上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 伊勢崎市・佐波郡


伊勢崎市三和町の丸塚山古墳。

丸塚山古墳 (1)
丸塚山古墳 (2)
丸塚山古墳は全長81mの規模を誇り、後円部径58m、同高さ8mに対し、前方部前幅26m、同くびれ部幅41m、同長さ27m。後円部に対して前方部が幅、長さ、高さともに規模の小さい帆立貝式と呼ばれる前方後円墳である。5世紀後半の築造と推定される。

大正12年(1923年)、昭和30年(1955年)の2度にわたり発掘調査が行われている。その結果、箱形石棺が3個発見されている。石材は凝灰岩が2個、緑泥片岩が1個。時代を変え3人が埋葬されていたことになる(多分最初に1人、後に2人)。

ところで、古墳回りを一周したのだが、どこから見ても素人目には前方後円墳に見えない。また、開口部があるかなと思い墳丘に近づこうとしたが、周濠跡が田畑になっておりどうしても近寄れない。ちょっと残念だった。


伊勢崎市の上植木本町と本関町にまたがる上植木廃寺跡。

上植木廃寺 (1)
上植木廃寺は7世紀に建立され、11世紀ころまで現存した古代寺院。

明治22年(1889年)に付近を開墾した際に、寺院瓦や塔の心礎及び礎石(16個)が発見された。昭和57年(1982年)から発掘調査が行われ、寺域は南北238m、東西115mに及ぶことが判明。

中心伽藍は南北を溝、東西を柵列で画され、南門・中門に多重塔、金堂・講堂、講堂の北には食堂と考えられる掘立柱建物跡が確認されている。さらに「佐位」などの文字瓦を含め、多数の瓦(軒下瓦)が出土している。

上植木廃寺 (2)
現在は農地になっており、遺構らしきものは道からは見られない。

上植木廃寺 (3)
上植木廃寺 (4)
前回紹介した「建長石仏」の前に礎石7個が保存されている(他には相川考古館、上樹神社にもあるらしい)。(「伊勢崎市上植木本町・上植木の建長石仏」参照)

上植木廃寺は群馬県内で最も古い時代の寺院のひとつで、佐位郡に勢力を置いた有力豪族・檜前(ひのくま)部君の氏寺ではないかと考えられている。

上植木廃寺は明治の発見当時、上野国国分寺跡ではないかと話題になったらしい。確かに年代や規模では国分寺跡や山王廃寺跡に匹敵する古代寺院跡だ。上植木廃寺の南1kmのところには佐位郡の正倉跡が発見されており、この辺りに佐位郡の郡衙施設があったと考えても差し支えないだろう。


伊勢崎市上植木本町の建長石仏。

上植木の建長石仏 (1)
上植木の建長石仏 (2)
凝灰岩製の石仏2体で、写真向かって右側の石仏には鎌倉時代中期の建長3年(1251年)の銘がある。2体とも長年の風雨により摩耗・損傷が激しい。

上植木の建長石仏 (3)
右の石仏は総高75cm、幅45cm、厚さ26cm。舟形の光背に半肉彫りで中尊と4体の脇侍を刻む一光五尊像。と言っても摩耗により合掌坐像の如来(?)と言うことくらいしか分からない。

上植木の建長石仏 (4)
左の石仏は一回り小さいが、右側の石仏と構図が異なる以外は同様の形態である。尊像は頭光を持つ阿弥陀如来像と推定され、右側に俗体と思われる像が彫られている。

当地には11世紀ころまで上植木寺という本格的な古代寺院があったことが判明しており、建長石仏はその寺院との関連性もあるのではと思ってしまう。

ところで、覆屋は風雨が入らないよう完全に覆った方がいいと思う。現状のままだと、風化・劣化がますます進んでしまうと危惧する。

上植木のサカキ (1)
上植木のサカキ (2)
石仏を探してウロウロしていたときに見つけた「上植木のサカキ」。上植木とついているが、住所は本関町。

上植木のサカキは個人宅内にあり、樹高10m、目通り0.8m、根元周り3m、枝張り東西約8m、南北約7mで、樹齢は約300年と推定される。サカキは成育の悪い樹木であり、このように大きくなるのは珍しいといわれる。


伊勢崎市境島村の諏訪神社。
利根川の北側(旧境町側)にある。

島村諏訪神社 (1)
島村諏訪神社 (2)
島村諏訪神社は天正年間(1573~93年)武田家家臣・粟原太郎左衛門が諏訪大社の分霊を勧請したと伝わる。利根川の洪水による大正3年(1914年)の前島地区全戸移転に伴い、現在地へ遷座している。

