Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市九蔵町の青龍山大雲寺。

大雲寺 (1)
大雲寺 (2)
大雲寺 (3)
大雲寺の由緒はよく分からなかった。

大雲寺には高崎市の重文に指定されている武居梅坡(ばいは)の「水墨雲竜の図」がある。でも、大雲寺を訪れた理由は別にあり、武田信玄の軍師として有名な山本勘助のご子孫の墓があるということ。

大雲寺 (4)
大雲寺 (5)
山本勘助のご子孫の墓。「山本菅助入道道鬼七世孫山本菅助菅原晴生墓」とある。

「甲陽軍鑑」には名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したとあるが、山本菅助が正しいらしい。

山本勘助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、「啄木鳥戦法」で上杉謙信軍に挑んだが謙信に見破られ討死している(とされる)。

山本勘助の名は、甲陽軍鑑とその影響を受けた江戸時代の軍記物にしか登場しないことから、永らく実在が疑問視されてきた。しかし近年は「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が「市河文書」や「真下家所蔵文書」など、複数の文書上から確認されている。

但し、山本勘助の実在と軍師であったかは別の問題であると考えているが、それ以上の知識はオレにはない。

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高崎市下横町の白龍山興禅寺。

興禅寺 (1)
興禅寺は治承元年(1177年)新田義重の開基と伝わる。新田義重は新田氏の祖である。

戦国時代の初期に、当時の和田城主・和田信輝が再興し、和田氏の菩提寺としている。和田信輝は関東管領・山内上杉氏に属し、天文15年(1546年)に河越夜戦で討死と伝えられる。

興禅寺 (2)
興禅寺 (3)
山門をくぐると児童公園があり、さらに道路が横切っている。古くは参道があったんだろうが、なぜか児童公園ができている。

興禅寺 (4)
興禅寺 (5)
興禅寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」によると、鎌倉街道に面した広大な敷地の中に興禅寺が描かれている。「和田城並びに興禅寺境内古絵図」は天文から天正年間(1532~91年)の頃のものとされる。

しかし井伊直政の高崎城築城時に境内を縮小され、その後大河内氏が城主時代の天保11年(1840年)に現在地に移っている。

和田氏の菩提寺なので、和田氏関連のお墓もあるのかもしれないが、肝心の墓地がどこにあるのか分からなかった。

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高崎市には「和田の三石」と呼ばれる3つの石がある。
「上和田の円石」「和田の立石」「下和田の方石」。和田氏はこの三石をとても大切にしていたと伝えられている。

まずは、「和田の立石」。
現在は高崎神社の境内にある。これは高崎神社の記事「高崎の総鎮守 -高崎神社-」で紹介済み。
立石 (1)
立石 (2)
少し追加しておくと、弘法大師行脚のおり、この石に腰掛けたので「大師石」とも言うらしい。

続いて「上和田の円石」。
現在は成田町の成田山光徳寺にある。
円石 (1)
円石 (2)
「上和田の」というくらいなので、もともとは上和田の畑の中にあった。

江戸時代の享保年間(1716~35年)に、元紺屋町にある善念寺の石橋として使われ、後に砂賀町の用水堀の石橋になり、明治11年(1878年)には売りに出され、購入した人が歌碑として光徳寺に建立した、といういきさつがある。

最後に「下和田の方石」。
方石は若松町の佐藤病院の敷地内にある。
方石 (2)
方石 (1)
もちろん当時は畑の中にあった。方石は鎌倉時代に、源頼朝の馬がこの石を化けものと驚いて蹴ったので「化け石」「馬蹴石(ばけいし)」とも言う。

まあ、和田氏時代の高崎の伝説なんだろうけど、後に高崎に入った井伊直政が高崎城を築城する際にも、この「三石」は使わなかったというので、それなりに由緒ある「石」ということ。

ただ「三石」の中では、「円石」のみ悲しい使われ方をしている。「立石」は弘法大師が腰を掛けた、「方石」は源頼朝の馬が蹴ったという伝説があるが、「円石」だけがその手の伝説が見られないので(調べた限り)、石橋に使われちゃったということかな。

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高崎市阿久津町の大翁山玄頂寺。

玄頂寺 (1)
玄頂寺 (2)
玄頂寺 (3)
玄頂寺は、慶長12年(1608年)信州耳取城主・大井政成の開基。

ただ、大井正成は慶長7年(1603年)の没なので、ちょっと数年だが合わない。ちなみに、大井正成は平賀源心の曾孫だが、この平賀源心は武田信玄の初陣の相手。

玄頂寺 (4)
この五輪塔は康永2年(1343年)の造立で、造立年がはっきりしている五輪塔としては高崎市最古である。(鎌倉時代のものと伝わる五輪塔は4基あるが、銘文がない)

