Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 前橋市(旧郡部)


前橋市(旧大胡町、旧宮城村、旧粕川村、旧富士見村)

前橋市富士見町・横室の大カヤ
前橋市粕川町・石造馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊
行基作? 秘仏・木造十一面観音立像 -聖観音堂-
「ふじけんさま」 -赤城浅間神社-
前橋市・横沢の石塔婆
前橋市大前田町・世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像
前橋市堀越町・堀下の仏像群
八雲の「のんのさま」 -八雲神社-
前橋市粕川町・鏡手塚古墳
前橋市粕川町・壇塚古墳
おなぶち城址公園 -女渕城址-
前橋市粕川町・女淵御霊神社
前橋市大前田町・諏訪神社
センサー付き手水舎 -市之関住吉神社-
あ・うん石仏 -馬場稲荷神社-
前橋市苗ヶ島町・苗島神社
前橋市粕倉の双体道祖神
石造薬師如来坐像 -東昌寺-
武田勝頼のさかさ梅 -村主神社-
大前田英五郎の墓 その2
前橋市・大前田の地蔵菩薩石像
膳城の守り神 -膳八幡神社-
江戸時代中期の石幢 -龍性寺-
武田勝頼の素肌攻め -膳城跡-
粕川町月田の石造仏群 -光善寺跡?-
粕川の由来 -月田近戸神社-
赤城神社御神幸の休憩地 -大胡神社-
牧野家家老・山本帯刀の墓 -長興寺 その2-
伊勢崎藩主・稲垣長茂両親の墓 -長興寺-
前橋市堀越町・堀越古墳
7世紀末の大型円墳 -荒砥富士山古墳-
巨石祭祀遺跡 -七ツ石雷電神社-
満蒙開拓移民の父・東宮鐡男陸軍大佐の墓 -金剛寺 その2-
前橋市苗ヶ島町・金剛寺
北爪将監の供養塔 -赤城寺-
前橋市・粕川歴史民俗資料館
梶原景時父子の墓? -珊瑚寺-
陣場・上庄司原古墳群 -上庄司原2号古墳&4号古墳-
陣場・上庄司原古墳群 -上庄司原1号古墳-
牧野家の菩提寺 -養林寺-
大胡太郎(藤原重俊)の墓 -長善寺-
県内最古の茅葺民家? -阿久沢家住宅-
赤城神社 その2 -三夜沢・赤城神社-
赤城神社 その1 -赤城山・赤城神社-
関東一の大親分 -大前田英五郎の墓-
赤城山総合観光案内所
萩原朔太郎のお墓 -政淳寺-
前橋市富士見町・九十九山古墳
前橋市富士見町・原西の阿弥陀坐像

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市富士見町横室の大カヤ。

横室の大カヤ (1)
横室の大カヤは、地元旧家である金澤氏が寛延2年(1749年)に邸外に諏訪神社を祀り、そのご神木としたもの。諏訪神社自体は、明治40年(1907年)に地元の赤城神社に合祀されている。

横室の大カヤ (2)
横室の大カヤ (3)
樹高24.2m、根回り14.4mで、樹齢は1000年以上ともいわれる。日本三大カヤのひとつに数えられている。ちなみにもう2つは、「浜北の大カヤ」(静岡県)、「与野の大カヤ」(埼玉県)である。

かつては秋になると4石(約720リットル)もの実をつけ、食料にしたり油を絞るなどして、地域住民の生活を支えたといわれる。なお、現在もカヤ及び敷地は金澤氏の所有(私有地)のため、見学の際はマナーを守りましょう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町稲里の馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊。

馬頭観音石像 (1)
馬頭観音石像 (2)
馬頭観音立像は三面六臂で安山岩製。像高は基壇含め185cm、塔身90cm、延享4年(1794年)稲里村民の建立。

事情は知らないが、修理跡が痛々しい。真っ二つになってしまっていたようだ。

笠かぶり地蔵 (1)
笠かぶり地蔵 (2)
馬頭観音像のすぐ隣にある笠かぶり地蔵尊立像。こちらも延享4年(1794年)の建立。笠をかぶった出生比丘形。台座の連弁も完備している。

どちらも貴重な石造文化財として、前橋市の重文に指定されている(もともと粕川村の重文)。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町女渕の聖観音堂。

