Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市綿貫町の群馬の森内にある群馬県立歴史博物館。平成23年(2011年)に展示中の重要文化財に水滴が落ち、展示物に被害を与えたことで改修が決定。改修中の休館を経て平成28年(2016年)プレオープン。翌平成29年(2017年)、本格的なリニューアルオープン。

リニューアル後、群馬の森には何回も行っているけど、歴史博物館には足が向かなかった。理由は駐車場に車が多く混んでいそうだったから。いつでも来れると思うと後回しになる。

県立歴史博物館 (1)
入場料金は300円。以前は200円だったような気がする。企画展をやっているときなどは高くなる。行った時は「織田信長と上野国」という企画展をやっていたので、そっちも見ると600円。

常設展示の最初は「東国古墳文化」。観音山古墳の出土物を中心に展示。
県立歴史博物館 (2)
県立歴史博物館 (3)
県立歴史博物館 (4)
県立歴史博物館 (5)
県立歴史博物館 (6)
県立歴史博物館 (7)
県立歴史博物館 (8)
県立歴史博物館 (9)
県立歴史博物館 (10)
県立歴史博物館 (11)
県立歴史博物館 (12)
観音山古墳は未盗掘で様々な副葬品が出土し、その多くが国の重文になっている。オレ的にはこの部屋だけで充分に元が取れるくらい。何時間でもいられると思った。

後は以前のように年代別の展示。そんなに目新しい物はないような感じだったが、上野三碑の実物大のレプリカがあった(なぜか山上多重塔も)。

常設第2展示室は「原始」。
県立歴史博物館 (13)
県立歴史博物館 (14)
県立歴史博物館 (15)
県立歴史博物館 (16)
県立歴史博物館 (17)
県立歴史博物館 (18)
原始時代はやっぱり岩宿遺跡の出土品や縄文土器など。縄文土器はいつ見ても美しい。オレの好み。

常設第3展示室は「古代」。
県立歴史博物館 (19)
県立歴史博物館 (20)
県立歴史博物館 (21)
県立歴史博物館 (22)
県立歴史博物館 (23)
県立歴史博物館 (24)
県立歴史博物館 (25)
古代編は古墳からの出土物、上野三碑のレプリカなど。上野国分寺や山王廃寺(放光寺)関連など。

常設第4展示室は「中世」。
県立歴史博物館 (26)
県立歴史博物館 (27)
県立歴史博物館 (28)
県立歴史博物館 (29)
県立歴史博物館 (30)
中世編は新田氏関連や戦国時代ものが多い。大田市世良田町・総持寺蔵の新田義貞木像の実物が展示されていた。これはうれしい。井伊直政の赤備え(兜、甲冑、軍配)もあった。

常設第5展示室は「近世」。第6は「近現代」。
県立歴史博物館 (31)
県立歴史博物館 (32)
近世辺りから、途端にオレの興味が薄れてくる。倉賀野宿の模型があったがチラ見程度。近現代は富岡製糸場や定番のスバル360。

テーマ展示で「明智光秀の源流 沼田藩土岐家の中世文書」をやっていた。
県立歴史博物館 (33)
あんまり興味を引く物はなかったが、足利尊氏の書状。

県立歴史博物館 (34)
企画展「織田信長と上野国」に関しては、オレ的にはまったくの外れ。だいたいタイトルに偽りありだな。信長と言うよりは「織田家」及び織田家臣団。

以前も観音山古墳の出土品は多く展示されていたがレプリカが多かったように思う。今回は実物が多く展示されており、しかもほぼ1室を使って展示されており大満足。また、総持寺蔵の新田義貞木像が見られ、さらに満足。これだけで満腹。今回、企画展見学も含め約1時間いたんだけど、最初の「東国古墳文化展示室」に30分以上いた。係員もなかなか次に行かないなと思っていたかも(笑)。

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高崎市倉賀野町の井戸八幡宮。

井戸八幡宮 (1)
井戸八幡宮は正保3年(1646年)の創建と伝わる。

創建には、下記の伝説が残っている。
ある日、田口次郎左衛門辰政という者の夢に1羽の鳩が現れ、「お前は私を知っているか」と言い、古城(倉賀野城)三の廓のほとりへ飛んで行った。その数日後、地震があり三の廓跡の古井戸から清水が湧き出した。この清水は枯れることなく湧き出て、調べたところ井戸の底から八幡菩薩像が出てきたことから社を建てて祀ったという。

井戸八幡宮 (2)
参道脇の井戸上には覆屋が建てられ、中には神輿が安置されている。神輿は享和元年(1801年)に造られたもので、特別な祝祭時のみ出御する宮神輿。

井戸八幡宮 (3)
井戸八幡宮 (4)
井戸八幡宮 (5)
社殿は寛政元年(1789年)、安政6年(1859年)にそれぞれ再建されている。

天正18年(1590年)の倉賀野城落城の際、城の宝物を三の廓の井戸に投げ込んだといわれている。井戸から出てきた八幡菩薩像は、城主が兜の八幡座(兜の鉢の頂上のこと)に付けていたものともいわれる。

