Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市下中居町の東光山普門寺。
前回紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである佐藤三喜蔵の墓がある。
(「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓」参照)

高崎・普門寺 (1)
高崎・普門寺 (2)
高崎・普門寺 (3)
普門寺の由緒は分からなかった。

高崎・普門寺 (4)
高崎・普門寺 (5)
五万石騒動大総代のひとり佐藤三喜蔵の墓。

三喜蔵は温厚で誠実な人柄で、面倒見も良い人物であった。大総代のひとりに推されるのも当然の人物であったようだ。また、体格がよく田舎相撲の横綱と呼ばれていた。

高井喜三郎とともに処刑されたが、泰然自若として少しも恐れず刑場の露と消えた。享年52歳。その姿には、高崎藩士も涙したという。

辞世は「望みなき身は今日限りにちりぬるも 七度生まれてかなへてやみん」

なお、墓の碑には「三喜造」とあるが、いろいろ調べると「三喜蔵」との表記の方が多かったので「三喜蔵」とした。違っていたらすみません。

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高崎市柴崎町の高井喜三郎の墓。
高井喜三郎は、高崎五万石騒動の大総代3人のひとり。

高井喜三郎の墓 (1)
高井喜三郎の墓。

高崎五万石騒動は、年貢の軽減を訴えた農民一揆。農民一揆と言っても江戸時代の出来事ではなく、実は明治に入ってから。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた(米には70%以上)。

明治政府は「農商工布告」で、「苛政に苦しむものは申し出よ」と布告。高崎藩のお隣りの岩鼻県(岩鼻は江戸幕府の天領だったので県になっていた)では訴状を受け付けたが、高崎藩は布告自体を無視していた。

明治2年(1869年)、高井喜三郎、佐藤三喜蔵、小島文次郎の3人が大総代となり、高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及んだもの。直訴と言っても「要望書」を渡しただけ。まあ、高崎藩主からみれば「強訴」となるけど。

農民の要求は廃藩置県(明治4年:1871年)後に認められたが、大総代3人は明治3年(1870年)に斬首となっている。

百姓一揆というと過激な打ち壊しとかを想像しがちだが、極めて民主的に大総代を選出し整然と行動している。

高井喜三郎の墓 (2)
辞世は「吾人の為ともなれと身を捨てて いまいけにへとなりしうれしさ」。
享年42歳。

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高崎市山名町の山名八幡宮。

水戸黄門腰掛け石 (1)
山名八幡宮の境内に水戸黄門が腰を掛けたという石がある。

水戸黄門こと徳川光圀が越後高田家の騒動を治めた後、北国街道、中山道を経由し高崎城下に入り、逗留していた。その際に山名八幡宮を参拝したといわれ、その時に腰かけたのが写真の石だという。

その後、光圀一行は山名城から根小屋城方面に向かうのだが、その時に山賊に襲われていた母娘を助けたという。

まあ、いろいろ言われているが、全部作り話なのは言うまでもない。水戸藩藩主は江戸定府(参勤交代なし)であり、帰国するにも幕府の許可が必要だった。なので、光圀は江戸と水戸の往復程度しかしていない。

水戸黄門腰掛け石 (2)
この石が光圀の時代の物にはとても見えない。新しい三波石あたりじゃないの?(笑)。

最初の写真に写っている「神馬像」のように、山名八幡宮には意味不明な物もある。腰掛石もそのたぐいだね。

山名八幡宮関連
 「山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
 「高崎市吉井町・馬庭念流道場

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高崎市上並榎町の新比叡山天竜護国寺。

天竜護国寺 (1)
天竜護国寺 (2)
天竜護国寺は貞観6年(864年)比叡山延暦寺座主・慈覚の創建と伝えられる。延暦寺に模して建造されたので新比叡山と称した。

天竜護国寺 (3)
天竜護国寺 (4)
関東一の大伽藍で東国一の霊場といわれ、境内には僧坊が三百余りあったといわれるが、度重なる兵火により往時の面影はない。

享和3年(1803年)に中興の祖・一元が現在の形に再建したとされる。

天竜護国寺 (5)
天竜護国寺には、醍醐天皇が延長6年(928年)小野道風に書かせたといわれる扁額が残されている(高崎市の重文)。もちろん写真の扁額ではない。

天竜護国寺 (6)
本堂左手には舟形石棺が保存されている。これは明治25年(1892年)に近くの稲荷山古墳から発掘されたもの。稲荷山古墳は都市開発により、現在は住宅地などになってしまっている。

天竜護国寺 (7)
「信玄の鍋掛け石」。武田軍が箕輪城攻略時、天竜護国寺に駐留した際にこの石に鍋を掛けて煮炊きをしたというもの。確かに、それっぽい形をしている(笑)。