玄頂寺 (5)
玄頂寺 (6)
墓地への入り口に土盛りをし、木々の生える塚らしきものがある。木々に囲まれた中には宝篋印塔があり、開基・大井政成の墓との説もある。

大井政成は武田信玄の初陣の相手・平賀源心の曾孫であるが、信玄、勝頼に仕えている。その後は依田氏に仕え、天正18年(1590年)、依田康勝が佐久から藤岡に移封された際につき従ってきている。(最初に書いた信州耳取城主ってのは、武田氏時代のこと。)

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高崎市木部町の山名山安楽寺。

木部・安楽寺 (1)
木部・安楽寺 (2)
木部・安楽寺 (3)
安楽寺は古くは山ノ上にあって、山名氏一族の菩提寺だったが、中世に現在地に移転したといわれている。

木部十騎のひとり田口石見守が天正18年(1591年)に創建したという説もあるが、山名山という山号から見ても、山名氏との関係が深いと考えた方がいいような気がする。

木部・安楽寺 (4)
墓地には、浄瑠璃「お染久松」で有名なお染の墓と伝わる、阿弥陀如来が彫られた舟形石塔がある。

「お染久松」とは、宝永5年(1708年)大坂の油屋の娘お染と丁稚久松が、身分違いの恋から心中に至った巷説を脚色した作品。

木部の豪商・萩原甚右衛門が江戸に店をだしており、地元の人に甚右衛門の店の話として伝わり、お染が祀られたということかな?

もしかしたら、たまたま甚右衛門にお染さんという娘がいたのかも?(勝手な推論)

木部では、昔から芝居の出しものに「お染久松」をしないといわれている。

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高崎市木部町の龍谷山心洞寺。

心洞寺 (1)
心洞寺 (2)
心洞寺は源範頼の孫・吉見次郎義世の子孫である木部範虎の開基。源範頼は源頼朝の異母弟なので、木部氏は源氏の流れをくむ。

心洞寺 (3)
心洞寺 (4)
心洞寺 (5)
心洞寺は木部氏館跡といわれる。境内の南側に土塁のような土盛りがみられるが、館の遺構かは不明。

心洞寺 (6)
心洞寺 (7)
木部範虎の墓。
木部範虎は長野業正の娘(4女といわれる)を娶り、箕輪衆の一員として活躍した。永禄9年(1566年)武田信玄の上州侵攻により箕輪城は落城、その後は信玄に仕える。

この時、範虎の妻(木部姫)は落城前に箕輪城を脱出したが、落城の報に悲嘆のあまり榛名湖に入水。龍になったという伝説がある。心洞寺に位牌がある。戒名は龍體院殿天生證券真大姉。(木部姫伝説に関しては、関係するところに行ってきてから詳しく書くつもり)

範虎は信玄、勝頼に仕え、天正9年(1581年)高天神城の戦では一番槍の武勲をたてる。しかし翌天正10年(1582年)天目山の戦で勝頼自刃の際討死。享年72歳といわれる。

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前回に引き続き高崎市山名町の龍玉山光台寺。
光台寺には「上野三碑考」の作者・木部白満(つくもまろ)の墓がある。

光台寺2 (1)
木部白満(つくもまろ)の墓。墓石は高さ1mほどの菱型形の自然石という、一風変わったお墓。

木部白満は安永5年(1775年)山名の旧家に生まれる。父は葉タバコの仲買人で財を成している。白満は家を継がず(弟・三十郎が継ぐ)、倉賀野に藤波屋という旅籠を出している。

白満が文政2年(1819年)に著した「上野三碑考」は、初の三碑考察論文である(「上野三碑」とは多胡碑、山ノ上碑、金井沢碑のこと)。これにより、上野三碑が全国的に知られることになった。

光台寺2 (2)
白満の墓の前にある弟・三十郎の墓。三十郎は馬庭念流の免許皆伝! 黒澤明監督の映画「椿三十郎」のモデルではないか?という噂が地元で流れた。しかし真偽は知らない。

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高崎市山名町の龍玉山光台寺。

光台寺 (1)
光台寺 (2)
光台寺の創建は、正慶2年(1333年)游行六代一鎮上人によると伝えられる。1333年と言えば、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした年にあたる。

光台寺 (3)
光台寺 (4)
高崎はかつてタバコの産地で、光台寺で栽培されたたばこは「光台寺たばこ」と呼ばれ、銘葉として知られていた。江戸時代には高崎宿や倉賀野宿で販売され、参勤交代で中山道を利用していた加賀前田家などの大名家が愛用していた。また、大名家を通じ将軍にも献上されていたという。

光台寺 (5)
高崎市の重文に指定されている線刻地蔵菩薩立像石仏。安山岩の一面を平に加工し、上半に立像の地蔵菩薩を線彫りし、下半に永享9年(1437年)造立の日付が刻まれている。ただ風化が激しく、地蔵菩薩像すらよく分からない。

