上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬の古墳・遺跡


安中市松井田町西野牧の千駄木遺跡。

千駄木遺跡 (1)
千駄木遺跡は縄文時代前期から弥生・古墳時代の長い間にわたって、巨石の下を生活空間として利用した岩陰遺跡である。

ここは昔から鹿の骨や角・土器片などが出土することで地元の人々には知られていたが、昭和47年(1972年)の県道拡張工事に伴い発掘調査を行ったところ、石器・骨角器・土器・土師器・須恵器などが多く確認された。そのため道路の改修計画を変更して保存されている。

千駄木遺跡 (2)
縄文時代前期から中期初めまでは、向かって右側の岩の岩陰を利用した比較的広い範囲で生活が営まれていたが、縄文時代中期に浅間山の噴火による地震で落石(左の岩)があり、それ以後は落石部との間の狭小な地域を利用していたと思われる。

千駄木遺跡 (3)
2つの巨石の間。どういう生活単位(家族?)かは分からないが、これでは狭い。当時は定住という概念があったか不明だが、何ヶ所かある生活拠点のひとつって感じなのだろうか。

出土遺物は縄文時代の土器が最も多く、それらは長野県の八ヶ岳山麓地方の影響を受けているとみられ、文化圏を考える上で貴重な資料となっている。


前橋市西大室町の五社稲荷神社。

五社稲荷神社 (1)
五社稲荷神社は元は神明宮で、明治41年(1908年)に熊野神社に合祀されている(熊野神社はその際、大室神社と改称している)。その後、大正元年(1912年)に大室神社の境外社として再建され、五社稲荷神社と称している。
(大室神社は「前橋市西大室町・大室神社」参照)

元は神明宮と書いたが、五社稲荷神社のご祭神に天照大神はおられない。境外社として再建された際、穀物の神(倉稲魂命)・養蚕の神(絹笠大神)メインとした稲荷神社にしたと考えられる。

五社稲荷神社 (2)
五社稲荷神社 (3)
五社稲荷神社 (4)
五社稲荷神社が鎮座しているのは伊勢山古墳の墳丘上になる。

伊勢山古墳(五社稲荷古墳、荒砥村122号墳)は全長67mの前方後円墳(前方部幅47m、高さ5m、後円部42m、高さ5.5m)で、6世紀末の築造と推定されている。周囲に幅7mの楯形周濠が認められ、外周施設を含む全長は約80mと大型古墳である。

石室は全長約4.8m、幅約2.1mで、金環や銀環が出土している。南側に石室入口があるとのことだが、探してみたが見つからなかった。

五社稲荷神社 (5)
五社稲荷神社 (6)
五社稲荷神社 (7)
社殿は大正14年(1925年)に二之宮小学校の奉安殿(天皇・皇后両陛下の御写眞保管庫)を移築したもの。

五社稲荷神社 (8)
社殿の側面棚には、多くの狐像(置物)が飾られている。これは狐像を1体借り受け、翌年に2体返すという風習があるから。

五社稲荷神社 (9)
社殿裏の石宮。安永2年(1773年)の造立。本宮かな。

五社稲荷神社 (10)
絹笠大神の石塔。こちらはまだ新しく平成18年(2006年)の造立。

五社稲荷神社 (11)
伊勢山古墳墳丘に多くのヤマツツジが植えられている。初夏にはツツジが一面に咲き誇るという。鳥居横に「ツツジの由来」とい記念碑があり、地域住民が大切に育ててきたことや、ここから140株を大室公園に寄贈したことなどが記されている。


藤岡市保美の塚ノ越稲荷神社。塚ノ越は字名。

保美稲荷神社 (1)
保美稲荷神社 (2)
塚ノ越稲荷神社の由緒は不明。

保美稲荷神社 (3)
保美稲荷神社 (4)
覆屋内の木祠は鮮やかな朱色に彩られている。

保美稲荷神社 (5)
境内社。右から八坂神社、上諏訪神社、愛宕神社。この3社には標柱があった。残りの2社のうち1社は八王子神社(もう1社は不明)。石宮のひとつには明治20年(1887年)の銘があった。

保美稲荷神社 (6)
双体道祖神。紀年銘などは読めなかった。

保美稲荷神社 (7)
塚ノ越稲荷神社は藤岡市205号墳(美九里村156号墳:円墳)上に鎮座する。

以前は初午(はつうま・2月最初の午の日)に獅子舞が奉納されていたが、少子化の影響で現在は休止されているようだ。保美地区の獅子舞は、江戸時代に江戸城で将軍に奉納したとの話も伝わっている(真偽は知らない)。ちなみに、初午の日は京都・伏見稲荷大社に稲荷大明神が降臨(鎮座)したとされている日である。