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高崎市上中居町の諏訪神社。

上中居諏訪神社 (1)
上中居諏訪神社 (2)
上中居諏訪神社創建の年代は不明だが、信濃国の諏訪大社より勧請された。

上中居諏訪神社 (3)
上中居諏訪神社 (4)
上中居諏訪神社 (5)
社殿は享保17年(1732年)、文久2年(1862年)に再建・建て替えの記録がある。大正7年(1918年)に幣殿・拝殿を造営し、現在の社殿の形態になっている。

上中居諏訪神社は、昔から「ひいらぎさま」といわれている。その名の通り、柊に取り囲まれているから。

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高崎市下小鳥町の首塚(枉寃旌表之碑)。

首塚 (1)
高崎環状線を走っていたら、「史跡 首塚入口」という案内板が目に入った。えっ、首塚?? まったくの初耳だったので、寄ってみることにした。首塚は環状線からちょっと入った所にあった。

首塚 (2)
枉寃旌表之碑(おうえんせいひょうのひ)というのが建っている。江戸時代初期高崎藩主・松平丹波守康長のころ、下小鳥村のほとんど罪もない村人たちが藩の役人武士たちに殺戮されたという言い伝えをもとに明治34年(1901年)建立された慰霊碑だという。

要約すると、藩主・役人武士がひどい政策を行ったため住民が反発し、それを武士が住民全員を惨殺するという挙にでたという。時に元和3年(1617年)のこと。但しこの事件は口伝で、それを裏付ける資料は見つかっていない。

藩主・松平康長は戸田家の出身で、徳川家康の異父妹・松姫と婚姻し、松平姓を賜ったとされる(戸田松平家)。康長は事件のあったといわれる前年(元和2年:1616年)に高崎藩に移封されたが、翌年(事件の年)には信濃松本藩に移されている。

たった1年で移封されていることから、考えようによっては事件の責任を取らされてのこととも考えられる。松平という家康の親戚筋のため、ことを荒立てずに処理された?

権力者側が行ったことが記録に残らないようにすることはできたが、さすがに伝承として伝わることまでは防げなかったということかな。まあ、真相は藪の中ではあるが・・・。

ちなみに、康長は実直で穏やかな人柄だったといわれていることを付記しておく。

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高崎市八幡町の神通山大聖護国寺。

大聖護国寺 (1)
大聖護国寺は建保3年(1215年)定弘の建立と伝わる。定弘は醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、不動明王像を下賜された後、当地に下向し大聖護国寺を開基したという。

大聖護国寺 (2)
寛永年間(1624~45年)まで八幡八幡宮の別当寺であった。

大聖護国寺 (3)
大聖護国寺 (4)
寛文元年(1661年)、徳川綱吉が館林藩主になると、綱吉の母・桂昌院は帰依していた僧・亮賢を招き、大聖護国寺の住職(第24世)とした。延宝9年(1681年)には、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて音羽護国寺を開かせている。

現在の大聖護国寺はかなりひなびたお寺になっている。江戸時代(特に徳川綱吉時代)の繁栄を考えるとちょっと残念かな。

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高崎市石原町の桜塚古墳。

桜塚古墳 (1)
桜塚古墳 (2)
桜塚古墳は東京農大二高先の鶴辺団地内に残る径21.6m、高さ6.9mの円墳。詳細については発掘調査が行われていないため不明。

桜塚古墳 (4)
墳丘上に彼岸桜の老樹があり、このことから桜塚と呼ばれている。

桜塚古墳 (3)
桜の木の脇に建武5年(1338年)銘の板碑が建っている。以前は、康永2年(1343年)明の板碑もあったが、現在は残っていない。

ところで、建武5年というのは北朝の年号で、南朝は延元3年。建武というと後醍醐天皇(南朝)のイメージだが、後醍醐天皇の建武の新政は2年で崩壊し、天皇は2年で延元に改元した。しかし北朝の光明天皇は5年まで建武を使った(同年暦応に改元)。

後醍醐天皇が武家の力を背景に、北朝の光厳天皇の即位と元号・正慶を無効にしたため北朝も建武を使っていた。後醍醐天皇の方が先に建武をやめてしまったという皮肉。

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高崎市鼻高町の少林山薬師塚古墳
少林山達磨寺境内にある。洗心亭のすぐ横。

少林山B号古墳 (1)
少林山B号古墳 (2)
少林山薬師塚古墳は正確には少林山B号古墳という。径15m、高さ3mの円墳で、洗心亭建築時墳丘が削られたようだ。

少林山B号古墳 (3)
少林山B号古墳 (4)
少林山B号古墳 (5)
石室は全長5.6m、奥幅1.65m。内部には薬師如来が安置されている。なので薬師塚。達磨寺の境内案内図に「薬師塚」と書いてあったので、薬師塚古墳と書いたが、オレの勝手な命名かも。