女渕の聖観音堂 (1)
女渕の聖観音堂 (2)
鳥居が建っているが境内には僧侶のお墓らしき石塔もあり、お寺が隣接していようだ。昭和40年(1965年)頃までは多福寺が別当寺(廃寺)だったというので、その名残か。

女渕の聖観音堂 (3)
女渕の聖観音堂 (4)
聖観音堂といわれるが、祀られているのは十一面観音。

女渕の聖観音堂 (5)
木造十一面観音立像は像高175.5cmで、平安時代末の作と推定されている。県内最古級の木彫仏。享保20年(1735年)に修理した旨の墨書が残っている。

十一面観音立像は秘仏であり、60年に1度ご開帳される。内部にそれらしき観音像が見えるが、前立像だと思う。観音像は厨子に納められている。

行基が天平9年(737年)の関東巡教の際に、当地に留まり造立したとの伝承がある。もとは行基ヶ原というところにあったが、後に現在の聖観音堂に納められたという。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町月田の赤城浅間神社。

赤城浅間神社 (1)
赤城浅間神社 (2)
赤城浅間神社は慶長17年(1612年)石橋平左衛門という者が富士山頂の浅間神社から分霊を勧請し創建したと伝わる。富士山に7度登頂し大願成就した記念のようだ。

写真では分かりづらいが、この鳥居、非常に背が低い。屈まないとくぐれない。

赤城浅間神社 (3)
祠と石塔が置かれているが、どれが何なのかよく分からない。勝手に思うと、写真右の祠が浅間神社か。

赤城浅間神社 (4)
後に赤城神社が合祀されたのだと思うが、手前が赤城神社か? もしかしたら、赤城神社は赤城山そのものがご神体で、祠は里宮の位置づけかも。

赤城浅間神社 (5)
「君が代石(さざれ石)」との案内板あった。石そのものは赤城山の噴火時に噴出した花崗岩らしい。小さな石が長い年月を掛け巌になる「君が代」の歌詞のさざれ石。

創建者である石橋家が代々守り続けてきているようで、地域の守り神として「ふじけんさま」と呼ばれ、地元の方々から慕われている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市横沢町の石塔婆。

横沢の石塔婆 (1)
横沢の石塔婆は赤城山から噴出した輝石安山岩製で、頂面に大日如来、南面に観音菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来、東面に薬師如来を意味する種子(梵字)が刻まれている。

横沢の石塔婆 (2)
紀年銘は、観音菩薩に暦応2年(1339年)、阿弥陀如来に暦応5年(1342年)、釈迦如来に康永2年(1343年)とあり、3つの年に渡っている。いずれも南北朝期の北朝の年号。どの年も2月18日の観音菩薩の有縁日であることから、観音信仰の対象として造られたものと考えられている。

また、願主の長源子満が康永2年(1343年)に亡くなったと思わせる「辞世敬白」との銘文も刻まれている。

横沢の石塔婆 (3)
付近に宝篋印塔の残片があったが、当地は満福庵という寺院があったらしい。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市大前田町の世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像。

世良田薬師(1)
世良田薬師(2)
世良田薬師堂には、阿弥陀如来坐像と薬師如来坐像が納められている。ちょうと日差しの関係で、薬師如来坐像に直射日光が当たっていて・・・。

世良田薬師(3)
阿弥陀如来坐像は凝灰岩製で、総高70cm、像高42.5cm、総幅48cm、像幅32cm。石材は旧笠懸町の天神山からの産出。上段に連弁が薄肉彫りされた2段の蓮座と舟形光背を持つ。彫刻の手法などから、鎌倉時代後期の造立と推定されている。保存状態が非常に良く、前橋市の重文になっている。

世良田薬師(4)
日差しで見づらいけど、薬師如来坐像。

世良田薬師(5)
世良田薬師(6)
世良田薬師(7)
薬師堂の前には、石仏、仏塔などが多数ある。元々は寺院だった?

世良田薬師(8)
大前田町夜泣き伝説の石「夜泣き石」というのがあった。伝説は調べても分からなかったが、子どもの夜泣きが治るという石か、それとも石が泣くのか?

