Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 前橋市(旧郡部)


前橋市堀越町の堀越古墳。

堀越古墳 (1)
堀越古墳 (2)
堀越古墳は傾斜地の中腹に構築された山寄せの円墳で、墳丘径25m、幅2.5mの周堀が南半分に半周している。7世紀末から8世紀初頭の築造と推定される。

堀越古墳 (3)
石室は南向きに開口している。石室の前には、台形に広がる前庭部が造られている。

堀越古墳 (4)
堀越古墳 (5)
石室は全長6.8mで、羨道は長さ3.4m、幅0.8m。玄門に截石の
梱石が置かれている。。玄室は長さ3.1m、幅1.9m。安山岩を四角く加工し、大きさが合わない所はさらに組合わさるように削っている。

明治2年(1869年)に発掘され、小刀などの出土品があったと伝えられているが、現存していない。

周りは住宅地になっており、道路などのためにかなり削られている。

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前橋市西大室町の荒砥富士山古墳。

荒砥富士山古墳 (1)
荒砥富士山古墳 (2)
荒砥富士山古墳 (3)
直径36m、高さ4mほどの円墳で、7世紀末ごろの築造。4段に築かれており、周囲には幅5mから6m、深さ0.5mの堀が確認されている。 この堀を含めた直径は46mとなり、古墳時代末期としては大型の古墳である。

各段の斜面の部分には石がふかれていると言うが、季節がら草木でよく分からず。

石室は横穴式で、南に入り口があり、羨道は幅1.1m、玄室は長さ3.6m、幅2.1m、長さ2.4mで安山岩が使われている。入り口の天井石は露出しているが、石室は埋め戻されている。鉄鏃や銅鋺、土師器、須恵器などが出土している。

荒砥富士山古墳 (4)
墳丘部にあった石。何か書いてあるようだが、よく分からず。何か祀ってあった残骸かも。

以前も思ったんだけど、古墳を見に行くのは冬がいいね。この時期だと草木が生い茂っていて、形もよく分からない。

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前橋市粕川町深津の七ツ石雷電神社。

七ツ石雷電神社 (1)
七ツ石雷電神社 (2)
七ツ石雷電神社 (3)
七ツ石雷電神社 (4)
小さい鳥居から参道を進んでいくと、あばら家のような拝殿らしきものが見える。

七ツ石雷電神社 (5)
七ツ石雷電神社 (6)
拝殿の奥には巨石が。巨石の上に祠があり、これが雷電様かな。ご神体はこの巨石群と思われる。

七ツ石というくらいだから、巨石は7つあるのかも。季節がら草が生い茂っており、詳細はよく分からない。七つよりあったような気もする。

七ツ石雷電神社 (7)
七ツ石雷電神社 (8)
ここは七ツ石祭祀遺跡という名もあり、もともとは巨石信仰、祭祀の場であり、後に雷電様を祀り雷電神社と呼ぶようになったと思われる。

この巨石群は、赤城山からの岩屑なだれが集積したものと考えられ、前橋市下大屋町の産泰神社、伊勢崎市下触町の石山観音(万徳寺)も同様である。
 「安産の神様と巨石群 -産泰神社-
 「日本一(?)の大鰐口 -万徳寺(石山観音)-

この周辺では、弥生時代~古墳前期にかけての住居址が20ヶ所以上、小古墳が100基以上見つかっており、この集落の人々の祭祀の場であったんだろうね。

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前回に引き続き、前橋市苗ヶ島町の霊松山金剛寺。
金剛寺の墓地には、東宮鐡男(とうみやかねお)陸軍大佐の墓がある。

東宮大佐180ピクセル
東宮大佐は明治24年(1892年)生まれ、前橋中から陸軍士官学校に進学、大正4年(1915年)陸軍歩兵少尉に任官。大正14年(1925年)大尉に進級し、翌年独立守備隊第2大隊中隊長に就き、奉天に屯在する。

昭和3年(1928年)の張作霖爆殺事件では、爆破のスイッチを押したという。

爆殺事件後、満蒙開拓移民の構想を抱き、実行に移していく。この構想は満州を日本の生命線としていた関東軍首脳の興味を捕らえた。

昭和6年(1931年)の満州事変以降に日本からの満州国への移民は本格化し、農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。