達磨寺の境内には10基以上の古墳があるらしいが、オレのような素人にはB号古墳くらいしか分からなかった。「これ古墳かなぁ~?」と感じた場所はけっこうあったけど・・・。

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高崎市鼻高町の少林山天頭塚古墳。

少林山天頭塚古墳 (1)
少林山天頭塚古墳は正確には少林山2号古墳という。

少林山達磨寺の裏山というか南側というかは、地すべりが多発したためその対策工事が行われ、工事区域に多数の古墳が確認されている。その中でも保存状態が良好で、学術的価値が高いと判断された2号古墳が達磨寺本堂南側に移築・復元されている。

少林山天頭塚古墳 (2)
天頭塚古墳は径25.6m、高さ12mの円墳。墳丘の裾は平らな面となっており、円筒埴輪や人物・太刀などの形象埴輪が並べられていた。葺き石は山石を使って墳丘前面に貼り付けている。

少林山天頭塚古墳 (3)
石室は全長6.2mで、平面形は奥より入口部が狭い羽子板状になっている。床には小さな石を敷き詰めている。ガラス製の小玉や金銅製の耳かざりなどの副葬品が出土している。

奥壁に地蔵菩薩が彫られており、線の特徴等から室町時代明応期(1492~1500年)に刻まれたものである。ということだが、よく分からなかった。

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高崎市八幡原町の八幡原A号及びB号石槨。

八幡原A号B号石槨 (1)
この石槨は若宮古墳群(烏川と井野川の合流地点左岸部に分布)の発掘調査時(昭和49年:1974年)に発見された。若宮古墳群の15号墳の主体部がA号・B号石槨。15号墳は直径約10.3mの円墳で、5世紀中頃から後半の築造と推定される。

若宮古墳群は、古墳が非常に密集して築造されているのが特徴で、17基の古墳と26基の石槨が確認されている。

八幡原A号B号石槨 (2)
フェンスで囲まれた内部を覗くと、枯草で覆われ何も見えない。何となく、いくつかの「石」がうっすら見えたが、石槨を確認することはできず。

八幡原A号B号石槨 (3)
高崎市のHPから。
こんな感じで石槨が2つ並んでいるようだ。A号石槨は長さ167cm、幅28cm、B号石槨は長さ150cm、幅26cmなので、夫婦が埋葬されたものかも。

副葬品としてA号石槨から鉄剣2本、鉄製刀子1本、B号石槨からは鉄剣1本、鉄製太刀1本が出土している。

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高崎市剣崎町の剣崎長瀞西古墳。

剣崎長瀞西古墳 (1)
剣崎長瀞西古墳 (2)
剣崎長瀞西古墳は八幡台地に造られた径30m、高さ5mの帆立貝式古墳である。1段目のテラス外周には円筒埴輪が巡っていた。このテラス部は南側で広くなっている。5世紀後半の築造と推定される。

古墳一帯は剣崎長瀞西遺跡と呼ばれ、垂飾付耳飾、鉄製轡、韓式系土器など56点が出土している。

剣崎長瀞西古墳 (4)
剣崎長瀞西古墳以外は埋め戻されてしまっており遺跡の面影はないが、古墳時代中期から後期の古墳が20数基見つかっている。

また、朝鮮半島系の土器や朝鮮半島製と考えられる国内では最古級の馬具なども発見されており、当時の朝鮮半島とのつながりを示す遺跡である。古墳時代の渡来人が住んだ村であると考えられている。

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高崎市片岡町の七士殉職供養塔。

七士殉職供養塔
七士殉職供養塔は昭和10年(1935年)の大水害の際に殉職した、高崎第15連隊の兵士を供養するため、翌昭和11年(1936年)に建てられた。

台風による集中豪雨で、烏川の上流域と碓氷川支流の九十九川流域で山津波(土石流)が発生、さらには烏川、碓氷川の堤防が決壊。高崎市の家屋被害は、流失6棟、全壊3棟、半壊4棟、床上浸水818棟、床下浸水712棟という甚大なものとなった。

この水害の救助活動中に高崎第15連隊第11中隊の兵士10人が濁流にのまれ、うち7人が殉職するという悲劇が起こった。7人はいずれも県内出身者で、22歳、23歳の若い兵士であった。