*同じ保美地区にある稲荷神社(通称・失せ物稲荷)とは別神社である。
(失せ物稲荷は「藤岡市保美・稲荷神社(失せ物稲荷)」参照)


藤岡市神田(じんだ)の神田地区古墳群。

藤岡市神田古墳群 (1)
藤岡市神田古墳群 (2)
神田地区古墳群は神流川左岸の台地上に分布している後期古墳を代表する古墳群である。平成25年(2013年)に発掘調査が行われ、その後すべて埋め戻されている。17基の古墳が藤岡市の史跡に指定されている。

藤岡市神田古墳群 (3)
藤岡市神田古墳群 (4)
古墳群の中で最大規模のK-15号墳(高橋塚古墳)。全長24mの前方後円墳。

藤岡市神田古墳群 (5)
前方後円墳に見るが、2つの円墳(Mー4号墳とMー5号墳)が並んでいるもの。間に土砂が堆積したようだ。

個々の古墳に関する解説板などがないため、細かいデータはよく分からない。

藤岡市神田古墳群 (6)
古墳群の西側を走る県道13号線沿いに「頭椎太刀発見の古墳」との解説板が立っている。当地には全長30mの前方後円墳があり、明治28年(1895年)に石室中より金銅製で160cmの太刀が発見されたという。

現在その太刀は奈良の橿原神宮の宝物となっているとある。なぜ橿原神宮? なお、この前方後円墳はいつの頃か不明だが、消滅してしまったようだ。

古墳群は土地改良事業に際して、地元の要望等を受けて区域内にある古墳17基を文化財として残すため、換地により供出されたものである。土地は藤岡市に寄贈されている。


前橋市田口町の塩原塚古墳。

塩原塚古墳 (1)
塩原塚古墳 (2)
塩原塚古墳は墳丘高さ3m、径14mの円墳である。周囲は川原石で1.3mの高さまで葺かれている。7世紀初頭の築造と推定される。

塩原塚古墳 (3)
塩原塚古墳 (4)
石室長は5.9m。角閃石安山岩の削石を五目積にしてあり、奥壁の一部に截石切組積が見られる。副葬品は直刀2本、小刀1本、耳環16個、馬具など101点が確認されている。骨や歯の出土状況から埋葬人数は7~8体と推定されるが、副葬品は最初の埋葬者のものと考えられている。

塩原塚古墳 (5)
塩原塚古墳は昭和10年(1935年)の群馬県下一斉古墳調査から漏れたため、上毛古墳綜覧(昭和13年:1938年刊)に記載がない。そのため「名もなき小円墳」とされてきた。

しかし昭和29年(1954年)に群馬大の発掘調査で、上記のような石室が確認され多数の副葬品が出土したことから、土地所有者の名前をとり塩原塚古墳と名付けられた。そして昭和58年(1983年)には前橋市の史跡に指定されている。


佐波郡玉村町上之手の若王子神社。

若王子神社 (1)
若王子神社 (2)
若王子神社 (3)
若王子神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に玉村八幡宮へ合祀されたが、地域の方々により現在も祀られている。

主祭神は熊野久須毘命なので、元は熊野神社かもしれない。また、熊野久須毘命は須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺瓊勾玉を譲り受けて、化生させた五柱の最後の神とされるので(つまり世俗的に言うと末っ子)若王子との社名になったともわれる。

平成21年(2009年)に鳥居、石祠とも新規建立されている。

若王子神社 (4)
境内社の疱瘡神社、菅原神社、八坂神社。

若王子神社 (5)
左の石碑は「上之手村霜害記念碑」。大正5年(1916年)の霜により養蚕業が大被害を受けたこが書かれている。その時の蚕を供養するために祀られたのが右の蚕社(石祠)。石祠は平成21の新規建立。

若王子神社 (6)
庚申塔などが集積されている。

若王子神社 (7)
若王子神社は玉村町33号墳(若王子古墳)上に鎮座する。径約31mの円墳。土器や直刀が出土したとの記録が残る。


佐波郡玉村町福島の天満宮。

福島天満宮 (1)
福島天満宮 (2)
福島天満宮の由緒は不詳。明治43年(1910年)に、当時政府が推し進めていた「神社合祀政策」により廃社にっている。しかし地域の方々が今も祀り続けている。

福島天満宮 (3)
石段下の灯籠は平成5年(1993年)の奉納。

福島天満宮 (4)
福島天満宮 (5)
福島天満宮 (6)
社殿には明治天皇と昭憲皇太后の御歌が掲示されている。
「目に見えぬ 神にむかいて はじざるは 人の心の まことなりけり」(明治天皇)
「日に三度 身をかへりみし いにしへの 人の心の まことならひてしがな」(昭憲皇太后)

