Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市(旧郡部を除く)

高崎市東中里町・火雷若御子神社
源義家の創建・新田義重の建立 -柳原馬頭観音堂-
高崎市宿大類町・熊野神社
高崎市矢島町・彦島神社
熊の墓 -妙音寺-
高崎の鬼門鎮護 -五霊神社-
高崎市山名町・山ノ上地蔵尊
高崎市山名町・来迎阿弥陀画像板碑
高崎五万石騒動義人堂
酒井家次の開基 -向雲寺-
足利尊氏の守護仏を祀る -延養寺-
群馬県立歴史博物館 企画展とテーマ展示
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
群馬県立歴史博物館 リニューアル後初訪問
井戸から出てきた八幡菩薩像 -井戸八幡宮-
新町宿から購入した灯籠 -大八木諏訪神社-
正観寺遺跡群 祭祀巨石
古鏡を祀る -鏡宮神社-
高崎市最大・最古の板碑 -妙典寺-
高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓
高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-
高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
水戸黄門腰掛石 -山名八幡宮 その2-
信玄の鍋掛け石 -天竜護国寺-
上中居総鎮守 ひいらぎさま -上中居諏訪神社-
下小鳥村の首塚 -枉寃旌表之碑-
八幡八幡宮の別当寺 -大聖護国寺-
彼岸桜の老樹が護る -桜塚古墳-
高崎市・少林山薬師塚古墳
高崎市・少林山天頭塚古墳
高崎市・八幡原A号及びB号石槨
高崎市・剣崎長瀞西古墳
七士殉職供養塔
帝国陸軍特別大演習 -山名御野立所跡-
防火の神様 -高崎南町・愛宕神社-
群馬県出身の殉国の英霊を祀る -群馬県護国神社-
菊地町のウナギ伝説 -抜鉾神社-
酒井雅楽頭から拝領した松 -萩原の大笠松-
彦狭島王の墳墓? その2 -将軍塚古墳-
小栗上野介忠順の養嗣子・又一忠道の墓
軍師・山本勘助の子孫の墓 -大雲寺-
和田氏の菩提寺 -興禅寺-
高崎・和田の三石
高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-
お染の墓 -高崎市木部町・安楽寺-
木部範虎の墓 -心洞寺-
木部白満の墓 -光台寺 その2-
山名氏館跡??? -光台寺-
乃木稀典揮毫の忠魂碑と東条英機揮毫の忠霊塔
稲川政右衛門の墓 -常安寺 その2-
豊岡藩陣屋跡 -常安寺-
源頼義・義家父子の建立 -若宮八幡宮-  
群馬シンフォニーホール
ここに泉あり -群馬音楽センター-
藩主のお宝 -頼政神社 その2-
六郷・長野郷の総鎮守 -烏子稲荷神社-
「すさのお」とは読めない -進雄神社-
行き止まりの高架橋 -岩鼻軽便鉄道跡-
ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-
群馬県立歴史博物館
旧井上房一郎邸 -高崎市美術館-
高崎市綿貫町・普賢寺裏古墳
高崎市綿貫町・不動山古墳
高崎市倉賀野町・浅間山古墳
高崎市倉賀野町・大鶴巻古墳
七仏薬師如来 -安楽寺-
岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓 -高崎岩鼻・観音寺-
古き良き時代の旅館 -豊田屋旅館-
税金バベルの塔 -高崎市役所-
内村鑑三家の墓 -高崎若松町・光明寺-
高崎市民の憩いの場 -高崎公園-
徳川忠長自刃の部屋 -長松寺-
井伊直政の伯母のお寺 -恵徳寺-
高崎の総鎮守 -高崎神社-
茶舗・水村園 -小見家住宅-
旧威徳寺の内陣があるけど・・・ -光徳寺-
ネオ・ゴシック風教会 -高崎聖オーガスチン教会-
群馬で唯一建物が残る城址 -高崎城址-
土蔵のような外観 -高崎あら町・諏訪神社-
倉賀野の総鎮守 -倉賀野神社-
飯盛り女の墓 -九品寺-
江原源衛左門重久の墓 -慈眼寺-
上野国七之宮 -小祝神社-
彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-
天狗が守る神社 -琴平神社-
井上保三郎の墓 -荘厳寺-
八幡霊園内にあります -若田原遺跡-
長野氏ゆかりの屋敷址 -北新波砦址-
長野氏累代の墓 その2 -来迎寺-
徳川忠長の墓 -大信寺-
中曽根康弘資料館
私は日本の文化を愛す -洗心亭-
こんな所にあったのね -中山道一里塚-
山田徳蔵氏のコレクション -山徳記念館-
浦島太郎のいる庭園 -徳明園-
深山幽谷の趣 -洞窟観音-
坂上田村麻呂の開基 -清水寺-
元ロシア人兵士の墓 -龍廣寺-
高崎という地名の由来 -龍廣寺-   
源氏ゆかりの社 -八幡(やわた)八幡宮-
上豊岡の茶屋本陣
見事な山門の天井絵 -養報寺-
倉賀野城主・金井秀景の墓 -永泉寺-
水上交通の要 -倉賀野河岸跡-
山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
歌聖・藤原定家を祀る -定家神社-
佐野の舟橋歌碑
いざ鎌倉へ -常世神社-
戦時中の教科書を見よう -高崎市歴史民俗資料館-
懐中電灯を貸してくれる資料館 -観音塚考古資料館-
群馬の石舞台? -観音塚古墳-
源三位を祀る -頼政神社-
最後の上野三碑 -山ノ上碑-
上野三碑 -金井沢碑-
社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-
高崎市・観音山古墳

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高崎市東中里町の火雷若御子神社。

火雷若御子神社 (1)
火雷若御子神社 (2)
火雷若御子神社は火雷神社(玉村町)の分霊を勧請したものだが、その年代は不詳。ただ「上野国神名帳」に「従五位上 火雷若御子明神」と記載されているので、それなりの古社だと思う。