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市堀越町の堀下の仏像群。

堀下の仏像群 (1)
仏像群は、堀越町内のあった長慶寺(廃寺)が明治8年(1875年)に火災に遇い、薬師如来像1体と十二神将像を救出し、現在地に移転したものである。

堀下の仏像群 (2)
中央の薬師如来像は石造で、台座ともに42cm。享和元年(1801年)の銘がある。

堀下の仏像群 (3)
十二神将像は木造で、台座ともに46cm。

お堂に「電話をくれれば説明します」みたいな張り紙があった。事前に知ってればお願いしたんだけどなあ。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町室沢の八雲神社。

八雲神社 (1)
八雲神社 (2)
八雲神社の由緒は不明。扁額が「八王子」となっているので、八王子神社だったのかもしれない。一般的に、八王子神社も八雲神社も祭神は素戔嗚尊なので。

八雲神社 (3)
手水舎(舎でなく鉢か)の竹筒が取れてしまっているのはまだしも、どうやって水を出すのか?

八雲神社 (4)
八雲神社 (5)
八雲神社 (6)
社殿は平成3年(1991年)に改修されている。

八雲の「のんのさま」とは、ご祭神の素戔嗚尊のことで、詩人・野口雨情は大正14年(1925年)に室沢を訪れた際、「八雲ののんのさま気が荒い 室沢の若衆にゃ手を出すな」と詠んでいる。

八雲神社の秋の例祭は子どもが主役で、子ども相撲が境内の土俵で行われるという。行ったときは、境内が草ボウボウで土俵には気づかなかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町月田の鏡手塚古墳。

鏡手塚古墳 (1)
鏡手塚古墳 (2)
鏡手塚古墳は周堀を含めた最大長50mの前方後円墳で、墳丘部分のみの長さは28m、後円部の直径は17m、高さは3mである。石室は後円部にあり、粕川系の安山岩の自然石を用いた乱石積み片袖型横穴式石室で、全長約6m、最大幅1.3m、高さ1.73mである。

墳丘から人物、馬などの形象埴輪が、石室内部からは直刀五振の他、耳環、鉄鏃などが多数出している。

出土遺物、石室の形態などから、6世紀中ころの築造と推定される。

ちょっと面倒くさがって離れた写真しか撮ってない。(上の写真が南側から、下の写真は北側から)

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町月田の壇塚古墳。

壇塚古墳 (1)
壇塚古墳 (2)
壇塚古墳は二段に構築された円墳で、周囲を含めた直径は約40m、墳丘は直径25m、高さ4m。6世紀後半の築造と推定される。

墳丘全面が人頭大の河原石を用いた葺石で覆われ、周堀は墳丘からやや離れて検出し、石室前に「渡り」を設けていた。

壇塚古墳 (3)
壇塚古墳 (4)
石室は粕川系の安山岩の自然石を用いており、乱石積み片袖型横穴式石室。全長7.42m、最大幅2.05m、高さ1.9m。

石室開口部は、埋没防止のため土嚢が積んであるが、埋没しそうな雰囲気。石室内を覗いて見たら、崩落防止の鉄柱が見えた。(写真には写らなかったけど)

遺物は石室入口部から人物、馬、器材などの埴輪類、石室内から直刀三振、小刀二振、刀子、鉄鏃、耳環、玉類などが出土している。また、墳丘部からは家型埴輪や器材埴輪も出土している。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町女渕の女渕城址。

女渕城址 (1)
女渕城址は「おなぶち城址公園」として整備されている。

女渕城址 (2)
女渕城の築城者・年代は不明だが、戦国時代には武田氏、上杉氏、北条氏などが領有している。

女渕城址 (3)
本丸は東西40m、南北30mと広いが、現在は一面畑となっている。

女渕城址 (4)
女渕城址 (5)
女渕城址 (6)
城址は東西200m、南北450mの広域で、主要郭は南北320m、最大幅90mの水濠の東側に南北に配置されている。

女渕城址 (7)
西曲輪は水濠を挟んで西側にあり、堀を巡らせていた。立派な門があるが何だろう? 橋の手前に「私有地につき立ち入り禁止」の旨あったが、門の奥に民家があるようにも見えない。土地が個人所有になっているということかな。

女渕城址 (8)
二の丸跡は芝生広場として整備されている。三の丸跡は前回紹介した女渕御霊神社が鎮座している。(「前橋市粕川町・女淵御霊神社」参照)