満州開拓移民の募集には、「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

東宮鐵男の墓 (1)
東宮鐵男の墓 (2)
東宮大佐自身は、満蒙開拓が軌道に乗ることを見ることなく、昭和12年(1937年)上海にて戦死している。左胸に被弾した東宮大佐は、もはや助からないことを自覚し、部下にノートと鉛筆を出させ、
 うれしさや 秋晴れの野に 部下と共
という辞世の句を残し絶命した。享年45歳。

満蒙移民は終戦直前のソ連の参戦で、その多くが国境地帯の取り残され、帰国には困難を極めた。帰国途中での死亡、行方不明、ソ連・シベリアの収容所へ送られたものも多かった。

このような満蒙開拓団の悲劇のため、東宮家は長らく移民関連資料を秘匿していた。しかし平成18年(2006年)NHKの求めに応じ、一部を提供している。いかなる批評をされても仕方ないとの判断だったようだ。

国策として行われた満蒙開拓移民に関しては、様々な意見があるだろう。日中戦争と結び付けたり、後の中国残留孤児問題の発端でもあり、批判的な意見も多いかもしれない。

しかし軍事的な目的もさることながら、各地農村の疲弊を目にした救済策であることも事実であり、こういう視点をもった軍人はいなかったのも事実である。

最後に、東宮大佐の葬儀は盛大を極め、後の首相・東条英機や岸信介も参列している。

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前橋市苗ヶ島町の霊松山金剛寺。

金剛寺 (1)
金剛寺 (2)
開山は承安年間(1171~75年)赤城山大通庵に創建し、 山号を厳松山と称した。慶長(1596~1615年)、元和(1615~24年)の頃現在地に移っている。

創建時の大通竜跡の松を採って観音菩薩を作ったところ、その根に霊芝が生えてきてその形が尊像にな ったことから、霊松山の山号となったと伝えられる。

金剛寺 (3)
金剛寺 (4)
宝暦年間(1751~63年)に火災の為灰燼に帰したが、後に再建されている。

金剛寺には、前橋市の重文が数多くあるので、いくつか紹介する。

金剛寺 (5)
六地蔵の石幢。灯籠の形で火袋の変わりに六地蔵を刻んだ塔身を入れ、竿部に輪廻車孔を持っている。塔身部は三面を一面各々二体づつ地蔵を配し他の一面は弥陀三尊像を刻している。輪廻孔左右に銘文が刻まれている。

金剛寺 (6)
開山・円義上人の墓。

金剛寺 (7)
金剛寺 (8)
おびんづる様の石殿。中に木像ののおびんづる様が鎮座していたが、朽ちてしまい、昨年立派なおびんづる様が再建されている。おびんづる様といのは お釈迦様の十六人の弟子(十六羅漢)の一人。

金剛寺 (9)
赤城塔と呼ばれる五輪塔。だいぶ草が生い茂っていた(笑)。

金剛寺 (10)
金剛寺 (11)
本堂の欄間彫刻。写真のものが重文指定のものかは不明。

その他、双体道祖神が有名らしいが、見逃したようだ。

金剛寺墓地には、東宮鐡男(とうみやかねお)陸軍大佐の墓がある。これは次回。

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前橋市鼻毛石町の赤城寺。
赤城は「あかぎ」ではなく「せきじょう」と読む。

赤城寺 (1)
赤城寺 (2)
赤城寺の由緒は分からず。

赤城寺 (3)
鼻毛石出身の武将・北爪将監の供養塔。北爪氏って全く知らないけど、北爪長秀を祖先とする豪族らしい。と言っても、北爪長秀って・・・?? さらに将監も??だけど・・・。

この供養塔は享保11年(1726年)の建立で、子孫が将監没後100年に造立したもの。近年の供養塔の改修工事の際、甕の中から兜や仏像、経文、奥歯などが見つかっている。

赤城寺 (4)
赤城寺 (5)
六地蔵石幢は風化が激しく覆屋内で保存されている。鎌倉時代のものと推定されている。

赤城寺 (6)
赤城寺 (7)
種子十三仏塔と呼ばれる石塔。梵字によって十三仏が書かれている? 梵字が分からないのでなんとも・・・。

十三仏とは冥界の審理に関わる13の仏のことで、十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る役目を持つという。ちなみに、不動明王、釈迦如来、文殊観音、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩の十三仏。