火雷若御子神社 (3)
火雷若御子神社 (4)
火雷若御子神社 (5)
主祭神は火産霊命だが、後に保食命(宇気母智命)を合祭した際、中里神社に改称されたが(こちらも年代不明)、明治28年(1895年)に火雷若御子神社に復称している。

火雷若御子神社 (6)
火雷若御子神社 (7)
拝殿内には明治38年(1905年)奉納の絵馬が2枚あった。1枚目の題材は分からないが、2枚目は明治天皇かな。

火雷若御子神社 (8)
火雷若御子神社 (9)
拝殿には「神楽殿」の扁額が掲げられているが、神楽殿は取り壊されたようだ。跡地を示す看板が立っている。

火雷若御子神社 (10)
境内に芭蕉の句碑があった。「稲妻に さとらぬ人の 尊さよ」。神社名にちなんだ句を選定したのかと思ったが、句意は「稲妻を見て何かを悟ったような顏で物言う人より、何も思わずに無心でいる人の方が尊いのだ」みたいな感じ。

火雷若御子神社 (11)
ご神木の大ケヤキ。

ところで、「若御子」と付いている意味は不明。調べると、「上野国神名帳」には当社以外にも「諏訪若御子」「抜前若御子」「赤城若御子」「榛名若御子」「倭文若御子」「白羅根若御子」など多数あり。

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高崎市南大類町の柳原馬頭観音堂。

柳原馬頭観音堂 (1)
柳原馬頭観音堂の創建は不詳。言い伝えでは寛治3年(1089年)源義家東征の際、当地で義家の乗った馬が蹄を痛め進めなくなってしまった。そこで義家は京都・清水観音を遙拝、その快癒を祈願したところ柳叢(叢は草むらの意)の上に馬頭観音が現れ、馬の蹄は平癒した。感激した義家は、仮堂を建立し馬頭観音を安置し柳の木を植え奥羽に向かった。

その後、義家の孫にあたる新田義重が壮麗な殿堂を造営し、人々は柳原観音堂と称し参詣する人が絶えなかったという。

ちなみに、後三年の役は寛治元年(1087年)に終結しているけど、まあ誤差の範囲かな。

柳原馬頭観音堂 (2)
柳原馬頭観音堂 (3)
現在の観音堂は嘉永5年(1852年)の建立。馬頭観音像は厨子の中のようだ。白馬の置物は享保20年(1736年)江戸・日本橋ねずみ屋製作と胎内に書かれている。鰐口には明暦2年(1656年)の銘がある。

柳原馬頭観音堂 (4)
柳原馬頭観音堂 (5)
柳原馬頭観音堂 (6)
柳原馬頭観音堂 (7)
柳原馬頭観音堂 (8)
観音堂には見事な彫刻が施されている。特に、龍の巻き付いた海老虹梁は躍動感あふれる傑作だ。また、柱や梁のすべての彫刻に寄付者の住所と名前が線刻されている。

柳原馬頭観音堂 (9)
観音堂の奥には聖徳太子の碑。大正11年(1922年)の建碑。

群馬県内には源義家の創建と伝わる神社(八幡神社など)が多数ある。東征のおり県内を通過したとの確証はないが、新田氏の勢力範囲内にそういう伝承が多く残っているのだと思う。なんと言っても八幡太郎義家は源氏の象徴的な棟梁なので。

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高崎市宿大類町の熊野神社。

宿大類町熊野神社 (1)
宿大類町熊野神社 (2)
宿大類熊野神社は慶長年間(1596~1615年)の創建と伝わる。現在の鳥居は昭和53年(1978年)の建立。

宿大類町熊野神社 (3)
鳥居をくぐると、そこは宿大類児童公園。公園の向こう側が境内になっている。元は熊野神社の境内の一部だったと思う。それを考えると、それなりの規模の神社だったはずである。

宿大類町熊野神社 (4)
宿大類町熊野神社 (5)
現在の社殿の建立年などは分からないが、かなり老朽化している。

宿大類町熊野神社 (6)
拝殿の屋根は瓦がずれ落ち、今にも崩れそうだ。当然、社殿周りへの立ち入は禁止。地元の鎮守的な神社はどこも資金不足で、すぐに修理できないんだろうな。

宿大類町熊野神社 (7)
宿大類町熊野神社 (8)
境内右奥の鳥居。

江戸時代、高崎藩主は厄年になると宿大類熊野神社で祈祷し、また旱魃などの時も当社に参り祈誓したというが、現状の社殿の状況を見るとちょっと残念。

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高崎市矢島町の彦島神社。

彦島神社 (1)
彦島神社 (2)
彦島神社は大永7年(1527年)の創建と伝わる。

彦島神社 (3)
彦島神社 (4)
彦島神社 (5)
元は諏訪神社で、明治40年(1907年)に地区内各社を合祀した際に彦島神社と改称している。そのため、主祭神は建御名方神である。

彦島神社 (6)
なぜか、灯籠などが境内の隅っこに置かれている。社殿前には新しい狛犬が置かれているので、隅に追いやられたのか?

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高崎市大八木町の慈眼山妙音寺。

妙音寺 (1)
妙音寺は元和9年(1623年)の創建。正徳3年(1713年)に融通寺を合併した際に、現在の妙音寺に改称している。

妙音寺 (2)
山門前のペンギンの石像。意味合いは不明だが、可愛いからOK?