7人の葬儀には県知事、高崎市長をはじめ、小学生や市内の関係団体など約5000人が参列し、兵士たちの死を悼んだ。

現在も花が手向けられており、高崎市民がいかに7人の死を悲しんだかが伝わってくる。

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高崎市山名町の御野立所跡。

山名御野立所
昭和9年(1934年)11月に行われた帝国陸軍特別大演習を、昭和天皇がこの場所からご視察された。

この碑は昭和11年(1936)に旧八幡村(現山名町)の方々により造立されたもの。揮毫は荒木貞夫陸軍大将である。野立所とは演習などで野外に設けた天皇陛下の休憩所のことである。

演習は阿部信行大将を指揮官とする東軍(第一師団・第二師団)と、荒木貞夫大将を指揮官とする西軍(近衛第十四師団)に分かれて行われている。(高崎第十五連隊は西軍に所属)

御野立所から (1)
御野立所から (2)
現在は住宅地が増え、昭和天皇がご覧になった(と思われる)景色は見ることができない。1枚目は御野立所跡付近から木部町方面、2枚目は佐野町方面を見たもの。田んぼが広がっているあたりで演習が行われた??

山名駅
上信電鉄の山名駅。
御野立所跡は山名駅や山名八幡宮西側の佐野山にある。昭和天皇は山名駅でお召列車を下車され、愛馬・白雪に騎乗し佐野山へ向かわれた。

迎光碑
山名駅から山名八幡宮へ向かう上信電鉄の線路脇にある迎光碑。
昭和天皇をお迎えになった記念碑である。揮毫は鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)。鈴木大将は終戦時の首相として有名。

迎光碑は上信電鉄・山田昌吉社長(当時)が造立している。山田社長は高崎の渋沢栄一と呼ばれ、高崎の発展に尽力したひとりである。

上信電鉄
山名駅の南側をプラプラしていたら、高崎行きの上信電鉄が来た。上信電鉄は上野鉄道として明治28年(1895年)に設立され、明治30年(1897年)に高崎-下仁田間が開通。

大正10年(1921年)に信州・佐久までの延伸を視野に、上信電気鉄道と改称している。まあ、種々の事情で下仁田から先の延伸は実現しなかったけど。

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高崎市南町の愛宕神社。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
愛宕神社は和田城の守護神として、和田義信が京都愛宕神社の分霊を勧請したのが始まりという。

和田義信は上野国和田氏の祖で、和田城の築城者ともいわれる。また、義信の父・義盛は鎌倉幕府創成期の重鎮で、侍所別当を務めている。和田義信の勧請とするなら、愛宕神社の創建は西暦1200年前後と考えられる。

愛宕神社 (3)
愛宕神社 (4)
江戸時代の元和3年(1617年)、高崎城主・松平信吉が再建している。現在の社殿はまだ新しいので、近年の新築。

愛宕神社 (5)
本殿は外からは全く見えない。完全な覆屋というか社殿内。

愛宕神社 (6)
愛宕神社 (7)
社殿前にある井戸。明治26年(1893年)に帝国陸軍の軍事演習視察に明治天皇が高崎に行幸された際、この井戸の水を御前水として差し上げた。脇にある碑はそれを記念する碑。明治天皇の侍従・堀河康隆子爵の詩と和歌が刻まれている。

愛宕神社のご祭神に軻遇突智命(かぐつちのみこと)があり、別名火産霊神といい防火の神である。(他に伊弉諾命、伊弉冉命)

高崎は火災が非常に多かったので、松平氏が防火のために再建したのかな(勝手な推定)。でもあんまり効果なく、高崎は江戸時代から明治時代まで大火続きであったのはご存知の通り。

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高崎市乗附町の群馬県護国神社。

護国神社 (1)
群馬県護国神社は、明治42年(1909年)高崎公園内に建立された英霊殿が始まり。昭和16年(1941年)にその祭祀を継承し、現在地に護国神社が造営された。その際には、多額の浄財が寄せられれとともに、述べ12万人が勤労奉仕により協力した。

護国神社 (2)
護国神社 (3)
護国神社 (4)
厳かに参道を進むと二の鳥居が見えてくる。

護国神社 (5)
護国神社 (6)
護国神社 (7)
護国神社 (8)
護国神社 (9)
社殿は昭和15年(1940年)の建立。銅版茸流造・向拝附で東南に面し、皇居を遥拝するように建てられている。

護国神社の源流は招魂社で、招魂社は戊辰戦争以来、西南戦争、日清・日露戦争、昭和に入ってからの満州事変などの諸事変にて戦死した霊を祭祀するために全国各地に建立され、その数は150社を数えた。

群馬県にも前橋と館林にあったが、昭和14年(1939年)の1県1社制に伴い、高崎に指定護国神社を創建し、前橋と館林は指定外護国神社となった。現在、群馬県護国神社には47,000余柱の英霊が祀られている。