光台寺 (6)
山門脇に全國山名氏一族会が立てた「山名館跡」という案内板がある。山名氏の「栄光の歴史」が綴ってあり、その中に「現在の此処光台寺境内は山名館であった。初代・義範以降8代にわたり居住した」とある。

初耳だったのでいろいろ調べてみたら、「日本城郭大系」という城郭研究本に書かれているらしい(この本は既に絶版になっている)。しかし光台寺が「山名館跡」という歴史的な証拠・根拠はない。

案内板を設置した「全國山名氏一族会」のHPでも、「館時代から受け継がれて来た遺構など、表だって山名氏との結びつきを語るものは残されて居りません」ということが書いてあった。

でも、案内板には「山名館であった」と断定的に書いてるけどね(笑)。館跡として別の場所を比定している資料もあり(そちらも根拠はない)、館がどこにあったかは歴史的に不明なのだから、光台寺も山名氏一族会も「という説がある」くらいにしておけばいいのに・・・。

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高崎市下豊岡町の忠霊塔と忠魂碑。
常安寺の駐車場になっている空地(?)に忠霊塔と忠魂碑が建っている。

忠霊塔や忠魂碑は各地に建っており、戦地に散った英霊を弔っている。日頃はあんまり気に留めて見たことはないんだけど、忠魂碑に「稀典」って書いてあったので、もしや「乃木大将?」と思い確認してみた。

豊岡忠魂碑
調べてみると、確かに乃木稀典大将の揮毫であった。明治40年(1907年)豊岡尋常高等小学校の校庭に建てられたもの。昭和21年(1946年)学校内の忠魂碑などは撤去せよとの指示が出され、校庭に埋められたという。(いつ現在地に移ったかは不明)

豊岡忠霊塔 (1)
豊岡忠霊塔 (2)
隣の忠霊塔も見てみたら、揮毫が東条英機! 写真では分かりずらいが、「陸軍〇〇 東条英機 謹書」とある。〇〇が大臣なのか大将なのかは判別できず。昭和17年(1942年)に建てられている。

プレート上にまだらな異物が付いているので、戦後しばらく(と言うか最近まで?)名前を隠すように表面を何かで覆っていたようである。

群馬県内の忠魂碑の揮毫は乃木大将の他、大山巌元帥、児玉源太郎大将など、名だたるメンバー。忠霊塔は、約半数が東条英機の揮毫だという。

揮毫者に対していろいろ意見もあるかもしれないけど、大事なのは戦没者への畏敬の念だから。誤解のないように。

今度から、忠霊塔や忠魂碑も注意して見るようにする。

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前回に引き続き、高崎市下豊岡町の八幡山月光院常安寺。

柳川政右衛門の墓 (1)
柳川政右衛門の墓 (2)
常安寺にある稲川政右衛門の墓。

稲川政右衛門は、明治時代に関脇まで出世した相撲取り。本名は吉井貞四郎といい、明治4年(1871年)旧豊岡村の生まれ。

初土俵は明治21年(1888年)16歳の時で、四股名は「豊岡」。明治32年(1899年)には稲川政右衛門を襲名し、現役と親方の二枚鑑札となっている。その後、明治42年(1909年)に現役を引退。大正5年(1916年)に脳溢血のため死去。享年46歳。

稲川は身長167cm、体重110kg。今の相撲取りと比べると小兵だが、当時の平均は170cm、100kg程度だったらしいので、まあ平均クラス。

群馬県出身の相撲取りの最高位は関脇なので、出世頭である。(他は、栃赤城と琴錦)

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高崎市下豊岡町の八幡山月光院常安寺。

常安寺 (1)
常安寺は元亀元年(1570年)禰津政直の創建。政直は出家後、松鷂軒常安と称しており、法名は月光院殿心源常安居士。そのため、月光院常安寺と名付けられたと思われる。

禰津氏は長野県東部を拠点とした滋野三家のひとつで、政直は武田家に従っていたが、滅亡後は徳川家康に仕え、天正18年(1590年)の家康関東入府に伴い豊岡の地を与えられている。(政直は徳川氏臣従後、禰津から根津に改めている)

政直の甥・信政は慶長7年(1602年)に5000石加増され(計1万石)、豊岡藩を立藩している。

常安寺一帯は根津氏(豊岡藩)の陣屋跡である。

常安寺 (2)
常安寺 (3)
常安寺 (4)
明治26年(1893年)の火災により、山門を残して本堂などすべてが焼失してしまったが、大正11年(1922年)に再建されている。現在の本堂は、平成19年(2007年)の新築である。

常安寺 (5)
墓地には政直の墓がある。

豊岡藩は信政の後、政次、信直と続いたが、信直が嗣子なく没したため、寛永3年(1626年)には廃藩となっている。

豊岡藩なんていうのがあったなんて、まったく知らなかった。

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高崎市下豊岡町の若宮八幡宮。

若宮八幡宮 (1)
若宮八幡宮 (2)
永承6年(1051年)源頼義・義家父子の建立。前九年の役のおり、奥州・安倍氏の鎮圧に向かう途上、源頼義・義家父子はこの地に仮陣屋を設けてしばらく逗留し、軍勢を集めるとともに戦勝を祈願するため、若宮八幡宮を建立した。

