Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の古民家・西洋建築


前橋市大手町の臨江閣。

臨江閣 (6)
本館、別館、茶室から成り、本館は明治17年(1884年)、当時の群馬県令・揖取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により、迎賓館として建てられた。

臨江閣 (8)
明治26年(1893年)には、明治天皇が行幸されている。

臨江閣 (3)
臨江閣 (4)
臨江閣 (2)
2階には大正天皇の漢詩と、昭和天皇の結婚式の引き出物と言われる人形が飾られていた。

臨江閣 (7)
臨江閣 (5)
別館は明治43年(1910年)、1府14県連合共進会の貴賓館として建てられた書院風建築。2階には舞台を備えた180畳敷きの大広間がある。別館の建築に際しては、安中杉並木の巨木30本が使われている。

ところで、群馬県初代県令・揖取素彦は旧名を小田村伊之助と言って長州萩の出身である。そのためか、吉田松陰との関係が深い。実は、揖取素彦は吉田松陰の妹2人を妻にしている。2人目は久坂玄瑞の妻であったが、玄瑞が蛤御門の変(1864年)で戦死したのち、揖取素彦に嫁している。

けっこうおもしろい事実でしょ。

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利根郡みなかみ町(旧新治村)東峰の旧大庄屋役宅書院。

旧大庄屋役宅書院 (5)
旧大庄屋役宅書院 (1)
天保13年(1842年)、4代目河合定右衛門が大庄屋の時代に、当時の領主・伊丹氏(旗本)が領内巡視の休息所とするため建てたもの。萱葺(現在トタン葺)の寄棟造書院で、式台が付属する玄関が主屋と連結している。

旧大庄屋役宅書院 (4)
書院の内部は、8畳敷きの上段の間と10畳敷きの控えの間を中心とし、特に上段の間は床の間、傍床、付け書院、帳台構えを備えた本格的な書院造りである。

農家の書院というのは大変珍しく、県指定の重要文化財となっている。

旧大庄屋役宅書院 (2)
行った日は非常に天気が良かったので、主屋には布団が干してあった。今も河合家の方が住んでいる?

ちなみに、この大庄屋役というのは、江戸時代の地方行政を担当した村役人のひとつで、代官または郡奉行の下で数村から数10村を管轄した。

身分としては農民であるが、一般農民よりは一段高い階層に属し、その屋敷に門を構えたり、主屋に式台を設けることができた。帯刀を許されたり、着衣や履物にも特例が許されていた(絹物や雪駄の着用)という。

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利根郡みなかみ町湯原の旧戸部家住宅。
前回の水上歴史民俗資料館の敷地内にある。

旧戸部家住宅 (1)
旧戸部家住宅 (7)
旧戸部家住宅 (2)
建築年代を示す古文書は残っていないが、構造・手法等から18世紀前半に建てられたものと考えられている。木造平屋建て、寄棟、萱葺、直屋形式、桁行き10間、梁間4間の建物。

屋根の棟には草花を植えるなど、当時の県内北部の寒冷地に見られる形式である。手入れが行き届いてなく、屋根に雑草が生えている訳ではない。

旧戸部家住宅 (6)
旧戸部家住宅 (5)
旧戸部家住宅 (4)
内部は向って右半分が土間空間で、左手が居住空間になっている。居住空間には客室や床の間。土間のほうには小さい風呂場が。

旧戸部家住宅 (3)
棟持柱が屋根まで達していること、梁等の横材は曲がりくねった細いものであること等、江戸時代初期の特徴を示している。

昭和45年(1970年)国の重要文化財に指定されたことから、旧水上町が買い上げ、昭和49年(1974年)に現在の場所へ移築した。

でも、もともと戸部家は川場村の農家なのに、文化財保存のため買い取るなんて、旧水上町はたいしたもんだ。

まあ、いろいろ経緯はあるんだろうけどね。


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上毛かるた紀行、第36弾!