明治維新以来の国難に際し、尊い命を捧げた英霊をお祀りすることは現在を生きる我々の責務である。

関連
英霊を祀る -邑楽護国神社-

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高崎市菊地町の抜鉾神社。

抜鉾神社 (1)
抜鉾神社は和銅4年(711年)の創建と伝わる由緒ある神社。約1300年の歴史を誇る。

抜鉾神社 (2)
抜鉾神社 (3)
抜鉾神社 (4)
昭和57年(1982年)の台風による倒木で社殿が一部壊れたが、平成7年(1995年)に改修している。

菊地町にはウナギにまつわる伝説が残っている。

昔、松本三左衛門という人がおり、温厚誠実な敬神家で抜鉾神社を信仰していた。その三左衛門の2人の子どもが天然痘にかかってしまった。そんな時、夢に老翁が現れ「当神の化身である。2人の子どもの難病をウナギを身代わりとして治してあげよう」と告げられた。

後日、ウナギを売りが来たのでウナギを買い、竹筒の中で飼っていたところ子どもたちの天然痘が治るに従い、ウナギの全身が天然痘にかかったようになり、子どもたちが全快するとウナギは重篤の様相となったという。これ以来、築地町ではウナギを食する者はいないという。

伝説は伝説として、現在も食べないかは知らないけどね。

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高崎市萩原町の大笠松。

萩原の大笠松 (1)
萩原の大笠松 (2)
萩原の大笠松 (3)
大笠松は樹高7m、枝張りは南北が約18m、東西に約20.5m、幹回りは約6mに及ぶ。樹高はそれほどではないが、枝張りは円形に整っており、周囲の長さは約80m、樹齢は約450年とされる。

この松は、前橋城主・酒井雅楽頭から拝領した鉢植えを庭に移植したものと伝えられる。酒井重忠(上野厩橋藩初代藩主)の家系は代々「雅楽頭」を名乗っており、誰が贈り主かは不明のようだが、樹齢などから逆算して4代・忠清、5代・忠挙と推定されているらしい。

でも酒井忠清の藩主期間は1637~81年、忠挙は1681~1707年なので、ちょっと樹齢が短くなってしまう。初代重忠(藩主期間1601~17年)でも・・・。

松の成長に伴い、代々の所有者は枝の伸びを妨げないように、母屋を後ろに下げる建て替えを3度も行っている。3度目は大正2年(1913年)のこと。今はまだ母屋との余裕はありそうだったが、これからも成長を続けると4度目もある?

定期的な剪定、病害防止のための消毒なども含め、所有者は大変だと思う。

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高崎市元島名町の将軍塚古墳。

将軍塚古墳 (1)
将軍塚古墳 (2)
将軍塚古墳は全長96mの県内最大級の前方後方墳。後方部の幅51m、高さ8.6m、前方部の長さ40m、高さ4.7mで、周堀を含めた全長は約150mと推定される。墳丘は2段に築かれ、葺石は認められない。4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれた、古墳時代初期の古墳。

将軍塚古墳 (3)
将軍塚古墳 (4)
将軍塚古墳 (5)
前方部の墳丘上には、島名神社が鎮座している。島名神社の創建年は不明だが、彦狭島王をご祭神としていることから、将軍塚古墳は彦狭島王の墳墓との伝承もある。

彦狭島王は東山道十五国都督に任じられており、「将軍塚」という名前はちょっと意味深。と言っても、いつから「将軍塚」かは不明だけど・・・。ちなみに、彦狭島王は豊城入彦命の孫で、御諸別王の父である。

明治44年(1911年)の社殿拡張工事の際に、後方部で全長1.8mの粘土槨が発見されている。粘土槨内からは、人骨とともに鏡、石釧、刀片などの鉄製品が出土している。

また、昭和55年(1980年)の土地改良に伴う調査では、周堀部から壺形土器(底部穿孔壺)が多数出土している。 これらは後方部の頂上に並べられていた土器と考えられる。なお、土器は近くにある高崎市歴史民俗資料館で見ることができる。

関連
 「彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-

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高崎市下斎田町の小栗又一忠道の墓。

小栗又一の墓 (1)
小栗又一の墓 (2)
田口家墓地内に小栗又一忠道の墓がある。

小栗又一忠道は、有名な小栗上野介忠順の養嗣子。子のいなかった小栗上野介忠順は旗本・日下家より鉞子(よきこ)を養女に迎え、また旗本・駒井家から忠道を婿に迎え養嗣子とした。(斬首後、実子(女子)が誕生している)

小栗上野介の父・忠高は小栗家に婿養子に入っており、後に小栗家に生まれた義弟は日下家に養子に出されたため、逆にその子を養女に迎えることで血脈を小栗家に戻そうとしたと考えられている。