妙音寺 (3)
本堂は延享4年(1747年)の建立。大正4年(1915年)に屋根の葺き替え、昭和61年(1986年)に大改修を行っている。

妙音寺 (4)
妙音寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。観音堂も延享4年の建立で、昭和61年に改修されている。

妙音寺 (6)
寛保2年(1742年)建像の釈迦如来坐像。寛保2年と言えば、台風による利根川の氾濫などで関東一円に大被害をもたらしている。その供養も兼ねての建像かな。

妙音寺 (7)
上記の釈迦如来坐像と並ぶようにある石塔には「先玉尊霊」とある。明治3年(1870年)8月の銘があり、山門前に出没した熊を村総出で退治した記念碑兼熊の墓(慰霊碑)だという。

当時のこの辺の山野は想像できないが、普通に熊が出る環境だったんだね。

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高崎市貝沢町の五霊神社。

五霊神社 (1)
五霊神社 (2)
五霊神社は和田正信が相模国三浦から鎌倉権五郎景正の分霊を勧請し、赤坂の地に祀ったのが始まりという。正信は熊野神社(現高崎神社)を寛元元年(1243年)に勧請しているので、五霊神社の勧請も同年と考えられる。

五霊神社 (3)
石段前の灯籠は、平成23年(2011年)の東日本大震災で倒壊したため、新たに奉納されたもの。

五霊神社 (4)
五霊神社 (5)
五霊神社 (6)
元禄8年(1695年)に時の高崎城主・大河内輝貞が高崎の鬼門除けとして現在地に遷座している。以来高崎城主の崇敬厚く、城主は毎年参内し領内の除災を祈願したという。

五霊神社 (7)
五霊神社の社殿は「五霊神社古墳」上に鎮座している。五霊神社古墳は約15mの周堀を持つ前方後円墳だが、後円部は削られており現在は前方部のみ45mが残っている。横穴式石室は角閃安山岩製で、副葬品も多数見つかっている。6世紀後半の築造と推定される。

五霊神社を勧請した和田正信は上野国和田氏の祖とされる和田義信か義国の子とされる。ついでに、ご祭神の鎌倉権五郎景正は平安時代後期の武将で、後三年の役(1083~87年)時に右目を射らながら奮闘した逸話が残っている。伊勢崎市には景正を祀る五郎神社がある。さらについでに、景正の子孫からは白井長尾氏が出ている。

関連
 高崎神社 「高崎の総鎮守 -高崎神社-
 上野国和田氏 「上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
 五郎神社 「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-
 白井長尾氏 「白井長尾氏累代の墓 -空恵寺 その2-

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高崎市山名町の山ノ上地蔵尊。

山ノ上地蔵尊 (1)
山ノ上地蔵尊の由緒は不明だが、「お陰地蔵」の異名がある。地蔵堂(?)は平成4年(1992年)に地元の方々の寄進により建立されている。手前にぶら下がっているのは、空き缶で作った風鈴みたいなもの。

山ノ上地蔵尊 (2)
地蔵尊は高さ1.5mほどの坐像。現在も地域の見守り地蔵として敬愛されている。

最初の写真の堂外右にあるのは「百万遍供養塔」で、享保年間(1716~36年)の建立。当地に疫病が流行した際、同じく山名町の光台寺から大数珠を借りて三日三晩念仏を唱えると、疫病は退散したという。

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高崎市山名町の来迎阿弥陀画像板碑。

来迎阿弥陀画像板碑 (1)
来迎阿弥陀画像板碑 (2)
板碑は祠のような覆屋内にあり、厳重に鍵が掛けられていて見ることはできない。

来迎阿弥陀画像板碑 (3)
解説版に載っている板碑拓本の拡大写真。板碑は高さ97.5cm、幅33cm、厚さ5cmで、剣菱形の緑泥片岩の上半に薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来を刻んでおり、下半に建治4年(1278年)の銘がある。

阿弥陀如来の頭部には放射状の頭光が線刻されている(この部分は拓本写真からも分かる)。印相は来迎印結び蓮座の上に立ち、信仰者の臨終を極楽浄土に迎える「阿弥陀来迎」の型式をとっている。

鉄扉に2つ丸い穴(窓)が開いているので覗けたのかもしれないが、何かあると嫌なのでやめておいた。

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高崎市東町の高崎五万石騒動義人堂。

五万石騒動義人堂 (1)
義人堂は高崎五万石騒動と呼ばれる農民一揆で犠牲になった農民代表を慰霊・顕彰するために、昭和38年(1963年)に建立されたもの。

五万石騒動は年貢の軽減を訴えた農民一揆。一揆と言っても「要望書」を提出しただけ。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた。明治2年(1869年)農民が高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及び、後に農民の要求は認められたが大総代3名が斬首、その他獄死4名など多くの犠牲者が出ている。

五万石騒動義人堂 (2)
レリーフのような碑は水原徳言氏の設計。水原氏はブルーノ・タウトとも親交があった建築家。他に頼政神社の内村鑑三の碑の設計者としても知られる。彫刻は元武蔵野美大教授・田中栄作氏。

五万石騒動義人堂 (3)
五万石騒動義人堂 (4)
五万石騒動の記録や犠牲者名がはめ込まれている。

五万石騒動義人堂 (5)
この彫刻は何を表しているのか、オレにはよく分からない。

当所は大総代3名が斬首された場所で、当時は無縁堂という高崎藩の荼毘所であった。毎年大総代2名が刑死した2月4日前後に「義人祭」が行われ、大総代を始めとした犠牲者の慰霊が行われている。

五万石騒動義人堂 (6)
義人堂の脇に猿田忠夫の墓(その他5名の名も)がある。猿田らは水戸天狗党の資金調達のため桐生・藤岡・下仁田などを荒らしたため、元治元年(1864年)高崎藩に捕縛され、翌元治2年に斬首されている。ここに猿田らの墓があるのは、無縁堂があった名残である。

ところで、上野群馬之助という名が刻まれているが、本名とは思えない。最後まで名前を含め口を割らなかったのかな?

