Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬のお墓・供養塔


多野郡神流町平原(へばら)の土屋山城守高久の墓。

ここは延命寺というお寺だが、無住で本堂の老朽化が進み、お寺として機能しているか不明のような感じ。土屋山城守高久の墓は本堂の裏山にあるが、墓地として整備されている状態ではない。足を滑らせながらの確認となった。

土屋山城守高久の墓 (1)
土屋山城守高久の墓。
土屋山城守は武田家の家臣で、武田勝頼の嫡男・信勝を上州に落ち延びさせたという伝説を持つ。

通説では、信勝は父・勝頼とともに天正10年(1582年)天目山にて自害している。16歳であった。

しかし下仁田町などに伝わる古文書によると、「勝頼は信勝の身代わりを立てて自害させ、本当の信勝は土屋山城守とともに峠を越え山中領(上野村・神流町)に入り、さらに南牧村に逃れた」(要約)という。

その後、土屋山城守は旧中里村に移り住み、文禄2年(1593年)に当地で亡くなったとされる。

土屋山城守高久の墓 (2)
ちょっと見づらいが、墓石には「文禄二年四月十七日 土屋山城守高久」とある。

土屋山城守が晩年を当地で暮らしていたのは事実のようだ。しかし信勝を落ち延びさせた伝説はどうなんだろう。

ちなみに、信勝は南牧村で過ごしていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方(浪人)とし参陣し、討ち死にしたという。ついでに信勝には3人の男子がいて、長男(信義)が信勝の首級を持ち帰り南牧村に埋葬したという。信義の墓は下仁田町にあるという。

少し興味があるので、見つけに行ってみようかな。

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前橋市三河町の狐雲山正幸寺。
真田家改易後、沼田の再検地を行った高須隼人のお墓があるので再訪した。
(以前の訪問記は「徳川家康の8男・仙千代を祀る -正幸寺-」参照)

真田家沼田藩5代・真田信利が、本家松代藩の跡継ぎ争いに破れ、本家と対抗するため表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出したことから領民は飢餓に苦しみ、杉木茂左衛門の直訴騒動を起こし信利は改易された(別要因もあり)。
(「伝・真田信利の墓 -迦葉山弥勒寺 その2-」参照)

高須家は前橋藩主・酒井家の家老職の家柄で、忠世・忠清などが老中として江戸にいることが多かったため、実質地元を取り仕切っていた。代々「隼人」を名乗っている。

真田家改易後、沼田は幕府の天領となり、再検地を行ったのが5代目高須隼人である。

高須隼人の墓 (1)
高須家墓所。寛永6年(1629年)から延享4年(1746年)までの37基の石殿型石塔がある。

高須隼人の墓 (2)
5代目隼人の墓。名を広儒(ひろもと)と言う。
旧真田沼田藩の再検地で、実際以上に重くなっていた年貢が大きく軽減されることになったので、沼田領民からは「お助け縄」と呼ばれ感謝された。5代目隼人は、正徳3年(1713年)に亡くなってている。

酒井氏の姫路転封(寛延2年:1749年)に伴い、高須家も姫路へ移っている。高須家のその後の詳細は不明であるが、天保年間(1831~45年)に断絶したと伝えられている。

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安中市松井田町坂本の青松寺。

青松寺 (1)
青松寺 (2)
青松寺の由緒は不明。現在は阿弥陀堂が残るのみ。と言っても、一見物置のような造り。

青松寺 (3)
坂本宿の本陣・金井家の墓。
立派な石塔が数多くある。写真左の大きな石塔は、後から笠を乗せたのかな?

坂本宿は中山道69次の17番目の宿場。碓氷峠と碓氷関所の間にあるため、大名行列のすれ違いのため、本陣が2つあった。上の本陣・佐藤家と下の本陣・金井家。

金井家本陣には、文久元年(1861年)公武合体のため徳川家茂に嫁ぐ和宮内親王が宿泊している。

青松寺 (4)
失礼ながら墓碑を見させていただいたところ、「金井淡路守高勝四男金井源三郎勝治十三代」との記載があったので、倉賀野城主・金井淡路守秀景の末裔のようだ。(金井秀景と金井高勝の関係は分からず)

以前紹介した板鼻宿で牛馬宿を営んでいた金井忠兵衛(旅行記を残す)も金井秀景の末裔といわれている。(「金井忠兵衛の墓」参照)