伝説を基調とした創建話だが、倉賀野三河守行政が鶴岡八幡宮の神霊を勧請したという他説もある。行政は天文15年(1546年)に討ち死にしているので、こちらの説では1500年頃の創建となる。

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高崎市大八木町の諏訪神社。

大八木諏訪神社 (1)
大八木諏訪神社 (2)
大八木諏訪神社は元禄2年(1689年)の創建と伝わる。

大八木諏訪神社 (3)
大八木諏訪神社 (4)
朱塗りの鳥居の横には、旧鳥居と思われる石造鳥居がある。扁額は下に置かれている。

大八木諏訪神社 (5)
社殿は元文5年(1740年)の建立。(もちろん改修・修築はされている)

大八木諏訪神社 (6)
境内に「明治天皇御野立所跡」の石標があった。野立所とは演習などで野外に設けた天皇陛下の休憩所のこと。明治11年(1878年)に群馬県に行幸されているので、その時立ち寄ったのだろうか。

大八木諏訪神社 (7)
境内に聖跡碑があったが、明治天皇行幸記念? 碑の裏を見てこなかったのでよく分からない。揮毫が西園寺公望なので、そう思った。西園寺公望は明治時代に首相などを歴任し、「最後の元老」と呼ばれ政界に大きな影響を及ぼした実力者。

大八木諏訪神社 (8)
鳥居脇に水準点があった。

大八木諏訪神社 (9)
諏訪神社の参道入り口に灯籠がある。この灯籠には文化12年(1815年)の銘が消され、明治24年(1891年)の銘が刻まれている。

実はこの灯籠は、元々中山道新町宿の神流川岸にに建っていたもの。明治24年に大八木の人が購入し、諏訪神社の参道に設置している。新町側では売った後になって、「返して」と大八木側と交渉したらしいがまとまらず、昭和53年(1978年)に復元している。
(「小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-」参照)

ところで、この灯籠から諏訪神社(鳥居)まではけっこう距離がある。住宅街を歩いて行っても、それらしき神社はなかなか見えてこない。結局、井野川にかかる諏訪橋が見えてきたところで、鳥居も見えたのでホッとした。

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高崎市小八木町の正観寺遺跡群・祭祀巨石。

正観寺遺跡群・祭祀巨石 (1)
この巨石は鏡宮神社の北西約250mのところから発掘されたもの。
縦横約2m、高さ1.1m、重さは約8トン。榛名山の安山岩。加工はされていない。草に覆われており、大きさが余りピンとこないが・・・。
(鏡宮神社は「古鏡を祀る -鏡宮神社-」参照)

発掘地の周辺からは多数の竪穴式住居が確認され、古代の集落跡でであったらしい。巨石は発掘された集落内の標高の最も高いところに掘られた穴の中央に置かれ、その周りには土師器、須恵器や勾玉などの祭祀具があり、6世紀後半の祭祀に関連するものと推定されている。

古代の歴史・文化を示すものとして、鏡宮神社の境内隅に移されて保存されている。

正観寺遺跡群・祭祀巨石 (2)
正観寺遺跡群・祭祀巨石 (3)
巨石の後ろにも、いくつかの石がある。一緒に発掘されたもの?

祭祀具は南東側に置かれており、これを正面とすると、巨石の向こう側に榛名山が見えることになる。榛名山は6世紀初めに2度の大噴火を起こしているので、その際に飛翔してきたのかも。

榛名山の大噴火により、榛名山南部ではいくつもの集落が埋没している。祭祀は榛名山を鎮めるためと考えられる。

関連
 「日本のポンペイ -黒井峯遺跡-
 「日本のポンペイ その2 -中筋遺跡-
 「甲(よろい)を着た古墳人 -群馬県埋蔵文化財調査センター-

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高崎市小八木町の鏡宮神社

鏡宮神社 (1)
鏡宮神社 (2)
鏡宮神社は神亀2年(725年)金星が昼間に輝いたのを不思議に思った村人が、光射す場所を掘ったら古鏡が出てきた。この鏡を祀る社殿を建立したのが鏡宮神社の始まりと伝わる。

鏡宮神社 (3)
鏡宮神社 (4)
鏡宮神社 (5)
社殿は明和6年(1769年)に、大工・笠原右膳の手による。江戸時代後期の社寺建築の特色(無彩色の多種多様な彫刻)をよく示している。

最近では、平成4年(1992年)に改修が行われている。

鏡宮神社 (6)
拝殿内に絵馬が奉納されていた。内容はよく分からない。

鏡宮神社 (7)
鏡宮神社 (8)
境内社の天満宮。脇には菅原道真らしき石像が。古そうに見えるが平成16年(2014年)とある。

鏡宮神社は明和4年(1767年)に火災で宝物や古文書などが焼失してしまったようだが、その時までは鏡も残っていたのかな。

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高崎市小八木町の慈雲山妙典寺。

妙典寺 (1)
妙典寺 (2)
妙典寺 (3)
妙典寺の由緒は不明。

妙典寺 (4)
墓地の北側に鎌倉時代中期頃の板碑と五輪塔がある。

妙典寺 (5)
板碑は高さ215cm、最大幅58cm、厚さ9cmで緑泥片岩製。阿弥陀三尊を表す3個の梵字(種子)が薬研で彫られ、康元2年(1257年)の銘がある。高崎市に現存する板碑では最大にして最古である。