ほ
(ほ) 誇る文豪 田山花袋

田山花袋旧居 (3)
明治4年(1872年)館林町(当時)に生まれる。尾崎紅葉のもとで修業し、後に国木田独歩、柳田国男と交わる。「蒲団」「田舎教師」などの自然主義派の作品を発表し、その代表的な作家のひとり。

田山花袋旧居 (1)
田山花袋旧居 (2)
館林市城町の館林市第2資料館敷地内に、田山花袋の旧居が移築されている。田山花袋が14歳まで約8年間住んだ家。

木造平屋建て茅葺屋根で、面積は約22.5坪(74.25平方m)。もともとは、江戸時代末の秋元藩時代に、館林城内にあった武家屋敷らしい。

田山花袋記念文学館 (1)
旧居のある第2資料館と道を挟んで反対側に、田山花袋記念文学館がある。「蒲団」「田舎教師」といった有名な作品をはじめ、初版本、書簡、日記、愛用品なども展示されている。

田山花袋記念文学館 (2)
若い時の写真を見ると、イメージがだいぶ違う。

田山花袋記念文学館 (3)
龍土会メンバーの写真。龍土会は西欧文学に傾倒する青年たちが、各々の
文学論を自由に語り合う場であった。日本の自然主義文学の成立に大きな役割を果たした。島崎藤村、柳田国男、小山内薫、蒲原有明らの顔が見る。

病に倒れた花袋のもとに島崎藤村が見舞いに訪れた際、「この世を辞してゆくとなると、どんな気持ちがするものかね」と聞かれ、「なにしろ、誰も知らない暗いところへ行くのだから、なかなか単純な気持ちではない」と答える。

昭和5年(1930年)58歳の生涯を閉じる。

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富岡市宮崎の旧茂木家住宅。宮崎公園内にある。

旧茂木家住宅 (1)
旧茂木家住宅 (2)
茂木家は、戦国時代に神農原にあった大山城の城主であったとされ、江戸時代は代々名主を務めた家柄らしい。

旧茂木家住宅 (5)
旧茂木家住宅 (6)
柱材に残された後世の墨書には、戦国時代の大永7年(1527年)の建築と記され、年代が明確に分かる板葺・石置屋根の民家としては、日本最古のものといわれている。

実際には、江戸時代初期(17世紀)の建築と推定されているらしが、いずれにしても、十分歴史のある建物である。

旧茂木家住宅 (3)
旧茂木家住宅 (4)
棟持柱が屋根まで達していること、梁等の横材は曲がりくねった細いものであること、さらに柱材は手斧で多角形に仕上げられていること等、中世から江戸時代初期の特徴を示している。

昭和45年(1970年)国の重要文化財に指定されたことから、昭和50年(1975年)富岡市に寄贈され、神農原からこの宮崎公園に移築、修理・保存されている。

以前、桐生の彦部家に行ったが、造りは違うが年代的には同じくらい?
(「歴史ありすぎ! -彦部家住宅-」参照。)

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富岡市七日市の七日市藩陣屋(藩邸)跡。
県立富岡高校内にある。

七日市藩邸跡 (2)
七日市藩邸跡 (3)
七日市藩邸跡 (5)
七日市藩陣屋は元和2年(1616年)、藩祖・前田利孝によって築かれる。前田利孝は、有名な前田利家の5男である。

陣屋は約100m四方で東側と北側には水堀、西側と南側は空堀を廻らし、高さ1.8mほどの土塁の上に1.5mの塀を築いていたといわれている。敷地内には藩主の居館や藩行政施設、家臣の宅邸が軒を連ね、城郭ではなく、陣屋構えの形式だった。

七日市藩邸跡 (1)
現在は天保14年(1843年)に再建された、御殿の玄関と書院の一部、中門(黒門)が移築保存されている。

七日市藩邸跡 (7)
七日市藩邸跡 (6)
庭園もきれいに整備されており、ゴミも落ちていない。生徒を含む高校関係者の、文化財への造詣の深さの表れ、と勝手に解釈。

七日市藩は1万石という小藩であり、財政的にはかなり厳しく、本家である加賀藩からの援助なくしては、成り立っていなかったようだ。

上野国唯一の外様大名で、1万石という小藩であったが、明治維新まで改易されることなく、しぶとく存続している。

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甘楽郡甘楽町小幡の松井家住宅。

松井家住宅 (1)
松井家住宅は、江戸時代名主を務めた松井家を移築・復元したもので、建築年代は江戸時代中期(18~19世紀初頭)とされている。全面茅で葺かれた屋根は、堂々とした風格を持つ。

松井家住宅 (2)
松井家住宅 (3)
松井家住宅 (4)
木造平屋建て、寄棟、茅葺、直屋形式で、当時の姿に復元して移築保存されている。座敷には床の間があるなど、上級農家の格式も備えている。

松井家住宅 (5)
天井がなく内部に厩を取り組んだ、この地方の農家建築の典型である。

甘楽町物産センター裏に移築されているんだけど、あんまり見学している人はいない。物産センターには、お客さんがいっぱいいたけど。・・・。

こういう江戸時代の農家建築を見て、地方の人々の歴史に想いを馳せてみてはいかが?

