Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の古墳・遺跡


高崎市金古町の愛宕山古墳。

金古愛宕山古墳 (1)
金古愛宕山古墳は径約30m、高さ3mの円墳で、古墳時代後期の6世紀末から7世紀前半に築造されたと推定される。

金古愛宕山古墳 (9)
金古愛宕山古墳 (2)
金古愛宕山古墳 (3)
墳丘上には愛宕神社が鎮座している。

金古愛宕山古墳 (4)
石室は南東に開口している。入口付近は左にカーブしており、石積みも含めて後世の手が加わっているようだ。

金古愛宕山古墳 (5)
金古愛宕山古墳 (6)
石室は自然石の乱石積手法を用いた横穴式両袖型で、全長9m、玄室長3.2m、最大幅2.1m、高さ2.3mという規模を誇る。

金古愛宕山古墳 (7)
金古愛宕山古墳 (8)
石室の天井石は巨大。巨石を積上げる技術はすごい。

金古地区北西部の牛池川、染谷川流域には、昭和10年(1935年)の調査で111基の古墳があったと報告されているが、愛宕山古墳はその中で最も保存状態の良いものとして貴重である。

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高崎市吉井町馬庭の御穴塚古墳。

御穴塚古墳 (1)
御穴塚古墳 (2)
御穴塚古墳は径約10m、高さ3.4mの円墳である。馬庭飯玉神社の社殿裏(北側)にあり、その社殿により墳丘はかなり削られている。(「高崎市吉井町・馬庭飯玉神社」参照)

御穴塚古墳 (3)
御穴塚古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口しているが、羨道などは失われている。奥壁と天井石は巨石を使用している。

御穴塚古墳 (5)
墳丘もかなり削られていると思われ、天井石が露出している。

石室内には葺き替えた(?)飯玉神社の瓦が置かれていた。ちょっとした物置になっている(笑)。

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安中市簗瀬の二子塚古墳。

簗瀬二子塚古墳 (1)
簗瀬二子塚古墳は、安中市域に初めて登場した大型前方後円墳で、古墳時代後期初頭(6世紀)の築造と考えられている。現在整備が進んでいるようで、古墳公園風になっている。(もしかして完成済み?)

簗瀬二子塚古墳 (2)
2段築造の前方後円墳で、全長約80m、後円部径約50m、高さ約8m、前方部幅約60m、高さ約7mの規模を誇る。周囲には2重の堀も確認されており、墓域は130mにもなる。

簗瀬二子塚古墳 (3)
簗瀬二子塚古墳 (4)
後円部南側に開口する石室。
天井石に亀裂が入っているため、残念ながら安全面から入れない。扉にボタンがついていて、押すと中の電気が付くようなのだが、扉のガラス部の汚れが酷く、中はまったくと言っていいほど見えない。

簗瀬二子塚古墳 (5)
簗瀬二子塚古墳 (6)
ということで、現地解説版などの写真で、その雰囲気を味わうしかない。石室の全長は11.54m、羨道長7.47m、玄室長4.07m。天上石には秋間石が使用され、碓氷川の河原石が使用されている壁石には赤色顔料(ベンガラ)が塗彩されている。

簗瀬二子塚古墳 (7)
後円部上にある「布多古塚碑」。
明治19年(1886年)に黒田という人物が建てたようなことが書いてあった。

すぐ西にある「簗瀬八幡平の首塚」に来たときは(2012年)、二子塚古墳は竹林に覆われて、素人目には墳丘もよく分からなかったような記憶がある。キレイになったもんだ。

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藤岡市岡之郷の胴塚稲荷神社。

胴塚稲荷神社 (1)
胴塚稲荷神社 (2)
天正10年(1582年)の神流川の合戦(織田方・滝川一益と北条氏直・氏邦の戦い)における戦死者の胴体を集めて埋葬したと伝えられることから胴塚稲荷神社という。