妙典寺 (6)
板碑の隣にある五輪塔は凝灰岩製で、板碑と同年代の造立と推定されるが、紀年銘が見られず不明。

ちなみに、高崎市で銘が残る最古の五輪塔は阿久津町・玄頂寺の康永2年(1343年)銘である。(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)

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高崎市上小塙町の山田勝弥の墓。

山田勝弥の墓
山田勝弥の墓。

山田勝弥は高崎五万石騒動の大総代3人が逮捕(後に処刑)された後、第2代大総代となった丸茂元次郎とともに民部省に強訴・逮捕され、明治4年(1871年)岩鼻監獄に送られる。10年の刑であった。

しかし当時の監獄の衛生環境は良くなかったと思われ、入牢10ヶ月後に獄死。享年51歳。なお、山田以外にも3名が獄死している。

ちなみに、丸茂元次郎は無事10年の刑を満了し(恩赦で8年に短縮ともいわれる)、その後天寿をまっとうしている。

関連
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
 「高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-

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高崎市上小塙町の堰上山大森院方光寺。
2度に渡り紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである小島文次郎の墓がある。
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-

大森院 (1)
大森院 (2)
大森院は元亀2年(1571年)大森氏により創建された。大森氏のことはよく分からない。駿河国の土豪(北条早雲の前の小田原支配)?

大森院 (3)
大森院 (4)
東側には平成17年(2005年)に仁王門が建立された。内側には風神・雷神が鎮座している。

大森院 (5)
大森院 (6)
本堂は寛政7年(1796年)の建立。平成2年(1990年)に改修されている。鐘楼は平成11(1999年)の新築。

大森院 (7)
墓地の一角には涅槃廟と名付けられた納骨堂がある。

大森院 (8)
五万石騒動大総代のひとり小島文次郎の墓。

高井喜三郎、佐藤三喜蔵逮捕後、2人の釈放を求め新政府の岩鼻県庁(旧岩鼻代官所)に赴くが捕らえられて、明治3年(1870年)9月に処刑されている。享年46歳。

文次郎は幼少のころより和算、書画,謡曲、挿花、武芸を学び、他の大総代同様、選ばれるべくして選ばれている。

辞世は「人のため草葉の露と消ゆれども 名を後の世に残すうれしさ」

大森院 (9)
墓の隣にある供養碑。台座には一揆に加わった各村総代や関係者の名前が刻まれている。

なお、小島家には17点の傘連判状を含む計53点の資料が残されている。特に傘連判状は五万石騒動を象徴する資料として大変貴重なものである。

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高崎市下中居町の東光山普門寺。
前回紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである佐藤三喜蔵の墓がある。
(「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓」参照)

高崎・普門寺 (1)
高崎・普門寺 (2)
高崎・普門寺 (3)
普門寺の由緒は分からなかった。

高崎・普門寺 (4)
高崎・普門寺 (5)
五万石騒動大総代のひとり佐藤三喜蔵の墓。

三喜蔵は温厚で誠実な人柄で、面倒見も良い人物であった。大総代のひとりに推されるのも当然の人物であったようだ。また、体格がよく田舎相撲の横綱と呼ばれていた。

高井喜三郎とともに処刑されたが、泰然自若として少しも恐れず刑場の露と消えた。享年52歳。その姿には、高崎藩士も涙したという。

辞世は「望みなき身は今日限りにちりぬるも 七度生まれてかなへてやみん」

なお、墓の碑には「三喜造」とあるが、いろいろ調べると「三喜蔵」との表記の方が多かったので「三喜蔵」とした。違っていたらすみません。

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高崎市柴崎町の高井喜三郎の墓。
高井喜三郎は、高崎五万石騒動の大総代3人のひとり。

高井喜三郎の墓 (1)
高井喜三郎の墓。

高崎五万石騒動は、年貢の軽減を訴えた農民一揆。農民一揆と言っても江戸時代の出来事ではなく、実は明治に入ってから。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた(米には70%以上)。

明治政府は「農商工布告」で、「苛政に苦しむものは申し出よ」と布告。高崎藩のお隣りの岩鼻県(岩鼻は江戸幕府の天領だったので県になっていた)では訴状を受け付けたが、高崎藩は布告自体を無視していた。

明治2年(1869年)、高井喜三郎、佐藤三喜蔵、小島文次郎の3人が大総代となり、高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及んだもの。直訴と言っても「要望書」を渡しただけ。まあ、高崎藩主からみれば「強訴」となるけど。

