻。題材は分からない。

月波神社 (16)
境内の十三重塔。初詣時に塔の小さな穴へ米粒を入れると、ご利益があるといわれている。

延暦年間(782~806年)に豊城入彦命の末裔とされる車持氏が、坂上田村麻呂の蝦夷討伐に参戦。その功績により「善知」の姓を授かったことから、当地を「善地」と呼ぶようになったといわれる。

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高崎市箕郷町下芝の竜宮神社。

竜宮神社 (1)
竜宮神社は箕郷町上芝字竜の宮の龗(オカミ:雨かんむりの下に口をよこ並びで3つ、その下に龍)神社からの勧請と伝わる。龗は水神・淤加美神(おかみのかみ)のこと。
*龗(オカミ)は場合によっては文字化けする可能性有り

鳥居は正徳3年(1713年)の建立。

竜宮神社 (2)
竜宮神社 (3)
明治期に西明屋の東向八幡宮に合祀されたが、昭和23年(1948年)に再度分離されている。

竜宮神社 (4)
境内の道祖神は天保年間(1831~45年)の造立。

竜宮の名称から、浦島太郎伝承との関係があるのかと思ったが、水の神を祀る神社のようだ。稲の豊作や雨の恵みを願い感謝するということ。

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高崎市箕郷町下芝の下芝山万福寺。

万福寺 (1)
万福寺の創建は数度の火災により古記録が失われたため不詳だが、開山の英伝法印の入寂が永正2年(1505年)とされるので、それ以前の創建と考えられる。

現在の本堂は安永7年(1778年)の再建。

万福寺 (2)
万福寺 (3)
青柳紋右衛門友忠が祖先供養のために百番霊場を巡拝(巡礼)、建立した宝篋印塔。安永4年(1775年)の造立。中には仏像が。青柳家は長野氏家臣の家柄。

万福寺 (4)
百番霊場巡拝供養塔。六角形の多宝塔型で安永5年(1776年)の造立。これも青柳紋右衛門友忠の造立と考えられる。

一般的に西国33札所巡拝などの諸国巡拝達成記念に建てられる供養塔。百番は西国33ヶ所、板東33ヶ所、秩父34ヶ所の100霊場。先の宝篋印塔は祖先のために建て、供養塔は地域の方々のために建てたということかな。

お年寄りや身体の弱い方などが、この供養塔をお参りすることで、100ヶ所巡拝したことと同じご利益が得られるとされるので、江戸時代に全国的の造立されている。

万福寺 (5)
観音菩薩と地蔵菩薩。平成2年(1990年)の造立。

万福寺 (6)
墓地の五輪塔。赤城型といわれるもので高さ145cm。「并諸檀那奉逆修応永廿八年拾月」の銘がある。逆修なので生前造立。また、応永28年は1414年。と言うことは、応永年間には万福寺は創建されていたということかな。

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高崎市箕郷町生原(おいばら)の北野神社。
生原地区には北野神社が2つあるが、フレッセイ箕郷店のすぐ東にある北野神社。

生原北野神社 (1)
生原北野神社 (2)
生原北野神社は永禄2年(1559年)の勧請と伝わる。現地説明板には永禄3年とある。(永禄2年は群馬郡誌から)

生原北野神社 (3)
現在の社殿は文久元年(1861年)の建立。棟梁は清水和泉、彫刻は小林源太郎正俊。

彫刻師・小林源太郎正俊は「関東の名工」と称され、榛名神社の双龍門の龍を手がけたことで有名。その他、県内では桐生天満宮、植野稲荷神社(前橋市)などにも華麗な彫刻が残されている。

生原北野神社 (4)
生原北野神社 (5)
生原北野神社 (6)
生原北野神社 (7)
拝殿は向背彫刻や水引虹梁、木鼻の龍鼻などを上手に残し、柱などを改修しているようだ。

生原北野神社 (8)
生原北野神社 (9)
生原北野神社 (10)
生原北野神社 (11)
生原北野神社 (12)
本殿は木造桧皮葺き唐破風造りで、精巧な彫刻で彩られている。高崎市の重文に指定されている。