若宮八幡宮 (3)
鎌倉時代には、里見義俊(里見氏の租)の3男・豊岡三郎の崇拝を受けたという。

若宮八幡宮 (4)
若宮八幡宮 (5)
江戸時代の寛文2年(1662年)に、江戸幕府代官・諸星惣左衛門が社殿を大修築している。

若宮八幡宮 (6)
明治期には乃木稀典大将も参拝に訪れている。

八幡宮といえば御祭神は誉田別命(応神天皇)なんだけど、ここは何故か大鷦鷯尊(仁徳天皇)。一部には、応神・仁徳同一人物説もあるけど、日本書紀では父子の関係。

若君を祀ったので「若宮」かな?

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高崎市高松町の群馬シンフォニーホール。

群馬シンフォニーホール (1)

群馬シンフォニーホール (2)
平成3年(1991年)に、群馬の文化の創造と発展を一層推進していくことを目指し、音楽センターの南側に建設された。基本設計は、音楽センターと同じレーモンド設計事務所によるもの。

鉄筋コンクリート造りの白を基調としたモダンな建物は、地上2階、地下1階からなっており、大・中・小5つホールがある。大ホールはオーケストラ、中ホールは合唱・合奏、小ホールはそれぞれのパート練習などに利用されている。

音楽センターが建築後50年を超え老朽化が進み、音楽ホールとしての機能が低下していることを考えると、新しく音響効果の優れたシンフォニーホールは、貴重な練習会場となっている。

音楽センター
音楽センターを高崎市役所展望ホールから撮った写真。右下の黒い屋根がシンフォニーホール。

実はオレ、シンフォニーホールの存在を知らなかったんだよね。だから、シンフォニーホールを中心に、上から撮った写真はない。

高崎市役所なんかにはいつでも行けるので、行ったら展望ホールに登って撮ってくるよ。

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高崎市高松町の群馬音楽センター。

音楽センター (1)
音楽センター (2)
昭和36年(1961年)高崎市の文化的なシンボルとして完成。設計はアントニン・レーモンドである。(上からの写真は、高崎市役所展望ホールから。上側が正面。)

音楽センター (3)
音楽センター (4)
その独特な外観は、折板構造(不整形折面架板構造)によるもので、内部は地下1階・地上2階の構成となっている。

1932席あるホールは、コンサートホールとしてはもちろん、日本の伝統芸術である歌舞伎や能、オペラ、バレエなどが上演されている。

建設費は3億円で、市の予算から2億円、市民の寄付から1億円。昭和36年当時の高崎市の予算は約7億円なので、文化事業に予算の約30%を使ったことになる。

ちなみに平成25年(2013年)度の高崎市の予算は、合併で市が大きくなっていることもあるが、約2461億円である。

音楽センター (5)
正面入り口前には、コントラバスをかたどった電話ボックスがある。音楽センターならではであるが、今の時代に電話ボックスのニーズはほとんどないと思われる。とは言え、オブジェと考えればふさわしいデザイン。

群響
群馬音楽センターは群馬交響楽団(群響)の本拠地である。群響は昭和20年(1945年)高崎市民オーケストラとして創設され、昭和30年(1955年)公開の映画「ここに泉あり」のモデルとなった。(写真は群響のHPから)

昭和22年(1947年)に始めた移動音楽教室は、県内各地の学校を廻るもので、児童・生徒が音楽に親しむ良い機会となっている。

群馬県民は子どもの頃、1回は学校に群響が来て、その演奏を聴いているはずだ。

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高崎市宮元町の頼政神社。

5月16日から26日まで、社殿の修復完了と神社を建立した松平(大河内)輝貞の生誕350年を記念し、松平家が高崎藩主時代の社宝が公開されたので再訪した。
(以前の記事は「源三位を祀る -頼政神社-」参照)

頼政神社 (1)
社宝の公開は2005年(平成17年)以来。社宝約30点のうち10点ほど展示されている。

頼政神社 (2)
大河内松平家最後の高崎藩主・輝馨(てるな)が刀匠に作らせた太刀。見たいと言えば、出してもらえたのかなぁ~(ちょっと後悔)。

頼政神社 (3)
稲妻の鎧は写真だけだった。稲妻の鎧は、篭手(こて)に雷文があることから、この名前がついている。松平輝聴(てるとし)が天保(1830~43年)の頃造らせたもので、大鎧の形をとっていて、古い小札(こざね)も一部用いられている。