農民の要求は廃藩置県(明治4年:1871年)後に認められたが、大総代3人は明治3年(1870年)に斬首となっている。

百姓一揆というと過激な打ち壊しとかを想像しがちだが、極めて民主的に大総代を選出し整然と行動している。

高井喜三郎の墓 (2)
辞世は「吾人の為ともなれと身を捨てて いまいけにへとなりしうれしさ」。
享年42歳。

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高崎市山名町の山名八幡宮。

水戸黄門腰掛け石 (1)
山名八幡宮の境内に水戸黄門が腰を掛けたという石がある。

水戸黄門こと徳川光圀が越後高田家の騒動を治めた後、北国街道、中山道を経由し高崎城下に入り、逗留していた。その際に山名八幡宮を参拝したといわれ、その時に腰かけたのが写真の石だという。

その後、光圀一行は山名城から根小屋城方面に向かうのだが、その時に山賊に襲われていた母娘を助けたという。

まあ、いろいろ言われているが、全部作り話なのは言うまでもない。水戸藩藩主は江戸定府(参勤交代なし)であり、帰国するにも幕府の許可が必要だった。なので、光圀は江戸と水戸の往復程度しかしていない。

水戸黄門腰掛け石 (2)
この石が光圀の時代の物にはとても見えない。新しい三波石あたりじゃないの?(笑)。

最初の写真に写っている「神馬像」のように、山名八幡宮には意味不明な物もある。腰掛石もそのたぐいだね。

山名八幡宮関連
 「山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
 「高崎市吉井町・馬庭念流道場

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高崎市上並榎町の新比叡山天竜護国寺。

天竜護国寺 (1)
天竜護国寺 (2)
天竜護国寺は貞観6年(864年)比叡山延暦寺座主・慈覚の創建と伝えられる。延暦寺に模して建造されたので新比叡山と称した。

天竜護国寺 (3)
天竜護国寺 (4)
関東一の大伽藍で東国一の霊場といわれ、境内には僧坊が三百余りあったといわれるが、度重なる兵火により往時の面影はない。

享和3年(1803年)に中興の祖・一元が現在の形に再建したとされる。

天竜護国寺 (5)
天竜護国寺には、醍醐天皇が延長6年(928年)小野道風に書かせたといわれる扁額が残されている(高崎市の重文)。もちろん写真の扁額ではない。

天竜護国寺 (6)
本堂左手には舟形石棺が保存されている。これは明治25年(1892年)に近くの稲荷山古墳から発掘されたもの。稲荷山古墳は都市開発により、現在は住宅地などになってしまっている。

天竜護国寺 (7)
「信玄の鍋掛け石」。武田軍が箕輪城攻略時、天竜護国寺に駐留した際にこの石に鍋を掛けて煮炊きをしたというもの。確かに、それっぽい形をしている(笑)。

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高崎市上中居町の諏訪神社。

上中居諏訪神社 (1)
上中居諏訪神社 (2)
上中居諏訪神社創建の年代は不明だが、信濃国の諏訪大社より勧請された。

上中居諏訪神社 (3)
上中居諏訪神社 (4)
上中居諏訪神社 (5)
社殿は享保17年(1732年)、文久2年(1862年)に再建・建て替えの記録がある。大正7年(1918年)に幣殿・拝殿を造営し、現在の社殿の形態になっている。

上中居諏訪神社は、昔から「ひいらぎさま」といわれている。その名の通り、柊に取り囲まれているから。

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高崎市下小鳥町の首塚(枉寃旌表之碑)。

首塚 (1)
高崎環状線を走っていたら、「史跡 首塚入口」という案内板が目に入った。えっ、首塚?? まったくの初耳だったので、寄ってみることにした。首塚は環状線からちょっと入った所にあった。

首塚 (2)
枉寃旌表之碑(おうえんせいひょうのひ)というのが建っている。江戸時代初期高崎藩主・松平丹波守康長のころ、下小鳥村のほとんど罪もない村人たちが藩の役人武士たちに殺戮されたという言い伝えをもとに明治34年(1901年)建立された慰霊碑だという。

要約すると、藩主・役人武士がひどい政策を行ったため住民が反発し、それを武士が住民全員を惨殺するという挙にでたという。時に元和3年(1617年)のこと。但しこの事件は口伝で、それを裏付ける資料は見つかっていない。

藩主・松平康長は戸田家の出身で、徳川家康の異父妹・松姫と婚姻し、松平姓を賜ったとされる(戸田松平家)。康長は事件のあったといわれる前年(元和2年:1616年)に高崎藩に移封されたが、翌年(事件の年)には信濃松本藩に移されている。

たった1年で移封されていることから、考えようによっては事件の責任を取らされてのこととも考えられる。松平という家康の親戚筋のため、ことを荒立てずに処理された?