女渕城址 (9)
二の丸と三の丸間の土塁。

女渕城は上杉謙信が平井城(藤岡市)を奪還した永禄3年(1560年)上杉氏勢力下に入る。足利長尾氏(景長)が城主だったが、娘婿の顕長は由良成繁の3男のため、足利長尾氏は由良氏の別働隊となり、由良氏同様北条氏配下に。そのため、女渕城は豊臣秀吉の小田原攻め(天正18年:1590年)時、他の北条方の城同様落城、廃城となっている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町女渕の御霊神社。

女渕御霊神社 (1)
女渕御霊神社 (2)
女渕御霊神社は元慶年間(877~85年)に、当地の豪族・南渕秋郷が勧請したといわれる。南渕秋郷は住民から慕われ「御南渕様」と呼ばれており、それが「おなぶち」と変化したのが、「女渕」の地名の始まりという(他説あり)。

女渕御霊神社 (3)
女渕御霊神社 (4)
天文年間(1532~55年)に長尾顕長の家臣・荒井図書允が再興したという。

長尾顕長は由良成繁の3男。足利長尾氏に婿入りし長尾氏を名乗る。ただ、顕長の生まれは弘治2年(1556年)とされているので、「天文年間に家臣が再興」というのは、少し年代がズレているようだ。

女渕御霊神社 (5)
女渕御霊神社 (6)
女渕御霊神社 (7)
女渕御霊神社は女渕城の三の丸(跡)に位置している。当地に遷座したのは安政5年(1858年)。女渕城は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻め時に廃城となっている。

女渕御霊神社 (8)
女渕御霊神社 (9)
女渕御霊神社 (10)
女渕御霊神社には太々神楽が伝わる。明治10年(1877年)に近戸神社(現大胡神社)から伝授された「里神楽」である。曲目は多くあるが、いずれも天下泰平、五穀豊穣を祈るものである。(神楽の写真は群馬県教育文化事業団HPより借用)

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市大前田町の諏訪神社。

大前田諏訪神社 (1)
大前田諏訪神社は応永10年(1403年)諏訪大社からの勧請と伝わる。

大前田諏訪神社 (2)
大前田諏訪神社 (3)
拝殿は質素な造りだが、味わいのある古社といった感じ。扁額は薄くなってきており読みづらい。

大前田諏訪神社 (4)
大前田諏訪神社 (5)
本殿はきれいな彫刻が施されている。

大前田諏訪神社 (6)
大前田諏訪神社には獅子舞が伝承されている。
大前田の獅子舞は宝暦年間(1751~63年)に始まったとされ、古くは西原の下の諏訪神社で行われていたが、保存庫が火災にあったとき、獅子頭3体が火の玉となってが今の諏訪神社の方へ飛んで行ったので、それからこの場所で行うようになったという。(写真は群馬県教育文化事業団HPから拝借)

大前田諏訪神社 (7)
伝統の獅子舞を詠った氏子の方の歌碑。

大前田諏訪神社 (8)
よく分からないが、当地は「東福寺」「大前田学校」跡地という標柱があった。大前田諏訪神社の隣には公民館があったので、そこが東福寺跡地で、大前田学校が置かれていたのかも。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市市之関町の住吉神社。

市之関住吉神社 (1)
市之関住吉神社 (2)
市之関住吉神社 (3)
市之関住吉神社の創建は不詳だが、室町時代初期と考えられている。大正5年(1916年)近隣の大山祇神社、稲荷神社、天満宮などを合祀し、住吉神社となっている。

石段左の2本の楓は、末永く寄り添う夫婦にちなんで「夫婦楓」と呼ばれている。

市之関住吉神社 (4)
手水舎はセンサーが付いているようで、近づくと自動的に水が出てきた。

市之関住吉神社 (5)
市之関住吉神社 (6)
社殿は昭和35年(1960年)の改築。拝殿内には前橋市の重文である「狂歌合わせの額」が掲げられているが、見えなかった。

市之関住吉神社 (7)
扁額は平成27年(2015年)の新調。書は中曽根弘文参議院議員。

市之関住吉神社 (8)
宮城流和算家・六本木忠右衛門の門人が、慶応4年(1868年)に奉納した算額。前橋市の重文になっている。

市之関住吉神社 (9)
総欅造りの本殿。と言っても写真では覆屋で見えないが。

宮城地区は江戸時代から寺子屋や私塾が多数あり、学問に打ち込む人々が多く、そのため和算の成果としての算額や、狂歌の額などが奉納されている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市馬場町の稲荷神社。