小栗又一の墓 (3)
小栗又一の墓 (4)
慶応4年(1868年)新政府軍から追捕令が発せられたことを受け、忠順は忠道を高崎藩へ派遣したが、取り調べもなく烏川河原で斬首された。忠道も同様に、取り調べもなく高崎城内にで斬首されている。

忠道の遺体(この時は胴体のみ)は下斎田村(当時)の名主・田口氏が引き取り墓を作り埋葬した。

小栗父子の首級は、館林に来ていた東山道総督・岩倉具定の首実検を受けた後、法輪寺墓地に葬られた。後に2人の首級は旧権田村の住民により盗み出され、忠順の首級は権田村の東善寺、忠道の首級は田口家墓地内に葬られている。

新政府の管轄下にあった首級を盗んだため、権田村の住民はこれを決して口外せず、子孫にのみ伝え供養を続けてきた。このことを世間に発したのは、昭和30年代後半になってからであり、なんと小栗父子斬首から100年近く経っていた。

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高崎市九蔵町の青龍山大雲寺。

大雲寺 (1)
大雲寺 (2)
大雲寺 (3)
大雲寺の由緒はよく分からなかった。

大雲寺には高崎市の重文に指定されている武居梅坡(ばいは)の「水墨雲竜の図」がある。でも、大雲寺を訪れた理由は別にあり、武田信玄の軍師として有名な山本勘助のご子孫の墓があるということ。

大雲寺 (4)
大雲寺 (5)
山本勘助のご子孫の墓。「山本菅助入道道鬼七世孫山本菅助菅原晴生墓」とある。

「甲陽軍鑑」には名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したとあるが、山本菅助が正しいらしい。

山本勘助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、「啄木鳥戦法」で上杉謙信軍に挑んだが謙信に見破られ討死している(とされる)。

山本勘助の名は、甲陽軍鑑とその影響を受けた江戸時代の軍記物にしか登場しないことから、永らく実在が疑問視されてきた。しかし近年は「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が「市河文書」や「真下家所蔵文書」など、複数の文書上から確認されている。

但し、山本勘助の実在と軍師であったかは別の問題であると考えているが、それ以上の知識はオレにはない。

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高崎市下横町の白龍山興禅寺。

興禅寺 (1)
興禅寺は治承元年(1177年)新田義重の開基と伝わる。新田義重は新田氏の祖である。

戦国時代の初期に、当時の和田城主・和田信輝が再興し、和田氏の菩提寺としている。和田信輝は関東管領・山内上杉氏に属し、天文15年(1546年)に河越夜戦で討死と伝えられる。

興禅寺 (2)
興禅寺 (3)
山門をくぐると児童公園があり、さらに道路が横切っている。古くは参道があったんだろうが、なぜか児童公園ができている。

興禅寺 (4)
興禅寺 (5)
興禅寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」によると、鎌倉街道に面した広大な敷地の中に興禅寺が描かれている。「和田城並びに興禅寺境内古絵図」は天文から天正年間(1532~91年)の頃のものとされる。

しかし井伊直政の高崎城築城時に境内を縮小され、その後大河内氏が城主時代の天保11年(1840年)に現在地に移っている。

和田氏の菩提寺なので、和田氏関連のお墓もあるのかもしれないが、肝心の墓地がどこにあるのか分からなかった。

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高崎市には「和田の三石」と呼ばれる3つの石がある。
「上和田の円石」「和田の立石」「下和田の方石」。和田氏はこの三石をとても大切にしていたと伝えられている。

まずは、「和田の立石」。
現在は高崎神社の境内にある。これは高崎神社の記事「高崎の総鎮守 -高崎神社-」で紹介済み。
立石 (1)
立石 (2)
少し追加しておくと、弘法大師行脚のおり、この石に腰掛けたので「大師石」とも言うらしい。

続いて「上和田の円石」。
現在は成田町の成田山光徳寺にある。
円石 (1)
円石 (2)
「上和田の」というくらいなので、もともとは上和田の畑の中にあった。

江戸時代の享保年間(1716~35年)に、元紺屋町にある善念寺の石橋として使われ、後に砂賀町の用水堀の石橋になり、明治11年(1878年)には売りに出され、購入した人が歌碑として光徳寺に建立した、といういきさつがある。

最後に「下和田の方石」。
方石は若松町の佐藤病院の敷地内にある。
方石 (2)
方石 (1)
もちろん当時は畑の中にあった。方石は鎌倉時代に、源頼朝の馬がこの石を化けものと驚いて蹴ったので「化け石」「馬蹴石(ばけいし)」とも言う。

まあ、和田氏時代の高崎の伝説なんだろうけど、後に高崎に入った井伊直政が高崎城を築城する際にも、この「三石」は使わなかったというので、それなりに由緒ある「石」ということ。