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安中市板鼻1丁目の金井忠兵衛の墓。

金井忠兵衛の墓
金井家墓所にある金井忠兵衛の墓。

金井家は倉賀野城主・金井秀景の末裔といわれ、中山道・板鼻宿で牛馬宿を営んでいた名家。牛馬宿は宿場の本陣・脇本陣に次ぐ宿格で、その名の通り牛や馬などを泊める以外にも幕府役人などの定宿となっていた。

ちなみに本陣は木島家で、幕末の公武合体で14代将軍・徳川家茂に嫁ぐため中山道を下った和宮内親王がご宿泊された書院が残っている。
(「皇女和宮のご泊所 -板鼻本陣跡-」参照)

忠兵衛は旅日記「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」を残したことで、その名を残している。文化5年(1822年)に自身の伊勢神宮、長崎、出雲大社などへの旅の記録。

この旅行記には、各地の宿の食事の内容や、泊まり心地の善し悪しなど、現在のガイドブックブックとグルメ本を合わせたような内容。

さらには、各地の文化風習に加え、どこそこに美人がいたなどの記載もある。長崎では、地元では絶対にお目にかかれない異国人(オランダ人や清国人)や異国船の様子も綴っている。

忠兵衛の「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、末裔が土蔵から発見したものであるが、当時の旅事情のみならず各地の食文化を知る上で大きな役割を果たしている。

なお、この「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、平成3年(1991年)に「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社)として出版されている。

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北群馬郡吉岡町南下の金剛寺跡。

金剛寺跡 (1)
金剛寺跡 (2)
金剛寺の創建、廃寺などの由緒は不明だが、現在は不動堂のみが残っている(不動堂のみ後の再建かも)。

金剛寺跡 (3)
金剛寺跡は桃井(東)城の南面にあり、桃井氏ゆかり寺院とされる。境内の宝篋印塔は桃井直常の墓とも供養塔ともいわれる。吉岡町には桃井直常の墓と伝わる五輪塔もある。
(「伝・桃井直常の墓」参照)

宝篋印塔の基礎正面には「浄眼大禅定門應永13年(1408年)」の刻字があるが、基礎や塔身部は後世のもののようである。ただ、笠部などは室町初期の形態を備えている。

直常の墓や供養塔とするには異論もあり、吉岡町の案内板にはその旨は一言も書かれていない。しかし、直常の墓(供養塔)との伝承から、後に基礎や塔身をそれに合わせたとも考えられる(個人的意見、根拠なし)。

金剛寺跡 (4)
不動堂脇にある五輪塔群。直常に従って討ち死にした人々の墓・供養塔ともいわれている。

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北群馬郡吉岡町南下の桃井塚。
桃井直常の墓との伝承がある。

桃井直常の墓
桃井直常の墓と伝わる五輪塔(向かって右)。左は直常夫人の供養塔とされる。

直常は元弘3年(1333年)足利尊氏の六波羅探題攻めに従い、室町幕府開府後は若狭守護、伊賀守護、越中守護に任じられている。

観応擾乱(足利直義派と高師直派の対立)では直義側に付き奮闘。その後も反幕府的な軍事行動をおこなっていたが、応安4年(1371年)五位荘の合戦(現在の富山県高岡市)で敗れて消息不明となっている。

その後の行方は分からず、富山市近在で没したとも桃井郷へ帰郷後没したともいわれる。没年は永和2年(1376年)とされるが、定かではない。

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邑楽郡千代田町上中森の天徳山授楽寺。

授楽寺 (1)
授楽寺は文禄3年(1594年)鷹山廣俊の開創と伝わる。

授楽寺 (2)
授楽寺 (3)
江戸末の文化15年(1818年)に伽藍が再建されたが、明治43年(1910年)利根川の氾濫により大きな被害を受ける。昭和初期(4~12年にかけ)に檀家・地元の方々の浄財にて再建。

現在の本堂は平成6年(1994年)の新築。

授楽寺 (4)
授楽寺 (5)
無縁墓の一角に初代・紫峰庵夫雪の墓がある。
初代・紫峰庵夫雪は江戸後期の俳人で、常陸国(茨城県)筑波郡の出身。5世太白堂に学び諸国を巡った後、当地に庵を結び多くの弟子を得ている。弘化2年(1854年)97歳で没している。