福島天満宮 (7)
松尾芭蕉の句碑もある。「梅か香に のつと 日の出る 山路かな」

福島天満宮 (8)
福島天満宮 (11)
境内社・末社、道祖神、庚申塔と二十三夜塔など。

福島天満宮 (9)
水害復旧碑。昭和22年9月のカスリーン台風の被害が克明に記されている。

福島天満宮 (10)
福島天満宮の鎮座しているのは天神古墳の墳頂部。円墳と推定されるが未調査のため詳細は不明。現在は高さ2m程度だが、この辺りは天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(天明の浅間焼け)時の泥流により多くの土砂が堆積しているので、実際の古墳規模は分からない。


佐波郡玉村町角渕の王子稲荷神社。

王子稲荷神社 (1)
王子稲荷神社 (2)
王子稲荷神社の由緒は不詳。

王子稲荷神社 (3)
王子稲荷神社 (4)
王子稲荷神社 (5)
お社は昭和16年(1941年)に改築されているようだ。覆屋は扁額の日付から昭和49年(1974年)の建築だろうか。

王子稲荷神社 (6)
「梨本宮守正王殿下観戦所」の標柱。守正王は皇族軍人(最終的に元帥陸軍大将)なので、当地での演習を観戦したのだろうか?

王子稲荷神社 (7)
王子稲荷神社が鎮座しているのは「玉村町19号墳」と呼ばれる円墳。現状、直径約21.2m、高さ2.1m。


前橋市大渡町1丁目の王山古墳。
現在は墳丘全体が王山公園として整備・保存されている。

王山古墳 (1)
王山古墳 (2)
王山古墳は全長75.6mの前方後円墳で、前方部幅63.1m、高さ3.9m、後円部径50m、高さ4.5mを誇る。6世紀初頭の造営と推定される。

主体部は後円部に両袖型の横穴式石室がある。石室全長16.4m、玄室長4.4m、羨道長12mと、県内最長の石室規模。石室は盗掘されており、わずかに歯が2本、辻金具の破片が数個出土したのみ。

王山古墳 (3)
王山古墳 (4)
墳丘は多数の川原石で覆われており、特に後円部の基壇上の墳丘は全て川原石で構成され「積石塚」と呼ばれる。全国的にも珍しいものである。

王山古墳 (5)
王山古墳 (6)
墳丘上には東屋風の休憩所や記念碑がある。記念碑は昭和52年(1977年)の設置。区画整備事業や保存のため公園化などの経緯が記載されている。古墳そのものの記念碑ではない。

王山古墳 (7)
公園南側に巨石があったが、古墳(石室関係)の一部だろうか?

王山古墳 (8)
墳丘上には小石が並んでいた(写真は一部)。後で調べたら、石室の位置が分かるように並べられているという。知っていたら、もっと真剣に見てきたのに。


前橋市上大屋町の稲荷塚古墳。

稲荷塚古墳 (1)
稲荷塚古墳は直径約25mの円墳で、墳丘のまわりに周堀が巡らされていると考えられるので、それを含めると30mを超える規模と推定されている。埋葬施設など内部は未調査だが、横穴式石室と考えらる。

稲荷塚古墳 (3)
稲荷塚古墳 (4)
墳丘上に稲荷神社が祀られているので稲荷塚古墳の名称として残っているが、一の鳥居(扁額)は「牛頭天王宮」。いわゆる天王社(八坂神社)。

稲荷塚古墳 (5)
稲荷塚古墳 (6)
二の鳥居は「稲荷大明神」。稲荷神社である。

稲荷塚古墳 (7)
稲荷塚古墳 (8)
墳丘上のお社は稲荷神社。

稲荷塚古墳 (9)
稲荷社の横に石宮がある。これが天王社(八坂神社)かな。

稲荷塚古墳は大胡町25号墳とされているもの。旧大胡町には多くの古墳が確認されていたが、現在ではその形をとどめているものは稲荷塚古墳の他は、堀越古墳くらいになってしまっている。(堀越古墳は「前橋市堀越町・堀越古墳」参照)


安中市安中3丁目の旧安中町4号墳。

稲荷神社 & 安中4号墳 (1)
安中町4号墳は現状約30mの円墳。街中のためそれなりに削平されている。墳丘上には稲荷神社が鎮座している。社殿下の石垣は後世のもの。稲荷神社(社殿)を建立する際に補強したと思われる。

稲荷神社 & 安中4号墳 (2)
稲荷神社 & 安中4号墳 (3)
稲荷神社 & 安中4号墳 (4)
稲荷神社の社殿直下に横穴式石室が開口している。石室は全長約8m、羨道約3.5m、玄室長約4.5m、高さ約1.7mの両袖式で自然石乱石積み。