関連
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
 「高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-
 「高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓

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高崎市下横町の東陽山向雲寺。

向雲寺 (1)
向雲寺 (2)
向雲寺は高崎藩主・酒井家次が開基、甘楽町の向陽寺4世・伝州忠的を招いて開山した。酒井家次が高崎藩主だったのは慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)。

向雲寺 (3)
門扉に酒井氏の片喰紋(剣片喰)があしらわれている。

向雲寺 (4)
向雲寺 (5)
向雲寺 (6)
安藤重博が高崎藩主の時代(明暦3年:1657年~元禄8年:1695年)に現在地に移転し、伽藍を整備している。そのため、重博を中興開基としている。現在の本堂は昭和10年(1932年)の再建。平成25年(2013年)に改修されている。

向雲寺 (7)
向雲寺 (8)
境内のサンゴジュ(珊瑚樹)。きれいに剪定されているので本来の樹形ではないと思うが、上の写真のサンゴジュは樹高8.5m、幹周6.2m。

酒井家次は徳川四天王・酒井忠次の嫡子で、その家系は左衛門尉酒井家といわれる。前橋藩主で大老も務めた酒井忠世や忠清は雅楽頭酒井家。元は同じの兄弟家。両酒井家の家系では、江戸時代9家もが大名であった。

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高崎市あら町の吠瑠璃山延養寺。

延養寺 (1)
延養寺 (2)
延養寺は至徳年間(1384~87年)慶覚の開山で岩鼻村に創建。慶覚は足利尊氏が筑紫に逃れていた時の祈祷師だったといわれる。永禄4年(1561年)長野業政により箕輪城下に移転。慶長3年(1598年)井伊直政の高崎移転に伴い現在地に再移転している。

延養寺 (3)
延養寺 (4)
足利尊氏の守護仏であった薬師如来像(弘法大師作といわれる)を本尊としてきた。本堂は文政5年(1822年)の建立。

延養寺 (5)
境内の御伝馬事件供養碑。
文久2年(1862年)の大火により高崎城下一帯が大きな被害を受けた。高崎宿の伝馬は本町・田町・あら町が担っていたが、大火からの復興と伝馬業務の負担が重なり、あら町惣代が幕府に直訴に及んだ事件(御伝馬事件)。結果として刑死者こそ出なかったが、80人を超える町関係者が入牢などの処罰を受けた。このような経緯や、その後の復興内容などが記されている。

延養寺 (6)
羽鳥一紅の句碑。
一紅は下仁田の出身で、田町の絹問屋羽鳥家に嫁した俳人。

延養寺 (7)
延養寺には円空仏が寺宝として残されている。円空作と判明したのは平成6年(1994年)のことである。底面に梅の花が描かれていることから天神様(菅原道真)像とされる。円空作と判明する以前から寺宝となっていたのは、この像が足利尊氏像とされていたから。

富岡市黒川の不動堂にも、円空作の十一面千手観音像が残されている。
(「円空作の十一面千手観音立像 -黒川不動堂-」参照)

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高崎市綿貫町の群馬県立歴史博物館。
今回は企画展「すごいぞ! 江戸の科学」を見に行った。

企画展 (1)
第96回企画展「すごいぞ! 江戸の科学」は、地図・天文暦学・和算の発展に寄与した江戸時代の科学者たちの人物像とその功績を、肖像画や屏風・古地図などの様々な資料を通して紹介している。

実は、この企画展に知り合いのご先祖さまの遺物が出展・展示されているのだ。その方は江戸末から明治初年の人で、和算の大家にして大数学者。多数の門弟を持ち、自身や門弟が神社などに多数の算額を奉納している。

企画展 (2)
展示されているのは象限儀(展示No90)。測量機器で、円の4分の1の扇形をしており、これに望遠鏡をつけ天体を観測しながら現在地の緯度を割りだすもの。江戸時代の物なので木製。
*企画展は写真が撮れないので、象限儀は写ってないがパンフの写真でご勘弁を

テーマ展示 (1)
入ったついでに常設展展示も一廻り。最後のテーマ展示「塚廻りの埴輪 -小古墳群の美しき埴輪世界-」に興味を引かれた。塚廻り古墳群からは300体以上の埴輪が出土しており、その中の8体が展示されていた(すべて国の重文)。

テーマ展示 (2)
椅坐する男子。椅坐とは椅子に座り、足を降ろした姿勢のこと。帽子を被り籠手を着け、倭風太刀を備える。高さ82.3cm。塚廻り3号墳出土。

テーマ展示 (3)
椅坐する女子。腰に鈴鹿が身を着け、魔除けの鋸歯文を描いた太帯と襷を身につけている。巫女と考えられる。高さ68.9cm。塚廻り3号墳出土。

テーマ展示 (4)
椅坐する男子。首には玉飾り、袴には朱門の水玉文様。高さ64cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (5)
跪坐する男子。跪坐とは正坐姿勢のこと。籠手と腕輪を着け、太刀を帯びている。高さ49.4cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (6)
太刀を持つ女子。鋸歯文様の袈裟襷を掛け、右手に太刀を持つ。高さ78.7cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (7)
坏を持つ女子。首飾りは勾玉が多数付いている。高さ76.4cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (8)
右手を挙げる男子。帽子を被り腰紐のみのシンプルな衣装。馬子と考えられる。高さ76.6cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (9)
飾り馬。鞍、輪鐙、手綱を付け、鈴付胸がい、杏葉も。高さ70cm。塚廻り4号墳出土。

「企画展」を見に行って、ついでの「テーマ展示」で塚廻り古墳群出土の埴輪が見られたのはラッキーだった。

関連
 「太田市・塚廻り古墳群第4号古墳

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上野三碑がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された(2017年)のを機に、多湖碑(高崎市吉井町池)、金井沢碑(高崎市山名町)、山ノ上碑(高崎市山名町)を再訪した。

多胡碑
多湖碑は和銅4年(711年)に多胡郡が設置され、その郡吏に羊太夫という人物が任命されたのを記念して造られたという説が有力。

以前の訪問は2010年(「上毛かるた紀行」)だが、変わったところは案内板がきれいになっていたことくらい。従来から「吉井いしぶみの里公園」として整備され、「多胡碑記念館」も併設されていたので。(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