島村諏訪神社 (3)
島村諏訪神社 (4)
島村諏訪神社 (5)
社殿は現在地に遷座した大正13年の建立。近年、社殿屋根を瓦葺きから銅板葺に改修している。

木々に囲まれた境内で、玉垣があるわけでもなく玉砂利が敷いてあるわけでもない、余計なものはなくシンプルな村の鎮守といった様。


伊勢崎市境島村の板倉。

島村の板倉 (1)
島村の板倉は天明2年(1782年)の建設。四方板囲い(落とし羽目板式)の高床造りで床は板張り。正面9尺(約2.72m)、奥行き6尺(約1.81m)。正面右側は小さな3室に仕切られ、中央と左側はそれぞれ1室ずつになっている。最大90俵の穀物が入る。

なんでこんな写真しかないかと言うと、個人宅内にあるから。横を通る路地からの撮影。個人宅にあるという情報を持ち合わせていなかったのでしょうがない。ちょうど地元の方が通りかかったので聞いてみたら、戸をガチャガチャやってくれたのだが「閉まってるね」。

島村の板倉 (2)
と言うことで、伊勢崎市HPから写真を借用。

不定期だが島村地区の文化財遺産を巡る行事があるようで、そういう時は中に入らせていただき見学できるようだ。


伊勢崎市境島村の日本基督教団島村教会と島村めぐみ保育園本館。

日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (1)
日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (2)
明治初期に蚕種輸出のため横浜を訪れた蚕種業者により島村にキリスト教がもたらされ、明治20年(1887年)に田島善平氏の自宅内に美以教会島村講義所が建てられ島村教会が設立された。明治30年(1897年)に現在地に教会堂が建てられた。

昭和25年(1950年)に2階部分とめぐみ保育園本館を増築。昭和34年(1959年)に礼拝堂北正面に講壇を拡大。

日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (3)
日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (4)
日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (5)
2階建て部分から右側が教会(堂)で、左側が島村めぐみ保育園本館。島村めぐみ保育園は昭和25年(1950年)開園。現在は平成20年(2008年)に建設された新館で保育は行われている。

日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (6)
日本基督教団島村教会・めぐみ保育園 (7)
島村めぐみ保育園の別館。昭和28年(1953年)の建築。島村教会(めぐみ保育園本館)と道を挟んで東側にある。現在も一部使われている。

島村教会教会堂、島村めぐみ保育園本館、別館が国の有形登録文化財に指定されている。

この辺は、ちょうど伊勢崎市と深谷市の境界で、島村教会(めぐみ保育園本館)は伊勢崎市、めぐみ保育園別館は深谷市となる。


伊勢崎市境島村の「島村蚕種業績之地」碑。

島村蚕種業績地之碑
昭和16年(1941年)に結成された「島村蚕種共同組合」の蚕種製造所の跡地に「島村蚕種業績之地」碑が建っている。

島村は江戸末から明治期に蚕種の一大産地であったが、時代の変化とともに養蚕は下火になり、島村蚕種協同組合は昭和63年(1988年)に解散。現在、蚕種製造所跡地は住宅地なっており、碑が建っている場所は小さな公園となっている。

碑文は「利根川の清流に培われ、三百年の伝統を誇りし島村蚕種の灯、今ここに消ゆ」と、悲しい言葉で始まる。碑文の最後は「願わくば郷土の若人達よ、一致協力産業の振興に努め、再び島村の名を天下に轟かされん事を」(句読点はオレが追加)。

「田島弥平旧宅」が世界遺産(富岡製糸場と絹産業遺産群)に登録され、島村の名は再び世に広まることになったが、それは養蚕のおかげなのは皮肉なことか。


伊勢崎市境島村の島村沿革碑。

島村沿革碑
島村沿革碑は、島村の起源や地理、利根川との関わり、養蚕業を発展させた歴史が記されている。明治32年(1899年)の建碑。

利根川の流れに翻弄された(200年で16回も流れが変わった)島村の様子を未来に残そうと、明治30年(1897年)に古老が絵図などを持ち寄り起案。

「島邨沿革碑」の題字は山県有朋の揮毫。碑文の文字は金井之恭(金井烏洲の4男)による。どういう経緯で山県有朋に頼んだのか(書いてくれたのか)不明だが、渋沢栄一が仲介したのかも。島村と渋沢の出身地・血洗島(深谷市)は隣村なのと、渋沢と金井烏洲は交友があったので。


伊勢崎市境島村の旧境島小学校。

旧境島小 (1)
伊勢崎市立境島小は明治6年(1873年)に島村小として開校。市町村合併に伴い境町立島小、伊勢崎市立境島小と名称は変わったが、現伊勢崎市内では3番目に古い歴史ある小学校である。現在の校舎は平成5年(1993年)の落成。しかし児童数の減少により平成28年(2016年)3月31日を以て143年の歴史に幕を閉じだ。