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前橋市粕川町膳の粕川歴史民俗資料館。

粕川歴史民俗資料館 (1)
粕川歴史民俗資料館は、赤城南麓地域を中心とした考古資料や民俗資料を展示している。建屋は旧粕川小学校の木造校舎の一部を利用して造られているらしいが、綺麗で立派に見える。

粕川歴史民俗資料館 (2)
大室古墳古墳群出土の難波などが展示されている。

行ったときは、企画展「前橋の群集墳」が開催中で、前橋の古墳から出土した様々な遺物が展示されていた。

粕川歴史民俗資料館 (3)
月田古墳群出土の須恵器類(蓋、坏、短顎壺)。

粕川歴史民俗資料館 (4)
11号墳(味気ないネーミングだ)出土の直刀2振。

粕川歴史民俗資料館 (5)
白藤古墳群V-2号古墳出土の剣、砥石、鉄鏃など。

粕川歴史民俗資料館 (6)
白藤古墳群A-1古墳出土の勾玉類。

粕川歴史民俗資料館 (7)
近戸古墳群4号墳出土の銅製の馬具(三鈴杏葉)。

このての資料館では定番の農工具・養蚕具も展示されている(写真はない)。

実は、粕川歴史民俗資料館に行ったのは4回目なんだよね。1回目、2回目はいずれも展示品入換え期間中で休館。3回目は火曜日に行ったら休館日だった(火曜が休館日だとは知らなかった)。で、今回4回目にしてやっと見学できたということ。

最初に行った時から、既に2年経過している。まあ、ちゃんと調べてから行けば、こんなことにはならなかったんだけど・・・。

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前橋市富士見町石井の石井山珊瑚寺

珊瑚寺 (1)
大同2年(807年)日光山を開いた勝道上人が、石井山三錮寺として開山したといわれている。

珊瑚寺 (2)
珊瑚寺 (3)
珊瑚寺 (4)
文明年間(1469年~1486年)に世義貫和尚によって天台宗に改められ、寺名も珊瑚寺となった。

珊瑚寺 (5)
地蔵堂は宝暦4年(1754年)の建立で、子育て地蔵として知られる。

珊瑚寺 (6)
地蔵堂の奥には、鎌倉・南北朝期の造立の板碑がある。

珊瑚寺 (7)
板碑の隣には、なんと梶原景時父子の墓という五輪塔が!鎌倉時代初期に梶原景時の娘と伝えられる尼僧が住寺し、長く尼寺となっていた時期があったらしい。

梶原景時は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。石橋山の戦いで、洞穴に潜んでいた源頼朝を救ったことで有名。鎌倉幕府では、侍所所司、厩別当などを歴任。

2代将軍・頼家時代も宿老的な役割を果たしていたが、御家人諸将66名から景時排斥の連判状が出され失脚。景時は上洛の途上、在地の武士たちと戦闘になり、嫡子・景季、次男・景高、三男・景茂が討たれ、景時は付近の駿河国・西奈の山上にて自害。

そんなことがあったので、その尼僧が父・兄弟を弔うために建てた?

実は、珊瑚寺には源頼朝の墓もあるという。駐車場の案内板にあった。でも、案内表示もなく結局見つけられず。それっぽい五輪塔は確認できたんだけど・・・。

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前橋市富士見町横室の陣場・上庄司原古墳群その2。

横室古墳公園2 (1)
横室古墳公園2 (2)
上庄司原2号古墳。6世紀後半から7世紀後半の造営と推定される。上庄司原1号古墳の西側に隣接しており、石室のみ移築・復元している。元々は直径約20mの円墳で、南側の一部を除いて周堀が巡っていた。

石室は榛名山二ツ岳噴出の角閃石安山岩を用いた、削り石積両袖型横穴式石室。玄室は間仕切りによって奥室と前庭に区切られ、奥室の床面の方が一段高く造作されていた。

石室は構築後まもなく左壁から崩壊したと思われ、遺物がほとんど盗掘されないで残っていた。直刀・小刀や須恵器・平瓶(ひらべい)・長頚瓶(ちょうけいへい)、ガラス小玉・耳環・馬具、鉄鏃など。