金井沢碑 (1)
金井沢碑は神亀3年の(726年)の建碑で、高崎佐野にあった屯倉の管理者の子孫が、先祖の冥福を祈るため仏教に入信するという誓いが刻まれている。

金井沢碑 (2)
きれいな歩道(木道)が整備され、碑までの通路が大きく改善されていた。以前の訪問時(2010年)は、訪れる人もほとんどいないため、あぜ道のような通路はクモの巣だらけで、巣を払いながら登って行った。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

山ノ上碑 (1)
山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、隣の古墳(山ノ上古墳)に眠ると考えられている放光寺の僧・長利の母の墓誌と考えられている。
(「最後の上野三碑 -山ノ上碑-」参照)

山ノ上碑 (2)
山ノ上碑も道路から石段までの間にきれいな木道が整備されていた。また、石段周りも樹木が伐採され、すっきりしていた(前回訪問2010年)。

上野三碑を訪問した2010年は、「上毛かるた紀行」「上州まったり紀行」を始めた年で、紀行文を改めて読み直すと稚拙な文章で恥ずかしい。また、写真もひどいなぁ。

ところで、もともと三碑とも国の特別史跡に指定されていたにも関わらず、金井沢碑と山ノ上碑は歩道の整備に問題があった。それが「世界記憶遺産」登録を目指す一環として、2015年に木道やトイレなどが整備され、これだけきれいになった。やる気になればできるんだから、他の文化財保護などもよろしく。もちろん、高崎市以外も。

世界記憶遺産登録活動、そして登録で、どれくらい見学者(観光客?)が増えているか知らないが、碑を守ってきてくれた地域住民の方々への配慮も必要だね。特に山ノ上碑は少し狭い生活道を行くことになるので。

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高崎市綿貫町の群馬の森内にある群馬県立歴史博物館。平成23年(2011年)に展示中の重要文化財に水滴が落ち、展示物に被害を与えたことで改修が決定。改修中の休館を経て平成28年(2016年)プレオープン。翌平成29年(2017年)、本格的なリニューアルオープン。

リニューアル後、群馬の森には何回も行っているけど、歴史博物館には足が向かなかった。理由は駐車場に車が多く混んでいそうだったから。いつでも来れると思うと後回しになる。

県立歴史博物館 (1)
入場料金は300円。以前は200円だったような気がする。企画展をやっているときなどは高くなる。行った時は「織田信長と上野国」という企画展をやっていたので、そっちも見ると600円。

常設展示の最初は「東国古墳文化」。観音山古墳の出土物を中心に展示。
県立歴史博物館 (2)
県立歴史博物館 (3)
県立歴史博物館 (4)
県立歴史博物館 (5)
県立歴史博物館 (6)
県立歴史博物館 (7)
県立歴史博物館 (8)
県立歴史博物館 (9)
県立歴史博物館 (10)
県立歴史博物館 (11)
県立歴史博物館 (12)
観音山古墳は未盗掘で様々な副葬品が出土し、その多くが国の重文になっている。オレ的にはこの部屋だけで充分に元が取れるくらい。何時間でもいられると思った。

後は以前のように年代別の展示。そんなに目新しい物はないような感じだったが、上野三碑の実物大のレプリカがあった(なぜか山上多重塔も)。

常設第2展示室は「原始」。
県立歴史博物館 (13)
県立歴史博物館 (14)
県立歴史博物館 (15)
県立歴史博物館 (16)
県立歴史博物館 (17)
県立歴史博物館 (18)
原始時代はやっぱり岩宿遺跡の出土品や縄文土器など。縄文土器はいつ見ても美しい。オレの好み。

常設第3展示室は「古代」。
県立歴史博物館 (19)
県立歴史博物館 (20)
県立歴史博物館 (21)
県立歴史博物館 (22)
県立歴史博物館 (23)
県立歴史博物館 (24)
県立歴史博物館 (25)
古代編は古墳からの出土物、上野三碑のレプリカなど。上野国分寺や山王廃寺(放光寺)関連など。

常設第4展示室は「中世」。
県立歴史博物館 (26)
県立歴史博物館 (27)
県立歴史博物館 (28)
県立歴史博物館 (29)
県立歴史博物館 (30)
中世編は新田氏関連や戦国時代ものが多い。大田市世良田町・総持寺蔵の新田義貞木像の実物が展示されていた。これはうれしい。井伊直政の赤備え(兜、甲冑、軍配)もあった。

常設第5展示室は「近世」。第6は「近現代」。
県立歴史博物館 (31)
県立歴史博物館 (32)
近世辺りから、途端にオレの興味が薄れてくる。倉賀野宿の模型があったがチラ見程度。近現代は富岡製糸場や定番のスバル360。

テーマ展示で「明智光秀の源流 沼田藩土岐家の中世文書」をやっていた。
県立歴史博物館 (33)
あんまり興味を引く物はなかったが、足利尊氏の書状。

県立歴史博物館 (34)
企画展「織田信長と上野国」に関しては、オレ的にはまったくの外れ。だいたいタイトルに偽りありだな。信長と言うよりは「織田家」及び織田家臣団。

以前も観音山古墳の出土品は多く展示されていたがレプリカが多かったように思う。今回は実物が多く展示されており、しかもほぼ1室を使って展示されており大満足。また、総持寺蔵の新田義貞木像が見られ、さらに満足。これだけで満腹。今回、企画展見学も含め約1時間いたんだけど、最初の「東国古墳文化展示室」に30分以上いた。係員もなかなか次に行かないなと思っていたかも(笑)。

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高崎市倉賀野町の井戸八幡宮。

井戸八幡宮 (1)
井戸八幡宮は正保3年(1646年)の創建と伝わる。

創建には、下記の伝説が残っている。
ある日、田口次郎左衛門辰政という者の夢に1羽の鳩が現れ、「お前は私を知っているか」と言い、古城(倉賀野城)三の廓のほとりへ飛んで行った。その数日後、地震があり三の廓跡の古井戸から清水が湧き出した。この清水は枯れることなく湧き出て、調べたところ井戸の底から八幡菩薩像が出てきたことから社を建てて祀ったという。