稲荷神社 & 安中4号墳 (5)
稲荷神社 & 安中4号墳 (6)
墳丘上の稲荷神社の由緒などは分からない。


みどり市笠懸町西鹿田の天神山古墳群3号墳。

天神山3号墳 (1)
天神山古墳群は、昭和52年(1977年)の道路改修工事の際に発見された6基の古墳群。石室の形態が竪穴式と横穴式の双方確認され、前者は6世紀後半、後者は7世紀中頃の築造と推定される。

6基の内、現在3号墳のみ保存されており、昭和58年(1983年)の調査で、竪穴式石室が確認されている。

天神山3号墳 (2)
天神山3号墳 (3)
すぐ上は墓地になっている。年代的に円墳だったと思うが、発見時には削平され墓地になっていたのだろう。

金網内に何があるのかと覗いて見たが、何? 状態。3号墳の石室は全長2.13m、幅0.7mなので、どうやら石室が保存されているような気がする。

天神山3号墳 (4)
いろいろ調べてみたら「みどり市地域文化財総合整備計画」という資料内に発掘時の写真があったので借用しました。ちょっと見づらいけど。

天神山3号墳 (5)
内部から直刀3本が発見されている。発見された直刀は岩宿博物館に保存されている。みどり市には古墳が20基程度と少なく、出土品そのものが貴重である。こちらの写真はみどり市HPから借用。

ちなみに、この墓地の向かって右端に前回の「来迎阿弥陀三尊笠塔婆」がある。
(「みどり市笠懸町西鹿田・来迎阿弥陀三尊笠塔婆」参照)


みどり市笠懸町西鹿田の久永山長昌寺。

長昌寺 (1)
長昌寺は天元元年(978年)慶範和尚の開山と伝わる。その後、寛永2年(1625年)に忠慶和尚の開山、当地領主の旗本・久永源兵衛重勝の開基で中興されている。創建から中興までの期間が長く、またその間の資料もなく、創建に関しては不明な点が多い。

長昌寺 (2)
長昌寺 (3)
本堂は天保11年(1841年)に焼失、同15年(1845年)の再建。昭和62年(1987年)に大改修が行われている。

天保の火災により、当時の住職は7日間の「遠慮」という処罰を受けたとの記録が残っている。「遠慮」とは江戸時代の軽微な刑罰。現在の「謹慎」かな。

長昌寺 (4)
長昌寺 (5)
境内の大日堂。大日如来を祀る。由緒は不詳だが、境外にあったものを明治期以降に合併、境内に移している。

長昌寺の墓地には2基の古墳がある(長昌寺A号墳・B号墳)。
長昌寺 (6)
A号分は径17m、高さ2.5mの円墳で、7世紀前半の築造と推定される。墳丘を囲むように石仏や庚申塔が多数並べられている(もちろん後世の手による)。

長昌寺 (7)
墳丘上には五輪塔、層塔がある。

長昌寺 (8)
B号分は径20m、高さ2mの円墳で、6世紀後半の築造と推定される。

長昌寺 (9)
墳丘は削平されており、歴代住職の墓になっている。

地方を領有している旗本って、領地からむしり取るイメージしかなかったが、久永氏は長昌寺を開基しただけでなく、脇差し一振りを寄進している。その脇差しはみどり市の重文になっている。


みどり市笠懸町西鹿田の西鹿田中島遺跡。

西鹿田中島遺跡 (1)
西鹿田中島遺跡は縄文時代草創期(約1万3千年前)の集落遺跡。東日本における縄文時代の定住生活や、その具体的な内容を知る上で重要な遺跡として、平成16年(2004年)に国の史跡に指定されている。

現在は「西鹿田中島遺跡史跡公園」として整備されている。

西鹿田中島遺跡 (2)
西鹿田中島遺跡 (3)
集中部Cと土坑群との解説板があった。知識がなくよく分からないが、集中部Cと呼ばれる場所からは、長脚鏃(ちょうきゃくぞく:やじりの一種)などが見つかっている。

75号土坑(写真)はフラスコ型で、木の実などの貯蔵に適した形をしているという。

西鹿田中島遺跡 (4)
第11号住居跡。ここからは多縄文系土器や石鏃を作った時の未製品の石くずが見つかっている。

西鹿田中島遺跡 (5)
西鹿田中島遺跡 (6)
西鹿田中島遺跡 (7)
立派なガイダンス施設もある。史跡公園の来場者が休息できたり、西鹿田中島遺跡についてより深く学習できるよう史跡の解説、出土品や縄文時代草創期の景観を復元した展示模型、史跡の解説映像などが置かれている。