胴塚稲荷神社 (3)
社殿の中には「天正10年 神流川合戦戦没者霊位」という位牌が安置されていた。

胴塚稲荷神社 (4)
胴塚稲荷神社が鎮座している場所は、直径14m、高さ2.2mの円墳(胴塚稲荷古墳)上である。かつて直刀や人骨が発見されたとの言い伝えがある。

ここから数百m南には(高崎市新町になる)、戦死者の首を埋葬した首塚八幡宮がある。
(「戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-」参照)

「神流川の合戦碑」や「首塚八幡宮」は2010年に訪問しており、当時胴塚稲荷も併せて訪問したかったんだけど、場所がよく分からず断念していた。今回、藤岡市から新町に向けて車を走らせていたら、民家と民家の間に赤い鳥居がチラッと見え、もしやと思って寄ったら当りだった。

5年も間が空くとは思ってなかった・・・。

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高崎市石原町の桜塚古墳。

桜塚古墳 (1)
桜塚古墳 (2)
桜塚古墳は東京農大二高先の鶴辺団地内に残る径21.6m、高さ6.9mの円墳。詳細については発掘調査が行われていないため不明。

桜塚古墳 (4)
墳丘上に彼岸桜の老樹があり、このことから桜塚と呼ばれている。

桜塚古墳 (3)
桜の木の脇に建武5年(1338年)銘の板碑が建っている。以前は、康永2年(1343年)明の板碑もあったが、現在は残っていない。

ところで、建武5年というのは北朝の年号で、南朝は延元3年。建武というと後醍醐天皇(南朝)のイメージだが、後醍醐天皇の建武の新政は2年で崩壊し、天皇は2年で延元に改元した。しかし北朝の光明天皇は5年まで建武を使った(同年暦応に改元)。

後醍醐天皇が武家の力を背景に、北朝の光厳天皇の即位と元号・正慶を無効にしたため北朝も建武を使っていた。後醍醐天皇の方が先に建武をやめてしまったという皮肉。

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高崎市鼻高町の少林山薬師塚古墳
少林山達磨寺境内にある。洗心亭のすぐ横。

少林山B号古墳 (1)
少林山B号古墳 (2)
少林山薬師塚古墳は正確には少林山B号古墳という。径15m、高さ3mの円墳で、洗心亭建築時墳丘が削られたようだ。

少林山B号古墳 (3)
少林山B号古墳 (4)
少林山B号古墳 (5)
石室は全長5.6m、奥幅1.65m。内部には薬師如来が安置されている。なので薬師塚。達磨寺の境内案内図に「薬師塚」と書いてあったので、薬師塚古墳と書いたが、オレの勝手な命名かも。

達磨寺の境内には10基以上の古墳があるらしいが、オレのような素人にはB号古墳くらいしか分からなかった。「これ古墳かなぁ~?」と感じた場所はけっこうあったけど・・・。

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高崎市鼻高町の少林山天頭塚古墳。

少林山天頭塚古墳 (1)
少林山天頭塚古墳は正確には少林山2号古墳という。

少林山達磨寺の裏山というか南側というかは、地すべりが多発したためその対策工事が行われ、工事区域に多数の古墳が確認されている。その中でも保存状態が良好で、学術的価値が高いと判断された2号古墳が達磨寺本堂南側に移築・復元されている。

少林山天頭塚古墳 (2)
天頭塚古墳は径25.6m、高さ12mの円墳。墳丘の裾は平らな面となっており、円筒埴輪や人物・太刀などの形象埴輪が並べられていた。葺き石は山石を使って墳丘前面に貼り付けている。

少林山天頭塚古墳 (3)
石室は全長6.2mで、平面形は奥より入口部が狭い羽子板状になっている。床には小さな石を敷き詰めている。ガラス製の小玉や金銅製の耳かざりなどの副葬品が出土している。

奥壁に地蔵菩薩が彫られており、線の特徴等から室町時代明応期(1492~1500年)に刻まれたものである。ということだが、よく分からなかった。

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高崎市八幡原町の八幡原A号及びB号石槨。

八幡原A号B号石槨 (1)
この石槨は若宮古墳群(烏川と井野川の合流地点左岸部に分布)の発掘調査時(昭和49年:1974年)に発見された。若宮古墳群の15号墳の主体部がA号・B号石槨。15号墳は直径約10.3mの円墳で、5世紀中頃から後半の築造と推定される。