権力者側が行ったことが記録に残らないようにすることはできたが、さすがに伝承として伝わることまでは防げなかったということかな。まあ、真相は藪の中ではあるが・・・。

ちなみに、康長は実直で穏やかな人柄だったといわれていることを付記しておく。

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高崎市八幡町の神通山大聖護国寺。

大聖護国寺 (1)
大聖護国寺は建保3年(1215年)定弘の建立と伝わる。定弘は醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、不動明王像を下賜された後、当地に下向し大聖護国寺を開基したという。

大聖護国寺 (2)
寛永年間(1624~45年)まで八幡八幡宮の別当寺であった。

大聖護国寺 (3)
大聖護国寺 (4)
寛文元年(1661年)、徳川綱吉が館林藩主になると、綱吉の母・桂昌院は帰依していた僧・亮賢を招き、大聖護国寺の住職(第24世)とした。延宝9年(1681年)には、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて音羽護国寺を開かせている。

現在の大聖護国寺はかなりひなびたお寺になっている。江戸時代(特に徳川綱吉時代)の繁栄を考えるとちょっと残念かな。

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高崎市石原町の桜塚古墳。

桜塚古墳 (1)
桜塚古墳 (2)
桜塚古墳は東京農大二高先の鶴辺団地内に残る径21.6m、高さ6.9mの円墳。詳細については発掘調査が行われていないため不明。

桜塚古墳 (4)
墳丘上に彼岸桜の老樹があり、このことから桜塚と呼ばれている。

桜塚古墳 (3)
桜の木の脇に建武5年(1338年)銘の板碑が建っている。以前は、康永2年(1343年)明の板碑もあったが、現在は残っていない。

ところで、建武5年というのは北朝の年号で、南朝は延元3年。建武というと後醍醐天皇(南朝)のイメージだが、後醍醐天皇の建武の新政は2年で崩壊し、天皇は2年で延元に改元した。しかし北朝の光明天皇は5年まで建武を使った(同年暦応に改元)。

後醍醐天皇が武家の力を背景に、北朝の光厳天皇の即位と元号・正慶を無効にしたため北朝も建武を使っていた。後醍醐天皇の方が先に建武をやめてしまったという皮肉。

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高崎市鼻高町の少林山薬師塚古墳
少林山達磨寺境内にある。洗心亭のすぐ横。

少林山B号古墳 (1)
少林山B号古墳 (2)
少林山薬師塚古墳は正確には少林山B号古墳という。径15m、高さ3mの円墳で、洗心亭建築時墳丘が削られたようだ。

少林山B号古墳 (3)
少林山B号古墳 (4)
少林山B号古墳 (5)
石室は全長5.6m、奥幅1.65m。内部には薬師如来が安置されている。なので薬師塚。達磨寺の境内案内図に「薬師塚」と書いてあったので、薬師塚古墳と書いたが、オレの勝手な命名かも。

達磨寺の境内には10基以上の古墳があるらしいが、オレのような素人にはB号古墳くらいしか分からなかった。「これ古墳かなぁ~?」と感じた場所はけっこうあったけど・・・。

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高崎市鼻高町の少林山天頭塚古墳。

少林山天頭塚古墳 (1)
少林山天頭塚古墳は正確には少林山2号古墳という。

少林山達磨寺の裏山というか南側というかは、地すべりが多発したためその対策工事が行われ、工事区域に多数の古墳が確認されている。その中でも保存状態が良好で、学術的価値が高いと判断された2号古墳が達磨寺本堂南側に移築・復元されている。

少林山天頭塚古墳 (2)
天頭塚古墳は径25.6m、高さ12mの円墳。墳丘の裾は平らな面となっており、円筒埴輪や人物・太刀などの形象埴輪が並べられていた。葺き石は山石を使って墳丘前面に貼り付けている。

少林山天頭塚古墳 (3)
石室は全長6.2mで、平面形は奥より入口部が狭い羽子板状になっている。床には小さな石を敷き詰めている。ガラス製の小玉や金銅製の耳かざりなどの副葬品が出土している。

奥壁に地蔵菩薩が彫られており、線の特徴等から室町時代明応期(1492~1500年)に刻まれたものである。ということだが、よく分からなかった。

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高崎市八幡原町の八幡原A号及びB号石槨。

八幡原A号B号石槨 (1)
この石槨は若宮古墳群(烏川と井野川の合流地点左岸部に分布)の発掘調査時(昭和49年:1974年)に発見された。若宮古墳群の15号墳の主体部がA号・B号石槨。15号墳は直径約10.3mの円墳で、5世紀中頃から後半の築造と推定される。

若宮古墳群は、古墳が非常に密集して築造されているのが特徴で、17基の古墳と26基の石槨が確認されている。

八幡原A号B号石槨 (2)
フェンスで囲まれた内部を覗くと、枯草で覆われ何も見えない。何となく、いくつかの「石」がうっすら見えたが、石槨を確認することはできず。

八幡原A号B号石槨 (3)
高崎市のHPから。
こんな感じで石槨が2つ並んでいるようだ。A号石槨は長さ167cm、幅28cm、B号石槨は長さ150cm、幅26cmなので、夫婦が埋葬されたものかも。