旧境島小 (2)
旧境島小の校章は、桑の葉・蛾・繭の3つを組み合わせたもの。養蚕が盛んだった島村らしい。

旧境島小 (3)
現在は「田島弥平旧宅案内所」として活用されている(1階西側)。案内所は隣接する「福祉交流館しまむら」にあったが、手狭なため移転。

田島弥平旧宅の解説パネル、所蔵資料の展示や映像情報などが見られる。田島弥平旧宅を訪れる前の事前学習的な面を含んでいる。オレは先に旧宅を訪れ、さらにその周辺を散策し、最後に旧境島小に行ったので中には入らなかった。

旧境島小 (4)
校庭の隅に「二宮金次郎」の銅像があった。昔の小学校にはよくあったのだが、オレの通っていた小学校にはなかったので、近くで見るのは初めてと言っていいくらい。

旧境島小 (5)
校舎の前に「島を守った赤レンガ」というのがあった。「前島」地区は利根川の乱流により中州に位置する状態となってしまい、度重なる洪水に悩まされていた。そのため、住民総出でレンガ塀の土手を築き堤防とした。ところが、明治42年(1909年)の大雨による洪水でレンガ塀は決壊し、大正3年(1914年)から前島地区は新地への移転を余儀なくされた。小学校も大正4年(1915年)に移転している。

写真のレンガは、昭和57年(1982年)の洪水で岸に打ち上げられた当時のレンガ塀の一部。記念のため境島小へ運ばれ残されている。

以前紹介した宝性寺も旧前島地区にあったもので、同様に移転している。
(「伊勢崎市境島村・宝性寺」参照)


伊勢崎市境島村新地の養蚕農家群。

田島弥平旧宅
世界遺産・田島弥平旧宅がある境島村の新地地区には、同様の養蚕農家建築が多数ある。そのいくつかを紹介。(田島弥平旧宅は「世界遺産・田島弥平旧宅」参照)

桑麻館 (1)
桑麻館 (2)
田島弥平の本家にあたる田島武平宅。屋号は桑麻館。
文久3年(1863年)の建築で、木造2階建て入母屋造り、桟瓦葺き。田島武平は弥平とともに、島村養蚕業の指導者として活躍した。

進成館
田島乙三郎宅。屋号は進成館。
江戸時代末(幕末)の建築で、木造2階建て入母屋造り。桟瓦葺きで総櫓。

有鄰館 (1)
有鄰館 (2)
田島平内宅。屋号は有鄰館。
明治元年(1868年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで3つ櫓。

栄盛館
田島定吉宅。屋号は栄盛館。
文久元年(1861年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで3つ櫓。

對青廬 (1)
對青廬 (2)
田島林平宅。屋号は對青廬(たいせいろ)。
慶応2年(1866年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで総櫓。

すべて田島家だが、みな親戚だという。

当主の名前は建築当時の方。これらの養蚕農家群は、田島弥平旧宅のように文化財指定されているわけでもなく、現在もご子孫が居住されているため、敷地内への立ち入りは不可です。敷地外から、かつ節度をもって見学させてもらいましょう。


伊勢崎市境島村の田島弥平旧宅。
平成25年(2013年)「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産のひとつとして世界遺産に登録された。

田島弥平旧宅 (1)
田島弥平旧宅は文久3年(1863年)に建てられ、1階を住居、2階を蚕室としている。瓦葺きの屋根に「総櫓(やぐら)」と呼ばれる換気のための窓を設けている。これにより、熱がこもるため養蚕農家には向かないとされてきた瓦葺きの住居を可能とした。

弥平旧宅の面積は約4000平方mで、主屋の他に一部の建造物が現存している。(見学は敷地内のみ可能)

田島弥平旧宅 (2)
田島弥平旧宅 (3)
東南を向く表門と、それに隣接する桑場。桑場は明治27年(1894年)の建築。

田島弥平旧宅 (4)
香月楼跡と別荘。香月楼は安政3年(1856年)に建築された2階建て総櫓の蚕室。弥平はこの蚕室で清涼育の実験をしたとされる。香月楼は昭和33年(1958年)に他所へ移築され、基礎の石組だけが残されている(写真ではよく分からない)。

別荘(写真)は2階建て1つ櫓。納屋の一部を切り取り、香月楼に移築・接続。晩年の弥平の隠居所だったといわれる。

田島弥平旧宅 (5)
新蚕室跡。明治5年(1872年)から8年にかけて建てられた2階建ての蚕室。主屋の2階と渡り投下でつながっていた。昭和27年(1952年)に解体された。現在は基壇の石組だけが残る。

田島弥平旧宅 (6)
井戸は主屋が建築された文久3年には、既に存在していた。上屋は大正3年(1914年)の建築。

田島弥平旧宅 (7)
東門。実際は北東向き。隣の小屋は蚕具置き場。

田島弥平旧宅 (8)
庭に建つ貞明皇后行啓紀念碑。大正天皇皇后・貞明皇后が田島家を行啓されたことを記念し、昭和23年(1948年)に建碑。田島弥平が宮中養蚕の世話方として奉仕したため。(本家・田島武平も世話方を務めている)