馬場稲荷神社 (1)
馬場稲荷神社の由緒は不明。

馬場稲荷神社 (2)
馬場稲荷神社 (3)
馬場稲荷神社 (4)
一の鳥居の扁額には「稲荷大明神」「雷電王」「山神十羅刹」、二の鳥居には「天王宮」。天王宮は後から合祀されたときに、元の鳥居を持ってきたのだろう。

馬場稲荷神社 (5)
馬場稲荷神社 (6)
馬場稲荷神社 (7)
拝殿と本殿。

馬場稲荷神社 (8)
鳥居の東側にある「あ・うん石仏」。2体で「阿形」「吽形」を表している。風化が進んでいるのとコケが覆っており分かりずらいが、向かって右が阿形、左が吽形と思われる。

馬場稲荷神社 (9)
馬場稲荷神社 (13)
馬頭観音。三面六臂で表情は憤怒相で表されている。手には剣や蓮華などを持ち、胸の前で印を結んでいる。台座に寛延4年(1751年)の銘がある。

馬場稲荷神社 (10)
馬頭観音の台座の脇にも馬頭観音がある。こちらは一面二臂。

馬場稲荷神社 (11)
馬場稲荷神社 (12)
お堂の中にはお地蔵さんなど、いくつかの石仏が納められている。前橋市の文化財に指定されているあ・うん石仏は露座なのに。どういうお地蔵さんなのだろう?

馬場稲荷神社の境内東側には多くの石仏・石像があるが、東隣にはかつて(江戸期)観音寺というお寺があったとのことなので、その名残かもしれない。


このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市苗ヶ島町の苗島神社。

苗島神社 (1)
苗島神社 (2)
明治初年に東白山神社など3社を合併し苗島神社となっている。当地は東白山神社の鎮座地であるが、東白山神社の創建年は不詳。なお、扁額は群馬県初代県令・楫取素彦の筆である。

苗島神社 (3)
参道の先に二の鳥居。

苗島神社 (4)
拝殿は昭和43年(1968年)の新築。

苗島神社 (5)
本殿は合併時(明治初年)に改築されているようだ。

苗島神社 (6)
社殿横に石殿があった。詳細は不明だが、前橋市の重文に指定されている。

苗島神社 (7)
社殿周りのは多数の末社(八坂神社あ、天満宮など)が並んでいる。

苗島神社 (8)
同じく社殿周りには巨石がゴロゴロしている。赤城山の山体崩落を伴う岩屑雪崩(約13万~15万年前)の名残か?

苗島神社 (9)
堀田正頌(まさつぐ)徳澤碑。
堀田正頌は幕末から明治初期の人で、下野国佐野藩の最後の藩主。苗ヶ島町との関わりはよく分からない。碑の裏側に経緯が書いてあったのかもしれないが、見てこなかった。

旧宮城村文化財マップ
苗島神社前の苗ヶ島集落センター隅に立っている旧宮城村(苗ヶ島地区)の文化財マップ。そこに白山古墳の記載があり、説明に旧西白山神社跡地とあるので、江戸時代以前には東西に白山神社があったようだ。

ちなみに、白山古墳は探してみたけど見つからなかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕倉町の双体道祖神。
前回の東昌寺の道を挟んだ向かい側にある。
(東昌寺は「石造薬師如来坐像 -東昌寺-」参照)

双体道祖神
粕倉の双体道祖神は、自然石に男女二神が半浮彫りされている。天明5年(1785年)の銘がある。

頭上に笠石をかぶっているが、後から乗せたような気がしないでもない。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕倉町の諏訪山東昌寺。

東昌寺 (1)
東昌寺 (2)
東昌寺の由緒は不明。伝教大師(最澄)の開基という伝承がある。

東昌寺 (3)
東昌寺 (4)
歴代住職の墓地に石殿がある。中には石像が安置されている。石殿の両脇に「当寺中興開山 堅者法印元栄」とある。江戸時代中期頃の住職らしい。

東昌寺 (5)
東昌寺 (6)
境内にある如意輪観音が彫られている二十二夜塔と虚空蔵菩薩(?)が彫られている宝塔。二十二夜塔には寛政11年(1799年)、宝塔には延享2年(1745年)の銘がある。