若宮古墳群は、古墳が非常に密集して築造されているのが特徴で、17基の古墳と26基の石槨が確認されている。

八幡原A号B号石槨 (2)
フェンスで囲まれた内部を覗くと、枯草で覆われ何も見えない。何となく、いくつかの「石」がうっすら見えたが、石槨を確認することはできず。

八幡原A号B号石槨 (3)
高崎市のHPから。
こんな感じで石槨が2つ並んでいるようだ。A号石槨は長さ167cm、幅28cm、B号石槨は長さ150cm、幅26cmなので、夫婦が埋葬されたものかも。

副葬品としてA号石槨から鉄剣2本、鉄製刀子1本、B号石槨からは鉄剣1本、鉄製太刀1本が出土している。

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高崎市剣崎町の剣崎長瀞西古墳。

剣崎長瀞西古墳 (1)
剣崎長瀞西古墳 (2)
剣崎長瀞西古墳は八幡台地に造られた径30m、高さ5mの帆立貝式古墳である。1段目のテラス外周には円筒埴輪が巡っていた。このテラス部は南側で広くなっている。5世紀後半の築造と推定される。

古墳一帯は剣崎長瀞西遺跡と呼ばれ、垂飾付耳飾、鉄製轡、韓式系土器など56点が出土している。

剣崎長瀞西古墳 (4)
剣崎長瀞西古墳以外は埋め戻されてしまっており遺跡の面影はないが、古墳時代中期から後期の古墳が20数基見つかっている。

また、朝鮮半島系の土器や朝鮮半島製と考えられる国内では最古級の馬具なども発見されており、当時の朝鮮半島とのつながりを示す遺跡である。古墳時代の渡来人が住んだ村であると考えられている。

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佐波郡玉村町福島の玉村町15号墳。

玉村15号古墳 (1)
玉村町15号墳は、もともと同町角渕の玉村ゴルフ場近くにあったが、調査後中央公民館に石室が移築復元されていた。しかし中央公民館が取り壊され、現在は玉村町文化センターに移築されている。

玉村15号古墳 (2)
玉村15号古墳 (3)
石室は榛名山二ツ岳から噴出した角閃石安山岩を互目積みした無袖形横穴式で総長は5.5m(玄室長3.3m、羨道長2.4m)。また、四隅には1石をL字状に成形して組み込むなど、高度な技術も用いられている。

玉村町には150基ほど古墳があったと推定されているが、昭和30年(1955年)以降の土地改良事業などにより、そのほとんどが失われてしまっている。

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甘楽郡甘楽町福島の天王塚古墳。

天王塚古墳 (1)
天王塚古墳は神明塚とも呼ばれ、全長76mの前方後円墳で、5世紀初頭の築造と推定され、鏑川流域に分布する前方後円墳の中では1番古いものである。

前方部幅39m、高さ7.5m、後円部径約50m、高さ10mで、後円部が前方部より高くなっている。

天王塚古墳 (2)
後円部には舞台のような建物があった。何??

天王塚古墳は彦狭島王の墓という伝承がある。彦狭島王は豊城入彦命の孫。豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子で、東国を平定し毛野氏の祖といわれる人物。(彦狭島王は上毛野氏の祖といわれる)

彦狭島王の墓との伝承がある古墳には、三島塚古墳や将軍塚古墳などがある。
 「彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-
 「彦狭島王の墳墓? その2 -将軍塚古墳-

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富岡市田篠のしの塚古墳。

田篠しの塚古墳 (1)
田篠しの塚古墳 (2)
田篠しの塚古墳は現在地から100mほど南西にあったが、国道254号バイパス工事に伴い当地に移築復元されている。もともとは直径19m以上の円墳であったが、移築復元する際、直径14mに縮小されている。

中は盛り土だが表面全体に平たい石を貼った造りになっている。7世紀頃の築造と推定される。

田篠しの塚古墳 (3)
田篠しの塚古墳 (4)
石室はもとのまま復元されている。玄室は幅2m、長さ4.4m、高さ2mで、羨道を含めると7.8mになる。天井石は既になかったが、壁の石は砂岩、結晶片岩、安山岩などで組まれており、一番大きいものは3.7トンの重さがある。