田島弥平旧宅 (9)
田島弥平旧宅 (10)
敷地内にある鳥居まである屋敷神様。さすがに立派だ。

弥平は養蚕技術の改良を重ね「清涼育」の普及に努め、全国から多くの養蚕伝習生が訪れ研修を受け、その技術を全国に広めていった。

田島弥平に関しては「田島弥平顕彰碑」の方に書いたのでご参照ください。

これで「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産4つを訪問することができた。富岡製糸場と高山社跡は世界遺産登録前に訪問していたけど。
 「日本で最初の 富岡製糸
 「藤岡市高山・高山社跡
 「世界遺産・荒船風穴


伊勢崎市境島村の田島弥平顕彰碑。
世界遺産・田島弥平旧宅の東門の前にある。

田島弥平顕彰碑
田島弥平顕彰碑は、娘の民が父の功績を後世に残すため明治27年(1894年)に建てたもの。タイトルは「南畬田島翁養蚕興業碑」。

田島弥平
田島弥平は明治前期に広く普及した養蚕技法の「清涼育」を確立した。これは蚕室に換気のための窓(櫓)を付けることで空気循環を良くする改良を加えたもの。弥平旧宅はこの実践と言える。明治15年(1882年)には「清温育」の高山長五郎も訪れている。

弥平はこのような養蚕技法「清涼育」や蚕室構造、桑の栽培などについて「養蚕新論」(明治5年:1872年)、「続養蚕新論」(明治12年:1879年)にまとめ著している。

また、弥平は蚕種販売会社・島村勧業会社の設立(明治5年)にも携わり、副社長も務めている(社長は本家の武平)。これは横浜の商人を通さず直接海外へ販売する試みであったが、余りうまくいかず島村勧業社は明治15年(1882年)に解散している。

弥平は養蚕技法改良の功績が認められ、明治25年(1892年)に緑綬褒章を授与されている。

オレも詳しいわけではないけど、養蚕って大変なんだよね。高山長五郎が養蚕技法改良(清温育)に取り組んだきっかけ読んだら、泣けてきちゃったことを思い出した。現在は時代の流れで養蚕は廃れてしまい、「養蚕群馬」の面影はない。


伊勢崎市境島村の明京山宝性寺。
境島村地区は利根川で分断されており、宝性寺は深谷市側にある。

宝性寺 (1)
宝性寺は文禄2年(1593年)僧・明京の開基で字前島に創建。当時の前島は島村の中心部であったが、数度にわたる利根川の洪水により大正3年(1914年)から全戸移転を余儀なくされた。

宝性寺 (2)
宝性寺 (3)
宝性寺も大正3年に現在地移転しており、本堂はその時の建立である。現在、ご住職は他寺の兼務となっており、普段は無住である。

宝性寺 (4)
宝性寺 (5)
昭和59年(1984年)建立の閻魔堂。それまで本堂・中2階に安置されていた閻魔大王像を遷している。

宝性寺 (6)
境内の松。よく手入れがされている。

宝性寺 (7)
宝性寺 (8)
本堂裏に宝篋印塔などが並んでいる。歴代住職の墓所だろうか。

開基の明京の伝承として、天正13年(1585年)の豊臣秀吉の根来寺攻めの際、根来寺にあって巨竹を捻って鉢巻きにして、敵中に突入し根来寺の難を救ったというのがある。本当ならよく生きて上野国までこられたなと思う。


伊勢崎市境島村の金井烏洲と一族の墓。

金井烏洲と一族の墓 (1)
金井家墓地内に烏洲や父・兄弟・子の墓がある。

金井烏洲の墓
金井烏洲の墓。
烏洲は江戸時代後期の画家、勤皇家。高山彦九郎に師事し、後に頼山陽と交流し勤皇の志を強くしている。画家としては春木南湖の門下。江戸南画壇のひとりとして名を成した。

代表作の「赤壁夜遊図」は伊勢崎市の重文に指定されている。その他、前橋・龍海院や渋川・雙林寺などの大画面障壁画、伊勢崎・勝山神社拝殿の天井格子画なども手がけている。

以前、テレ東の「なんでも鑑定団」に烏洲の掛け軸が出品され、80万円の値が付いた(出張鑑定 IN 伊勢崎)。

烏洲の身内の墓。
金井萬戸の墓
父・萬戸(俳人)の墓。

金井莎邨の墓
兄・莎邨(詩人)の墓。

金井研香の墓
弟・研香(画家)の墓。

金井杏雨
2男・杏雨(画家)の墓。

3男・芸林、4男・之恭も、それぞれ画家、書家。之恭は貴族院議員も務めている。

金井烏洲と一族の墓 (2)
金井烏洲の副碑。昭和4年(1929年)の造立で、題額は東久邇宮妃殿下、撰文・書は渋沢栄一である。ちなみに、渋沢栄一はその功績から明治の人のイメージが強いが、実は昭和6年(1931年)までの長寿をまっとうしている(91歳)。