東昌寺 (7)
東昌寺 (8)
前橋市の重文になっている石像薬師如来坐像。由緒などは不明だが、凝灰岩製のため風化がかなり進んでいる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町前皆戸の村主神社。

村主神社 (1)
村主神社 (2)
村主神社は口碑によると延喜元年(901年)の創建。村主は「すぐり」「すくり」などいくつか読み方があるが、ここは「すぐろ」らしい。

村主神社 (3)
村主神社 (4)
社殿は明治45年(1912年)に再建され、平成18年(2006年)に改築されている。

村主神社 (5)
村主神社 (6)
ご神木の大杉の切り株。
推定樹齢約400年のご神木は昭和43年(1968年)に伐採されていたが、社殿の下にまで根を張っていたものを平成18年(2006年)の社殿改築時に掘り出している。

切り株の周囲は約11mに及ぶもので、往時はその他の巨木と併せ、赤城山腹からも「あそこが村主神社」と分かるほどであったという。

村主神社 (7)
武田勝頼のさかさ梅。
勝頼が天正18年(1580年)に膳城を攻めた際、村主神社前の泉のほとりに馬を留め、持参していた梅の鞭を地面に逆さに挿した。それが芽をふき、村主神社の「さかさ梅」として残っている。(勝頼の膳城攻めに関しては「武田勝頼の素肌攻め -膳城跡」参照)

どう見ても当時の梅ではないので、数代を経ているだろう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市大前田町の大前田英五郎の墓。
大前田英五郎の墓は前橋市大胡町の雷電山にもあり、以前訪問済み。
(「関東一の大親分 -大前田英五郎の墓-」参照)

大前田英五郎の墓
大前田英五郎は、江戸時代末期に活躍(?)した侠客。大場久八、丹波屋伝兵衛と並び「上州系三親分」とも、新門辰五郎、江戸屋寅五郎と共に「関東の三五郎」とも呼ばれた。

こちらは英五郎の本姓である田島家のお墓である。英五郎の父・久五郎、兄・要吉も大前田を縄張りとする博徒で、英五郎はそういう環境の中、自然と同じ道を歩むことになる。墓地には両親、兄の墓もある。

晩年は大胡町に館を構えていたため、雷電山にもお墓があるのだろう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市大前田の地蔵菩薩石像。

大前田の地蔵菩薩石像 (1)
大前田の地蔵菩薩石像 (2)
前橋市のHPにも現地にも解説・案内などがなく、由緒も含めて何も分からない。ただ、石像が傾いてるなぁ~との印象。

この地蔵菩薩石像は前橋市の重要有形民俗文化財に指定されているんだから、何か解説板くらい立てて欲しいところだ。大前田町は前橋市と合併する前は勢多郡宮城村なので、宮城村の文化財指定を前橋市が引き継いだと思われるが・・・。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町膳の八幡神社。

膳八幡神社 (1)
膳八幡神社 (2)
膳八幡神社の創建は不詳だが、石祠だったのを鎌倉幕府の初代問注所執事(長官)・三善康信が建久年間(1190~98年)に社殿を築造し、膳城の守り神として鶴岡八幡宮の分霊を勧請したといわれる。(膳城は「武田勝頼の素肌攻め -膳城跡-」参照)

膳八幡神社 (3)
膳八幡神社 (4)
膳八幡神社 (5)
三善氏の子孫・善氏(後の膳氏)没落後は、大胡城主・大胡高繁の崇拝を受け、天正12年(1584年)に社殿を造営している。また、延元元年(1744年)に前橋藩主・酒井忠知の命で再建されている。

膳八幡神社 (6)
拝殿の彫刻が施された額。

膳八幡神社 (7)
旧粕川村膳出身の須藤泰一郎の歌碑。須藤泰一郎(明治22年~昭和8年)は、「上州新報」で萩原朔太郎に認められ、「アララギ」「心の花」「覇王樹」などで活躍した。赤城山を愛し、数多くの赤城山詠を残している。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市茂木町の大日山龍性寺。

龍性寺 (1)
龍性寺 (2)
龍性寺 (3)
龍性寺は鎌倉時代末に文覚上人の開山と伝わる。太田市世良田町の長楽寺の末寺らしい。

龍性寺 (4)
龍性寺 (5)
境内にある石幢。総高2mで幢身から宝珠まで完全な形で残っている。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

