Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 伊勢崎市・佐波郡


伊勢崎市上蓮町の阿弥陀・地蔵石仏。

上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (1)
上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (2)
蓮座に座して通肩の法衣をまとい、弥陀の定印を結ぶ阿弥陀如来像。その右上方に同じく蓮座に座して、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩像。右下方には合掌する男女像の計4体が彫られている。下部を台座として、他の部分は光背としている。

角閃石安山岩製で高さは66cm。室町中期の造立と考えられている。

阿弥陀如来は極楽浄土で来世の利益を授け、地蔵菩薩は六道の衆生を救済する功徳があるとされる。この両方の信仰が融合していたことを示す石仏である。

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伊勢崎市戸谷塚町の諏訪神社。

戸谷塚諏訪神社 (1)
戸谷塚諏訪神社は、建久4年(1193年)那波宗元(政広)が信濃国諏訪大社から分霊を勧請したといわれる。那波宗元は鎌倉幕府の政所初代別当・大江広元の子である。

戸谷塚諏訪神社 (2)
戸谷塚諏訪神社 (3)
こじんまりとした社殿だが、本殿には数々の彫刻が施されている。

戸谷塚諏訪神社 (4)
戸谷塚諏訪神社 (5)
本殿の彫刻は素晴らしい。ただ、ちょっと見ずらい・・・。この彫刻は大谷政五郎秀国とその弟子・飯島初五郎昉義の作である。棟札が残されている。

写真の彫刻の題材(故事)はまったく分からないが、柄杓を持った人が大きな酒壺から酒をたらふく飲んでいるように見える。

那波氏は室町期に田畑が荒廃したのを憂いて、堀口町の飯玉神社を総本山として、99社もの飯玉・飯福神社を領内に分祀しているくらい信心篤く領地経営を行ったようだ。

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伊勢崎市太田町の五郎神社。

上樹神社 (1)
五郎神社の創建は不詳だが、広瀬川が利根川の本流だった頃、流れてきた1本の朱塗りの矢を拾った者の夢枕に狩姿の片目の武将が立ち、「自分は鎌倉権五郎だ。その矢は自分の仮の姿なので大切に祀れ」と言われ、祀ったのが始まりといわれる。

鎌倉権五郎とは、平安時代後期の武将・鎌倉景正のことである。源義家の家来として後三年の役(1083~87年)に従軍し、右目を射られながらも奮戦したといわれる。

ちなみに、利根川は応永34年(1427年)の大洪水で変流した説が有力である。なので、五郎神社の創建はそれ以前か?

上樹神社 (2)
上樹神社 (3)
社殿は延宝9年(1681年)に前橋藩主・酒井忠清の次男・忠寛が伊勢崎藩として2万石を分与された際に整備している。この時が五郎神社の創建という説もある。現在の社殿は平成9年(1997年)の再建。

ところで、鎌倉景正の曾孫が大庭景親と梶原景時といわれる。治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した際の石橋山の戦いでは、平家方として頼朝軍を打ち破っている。大庭氏、梶原氏とも源氏方であったが、平治の乱で源氏が没落した後は平家に従っていた。

しかし、山中の探索の際に梶原景時が洞窟に隠れていた頼朝をわざと見逃した説話は有名。頼朝再起後、梶原景時は御家人に列し、大庭景親は捕えられて斬られている。

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伊勢崎市上植木本町の上樹神社。

上樹神社 (1)
上樹神社の創建は不明だが、諸事情から鎌倉時代と想像される。これは境内にあった由緒を記した碑文からだが、「諸事情」とか「想像」とか、なかなか微妙な言い回しだ(笑)。

上樹神社 (2)
上樹神社 (3)
元々は雷電神社と称したが、明治10年(1877年)に9社を合祀し上樹神社となっている。鳥居が7つ建っているが、合祀された諏訪神社、鹿島神社、八幡宮などの奉額が掛かっている。合祀前の神社の鳥居かは分からない。