実際には中に入っていないので、中の写真はみどり市のHPから拝借してます。

西鹿田中島遺跡 (8)
遺跡から見た赤城山。赤城山は縄文時代には噴火も収まり、現在とほぼ同じ形状(裾野など)をしていたと考えられるので、縄文の人々もこの赤城山をみていたのかなぁ。なんて考えると感慨深い。


高崎市吉井町多比良の多比良古墳。地元では諏訪前古墳と呼ばれている。

多比良古墳 (1)
多比良古墳は盛土が失われ、横穴式石室の石組だけが露出している。昭和10年(1935年)の調査時には墳丘を有す約12mの円墳だったようだ。

多比良古墳 (2)
多比良古墳 (3)
多比良古墳 (4)
石室の全長は5.54m、玄室の長さ2.7m、羨道の長さ2.8m。石材加工は精巧な切石で、一部切組積み手法をとり入れた高度なものである。石材は牛伏砂岩。

築造年代は、埴輪を所有しないことや切石積み石室などの様相から古墳時代終末の7世紀代と考えられている。

最初に地元では「諏訪前古墳」と呼ばれていると書いたが、これは多比良神社(元は諏訪神社)の前にあるからだと思う。鳥居から約100mくらいの所に、この多比良古墳はあるので。(多比良神社は「高崎市吉井町多比良・多比良神社」参照)


高崎市下佐野町の漆山古墳。

漆山古墳 (1)
漆山古墳 (2)
漆山古墳は全長約70mの前方後円墳であったと推定されるが、現在は前方部が大きく削平され、墳丘は東西38m、南北31m、高さ7.5mほどになっている。6世紀後半の築造と推定される。

漆山古墳 (3)
漆山古墳 (4)
漆山古墳 (5)
埋葬施設は横穴式石室で後円部南側に開口している。凝灰岩を加工して造られており、全長7.8m、玄室長3.7m。内部から刀、鉄鏃の破片、金銅製の馬具などが出土している。

当地には6世紀後半に「佐野屯倉」が設置されており、その管理者が被葬者ではないかと考えられている。山名町の山ノ上碑や金井沢碑に刻まれる「佐野屯倉」「三家子◯」の文字との関連が窺われる。

漆山古墳は佐野古墳群の中心的古墳で、周りが住宅地になるなか地主さんの意向で何とか保存されてきた。平成28年(2016年)に高崎市へ寄贈されている。


伊勢崎市東小保方町の東村46号墳跡。

東村46号墳 (1)
東村46号墳は消滅し位置が不明確となっていたが、公園造成に先立つ調査で、その位置が再確認された。

東村46号墳 (2)
46号墳は調査部分からの推定だが、全長約40mの前方後円墳と考えられる。前方部北側から円筒埴輪や人馬などの形象埴輪の破片が数多く確認された。(写真は解説板の古墳イメージ部分の拡大)

東村46号墳 (3)
東村46号墳 (4)
当然のことながら、古墳を偲ばせる遺構は何もない。

東村46号墳 (5)
公園の名称は頼光塚公園。名前の由来は、公園から約150m北側にある頼光塚からとっている。旧東村に現存する石造物の中でも最古の部類で、しかも不思議な伝説が残る貴重な文化財だからという。(頼光塚は「伊勢崎市東小保方町・頼光塚」参照)


伊勢崎市三和町の丸塚山古墳。

丸塚山古墳 (1)
丸塚山古墳 (2)
丸塚山古墳は全長81mの規模を誇り、後円部径58m、同高さ8mに対し、前方部前幅26m、同くびれ部幅41m、同長さ27m。後円部に対して前方部が幅、長さ、高さともに規模の小さい帆立貝式と呼ばれる前方後円墳である。5世紀後半の築造と推定される。

大正12年(1923年)、昭和30年(1955年)の2度にわたり発掘調査が行われている。その結果、箱形石棺が3個発見されている。石材は凝灰岩が2個、緑泥片岩が1個。時代を変え3人が埋葬されていたことになる(多分最初に1人、後に2人)。

ところで、古墳回りを一周したのだが、どこから見ても素人目には前方後円墳に見えない。また、開口部があるかなと思い墳丘に近づこうとしたが、周濠跡が田畑になっておりどうしても近寄れない。ちょっと残念だった。


吾妻郡東吾妻町三島の四戸の古墳群。

四戸の古墳群 (1)
三島四戸地区には20基以上の古墳が点在し、昭和39年(1964年)にそのうち4基の調査がなされている。高麗尺を使用した6世紀末から7世紀前半の築造と推定されている。