頼政神社 (4)
頼政神社 (5)
頼政神社 (6)
その他、内容は良く分かんないが絵や書。

上毛新聞に紹介記事が出ていたので行ったんだけど、ちょっとイメージが違った・・・。
ちなみに、上毛新聞の記事の見出しは、「藩主のお宝ずらり」だった。

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高崎市上小塙町の烏子(すないご)稲荷神社。

烏子稲荷神社 (1)
桓武天皇の延暦2年(783年)に藤原金善が京都藤の森稲荷の御分霊を勧請したのが始まりという。

戦国時代には、武田信玄が箕輪城攻略の際に戦勝祈願を行っている。

烏子稲荷神社 (2)
烏子稲荷神社 (3)
烏子稲荷神社 (4)
烏子と書いて「すないご」と読むのは、古くはこの辺を須苗郷と言い、これが「すないご」になったようだ。烏子と書くのは、烏川と氏子の造語。

烏子稲荷神社 (5)
寛永年間(1624~45年)に、時の高崎城主・安藤対馬守が植えたもみじ。逆さに植えられたのに、枯れることなく根づいたので、諸願成就の御神木となっている。(烏子稲荷神社の説明板から)

でも、対馬守・安藤重信は元和7年(1621年)に死去しており、寛永年間は安藤重長が高崎城主。重長は伊勢守。寛永が元和(1615~24年)の間違い、もしくは対馬守でなく伊勢守の間違いなら話が合うけど・・・。

烏子稲荷神社 (6)
烏子稲荷神社 (7)
烏子稲荷神社 (8)
烏子稲荷神社の社殿は、上小塙稲荷山古墳の墳丘部に建っている。直径50mの円墳で、6世紀前半の造営と推定される。2段築造で、1段目が異常に高く、通常よりも高い位置に横穴式石室があり、しかも北北西に開口している。

北向きの開口は珍しいが、榛名山の方角を向いているんだと思う。この古墳が造営された6世紀前半は、榛名山が2度大噴火しており、その噴火で亡くなった方か、噴火の被害に立ち向かった方が被葬者なのでは?

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高崎市柴崎町の進雄(すさのお)神社。

進雄神社 (1)
進雄神社 (2)
貞勧11年(869年)清和天皇の勅掟により、尾張津島神社を勧請して創建。前九年の役のおり、源頼義が武運長久を祈誓し、凱旋にあたっては社殿を修理し領地を寄進したという。頼義は八幡太郎義家の父親。

進雄神社 (3)
神様が渡る真ん中は通れないので、両脇の平橋を渡る。

進雄神社 (4)
進雄神社 (5)

進雄神社 (6)
平成になって総檜、権現造の社殿を新築造営したようだ。

雄進神社のHPでは、源頼義が訪れた逸話が天喜5年(1059年)となっている。でも、天喜5年は1057年なんだよね。1059年は康平2年になる。まあ、たいしたことではないんだけど、いろんな人の参拝記に進雄神社HPの由緒が引用されており、みんな間違ってるので気になってしまっただけ。(オレの記事がすべて正しいと言っている訳ではないので、誤解のないよう。)

ところで、一般的には「スサノオ」は、素盞雄、須佐男、須佐之男と書くのが多いと思う。個人的には「素盞雄」が好みだ。

明治初年の神仏分離により、雄大に進むを祈誓して「進雄神社」と改称されたらしいけど。

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高崎市栗崎町の岩鼻軽便鉄道跡。

岩鼻軽便鉄道跡 (1)
岩鼻軽便鉄道跡 (2)
高崎市立岩鼻小の東に、高架橋が切れている鉄道線路がある。建設途中で公共事業削減で放棄された??

岩鼻軽便鉄道跡 (3)
実は、これは岩鼻軽便鉄道跡を利用した貨物ターミナルの引き上げ線。

「群馬の森」一帯は、かつて陸軍の火薬製造所があった所で、その歴史は古く、明治15年(1882年)に黒色火薬の製造を始め、明治38年(1905年)には日本で初めてダイナマイト製造を開始している。
(「ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-」参照)

当初、火薬製造所への輸送は、南側を流れる烏川の舟運を主に利用して行われていた。高崎線の開業後は、倉賀野駅との間に荷馬車を走らせるようになった。

その後、貨物量の増加により、大正6年(1917年)倉賀野駅から火薬製造所(上州岩鼻駅)までの鉄道が開設された。それが岩鼻軽便鉄道(私鉄)。上州岩鼻駅は今の原研内に位置していた。

終戦に伴い昭和20年(1945年)に廃線になったが、昭和35年(1960年)以降、倉賀野駅の貨物ターミナル化により、岩鼻軽便鉄道の線路の一部を再利用している。

岩鼻軽便鉄道跡 (4)
岩鼻軽便鉄道跡 (5)
岩鼻軽便鉄道時代は、もちろんこんな高架橋ではなく、高架橋は昭和56年(1981年)の竣工。

現在、この先から原研や群馬の森方面に、岩鼻軽便鉄道の遺構はない。しかし、その跡は道路になっていて、最後のカーブなど当時の路線を思い起こさせる。

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高崎市綿貫町の群馬県立公園 「群馬の森」。
ここに、ダイナマイト発祥の地の碑がある。