上樹神社 (4)
上樹神社 (5)
上樹神社 (6)
現在の社殿は慶応3年(1867年)の建立。先ほどの由緒碑によれば、永禄11年(1568年)に赤石城主・荻田備中守、慶長6年(1601年)に稲垣長茂が社殿を改修したという。

荻田備中守って不明だが、永禄11年だと赤石城は由良氏の勢力圏だと考えられるので、荻田備中守って由良氏の家臣かな?稲垣長茂は初代伊勢崎藩主。

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伊勢崎市境下渕名の大悲山妙真寺。

妙真寺 (1)
妙真寺は正慶2年/元弘3年(1333年)妙真尼の開基といわれる。妙真尼は渕名実秀の娘で、鎌倉の北条氏に嫁いでいたが、北条氏の滅亡後渕名に戻ったという。(正慶は南朝、元弘は北朝の年号である)

妙真寺 (2)
妙真寺 (3)
妙真寺 (4)
本堂は寛政6年(1795年)の建築で、入母屋造り間口9間。

妙真寺 (5)
梵鐘は正徳3年(1712年)の鋳造。

妙真寺 (6)
妙真寺 (7)
墓地入口脇に何故か天満宮がある。本堂裏に古くからあったものを、平成24年(2012年)に移した旨が刻まれていた。

渕名氏は平安時代中期、当地に土着した藤原秀郷の子孫(6代目)・渕名兼行を祖とする。渕名氏の館は現在の大国神社の北側にあったと伝えられており、昭和58年(1983年)の発掘調査では堀跡が確認されている。

ちなみに、兼行の子・成行が足利を本拠とした藤姓足利氏の祖である。

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伊勢崎市南千木町の千本木神社。

千本木神社 (1)
千本木神社 (2)
千本木神社の創建は南北朝のころとの伝えもあるが、詳細は不明である。

千本木神社 (3)
千本木神社 (4)
ご祭神は五十猛神(いそたける)。五十猛命は素戔嗚尊(すさのお)の子で、林業の神として信仰されている。社名が千本木で、地名が(南)千木なので、昔は緑あふれる所だった?

千本木神社 (5)
永禄3年(1560年)に上杉謙信(当時は長尾景虎)が厩橋城(前橋城)攻めの際、当社で戦勝祈願を行ったといわれている。

謙信の戦勝祈願を伝えるのは小さい標柱のみ。しかも、相当年季が入っている。まあ、伝承の域を出ないので、しょうがない面もある。

千本木神社 (6)
あまり「謙信戦勝祈願」を前面に出していないのは、当社には立派な屋台囃子が伝わっているから。千木町の屋台囃子は伊勢崎市の重要無形民俗文化財に指定されている。

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伊勢崎市今井町の今井山西光寺。

西光寺 (1)
西光寺は大同元年(806年)円光阿闍梨が開山したと伝えられる。往時には七堂伽藍が建つ広大な境内を擁しており、門前には7つの御坊が整っていたという。

西光寺 (2)
西光寺 (3)
再三の火災により衰退したが、応永2年(1395年)に那波氏によって再興されている。現在の本堂は平成6年(1994年)の再建。

西光寺 (4)
本堂隣りに建つ霊殿。昭和53年(1978年)の建築。屋根の両端がせり上がる形で、翼をイメージしている?

西光寺 (5)
参道脇にある観音堂。昭和39年(1964年)の建立。旧本堂。

参道脇は無駄に広い(失礼!)んだけど、本堂周りはなぜか狭い。

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伊勢崎市今泉町の今泉山法長寺。

法長寺 (1)
法長寺は創建は不明だが、明暦3年(1657年)に現在の南千木町から現在地(今泉町)に移っている。

法長寺 (2)
山門は楼門風だが、鐘楼はない。

法長寺 (3)
法長寺 (4)
法長寺 (5)
本堂は比較的最近の再建らしい。「今泉山」と「法長寺」の2つの扁額が掲げられている。

法長寺 (6)
境内の羅漢堂。中は見えなかったが、羅漢像が安置されている?