四戸の古墳群 1号墳 (1)
四戸の古墳群 1号墳 (2)
1号墳は天井石はなく、細長い石室が剥き出しの状態。

四戸の古墳群 1号墳 (3)
全長約6m、埋葬部長さ約2.5m、幅約1m。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 2号墳 (1)
2号墳。横から見ると円墳と思われるが規模は不明。

四戸の古墳群 2号墳 (2)
四戸の古墳群 2号墳 (3)
石室は全長約5.2m、玄室約2.3m、幅1.3m、高さ1.6m。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 4号墳 (1)
四戸の古墳群 4号墳 (2)
4号墳は天井石はなく、石室が剥き出しの状態。全長約4.2m、埋葬部長さ約2m、幅約70cm。安山岩を用いた乱石積の袖無型横穴式石室。

四戸の古墳群 3号墳 (1)
四戸の古墳群 3号墳 (2)
3号墳は盛り土が失われ、天井石が剥き出しの状態。右側の側壁は崩れそうだ。天井石や奥壁は安山岩の巨岩を使用しており、1号・2号・4号より規模が大きい円墳。石室は全長約7m、埋葬部長さ3.5m、幅1.2m、高さ1.6m。

四戸の古墳群 3号墳 (3)
南側から見ると背後に岩櫃山がよく映えている。

1号、2号、4号はほぼ隣接しているが、3号墳は少し離れた1段高い所に位置しており、基本的にはすべて同構造と思われる。3号墳は道沿いにあるので見つけやすいが、他は道が細く分かりづらいところにある。

また、平成30年(2018年)に上信自動車道吾妻西バイパス建設事業に伴う埋蔵文化財の発掘調査が行われ、弥生時代終わりから古墳時代にかけての住居跡や新たに1基の古墳が発見されている。直刀や鉄鏃の副葬品も確認されている。


高崎市貝沢町の五霊神社。

五霊神社 (1)
五霊神社 (2)
五霊神社は和田正信が相模国三浦から鎌倉権五郎景正の分霊を勧請し、赤坂の地に祀ったのが始まりという。正信は熊野神社(現高崎神社)を寛元元年(1243年)に勧請しているので、五霊神社の勧請も同年と考えられる。

五霊神社 (3)
石段前の灯籠は、平成23年(2011年)の東日本大震災で倒壊したため、新たに奉納されたもの。

五霊神社 (4)
五霊神社 (5)
五霊神社 (6)
元禄8年(1695年)に時の高崎城主・大河内輝貞が高崎の鬼門除けとして現在地に遷座している。以来高崎城主の崇敬厚く、城主は毎年参内し領内の除災を祈願したという。

五霊神社 (7)
五霊神社の社殿は「五霊神社古墳」上に鎮座している。五霊神社古墳は約15mの周堀を持つ前方後円墳だが、後円部は削られており現在は前方部のみ45mが残っている。横穴式石室は角閃安山岩製で、副葬品も多数見つかっている。6世紀後半の築造と推定される。

五霊神社を勧請した和田正信は上野国和田氏の祖とされる和田義信か義国の子とされる。ついでに、ご祭神の鎌倉権五郎景正は平安時代後期の武将で、後三年の役(1083~87年)時に右目を射らながら奮闘した逸話が残っている。伊勢崎市には景正を祀る五郎神社がある。さらについでに、景正の子孫からは白井長尾氏が出ている。

関連
 高崎神社 「高崎市赤坂町・高崎神社
 上野国和田氏 「高崎市箕郷町和田山・和田の館跡
 五郎神社 「伊勢崎市太田町・五郎神社
 白井長尾氏 「白井長尾氏累代の墓・天霊山空恵寺 その2


渋川市赤城町樽のいなり塚古墳。

いなり塚古墳 (1)
いなり塚古墳 (2)
いなり塚古墳は墳丘径約20mの2段築造の円墳と考えられている。墳丘には河原石による葺石と幅1mほどのテラス面が見られる。築造は6世紀中期の榛名山噴火による軽石堆積から間もない頃と考えられ、利根川上流域の後期古墳とされる。

石室は現存全長6.14mの自然石乱積の袖無型横穴式。埋葬部入口の天井には楣石が突出し、奥壁は2石の巨石から構成されている。石材には輝石安山岩の転石や壊石が使用され、壁面には赤色顔料が塗布されている。

しかし訪問時は雑草が生い茂り、石室開口部も覆われてしまっていたので、覗き込むことは断念。


高崎市倉渕町権田の長井石器時代住居跡。

長井石器時代住居跡 (1)
長井石器時代住居跡は縄文時代後期の遺跡で、平らな石を巧みに敷き詰めた住居跡。標高550mにあり、約9度の勾配を持った南西向きの傾斜面に位置し、昭和28年(1953年)に開田作業中に発見されている。