井戸八幡宮 (2)
参道脇の井戸上には覆屋が建てられ、中には神輿が安置されている。神輿は享和元年(1801年)に造られたもので、特別な祝祭時のみ出御する宮神輿。

井戸八幡宮 (3)
井戸八幡宮 (4)
井戸八幡宮 (5)
社殿は寛政元年(1789年)、安政6年(1859年)にそれぞれ再建されている。

天正18年(1590年)の倉賀野城落城の際、城の宝物を三の廓の井戸に投げ込んだといわれている。井戸から出てきた八幡菩薩像は、城主が兜の八幡座(兜の鉢の頂上のこと)に付けていたものともいわれる。

伝説を基調とした創建話だが、倉賀野三河守行政が鶴岡八幡宮の神霊を勧請したという他説もある。行政は天文15年(1546年)に討ち死にしているので、こちらの説では1500年頃の創建となる。

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高崎市大八木町の諏訪神社。

大八木諏訪神社 (1)
大八木諏訪神社 (2)
大八木諏訪神社は元禄2年(1689年)の創建と伝わる。

大八木諏訪神社 (3)
大八木諏訪神社 (4)
朱塗りの鳥居の横には、旧鳥居と思われる石造鳥居がある。扁額は下に置かれている。

大八木諏訪神社 (5)
社殿は元文5年(1740年)の建立。(もちろん改修・修築はされている)

大八木諏訪神社 (6)
境内に「明治天皇御野立所跡」の石標があった。野立所とは演習などで野外に設けた天皇陛下の休憩所のこと。明治11年(1878年)に群馬県に行幸されているので、その時立ち寄ったのだろうか。

大八木諏訪神社 (7)
境内に聖跡碑があったが、明治天皇行幸記念? 碑の裏を見てこなかったのでよく分からない。揮毫が西園寺公望なので、そう思った。西園寺公望は明治時代に首相などを歴任し、「最後の元老」と呼ばれ政界に大きな影響を及ぼした実力者。

大八木諏訪神社 (8)
鳥居脇に水準点があった。

大八木諏訪神社 (9)
諏訪神社の参道入り口に灯籠がある。この灯籠には文化12年(1815年)の銘が消され、明治24年(1891年)の銘が刻まれている。

実はこの灯籠は、元々中山道新町宿の神流川岸にに建っていたもの。明治24年に大八木の人が購入し、諏訪神社の参道に設置している。新町側では売った後になって、「返して」と大八木側と交渉したらしいがまとまらず、昭和53年(1978年)に復元している。
(「小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-」参照)

ところで、この灯籠から諏訪神社(鳥居)まではけっこう距離がある。住宅街を歩いて行っても、それらしき神社はなかなか見えてこない。結局、井野川にかかる諏訪橋が見えてきたところで、鳥居も見えたのでホッとした。

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高崎市小八木町の正観寺遺跡群・祭祀巨石。

正観寺遺跡群・祭祀巨石 (1)
この巨石は鏡宮神社の北西約250mのところから発掘されたもの。
縦横約2m、高さ1.1m、重さは約8トン。榛名山の安山岩。加工はされていない。草に覆われており、大きさが余りピンとこないが・・・。
(鏡宮神社は「古鏡を祀る -鏡宮神社-」参照)

発掘地の周辺からは多数の竪穴式住居が確認され、古代の集落跡でであったらしい。巨石は発掘された集落内の標高の最も高いところに掘られた穴の中央に置かれ、その周りには土師器、須恵器や勾玉などの祭祀具があり、6世紀後半の祭祀に関連するものと推定されている。

古代の歴史・文化を示すものとして、鏡宮神社の境内隅に移されて保存されている。

正観寺遺跡群・祭祀巨石 (2)
正観寺遺跡群・祭祀巨石 (3)
巨石の後ろにも、いくつかの石がある。一緒に発掘されたもの?

祭祀具は南東側に置かれており、これを正面とすると、巨石の向こう側に榛名山が見えることになる。榛名山は6世紀初めに2度の大噴火を起こしているので、その際に飛翔してきたのかも。

榛名山の大噴火により、榛名山南部ではいくつもの集落が埋没している。祭祀は榛名山を鎮めるためと考えられる。

関連
 「日本のポンペイ -黒井峯遺跡-
 「日本のポンペイ その2 -中筋遺跡-
 「甲(よろい)を着た古墳人 -群馬県埋蔵文化財調査センター-

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高崎市小八木町の鏡宮神社

鏡宮神社 (1)
鏡宮神社 (2)
鏡宮神社は神亀2年(725年)金星が昼間に輝いたのを不思議に思った村人が、光射す場所を掘ったら古鏡が出てきた。この鏡を祀る社殿を建立したのが鏡宮神社の始まりと伝わる。

鏡宮神社 (3)
鏡宮神社 (4)
鏡宮神社 (5)
社殿は明和6年(1769年)に、大工・笠原右膳の手による。江戸時代後期の社寺建築の特色(無彩色の多種多様な彫刻)をよく示している。

最近では、平成4年(1992年)に改修が行われている。

鏡宮神社 (6)
拝殿内に絵馬が奉納されていた。内容はよく分からない。

鏡宮神社 (7)
鏡宮神社 (8)
境内社の天満宮。脇には菅原道真らしき石像が。古そうに見えるが平成16年(2014年)とある。

鏡宮神社は明和4年(1767年)に火災で宝物や古文書などが焼失してしまったようだが、その時までは鏡も残っていたのかな。

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高崎市小八木町の慈雲山妙典寺。

妙典寺 (1)
妙典寺 (2)
妙典寺 (3)
妙典寺の由緒は不明。

妙典寺 (4)
墓地の北側に鎌倉時代中期頃の板碑と五輪塔がある。

妙典寺 (5)
板碑は高さ215cm、最大幅58cm、厚さ9cmで緑泥片岩製。阿弥陀三尊を表す3個の梵字(種子)が薬研で彫られ、康元2年(1257年)の銘がある。高崎市に現存する板碑では最大にして最古である。

