Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市町屋町と高崎市楽間町の宝塔。

町屋の宝塔
町屋の宝塔は高さ230cm、幅62cmと比較的大型の宝塔。安山岩製でその塔身は壺型をしている。一般に赤城塔と呼ばれる宝塔。永享11年(1439年)の銘がある。

町屋の宝塔は宝福寺参道の町屋公民館脇にある。気づかないで境内から墓地まで行ってしまった。

楽間の宝塔
町屋町から烏川を挟んで北東にあたる楽間町の宝塔。3基の宝塔はいずれも高さ160cmほどで、塔身が短く下部が細くなる壺型(半球形)をしている。向かって左から永享9年(1437年)、嘉吉3年(1443年)、正長3年(1430年)の銘がある。

楽間の宝塔は、元々近くの笹藪の中にあったが、現在は井野家の墓地内に移されている。

町屋・楽間の宝塔は、いずれも同年代(室町時代)の造立で、当地一帯(烏川の両岸)に真言密教と結びついた榛名山信仰の影響があったと考えられる。

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高崎市下佐野町の漆山古墳。

漆山古墳 (1)
漆山古墳 (2)
漆山古墳は全長約70mの前方後円墳であったと推定されるが、現在は前方部が大きく削平され、墳丘は東西38m、南北31m、高さ7.5mほどになっている。6世紀後半の築造と推定される。

漆山古墳 (3)
漆山古墳 (4)
漆山古墳 (5)
埋葬施設は横穴式石室で後円部南側に開口している。凝灰岩を加工して造られており、全長7.8m、玄室長3.7m。内部から刀、鉄鏃の破片、金銅製の馬具などが出土している。

当地には6世紀後半に「佐野屯倉」が設置されており、その管理者が被葬者ではないかと考えられている。山名町の山ノ上碑や金井沢碑に刻まれる「佐野屯倉」「三家子◯」の文字との関連が窺われる。

漆山古墳は佐野古墳群の中心的古墳で、周りが住宅地になるなか地主さんの意向で何とか保存されてきた。平成28年(2016年)に高崎市へ寄贈されている。

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高崎市寺尾町の太白山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺は新田氏の祖・義重が開創した永福庵が始まりと伝わる。

永福寺 (3)
永福寺 (4)
永福寺 (5)
堂宇は大正7年(1918年)に火災により焼失。昭和3年(1928年)に再建されている。但し、山門のみ火災を免れ天明3年(1783年)の建立時の姿を残している。本堂屋根には新田氏の家紋「大中黒」が。

永福寺 (6)
永福寺 (7)
梵鐘は享保7年(1722年)に鋳物師・中林儀右衛門惟貞の鋳造。総高106cm、口径64cm、撞座には菊のご紋が使用され、池の間には仏語などが刻まれている。先の大戦時に供出を免れている。

永福寺 (8)
永福寺 (9)
境内の観音堂。永福寺は昭和55年(1980年)に開創された新選高崎33観音の8番札所になっている。

永福寺 (10)
永福寺 (11)
墓地には新田義重の墓がある。

源頼朝が挙兵した際、義重はすぐに参陣せず日和見的な態度をとったため、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因となった。頼朝挙兵時、義重は寺尾城(館)に籠もっていたとされ、その「寺尾」には太田・新田荘説と高崎寺尾説がある。どちらも決め手に欠けるのだが、どちらにも地元有志が建てた碑や説明板などがある。

なお、永福寺には義重の法号を記した位牌が残されている。

新田義重の墓関連
太田金山 子育呑龍」(太田市金山町・大光院新田寺)
畑の中の古墓 -伝新田義重夫妻の墓-」(太田市徳川町・義季館跡)
新田氏累代の墓 -円福寺-」(太田市別所町・円福寺の五輪塔・石塔群の中に義重の墓があるとする説もある)

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高崎市(旧郡部を除く)