長井石器時代住居跡 (2)
長井石器時代住居跡 (3)
1辺3mの隅丸方形に石を敷き並べ、西側に張り出しを持つ柄鏡形の敷石住居である。中央には90cm×60cm方形の石囲炉がある。

炉の北西70cmほど離れたところにも方形の石組みを備えている。これは底面にも板石が敷かれており箱状になっているが、炉石のような火熱を受けた痕跡がなく、祭祀的な施設と考えられている。

住居内から壺状の土器、石棒片、磨製石斧などが出土している。

覆屋のガラス面に張り紙があり(1枚目写真参照)、そこには「マムシ注意」の文字が。覆屋周りは草が伸びており、けっこうビビりながらの見学だった。


渋川市北牧の中ノ峯古墳。

中ノ峯古墳 (1)
中ノ峯古墳 (2)
中ノ峯古墳は傾斜面に築かれた直径9m、高さ1mの円墳。6世紀初めの榛名山噴火による火山灰層の上に造られ、6世紀中ころの榛名山噴火による軽石層に埋もれていた。地学上から築造年代の分かる貴重な古墳。

中ノ峯古墳 (3)
中ノ峯古墳 (4)
中ノ峯古墳 (5)
石室は自然石乱石積の袖無型横穴式で、全長5m・埋葬部長3m。人骨5体、直刀2口、銀製飾金具、鉄鏃、玉類などが出土している。

昭和54年(1979年)軽石採取の際に偶然発見された。軽石層に埋もれていたため、きれいな原型をほぼとどめているのだが、季節がら草に覆われ残念ながらその形はよく分からず。草の枯れる秋から冬に訪れるのがいいと改めて認識。


渋川市小野子の八木沢清水縄文時代住居跡。

八木沢清水縄文時代住居跡 (1)
八木沢清水縄文時代住居跡は昭和51年(1976年)に発見され、翌年の発掘調査により縄文時代から弥生・古墳時代に及ぶ住居跡、土坑などの遺構や石器・土器などの遺物が確認された。

特に、地表下1.5mの関東ローム層上面で発見された住居跡は、縄文時代草創期後半(約9000年前)のもので、群馬県内最古の竪穴式住居と判明した。

八木沢清水縄文時代住居跡 (2)
住居は直径約5mのいびつな円形で、当時の地面から50~60cmほど掘り込んで床面を作っている。床面には柱を立てたと考えられる直径20cm、深さ30cmほどの穴が16個あいている。

住居内に炉の跡はなく、また土が焼けた痕跡もないことから、まだ火をたく習慣(文化)が無かったことが分かる。

現在は標高460mの比較的高地だが、当時はもっと低地だったのではないかと思う。神流町の「恐竜の足跡」がある所が海だったといわれているので(1億年前の話だけど)。
(「神流町神ヶ原・恐竜の足跡 & 恐竜センター」参照)


藤岡市鬼石の原古墳。

原古墳 (1)
原古墳は直径9mの円墳で、墳丘には土がまったく使用されず石材のみで構築された珍しい古墳である。6世紀中ころの築造と推定される。

原古墳 (2)
埋葬施設は全長約6m(羨道約3m、玄室約3m)の横穴式石室で、天井石はなくなっている。

平成20年(2008年)に国道及び橋の付け替え工事に伴い発掘調査が行われ、ガラス玉、耳飾り、鉄鍬などが出土している。平成23年(2011年)に元の位置から50m東の現在地に移築・復元されている。墳丘上部は既に失われていたので、古墳基底部のみの復元となっている。

Y字路の三角地点にあり、隣は何回も寄ったことがあるセブンイレブン。でも、原古墳の存在にはまったく気がつかなかった。何で知ったかと言うと「ぐんま古墳探訪」に紹介されていたから。早速役にたった。(「『ぐんま古墳探訪』を買ってきた」参照)


渋川市金井の金井古墳。

金井古墳 (1)
金井古墳は山中の斜面に、榛名山の噴火により堆積した軽石層を切り開いて造られた山寄せ式円墳。直径約14m。古墳時代末の7世紀後半の築造と推定される。

金井古墳 (2)
石室は両袖型の横穴式で、天井と側壁の上部石は無くなっている。石材は角閃安山岩と自然石。石室は玄室と羨道の間に切石で造られた玄門がある。玄門には冠石が残っている。

金井古墳 (3)
金井古墳 (4)
金井古墳 (5)
玄室は最大幅が2m、長さ2.3m、高さは奥壁付近で2.1m。羨道部は長さ長さ2.8m、幅1.2m。遺物は石室内から鉄釘や鉄鏃片、前庭部から須恵器大甕、有蓋短頸壺、土師器坏などが出土している。