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安中市安中の旧安中藩武家長屋。

安中藩武家長屋 (7)
安中藩武家長屋 (1)
安中藩主は代々德川譜代大名であったが、3万石程度の貧乏藩のため、家臣団は約240名足らず。そのうち、100名は江戸藩邸におり、残り140名が安中に住んでいた。

藩士の大多数は長屋住まいであった。

安中藩武家長屋 (2)
安中藩武家長屋 (3)
現存していたのは3軒分だったが、平成になってから、古図面や建物に残る痕跡から、建築当時の4軒分に修理復元された。

安中藩武家長屋 (6)
道路側から見ると、与力窓が並んでいるのが分かる。与力窓ってのは、太い格子を横にとりつけた窓で、江戸時代長屋等の道に面した側につけたもの。

安中藩武家長屋 (4)
中を見る限り、いたって質素な作り。ここに住んでいたのは、中位の身分の武士と言われているけど。

ちなみに、幕末から明治初年の住人の身分は、儒者見習いで十人扶持、大小姓で十石二人扶持、中小姓で八石三人扶持、大小姓で八両三人扶持。身分や給料、よく分からないけど。

1番西の家のみ1間多い。そこには上記の儒者見習いが住んでいたみたいだけど、ちょっと特別待遇?? まあ、単に造りの関係だけかな?

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安中市安中の旧安中藩郡奉行役宅。

安中藩郡奉行役宅 (8)
安中藩郡奉行役宅 (7)
安中藩郡奉行役宅 (2)
安中藩主・板倉勝明の側近・山田三川が住んでいた頃の建築と伝えられる。山田三川の没年は文久2年(1862年)なので、江戸末期あたりか。

平成になってから、古図面と建物に残る痕跡から、修理復元されている。

安中藩郡奉行役宅 (1)
これは長屋門。案内板で半分隠れてしまったけど、武者窓が見える。武者窓ってのは、太い竪格子の窓のこと。

安中藩郡奉行役宅 (3)
安中藩郡奉行役宅 (4)
手作り感いっぱいの、安中藩関係の資料展示。最近はこういう手作り感のある資料を見ると、味わいを感じるようになった。(オレも少し大人になった?)

安中藩郡奉行役宅 (5)
安中藩郡奉行役宅 (6)
最奥部の上段の間には肖像画が。最後の郡奉行・猪狩幾右衛門懐忠(いかりいくえもんやすただ)。

安中藩は碓氷峠の関所を管轄していたので、歴代の当主は井伊、水野、堀田、板倉、内藤といった、譜代大名が入部していた。(厳密には、碓氷関所の東門は安中藩、西門は幕府直轄管理。)

石高は3万石程度の貧乏藩だったけど、中山道という主要幹線を守っていたんだね。

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前橋市敷島町の前橋市水道資料館。

前橋市水道資料館 (6)
前橋市水道資料館は、給水開始60周年を記念して、平成元年(1989年)前橋市の水道発祥の地である、敷島浄水場内に開館した。ということは、給水開始は昭和4年(1929年)。

前橋市水道資料館 (7)
建物は昭和4年(1929年)に建てられた、敷島浄水場の旧管理事務所を改修したもの。建物の外観、内部など、非常に立派である。昭和初期の建築物って、けっこう洒落てるよね。

前橋市水道資料館 (3)
資料館建物、配水塔は、文化庁から登録文化財の指定を受けている。

前橋市水道資料館 (1)
前橋市水道資料館 (4)
1階は、前橋市内の河川、水道施設等や、給水装置、工具の展示。

前橋市水道資料館 (2)
2階は、敷島浄水場立体模型や水道フローの展示。水道局の仕事や
機構を紹介したビデオもあった。

スタンプ
水は大切なもので、水道事業も非常に重要なので、こういう広報の場は重要である。前橋の小学生は、社会科の一環としてここを見学するという。

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高崎市上豊岡町の茶屋本陣。
茶屋本陣とは、江戸時代に参勤交代などで、街道を通行する大名やお公家さんらが、休憩したところ。

過去、安中市松井田町の「五料の茶屋本陣」を紹介した。
(「江戸時代の名主屋敷 -五料の茶屋本陣-」参照。)