石幢の名称の起こりは、寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、ここからきたものといわれている。幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、石造物で表現したものが石幢である。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町膳の膳城跡。

膳城跡 (1)
室町時代(15世紀中ころ)に築城された膳城。築城者は不明だが、鎌倉幕府の初代問注所執事・三好康信の子孫といわれる膳氏の居城であった。(三好康信や膳氏が築城したという説もある)

膳城跡 (2)
膳城跡 (3)
西と南を兎川に面し、東を兎川支流の童子川に面する棚状丘陵地に造られた紡錘形の城。東西250m、南北500mに広がる。別域一郭の構造を持つ。

膳城跡 (4)
膳城跡 (5)
本丸から二の丸、三の丸にかけての堀跡。

天正8年(1580年)武田勝頼は東上州侵攻の際、平服のまま各地を視察していたところ、膳城から攻撃をしかけられたが、そのまま膳城を攻略したことから、「膳城素肌攻め」といわれている。膳城はこれにより廃城となった。

戦(いくさ)装備をしていない武田軍に負けてしまった河田備前守軍は酒宴中だったというが、河田軍が弱いのか武田軍が強かったのか・・・。両方かな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町月田の石造仏群。
よく分かんないけど光善寺跡なのかも。

光善寺 (1)
近戸神社の裏手にある石造仏群。参道跡のような雰囲気の場所に数多くの石造仏がある。

光善寺 (2)
光善寺 (3)
光善寺 (4)
石仏の細かいことはよく分かんないが、一番奥の庚申塔の両側に「言わ猿、聞か猿」が。「見猿」もどこかにいたのかも。

光善寺 (5)
光善寺 (6)
庚申塔の奥には小さいお社が。中には不動明王が鎮座していた。脇の案内板には「蚕影山神社」と「光善寺石造仏群」とあった。

近戸神社の拝殿に「蠶影山大神」の扁額もあったので、勝手な想像で蚕影山神社は近戸神社に合祀されたと思われる。光善寺もこの辺にあったが、後に廃寺となり参道の石仏群のみ集められ残っているって感じかな。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市粕川町月田の近戸神社。

近戸神社 (1)
近戸神社 (2)
月田近戸神社は東国を平定した豊城入彦命の姫宮が、宇丸山に勧請した社を延暦13年(794年)に移築したものだといわれている。794年というと「鳴くよウグイス平安京」の年だね。

近戸神社 (3)
近戸神社 (4)
現在の社殿は、鎌倉時代の宝治元年(1247年)に造営されたもので、何度か改築されている。

例大祭の最後に行われる「御川降り」は、粕川対岸の別宮まで神輿が渡御(とぎよ)し、新館により粕川に濁酒が流される神事。この間、永享5年(1433年)から600年の伝統がある「月田のさらら」と呼ばれる獅子舞が道中を連ねる。「粕川」の名は、濁酒流しの神事からついたものとされている。

「渡御降り」は上流の親神が祭事の無事終了を下流の子神に知らせるために、祭事に使った濁酒を川に流したという故事にならったもの。親神とは三夜沢赤城神社の旧西社と考えられる。

おまけとして、近戸神社には石造文化財が多数あるので紹介する。

近戸神社 (5)
この狛犬は群馬県内で最古のものらしい。室町時代の和風様式の石造狛犬で、他には熊野神社(碓氷峠)にしかない。頭部が小さく、扁平で童顔をしているのが特徴。以前は拝殿前にあったが、一部欠損したので新しい狛犬が奉納され、以後現在地に遷された。

近戸神社 (6)
暦応5年(1341年)建立の石造六地蔵。銘のあるものでは県内最古。正面と両側面をそれぞれ二区に分け、各二体ずつ浮彫している。屋蓋は風化が進んでいるが、四注造りの様式を示している。

近戸神社 (7)
建立年は不詳だが、宝塔型の立派な赤城塔。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市河原浜町の大胡神社。

大胡神社 (1)
大胡神社 (2)
大胡神社の創建は不明だが、元は赤城神社の分霊を勧請した近戸神社と言い、大胡城の近戸曲輪にあった。近戸曲輪にあるから近戸神社ではなく、近戸神社があったから近戸曲輪と言ったらしい。