妙典寺 (6)
板碑の隣にある五輪塔は凝灰岩製で、板碑と同年代の造立と推定されるが、紀年銘が見られず不明。

ちなみに、高崎市で銘が残る最古の五輪塔は阿久津町・玄頂寺の康永2年(1343年)銘である。(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)

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高崎市上小塙町の山田勝弥の墓。

山田勝弥の墓
山田勝弥の墓。

山田勝弥は高崎五万石騒動の大総代3人が逮捕(後に処刑)された後、第2代大総代となった丸茂元次郎とともに民部省に強訴・逮捕され、明治4年(1871年)岩鼻監獄に送られる。10年の刑であった。

しかし当時の監獄の衛生環境は良くなかったと思われ、入牢10ヶ月後に獄死。享年51歳。なお、山田以外にも3名が獄死している。

ちなみに、丸茂元次郎は無事10年の刑を満了し(恩赦で8年に短縮ともいわれる)、その後天寿をまっとうしている。

関連
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
 「高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-

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高崎市上小塙町の堰上山大森院方光寺。
2度に渡り紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである小島文次郎の墓がある。
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-

大森院 (1)
大森院 (2)
大森院は元亀2年(1571年)大森氏により創建された。大森氏のことはよく分からない。駿河国の土豪(北条早雲の前の小田原支配)?

大森院 (3)
大森院 (4)
東側には平成17年(2005年)に仁王門が建立された。内側には風神・雷神が鎮座している。

大森院 (5)
大森院 (6)
本堂は寛政7年(1796年)の建立。平成2年(1990年)に改修されている。鐘楼は平成11(1999年)の新築。

大森院 (7)
墓地の一角には涅槃廟と名付けられた納骨堂がある。

大森院 (8)
五万石騒動大総代のひとり小島文次郎の墓。

高井喜三郎、佐藤三喜蔵逮捕後、2人の釈放を求め新政府の岩鼻県庁(旧岩鼻代官所)に赴くが捕らえられて、明治3年(1870年)9月に処刑されている。享年46歳。

文次郎は幼少のころより和算、書画,謡曲、挿花、武芸を学び、他の大総代同様、選ばれるべくして選ばれている。

辞世は「人のため草葉の露と消ゆれども 名を後の世に残すうれしさ」

大森院 (9)
墓の隣にある供養碑。台座には一揆に加わった各村総代や関係者の名前が刻まれている。

なお、小島家には17点の傘連判状を含む計53点の資料が残されている。特に傘連判状は五万石騒動を象徴する資料として大変貴重なものである。

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高崎市下中居町の東光山普門寺。
前回紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである佐藤三喜蔵の墓がある。
(「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓」参照)

高崎・普門寺 (1)
高崎・普門寺 (2)
高崎・普門寺 (3)
普門寺の由緒は分からなかった。

高崎・普門寺 (4)
高崎・普門寺 (5)
五万石騒動大総代のひとり佐藤三喜蔵の墓。

三喜蔵は温厚で誠実な人柄で、面倒見も良い人物であった。大総代のひとりに推されるのも当然の人物であったようだ。また、体格がよく田舎相撲の横綱と呼ばれていた。

高井喜三郎とともに処刑されたが、泰然自若として少しも恐れず刑場の露と消えた。享年52歳。その姿には、高崎藩士も涙したという。

辞世は「望みなき身は今日限りにちりぬるも 七度生まれてかなへてやみん」

なお、墓の碑には「三喜造」とあるが、いろいろ調べると「三喜蔵」との表記の方が多かったので「三喜蔵」とした。違っていたらすみません。

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高崎市柴崎町の高井喜三郎の墓。
高井喜三郎は、高崎五万石騒動の大総代3人のひとり。

高井喜三郎の墓 (1)
高井喜三郎の墓。

高崎五万石騒動は、年貢の軽減を訴えた農民一揆。農民一揆と言っても江戸時代の出来事ではなく、実は明治に入ってから。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた(米には70%以上)。

明治政府は「農商工布告」で、「苛政に苦しむものは申し出よ」と布告。高崎藩のお隣りの岩鼻県(岩鼻は江戸幕府の天領だったので県になっていた)では訴状を受け付けたが、高崎藩は布告自体を無視していた。

明治2年(1869年)、高井喜三郎、佐藤三喜蔵、小島文次郎の3人が大総代となり、高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及んだもの。直訴と言っても「要望書」を渡しただけ。まあ、高崎藩主からみれば「強訴」となるけど。

農民の要求は廃藩置県(明治4年:1871年)後に認められたが、大総代3人は明治3年(1870年)に斬首となっている。

百姓一揆というと過激な打ち壊しとかを想像しがちだが、極めて民主的に大総代を選出し整然と行動している。

高井喜三郎の墓 (2)
辞世は「吾人の為ともなれと身を捨てて いまいけにへとなりしうれしさ」。
享年42歳。

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高崎市山名町の山名八幡宮。

水戸黄門腰掛け石 (1)
山名八幡宮の境内に水戸黄門が腰を掛けたという石がある。

水戸黄門こと徳川光圀が越後高田家の騒動を治めた後、北国街道、中山道を経由し高崎城下に入り、逗留していた。その際に山名八幡宮を参拝したといわれ、その時に腰かけたのが写真の石だという。

その後、光圀一行は山名城から根小屋城方面に向かうのだが、その時に山賊に襲われていた母娘を助けたという。

まあ、いろいろ言われているが、全部作り話なのは言うまでもない。水戸藩藩主は江戸定府(参勤交代なし)であり、帰国するにも幕府の許可が必要だった。なので、光圀は江戸と水戸の往復程度しかしていない。