高崎市井野町・井野神社
高崎市日高町・富士神社
高崎市新保田中町・八幡神社
山幸彦を祀る旧魚取神社 -幸宮神社-
縁起だるまの少林山 -達磨寺-
高崎市西横手町・明徳元年銘の宝篋印塔
中尾総鎮守 -中尾飯玉神社-
弘法大師御作の毘沙門天像 -眼聖寺-
高崎市岩鼻町・北向子育て観音
高崎市岩鼻町・赤城神社
高崎市上大類町・瑠璃光山安楽寺
源頼朝ゆかりの寺 -円福寺-
源頼朝の創建? -八幡原若宮八幡宮-
高崎市東中里町・火雷若御子神社
源義家の創建・新田義重の建立 -柳原馬頭観音堂-
高崎市宿大類町・熊野神社
高崎市矢島町・彦島神社
熊の墓 -妙音寺-
高崎の鬼門鎮護 -五霊神社-
高崎市山名町・山ノ上地蔵尊
高崎市山名町・来迎阿弥陀画像板碑
高崎五万石騒動義人堂
酒井家次の開基 -向雲寺-
足利尊氏の守護仏を祀る -延養寺-
群馬県立歴史博物館 企画展とテーマ展示
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
群馬県立歴史博物館 リニューアル後初訪問
井戸から出てきた八幡菩薩像 -井戸八幡宮-
新町宿から購入した灯籠 -大八木諏訪神社-
正観寺遺跡群 祭祀巨石
古鏡を祀る -鏡宮神社-
高崎市最大・最古の板碑 -妙典寺-
高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓
高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-
高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
水戸黄門腰掛石 -山名八幡宮 その2-
信玄の鍋掛け石 -天竜護国寺-
上中居総鎮守 ひいらぎさま -上中居諏訪神社-
下小鳥村の首塚 -枉寃旌表之碑-
八幡八幡宮の別当寺 -大聖護国寺-
彼岸桜の老樹が護る -桜塚古墳-
高崎市・少林山薬師塚古墳
高崎市・少林山天頭塚古墳
高崎市・八幡原A号及びB号石槨
高崎市・剣崎長瀞西古墳
七士殉職供養塔
帝国陸軍特別大演習 -山名御野立所跡-
防火の神様 -高崎南町・愛宕神社-
群馬県出身の殉国の英霊を祀る -群馬県護国神社-
菊地町のウナギ伝説 -抜鉾神社-
酒井雅楽頭から拝領した松 -萩原の大笠松-
彦狭島王の墳墓? その2 -将軍塚古墳-
小栗上野介忠順の養嗣子・又一忠道の墓
軍師・山本勘助の子孫の墓 -大雲寺-
和田氏の菩提寺 -興禅寺-
高崎・和田の三石
高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-
お染の墓 -高崎市木部町・安楽寺-
木部範虎の墓 -心洞寺-
木部白満の墓 -光台寺 その2-
山名氏館跡??? -光台寺-
乃木稀典揮毫の忠魂碑と東条英機揮毫の忠霊塔
稲川政右衛門の墓 -常安寺 その2-
豊岡藩陣屋跡 -常安寺-
源頼義・義家父子の建立 -若宮八幡宮-  
群馬シンフォニーホール
ここに泉あり -群馬音楽センター-
藩主のお宝 -頼政神社 その2-
六郷・長野郷の総鎮守 -烏子稲荷神社-
「すさのお」とは読めない -進雄神社-
行き止まりの高架橋 -岩鼻軽便鉄道跡-
ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-
群馬県立歴史博物館
旧井上房一郎邸 -高崎市美術館-
高崎市綿貫町・普賢寺裏古墳
高崎市綿貫町・不動山古墳
高崎市倉賀野町・浅間山古墳
高崎市倉賀野町・大鶴巻古墳
七仏薬師如来 -安楽寺-
岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓 -高崎岩鼻・観音寺-
古き良き時代の旅館 -豊田屋旅館-
税金バベルの塔 -高崎市役所-
内村鑑三家の墓 -高崎若松町・光明寺-
高崎市民の憩いの場 -高崎公園-
徳川忠長自刃の部屋 -長松寺-
井伊直政の伯母のお寺 -恵徳寺-
高崎の総鎮守 -高崎神社-
茶舗・水村園 -小見家住宅-
旧威徳寺の内陣があるけど・・・ -光徳寺-
ネオ・ゴシック風教会 -高崎聖オーガスチン教会-
群馬で唯一建物が残る城址 -高崎城址-
土蔵のような外観 -高崎あら町・諏訪神社-
倉賀野の総鎮守 -倉賀野神社-
飯盛り女の墓 -九品寺-
江原源衛左門重久の墓 -慈眼寺-
上野国七之宮 -小祝神社-
彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-
天狗が守る神社 -琴平神社-
井上保三郎の墓 -荘厳寺-
八幡霊園内にあります -若田原遺跡-
長野氏ゆかりの屋敷址 -北新波砦址-
長野氏累代の墓 その2 -来迎寺-
徳川忠長の墓 -大信寺-
中曽根康弘資料館
私は日本の文化を愛す -洗心亭-
こんな所にあったのね -中山道一里塚-
山田徳蔵氏のコレクション -山徳記念館-
浦島太郎のいる庭園 -徳明園-
深山幽谷の趣 -洞窟観音-
坂上田村麻呂の開基 -清水寺-
元ロシア人兵士の墓 -龍廣寺-
高崎という地名の由来 -龍廣寺-   
源氏ゆかりの社 -八幡(やわた)八幡宮-
上豊岡の茶屋本陣
見事な山門の天井絵 -養報寺-
倉賀野城主・金井秀景の墓 -永泉寺-
水上交通の要 -倉賀野河岸跡-
山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
歌聖・藤原定家を祀る -定家神社-
佐野の舟橋歌碑
いざ鎌倉へ -常世神社-
戦時中の教科書を見よう -高崎市歴史民俗資料館-
懐中電灯を貸してくれる資料館 -観音塚考古資料館-
群馬の石舞台? -観音塚古墳-
源三位を祀る -頼政神社-
最後の上野三碑 -山ノ上碑-
上野三碑 -金井沢碑-
社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-
高崎市・観音山古墳

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高崎市井野町の井野神社。

井野神社 (1)
井野神社 (2)
井野神社は元亀2年(1571年)に熊野神社として創建。明治40年(1907年)に諏訪神社、石上神社を合祀し井野神社と改称している。

現在の鳥居は平成16年(2004年)の建立。

井野神社 (3)
井野神社 (4)
井野神社 (5)
社殿は諏訪神社などを合祀した際に改築されたが(明治40年)、昭和34年(1959年)に倒木により倒壊。昭和42年(1967年)に再建されている。

井野神社 (6)
境内の大銀杏。高さ20m、目通り9mで、樹齢350年と推定される。

根元よりホラ貝とされる貝類が出て、参拝者はこれを魔除けのお守りとして持ち帰ったという。太古、この辺りは貝塚だったのかなぁ。

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高崎市日高町の富士神社。

富士神社 (1)
富士神社は永禄2年(1559年)の創建と伝わる。

富士神社 (2)
灯籠は平成14年(2002年)の奉納。

富士神社 (3)
富士神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和59年(1984年)の奉納。社殿の建立年などは分からない。

富士神社 (5)
境内の片隅にあまり見かけない像容の石仏があった。自信はなののだが、似た石仏を渋川市北橘町分郷八崎の東円山観音堂で見かけたのを思い出した。東円山観音堂の石仏は地蔵菩薩像だったので、これも地蔵菩薩かな。(「渋川市北橘町・東円山観音堂」参照)

富士神社 (6)
富士神社 (7)
余り広くない境内だが、子ども達のための遊具(ブランコ・鉄棒・滑り台)が設置されている。

富士神社のご祭神は木之花咲久夜毘嬪命(木花咲耶姫)なので、富士浅間神社の富士だけが残ったのだと思う。群馬県内では富士浅間神社・浅間神社は多いが、富士神社の名称は少ない。昔は富士塚もあったのかな。

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高崎市新保田中町の八幡神社。

新保田中八幡神社 (1)
新保田中八幡神社は、天正18年(1590年)八幡八幡宮より分霊を勧請。

新保田中八幡神社 (2)
新保田中八幡神社 (3)
社殿の建立年などは不明だが、明治期かな。

新保田中八幡神社 (4)
新保田中八幡神社 (5)
明治41年(1908年)に近隣の稲荷神社、諏訪神社を合祀している。

新保田中八幡神社 (6)
八幡神社の傍らには井野川(?)が流れており、趣のある橋も架かっている。川にはちょっとした堰があるが、ペットボトルなどのゴミが大量に引っかかっている。川にゴミを捨てるのはやめよう!