法長寺 (7)
小坊主さんの六地蔵(?)。最近、いたる所で可愛い系の小坊主さん像を見かけるようになった。流行っているらしい。

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伊勢崎市境東の大悲山法養寺。

法養寺 (1)
法養寺は康治2(1143年)、能満寺13世・善海の開創と伝えられる。

法養寺 (2)
明和4年(1767年)観音堂が建立された。法養寺は数度の火災に見舞われているが、観音堂だけ災難を逃れており、ご本尊の十一面観音は「火防観音」と称されている。

平成に入り、百数十年ぶりに本堂が再建されている。

法養寺 (3)
境内の報恩観音。

法養寺は伊勢崎佐波観音霊場の第30番札所、上州新四国88所霊場の第12番札所である。

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伊勢崎市境小此木の小柴山福寿院宝存寺。
院号の福寿院で通っている。

宝存寺 (1)
宝存寺は延長4年(926年)独朗日円の開基、開山は法印宗順と伝えられている。元徳3年(1331年)小此木長光の祈願所となっている。

上記は門前の案内板の内容だが、同じ旧境町にある瑳珂比神社の由緒では、小此木長光が天文15年(1546年)に石動明神の分霊を境城内に勧進したとある。
(「石剱稲荷大明神 -瑳珂比神社-」参照)
小此木長光の年代が200年も違うけど・・・。

宝存寺 (2)
宝存寺 (3)
鐘楼門は徳川時代中期の建造。

宝存寺 (4)
宝存寺 (5)
堂宇は文政年間(1818~30年)に焼失したが、嘉永6年(1853年)に再建されている。嘉永6年と言えば、ペリーが黒船でやってきた年。平成に入り改修されている。

宝存寺 (6)
旧境町最古といわれる宝篋印塔と五輪塔。宝存寺創建時からのものといわれる。ただし案内板がなかったので、違っていたら失礼。

当初は瑠璃久山という山号だったが、明治43年(1910年)に小柴山観音寺と合併し小柴山の山号となっている。

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伊勢崎市堀口町の飯玉神社。

堀口飯玉神社 (1)
堀口飯玉神社は安閑天皇の元年(534年)、国主が丹波国笹山から神霊を勧請したのが始まりと伝えられる。

堀口飯玉神社 (2)
堀口飯玉神社 (3)
堀口飯玉神社 (4)
寛平元年(889年)天災が続いたので、時の国主・室町中将によって豊年を祈って神社が建てられた。室町中将に関しては??

室町期の領主・那波氏は、田畑が荒廃したのを憂いて当社を総本山として99社もの飯玉・飯福神社を領内に分祀したという。確かに、旧那波郡内には飯玉神社が多い。
 「馬見塚の鎮守様 -馬見塚飯玉神社-
 「地域を守ったご神木 -堀下飯玉神社-
など。

堀口飯玉神社 (5)
境内の神武天皇遙拝所。神武天皇陵(畝傍山東北陵)の方を,向いていると思われる。

緑に囲まれた雰囲気の良い境内だが、歴史があり那波総社という割りにはちょっと狭いね。

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伊勢崎市堀口町の宮柴山満善寺。

満善寺 (1)
満善寺は勝道上人が延暦年間(782~806年)に宮柴村(現・宮郷地区)に創建したが、兵火や洪水などにより建物や土地が失われたため、慶長年間(1596~1614年)に当地へ移っている。

満善寺 (2)
満善寺 (3)
大同4年(809年)には、空海(弘法大師)が当寺で護摩十二座を修行したともいわれる。

現在の山門、本堂は平成17年(2005年)の新築である。

満善寺 (4)
満善寺 (5)
地蔵堂と水子地蔵尊。

満善寺 (6)
巨大な聖観音立像。

明治期には名和役場や城陽小が置かれるなど、地域の中心的な役割も担っていた。また、満善寺は伊勢崎・佐波観音霊場の第9番札所、及び上州新四国八十八ヵ所霊場の第25番札所である。

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伊勢崎市宮古町の宮子神社。

宮子神社 (1)
宮子神社 (2)
宮子神社の創建は万寿2年(1025年)と伝わる。ただし、万寿2年は社殿を造営した年で、それ以前から郷民の氏神として五穀の豊穣を祈り季祭を営んでいたという。