田篠しの塚古墳 (5)
石室からは人の歯や耳飾りが複数発掘されており、5人以上の遺体が納められていたと考えられ、当時の有力氏族の家族墓と推定される。

国道254号バイパスの工事では、他に6基の古墳も発掘調査されたが、しの塚古墳以外は調査後に壊されている。もったいない。

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太田市世良田町の長楽寺遺跡1号墳跡。

長楽寺遺跡1号墳跡 (1)
長楽寺遺跡1号墳跡 (2)
長楽寺遺跡1号墳は、現在の新田荘歴史資料館正面玄関前にあった径18mの円墳。盛り土は失われていたため高さは不明。現在は石槨の位置を示す形が残っているだけ。

石槨はローム層を掘りこんで、凝灰岩を側壁・天井石に使い、側壁の周りを河原石で覆い、さらに全体を粘土で覆っていた。

長楽寺遺跡は、新田荘歴史資料館の前身である東毛歴史資料館建設に伴う発掘により、古墳時代の住居跡30軒、古墳5基などが見つかっている。

関連
 「期待はずれでした -新田荘歴史資料館-

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伊勢崎市本関町の一ノ関古墳。

一ノ関古墳 (1)
一ノ関古墳 (2)
一ノ関古墳 (3)
一ノ関古墳は前方後円墳で、脇を流れる粕川の侵食により前方部の大半を削り取られている。現存する墳丘は全長約28mだが、失われた前方部を合わせると、およそ50mの古墳であったと推定される。

後円部には横穴式石室が造られていて、南側に開口している。墳丘からは家形埴輪や円筒埴輪が、また前庭付近からは須恵器の高坏なども出土している。築造年代は石室の構造や出土遺物から、6世紀後半と考えられる。

一ノ関古墳 (4)
一ノ関古墳 (5)
一ノ関古墳 (6)
石室は両袖型の横穴式石室で、全長は約6m、奥壁部の幅は約1.5m、高さは約2m。石材には輝石安山岩の割石を使い、奥壁には巨大な石を使用している。

粕川に浸食され、形状は無残な状態だが、平成17年(2005年)までに史跡公園として整備されている。

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伊勢崎市西久保町の赤堀歴史民俗資料館前庭に移築保存されている台所山古墳の石棺。

台所山古墳 (1)
この石棺は昭和46年(1971年)に華蔵寺公園北の波志江町内の台所山古墳から出土し、市立北小に移されていたが現在は赤堀歴史民俗資料館の前庭に移設復元されている。

石棺は板状の石を組み合わせて作られている箱式石棺で、凝灰岩でできている。6世紀前半の製造と推定される。石棺発見時には、すでに古墳の墳丘はなく桑畑になっていた。なので、正確には台所山古墳から出土したという表現はニュアンスがちょっと違う。古墳名は後付け。

台所山古墳 (2)
歴史民俗資料館の前庭に移築復元と言っても「とりあえず」感がありあり。(写真の左下、鎖で囲まれているところがそれ)
資料館を訪れる大部分の人が、間違いなく通り過ぎるだろう。

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富岡市一ノ宮の堂山稲荷古墳。

堂山稲荷古墳 (1)
堂山稲荷古墳 (2)
堂山稲荷古墳は全長約50mの前方後円墳。すぐ脇を通っている上信電鉄の線路で削平されていたり、梅の植林や公園化のため変形をしているが、前方部幅38m、高さ5.5m、後円部径30m、高さ6.5mの規模となっている。築造年代は6世紀頃と推定される。

平成2年(1990年)の発掘調査で、墳丘の北側に2重の周堀が確認されている。また、墳丘面には葺石や埴輪も確認されており、埴輪については円筒埴輪以外に器材や人物などの形象埴輪も存在している。