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高崎市下小鳥町の幸宮神社。

幸宮神社 (1)
幸宮神社 (2)
幸宮神社は応永年間(1394~1428年)に魚取神社として創建したと伝わる。上野国神名帳に記載される「魚取明神」は当社とされる。

鳥居は正徳2年(1712年)の建立で、石造鳥居としては高崎市内でも古い部類に入る。

幸宮神社 (3)
幸宮神社 (4)
幸宮神社 (5)
幸宮神社 (6)
社殿は明和5年(1768年)に焼失の記録が残る。その後、安永8年(1778年)、寛政7年(1795年)に再建されているようだ。平成28年(2016年)には社殿や境内含め、大改修が行われている。

なお、社殿が鎮座しているのは「六郷村6号墳」の墳丘上になる。6号墳は全長36mの前方後円墳との記録が残るが、ほぼ開削されているようで遺構はなさそうだ(素人目には分からない)。多分、隣の下小鳥公民館の敷地と合わせると、記録くらいの領域になると思われる。

幸宮神社 (7)
境内にある石祠には応永17年(1410年)の銘があり、「御本宮」(創建時の祠)とされる。これは上記由緒を裏付けるものである。

幸宮神社 (8)
幸宮神社には高崎市の重文に指定されている算額が残されている。文政7年(1824年)の奉納で、奉納者は山田詮左衛門ほか15人。社殿内に保管されているため、日ごろは見ることが出来ない。

ところで、タイトルの「山幸彦を祀る旧魚取神社」っておかしくない? と感じるかもしれないが、幸宮神社のご祭神の一柱に彦火々出見命がおられる。これは山幸彦で知られる。旧名「魚取神社」から想像するに、兄の海幸彦(火闌降命)がご祭神ならすっきりする。海幸彦は釣針を持ち、魚を捕るのが得意。創建時は海幸彦がご祭神だった? それとも両神ともご祭神だった?

幸宮神社と名称変更された時期は分からないが、「幸」を持っている神の宮と思われる。この「幸」は海幸彦の釣針、山幸彦の弓矢を言う。

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高崎市鼻高町の少林山達磨寺。

達磨寺 (1)
達磨寺 (2)
達磨寺の開創は不詳。伝承では、当地に古くから観音堂があり、碓氷川で見つかった光る香木を納めておいたところ、延宝8年(1680年)に一良居士という行者が、その香木から達磨大師の座禅像を彫り安置したのが始まりとされる。元禄10年(1697年)に前橋城主・酒井忠挙により、前橋城の裏鬼門を護る祈願所として寺院建立を発願。心越禅師を開山とし、天湫和尚を水戸から招き達磨寺とした。

明治期に隠元禅師を中興開山とし、黄檗宗に改宗し現在に至っている。隠元はインゲン豆を日本に伝えたとされる日本黄檗宗の開祖。当然のことながら、隠元の年代とは異なるが(江戸初期の人)、開祖などを開山とすることはよくあるらしい。

総門は平成9年(1997年)の建立。中央の屋根を高くし、左右を低くした牌楼(はいろう)式と呼ばれる中国様式の山門。窟門(写真右の白壁部の門)をくぐると、女坂と呼ばれる石段を迂回して境内に行き着く道がある。

達磨寺 (3)
県道沿いのコミカルなだるま型の案内板。

達磨寺 (4)
達磨寺 (5)
急で長い石段(165段)。脇には不動明王像。

達磨寺 (6)
達磨寺 (7)
石段を登り切ったところにある鐘楼(写真は境内側から)。梵鐘は「招福の鐘」と名付けられている。

達磨寺 (8)
達磨寺 (9)
講堂。昭和2年(1927年)の建立。達磨大師を本尊として祀る研修道場。

達磨寺 (10)
達磨石。謂れなどは分からない。

達磨寺 (11)
達磨寺 (12)
霊符堂(本堂)や達磨堂に上っていく石段前にある玄武灯籠。亀に大蛇が巻き付いた様式。

達磨寺 (13)
達磨寺 (14)
本堂にあたる霊符堂。明治44年(1911年)の再建。北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を祀り、心越禅師を安置する。北辰鎮宅霊符尊は北極星と北斗七星を神格化した方位除けの守護神。

達磨寺 (15)
達磨寺 (16)
多数のだるまが納められている。「中山秀征」「布袋寅泰」「群馬県警」「東進ハイスクール」「FC東京」などの名入りだるまも見られる。

達磨寺 (17)
達磨寺 (18)
達磨堂。大山立修氏の達磨コレクションの寄贈が縁となり、昭和61年(1986年)の開堂。

達磨寺 (19)
達磨寺 (20)
日本各地のだるまなどを展示している。

達磨寺 (21)
群馬が誇る3首相(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三)の名入りだるまも。

達磨寺 (22)
達磨寺 (23)
達磨寺 (24)
十一面観音を祀る観音堂。開創当時は経蔵として建立されたが、寛政4年(1792年)に北辰鎮宅霊符尊を祀る霊符堂に改修された。現在の観音堂はこの時のものとされる。その後、霊符堂が建立され北辰鎮宅霊符尊が遷され、観音堂となっている。

達磨寺 (25)
達磨寺 (26)
観音堂周辺には130体ほどの庚申塔が建っている(百庚申)。観音堂に北辰鎮宅霊符尊が祀られた寛政4年以降に建てられ、文化年間(1804~18年)のものが多い。

達磨寺 (27)
達磨寺 (28)
百庚申の脇にある「招き猫の木」。ネコに見えなくもない?