宮子神社 (3)
宮子神社 (4)
三の鳥居は明治41年(1908年)に合祀された龍神宮のもの。
(「浦島太郎伝説 -龍神宮-」参照)

宮子神社 (5)
宮子神社 (6)
江戸時代は領主である旗本・跡部氏の崇敬を受け、社殿の修理を行うとともに祭祀料が寄進されている。跡部氏累代の墓は同町内の紅厳寺跡にある。
(「跡部氏の菩提寺 -紅厳寺跡 その2」参照)

宮子神社 (7)
宮子神社 (8)
本殿は覆屋内だが、覗いて見ると素晴らしい彫刻が見えた。

宮子神社 (9)
境内にあった由緒版を読むと、郷民の宮子神社への信仰心の強さが分かる。でも、この由緒板はアクリル板でカバーされているんだけど、光が反射して読むのに難渋した。

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伊勢崎市茂呂の飯福神社。

飯福神社 (1)
飯福神社 (2)
飯福神社の創建年代は明らかではないが、伝承によれば建武年間(1334~36年)に宗良親王・尹良親王の御息所にちなんで、ここに「位々登美(いいとみ)」の神霊を奉祀した事が始まりとされている。

飯福神社 (3)
飯福神社 (4)
飯福神社 (5)
拝殿は平成25年(2013年)の新築。

飯福神社 (6)
狛犬は「いい福を授けてくれますので願いを込めて撫でてください」とのこと。みんなが撫でていくようで、頭(顔)はすっかり丸くなっている。

飯福神社 (7)
飯福神社 (8)
境内社の白山比咩神社。縁結び、子宝、安産などのご利益がある。石像がちょっとコワい(笑)。

オレも「いい福」を授かってきたはずなので、なにか良いことが起こるに違いない(だろう)!!

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伊勢崎市西久保町の大雷神社。

大雷神社 (1)
大雷神社 (2)
大雷神社は平安時代中期、当地に土着した藤原秀郷の子孫(6代目)・渕名兼行が創建したとされる。兼行の子・成行が足利を本拠としたため、以後足利を名乗る(藤姓足利氏)。

元は町内の市場地区にあったが、元亀2年(1571年)現在地に遷座している。寛政11年(1799年)赤堀の総鎮守とされた。

大雷神社 (3)
大雷神社 (4)
大雷神社 (5)
後の領主、由良氏や加納氏が社殿の修理や改築を行っている。また、新田義貞が戦勝祈願を行ったともいわれる。

現在の社殿は平成25年(2013年)に「平成の大改修」を行っている。

大雷神社 (6)
境内に土俵らしきものがあった。奉納相撲などが開催される?

大雷は「だいらい」と読むと思っていたが、「たいらい」「おおいかづち」と書いているものもあった。正式にはどれだろう?

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伊勢崎市堀下町の飯玉神社。

堀下飯玉神社 (1)
堀下飯玉神社 (2)
堀下飯玉神社 (3)
堀下飯玉神社は、弘治2年(1556年)に那波総社・飯玉神社(伊勢崎市堀口町)の分霊を奉祀したもの。代々の領主の崇敬を受けてきた。

堀下飯玉神社 (4)
堀下飯玉神社 (5)
拝殿と社務所が隣接している。

堀下飯玉神社 (6)
堀下飯玉神社 (7)
この切り株は飯玉神社のご神木。昭和28年(1953年)旧赤堀村赤南上・下地区で、地元の消防団で使うポンプ車を購入する際、その費用を捻出するために切り出したもの。

当時は全額地元負担が原則であったため、より高性能の機材で地元の安全を守ろうと、地域の人たちが知恵を絞った証ともいえる切り株。伐採後、切り株は50年余りにわたってそのままになっていたが、神社の参道整備の工事のため掘り出したところ、切り株の表面は傷んでいたが、根はまだ生きていたという。