上豊岡の茶屋本陣 (4)
上豊岡の茶屋本陣 (1)
上豊岡の茶屋本陣 (3)
上豊岡の茶屋本陣は、19世紀の初めに、すでにあった居住用の主屋に、離れを増築する形で作られた。

上豊岡の茶屋本陣 (6)
上豊岡の茶屋本陣 (9)
上豊岡の茶屋本陣 (7)
大名やお公家さんが休憩をとるお座敷は、8畳2室からなっており、上段の間、南側が次の間と呼ばれている。上段の間は書院造りで、違棚(ちがいだな)は味わいがある。

上豊岡の茶屋本陣 (8)
北側には庭園がある。これはオザシキノニワと言うらしい。宝暦7年(1757年)には、日光例幣使であった五條宰相菅原為成が、また文久元年(1861年)には、皇女和宮御下向の際にお付のお公家さんらが立ち寄ったとか。和宮が休憩したという記録はないようだ。

隣の安中市には、和宮がご宿泊した書院が残っている。
(「皇女和宮のご泊所 -板鼻本陣跡-」参照。)

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安中市原市の旧碓氷社本社事務所。

碓井社は、生糸商萩原音吉、豪農萩原鐐太郎らの発起で、明治11年(1878年)座繰り製糸(ざぐりせいし)の改良を目的に設立された。

座繰りってのは、手動(手回し)で繭から糸を引く方法(道具)のこと。

旧碓氷社本社事務所 (2)
旧碓氷社本社事務所 (1)
碓氷社の本社として、明治38年(1905年)に建てられた。

旧碓氷社本社事務所 (4)
旧碓氷社本社事務所 (3)
基本的には和風だが、小屋組・軸組に洋風の構造をもち、窓ガラスにはフランス製の板ガラスを使っているらしい。ほとんど改造されておらず、竣工当時の姿を今日まで伝えている。

当時の群馬県の組合製糸業の発展・興隆を示す歴史的遺産として貴重な建物、ということで群馬県は重要文化財に指定してるんだけど・・・。

その割には、周りの環境はあまり良くない・・・。現在、すぐ隣は大型のホームセンター。見方によっては、ホームセンターの広い駐車場の一角にあるように見える。

ホームセンターの買いもの客の車が、前をひっきりなしに通っている。誰もこの建物の謂れなんて、知らないんだろうなぁ~。

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安中市板鼻の板鼻(木島)本陣跡。

板鼻宿は、中山道14番目の宿場町であり、江戸日本橋から28里25町40間の距離。まあ、約113kmってとこ。

板鼻宿には、本陣1、脇本陣1、旅籠54軒があり、上州・中山道7宿の中では最大規模の宿場町だった。

板鼻本陣跡(旧書院) (4)
本陣跡は現在板鼻公民館になっており、その敷地内(裏)に旧書院が
残っているのみ。

板鼻本陣跡(旧書院) (3)
板鼻本陣跡(旧書院) (5)
板鼻本陣跡(旧書院) (2)
この書院は、幕末・文久元年(1861年)公武合体のため、徳川14代将軍・家茂に嫁ぐ、孝明天皇の皇妹・和宮内親王が、ご宿泊したところである。京都から中山道を下ってきたのだ。

全道中警護の藩12、途中宿次ぎの藩29、伝馬の人夫約3万という前代未聞の大行列であった。

板鼻本陣跡(旧書院) (1)
今は和宮資料館になっているが、公開は平日のみという。あんまり公開
したくない、ってこと?

貴重な書院なので、できれば休日も公開して欲しいよね。まあ、事情はあるにせよ、本陣跡を公民館にしちゃうくらいだから、期待できないかな?

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藤岡市高山の高山社跡。
国の史跡に指定されている。

高山社 (2)
高山社 (1)
高山社とは、高山長五郎が明治17年(1884年)に設立した養蚕改良組織である。(それ以前に、高山組を興していた)

明治時代、生糸は日本の重要な輸出品で、全国的に養蚕が盛んに行われていた。しかし、自然飼育では病気で死んでしまうことが多く、安定した生糸の生産ができなかった。

長五郎は、蚕室の温度・湿度管理に着目した飼育方法「静温育」を確立し、その指導や普及に尽くした。

高山社 (3)
高山社 (4)
長五郎の活動の拠点であった生家は、最近までご子孫が住まわれていたが、平成21年(2009年)に国の史跡に指定され、ご家族も翌年に移転したため、現在は藤岡市が買い取り管理を行っている。