ただ「三石」の中では、「円石」のみ悲しい使われ方をしている。「立石」は弘法大師が腰を掛けた、「方石」は源頼朝の馬が蹴ったという伝説があるが、「円石」だけがその手の伝説が見られないので(調べた限り)、石橋に使われちゃったということかな。

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高崎市阿久津町の大翁山玄頂寺。

玄頂寺 (1)
玄頂寺 (2)
玄頂寺 (3)
玄頂寺は、慶長12年(1608年)信州耳取城主・大井政成の開基。

ただ、大井正成は慶長7年(1603年)の没なので、ちょっと数年だが合わない。ちなみに、大井正成は平賀源心の曾孫だが、この平賀源心は武田信玄の初陣の相手。

玄頂寺 (4)
この五輪塔は康永2年(1343年)の造立で、造立年がはっきりしている五輪塔としては高崎市最古である。(鎌倉時代のものと伝わる五輪塔は4基あるが、銘文がない)

玄頂寺 (5)
玄頂寺 (6)
墓地への入り口に土盛りをし、木々の生える塚らしきものがある。木々に囲まれた中には宝篋印塔があり、開基・大井政成の墓との説もある。

大井政成は武田信玄の初陣の相手・平賀源心の曾孫であるが、信玄、勝頼に仕えている。その後は依田氏に仕え、天正18年(1590年)、依田康勝が佐久から藤岡に移封された際につき従ってきている。(最初に書いた信州耳取城主ってのは、武田氏時代のこと。)

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高崎市木部町の山名山安楽寺。

木部・安楽寺 (1)
木部・安楽寺 (2)
木部・安楽寺 (3)
安楽寺は古くは山ノ上にあって、山名氏一族の菩提寺だったが、中世に現在地に移転したといわれている。

木部十騎のひとり田口石見守が天正18年(1591年)に創建したという説もあるが、山名山という山号から見ても、山名氏との関係が深いと考えた方がいいような気がする。

木部・安楽寺 (4)
墓地には、浄瑠璃「お染久松」で有名なお染の墓と伝わる、阿弥陀如来が彫られた舟形石塔がある。

「お染久松」とは、宝永5年(1708年)大坂の油屋の娘お染と丁稚久松が、身分違いの恋から心中に至った巷説を脚色した作品。

木部の豪商・萩原甚右衛門が江戸に店をだしており、地元の人に甚右衛門の店の話として伝わり、お染が祀られたということかな?

もしかしたら、たまたま甚右衛門にお染さんという娘がいたのかも?(勝手な推論)

木部では、昔から芝居の出しものに「お染久松」をしないといわれている。

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高崎市木部町の龍谷山心洞寺。

心洞寺 (1)
心洞寺 (2)
心洞寺は源範頼の孫・吉見次郎義世の子孫である木部範虎の開基。源範頼は源頼朝の異母弟なので、木部氏は源氏の流れをくむ。

心洞寺 (3)
心洞寺 (4)
心洞寺 (5)
心洞寺は木部氏館跡といわれる。境内の南側に土塁のような土盛りがみられるが、館の遺構かは不明。

心洞寺 (6)
心洞寺 (7)
木部範虎の墓。
木部範虎は長野業正の娘(4女といわれる)を娶り、箕輪衆の一員として活躍した。永禄9年(1566年)武田信玄の上州侵攻により箕輪城は落城、その後は信玄に仕える。

この時、範虎の妻(木部姫)は落城前に箕輪城を脱出したが、落城の報に悲嘆のあまり榛名湖に入水。龍になったという伝説がある。心洞寺に位牌がある。戒名は龍體院殿天生證券真大姉。(木部姫伝説に関しては、関係するところに行ってきてから詳しく書くつもり)

範虎は信玄、勝頼に仕え、天正9年(1581年)高天神城の戦では一番槍の武勲をたてる。しかし翌天正10年(1582年)天目山の戦で勝頼自刃の際討死。享年72歳といわれる。

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前回に引き続き高崎市山名町の龍玉山光台寺。
光台寺には「上野三碑考」の作者・木部白満(つくもまろ)の墓がある。

光台寺2 (1)
木部白満(つくもまろ)の墓。墓石は高さ1mほどの菱型形の自然石という、一風変わったお墓。

木部白満は安永5年(1775年)山名の旧家に生まれる。父は葉タバコの仲買人で財を成している。白満は家を継がず(弟・三十郎が継ぐ)、倉賀野に藤波屋という旅籠を出している。

白満が文政2年(1819年)に著した「上野三碑考」は、初の三碑考察論文である(「上野三碑」とは多胡碑、山ノ上碑、金井沢碑のこと)。これにより、上野三碑が全国的に知られることになった。