紫峰庵夫雪の俳号は、確認できただけで4世まで引き継がれている。

授楽寺 (6)
慈母観音像。この観音像の足をなでたところ、足や腰の痛みが和らいだことから、「足なで観音」と呼ばれている。

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甘楽郡下仁田町の水戸天狗党戦死者の墓。

下仁田は幕末に尊王攘夷を唱える水戸天狗党と幕府の命を受けた高崎藩との間で、激しい戦闘が行われている。世に言う下仁田戦争(元治元年:1864年)。

下仁田戦争は水戸天狗党が勝利しているが、高崎藩戦死者36名、天狗党死者4名。水戸天狗党の死者4名は、下仁田町内に葬られている(3ヶ所)。

本誓寺 (1)
本誓寺 (2)
下仁田町下仁田の光明山本誓寺。本誓寺には水戸天狗党・久保田藤吉、斎藤仲次の墓がある。

久保田藤吉・斎藤仲次の墓
久保田藤吉、斎藤仲次の墓。
下仁田戦争の中でも安導寺の戦いは激戦地の一つであり、この戦いで両名は戦死している。

野村丑之助の墓
同じく下仁田町下仁田にある野村丑之助の墓。
野村は右手を切り落とされる重傷を負ったことから、足手まといになることを潔しとせず切腹して果てている。なんと、僅か13歳。野村の死は下仁田戦争の悲話として語り継がれている。

義烈照千古の碑
野村の墓の傍らには「義烈千古を照らす」の碑が建つ。碑は昭和16年(1941年)下仁田町旭町内有志が募金を募り建立している。碑文は頭山満。頭山満は明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭、玄洋社の総帥。

大曽根繁蔵の墓
同じく下仁田町下仁田にある大曽根繁蔵の墓。
大曽根繁蔵は梅沢峠を見張っていたが、下小坂関口付近で高崎藩と遭遇、安導寺の戦いで戦死している。

里見家蔵 (1)
里見家蔵 (2)
高崎藩の本陣となった里見家の蔵。当時の弾痕が残る。

下仁田戦争は鎧・兜をつけ、槍・刀で白兵戦があった、最後の戦いといわれている。下仁田戦争から4年後、明治の世が訪れ近代国家としての歩みを進めていくことになる。

下仁田戦争関連
 「下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館」(現、下仁田町歴史館)
 「下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-

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甘楽郡甘楽町国峰の興巌寺。

興巌寺 (1)
興巌寺 (2)
興巌寺(こうがんじ)の由緒は不明。

興巌寺 (3)
本堂は平成12年(2000年)の新築。本堂新築記念碑に「450余年」とあったので、単純計算で1550年前後、天文から弘治(1532~58年)あたりの創建?

興巌寺 (4)
興巌寺は小幡七福神の大黒天を祀る。

興巌寺 (5)
墓地内にある一石五輪塔。その名の通り、1つの石から彫り出した五輪塔。3基とも天引石(砂岩)で造られている。高さは56~58cmとそれほど大きくない。いずれも直線的な軒型をしており、13~14世紀の造立と推定される。小幡氏、藤田氏の供養塔と伝えられているが、定かではない。

風化のためか火輪と風輪間には亀裂が入っており、分離状態(上に乗っているだけ)になっている。

興巌寺 (6)
興巌寺 (7)
墓地内に「国峯城主 小幡氏歴代」という碑があったので、その後ろを見たら小幡氏歴代の墓(宝篋印塔)があった。塔身部は後世のもののようだが、そこには「顕高」「信龍斎全賢(憲重)」「泉龍斎聖賢(不明)」「信定」「重定」「信貞」「信真」の名がみえる。
*( )内はオレの記載

小幡氏に関しては詳しくないが、顕高、憲重、信貞は親子孫の関係で、顕高の法名が「興巌宗賢庵主」とあったので、勝手な想像を働かせると、興巌寺は憲重が父・顕高の菩提を弔うため創建したのかも。

後付けの塔身部に弘治3年(1557年)ともあったので、単純計算からの創建推定年とだいたい合っている。うぅ~ん、自己満。(一石五輪塔の年代とは、ちょっと合わないけど・・・)

ちなみに、小幡氏歴代の墓は宝積寺にもある。
 「小幡氏歴代の墓 -宝積寺-

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館林市北成島町の大谷休泊の墓。

大谷休泊の墓 (1)
大谷休泊の墓 (2)
大谷休泊は戦国期の農政家。関東管領・山内上杉憲政の下で、農業事業や開拓事業を執り行っていたが、天文21年(1552年)に平井城が北条氏に攻められ憲政が越後に逃げると、館林城の長尾顕長に招かれ、館林周辺の開発事業を行った。