高山社 (5)
群馬県では「富岡製糸場と絹産業遺産群」を世界遺産として登録すべく準備を進めており、その対象の一つに「高山社発祥の地」が挙げられているらしい。

高山長五郎 功徳碑
生家から5、6kmのところにある諏訪神社境内に、高山長五郎功徳碑がある。

長五郎が養蚕を頑張った理由を読むと、けっこう泣けてくるんだよね。農業関係の近代化って大変だったということがよく分かるよ。

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安中市松井田町の五料の茶屋本陣。

茶屋本陣は、江戸時代に参勤交代などで、中山道を通行する大名やお公家さんらが、休憩したところ。宿泊用ではなく、休憩や昼食、あるいは碓氷関所の時間待ちなどに利用された。

西と東の2棟からなり、「お西」「お東」と呼ばれている。もともと2軒の家(別のお宅)である。

五料茶屋本陣 お西 (1)
五料茶屋本陣 お西 (9)
五料茶屋本陣 お西 (8)
これは「お西」。文化3年(1806年)の建築で、明治天皇の北陸東海ご巡幸の際には、ご小休所として使われた。

五料茶屋本陣 お西 (6)
妙義山を借景とする、ちょっとした庭があるんだけど、おばさん連中が縁側に居座っちゃって・・・。妙義が撮れず。

五料茶屋本陣 お西 (3)
ちょうどひな人形展をやっていて、3間を使って展示されていた。

五料茶屋本陣 お東 (5)
五料茶屋本陣 お東 (1)
五料茶屋本陣 お東 (2)
こっちは「お東」。「お西」と同様、文化3年(1806年)の建築。

五料茶屋本陣 お東 (3)
書院造りの上段の間。大名やお公家さんが休憩したところ。

五料茶屋本陣 お東 (4)
入り口わきに風呂場の表示が。下から蒸気で蒸す、蒸し風呂?。

この2家とも、松井田城主の家臣の末裔で、慶長6年(1601年)頃には、既に名主を勤めていたらしい。以降、明治5年(1872年)まで、1年交代で名主を勤めたという名家である。

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桐生市広沢町の彦部家住宅。
国の重要文化財に指定されている。

彦部家住宅 (4)
彦部家住宅 (3)
彦部家住宅 (5)
彦部家の歴史は古く、その祖は天武天皇の第一皇子・高市皇子だそうな。室町時代は足利将軍家に仕え、3代義満から金閣寺造営の作業奉行に任じられるほどの地位にいたらしい。

戦国時代、時の当主・彦部信勝が関東に下向し、この地に留まったという。時に永禄4年(1561年)のこと。

屋敷は山麓に配置した典型的な中世の城の形態をなしている。規模は東西130m、南北110mで、堀と土塁に囲まれている。

彦部家住宅 (2)
彦部家住宅 (1)
主屋は、入母屋造り・かやぶきで、正面18m、奥行き11mと大きい。建築年代は江戸初期であり、約400年の歴史を誇る。スッゲエ~の一言。

長屋門は、屋敷の表門で正面16.2m・奥行き3.8mで、屋根は茅葺・寄棟造りとする細長い建物である。長屋門は江戸中期の建物。

それ以外にも、冬住(別宅)、文庫蔵、穀蔵等の建屋がある。また、主屋裏には竹ヶ岡八幡宮がある。御神橋もあった。屋敷神様なんだろうけど。裏門は搦め手口と名がついている通り、立派な石垣がある。

何よりすごいのは、この主屋に子孫の方々が最近まで住んでいたということ。不便だったと奥さんが言っておられた。

彦部家梅干し (1)
彦部家屋敷周りでとれた梅から作った、「彦部家秘伝 冬漬けの梅」を買ってきた。美味かった。

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安中市安中の旧碓氷郡役所。

旧碓氷郡役所 (5)
旧碓氷郡役所 (4)
明治11年(1878年)、「郡区町村編成法」が公布され、群馬県に17郡が置かれた。そのひとつが碓氷郡。明治21年(1888年)に、現在の地に役所ができている。

しかし、明治43年(1910年)に焼失してしまい、翌年竣工したのが現在も残る旧碓氷郡役所である。建築費は5000円。

旧碓氷郡役所 (1)
旧碓氷郡役所 (2)
旧碓氷郡役所 (3)
当時の会議室が常設展示場となっており、当時をしのぶ様々なものが展示されている。

天覧の絵・天覧の書ってのがあったけど、昭和天皇の巡幸のおり見ていただいた?