ご神木に改めて感謝する、地元の方々の想いが伝わってくる。

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伊勢崎市上植木本町の長久山正観寺。

正観寺 (1)
正観寺 (2)
正観寺 (3)
正観寺の由緒はよく分からなかった。

正観寺 (4)
門前にある義経馬殿塔。
源義経が奥州へ逃れる途上、赤堀の粕川を渡る際に折からの洪水により義経愛馬が流されてしまった。この愛馬を厚く葬って建てた塔である。江戸時代初期に正観寺門前に移されたという。

ところで、塔の脇にあった手書きの説明板には、この経緯を正安2年と書いてあったが、正安2年は西暦1300年で、明らかな間違いである。正しくは文治2年(1186年)。赤堀辺りに着いたのは文治3年(1187年)と考えられる。とは言え、このエピソード自体が・・・だけど。

正観寺 (5)
正観寺 (6)
正観寺 (7)
境内には七福神、不動明王や慈母観音など、多数の石像が鎮座していた。

伊勢崎市には多くの義経ゆかりの地がある。まあ、伝説の域をでない物ばかりだが、今後行ってみようと思う。

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伊勢崎市馬見塚町の飯玉神社。

馬見塚飯玉神社 (1)
馬見塚飯玉神社 (2)
馬見塚飯玉神社の創建は明らかではないが、応永年間(1394~1412年)那波城主・那波掃部輔によって那波総社・飯玉神社(伊勢崎市堀口町)の分霊を奉祀したと伝えられる。

那波掃部輔ってよく分からないが、年代的に那波教元、宗元あたりか? この宗元は大江広元の子で大江氏系那波氏の祖である宗元ではなく、広元5代目の子孫。(大江氏系那波氏以前に、藤姓那波氏があるが、全くの別系統)

那波教元の墓と伝えられる宝篋印塔が、伊勢崎市富塚町の円福寺にある。
(「那波教元の墓? -富塚円福寺-」参照)

馬見塚飯玉神社 (3)
馬見塚飯玉神社 (4)
馬見塚飯玉神社 (5)
馬見塚飯玉神社はすぐ東の延命寺境内にあったが、明治期の神仏分離により現在地に遷座している。(延命寺は「例幣使御小休所 -延命寺-」参照)
現在の社殿は、平成9年(1997年)の改築。併せて境内地を拡張している。

元々、上社と下社があり、明治11年(1878年)の一村一社令により下社が上社に合祀されている。

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伊勢崎市馬見塚町の住吉山延命寺。

延命寺 (1)
延命寺は文明元年(1469年)法印道尊を開基として開山した。

延命寺 (2)
延命寺 (3)
本堂は明治41年(1908年)馬見塚の大火により焼失したが、大正9年(1920年)に再建されている。

延命寺 (4)
鐘楼は昭和61年(1986年)の建て替え。併せて梵鐘も新鋳造している。

延命寺 (5)
延命寺 (6)
延命寺 (7)
延命寺は伊勢崎・佐波三十四観音霊場の第一番札所である。観音札所としては、明和3年(1767年)にできたとされている。

延命寺 (8)
境内に仏足跡があった。仏足跡に合掌することによって、先祖の供養となり、家内安全・子孫繁栄の基となるといわれる。

延命寺は日光例幣使の御休所とされ、籠や荷物を担ぐ助郷人夫や連絡役の遠見人足が派遣されていた。

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伊勢崎市福島町の八郎神社。

八郎神社 (1)
八郎神社 (2)
八郎神社のご祭神は群馬八郎満胤。群馬八郎満胤って誰???

ちょっと長くなるけど、神社の由来と群馬八郎満胤について。
光仁天皇の御世(770~81年)、上野国群馬郡の地頭であった群馬大夫満行の8男・八郎満胤は、容姿に優れ文武にも秀でていたため、満行は八郎を総領に立てて、7人の兄を八郎に仕えさせた。これを恨んだ兄たちは夜襲をかけて八郎を殺害してしまった。

八郎は大蛇と化して7人の兄達を殺害したのみならず、その一族や妻子まで殺してしまった。那波郡の人々は毎年生贄を捧げていたが、宮内判官宗光という人物が一心に法華経を唱え続けると、大蛇は恨みを消し神となって上野国の人々に利益を施すことを誓ったという。人々はこれを八郎大明神と呼んで祀ることにした。