縁起だるまは達磨寺が発祥とされる。天明3年(1783年)の浅間山の噴火に伴う飢饉で、農民の生活は困窮を極めていた。この惨状を見かねた達磨寺9世・東獄和尚は開山・心越禅師の描いた「一筆達磨座禅像」を元に木型を彫り、張り子だるまの作り方を農民に伝授した。これが現在の「縁起だるま」の発祥とされる。

達磨寺関連
 「高崎市・少林薬師塚古墳
 「高崎市・少林山天頭塚古墳
 「私は日本の文化を愛す -洗心亭-

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高崎市西横手町の宝篋印塔。

明徳の宝篋印塔
宝篋印塔は明治5年(1872年)に廃寺となった西福寺跡にあり、明徳元年(1390年)の銘がある。明徳は北朝の元号。

高さ2.9mと県内でも最大級の大きさで、笠が2つある二重式宝篋印塔、あるいは須弥壇式宝篋印塔と呼ばれる形をしている。この形は、群馬県と埼玉県北部にのみ分布する特殊な形式である。

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高崎市中尾町の飯玉神社。

中尾飯玉神社 (1)
中尾飯玉神社は延暦3年(784年)の勧請・創建と伝わる。長い社歴を誇る古社である。

中尾飯玉神社 (2)
明治41年(1908年)に村内の菅原神社、諏訪神社を合祀している。当地は中尾町の天神地区と言い、菅原神社は「中尾の天神さま」と親しまれていた。

中尾飯玉神社 (3)
中尾飯玉神社 (4)
社殿は氏子の三吉野検校が多額の寄付をし、天保年間(1831~45年)に再建されている。三吉野検校は当地に生まれ、不幸にも目の病を得て失明したものの勉学への志を失わず、江戸や京で学び帰郷後には多くの門弟を育てている。

中尾飯玉神社 (5)
中尾飯玉神社 (6)
社殿に彫刻が施され荘厳な装いを見せているのは、検校や氏子の敬神崇祖の念をよく表している。

中尾飯玉神社 (7)
一ノ鳥居前の双体道祖神。風化が進んでいるので、覆屋的なものを掛けてやった方がいいと思う。

江戸時代には歴代高崎藩主(酒井家・戸田松平家・安藤家・大河内松平家など)の崇敬を受けたという。

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高崎市矢島町の神動山眼聖寺。

眼聖寺 (1)
眼聖寺は康永3年/興国5年(1344年)覚日法印の開山。康永は北朝、興国は南朝の年号。

眼聖寺 (2)
山門に花鳥風月の天井絵が描かれている。

眼聖寺 (3)
眼聖寺 (4)
本堂は文政7年(1824年)の建立とされる。昭和に入ってから数度の改修・改築を経ている。

眼聖寺 (5)
眼聖寺 (6)
眼聖寺 (7)
弘法大師(空海)御作とされる毘沙門天像を祀る毘沙門堂。事実なら平安時代初期の像になる。県内には弘法大師作と伝わる仏像はいくつかあるけど・・・。

眼聖寺 (8)
眼聖寺 (9)
境内の不動明王像。比較的新しそうだ。

ところで、高崎市元島名町にも同名の神動山眼聖寺がある。どちらも高野山真言宗(真言宗の中にも様々な宗派がある)。矢島町と元島名町は隣接しており、2つの眼聖寺は距離的にも1km位しか離れていない。

眼聖寺2 (1)
元島名町の神動山眼聖寺。由緒は分からないが、矢島町の眼聖寺と同じ?

眼聖寺2 (2)
眼聖寺2 (3)
本堂は平成13年(2001年)の新築。

眼聖寺2 (4)
境内の六地蔵は昭和55年(1980年)の奉納。

眼聖寺2 (5)
境内には子供用の遊具が設置されている。境内はそこそこ広いので、近隣の子ども達の遊び場になっているのかな。

矢島町と元島名町の眼聖寺の関係は分からないが、同じ宗派で同じ山号・寺号なので本院と分院なのかなぁ。偶然ってことはないと思うが。

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高崎市岩鼻町の北向き子育て観音。

岩鼻北向観音 (1)
岩鼻北向観音 (2)
岩鼻北向観音 (3)
岩鼻北向子育て観音(正式名称がある?)の由緒は不明。お堂前の灯籠の銘は文政3年(1820年)だったので、江戸期には既に当地に根付いていたようだ。

岩鼻北向観音 (4)
岩鼻北向観音 (5)
岩鼻北向観音 (6)
お堂の彫刻は立派だ。作者などは分からない。

岩鼻北向観音 (7)
ご本尊の如意輪観音。如意輪観音は安産・子育てに御利益があるとされ、女人講(子育てや安産祈願)の本尊としても信仰されてきた。

毎年8月20日に「岩鼻町子育観世音大祭」が開催され、約3500発の花火が打ち上げられる。昨年(2018年)がお祭が復活して92年とあったので、大正15年(1926年)頃に復活したようだ。

花火を「煙火」と書くあたりに歴史を感じる。岩鼻には群馬の森を中心に、昭和20年(1945年)までは旧陸軍の弾薬製造工場があったので、それも関連してるのかな。

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高崎市岩鼻町の赤城神社。

岩鼻赤城神社 (1)
岩鼻赤城神社 (2)
岩鼻赤城神社の創建は不詳だが、三夜沢赤城神社から豊城入彦命の分霊を勧請したもの。

岩鼻赤城神社 (3)
岩鼻赤城神社 (4)
二ノ鳥居は合祀された稲荷神社のもの。稲荷神社は寛政6年(1794年)に江戸幕府代官・吉川栄左衛門が岩鼻陣屋を設立した際、管内農桑業の幸福を祈念し坂上北(字名)に創建。坂上北は岩鼻陣屋があった場所。現在は日本火薬の社宅やクラブがある辺り。明治28年(1895年)岩鼻赤城神社に合祀されている。

岩鼻赤城神社 (5)
二ノ鳥居には大きく「山本大膳源雅直」の名が。山本大膳は第4代の岩鼻代官。

岩鼻赤城神社 (6)
岩鼻赤城神社 (7)
拝殿は昭和41年(1966年)に瓦屋根への葺き替えなど改修されてる。

岩鼻赤城神社 (8)
拝殿前の狛犬はすっかりすり減って、可愛い子犬の石像のようになっている。

岩鼻赤城神社 (9)
本殿は神明造りで、棟持柱が建物の外に独立している。これは全国的に非常に珍しい建築様式である。本殿は昭和60年(1985年)に屋根を銅板に葺き替え、平成9年(1997年)に土台補強を行っている。