渡良瀬川から、後に「上休泊堀」と名付けられる堀を掘り、新田開発を進めた。また、多々良沼からも「下休泊堀」を掘り、同様に開墾を進めた。その結果、多くの新田が誕生し農業生産力は飛躍的に向上した。

さらには、150万本もの松を植林し、「大谷原山林」を造成。これは防風林としての役目を果たし、現在もその一部が残っている。

大谷休泊の墓 (3)
墓地は「大谷休泊記念公園」として整備され、休泊の事業を示す大きな解説板も立っている。

休泊は天正6年(1578年)57歳で没している。


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館林市高根町の妙高山龍興寺。

龍興寺 (1)
龍興寺 (2)
龍興寺 (3)
龍興寺の由緒は不明だが、天正年間までは高根寺と称していたと考えられる(北条氏邦が出した天正12年(1584年)の虎印制札に高根寺とあるため)。

榊原康政の家老・原田種政が中興開基したとの謂れもあるので、龍興寺となったのは、康政が館林に入った天正18年(1590年)以降と思われる。

龍興寺 (4)
参道脇にある五輪塔。非常に立派な五輪塔である。中興開基の原田種政の墓(五輪塔)があるということだったので、これが原田種政の墓ではないかと勝手に推定。

原田種政は九州肥前の豪族・原田種高の三男で、種高の死後徳川家康に仕える。天正10年(1582年)の徳川家と北条家の合戦の際に功名をあげ、榊原康政が家康に頼み家臣にもらい受け、家老として重用したといわれる。寛永5年(1628年)に73歳で没している。

龍興寺 (5)
境内にある館林市多々良地区の戦没者供養塔「英霊之碑」。館林市には戦没者を祀る施設が多い。祖国のために散った英霊をお祀りすることは当然であり、また素晴らしいことである。

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甘楽郡甘楽町金井の歓喜山宝勝寺。

宝勝寺 (1)
宝勝寺 (2)
宝勝寺の縁起を記した「宝勝寺起立文書」という古文書が甘楽町の重文になっているが、調べてもその内容が分からなかった。ということで、宝勝寺の由緒は分からない。

宝勝寺 (3)
宝勝寺 (4)
本堂は平成18年(2006年)の改築。

宝勝寺 (5)
室町時代の特徴を持つ地蔵菩薩石像と薬師如来石像。
ともに天引石製で地蔵菩薩は58cm、薬師如来は60cm。天引石は砂岩のため、風化がかなり進んでいる。

石造は近隣にあった薬師堂に安置されていたが、薬師堂が焼失し野ざらしになっていたため、昭和59年(1984年)に宝勝寺に遷座している。でも、野ざらしは変わらず。覆屋を作ってあげた方がいいと思う。

宝勝寺 (6)
鎌倉時代の文永5年(1268年)の銘がある板碑。
緑色片岩製で高さ136cm。全体の幅が広く、特に下幅が広い将棋形で、13世紀後半に甘楽地方を中心に造立された小幡型板碑と呼ばれている。

偈文と呼ばれる「経」の文字が刻まれている板碑は、群馬県内では本板碑だけで、全国的に見ても極めて少ない。

宝勝寺 (7)
室町時代の応永8年(1401年)銘の宝篋印塔。安山岩製で高さ約70cm。

宝勝寺 (8)
小幡藩織田家家老・吉田玄番家累代の墓。
元和元年(1615年)から小幡藩は織田信長2男・信雄の所領となっていたが、7代藩主・信邦の代に明和事件に連座し、信邦は蟄居、養嗣子・信浮は出羽高畑へ移封となった。

吉田玄番はその当時の家老職で、出羽移封時に責任をとって自決したと伝わる。(妻子共々越後に逃れたという伝承もあり)玄番自身の墓はないが、過去帳に法名が残されている。

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太田市丸山町の義徳山大圓寺。

大円寺 (1)
大圓寺は明暦元年(1655年)の創建。安政年間(1854~60年)の火災により、記録などは焼失してしまっている。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
現在の本堂は平成17年(2005年)の再建。

大円寺 (4)
参道脇にある徳本行者名号碑。
徳本行者は江戸時代後期の浄土宗の僧侶で、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖と呼ばれていた。

文化13年(1816年)に上州遊行をした記録があるので、その際に大圓寺に寄るなどしたのだろうか?