八郎神社 (3)
拝殿の右側半分は社務所になっている。

八郎神社 (4)
八郎神社 (5)
境内にあるお堂を覗いて見ると、不動明王が鎮座していた。脇には制多迦童子と矜羯羅童子を従えていた。

八郎神社 (6)
お堂の向かって左側のスペースには釈迦誕生像があった。八郎神社との関係はよく分からないが・・・。

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伊勢崎市戸谷塚町の浅間山大噴火の供養地蔵。

夜泣き地蔵 (1)
天明3年(1783年)の浅間山の噴火時、被災した人々が吾妻川から利根川へ流された。利根川沿いの戸谷塚村にも多くの遺体が打ちあげられた。村の人々は気の毒に思い、遺体を埋葬し霊を弔った。

夜泣き地蔵 (2)
しかし、夜な夜な墓からすすり泣く声が聞こえてくるので、無念の死を遂げた人々の霊を慰めようと天明4年(1784年)地蔵を建立した。すると鳴き声はしなくなったという。

それからというもの地蔵の赤いおかけを借りて、泣き癖のある赤ん坊につけると泣き癖が直るという。

夜泣き地蔵 (3)
供養施設の後ろの松は、高松宮殿下の手植えとのこと。昭和37年(1962年)とあった。高松宮宣仁親王は大正天皇の第三皇子。昭和天皇の弟宮である。「手植え」ということは、高松宮殿下が現地までいらっしゃったということ。

戸谷塚町と嬬恋村鎌原地区とは、現在も交流がある。鎌原地区の方々が、この夜泣き地蔵を訪れ「先祖が世話になった」と参拝していくという。

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伊勢崎市華蔵寺町の華蔵寺公園遊園地。

華蔵寺遊園地 (1)
華蔵寺遊園地 (2)
華蔵寺公園をブラブラしたついでに、遊園地を覗いて見た。入園料は無料で、遊具毎に料金を支払うシステム。料金は高くても350円(ジェットコースター)。

料金は70円券が基本なので、すべて70円の倍数設定。乗り物券に有効期限はないので、余っても次回に使えるという優しさ。さらには、大人も子どもも同料金。

華蔵寺遊園地 (3)
大観覧車。高さ70mの華蔵寺遊園地のランドマークタワー的な存在。かなり遠くからも見えるので、「あそこが華蔵寺公園か」と、いつも思う。280円。

華蔵寺遊園地 (4)
メリーゴーランド。70円。

華蔵寺遊園地 (5)
ヘリタワー。140円。

華蔵寺遊園地 (6)
スカイファイター。70円。

華蔵寺遊園地 (7)
小型の乗り物。これは現金で50円(だったと思う)。

これ以外にも、豆汽車、、マジカルグライダー、3Dシアターなど、幼児から楽しめる。小さい子どもさんを連れた親子連れが多かった。

ジェットコースターと急流すべり(スペースストリーム)は、道の反対側にあるので見そびれた。

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伊勢崎市華蔵寺町と堤西町にまたがる華蔵寺公園。

華蔵寺公園 (1)
華蔵寺公園は、公園、遊園地、野球場・陸上競技場などの運動施設もある総合公園。この中の公園施設は明治時代に伊勢崎公園として開設されたもので、「都市公園100選」に選ばれている。

華蔵寺公園 (2)
いろんな遊具がある公園施設。最初のマップ写真で見ると、右側にあたる。カブトムシとクワガタが向き合うオブジェ。ここの遊具は、基本的に昆虫の形をしている。

華蔵寺公園 (3)
カマキリ(?)型の滑り台。

華蔵寺公園 (4)
テントウムシ型の遊具。中に入れるようだ。

華蔵寺公園 (5)
トンボ型のスプリングが付いた遊具。3人乗れるようだ。シーソーのような感じ?

華蔵寺公園 (5)-1
ヘラクレスオオカブトと思われる遊具。乗って遊ぶのかな。

華蔵寺公園 (6)
2階建ての滑り台。これは何をかたどっている? 1階部分はネットの上を歩くのかな?