副葬品としてA号石槨から鉄剣2本、鉄製刀子1本、B号石槨からは鉄剣1本、鉄製太刀1本が出土している。

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高崎市剣崎町の剣崎長瀞西古墳。

剣崎長瀞西古墳 (1)
剣崎長瀞西古墳 (2)
剣崎長瀞西古墳は八幡台地に造られた径30m、高さ5mの帆立貝式古墳である。1段目のテラス外周には円筒埴輪が巡っていた。このテラス部は南側で広くなっている。5世紀後半の築造と推定される。

古墳一帯は剣崎長瀞西遺跡と呼ばれ、垂飾付耳飾、鉄製轡、韓式系土器など56点が出土している。

剣崎長瀞西古墳 (4)
剣崎長瀞西古墳以外は埋め戻されてしまっており遺跡の面影はないが、古墳時代中期から後期の古墳が20数基見つかっている。

また、朝鮮半島系の土器や朝鮮半島製と考えられる国内では最古級の馬具なども発見されており、当時の朝鮮半島とのつながりを示す遺跡である。古墳時代の渡来人が住んだ村であると考えられている。

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高崎市片岡町の七士殉職供養塔。

七士殉職供養塔
七士殉職供養塔は昭和10年(1935年)の大水害の際に殉職した、高崎第15連隊の兵士を供養するため、翌昭和11年(1936年)に建てられた。

台風による集中豪雨で、烏川の上流域と碓氷川支流の九十九川流域で山津波(土石流)が発生、さらには烏川、碓氷川の堤防が決壊。高崎市の家屋被害は、流失6棟、全壊3棟、半壊4棟、床上浸水818棟、床下浸水712棟という甚大なものとなった。

この水害の救助活動中に高崎第15連隊第11中隊の兵士10人が濁流にのまれ、うち7人が殉職するという悲劇が起こった。7人はいずれも県内出身者で、22歳、23歳の若い兵士であった。

7人の葬儀には県知事、高崎市長をはじめ、小学生や市内の関係団体など約5000人が参列し、兵士たちの死を悼んだ。

現在も花が手向けられており、高崎市民がいかに7人の死を悲しんだかが伝わってくる。

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高崎市山名町の御野立所跡。

山名御野立所
昭和9年(1934年)11月に行われた帝国陸軍特別大演習を、昭和天皇がこの場所からご視察された。

この碑は昭和11年(1936)に旧八幡村(現山名町)の方々により造立されたもの。揮毫は荒木貞夫陸軍大将である。野立所とは演習などで野外に設けた天皇陛下の休憩所のことである。

演習は阿部信行大将を指揮官とする東軍(第一師団・第二師団)と、荒木貞夫大将を指揮官とする西軍(近衛第十四師団)に分かれて行われている。(高崎第十五連隊は西軍に所属)

御野立所から (1)
御野立所から (2)
現在は住宅地が増え、昭和天皇がご覧になった(と思われる)景色は見ることができない。1枚目は御野立所跡付近から木部町方面、2枚目は佐野町方面を見たもの。田んぼが広がっているあたりで演習が行われた??

山名駅
上信電鉄の山名駅。
御野立所跡は山名駅や山名八幡宮西側の佐野山にある。昭和天皇は山名駅でお召列車を下車され、愛馬・白雪に騎乗し佐野山へ向かわれた。

迎光碑
山名駅から山名八幡宮へ向かう上信電鉄の線路脇にある迎光碑。
昭和天皇をお迎えになった記念碑である。揮毫は鈴木貫太郎侍従長(海軍大将)。鈴木大将は終戦時の首相として有名。

迎光碑は上信電鉄・山田昌吉社長(当時)が造立している。山田社長は高崎の渋沢栄一と呼ばれ、高崎の発展に尽力したひとりである。

上信電鉄
山名駅の南側をプラプラしていたら、高崎行きの上信電鉄が来た。上信電鉄は上野鉄道として明治28年(1895年)に設立され、明治30年(1897年)に高崎-下仁田間が開通。

大正10年(1921年)に信州・佐久までの延伸を視野に、上信電気鉄道と改称している。まあ、種々の事情で下仁田から先の延伸は実現しなかったけど。

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高崎市南町の愛宕神社。

愛宕神社 (1)
愛宕神社 (2)
愛宕神社は和田城の守護神として、和田義信が京都愛宕神社の分霊を勧請したのが始まりという。

和田義信は上野国和田氏の祖で、和田城の築城者ともいわれる。また、義信の父・義盛は鎌倉幕府創成期の重鎮で、侍所別当を務めている。和田義信の勧請とするなら、愛宕神社の創建は西暦1200年前後と考えられる。

愛宕神社 (3)
愛宕神社 (4)
江戸時代の元和3年(1617年)、高崎城主・松平信吉が再建している。現在の社殿はまだ新しいので、近年の新築。

愛宕神社 (5)
本殿は外からは全く見えない。完全な覆屋というか社殿内。

愛宕神社 (6)
愛宕神社 (7)
社殿前にある井戸。明治26年(1893年)に帝国陸軍の軍事演習視察に明治天皇が高崎に行幸された際、この井戸の水を御前水として差し上げた。脇にある碑はそれを記念する碑。明治天皇の侍従・堀河康隆子爵の詩と和歌が刻まれている。