大円寺 (5)
大円寺 (6)
墓地入口に勾当内侍(こうとうのないし)の墓とされる宝篋印塔がある。その後方には、「勾当内侍之墓」と記された碑が建っている。

勾当内侍は新田義貞の妻とされる。新田義貞が勾当内侍との別れを惜しんだため、九州へ逃れた足利尊氏への追撃の時期を逸したと太平記には書かれている。

太平記が江戸時代に広まると、勾当内侍の墓が全国各地に作られており、大圓寺の墓もこのころ造立されたものと思われる。

ちなみに、太田市武蔵島町の花見塚公園には、新田義貞の首塚と勾当内侍の墓が並んで建っている。また、太田市亀岡町には勾当内侍が義貞供養のため庵を結んだのが起源とされる儀源寺がある。
 「勾当内侍の墓と新田義貞の首塚 -花見塚公園-
 「勾当内侍のお寺 -儀源寺-


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渋川市石原の大島家墓地の石堂墓石。

大島家墓地の石堂墓石 (1)
大島家の墓地にある石堂墓石。これらは新田一門・義継の子孫と称する豪族・大島氏の墓である。

大島家墓地の石堂墓石 (2)
大島式部信忠、豪左衛門信吉、半左衛門信光、五郎左衛門信政の墓で、寛永20年(1643年)から延宝元年(1673年)までに造立されたもの。

4基とも2段の基礎、塔身、屋蓋、相輪の5石からなり、1.97m(信政墓石)から2.63m(信吉墓石)の総高がある。

大島氏は新田義継の2男・時継に始まるとされる。時継の曾孫・義政は新田義貞の鎌倉攻めの副将軍を務めている。その後は里見氏に仕え、渋川を地盤とする(里見氏の勢力範囲が渋川まで及んでいたため)。

戦国期には白井城主・長尾氏、その後は安中城主・井伊氏に仕えた。正保2年(1645年)井伊氏の三河西尾への移封に伴い帰農。

渋川市の解説板などでは「農民層の墓石としては規模も大きく造りも優秀」などと書いているが、寛永~延宝はまだ井伊氏に仕えていた時代から帰農直後なだけに、豪族の墓と捉えるのが正しい。

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沼田市下川田町の加沢平次左衛門の墓。

加沢平次左衛門の墓 (1)
加沢平次左衛門の墓 (2)
加沢平次左衛門は「加沢記」の著者である。沼田真田藩の家臣であった加沢平次左衛門は、天和元年(1681年)の真田信利改易後、川田城跡の一隅に隠棲し真田氏を中心に戦国時代の歴史を記した「加沢覚書」を残した。

後世に「加沢記」と称され、天文10年(1541年)の海野氏と村上義清の戦いから、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めまでの約50年の歴史が記され、真田幸隆、昌幸、信幸(之)3代の活躍と、それらを軸として利根・沼田の地衆の興亡が描かれている。

利根沼田・吾妻郡を中心とした戦国時代の歴史を調べるうえでの重要資料となっている。

元禄5年(1692年)65歳で没している。

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伊勢崎市上蓮町の栗庵似鳩(りつあんじきゅう)の墓。

栗庵似鳩の墓 (1)
栗庵似鳩の墓 (2)
栗庵似鳩の墓。
似鳩は大阪生まれの俳人で、明和8年(1771年)に俳諧行脚の途中、那波郡上蓮沼村(現上蓮町)に立ち寄ったのが縁で、この地に庵を結び、「喰つみは秋もてなさん軒の栗」と詠み、庵を栗庵と名づけた。

以来、蕉風俳諧の普及に努め、弟子の数は500人を超えたとされる。寛政9年(1797年)62歳で没している。

墓は似鳩の7回忌に弟子たちにより建てられたもので、表面に「雪仏生まれ時の 顔に似よ 似鳩」と辞世の句が刻まれている。

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沼田市岡谷町の海野塚。

海野塚 (1)
海野塚は海野輝幸と幸貞父子の墓である。

北条氏から沼田城を奪った真田昌幸は、一族の海野輝幸に沼田城を守らせていた(輝幸の兄・幸光は岩櫃城代であった)。海野兄弟の重用を妬んだ者の「海野兄弟は北条と通じている」という讒言を信じた昌幸は、天正8年(1580年)弟の信尹(のぶただ)に命じて先ず幸光を討ち、輝幸にも追討をかけた。

海野塚 (2)
輝幸は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指したが、真田勢の追撃を受け、嫡男・幸貞と「無益な殺生はこれまで」と刺し違えて自害したといわれている。父子は当地に葬られている。