堂山稲荷古墳 (3)
堂山稲荷古墳 (4)
墳丘上には堂山稲荷神社が鎮座している。

一ノ宮地区は鏑川の段丘にあたり、数多くの古墳が点在しているが、原型を留めているものは少ない。堂山稲荷古墳はその中でも保存状態が良く、貴重な存在である。

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佐波郡玉村町下茂木の梨ノ木山古墳。

梨ノ木古墳 (1)
梨ノ木古墳 (2)
梨ノ木古墳 (3)
梨ノ木山古墳は二段築造の円墳として残存しているが、もともとは前方後円墳であったと推測されている。南北42m、東西45m、高さ7mで、5世紀後半の築造と推定される。

梨ノ木古墳 (4)
昭和41年(1966年)の発掘では、二重の堀をめぐらせた広大な古墳であることが分かり、滑石製模造品、円筒埴輪破片等が出土している。軍配山古墳と並んで、地方の支配者の墓と推定される。(軍配山古墳は「滝川一益も見た風景 -軍配山古墳-」参照)

田園風景の中にあるので、非常に見つけ易い古墳(軍配山古墳も)。玉村ゴルフ場のすぐ北にあり、駐車場からよく見える。以前はよく玉村ゴルフ場に行っていたが、気づきもしなかった・・・。

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太田市龍舞町の塚廻り古墳群第4号古墳。

塚廻り古墳群4号古墳 (1)
塚廻り古墳群4号古墳 (2)
塚廻り古墳群は昭和52年(1977年)の土地改良事業の際、水田の下から発見された7基の古墳群。4号古墳は全長22.5m、円丘部直径17.7mの帆立貝形古墳で、周囲に幅4.5mの堀を持つ。築造は6世紀中頃と推定されている。

主体部は円丘部中央と北側裾部の2ヶ所あり、裾部からは小型の石棺が発見されている。

塚廻り古墳群4号古墳 (3)
塚廻り古墳群4号古墳 (4)
円丘部からは円筒埴輪や形象埴輪など計304基の埴輪が出土し、その優れた造形と出土位置がほぼ明確で、埴輪祭式の様子を解明する上で高い価値を有していることから、出土した埴輪は一括して国の重文に指定されている。

現在、古墳公園として復元・整備され、公開されている。

案内板に従って細い道に入って行ったんだけど、目に見える風景は田んぼばっかり。古墳というと「こんもり」というイメージがあるので、どこにあるの?って感じだった。

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邑楽郡千代田町赤岩の医王山安楽寺。

明和町・安楽寺 (1)
明和町・安楽寺 (2)
明和町・安楽寺 (3)
安楽寺は、奈良時代に行基がこの地を訪れ、庵を結んだことが始まりと伝えられる。行基は奈良・東大寺の大仏建立の実質上の責任者として有名。

米山薬師古墳 (1)
米山薬師古墳 (2)
安楽寺の境内には米山薬師古墳がある。直系30m、高さ8mの円墳で、6世紀後半の築造と推定される。

米山薬師古墳 (3)
墳丘上に薬師堂があるため米山薬師古墳と呼ばれている。米山は・・・不明。

石室は横穴式、石材は浮石室紡錘状角栓閃石安山岩であることが確認されているが、出土品は残されていない。

千代田町の偉人・増田市八の墓があると千代田町のHPにあったので、墓地を探してみたが、増田家という立派な墓石が多数あり、結局分からず。ちなみに、増田市八は明治期に永楽村村長や邑楽郡会議員を務めた名士らしい。

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前橋市堀越町の堀越古墳。

堀越古墳 (1)
堀越古墳 (2)
堀越古墳は傾斜地の中腹に構築された山寄せの円墳で、墳丘径25m、幅2.5mの周堀が南半分に半周している。7世紀末から8世紀初頭の築造と推定される。

堀越古墳 (3)
石室は南向きに開口している。石室の前には、台形に広がる前庭部が造られている。

堀越古墳 (4)
堀越古墳 (5)
石室は全長6.8mで、羨道は長さ3.4m、幅0.8m。玄門に截石の
梱石が置かれている。。玄室は長さ3.1m、幅1.9m。安山岩を四角く加工し、大きさが合わない所はさらに組合わさるように削っている。