華蔵寺公園 (7)
華蔵寺公園 (8)
華蔵寺公園 (9)
この公園の1番の売りと思われるロング滑り台。スタート部分にクワガタがいる。ここは前回の招魂碑がある丘の最上部。スタート部から下をみるとけっこう怖い。
(招魂碑は「伊勢崎の英霊殿 -伊勢崎招魂碑-」参照)

華蔵寺公園の遊具を中心に紹介したが、これ以外にもバードドーム、日本庭園、噴水や滝などがある。

華蔵寺公園は桜やツツジの名所でもあり、4月から5月にかけて「華蔵寺公園花まつり」が開催され、多くの観光客で賑わう名所である。

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伊勢崎市華蔵寺町の伊勢崎英霊殿。

伊勢崎英霊殿 (1)
伊勢崎英霊殿 (2)
一の鳥居をくぐり華蔵寺と華蔵寺公園の間の長い参道を進むと、二の鳥居が見えてくる。いずれも英霊を祀るにふさわしい鳥居である。

伊勢崎英霊殿 (3)
伊勢崎英霊殿 (7)
石段を登ると神社形式の拝殿があるのかと思ったが、そこには何もない。何もないは言い過ぎで、「関川勝三郎先生の像」があった。関川勝三郎氏は、県会議員を6期、県会議長も務めた地元の名士。まあ、銅像があってもいいけど、ここは英霊殿ではないの??

どうでもいいことだが、関川勝三郎氏の末っ子は元プロレスラーのミスター・ポーゴ(関川哲夫)である。元と書いたが、まだ現役かも。プロレスラーの引退ってあいまいなので(笑)。

伊勢崎英霊殿 (4)
伊勢崎英霊殿 (5)
遊歩道のようなものがあったので、丘の周りを歩いてみた。丘の斜面に観音像を刻んだ石碑がたくさん建っており、丘全体で慰霊しているような雰囲気がある。

伊勢崎英霊殿 (6)
ちょうど関川氏の銅像の反対側に伊勢崎招魂碑があった。明治10年(1877年)の西南の役で戦死した伊勢崎関係者の霊を慰めるため、旧藩主・酒井忠彰が群馬県令・楫取素彦に請願して建てたもの。昭和16年(1941年)に当時の招魂社(曲輪町)からここに移されている。

勝手に神社形式の招魂社があると思っていたが、この丘全体で英霊をお祀りしているようだ。

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伊勢崎市華蔵寺町の丘林山華蔵寺。

華蔵寺 (1)
華蔵寺 (2)
華蔵寺は貞観14年(872年)玉体安穏の発願により、国家鎮護の道場として、のちの比叡山第5世天台座主・円珍がこの地に伽藍を創建した。その後荒廃したが、文治年間(1185~90年)長楽寺の栄朝が寺院を修復している。これにより、栄朝を中興の師としている。

華蔵寺 (3)
華蔵寺 (4)
本堂は天保8年(1837年)の再建。以後、それなりに修復はされている。ただし、堂内外陣の欄間に刻まれている二十五菩薩や十六羅漢は、再建当時のままだという。

華蔵寺 (5)
鮮やかな朱色の山門があったが、閉門しており使用していないようだ。

華蔵寺 (6)
すぐ隣りは華蔵寺公園や遊園地。歴史ある宝篋印塔と、現代遊園地の観覧車のコントラストがおもしろい。

華蔵寺と言うと、まず「公園」「遊園地」を思い浮かべるが、当然のことながらお寺があっての華蔵寺。町名にもなっており、その歴史を感じる。

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佐波郡玉村町福島の玉村町15号墳。

玉村15号古墳 (1)
玉村町15号墳は、もともと同町角渕の玉村ゴルフ場近くにあったが、調査後中央公民館に石室が移築復元されていた。しかし中央公民館が取り壊され、現在は玉村町文化センターに移築されている。