金井家は新田氏の流れをくむ岩松家の祖とされる岩松時兼の3男・長義から始まるとされる。当時、烏洲家は島村では名の知られた豪農であった。そのため、みな号を持つ文化人としても活動できたし、烏洲は江戸に出ることもできたということ。


伊勢崎市国定町の赤城神社。

国定赤城神社 (1)
国定赤城神社 (2)
国定赤城神社は、文治2年(1186年)上野国守護・安達盛長の創建と伝わる。明治42年(1909年)に村内18社を合祀、昭和4年(1929年)に現在地へ遷座している(旧菅原神社跡地)。

真新しい一の鳥居は平成28年(2016年)の建立。

国定赤城神社 (3)
境内に入るとすぐに二の鳥居がある。扁額は天満宮となっているので旧菅原神社の鳥居のようだ。扁額は石に彫られているのだが、すり減っていて目をこらさないと読めないくらい。

国定赤城神社 (4)
国定赤城神社 (5)
社殿は平成17年(2008年)に、遷座75年を記念して改修されている。

国定赤城神社 (8)
境内社の合祀された菅原神社。

国定赤城神社 (6)
国定赤城神社 (7)
今年の絵馬。拝殿前には多数の絵馬が奉納されていたが、菅原道真が祀られているので学問の御利益があるからだろう。

ところで、安達盛長は元暦元年(1184年)頃、上野国の守護になったとは言われているが詳細は不明。実際は建久元年(1190年)から比企能員が守護になっている。ただ、比企氏の後は盛長の子・景盛が守護になっているので、上野国と安達氏の関係が深いことに変わりはない。


伊勢崎市曲輪町の施無畏山善応寺。

善応寺 (1)
善応寺 (2)
善応寺には国定忠治の墓があるのだが、前回訪問時は見つけられなかったので再訪した。
(「小畠武堯の墓・施無畏山善応寺」参照)

国定忠治の墓2 (1)
国定忠治の墓。愛妾のお徳(菊池徳)が、処刑場より遺体の一部を盗み出し、そのうちの片腕を善応寺に預けたとされる。(「東吾妻町大戸・国定忠治処刑場跡」参照)

国定忠治の墓2 (2)
写真ではよく分からないが、「情深墳」と刻まれている。

国定忠治の墓2 (3)
墓石側面には「嘉永三戌年十二月廿一日 長岡徳」とある。長岡とは忠治の本姓。

国定忠治の墓2 (4)
墓石裏には「念仏百万遍供養塔」。

伊勢崎市国定町・養寿寺の墓石は、忠治の博才にあやかり墓石の角を削って持ち帰る人が多く墓石が丸くなっているが、情深墳は猛々しい性格の女性だったといわれるお徳の怨念が籠もっているとされるため、墓石を削ると「運まで削る」といわれ、建立時の姿を残している。(「国定忠治の墓 -養寿寺-」参照)

善応寺には第2次大戦時の空襲で焼失するまでは、実際に「忠治の片腕」と伝えられるものが保管されていたという。

伊勢崎市八斗島の稲荷神社。

八斗島稲荷神社 (1)
八斗島稲荷神社 (2)
八斗島稲荷神社は天正年間(1573~92年)に那波顕宗が奥州九戸戦争で討死後、境野主水吉澄・五十嵐無兵衛知徳の両人が、顕宗の遺志を奉じて創建したという。奥州九戸戦争が九戸政実の乱のことなら天正19年(1591年)。

八斗島稲荷神社 (3)
八斗島稲荷神社 (4)
八斗島稲荷神社 (5)
八斗島稲荷神社 (6)
八斗島稲荷神社 (7)
社殿は安政2年(1855年)に再建。現在の本殿は明治43年(1910年)に八郎神社から60円で買ったもの。前年の明治42年(1854年)に八郎神社が豊武神社に合祀されたため。

本殿には立派な彫刻が施されている。この本殿を持っていた八郎神社を合祀により廃棄してしまったんだね。ちなみに八郎神社は、昭和43年(1968年)に分祀され、福島町に鎮座している(「伊勢崎市福島町・八郎神社」参照)。

八斗島稲荷神社 (8)
八斗島稲荷神社 (9)
社殿裏にはたくさんのお狐様が奉納されている。

八斗島稲荷神社 (10)
参道脇に力石があった。1番右の力石は75貫目(約281kg)で、吉野円三という船大工が境内で担いで三間(約5.4m)歩いたという。真ん中は45貫目(約161kg)で、5人の力持ちが交代で神社の周囲を担ぎ歩いたという。