岩鼻赤城神社 (10)
神楽殿。

岩鼻赤城神社 (11)
社殿裏の大ケヤキ。ご神木かな。

岩鼻赤城神社 (12)
岩鼻赤城神社 (13)
境内社の巣黒神社。元の鎮座地が旧陸軍の火薬製造場用地となったため、明治13年(1880年)岩鼻赤城神社境内に遷座している(合祀ではないようだ)。今の群馬の森、日本化薬、高崎量子応用研究所(旧原研高崎)の一帯が火薬製造場だった(量子応研のところは後の拡張域)。

関連
 「社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-
 「岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓 -高崎岩鼻・観音寺-
 「ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-

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高崎市上大類町の瑠璃光山安楽寺。

瑠璃光山安楽寺 (1)
安楽寺は明徳2年(1391年)伝燈阿闍梨法印権大僧都・恵蔵の開山と伝わる。すごい高僧なのかな。肩書きがすごい。

瑠璃光山安楽寺 (2)
瑠璃光山安楽寺 (3)
門前に庭園が造られており、東屋の他に村上鬼城の句碑(遠山の 焼け移りけり 月おぼろ)があった。

瑠璃光山安楽寺 (4)
瑠璃光山安楽寺 (5)
山門には立派な鯱(しゃちほこ)が乗っている。

瑠璃光山安楽寺 (6)
瑠璃光山安楽寺 (7)
本堂は明暦年間(1655~58年)の建立と群馬郡誌(大正14年:1925年)にあるが、現在の本堂を見ると近年再建されているようだ。まあ、常識的に考えれば、明暦年間の木造本堂が残っているのは難しいね。

瑠璃光山安楽寺 (8)
瑠璃光山安楽寺 (9)
瑠璃光山安楽寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像は厨子の中らしく、見えなかった。

慶安2年(1649年)に徳川3代将軍・家光からご朱印26石1斗を賜ったとの記録が残る。

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高崎市八幡原町の八幡山円福寺。院号は頼朝院。

円福寺 (1)
円福寺は江戸時代初期に円光寺と長福寺が合併し円福寺となっている。合併開基の乗慶法印の入寂は慶安4年(1651年)。

前回の「八幡原若宮八幡宮」でも書いたが(「源頼朝の創建? -八幡原若宮八幡宮-」参照)、源頼朝が浅間山麓での巻き狩りからの帰途に病にかかり、当地を鎌倉になぞらえた土地にすれば病は治ると占いで出たため、八幡宮を勧請したら快癒したとされる。病に伏せった頼朝が休んだのが長福寺といわれる。浅間の巻き狩りは建久4年(1193年)なので、長福寺の創建はそれ以前となる。

円福寺 (2)
本堂は昭和4年(1929年)に火災で焼失、昭和13年(1938年)に再建されている。

円福寺 (3)
殿鐘には「西上州八幡山頼朝院長福寺願主法印乗舜」の銘がある。長福寺が八幡山頼朝院で、そのまま円福寺に引き継がれたことが分かる。

円福寺 (4)
円福寺 (5)
境内は庭園風に整備されており、一部の木には雪吊が施されている。まあ、この辺では余り雪は降らないと思うけど。

円福寺 (6)
境内の宝塔。享保15年(1718年)の銘があった。

円福寺 (7)
本堂裏には小さい円墳が残されている。

円福寺 (8)
円福寺 (9)
円福寺 (10)
円墳上には観音堂がある。観音様のいわれは分からないようだ。

円福寺 (11)
観音堂への石段脇には、多数の石仏が並んでいた。

明治末までは八幡原に「頼朝塚」と呼ばれる高さ4~5mの丘陵があり、丘上には古碑が建っていたという。その後、開墾され畑になったので碑は円福寺に移されている。と言うことなので探してみたが、見つからなかった。当時、既に碑文は読めないほど風化していたというので、見つけても読めないから分からないか。

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高崎市八幡原町の若宮八幡宮。

八幡原若宮八幡宮 (1)
八幡原若宮八幡宮 (2)
八幡原若宮八幡宮 (3)
八幡原若宮八幡宮は建久年間(1190~98年)に源頼朝が鶴岡八幡宮の分霊を勧請したと伝わる。八幡原の地名の元になった古社である。鳥居は平成28年(2016年)の建立。

八幡原若宮八幡宮 (4)
八幡原若宮八幡宮 (5)
八幡原若宮八幡宮 (6)
八幡原若宮八幡宮 (7)
余り広くない境内に、質素な社殿が建っている。いかにも鎮守の森といった雰囲気が漂う。

八幡原若宮八幡宮 (8)
神楽殿がある。この辺でも養蚕神楽が行われていたようだ。現在も行われいるかは分からない。

八幡原若宮八幡宮 (9)
八幡原若宮八幡宮 (10)
社殿裏の様子が古墳を思わせる。円墳のようだが、社殿で半分くらい削られている。

ところで、口碑によると源頼朝が浅間山麓での巻き狩り(建久4年:1193年)からの帰途に病にかかり、当地を鎌倉になぞらえた土地にすれば病は治ると占いで出たため、八幡宮を勧請したら快癒したとされる。

確かに、綿貫町から八幡原町に向かう旧例幣使街道の井野川に架かる橋は鎌倉橋だし、その先の緩やかな坂道は鎌倉坂と言う。

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高崎市東中里町の火雷若御子神社。

火雷若御子神社 (1)
火雷若御子神社 (2)
火雷若御子神社は火雷神社(玉村町)の分霊を勧請したものだが、その年代は不詳。ただ「上野国神名帳」に「従五位上 火雷若御子明神」と記載されているので、それなりの古社だと思う。

火雷若御子神社 (3)
火雷若御子神社 (4)
火雷若御子神社 (5)
主祭神は火産霊命だが、後に保食命(宇気母智命)を合祭した際、中里神社に改称されたが(こちらも年代不明)、明治28年(1895年)に火雷若御子神社に復称している。

火雷若御子神社 (6)
火雷若御子神社 (7)
拝殿内には明治38年(1905年)奉納の絵馬が2枚あった。1枚目の題材は分からないが、2枚目は明治天皇かな。

火雷若御子神社 (8)
火雷若御子神社 (9)
拝殿には「神楽殿」の扁額が掲げられているが、神楽殿は取り壊されたようだ。跡地を示す看板が立っている。

火雷若御子神社 (10)
境内に芭蕉の句碑があった。「稲妻に さとらぬ人の 尊さよ」。神社名にちなんだ句を選定したのかと思ったが、句意は「稲妻を見て何かを悟ったような顏で物言う人より、何も思わずに無心でいる人の方が尊いのだ」みたいな感じ。