ダイナマイトの碑
「群馬の森」一帯は、かつて陸軍の火薬製造所があった所で、その歴史は古く、明治15年(1882年)に黒色火薬の製造を始め、明治38年(1905年)には日本で初めてダイナマイト製造を開始している。

当時、陸軍には東京・板橋に火薬製造所があったが、増産が必要となり岩鼻が選ばれた。その理由は、烏川と井野川に沿って舟運の便がよく、水車の動力も得やすいことが挙げられている。

創業時の名称は「東京砲兵工廠岩鼻火薬製造所」。大正12年(1923年)に「陸軍造兵廠火工廠岩鼻火薬製造所」となり、昭和15年(1940年)には「東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」と変わっている。昭和20年(1945年)終戦を迎え、その歴史に幕を閉じた。

現在跡地は、県立公園・群馬の森、日本原子力研究開発機構、日本化薬によって三分割されている。

日本化薬 (1)
爆風避けの土塁。トンネルもあり。

日本化薬 (2)
日本化薬 (3)
日本化薬 (4)
日本化薬側に見えた廃屋。「火薬工室」の名残りのようだ。

原研
原研側の廃屋。「ダイナマイト工室」??

原研も日本化薬も、昔の工室を保存するでもなく壊すわけでもなく、そのまんまにしておくのはどういう理由?

どうせなら、きちっと保存すればいいのに(できれば公開も)。でも、こういうのをすぐ戦争と結び付けて、毛嫌いする連中が多いから無理かな。

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高崎市綿貫町の群馬県立歴史博物館。
群馬県立公園 「群馬の森」内にある。

群馬県立歴史博物館 (1)
群馬の森は、昭和43年(1968年)に「明治百年記念事業」により「旧東京第二陸軍造兵廠岩鼻製造所」の跡地に整備された公園。県立歴史博物館は、昭和54年(1979年)の開館。

館内の構成は(常設展示)、
 学習ホール
 第1展示室 : 旧石器/縄文/弥生
 第2展示室 : 古墳/奈良/平安第
 第3展示室 : 鎌倉/室町/戦国
 第4展示室 : 江戸
 第5展示室 : 明治以降

細かい解説はできないので、写真の羅列!(なるべく時代順)

群馬県立歴史博物館 (2)
群馬県立歴史博物館 (3)
群馬県立歴史博物館 (4)
群馬県立歴史博物館 (5)
群馬県立歴史博物館 (6)
群馬県立歴史博物館 (7)
群馬県立歴史博物館 (8)
群馬県立歴史博物館 (9)
群馬県立歴史博物館 (10)
群馬県立歴史博物館 (11)
群馬県立歴史博物館 (12)
群馬県立歴史博物館 (13)
群馬県立歴史博物館 (14)
群馬県立歴史博物館 (15)
時代に偏りがあるけど、ご勘弁を。一応、説明文が写っているのと、見れば何か分かる写真を載せたつもりだけど、門の写真だけ分かんないかもしれない。これは「碓氷峠の関所東門」。

「上毛かるかた紀行」で来て以来久しぶりだけど、こういう歴史遺産に触れるのはいいもんだね。(上毛かるた紀行 「つる舞う形の群馬県」参照)

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高崎市八島町の高崎市美術館。

高崎市美術館 (1)
高崎市美術館は、平成3年(1991年)の開館。

優雅に絵を見に行った、と言いたいところだけど、実は旧井上房一郎邸を見に行った。旧井上邸は高崎市美術館の裏にあり、美術館に併設の形になっているので、美術館に入らないと、旧井上邸に行けない。

井上房一郎邸 (1)
観音山の観音様を建てたことで有名な井上工業の創始者・井上保三郎の長男・房一郎氏が、昭和27年(1952年)に自邸として建てた住宅。

房一郎氏は、井上工業の社長も務めているが、ブルーノ・タウトの招請や群響の創設に尽力するなど、文化活動にも大きな足跡を残した。

井上房一郎邸 (2)
井上房一郎邸 (3)
井上房一郎邸 (4)
群馬音楽センターの設計者として有名な建築家アントニン・レーモンドが、東京・麻布に建てた住宅を気に入った房一郎氏が、それを模して建てたもの。

柱筋が外壁からずらされた平面計画や、柱や垂木を二つ割りの丸太で挟み込む「鋏み状トラス」を用いた構法など、レーモンドの住宅建築の特徴が随所に見える。

井上房一郎邸 (5)
井上房一郎邸 (6)
庭園は当時のままなのかは不明だが、よく手入れが行き届き綺麗である。

井上房一郎邸 (7)
旧井上邸の西側には高層マンションが林立しており、その中の平屋との対比が何とも言えない。

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高崎市綿貫町の普賢寺裏古墳。

普賢寺裏古墳 (1)
普賢寺裏古墳 (2)
普賢寺裏古墳は、全長77m、後円部径42m、後円部高さ6.2m、前方部幅約45m、前方部高さ3.4mを誇る、5世紀前半造営の前方後円墳。