思っていた以上に山の中だったので、不安になってしまった。けっこう鬱蒼としていて、昼間でも物音がするとビビる。でも、道路の舗装が比較的新しかったので、道さえ分かれば行きやすい。


渋川市北橘町小室の敷石住居跡。

小室敷石住居跡 (1)
小室敷石住居跡は、縄文時代中期末葉から後期初頭(紀元前2000年ころ)の敷石住居跡である。居住部は東西3m、南北3.35mで、出入り口部は幅0.7m、長さ2.3m。

小室敷石住居跡 (2)
地面を浅く掘りくぼめ、床面に平らな石を敷きつめている。敷石は柱穴に沿ってほぼ6角形に敷かれており、中央に石組の炉が配置されている。

この敷石住居跡は、昭和41年(1966年)に地元の少年が自然薯の穴を掘っているときに、土の中に石が並んでいるのを見つけたのがきっかけで、昭和42年(1967年)に発掘調査が行われ、貴重な住居跡だと判明したもの。

小室敷石住居跡 (3)
小室敷石住居跡 (4)
北橘町真壁の北橘歴史資料館敷地内の「たちばな郷公園」に、小室敷石住居跡が実物大で復元されている。北橘歴史資料館は訪問済みだが、その時は館外には目が向かなかった。
(「渋川市北橘歴史資料館」参照)


渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社。

木曽三柱神社 (1)
木曽三柱神社 (2)
渋川市北橘町下箱田の木曽三社神社の宮司争いが、箱田村・下箱田村間の争いにまで発展してしまい、木曽三柱神社は分祀という形を取り安政2年(1855年)に創建されたという。社伝では由緒が木曽三社神社と同様だったり、神社名が近しいのは本家争いの意味合いがあったのかも。(「渋川市北橘町下箱田・木曽三社神社」参照)

木曽三柱神社 (3)
木曽三柱神社 (4)
木曽三柱神社 (5)
本殿は将軍塚古墳の墳丘上にある。

木曽三柱神社 (6)
将軍塚古墳は直径約21m、高さ約4mの円墳で、横穴式石室は旧北橘村で確認されている中では最大規模を誇る。将軍塚という名の由来は、木曽義仲が近江国粟津で討ち死に後、家臣とともに当地に落ち延びた3男・義基が、義仲の首と遺品を納めたからといわれる。

木曽三柱神社 (7)
木曽三柱神社 (8)
境内には池が造られ、芭蕉句碑などが建っている。

境内西側には箱田多目的集会所があり、そこは義基の墓と伝わる朝日塚古墳(円墳)を削平後建てられたものである。集会所前広場はゲートボール場になっており、行った日もお年寄りがゲートボールを楽しんでいたため、邪魔をせず写真も撮ってこなかった。


富岡市中高瀬の高瀬26号古墳。

高瀬26号古墳 (1)
高瀬26号古墳 (2)
高瀬26号古墳は盛土が失われており、主体部の横穴式石室の石材が剥き出しになっている。もとは径22mの円墳で、その周囲に6m幅の周濠が巡らされていたと考えられている。築造は7世紀と推定される。

高瀬26号古墳 (3)
高瀬26号古墳 (4)
高瀬26号古墳 (5)
南向きの横穴式石室だが、崩れてしまっているので詳細は不明。

桐渕住宅団地造成時に発掘調査されたようだが、よく潰されなかったと思う。周りは県営、市営の桐渕住宅団地で多くの古墳が消滅したらしいが、逆に石材が剥き出しだったので残ったのかも。

現在の中高瀬・下高瀬地区にまたがる桐渕古墳群には、40基以上の古墳が確認されているが、現存しているのは数基である(素人のオレが古墳だと判断できるレベルのものは6基)。


富岡市中高瀬の粘土(ねばつち)山古墳。

粘土山古墳 (1)
粘土山古墳 (2)
粘土山古墳は2段造りの前方後円墳。しかし前方部は大きく削られている。そのため円墳と考えられていたが、昭和45年(1970年)の調査で前方後円墳と判明している。また、周囲に堀が巡らされていたことも、併せて判明している。

もともとは全長62m、後円部径39m、最大幅44m、堀幅9mの大きさと考えられている。6、7世紀の築造と推定される。

粘土山古墳 (3)
粘土山古墳 (4)
主体部は南西に開口する横穴式石室だが、天井石が持ち去られており、石室の詳細は分かっていない。後円部も破壊が進んでいたが、近年保存のための整備が行われたようだ。

北側は道路に面しているが、周りはすっかり住宅街となっており、よく潰されなかったと思う。富岡市内では大きい部類に入るので、重文には指定されていないが保存されたのかな。

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