愛宕神社のご祭神に軻遇突智命(かぐつちのみこと)があり、別名火産霊神といい防火の神である。(他に伊弉諾命、伊弉冉命)

高崎は火災が非常に多かったので、松平氏が防火のために再建したのかな(勝手な推定)。でもあんまり効果なく、高崎は江戸時代から明治時代まで大火続きであったのはご存知の通り。

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高崎市乗附町の群馬県護国神社。

護国神社 (1)
群馬県護国神社は、明治42年(1909年)高崎公園内に建立された英霊殿が始まり。昭和16年(1941年)にその祭祀を継承し、現在地に護国神社が造営された。その際には、多額の浄財が寄せられれとともに、述べ12万人が勤労奉仕により協力した。

護国神社 (2)
護国神社 (3)
護国神社 (4)
厳かに参道を進むと二の鳥居が見えてくる。

護国神社 (5)
護国神社 (6)
護国神社 (7)
護国神社 (8)
護国神社 (9)
社殿は昭和15年(1940年)の建立。銅版茸流造・向拝附で東南に面し、皇居を遥拝するように建てられている。

護国神社の源流は招魂社で、招魂社は戊辰戦争以来、西南戦争、日清・日露戦争、昭和に入ってからの満州事変などの諸事変にて戦死した霊を祭祀するために全国各地に建立され、その数は150社を数えた。

群馬県にも前橋と館林にあったが、昭和14年(1939年)の1県1社制に伴い、高崎に指定護国神社を創建し、前橋と館林は指定外護国神社となった。現在、群馬県護国神社には47,000余柱の英霊が祀られている。

明治維新以来の国難に際し、尊い命を捧げた英霊をお祀りすることは現在を生きる我々の責務である。

関連
英霊を祀る -邑楽護国神社-

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高崎市菊地町の抜鉾神社。

抜鉾神社 (1)
抜鉾神社は和銅4年(711年)の創建と伝わる由緒ある神社。約1300年の歴史を誇る。

抜鉾神社 (2)
抜鉾神社 (3)
抜鉾神社 (4)
昭和57年(1982年)の台風による倒木で社殿が一部壊れたが、平成7年(1995年)に改修している。

菊地町にはウナギにまつわる伝説が残っている。

昔、松本三左衛門という人がおり、温厚誠実な敬神家で抜鉾神社を信仰していた。その三左衛門の2人の子どもが天然痘にかかってしまった。そんな時、夢に老翁が現れ「当神の化身である。2人の子どもの難病をウナギを身代わりとして治してあげよう」と告げられた。

後日、ウナギを売りが来たのでウナギを買い、竹筒の中で飼っていたところ子どもたちの天然痘が治るに従い、ウナギの全身が天然痘にかかったようになり、子どもたちが全快するとウナギは重篤の様相となったという。これ以来、築地町ではウナギを食する者はいないという。

伝説は伝説として、現在も食べないかは知らないけどね。

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高崎市萩原町の大笠松。

萩原の大笠松 (1)
萩原の大笠松 (2)
萩原の大笠松 (3)
大笠松は樹高7m、枝張りは南北が約18m、東西に約20.5m、幹回りは約6mに及ぶ。樹高はそれほどではないが、枝張りは円形に整っており、周囲の長さは約80m、樹齢は約450年とされる。

この松は、前橋城主・酒井雅楽頭から拝領した鉢植えを庭に移植したものと伝えられる。酒井重忠(上野厩橋藩初代藩主)の家系は代々「雅楽頭」を名乗っており、誰が贈り主かは不明のようだが、樹齢などから逆算して4代・忠清、5代・忠挙と推定されているらしい。

でも酒井忠清の藩主期間は1637~81年、忠挙は1681~1707年なので、ちょっと樹齢が短くなってしまう。初代重忠(藩主期間1601~17年)でも・・・。

松の成長に伴い、代々の所有者は枝の伸びを妨げないように、母屋を後ろに下げる建て替えを3度も行っている。3度目は大正2年(1913年)のこと。今はまだ母屋との余裕はありそうだったが、これからも成長を続けると4度目もある?