ところで、由緒で那波顕宗が奥州九戸戦争で討死したと書いたが(境内の由緒碑)初耳だ。顕宗は天正18年(1590年)の仙北一揆で討死が通説(だと思う)。那波氏は顕宗の討死で断絶したというのも通説(だと思う)。


伊勢崎市長沼町の八幡宮。

長沼八幡神社 (1)
長沼八幡神社 (2)
長沼八幡宮は康平5年(1062年)に源頼義が奥州平定のおり、石清水八幡宮の分霊を勧請し戦勝祈願をしたと伝わる。源頼義は有名な八幡太郎義家の父親である。天明3年(1783年)の浅間山大噴火に伴う泥流洪水により、現在地へ遷座している。

長沼八幡神社 (3)
長沼八幡神社 (4)
長沼八幡神社 (5)
浅間山の天明3年(1783年)の大噴火後に、現在地に遷座している。それまでは利根川の氾濫により遷座地が定まらなかったようだ。(長沼町は利根川に面している)

康平5年は源頼義が3度目の陸奥守に任命され、奥州の騒乱の鎮圧に向かった年である。頼義は見事騒乱を鎮圧し、前九年の役を終結させている。


伊勢崎市境上渕名の渕名神社。

渕名神社 (1)
渕名神社 (2)
渕名神社は熊野神社として奈良時代に創建されたと伝わる。鎌倉時代に渕名光行の崇拝を受け、その氏神として祭祀されたという。渕名氏は平安時代中期、当地に土着した藤原秀郷の子孫(6代目)・渕名兼行を祖とする。

明治に入り、上渕名の飯玉神社を合祀した際に渕名神社と改称している。

渕名神社 (3)
渕名神社 (4)
渕名神社 (5)
現在の社殿は平成10年(1998年)の新築。

以前、境内には樹齢300年を超えると推定される大銀杏があったため、当地の字名は銀杏と言った。現在は合併により、伊勢崎市境上渕名と字名は消えてしまった。

渕名神社のご祭神は保食命になっている。これは合祀された飯玉神社のご祭神である。元の熊野神社のご祭神・奇御木野命はどうなっているかというと、由緒を記した碑では配祭神として祀られているとある。

ところが、境内にあった熊野神社の由緒板によると、「(熊野神社ご祭神)奇御木野命は祀られなくなってしまった」とある。さらには、「大家が店子に追い出された形となった」とまで書いてある。

明治の合祀時に、熊野神社と飯玉神社で主導権争いみたいな感じで揉めたってことかな?


伊勢崎市下蓮町の三柱神社。

三柱神社 (1)
三柱神社は弘治年間(1555~58年)に那波氏が倉稲魂神を奉祀、飯玉神社として創建した。明治42年(1909年)に国領村八幡宮、飯島村諏訪神社を合祀し、三柱神社と改称している。

三柱神社 (2)
それぞれの鳥居が移築されている。扁額には、それぞれ「正一位飯玉大明神」「諏訪大明神」「飯玉大明神」と記されている。なぜか、3番目も飯玉大明神。八幡宮ではないの?

三柱神社 (3)
三柱神社 (4)
三柱神社 (6)
現在の社殿は平成5年(1993年)に再建。

三柱神社 (7)
三柱神社 (8)
境内の蚕景山大神と大ケヤキ。

那波氏は堀口町の飯玉神社を総本山として、領内に99社もの飯玉・飯福神社を分祀している。ここも元はそのひとつだったということ。


伊勢崎市境小此木の菅原神社。

菅原神社 (1)
菅原神社 (2)
菅原神社は元亨年間(1321~23年)に小此木盛光が天満宮を祀ったのが始まりと伝わる。

菅原神社 (3)
菅原神社 (4)
江戸時代に入ると祭祀は里人の手に移り、寛永年間(1624~43年)に社殿造営、安永年間(1772~80年)には改築を行っている。外観の朱色が鮮やかなので、近年にも改修しているものと思われる。

小此木氏は戦国時代の小此木(小柴)長光くらいしか分からないが、同性で光の字が共通しているので、盛光は長光の祖先? でも、由緒板には盛光は鎌倉時代、新田氏に属していたとあった。長光は能登国出身のはずだが・・・。

と言うことで、やっぱり違うかも(よく分からない)。


伊勢崎市境下武士の三社神社。

三社神社 (1)
三社神社 (2)
三社神社は文治2年(1186年)安達盛長の嫡男・景盛の創建と伝わる。安達盛長は源頼朝が流人時代からの側近。

景盛が上野国守護に任命され、当地で武を練ったことから武士という地名となり、その際に領地の安全を神明に祈願し神社を奉祀したのが三社神社の始まりという。

三社神社 (3)
三社神社 (4)
三社神社 (5)
現在の社殿は平成17年(2005年)再建。

鎌倉幕府創成期の上野国守護は比企氏だったような気がする。安達氏(景盛から)になるのは比企の変(建仁3年:1203年)以降だと思うが、そんなに誤差もないことから、気にすることでもないかな。