郡って結局は、大正10年(1921年)に「郡制廃止に関する法律」の公布により、行政区画になった。つまり自治体じゃなく、地理的な名称ってこと。

最近では平成の大合併によって、郡の名前も消えつつある。思いつくだけでも、碓氷郡、新田郡、山田郡、勢多郡、群馬郡が消滅した。

由緒ある名称がどんどん消えていき、つまんない名前の市や町ができてるよね。どことは言わないけどさ。

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前橋の敷島公園ばら園内に、萩原朔太郎記念館がある。

萩原朔太郎
(鎌倉文学館HPから)

萩原朔太郎記念館 (3)
萩原朔太郎記念館 (7)
萩原朔太郎記念館 (2)
これは朔太郎の生家(前橋市北曲輪町:現千代田町)の、書斎、離れ座敷、土蔵を移築したものである。

萩原朔太郎記念館 (6)
このうち、土蔵の中にノートや原稿、書簡等の資料が展示されている。

朔太郎は北原白秋に師事し、26歳のとき『夜汽車』他5編の詩で、中央文壇にデビュー。大正6年に処女詩集『月に吠える』で、一躍全国に名を知らしめ、その後も『青猫』『純情小曲集』『氷島』などを次々に発表。日本近代詩に不滅の金字塔を打ち立てた。(前橋市HPから)

ところで、この記事のタイトルの意味が分かんないと思うが、資料が展示されている、土蔵の入口にこういう表示が。

萩原朔太郎記念館 (8)
土蔵の戸は昔のままで、手で開けるんだけど、開けっ放しにしとくとネコが入るんだろうね。資料はガラスケースに入ってるから、荒らされることはないんだろうが、絨毯が汚れるのかな。

ここは、入館者もクツを脱いで入るんだよ。

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上毛かるた紀行、第15弾!

へ
(へ) 平和の使徒(つかい) 新島襄

新島襄旧宅 (2)
新島襄旧宅 (7)
新島襄旧宅
安中市にある新島襄の旧宅。新島襄自身は安中藩の江戸屋敷で生まれており、ここに居住していたのは、後に3週間という。居住というよりは滞在。

もともとは50m離れた場所にあったものを、地域の方々の保存運動により、市が買い上げ移築したとのこと。部屋は7畳半の2間。昔の長屋はこんなもんなのかな。

新島襄旧宅 (3)
新島襄旧宅 (4)
移築した時、西側半分が記念館になった。遺品や関係書類、写真が多数展示されている。

これ、ただ見ただけでは多分何にも分かんない。外国の方の写真もあるのだが、新島襄との関係とか説明文がないので。

オレが行った時は管理人さんが細かく説明してくれたので(オレしかいなかった)、非常によく理解できた。生まれから、国外脱出、帰国、布教活動、同志社創立等。管理人さん、すごくいい人。

でもここ行きずらい。旧国道18号から、すごく細い路地を行かないといけないので。

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上毛かるた紀行、第13弾!

け
(け) 県都前橋 生糸の市(いとのまち)

県庁 (5)
県庁 (2)
まあ、県都というくらいだから、県庁に行って来れば充分。永いこと群馬に住んでるけど、初めて県庁に行った。あまりに立派すぎて・・・。これなら、もう少し県民税安くできるんじゃないの?(話しがズレた。)

県庁 (4)
32階の展望ホールからは、東西南北が眺望でき、良い眺めだった。初めて来た記念に、スタンプも押して。

ところで、県庁は高さ153.8mで群馬県で1番高い。2番目は高崎市役所。県内の1位2位がお役所って、ちょっと引っかかるのはオレだけ?

さっ、帰えろっと思ったのだが、生糸の市の方も巡らないとかな。ということで、次に行ったのが、前橋蚕糸記念館。敷島公園のばら園内にある。1番奥の隅っこだけど。

前橋蚕糸記念館 (3)
前橋蚕糸記念館 (4)
前橋蚕糸記念館 (7)
前橋蚕糸記念館 (2)
まあ、前橋の養蚕の歴史や、古い書物や機械等。前回の日本絹の里と展示の趣旨は近い。
(日本絹の里は、「繭と生糸は 日本一」参照。)

ただ、この建物は歴史があって、元々は国立原蚕種製造所前橋支所で、明治44年(1911年)のもの。全国に6箇所造られたが、現存するのはここだけ。

歩くたびに床がミシミシ・ギシギシいって、踏み抜いちゃうんじゃないかとヒヤヒヤ。

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