玉村15号古墳 (2)
玉村15号古墳 (3)
石室は榛名山二ツ岳から噴出した角閃石安山岩を互目積みした無袖形横穴式で総長は5.5m(玄室長3.3m、羨道長2.4m)。また、四隅には1石をL字状に成形して組み込むなど、高度な技術も用いられている。

玉村町には150基ほど古墳があったと推定されているが、昭和30年(1955年)以降の土地改良事業などにより、そのほとんどが失われてしまっている。

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佐波郡玉村町樋越の嚮義堂(きょうぎどう)。

嚮義堂 (1)
嚮義堂は伊勢崎藩政時代の郷校で、文化5年(1808年)に設立され明治4年(1871年)まで、農閑期を利用して庶民に漢学が教授された。校名は「義に嚮(むか)う」の意味で、浦野神村を始めとする藩儒が交代で講義を行った。
(浦野神村は「伊勢崎藩の藩校教授・浦野神村の墓」参照)

嚮義堂 (2)
嚮義堂は樋越村名主・設楽庄右衛門、組頭・八木平右衛門、組頭・八木丈右衛門ら14人が発起人となり、子どもたちの学ぶ場所の建設を藩に陳情し、その願いが聞き入れられたことによって建てらた。約16坪の建物で、敷地面積は37坪であった。

嚮義堂 (3)
現在ある建物は郷校として使用された当時の建物ではないが、屋根瓦に「學」の文字が刻まれいる。

嚮義堂 (4)
庭内には石碑(嚮義堂之記)が残されている。とは言っても、全く読めない。

現在は特に何も使われていないようだが、今後の保存も考えてなさそうなところが「玉村町」という印象(失礼!)。

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佐波郡玉村町樋越の浦野神村(じんそん)の墓。

浦野神村の墓 (1)
浦野神村の墓 (2)
浦野神村は知周と言い、神村は隠居後の雅号である。

延元元年(1744年)の生まれで、村士玉水に師事。伊勢崎藩の藩校・学習堂の教授として子弟を教育した。隠居後は郷校・嚮義堂にて講義を行うなど、村民の教育に尽力している。

ちなみに、「藩校」は藩が設立し、主に藩士の子弟教育を行う目的のもので、「郷校」は庶民教育を目的としたもの。(藩校の分校的な位置づけの場合もある)

また、神村は優れた行政吏でもあり、天明3年(1783年)の浅間山噴火に伴う泥流被害の際も取鎮方として活躍している。文政6年(1823年)に79歳で没している。

ところで、神村の墓は囲いもなく道端にあり、墓地(墓域)とは気づきにくい。故人が眠るお墓と言うことも考えると、もう少しどうにかならないものかなぁ・・・。

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佐波郡玉村町南玉の文安銘の五輪塔。

文安銘の五輪塔
原家の墓地にある五輪塔2基。室町時代の文安の銘がある。夫婦の墓と思われ、夫が文安5年(1448年)、妻が文安6年(1449年)と記されている。妻の五輪塔には「逆修」とあるので、妻が生前に亡夫の五輪塔と一緒に建てたと考えられる。

火輪が反り、軒端が斜めに切られ内に入り、水輪が横に広く、地輪が横長など、室町期の特徴を示している。玉村町内で最も古く、また県内でも珍しい五輪塔。

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佐波郡玉村町下新田の玉村宿・木島本陣跡。

木島本陣跡
玉村宿は中山道倉賀野宿から分かれた日光例幣使街道の第一宿で、木島家は本陣として朝廷から使わされた例幣使や役人が宿泊した。

本陣の建物は慶応4年(1868年)の玉村宿大火で焼失してしまった。現在は文久4年(1864年)に建立された例幣使参議・綾小路有長の歌碑のみが残っている。

日光東照宮への例幣使派遣は正保4年(1647年)から慶応3年(1867年)まで行われたが、往路だけでなく帰路も日光例幣使街道を利用したのは2回しかなく、その一人が天保14年(1843年)の綾小路有長である。

「玉むらの やどりにひらく玉くしげ ふたたびきその かへさやすらに」
(今回無事使命を果たし、玉村宿に再び戻ってきたが、前途の木曽路も一路平安であることを祈る)

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