明治2年(1869年)に発掘され、小刀などの出土品があったと伝えられているが、現存していない。

周りは住宅地になっており、道路などのためにかなり削られている。

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前橋市上泉町の新田塚古墳。

新田塚古墳 (1)
新田塚古墳 (2)
新田塚古墳は直径45m、高さ5mの円墳で、桂萱・芳賀地区で最大級の円墳。

新田塚古墳 (3)
墳丘は比較的よく原型をとどめており、北東部(写真の左側)には周堀跡も見られる。古墳周辺に埴輪の破片などは見られず、埴輪の配列はなかったものと推定されている。埋葬主体部は未発掘だが、横穴式石室であると推定される。7世紀代の築造と考えられている。

古墳の真ん前(南側)を上武道路が通っており、西側も道路で十字路の角地となっている。まあ、道路を通すとき(特に上武道路)古墳を避けたことは良かったと言えるかな。

ところで、新田塚古墳は宝禅寺の寺伝によれば、覚明が新田義貞の首級を埋めたといわれる場所。覚明は篠塚重廣とも栗生顕友ともいわれている。
(「新田義貞の首級を持ち帰った(?)「覚明」の墓 -宝禅寺-」参照)

もともとあった古墳に、新田義貞の首級を埋めたという伝承により、「新田塚古墳」という名称として、現在まで残っていると思われる。

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高崎市元島名町の将軍塚古墳。

将軍塚古墳 (1)
将軍塚古墳 (2)
将軍塚古墳は全長96mの県内最大級の前方後方墳。後方部の幅51m、高さ8.6m、前方部の長さ40m、高さ4.7mで、周堀を含めた全長は約150mと推定される。墳丘は2段に築かれ、葺石は認められない。4世紀後半から5世紀初頭ごろに築かれた、古墳時代初期の古墳。

将軍塚古墳 (3)
将軍塚古墳 (4)
将軍塚古墳 (5)
前方部の墳丘上には、島名神社が鎮座している。島名神社の創建年は不明だが、彦狭島王をご祭神としていることから、将軍塚古墳は彦狭島王の墳墓との伝承もある。

彦狭島王は東山道十五国都督に任じられており、「将軍塚」という名前はちょっと意味深。と言っても、いつから「将軍塚」かは不明だけど・・・。ちなみに、彦狭島王は豊城入彦命の孫で、御諸別王の父である。

明治44年(1911年)の社殿拡張工事の際に、後方部で全長1.8mの粘土槨が発見されている。粘土槨内からは、人骨とともに鏡、石釧、刀片などの鉄製品が出土している。

また、昭和55年(1980年)の土地改良に伴う調査では、周堀部から壺形土器(底部穿孔壺)が多数出土している。 これらは後方部の頂上に並べられていた土器と考えられる。なお、土器は近くにある高崎市歴史民俗資料館で見ることができる。

関連
 「彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-

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伊勢崎市安堀町のお富士山古墳。

お富士山古墳 (1)
お富士山古墳は全長125mの前方後円墳で、伊勢崎市最大の古墳である。前方部の一部は、明治21年(1888年)の両毛線敷設時、削り取られてしまっている。

昭和38年(1963年)の調査で、墳丘は3段築造され、葺石が巡り、大型円筒埴輪の配列が確認されたている。築造年代は、出土遺物から5世紀中ごろと推定されている。

お富士山古墳 (2)
お富士山古墳 (3)
お富士山古墳 (4)
後円部の墳丘上には富士神社が建っている。

お富士山古墳 (5)
社殿脇に、畿内地方の大王墓と同様の形態をもつ、砂岩製の長持形石棺が保存されている。

お富士山古墳 (6)
お富士山古墳 (7)
お富士山古墳 (8)
石棺は全長285cm、幅121cm、高さ115cm、重さ約6.8トン。底石、側石、小口石からなる箱形と、かまぼこ形の蓋石と合わせて6枚で構成されている。