火雷若御子神社 (11)
ご神木の大ケヤキ。

ところで、「若御子」と付いている意味は不明。調べると、「上野国神名帳」には当社以外にも「諏訪若御子」「抜前若御子」「赤城若御子」「榛名若御子」「倭文若御子」「白羅根若御子」など多数あり。

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高崎市南大類町の柳原馬頭観音堂。

柳原馬頭観音堂 (1)
柳原馬頭観音堂の創建は不詳。言い伝えでは寛治3年(1089年)源義家東征の際、当地で義家の乗った馬が蹄を痛め進めなくなってしまった。そこで義家は京都・清水観音を遙拝、その快癒を祈願したところ柳叢(叢は草むらの意)の上に馬頭観音が現れ、馬の蹄は平癒した。感激した義家は、仮堂を建立し馬頭観音を安置し柳の木を植え奥羽に向かった。

その後、義家の孫にあたる新田義重が壮麗な殿堂を造営し、人々は柳原観音堂と称し参詣する人が絶えなかったという。

ちなみに、後三年の役は寛治元年(1087年)に終結しているけど、まあ誤差の範囲かな。

柳原馬頭観音堂 (2)
柳原馬頭観音堂 (3)
現在の観音堂は嘉永5年(1852年)の建立。馬頭観音像は厨子の中のようだ。白馬の置物は享保20年(1736年)江戸・日本橋ねずみ屋製作と胎内に書かれている。鰐口には明暦2年(1656年)の銘がある。

柳原馬頭観音堂 (4)
柳原馬頭観音堂 (5)
柳原馬頭観音堂 (6)
柳原馬頭観音堂 (7)
柳原馬頭観音堂 (8)
観音堂には見事な彫刻が施されている。特に、龍の巻き付いた海老虹梁は躍動感あふれる傑作だ。また、柱や梁のすべての彫刻に寄付者の住所と名前が線刻されている。

柳原馬頭観音堂 (9)
観音堂の奥には聖徳太子の碑。大正11年(1922年)の建碑。

群馬県内には源義家の創建と伝わる神社(八幡神社など)が多数ある。東征のおり県内を通過したとの確証はないが、新田氏の勢力範囲内にそういう伝承が多く残っているのだと思う。なんと言っても八幡太郎義家は源氏の象徴的な棟梁なので。

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高崎市宿大類町の熊野神社。

宿大類町熊野神社 (1)
宿大類町熊野神社 (2)
宿大類熊野神社は慶長年間(1596~1615年)の創建と伝わる。現在の鳥居は昭和53年(1978年)の建立。

宿大類町熊野神社 (3)
鳥居をくぐると、そこは宿大類児童公園。公園の向こう側が境内になっている。元は熊野神社の境内の一部だったと思う。それを考えると、それなりの規模の神社だったはずである。

宿大類町熊野神社 (4)
宿大類町熊野神社 (5)
現在の社殿の建立年などは分からないが、かなり老朽化している。

宿大類町熊野神社 (6)
拝殿の屋根は瓦がずれ落ち、今にも崩れそうだ。当然、社殿周りへの立ち入は禁止。地元の鎮守的な神社はどこも資金不足で、すぐに修理できないんだろうな。

宿大類町熊野神社 (7)
宿大類町熊野神社 (8)
境内右奥の鳥居。

江戸時代、高崎藩主は厄年になると宿大類熊野神社で祈祷し、また旱魃などの時も当社に参り祈誓したというが、現状の社殿の状況を見るとちょっと残念。

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高崎市矢島町の彦島神社。

彦島神社 (1)
彦島神社 (2)
彦島神社は大永7年(1527年)の創建と伝わる。

彦島神社 (3)
彦島神社 (4)
彦島神社 (5)
元は諏訪神社で、明治40年(1907年)に地区内各社を合祀した際に彦島神社と改称している。そのため、主祭神は建御名方神である。

彦島神社 (6)
なぜか、灯籠などが境内の隅っこに置かれている。社殿前には新しい狛犬が置かれているので、隅に追いやられたのか?

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高崎市大八木町の慈眼山妙音寺。

妙音寺 (1)
妙音寺は元和9年(1623年)の創建。正徳3年(1713年)に融通寺を合併した際に、現在の妙音寺に改称している。

妙音寺 (2)
山門前のペンギンの石像。意味合いは不明だが、可愛いからOK?

妙音寺 (3)
本堂は延享4年(1747年)の建立。大正4年(1915年)に屋根の葺き替え、昭和61年(1986年)に大改修を行っている。

妙音寺 (4)
妙音寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。観音堂も延享4年の建立で、昭和61年に改修されている。

妙音寺 (6)
寛保2年(1742年)建像の釈迦如来坐像。寛保2年と言えば、台風による利根川の氾濫などで関東一円に大被害をもたらしている。その供養も兼ねての建像かな。

妙音寺 (7)
上記の釈迦如来坐像と並ぶようにある石塔には「先玉尊霊」とある。明治3年(1870年)8月の銘があり、山門前に出没した熊を村総出で退治した記念碑兼熊の墓(慰霊碑)だという。

当時のこの辺の山野は想像できないが、普通に熊が出る環境だったんだね。

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高崎市貝沢町の五霊神社。

五霊神社 (1)
五霊神社 (2)
五霊神社は和田正信が相模国三浦から鎌倉権五郎景正の分霊を勧請し、赤坂の地に祀ったのが始まりという。正信は熊野神社(現高崎神社)を寛元元年(1243年)に勧請しているので、五霊神社の勧請も同年と考えられる。

五霊神社 (3)
石段前の灯籠は、平成23年(2011年)の東日本大震災で倒壊したため、新たに奉納されたもの。

五霊神社 (4)
五霊神社 (5)
五霊神社 (6)
元禄8年(1695年)に時の高崎城主・大河内輝貞が高崎の鬼門除けとして現在地に遷座している。以来高崎城主の崇敬厚く、城主は毎年参内し領内の除災を祈願したという。