定期的な剪定、病害防止のための消毒なども含め、所有者は大変だと思う。

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高崎市元島名町の将軍塚古墳。

将軍塚古墳 (1)
将軍塚古墳 (2)
将軍塚古墳は全長96mの県内最大級の前方後方墳。後方部の幅51m、高さ8.6m、前方部の長さ40m、高さ4.7mで、周堀を含めた全長は約150mと推定される。墳丘は2段に築かれ、葺石は認められない。4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれた、古墳時代初期の古墳。

将軍塚古墳 (3)
将軍塚古墳 (4)
将軍塚古墳 (5)
前方部の墳丘上には、島名神社が鎮座している。島名神社の創建年は不明だが、彦狭島王をご祭神としていることから、将軍塚古墳は彦狭島王の墳墓との伝承もある。

彦狭島王は東山道十五国都督に任じられており、「将軍塚」という名前はちょっと意味深。と言っても、いつから「将軍塚」かは不明だけど・・・。ちなみに、彦狭島王は豊城入彦命の孫で、御諸別王の父である。

明治44年(1911年)の社殿拡張工事の際に、後方部で全長1.8mの粘土槨が発見されている。粘土槨内からは、人骨とともに鏡、石釧、刀片などの鉄製品が出土している。

また、昭和55年(1980年)の土地改良に伴う調査では、周堀部から壺形土器(底部穿孔壺)が多数出土している。 これらは後方部の頂上に並べられていた土器と考えられる。なお、土器は近くにある高崎市歴史民俗資料館で見ることができる。

関連
 「彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-

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高崎市下斎田町の小栗又一忠道の墓。

小栗又一の墓 (1)
小栗又一の墓 (2)
田口家墓地内に小栗又一忠道の墓がある。

小栗又一忠道は、有名な小栗上野介忠順の養嗣子。子のいなかった小栗上野介忠順は旗本・日下家より鉞子(よきこ)を養女に迎え、また旗本・駒井家から忠道を婿に迎え養嗣子とした。(斬首後、実子(女子)が誕生している)

小栗上野介の父・忠高は小栗家に婿養子に入っており、後に小栗家に生まれた義弟は日下家に養子に出されたため、逆にその子を養女に迎えることで血脈を小栗家に戻そうとしたと考えられている。

小栗又一の墓 (3)
小栗又一の墓 (4)
慶応4年(1868年)新政府軍から追捕令が発せられたことを受け、忠順は忠道を高崎藩へ派遣したが、取り調べもなく烏川河原で斬首された。忠道も同様に、取り調べもなく高崎城内にで斬首されている。

忠道の遺体(この時は胴体のみ)は下斎田村(当時)の名主・田口氏が引き取り墓を作り埋葬した。

小栗父子の首級は、館林に来ていた東山道総督・岩倉具定の首実検を受けた後、法輪寺墓地に葬られた。後に2人の首級は旧権田村の住民により盗み出され、忠順の首級は権田村の東善寺、忠道の首級は田口家墓地内に葬られている。

新政府の管轄下にあった首級を盗んだため、権田村の住民はこれを決して口外せず、子孫にのみ伝え供養を続けてきた。このことを世間に発したのは、昭和30年代後半になってからであり、なんと小栗父子斬首から100年近く経っていた。

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高崎市九蔵町の青龍山大雲寺。

大雲寺 (1)
大雲寺 (2)
大雲寺 (3)
大雲寺の由緒はよく分からなかった。

大雲寺には高崎市の重文に指定されている武居梅坡(ばいは)の「水墨雲竜の図」がある。でも、大雲寺を訪れた理由は別にあり、武田信玄の軍師として有名な山本勘助のご子孫の墓があるということ。

大雲寺 (4)
大雲寺 (5)
山本勘助のご子孫の墓。「山本菅助入道道鬼七世孫山本菅助菅原晴生墓」とある。

「甲陽軍鑑」には名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したとあるが、山本菅助が正しいらしい。

山本勘助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、「啄木鳥戦法」で上杉謙信軍に挑んだが謙信に見破られ討死している(とされる)。

山本勘助の名は、甲陽軍鑑とその影響を受けた江戸時代の軍記物にしか登場しないことから、永らく実在が疑問視されてきた。しかし近年は「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が「市河文書」や「真下家所蔵文書」など、複数の文書上から確認されている。

但し、山本勘助の実在と軍師であったかは別の問題であると考えているが、それ以上の知識はオレにはない。

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高崎市下横町の白龍山興禅寺。

興禅寺 (1)
興禅寺は治承元年(1177年)新田義重の開基と伝わる。新田義重は新田氏の祖である。

戦国時代の初期に、当時の和田城主・和田信輝が再興し、和田氏の菩提寺としている。和田信輝は関東管領・山内上杉氏に属し、天文15年(1546年)に河越夜戦で討死と伝えられる。

興禅寺 (2)
興禅寺 (3)
山門をくぐると児童公園があり、さらに道路が横切っている。古くは参道があったんだろうが、なぜか児童公園ができている。

興禅寺 (4)
興禅寺 (5)
興禅寺に伝わる「和田城並びに興禅寺境内古絵図」によると、鎌倉街道に面した広大な敷地の中に興禅寺が描かれている。「和田城並びに興禅寺境内古絵図」は天文から天正年間(1532~91年)の頃のものとされる。

しかし井伊直政の高崎城築城時に境内を縮小され、その後大河内氏が城主時代の天保11年(1840年)に現在地に移っている。

和田氏の菩提寺なので、和田氏関連のお墓もあるのかもしれないが、肝心の墓地がどこにあるのか分からなかった。

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