水戸黄門腰掛け石 (2)
この石が光圀の時代の物にはとても見えない。新しい三波石あたりじゃないの?(笑)。

最初の写真に写っている「神馬像」のように、山名八幡宮には意味不明な物もある。腰掛石もそのたぐいだね。

山名八幡宮関連
 「山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
 「高崎市吉井町・馬庭念流道場

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高崎市上並榎町の新比叡山天竜護国寺。

天竜護国寺 (1)
天竜護国寺 (2)
天竜護国寺は貞観6年(864年)比叡山延暦寺座主・慈覚の創建と伝えられる。延暦寺に模して建造されたので新比叡山と称した。

天竜護国寺 (3)
天竜護国寺 (4)
関東一の大伽藍で東国一の霊場といわれ、境内には僧坊が三百余りあったといわれるが、度重なる兵火により往時の面影はない。

享和3年(1803年)に中興の祖・一元が現在の形に再建したとされる。

天竜護国寺 (5)
天竜護国寺には、醍醐天皇が延長6年(928年)小野道風に書かせたといわれる扁額が残されている(高崎市の重文)。もちろん写真の扁額ではない。

天竜護国寺 (6)
本堂左手には舟形石棺が保存されている。これは明治25年(1892年)に近くの稲荷山古墳から発掘されたもの。稲荷山古墳は都市開発により、現在は住宅地などになってしまっている。

天竜護国寺 (7)
「信玄の鍋掛け石」。武田軍が箕輪城攻略時、天竜護国寺に駐留した際にこの石に鍋を掛けて煮炊きをしたというもの。確かに、それっぽい形をしている(笑)。

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高崎市上中居町の諏訪神社。

上中居諏訪神社 (1)
上中居諏訪神社 (2)
上中居諏訪神社創建の年代は不明だが、信濃国の諏訪大社より勧請された。

上中居諏訪神社 (3)
上中居諏訪神社 (4)
上中居諏訪神社 (5)
社殿は享保17年(1732年)、文久2年(1862年)に再建・建て替えの記録がある。大正7年(1918年)に幣殿・拝殿を造営し、現在の社殿の形態になっている。

上中居諏訪神社は、昔から「ひいらぎさま」といわれている。その名の通り、柊に取り囲まれているから。

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高崎市下小鳥町の首塚(枉寃旌表之碑)。

首塚 (1)
高崎環状線を走っていたら、「史跡 首塚入口」という案内板が目に入った。えっ、首塚?? まったくの初耳だったので、寄ってみることにした。首塚は環状線からちょっと入った所にあった。

首塚 (2)
枉寃旌表之碑(おうえんせいひょうのひ)というのが建っている。江戸時代初期高崎藩主・松平丹波守康長のころ、下小鳥村のほとんど罪もない村人たちが藩の役人武士たちに殺戮されたという言い伝えをもとに明治34年(1901年)建立された慰霊碑だという。

要約すると、藩主・役人武士がひどい政策を行ったため住民が反発し、それを武士が住民全員を惨殺するという挙にでたという。時に元和3年(1617年)のこと。但しこの事件は口伝で、それを裏付ける資料は見つかっていない。

藩主・松平康長は戸田家の出身で、徳川家康の異父妹・松姫と婚姻し、松平姓を賜ったとされる(戸田松平家)。康長は事件のあったといわれる前年(元和2年:1616年)に高崎藩に移封されたが、翌年(事件の年)には信濃松本藩に移されている。

たった1年で移封されていることから、考えようによっては事件の責任を取らされてのこととも考えられる。松平という家康の親戚筋のため、ことを荒立てずに処理された?

権力者側が行ったことが記録に残らないようにすることはできたが、さすがに伝承として伝わることまでは防げなかったということかな。まあ、真相は藪の中ではあるが・・・。

ちなみに、康長は実直で穏やかな人柄だったといわれていることを付記しておく。

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高崎市八幡町の神通山大聖護国寺。

大聖護国寺 (1)
大聖護国寺は建保3年(1215年)定弘の建立と伝わる。定弘は醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、不動明王像を下賜された後、当地に下向し大聖護国寺を開基したという。

大聖護国寺 (2)
寛永年間(1624~45年)まで八幡八幡宮の別当寺であった。

大聖護国寺 (3)
大聖護国寺 (4)
寛文元年(1661年)、徳川綱吉が館林藩主になると、綱吉の母・桂昌院は帰依していた僧・亮賢を招き、大聖護国寺の住職(第24世)とした。延宝9年(1681年)には、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて音羽護国寺を開かせている。

現在の大聖護国寺はかなりひなびたお寺になっている。江戸時代(特に徳川綱吉時代)の繁栄を考えるとちょっと残念かな。

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高崎市石原町の桜塚古墳。

桜塚古墳 (1)
桜塚古墳 (2)
桜塚古墳は東京農大二高先の鶴辺団地内に残る径21.6m、高さ6.9mの円墳。詳細については発掘調査が行われていないため不明。

桜塚古墳 (4)
墳丘上に彼岸桜の老樹があり、このことから桜塚と呼ばれている。

桜塚古墳 (3)
桜の木の脇に建武5年(1338年)銘の板碑が建っている。以前は、康永2年(1343年)明の板碑もあったが、現在は残っていない。

ところで、建武5年というのは北朝の年号で、南朝は延元3年。建武というと後醍醐天皇(南朝)のイメージだが、後醍醐天皇の建武の新政は2年で崩壊し、天皇は2年で延元に改元した。しかし北朝の光明天皇は5年まで建武を使った(同年暦応に改元)。

後醍醐天皇が武家の力を背景に、北朝の光厳天皇の即位と元号・正慶を無効にしたため北朝も建武を使っていた。後醍醐天皇の方が先に建武をやめてしまったという皮肉。

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