生原北野神社 (13)
北野神社らしく牛の石像。大正14年(1925年)の奉納。風に晒されたせいか、かなり丸みを帯びている。菅原道真と牛の逸話は、道真が丑年生まれで丑の日に亡くなったとか、茸狩りの時に牛が寄ってきたとか、太宰府に流されていくときに藤原氏の刺客を倒したとか、いろいろある。

関連
 「桐生の総鎮守 ー桐生天満宮ー
 「『関東の名工』小林源太郎の彫刻 -植野稲荷神社-

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高崎市箕郷町白川の大獄山瀧澤寺。

瀧澤寺 (1)
瀧澤寺は相馬岳不入瀧澤に天台宗・満行山瀧澤寺として創建。寺伝では比叡山延暦寺2世・慈覚大師の開山とされる。その後、平常将が楊沢寺(現柳沢寺)を焼き払った事件(相満の変)の際に焼失。難を逃れた僧が当地に一堂を建立したという。

その後荒廃したが、天正年間(1573~92年)に井伊家家臣・中野直之が永源寺5世・厚山慶淳を迎え、曹洞宗・大獄山瀧澤寺として再興。直之の妻は井伊直盛(直政の父)の妻の姉のため、井伊直政の伯父にあたる。井伊家の箕輪入りは天正18年(1590年)なので、その頃かと。

瀧澤寺 (2)
入口にはお地蔵さんや供養塔が並ぶ。

瀧澤寺 (3)
瀧澤寺 (4)
山門の扁額は「𢮦黙院」。瀧澤寺の院号は「不入院」なので、「𢮦黙院」は仏教用語なのかな。

瀧澤寺 (5)
瀧澤寺 (6)
中興後も3度火災により焼失。寛政2年(1790年)再建の記録が残る。現在の本堂はまだ新しく、近年の建立のようだ。

瀧澤寺 (7)
山門前には湧き水が引かれている。写真には写ってないが、柄杓が置かれていたので、飲んだり持ち帰ったりしてもいいようだ。ただ、飲料水の基準を満たしているかは不明。

瀧澤寺 (8)
瀧澤寺 (9)
その湧き水を湛える池には、大きな鯉が優雅に泳いでいた。

瀧澤寺 (10)
門前の仁王像の横にある経蔵。間口3.6m、奥行き4mの方魚尾根造り。経典を納めた6角形に区切られた棚が回る仕掛けになっている。そのため「巡り経蔵」と言われる。外観がかなり綺麗なので、最近改修が行われたようだ。

「相満の変」については下記参照。
 「空から飛来した観音様 -矢落観音-
 「五重塔がある! -柳沢寺-
 「平(千葉)常将を祀る -常将神社-

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高崎市箕郷町白川の西うらの池と鴫上道祖神。

西うらの池と鴫上道祖神 (1)
鴫上(しぎあげ)地区の貴重な水源となっていた「西うらの池」。昭和32年(1957年)に簡易水道が引かれるまで、数ヶ所の湧水池と井戸水が貴重な生活用水となっていた。現在残っている湧水池は「西うらの池」のみである。

この湧水池は年間を通して16℃ほどで、冬季など低温期の早朝には水面が湯気のように立ちこめ、幻想的な姿を見せるという。

西うらの池と鴫上道祖神 (2)
「西うらの池」と道をはさんで道祖神が祀られている。宝暦12年(1762年)ころの造立。道祖神の両側には「前橋 至室田街道」と記された道標石と、馬頭観音像がある。

ちなみに鴫上という地名は、長野村(現在の沖町)方面から見ると、鴫が飛び立つように見えることからその名が付いたといわれる。

鴫
鴫と言われてもまったくピンとこないので、ウィキペディアから写真を拝借。最近、日本では減少傾向にあるらしいが、地名が付いた頃は当たり前のように空を飛んでいたと思われる。

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