大胡神社は天文年間(1532~55年)に築城されたといわれるので、近戸神社の創建はそれ以前となる。明治42年(1909年)に旧大胡町内のすべての神社を合祀し、大胡神社と改称した。

大胡神社 (3)
大胡神社 (5)
拝殿は銅版葺き入母屋造り、本殿は入母屋破風造り。

大胡城内に玉蔵院という二宮赤城神社の別当寺があったことから、最初は二宮赤城神社系統だったと考えられる。しかし天正17年(1582年)に大胡城主・大胡高繁が三夜沢赤城神社へ祭祀を依頼しているので、以後三夜沢赤城神社系統に変わったようである。

そのためか、春秋の御神幸(御輿渡御:二宮赤城神社から三夜沢赤城神社まで)の休憩地になっている。

*御神幸
遷宮や祭礼に際し、御神体が神輿(みこし)などに乗って新殿や御旅所・祭場に渡御(とぎよ)すること

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市茂木町の有鷲山長興寺。
長興寺には以前紹介した稲垣重宗夫妻の墓以外に、大胡藩、前橋藩ゆかりの人物の墓や供養塔がある。
(「伊勢崎藩主・稲垣長茂両親の墓 -長興寺-」)

山本帯刀の墓
大胡城主・牧野家の家老・山本帯刀の墓。
山本氏は牧野氏が牛久保城主時代からの重臣で、代々帯刀を世襲している。ここに眠る山本帯刀は山本成行と思われ、慶長9年(1604年)死去している。

山本氏は牧野氏が、元和4年(1618年)に越後長岡に転封になった後も、代々上席家老として仕えている。

山本帯刀で有名なのは、幕末期の山本義路。8歳で安田家から山本家に養子に入り、文武両道で神童と言われた。戊辰戦争・北越戦争では長岡藩の大隊長として出陣し、官軍相手に奮戦したが、捕縛され斬首されている。

これにより山本家は断絶したが、大正5年(1916年)に長岡士族・高野家から養子を迎え再興している。この時養子に入ったのが、後の連合艦隊司令長官・山本五十六である。

その他、長興寺には、前橋藩酒井家家臣・上村家の墓、前橋藩酒井家家老・大河内二右衛門広継夫妻の碑、前橋藩松平家家臣・赤羽三蔵宗忠の墓碑がある。

上村氏の墓
前橋藩酒井家家臣・上村家の墓。

赤羽宗忠の墓碑
前橋藩酒井家家老・大河内二右衛門広継夫妻の碑。

大河内広継夫妻の碑
前橋藩松平家家臣・赤羽三蔵宗忠の墓碑。

この3人(家)は全く知らないけど、こうして墓(墓碑)が残っているのは、すばらしいことだと思う。

このエントリーをはてなブックマークに追加


前橋市茂木町の有鷲山長興寺。

長興寺 (1)
長興寺は慶長年間(1596~1615年)、大胡城主・牧野康成の家臣・稲垣重宗の開基と伝わる。稲垣重宗は初代伊勢崎藩主・長茂の父である。

墓地にある「史跡墓碑概説」には、稲垣重宗夫妻は当寺創立後伊勢崎藩主となった長茂の両親なり、とあるので、長興寺の創建は慶長6年(1601年)以前になる。(稲垣長茂が両親の菩提を弔うため創建した、という説もある)

長興寺 (2)
長興寺 (3)
長興寺 (4)
山門は嘉永6年(1853年)に稲垣家の寄進により建てられたもの。

長興寺 (7)
稲垣重宗夫妻の墓。重宗のことは調べたけどよく分からなかった。

稲垣氏は室町時代後期となる文明年間(1469~86年)に、伊勢国から三河国宝飯郡に渡来し土豪となったとされる。このときに国人領主・牧野氏に臣属している。永禄年間(1558 ~70年)に徳川氏(松平氏)の傘下に入っている。

長茂は、家康の関東入府で牧野氏が大胡城主になった際、牧野氏を離れて直参(3000石)になっという記録もあり。父・重宗の動向は不明。牧野氏に従い大胡に入った後、ほどなく亡くなったのかもしれない。

関連
稲垣氏累代の墓 -天増寺-
牧野家の菩提寺 -養林寺-

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