側石や小口、底石に組み合わせるための溝や段が彫られ、側石や底石の縁辺に棒状の縄かけ突起が造り出され、小口石の外面には小さな方形の突出もみられる。

長持形石棺は、5世紀に畿内の大型前方後円墳にみられ、仁徳天皇陵(大仙古墳)からも出土している。県内では、お富士山古墳と太田市の天神山古墳で確認されているだけである。

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伊勢崎市境伊与久の雷電神社&雷電神社古墳。

雷電神社古墳 (1)
雷電神社古墳 (2)
雷電神社は建保6年(1215年)に赤石城主・三浦義澄が創建したと伝えられる。

三浦義澄と言えば、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げた、鎌倉幕府初期の御家人。頼朝が死去した後には、2代将軍・頼家を補佐する十三人の合議制のひとりとなっている。上野国に領地を持っていたということ?

雷電神社古墳 (3)
雷電神社古墳 (4)
元弘3年(1333年)新田義貞が鎌倉攻めに際して、社殿を修理し戦勝祈願を行っている。

雷電神社は前方後円墳(雷電神社古墳)の墳丘上に鎮座している。雷電神社古墳は、6世紀末から7世紀初頭に築造された、全長約50mの前方後円墳と推定されるが、削平・変形により後円部の名残りが見られる程度である。

雷電神社古墳 (5)
雷電神社古墳 (6)
石室は南に開口する両袖型横穴式で、雷電神社本殿の直下あたりと考えられる。社殿横に上方からの羨道につながる穴が開けてあり、石積みの一部を見ることができる。右側に羨道が延びており、玄室へとつながっている。

玄室は長さ4.7m、奥壁下幅1.35m、中央部幅1.2m、入口幅1.15m。石材は榛名山二ツ岳が噴火した際に噴出したとされる安山岩。

ところで、石室入口の小屋(覆屋?)に「おみこし古墳」ってあり、??状態。よ~く見ると「おみこし、古墳」と、おみこしと古墳の間に「、」があった。そう言えば、中に小さいお御輿が入ってた(吊るされていたような記憶あり)。これは紛らわしいぞ(笑)。

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伊勢崎市東小保方町の鶴巻古墳。

鶴巻古墳 (1)
鶴巻古墳 (2)
鶴巻古墳は直径34m、高さ2.5mの帆立貝形古墳で、6世紀末の築造と推定される。築造当時は墳丘の裾に円筒形の埴輪や馬・人物等の埴輪が配置され、周囲には堀がめぐらされていたことが、発掘調査により判明している。

鶴巻古墳 (3)
鶴巻古墳 (4)
墳丘は2段になっており、2段目に横穴式石室が開口している。榛名山二ツ岳の噴火による角閃石安山岩と凝灰質砂岩を使用した優美な横穴式石室は、全長5.2m、最大幅2.1mを有する。

内部からは刀寸や鉄鏃などの武器、轡なのどの馬具、金銅製環などの装身具類のほかに歯や骨片なども出土している。

石室内の写真はうまく撮れず。残念。

鶴巻古墳 (5)
墳丘上から見た赤城山。この風景は古墳時代の人も見たんだろうなと思いつつ。

鶴巻古墳は雑草が生い茂り、墳丘も崩れかけていた状態だったのを旧東村が用地買収・復元を行い、史跡公園として整備したもの。自治体が保存に力を入れてくれるとうれしい限り!

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前橋市山王町の金冠塚古墳。

金冠塚古墳 (1)
金冠塚古墳 (2)
金冠塚古墳は全長52.5mの前方後円墳で、前方部42m、後円部径32.3m。後円部に榛名山二ツ岳から噴出した軽石を加工して積み上げて造られた全長5.2mの横穴式石室があったことが分かっている。

大正4年(1915年)には金銅製の冠が出土している。

金冠塚古墳 (3)
この写真だと前方後円墳の形状が分かる。

金冠塚古墳 (4)
金冠塚古墳 (5)
墳丘部はけっこう削平されている。

山王二子山古墳とも呼ばれていたが、金銅製の冠が出土したことから、金冠塚古墳の名称に統一された。

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前橋市山王町の亀塚山古墳。

亀塚山古墳 (1)
亀塚山古墳 (2)
亀塚山古墳は全長60mの前方後円墳で、前方部20m、高さ1.5m、後円部径40m、高さ6.5m。前方部が後円部に比べ低く、全体が亀の形に見えることから亀塚山古墳と名付けられた。