海野氏は滋野三家のひとつ。滋野家は清和天皇の皇子・貞保親王の孫・善淵王が滋野姓を賜り臣籍降下したのが始りといわれる(諸説あり)。平安中期に滋野氏は三家に分かれ、それぞれ居住とする地名(海野、祢津、望月)をとって姓とした。

海野幸光・輝幸兄弟は海野幸義の3男・羽尾景幸の子であり、直系の血筋が絶えた後に海野家を継承したと称している。

ちなみに、海野家系から幸隆(昌幸の父)が出、真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。真田氏からみると、海野氏は本家筋になる。(幸隆の出自も諸説あり)

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伊勢崎市東本町の常清寺。

常清寺 (1)
常清寺 (2)
常清寺の由緒は調べたが分からなかった。

常清寺 (3)
墓地にある変形板碑。
安山岩の自然石半面を形成したもので、正面に金剛界の大日如来を表す「バン」の種子と蓮座が薬研彫りされている。南北朝期の北朝年号である康永4年(1345年)の紀年名がある。台座は宝塔の塔身で室町時代初期の別物である。

常清寺 (4)
常清寺 (5)
板垣信方の墓。
信方は武田信虎、信玄の2代に仕えた武田24将、武田四天王のひとり。村上義清との上田原の戦いで討死。

信方の3男・信廣が新田氏系の林氏を頼り上野国に移り住み、伊勢崎の下植木地区に土着。子孫は代々伊勢崎藩に仕えた。この家系の末裔の方が昭和8年(1933年)に建立したもの。

一般的には「信方」と表記するが、板垣家には「信形」と伝わっているという。ちなみに、明治時代に自由民権運動で名をはせた板垣退助は信方の孫・正信の家系である。

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高崎市上小塙町の山田勝弥の墓。

山田勝弥の墓
山田勝弥の墓。

山田勝弥は高崎五万石騒動の大総代3人が逮捕(後に処刑)された後、第2代大総代となった丸茂元次郎とともに民部省に強訴・逮捕され、明治4年(1871年)岩鼻監獄に送られる。10年の刑であった。

しかし当時の監獄の衛生環境は良くなかったと思われ、入牢10ヶ月後に獄死。享年51歳。なお、山田以外にも3名が獄死している。

ちなみに、丸茂元次郎は無事10年の刑を満了し(恩赦で8年に短縮ともいわれる)、その後天寿をまっとうしている。

関連
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
 「高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-

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高崎市上小塙町の堰上山大森院方光寺。
2度に渡り紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである小島文次郎の墓がある。
 「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
 「高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-

大森院 (1)
大森院 (2)
大森院は元亀2年(1571年)大森氏により創建された。大森氏のことはよく分からない。駿河国の土豪(北条早雲の前の小田原支配)?

大森院 (3)
大森院 (4)
東側には平成17年(2005年)に仁王門が建立された。内側には風神・雷神が鎮座している。

大森院 (5)
大森院 (6)
本堂は寛政7年(1796年)の建立。平成2年(1990年)に改修されている。鐘楼は平成11(1999年)の新築。

大森院 (7)
墓地の一角には涅槃廟と名付けられた納骨堂がある。

大森院 (8)
五万石騒動大総代のひとり小島文次郎の墓。

高井喜三郎、佐藤三喜蔵逮捕後、2人の釈放を求め新政府の岩鼻県庁(旧岩鼻代官所)に赴くが捕らえられて、明治3年(1870年)9月に処刑されている。享年46歳。

文次郎は幼少のころより和算、書画,謡曲、挿花、武芸を学び、他の大総代同様、選ばれるべくして選ばれている。

辞世は「人のため草葉の露と消ゆれども 名を後の世に残すうれしさ」

大森院 (9)
墓の隣にある供養碑。台座には一揆に加わった各村総代や関係者の名前が刻まれている。

なお、小島家には17点の傘連判状を含む計53点の資料が残されている。特に傘連判状は五万石騒動を象徴する資料として大変貴重なものである。

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高崎市下中居町の東光山普門寺。
前回紹介した高崎五万石騒動の大総代のひとりである佐藤三喜蔵の墓がある。
(「高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓」参照)