五霊神社 (7)
五霊神社の社殿は「五霊神社古墳」上に鎮座している。五霊神社古墳は約15mの周堀を持つ前方後円墳だが、後円部は削られており現在は前方部のみ45mが残っている。横穴式石室は角閃安山岩製で、副葬品も多数見つかっている。6世紀後半の築造と推定される。

五霊神社を勧請した和田正信は上野国和田氏の祖とされる和田義信か義国の子とされる。ついでに、ご祭神の鎌倉権五郎景正は平安時代後期の武将で、後三年の役(1083~87年)時に右目を射らながら奮闘した逸話が残っている。伊勢崎市には景正を祀る五郎神社がある。さらについでに、景正の子孫からは白井長尾氏が出ている。

関連
 高崎神社 「高崎の総鎮守 -高崎神社-
 上野国和田氏 「上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
 五郎神社 「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-
 白井長尾氏 「白井長尾氏累代の墓 -空恵寺 その2-

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高崎市山名町の山ノ上地蔵尊。

山ノ上地蔵尊 (1)
山ノ上地蔵尊の由緒は不明だが、「お陰地蔵」の異名がある。地蔵堂(?)は平成4年(1992年)に地元の方々の寄進により建立されている。手前にぶら下がっているのは、空き缶で作った風鈴みたいなもの。

山ノ上地蔵尊 (2)
地蔵尊は高さ1.5mほどの坐像。現在も地域の見守り地蔵として敬愛されている。

最初の写真の堂外右にあるのは「百万遍供養塔」で、享保年間(1716~36年)の建立。当地に疫病が流行した際、同じく山名町の光台寺から大数珠を借りて三日三晩念仏を唱えると、疫病は退散したという。

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高崎市山名町の来迎阿弥陀画像板碑。

来迎阿弥陀画像板碑 (1)
来迎阿弥陀画像板碑 (2)
板碑は祠のような覆屋内にあり、厳重に鍵が掛けられていて見ることはできない。

来迎阿弥陀画像板碑 (3)
解説版に載っている板碑拓本の拡大写真。板碑は高さ97.5cm、幅33cm、厚さ5cmで、剣菱形の緑泥片岩の上半に薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来を刻んでおり、下半に建治4年(1278年)の銘がある。

阿弥陀如来の頭部には放射状の頭光が線刻されている(この部分は拓本写真からも分かる)。印相は来迎印結び蓮座の上に立ち、信仰者の臨終を極楽浄土に迎える「阿弥陀来迎」の型式をとっている。

鉄扉に2つ丸い穴(窓)が開いているので覗けたのかもしれないが、何かあると嫌なのでやめておいた。

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高崎市東町の高崎五万石騒動義人堂。

五万石騒動義人堂 (1)
義人堂は高崎五万石騒動と呼ばれる農民一揆で犠牲になった農民代表を慰霊・顕彰するために、昭和38年(1963年)に建立されたもの。

五万石騒動は年貢の軽減を訴えた農民一揆。一揆と言っても「要望書」を提出しただけ。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた。明治2年(1869年)農民が高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及び、後に農民の要求は認められたが大総代3名が斬首、その他獄死4名など多くの犠牲者が出ている。

五万石騒動義人堂 (2)
レリーフのような碑は水原徳言氏の設計。水原氏はブルーノ・タウトとも親交があった建築家。他に頼政神社の内村鑑三の碑の設計者としても知られる。彫刻は元武蔵野美大教授・田中栄作氏。

五万石騒動義人堂 (3)
五万石騒動義人堂 (4)
五万石騒動の記録や犠牲者名がはめ込まれている。

五万石騒動義人堂 (5)
この彫刻は何を表しているのか、オレにはよく分からない。

当所は大総代3名が斬首された場所で、当時は無縁堂という高崎藩の荼毘所であった。毎年大総代2名が刑死した2月4日前後に「義人祭」が行われ、大総代を始めとした犠牲者の慰霊が行われている。

五万石騒動義人堂 (6)
義人堂の脇に猿田忠夫の墓(その他5名の名も)がある。猿田らは水戸天狗党の資金調達のため桐生・藤岡・下仁田などを荒らしたため、元治元年(1864年)高崎藩に捕縛され、翌元治2年に斬首されている。ここに猿田らの墓があるのは、無縁堂があった名残である。

ところで、上野群馬之助という名が刻まれているが、本名とは思えない。最後まで名前を含め口を割らなかったのかな?

関連
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
 「高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-
 「高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓

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高崎市下横町の東陽山向雲寺。

向雲寺 (1)
向雲寺 (2)
向雲寺は高崎藩主・酒井家次が開基、甘楽町の向陽寺4世・伝州忠的を招いて開山した。酒井家次が高崎藩主だったのは慶長9年(1604年)から元和2年(1616年)。

向雲寺 (3)
門扉に酒井氏の片喰紋(剣片喰)があしらわれている。

向雲寺 (4)
向雲寺 (5)
向雲寺 (6)
安藤重博が高崎藩主の時代(明暦3年:1657年~元禄8年:1695年)に現在地に移転し、伽藍を整備している。そのため、重博を中興開基としている。現在の本堂は昭和10年(1932年)の再建。平成25年(2013年)に改修されている。

向雲寺 (7)
向雲寺 (8)
境内のサンゴジュ(珊瑚樹)。きれいに剪定されているので本来の樹形ではないと思うが、上の写真のサンゴジュは樹高8.5m、幹周6.2m。

酒井家次は徳川四天王・酒井忠次の嫡子で、その家系は左衛門尉酒井家といわれる。前橋藩主で大老も務めた酒井忠世や忠清は雅楽頭酒井家。元は同じの兄弟家。両酒井家の家系では、江戸時代9家もが大名であった。

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高崎市あら町の吠瑠璃山延養寺。

延養寺 (1)
延養寺 (2)
延養寺は至徳年間(1384~87年)慶覚の開山で岩鼻村に創建。慶覚は足利尊氏が筑紫に逃れていた時の祈祷師だったといわれる。永禄4年(1561年)長野業政により箕輪城下に移転。慶長3年(1598年)井伊直政の高崎移転に伴い現在地に再移転している。