中小の古墳は、だいたい盗掘されてしまっていて、遺物が残っているのは非常の珍しい。埋葬当時の副葬品の内容がわかる貴重な古墳。

横室古墳公園2 (3)
横室古墳公園2 (4)
上庄司原4号古墳。6世紀後半から7世紀後半の造営と推定される。ここから400m南西にあった古墳の石室を移築・復元したもの。直径約16mの円墳で、北側から西側にかけて周堀が巡っていた。

石室は2号古墳と同じ榛名山給源の角閃石安山岩を用いたもので、形状は他の古墳と同様に両袖型横穴式石室。石材の加工方法・石室の構築方法は、截石切組積という当時の最高技術がを用いられている。

確かに、切石の組み合わせは素晴らしく、精巧である。

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前橋市富士見町横室の陣場・上庄司原古墳群。
横室古墳公園として整備されている。

横室古墳公園 (1)
平成元年(1989年)の整備事業により、陣場・上庄司原古墳群の発掘調査が行われ、7基の古墳が調査された。全て円墳で、墳丘規模が直径20m前後が5基、10m前後が2基。

横室古墳公園 (2)
上庄司原1号古墳。6世紀後半から7世紀後半の造営と推定される。古墳群の中で一番保存状態が良かったため、そのまま整備保存されている。直径約14m(テラス状の基壇を含めると約24m)の円墳。周辺には周堀が巡っている。墳丘の周囲には葺石も積まれている。

横室古墳公園 (3)
横室古墳公園 (4)
石室は赤城山の山石(輝石安山岩)を用いた、自然石乱石積みの両袖型横穴式石室で、旧地表面を掘りこんで作られている。石室の前面には、墓道状の前庭が設けられており、墓前祭が行われたと考えられる。

玄室の中からは、耳環や大刀、鉄鏃、馬具等が出土し、人骨、歯も残っていたらしい。

上庄司原2号古墳&4号古墳につづく。

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前橋市堀越町の無量山月照院養林寺。

養林寺 (1)
養林寺 (2)
大胡氏がこの地に、念仏修行の草庵を建てたのが始まりみたいだが、天正18年(1590年)徳川家康の関東入府に伴い、大胡城主となった牧野康成が浄土宗の寺を建て、牧野家の菩提寺にしたのが養林寺である。

もともとは大胡氏の館跡といわれ、本堂裏手には土塁や堀跡が残っているらしい。裏に行かなかったので、気が付かなかった。

養林寺 (3)
養林寺 (4)
本堂脇の墓地内に、門扉の付いた牧野家の墓所がある。中央が牧野康成の墓である。

牧野康成は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、德川秀忠軍に属し真田昌幸が守る信濃上田城攻めに参加している。でも、このため秀忠は関ケ原に遅刻するんだけどね。

同年代に、徳川家康の伊賀越え(本能寺の変の時、堺にいた家康が伊賀を超えて、本領の三河に命からがら逃げた)に随行した、牧野康成(やすしげ)という武将がいたらしい。

調べていて混乱した。資料の中にも、明らかに混同しているものもあった。牧野氏自体がそんなに有名じゃないから、しょーがないかもね。

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前橋市堀越町の豊国山長善寺。

長善寺 (1)
長善寺 (2)
大胡城主・大胡太郎藤原重俊が、護法大雲大和尚を開山に請して、赤城南麓滝窪の北、白草地区の寺沢窪に開創した。豊国山の山号は、豊臣秀頼から贈られたものらしい。(経緯は知らない。)

長善寺 (5)
長善寺 (4)
本堂の西にある墓地のほぼ中央部に、大胡太郎の墓と伝わる石塔がある。向かって左側のものは、奥方の墓といわれる。

大胡太郎の墓といわれる石塔は、上から宝珠に請花があり、次に屋蓋、塔身と続き、これらをしっかりとした基台で支えている。このうち屋蓋が小さいことから、異形多宝塔の形式と見られる。

大胡氏は鎌倉時代から室町時代にかけて、赤城山南麓で勢力を持った一族である。藤原秀郷の子孫で、藤姓足利氏の庶流にあたる。足利成行の庶子・重俊が、大胡太郎を称したのに始まる。(藤姓足利氏とは、藤原秀郷の子孫を言い、源氏の足利氏とは関係ない。)