でも、素人のオレが見ると、古墳とは分からない。木と雑草が生い茂った小山って感じ。整備されてないと、こんな感じなんだね。

普賢寺 (1)
普賢寺 (2)
普賢寺 (3)
普賢寺 (4)
この古墳は、その名の通り普賢寺の敷地内にあるため、調査はされていないようだ。埴輪が発見され、その特徴が不動山古墳より古いため、5世紀前半の造営となっている。
(不動山古墳は「高崎市綿貫町・不動山古墳」参照)

でも、その埴輪も行方不明だって言うので、推定の推定くらい。

多分、ここも私有地なんだろうから、県や市も固定資産税を取っておいて、整備・保存しろとは言えないよね。

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高崎市綿貫町の不動山古墳。

不動山古墳 (1)
不動山古墳は、全長94mの前方後円墳で、5世紀中ごろから後半の築造と推定される。古墳北側のくびれ部には、方形台状の造り出しが確認されている。前方部は削られてしまっているが、埴輪、土師器、鉄製鍬先などが出土している。

不動山古墳 (2)
不動山古墳 (3)
後円部上に、後の時代に祀られた不動尊がある。

不動山古墳 (4)
お堂裏に舟形石棺の身が保存されている。凝灰岩製で約3.5m。直径30cmくらいある縄掛突起。今まで見た中では極太。

石棺って、けっこう貴重な遺物だと思うんだけど、剥き出しで保存されてるのが多い。
(「石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-」)
(「舟形石棺が保存されている -宗永寺-」)

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高崎市倉賀野町の浅間山古墳。

浅間山古墳 (1)
浅間山古墳 (2)
浅間山古墳は、全長171.5m、前方部長さ66.3m、後円部径105m、前方部高さ5.5m、後円部高さ14.1mで、県内2位の規模を誇る前方後円墳である。5世紀初頭の造営と推定される。

周りには、幅約30mの周濠とその外側に20~30m幅の中堤を巡らし、さらに外濠も造っていたものと推測されている。堀も含めた全長は250m、幅170mにも達する。

発掘調査は行われていないが、鰭付円筒埴輪、、盾などの器財埴輪の破片が見つかっている。

浅間山古墳 (3)
浅間山古墳 (4)
墳丘は後円部3段、前方部2段で、前方部が低い古い形を残している。

浅間山古墳は個人の方の所有のため、墳丘部に果樹畑があったりする。高崎市もあんな市庁舎にムダ金を使うくらいなら、こういう文化遺産を買い取って整備した方がよっぽどいいね。

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高崎市倉賀野町の大鶴巻古墳。

大鶴巻古墳 (1)
大鶴巻古墳は全長123m、前方部長さ51m、後円部直径72m、前方部高さ6.5m、後円部高さ20.5mの規模で、4世紀末から5世紀初頭ころの造営と推定される前方後円墳である。

発掘調査は行われていないが、鰭付埴輪、円筒埴輪、器財埴輪など、多くの埴輪の破片が見つかっている。

大鶴巻古墳 (3)
大鶴巻古墳 (2)
平坦地の土を2段に盛り上げており、墳丘の周りには盾型の濠をめぐらしている。前方後円墳でも、前方部がかなり長い鍵型をしている。

一部は個人の方の所有なので、前方部は削平され畑ができ、小さなビニールハウスが建っている。

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高崎市倉賀野町の厳堂山安楽寺。

安楽寺 (1)
安楽寺 (2)
天平9年(737年)行基の開基といわれる。行基は奈良の大仏建立の実質的な責任者で、行基菩薩(死後の称号)とまで呼ばれた大僧正。一応、全国を歩きまわったといわれているけど・・・。

安楽寺 (3)
室町時代初期(南北朝期)のものと考えられる2基の異形板碑がある(写真の右2基)。通常の板碑に比べ厚みがあり、天引石製である。

安楽寺 (4)
安楽寺 (5)
安楽寺 (6)
本堂裏には、安楽寺古墳と呼ばれる古墳がある。7世紀後半の築造と推定される円墳で、現在は径20m、高さ4mほどだが、本堂に削られた形となっており、もともとは径30mだったと考えられている。

石室内の壁面に彫られた7体の石仏(七仏薬師如来)が、安楽寺のご本尊である。行基作と伝えられるもので、ご利益は諸病平癒、とりわけ眼の病。

安楽寺 (7)
本堂に古銭の寛永通宝を並べた、「大願成就」という額が奉納されている。これはご本尊の七仏薬師如来に祈願したところ、眼病が快癒したことへのお礼のようだ。明治26年(1893年)とある。

石室内の石仏は、12年ごと(巳年のみ)にご開帳される。おっ! 今年は巳年なので、ご開帳される年だ! 4月8日だってさ!