高崎・普門寺 (1)
高崎・普門寺 (2)
高崎・普門寺 (3)
普門寺の由緒は分からなかった。

高崎・普門寺 (4)
高崎・普門寺 (5)
五万石騒動大総代のひとり佐藤三喜蔵の墓。

三喜蔵は温厚で誠実な人柄で、面倒見も良い人物であった。大総代のひとりに推されるのも当然の人物であったようだ。また、体格がよく田舎相撲の横綱と呼ばれていた。

高井喜三郎とともに処刑されたが、泰然自若として少しも恐れず刑場の露と消えた。享年52歳。その姿には、高崎藩士も涙したという。

辞世は「望みなき身は今日限りにちりぬるも 七度生まれてかなへてやみん」

なお、墓の碑には「三喜造」とあるが、いろいろ調べると「三喜蔵」との表記の方が多かったので「三喜蔵」とした。違っていたらすみません。

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高崎市柴崎町の高井喜三郎の墓。
高井喜三郎は、高崎五万石騒動の大総代3人のひとり。

高井喜三郎の墓 (1)
高井喜三郎の墓。

高崎五万石騒動は、年貢の軽減を訴えた農民一揆。農民一揆と言っても江戸時代の出来事ではなく、実は明治に入ってから。当時の高崎藩は幕末の下仁田戦争(水戸天狗党との戦い)などの戦費がかさみ、農民に重税を課していた(米には70%以上)。

明治政府は「農商工布告」で、「苛政に苦しむものは申し出よ」と布告。高崎藩のお隣りの岩鼻県(岩鼻は江戸幕府の天領だったので県になっていた)では訴状を受け付けたが、高崎藩は布告自体を無視していた。

明治2年(1869年)、高井喜三郎、佐藤三喜蔵、小島文次郎の3人が大総代となり、高崎藩主(大河内輝聲)に直訴に及んだもの。直訴と言っても「要望書」を渡しただけ。まあ、高崎藩主からみれば「強訴」となるけど。

農民の要求は廃藩置県(明治4年:1871年)後に認められたが、大総代3人は明治3年(1870年)に斬首となっている。

百姓一揆というと過激な打ち壊しとかを想像しがちだが、極めて民主的に大総代を選出し整然と行動している。

高井喜三郎の墓 (2)
辞世は「吾人の為ともなれと身を捨てて いまいけにへとなりしうれしさ」。
享年42歳。

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安中市中秋間の瑞林山全性寺。
全性寺には珍しい悟留譜観世音菩薩(ゴルフ観音)あり以前紹介したが(「ゴルフ観音 -全性寺-」参照)、安中忠政のお墓もあるので再訪した。

全性寺 (1)
全性寺 (2)
全性寺 (3)
全性寺は安中忠盛が父・忠政の菩提を弔うために創建した。

全性寺 (4)
安中忠政の墓。
明治33年(1900年)、安中氏家臣の家系である奥原氏が再建したもの。奥原氏は秋間七騎に数えられている。

忠政の父・忠清の墓は久昌寺、祖父・忠親の墓は桂昌寺にある。
安中忠清の墓 -安中・久昌寺-」「安中忠親の墓 -安中・桂昌寺-」 をそれぞれ参照。

本ブログでは、安中忠親、忠清、忠政と「忠」名を使っているが、顕繁、長繁、重繁と「繁」名の記録もある。それだけ安中氏の素性は諸説あり、よく分かっていないということ。

全性寺 (5)
最後に、やっぱり全性寺と言えば「ゴルフ観音」なので、再掲。

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安中市板鼻の荒木寅三郎の墓。

龍的山古墳 (1)
龍的山古墳 (2)
荒木寅三郎の墓は龍的塚古墳の墳頂にある。龍的塚古墳は、直径40mの円墳で、竪穴式の石室を持つ。周濠の中に陪塚が確認されている。築造は5世紀と推定され、付近では最古の古墳とされている(前方後円墳との説もある)。

荒木寅三郎の墓 (1)
墓までは石段が設置されている。

荒木寅三郎の墓 (2)
荒木寅三郎の墓 (3)
荒木寅三郎の墓。

荒木寅三郎は慶応2年(1866年)に板鼻の町医の家に生まれる。東京帝大医科大学を卒業後家業を継ぐ。その後、ドイツ留学、第三高医学部教授、京都帝大医科大教授などを経て、大正15年(1915年)に京都帝大総長、昭和4年(1929年)に学習院院長に就任。昭和17年(1942年)に逝去、75歳。

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藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。
光徳寺は芦田氏の菩提寺で累代の墓がある。また算聖・関孝和の墓も
ある。
 「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-
 「算聖・関孝和の墓 -光徳寺 その2-

前回、同じ藤岡市の源性寺の松井宗直の墓を紹介したが、光徳寺にも
松井宗直の墓がある。こちらが本墓のようだ。
 「松井宗直の墓 -源性寺-

松井宗直の墓
中央が松井宗直の墓。
(向かって左は宗直3男・松井宗利、右は宗直室の墓)