ちなみに、藤原秀郷は俵藤太の通称で知られ、三上山の大百足退治の伝説で有名である。

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前橋市柏倉町の阿久沢家住宅。

阿久沢家住宅 (1)
阿久沢家住宅 (4)
17世紀末に建てられた群馬県内最古の農家建築のひとつ。屋根は寄棟、茅葺で、「赤城型民家」と呼ばる平側の一部を切り取り、養蚕のために採光や通気がし易いように工夫されているが、住居部は開口部が少なく、赤城型民家より一時代古い民家の形式を伝えている。

阿久沢家住宅 (2)
阿久沢家住宅 (3)
桁行8間、梁間4.5間と規模としては中規模で、平面的には広間型三間取りなどから当時の農家建築の典型とされる。

阿久沢家は阿部宗任の後裔と伝えられ、室町末期に赤城南麓に住みついたといわれている。江戸時代中期には、名主や組頭をつとめた旧家だとか。

群馬県の農家は、ほとんどこの建物の形式(間取り)が、戦前まで踏襲されていたらしい。

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前橋市三夜沢町の赤城神社。
前回の赤城山・赤城神社と上野国二宮論社のひとつである。(もうひとつは二宮・赤城神社。)

三夜沢・赤城神社 (1)
豊城入彦命が上野国を支配することになった際、大己貴命を奉じたのが始まるとされる。長元9年(1028年)には、正一位に叙せられている。(正確にはどこの赤城神社かは不明。)

三夜沢・赤城神社 (2)
三夜沢・赤城神社 (3)
木造の鳥居から拝殿までは、木々に囲まれ非常に雰囲気が良い。厳かって表現がピッタリ。赤城山・赤城神社の派手やかな朱色と比較し、シックで奥ゆかしい。

三夜沢・赤城神社 (4)
三夜沢・赤城神社 (5)
拝殿の後方、一段高く中門があり、垣の中に本殿がある。本殿の中には内宮殿があるらしい。

ここは本当に雰囲気が良い!そんなに大きく(広く)はないが、こんもりした木々に囲まれ、鳥居から境内、拝殿、中門、本殿に至るまでの厳か感。うまく表現できないけど、そういうこと。

今までいろんところの神社に行ってきたけど、上位に入るね。

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前橋市富士見町赤城山の赤城神社。大沼にせり出した半島状の小鳥が島に鎮座している。

赤城山・赤城神社 (1)
大同元年(806年)に小沼から見上げる神庫山(現、地蔵岳)の中腹より、大沼の畔に遷宮されたという記録が残っている。神仏習合期には神域が赤城山全体に及び、長元9年(1028年)には、正一位に叙せられている。(昭和40年(1965年)に、現在地・小鳥ケ島へ遷宮。)

赤城山・赤城神社 (2)
赤城山・赤城神社 (4)
赤城山・赤城神社 (5)
非常にまぶしい朱色が鮮やかである。神社っぽい。

赤城山・赤城神社 (3)
拝殿の写真に古装束の方々が写っているが、この日は笠原流弓馬礼法宗家と門人方による、弓術の奉納が執り行われた(らしい)。別に待ってまで見るほど興味もないし、まだ行くところもあったので・・・。

赤城山・赤城神社 (6)
大沼に架かる啄木鳥橋。湖畔からこれを渡って赤城神社にお参り、のはずだったんだけど、駐車場がいっぱいで裏側に。結局渡らず。

赤城神社は上野国二宮なんだけど、どこが本宮かで揉めており、未だに結論が出ていない模様。ちなみに、ここと三夜沢・赤城神社と二宮・赤城神社。

そのため、長元9年(1028年)に贈られている正一位も、正確にはどこの赤城神社に贈られたか不明らしい。

赤城神社って、大小を合わせると関東一円に100以上あるんじゃない?それだけに総元締め(?)を決めるのも大変ってことかな。

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前橋市大胡町の雷電山にある、大前田英五郎のお墓。

大前田英五郎の墓 (1)
大前田英五郎の墓 (2)
大前田英五郎は、江戸時代末期に活躍(?)した侠客。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」とも呼ばれた。

大前田英五郎の墓 (3)
キップのよさと腕っ節の強さから、関東一の大親分として名を馳せた。また、侠客どうしの争いを収めるのが上手く、謝礼に貰った縄張りが全国に200ヶ所以上あったといい、「和合人」と呼ばれた。