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高崎市岩鼻町の福聚山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺 (2)
観音寺 (3)
天正18年(1590年)徳川家康の関東入部以降、岩鼻は前橋藩領であったが、寛延2年(1749年)酒井氏転封後は幕府天領となった。

寛政5年(1793年)岩鼻に代官の陣屋が設置され、初代代官として吉川栄左衛門と近藤和四郎が任命された。

観音寺 (4)
吉川栄左衛門の出身地は相州中原村(現、神奈川県)で、祖先は代々御殿番を勤めた家柄である。文化7年(1810年)69歳で死去するまで、19年間代官職を務めた。

慶応4年(1868年)、明治に改元されるちょっと前に、明治新政府により岩鼻県が設置された。県庁は岩鼻代官所。

まあ、岩鼻県は3年で廃止され、第1次群馬県になるけど。(今の埼玉県の一部は入間県)(岩鼻陣屋跡は、「社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-」参照。)

ちなみに、「赤城の山も今宵限り・・・」のセリフで有名な国定忠治が殴り込んだ代官所は、ここである。とは言っても、殴り込み自体は作り話だけどね。

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高崎市八島町の豊田屋旅館。

豊田屋旅館 (1)
豊田屋旅館 (2)
豊田屋は高崎駅西口の駅前で、現在も営業している旅館。本館は昭和7年(1932年)に建てられたもの。

豊田屋旅館 (3)
本館は入母屋造り瓦葺きの妻入りで、入母屋の破風に懸魚を設けている。屋根の棟に付けた山形の部分を破風といい、破風の下の飾りを懸魚と呼ぶ。玄関の庇は軒唐破風で、そこにも懸魚を設けるといった、特徴ある旅館の造りとなっている。

豊田屋旅館 (4)
明治17年(1884年)の高崎駅開設後、明治の終わりごろに駅前に創業した豊田屋旅館の創業地は、現在地よりも更に駅寄りにあった。平成13年(2001年)に駅前通りの拡張工事に伴い、約1年をかけて曳家にて現在地に移動している。

昭和60年(1985年)に、作家の司馬遼太郎が訪ねて来たという。戦争中に高崎第15連隊との連絡役で、豊田屋に泊まったことがあったらしい。司馬遼太郎が泊まった10番の部屋は、当時も今もそもまま。

昼食のみ利用も可能なので、古き良き時代の旅館の雰囲気で、割烹料理を味わってみたらいかが?

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高崎市高松町の高崎市役所。

高崎市役所 (1)
高崎市役所本庁舎は、平成10年(1998年)に建設されたものであり、地上21階、地下2階、高さ102.5mである。県内では県庁(153m)に次ぐ高さを誇る。

誰が名付けたか「税金バベルの塔」!(って、オレだけど)

高崎市役所 (3)
高崎市は、平成18年(2006年)から平成21年(2009年)にかけて、倉渕村、箕郷町、群馬町、新町、榛名町、吉井町を合併編入。面積ばっかり広くなっても、人口はたかだか37.5万人。(一応県内では最多。前橋市は34.2万人。)

この程度の地方都市に、これだけの市庁舎が必要??

高崎市役所からの風景 (1)
高崎市役所からの風景 (2)
高崎市役所からの風景 (3)
高崎市役所からの風景 (4)
まあ、高い分だけ見晴しはいいけどね。上から、観音山(様)、県庁(後ろは赤城山)、高崎駅、浅間山。

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高崎市若松町の日宮山光明寺。

若松町・光明寺 (1)
若松町・光明寺 (2)
至徳2年(1385年)に安楽院遍照坊として開山したと伝わる。

慶長9年(1604年)、時の住職が高崎藩主・酒井家次の嫡子・忠勝の病気を治癒させた。家次は喜び、仏殿を修復し日宮山光明寺と名付けたという。

若松町・光明寺 (3)
本堂の左には、愛染明王を安置した「愛染堂」が建っている。

若松町・光明寺 (4)
若松町・光明寺 (5)
大正3年(1914年)に内村鑑三が建立した内村家5代の墓。ちなみに鑑三は8代目。

若松町・光明寺 (6)
5代の墓と共に建立した内村家の墓。

内村鑑三は、万延2年(1861年)高崎藩士の子として、江戸で生まれている。5歳のとき高崎に移っているが、明治6年(1873年)には上京しているので、高崎に住んでいたのはわずか7年。

クリスチャンの鑑三が、高崎に先祖の墓を建てたのは、娘・ルツ子の死(明治45年)が影響しているのかもしれない。

関連 上毛かるた紀行 「心の燈台 内村鑑三

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