光台寺2 (2)
白満の墓の前にある弟・三十郎の墓。三十郎は馬庭念流の免許皆伝! 黒澤明監督の映画「椿三十郎」のモデルではないか?という噂が地元で流れた。しかし真偽は知らない。

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高崎市山名町の龍玉山光台寺。

光台寺 (1)
光台寺 (2)
光台寺の創建は、正慶2年(1333年)游行六代一鎮上人によると伝えられる。1333年と言えば、新田義貞が鎌倉幕府を滅ぼした年にあたる。

光台寺 (3)
光台寺 (4)
高崎はかつてタバコの産地で、光台寺で栽培されたたばこは「光台寺たばこ」と呼ばれ、銘葉として知られていた。江戸時代には高崎宿や倉賀野宿で販売され、参勤交代で中山道を利用していた加賀前田家などの大名家が愛用していた。また、大名家を通じ将軍にも献上されていたという。

光台寺 (5)
高崎市の重文に指定されている線刻地蔵菩薩立像石仏。安山岩の一面を平に加工し、上半に立像の地蔵菩薩を線彫りし、下半に永享9年(1437年)造立の日付が刻まれている。ただ風化が激しく、地蔵菩薩像すらよく分からない。

光台寺 (6)
山門脇に全國山名氏一族会が立てた「山名館跡」という案内板がある。山名氏の「栄光の歴史」が綴ってあり、その中に「現在の此処光台寺境内は山名館であった。初代・義範以降8代にわたり居住した」とある。

初耳だったのでいろいろ調べてみたら、「日本城郭大系」という城郭研究本に書かれているらしい(この本は既に絶版になっている)。しかし光台寺が「山名館跡」という歴史的な証拠・根拠はない。

案内板を設置した「全國山名氏一族会」のHPでも、「館時代から受け継がれて来た遺構など、表だって山名氏との結びつきを語るものは残されて居りません」ということが書いてあった。

でも、案内板には「山名館であった」と断定的に書いてるけどね(笑)。館跡として別の場所を比定している資料もあり(そちらも根拠はない)、館がどこにあったかは歴史的に不明なのだから、光台寺も山名氏一族会も「という説がある」くらいにしておけばいいのに・・・。

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高崎市下豊岡町の忠霊塔と忠魂碑。
常安寺の駐車場になっている空地(?)に忠霊塔と忠魂碑が建っている。

忠霊塔や忠魂碑は各地に建っており、戦地に散った英霊を弔っている。日頃はあんまり気に留めて見たことはないんだけど、忠魂碑に「稀典」って書いてあったので、もしや「乃木大将?」と思い確認してみた。

豊岡忠魂碑
調べてみると、確かに乃木稀典大将の揮毫であった。明治40年(1907年)豊岡尋常高等小学校の校庭に建てられたもの。昭和21年(1946年)学校内の忠魂碑などは撤去せよとの指示が出され、校庭に埋められたという。(いつ現在地に移ったかは不明)

豊岡忠霊塔 (1)
豊岡忠霊塔 (2)
隣の忠霊塔も見てみたら、揮毫が東条英機! 写真では分かりずらいが、「陸軍〇〇 東条英機 謹書」とある。〇〇が大臣なのか大将なのかは判別できず。昭和17年(1942年)に建てられている。

プレート上にまだらな異物が付いているので、戦後しばらく(と言うか最近まで?)名前を隠すように表面を何かで覆っていたようである。

群馬県内の忠魂碑の揮毫は乃木大将の他、大山巌元帥、児玉源太郎大将など、名だたるメンバー。忠霊塔は、約半数が東条英機の揮毫だという。

揮毫者に対していろいろ意見もあるかもしれないけど、大事なのは戦没者への畏敬の念だから。誤解のないように。

今度から、忠霊塔や忠魂碑も注意して見るようにする。

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前回に引き続き、高崎市下豊岡町の八幡山月光院常安寺。

柳川政右衛門の墓 (1)
柳川政右衛門の墓 (2)
常安寺にある稲川政右衛門の墓。

稲川政右衛門は、明治時代に関脇まで出世した相撲取り。本名は吉井貞四郎といい、明治4年(1871年)旧豊岡村の生まれ。

初土俵は明治21年(1888年)16歳の時で、四股名は「豊岡」。明治32年(1899年)には稲川政右衛門を襲名し、現役と親方の二枚鑑札となっている。その後、明治42年(1909年)に現役を引退。大正5年(1916年)に脳溢血のため死去。享年46歳。

稲川は身長167cm、体重110kg。今の相撲取りと比べると小兵だが、当時の平均は170cm、100kg程度だったらしいので、まあ平均クラス。

群馬県出身の相撲取りの最高位は関脇なので、出世頭である。(他は、栃赤城と琴錦)

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