大前田英五郎の墓 (5)
大前田英五郎の墓 (4)
近年整備されたのだと思うが、立派な銅像が建っている。

ちなみに、前橋市大前田町にも大前田英五郎のお墓がある。そこは田島家(英五郎の本姓)の墓である。機会があったら、そっちもお参りしよう。

一貫してお上に立ち向かった、武闘派博徒の国定忠治とは異なり、晩年は郷里大前田に帰って82歳の大往生を遂げた。

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前橋市富士見町赤城山の赤城山総合観光案内所。
赤城山の山頂付近の新坂平にある。

赤城山総合観光案内所 (5)
昭和58年(1983年)にエネルギー資料館として群馬県が設立し、平成13年(2001年)に旧富士見村に譲渡され、赤城山総合観光案内所として利用されている。

赤城山総合観光案内所 (2)
赤城山の歴史、赤城山ゆかりの人々、文人たちの赤城とか、ちょっとした
展示がされている。

赤城山総合観光案内所 (3)
床に大沼周辺のMAPが描かれており、観光の参考になる。

赤城山総合観光案内所 (1)
クマやシカのはく製があったけど、やっぱりクマが出るんだろうな。

赤城山総合観光案内所 (4)
白樺牧場や周囲の山々を見渡せる絶好のロケーションに位置してる。
でもこの日は霧が出ていて(後で雨に降られた)、あんまりいい写真はない。

自転車でここまで上ってきた人たちが、たくさん休憩していた。この坂道を・・・。偉いなぁ~・・・。

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前橋市田口町の白法山政淳寺(しょうじゅんじ)。
ここには、詩人・萩原朔太郎(萩原家)のお墓がある。

政淳寺 (3)
政淳寺 (1)
政淳寺 (2)
建長8年(1256年)の創建と伝えられる。以前は、前橋市内の榎町(現:千代田町)にあったが、昭和47年(1972年)現在地へ移転している。

政淳寺 (4)
朔太郎は北原白秋に師事し、26歳のとき『夜汽車』他5編の詩で、中央文壇にデビュー。大正6年に処女詩集『月に吠える』で、一躍全国に名を知らしめ、その後も『青猫』『純情小曲集』『氷島』などを次々に発表。日本近代詩に不滅の金字塔を打ち立てた。

昭和17年(1942年)、肺炎のため東京の自宅で死去、享年55歳。政淳寺の萩原家墓地に埋葬される。

敷島公園のばら園内に、朔太郎の生家(書斎、離れ座敷、土蔵)を移築した記念館がある。
(「ネコも入りたがる記念館 -萩原朔太郎記念館-」)

敷島公園をブラブラした時、ばら園の萩原朔太郎記念館を見て、墓所のあるこの政淳寺を思い出したってこと。

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前橋市富士見町原之郷の九十九山古墳。
6世紀前半の造営と推定される。

九十九山古墳 (4)
九十九山古墳 (6)
九十九山古墳 (3)
自然の独立山(九十九山)の、上部を利用して築造された前方後円墳。全長約60mだが、自然の山に築かれているため、どこまでが墳丘かは判断が難しい。

九十九山古墳 (5)
石室入口が開口しているが、金網で囲ってあったので、無理にはいることはしなかった。入口が狭かった、ということもあるけどね。

石室の奥行きは、約8mもあるみたいで、けっこう大きい。

九十九山古墳 (7)
九十九山古墳 (1)
墳丘上には社(祠)がある。そのためか、古墳北側には鳥居があった。

もともとの山(丘)の上部を使って古墳にしちゃうなんて、この辺の人は合理主義だね(笑)。まあ、有力な豪族ではなかった、ってことになるのかな。

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前橋市富士見町原之郷の原西の阿弥陀坐像。

原西の阿弥陀堂 (3)
原西の阿弥陀堂 (2)
実はこの阿弥坐像は、船津傳次平翁の墓所敷地内にある。富士見村(現、前橋市富士見町)指定重要文化財とあったので、写真を撮ってきた。

原西の阿弥陀堂 (1)
慶長11年(1606年)に造られたが、文政13年(1830年)に焼失し、天保12年(1841年)に再建されたという。

前橋市の解説板に書いてあること以外は、いろいろ調べたんだけど、見つからなかった。

まあ、これこそ「上毛かるた紀行」のついでに寄ってきた、というもともとのサブ紀行の趣旨通り、といったところだね。

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