神社などの由緒に歴史的正確性を求めるのは、野暮なことだと分かっているが、性格上気になっちゃうんだよね。


伊勢崎市境島村の島村の渡し。

島村の渡し (1)
島村渡船は利根川によって分断されている境島村間を結ぶ渡船である。江戸時代中期から約200年の歴史がある。元は県道扱いだったので群馬県営だったが、現在は市道になったため伊勢崎市が運航している。料金は無料。

写真は利根川左岸(群馬県側)の「利根川水辺プラザ公園」に展示(?)してあった昔の渡船。

島村の渡し (2)
左岸側から乗る場合は渡船小屋いる渡船夫さんに声をかける。右岸(埼玉県側というと怒られるかな)からの場合は、黄色い旗を振る。

島村の渡し (3)
島村の渡し (4)
渡船小屋に赤旗が上がっている場合は運休。写真の通り、当日は赤旗が上がっていたため運休。何でも「航路損壊のため当分の間運休」だそうだ。まあ、もともと乗ろうと思ってきた訳ではないのでいいけど。(注:11月13日から再開している)

島村の渡し (5)
とりあえず船着場まで行ってみる。

島村の渡し (6)
島村の渡し (7)
運航船か分からないが、船が係留されていた。隣には昔の船と思われるが、エンジンのない木造船も。

島村の渡し (8)
対岸のどの辺に行くのか分からないが、現在も現役の渡船である。さすがに利用者はかなり少なくなったようだが。

平成20年(2008年)に訪問した方の記事を読ませてもらったら、木造船にエンジンがついた船が運航していた。さきほどの木造船にエンジンを付け運航していたようだ。


伊勢崎市上蓮町の栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の墓。

栗庵似鳩の墓 (1)
栗庵似鳩の墓 (2)
栗庵似鳩の墓。
似鳩は大阪生まれの俳人で、明和8年(1771年)に俳諧行脚の途中、那波郡上蓮沼村(現上蓮町)に立ち寄ったのが縁で、この地に庵を結び、「喰つみは秋もてなさん軒の栗」と詠み、庵を栗庵と名づけた。

以来、蕉風俳諧の普及に努め、弟子の数は500人を超えたとされる。寛政9年(1797年)62歳で没している。

墓は似鳩の7回忌に弟子たちにより建てられたもので、表面に「雪仏生まれ時の 顔に似よ 似鳩」と辞世の句が刻まれている。


伊勢崎市鹿島町の上西根の五輪塔。

上西根の五輪塔 (1)
上西根の五輪塔は、凝灰岩製で総高121cmと比較的小型の五輪塔。欠損部が少なく、原形をそのまま今日に伝えている。

上西根の五輪塔 (2)
形態は頂部にやや単調な空・風輪を置き、屋蓋にあたる火輪は軒口の厚みが少なく、反りは真反(しんそり)に近い。水輪は直径41cmに対し、高さが29cmと低い。鎌倉末期(1300年代前半)の作と推定される。

この付近は、上植木七屋敷のひとつである三蔵院屋敷跡と伝えられ、凝灰岩の石塔や宝塔などの残欠が多数散見されることから、仏教信仰の篤い地域であったと考えられる。


伊勢崎市境保泉の勝山神社。

勝山神社 (1)
勝山神社 (2)
勝山神社は和銅年間(708~15年)、穂積親王が東征のおり当地で天照大神と素戔嗚命を奉祀し、東征成就を祈願したのが始まりという。ちなみに、穂積親王は天武天皇の第5皇子。

勝山神社 (3)
勝山神社 (5)
勝山神社 (6)
勝山神社 (4)
両脇に鞘殿を備えた拝殿。天保年間(1830~44年)に、弥勒寺音次郎が造立したもの。やはり彫刻も立派だ。内部の格天井絵は金井烏洲の筆。

勝山神社 (7)
勝山神社 (8)
弥勒寺音次郎が奉納したと伝えられる木組み灯籠。灯籠は通常石造が多いが、木組みの灯籠は珍しい。木組み灯籠は元旦や例祭などでは、拝殿前に飾られる。

弥勒寺音次郎は名工と称えられている宮大工。同時に彫刻も手掛け、伊勢崎・平塚赤城神社本殿や太田・冠稲荷神社の聖天宮など、素晴らしい彫刻を残している。


伊勢崎市境伊与久の郷学五惇堂跡。

五惇堂跡
五惇堂は伊勢崎藩士子弟の教育を目的に、伊与久の儒者・宮崎有成らにより享和3年(1803年)に伊勢崎藩領内で最初に開かれた郷学である。後に一般開放され、広く庶民の教育向上に貢献した。五惇堂では小学、孝経、三字経といった四書五経の素読が主で、他に経典などの公開講釈、講習討論などの教育科目があった。