形態から比較的古式の古墳と考えられ、5世紀後半から6世紀初頭の築造と推定される。

亀塚山古墳 (3)
墳丘表面は葺石で覆われており、埴輪片の散布が見られる。昭和10年(1935年)の調査では堀の存在が認められたが、その後の耕地整理で現在はその痕跡は見られない。

埋葬主体部は既に盗掘されており、出土品については不明のようだ。

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前橋市広瀬町の天神山古墳。

前橋・天神山古墳 (1)
前橋・天神山古墳 (2)
天神山古墳は全長129mの前方後円墳で、前方部幅68m、前方部高さ7m、後円部径75m、後円部高さ9mで、墳丘は3段築造で葺き石が葺かれており墳頂には土師器が配列されていた。4世紀前半の古墳時代初期に、東日本で最も早く造られた前方後円墳のひとつ。

しかし昭和40年代の高度成長期に、地域開発(区画整理事業)のため削平され、現在は後円部の一部が四角く残っているのみである。

後円部石敷面の約4m下には大規模な墓抗があり、その墓抗を掘って主体部の粘土槨が造られていた。粘土槨は長さ7.8m、幅1.2m、深さ1mの巨大な割竹形木棺を被覆したものと判明している。

木棺、遺骸は残っていなかったが、赤色顔料に染められた槨内には、銅鏡5面、紡錘車形石製品4個、素環頭大刀1本、鉄刀6本、鉄剣12本、銅鏃30個など、15種165点が見つかっている。

中でも銅鏡は三角縁四神四獣鏡、三角縁五神四獣鏡、三段式神仙鏡、二禽二獣鏡、変形獣形鏡であり、非常に貴重である。これら出土品は国の重文に指定され、東京国立博物館にある。

その規模や出土品(副葬品)から見ても、古墳の現状は非常に残念な姿となっている。

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前橋市文京町の二子山古墳。
総社町の二子山古墳と区別するため、地名から天川二子山古墳と呼ばれる。

天川二子山古墳 (1)
天川二子山古墳 (2)
天川二子山古墳は全長104mの前方後円墳で、前方部幅76m、高さ9.5m、後円部幅52m、高さ11mの威容を誇る。

天川二子山古墳 (3)
天川二子山古墳 (4)
墳丘の表面は河原石が厚く敷きつめられていている。埋蔵施設は未調査だが、横穴式石室と推定されている。6世紀後半の築造と推定される。

天川二子山古墳 (5)
墳丘上から見た赤城山。前回の総社町・遠見山古墳で実現しなかった「墳丘上から赤城山を見る」が実現。(「前橋市総社町・遠見山古墳」参照)

天川二子山古墳から朝倉町、広瀬町、山王町にかけて、広瀬川右岸の台地上には数多くの古墳が見られ、広瀬古墳群と呼ばれている。昭和10年(1935年)の調査では150基ほど確認されている。それ以前に失われたものもあるだろうから、広瀬古墳群の規模が分かるというもの。

現在残っているのは・・・だけど、この後いくつか紹介していくよ。

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前橋市総社町の遠見山古墳。

遠見山古墳 (1)
遠見山古墳 (2)
遠見山古墳は全長80mの前方後円墳。墳丘は前方部が低く、埴輪の破片が数多く出土している。周囲には10m~20mの堀跡が確認されている。6世紀初頭の築造と推定されている。総社古墳群の中では一番古い。

堀跡部は畑や住宅・公民館などになっているのと、墳丘部は雑木林というか藪というかで登れない。登る道もなかったと思う。

慶長9年(1604年)に秋元氏が総社城を築いたとき、遠見のための櫓が設置されたことから、この遠見山の名がつけられた。

遠見山古墳 (3)
遠見山古墳と雪をかぶった赤城山。墳丘上から赤城山を見たかった・・・。

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