延養寺 (3)
延養寺 (4)
足利尊氏の守護仏であった薬師如来像(弘法大師作といわれる)を本尊としてきた。本堂は文政5年(1822年)の建立。

延養寺 (5)
境内の御伝馬事件供養碑。
文久2年(1862年)の大火により高崎城下一帯が大きな被害を受けた。高崎宿の伝馬は本町・田町・あら町が担っていたが、大火からの復興と伝馬業務の負担が重なり、あら町惣代が幕府に直訴に及んだ事件(御伝馬事件)。結果として刑死者こそ出なかったが、80人を超える町関係者が入牢などの処罰を受けた。このような経緯や、その後の復興内容などが記されている。

延養寺 (6)
羽鳥一紅の句碑。
一紅は下仁田の出身で、田町の絹問屋羽鳥家に嫁した俳人。

延養寺 (7)
延養寺には円空仏が寺宝として残されている。円空作と判明したのは平成6年(1994年)のことである。底面に梅の花が描かれていることから天神様(菅原道真)像とされる。円空作と判明する以前から寺宝となっていたのは、この像が足利尊氏像とされていたから。

富岡市黒川の不動堂にも、円空作の十一面千手観音像が残されている。
(「円空作の十一面千手観音立像 -黒川不動堂-」参照)

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高崎市綿貫町の群馬県立歴史博物館。
今回は企画展「すごいぞ! 江戸の科学」を見に行った。

企画展 (1)
第96回企画展「すごいぞ! 江戸の科学」は、地図・天文暦学・和算の発展に寄与した江戸時代の科学者たちの人物像とその功績を、肖像画や屏風・古地図などの様々な資料を通して紹介している。

実は、この企画展に知り合いのご先祖さまの遺物が出展・展示されているのだ。その方は江戸末から明治初年の人で、和算の大家にして大数学者。多数の門弟を持ち、自身や門弟が神社などに多数の算額を奉納している。

企画展 (2)
展示されているのは象限儀(展示No90)。測量機器で、円の4分の1の扇形をしており、これに望遠鏡をつけ天体を観測しながら現在地の緯度を割りだすもの。江戸時代の物なので木製。
*企画展は写真が撮れないので、象限儀は写ってないがパンフの写真でご勘弁を

テーマ展示 (1)
入ったついでに常設展展示も一廻り。最後のテーマ展示「塚廻りの埴輪 -小古墳群の美しき埴輪世界-」に興味を引かれた。塚廻り古墳群からは300体以上の埴輪が出土しており、その中の8体が展示されていた(すべて国の重文)。

テーマ展示 (2)
椅坐する男子。椅坐とは椅子に座り、足を降ろした姿勢のこと。帽子を被り籠手を着け、倭風太刀を備える。高さ82.3cm。塚廻り3号墳出土。

テーマ展示 (3)
椅坐する女子。腰に鈴鹿が身を着け、魔除けの鋸歯文を描いた太帯と襷を身につけている。巫女と考えられる。高さ68.9cm。塚廻り3号墳出土。

テーマ展示 (4)
椅坐する男子。首には玉飾り、袴には朱門の水玉文様。高さ64cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (5)
跪坐する男子。跪坐とは正坐姿勢のこと。籠手と腕輪を着け、太刀を帯びている。高さ49.4cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (6)
太刀を持つ女子。鋸歯文様の袈裟襷を掛け、右手に太刀を持つ。高さ78.7cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (7)
坏を持つ女子。首飾りは勾玉が多数付いている。高さ76.4cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (8)
右手を挙げる男子。帽子を被り腰紐のみのシンプルな衣装。馬子と考えられる。高さ76.6cm。塚廻り4号墳出土。

テーマ展示 (9)
飾り馬。鞍、輪鐙、手綱を付け、鈴付胸がい、杏葉も。高さ70cm。塚廻り4号墳出土。

「企画展」を見に行って、ついでの「テーマ展示」で塚廻り古墳群出土の埴輪が見られたのはラッキーだった。

関連
 「太田市・塚廻り古墳群第4号古墳

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上野三碑がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された(2017年)のを機に、多湖碑(高崎市吉井町池)、金井沢碑(高崎市山名町)、山ノ上碑(高崎市山名町)を再訪した。

多胡碑
多湖碑は和銅4年(711年)に多胡郡が設置され、その郡吏に羊太夫という人物が任命されたのを記念して造られたという説が有力。

以前の訪問は2010年(「上毛かるた紀行」)だが、変わったところは案内板がきれいになっていたことくらい。従来から「吉井いしぶみの里公園」として整備され、「多胡碑記念館」も併設されていたので。(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

金井沢碑 (1)
金井沢碑は神亀3年の(726年)の建碑で、高崎佐野にあった屯倉の管理者の子孫が、先祖の冥福を祈るため仏教に入信するという誓いが刻まれている。

金井沢碑 (2)
きれいな歩道(木道)が整備され、碑までの通路が大きく改善されていた。以前の訪問時(2010年)は、訪れる人もほとんどいないため、あぜ道のような通路はクモの巣だらけで、巣を払いながら登って行った。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

山ノ上碑 (1)
山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、隣の古墳(山ノ上古墳)に眠ると考えられている放光寺の僧・長利の母の墓誌と考えられている。
(「最後の上野三碑 -山ノ上碑-」参照)

山ノ上碑 (2)
山ノ上碑も道路から石段までの間にきれいな木道が整備されていた。また、石段周りも樹木が伐採され、すっきりしていた(前回訪問2010年)。

上野三碑を訪問した2010年は、「上毛かるた紀行」「上州まったり紀行」を始めた年で、紀行文を改めて読み直すと稚拙な文章で恥ずかしい。また、写真もひどいなぁ。

ところで、もともと三碑とも国の特別史跡に指定されていたにも関わらず、金井沢碑と山ノ上碑は歩道の整備に問題があった。それが「世界記憶遺産」登録を目指す一環として、2015年に木道やトイレなどが整備され、これだけきれいになった。やる気になればできるんだから、他の文化財保護などもよろしく。もちろん、高崎市以外も。

世界記憶遺産登録活動、そして登録で、どれくらい見学者(観光客?)が増えているか知らないが、碑を守ってきてくれた地域住民の方々への配慮も必要だね。特に山ノ上碑は少し狭い生活道を行くことになるので。

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