文化5年(1808年)藩認可の郷学となり、藩は堂地の年貢を免除し、講師を派遣するなどの援助をしている。

五惇堂跡地には、五惇堂の教育指針を刻んだ「孝経碑」と、明治26年(1893年)建立の「孝経碑副碑」が建つ。

郷学としては上野国で1番早い創建といわれる。また、五惇堂での庶民教育は明治時代になって学制が発布されるまで行われた。


伊勢崎市山王町のいせさき市民のもり公園。

いせさき市民のもり公園 (1)
いせさき市民のもり公園はうるおいのある緑のオアシスとして、小さい子どもから大人までが多目的に利用することができる。総面積13.9ヘクトアールの広さ。

いせさき市民のもり公園 (2)
いせさき市民のもり公園 (3)
快(かい)の広場。巨大な岩から噴水が吹き上がる。でも節水のためか、水の出る時間がけっこう短い。あっ!吹き上がったと思って写真を撮ろうとすると、上の写真くらいまで小さくなってしまう。

いせさき市民のもり公園 (4)
創(そう)の広場。ステージになっており、野外コンサートやイベントに利用できる。伊勢崎市と姉妹都市であるスプリングフィールド市の紋章をモチーフにしている。

いせさき市民のもり公園 (5)
彩(さい)の広場。高さ11mの「くさぶえの丘」。

いせさき市民のもり公園 (6)
「くさぶえの丘」の南面には河津桜が植えられている。春にはきれいな
花を咲かせる。

いせさき市民のもり公園 (7)
ふわふわドーム。エアークッションになっており、飛び跳ねられる。

いせさき市民のもり公園 (8)
公園内を流れる人工の川。利根川になぞらえた流れになっているらしい。

いせさき市民のもり公園 (9)
いせさき市民のもり公園 (10)
いせさき市民のもり公園 (11)
いせさき市民のもり公園 (12)
沖縄なのか大陸風なのかよく分からない庭園(?)、休憩所(?)。「海容亭」とあった。その前にはオブジェっぽい石。

非常に整備が行き届き、きれいな公園である。遊んでいる家族連れ、散歩(ウォーキング)をしている人たちなど、多くの人がそれぞれ過ごしていた。


伊勢崎市東本町の常清寺。

常清寺 (1)
常清寺 (2)
常清寺の由緒は不詳だが、寛永2年(1625年)良順法印が中興している。

常清寺 (3)
墓地にある変形板碑。安山岩の自然石半面を形成したもので、正面に金剛界の大日如来を表す「バン」の種子と蓮座が薬研彫りされている。南北朝期の北朝年号である康永4年(1345年)の紀年名がある。台座は宝塔の塔身で室町時代初期の別物である。

常清寺 (4)
常清寺 (5)
板垣信方の墓。信方は武田信虎、信玄の2代に仕えた武田24将、武田四天王のひとり。村上義清との上田原の戦いで討死。信方の3男・信廣が新田氏系の林氏を頼り上野国に移り住み、伊勢崎の下植木地区に土着。子孫は代々伊勢崎藩に仕えた。この家系の末裔の方が昭和8年(1933年)に建立したもの。

一般的には「信方」と表記するが、板垣家には「信形」と伝わっているという。ちなみに、明治時代に自由民権運動で名をはせた板垣退助は信方の孫・正信の家系である。


伊勢崎市香林町1丁目の曦(あさひ)観音堂。

曦観音堂 (1)
曦観音堂 (2)
曦観音堂の本尊が木像如意輪観音坐像である。

曦観音堂 (3)
曦観音堂 (4)
如意輪観音像は総高121.5cm、像高52cmで、檜一木造り、泥地漆箔仕上げ。江戸時代初期の制作と推定される。右ひざを立て左右の足裏を合わせた輪王坐と呼ばれる姿勢で蓮華坐に座っている。髪を結い上げ、宝冠をかぶり、条はくと天衣を肩から掛けている。

光背の赤色の円盤は昇る曦(旭)を表しており、太陽信仰と習合した像容となっている。現在でも彩色がしっかり残っていて美しい。

曦観音堂 (5)
堂内を撮った写真の左下の写っている石像は観音菩薩坐像である(この写真は石像を拡大したもの)。 凝灰岩製で総高68.5cm、像高36cmで、南北朝期の作と推定される。こちらの石像が曦観音堂の元の本尊といわれている。

南北朝期(もしくはそれ以前)から観音さまを地域で信仰してきたということ。

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