宗利が松井家の家督を継いでいる。また、宗直の室は後室である大森
泰頼の娘。宗利の母は大森泰頼の娘なので、3人が一緒に葬られている
のだろう。

宗直の墓石には「自天源性大居士」とあり、この戒名が前回の源性寺の
「自天山」「源性寺」という山号・寺名になっている。

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藤岡市下大塚の自天山源性寺。

源性寺 (1)
源性寺は慶長元年(1596年)松井與平衛宗直が、正室の菩提を弔うために創建したと伝わる。正室は依田信守の娘である。

ちなみに、藤岡市の天陽寺にある信守の墓は、正室の父である信守ではなく、その孫にあたる信守のもの。信守は関ヶ原の戦い、大坂の陣の功績により、徳川家康から祖父名・信守を名乗ることを許されている。(天陽寺は「武田家家臣・長井正實の開基 -天陽寺-」参照)

源性寺 (2)
源性寺 (3)
山門(仁王門)がど~んといった感じで構える。周りが空いているので存在感がある。仁王像をアップで撮ろうとしたが、アクリル板がはめられていて、反射して良く撮れなかった。

源性寺 (4)
飯塚臥龍斎興義という人物の顕彰碑があった。戸田越後守が始祖といわれる(諸説あり)気楽流(柔術を中心とした総合武術)の11代目で、中興の祖といわれている人物らしい。緑野郡下大塚村(源性寺がある地区)の出身。江戸時代後期の人。

源性寺 (5)
松井宗直の墓。
写真では分かりずらいが、かなり大きな五輪塔型。まだ新しいが、実はこの中に墓が保存も兼ねて納められている。

松井氏は源為義の子・惟義(松井冠者)を祖とする。宗直は惟義から数えて15代目という。今川氏、武田氏に仕えた後、天正13年(1585年)ころには徳川氏に仕えている。

宗直の本墓は藤岡市の光徳寺にあるようなので、また行ってみるかな。光徳寺は芦田氏の菩提寺で、関孝和の墓もある。
 「芦田氏の菩提寺 -光徳寺-
 「算聖・関孝和の墓 -光徳寺 その2-

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吾妻郡中之条町五反田の空閑の墓。

空閑の墓 (1)
前回の旧五反田学校へ向かっている時、道を間違えてしまい「あれっ?」って思った時に、偶然この案内板を見つけたので寄ってみた。
(旧五反田学校は「明治時代の小学校建築 -旧五反田学校-」参照)

和利堂 (1)
車を路駐し(ほとんど車は通らなそうだったので)歩っていくとお堂が見えてくる。和利堂とある。空閑の住居跡をお堂としたのかな?(勝手な想像)

和利堂 (2)
和利堂 (3)
和利堂境内にはいろいろな石仏があった。

空閑の墓 (2)
和利堂の脇に空閑の墓がある。空閑は江戸時代に当地に住み着いていた僧侶。

永禄6年(1563年)岩櫃城が武田信玄、真田幸隆らに攻められ落城。城主・斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼り落ち延びたが、その末子・城虎丸は嵩山城に籠もり奮闘。しかし永禄8年(1565年)遂に落城。

嵩山  (1)
若き城主・城虎丸(18歳といわれる)は大天狗岩から身を投げ自害したという。また多くの女性も同様に大天狗岩から身を投げたという。

この嵩山城の犠牲者を弔うため、元禄15年(1702年)に空閑と地元の人たちが、嵩山の登山口を1番とする坂東三十三観音を建立した。(その後、秩父三十四観音、西国三十三観音も建立)

空閑の素性は調べてもよく分からなかったが、地域の人から嵩山城落城の話を聞いて、僧侶として菩提を弔い供養しようと思ったんだろうね。

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安中市安中(2丁目)の洞谷山龍昌寺。
以前訪問済みだが(「和合の鐘 -龍昌寺-」)、龍昌寺には儒学者・山田三川の墓がある。

山田三川の墓
山田三川(1804~62年)は安中藩の儒学者。三川は号で、名は飛、諱は戴飛である。出身は伊勢国三重郡平尾村だが、江戸に出て昌平坂学問所で学ぶ。松前藩に召し抱えられるが、職を辞し下総国に隠蔽。

その後、徳川斉昭の紹介で嘉永5年(1852年)から安中藩に仕えている。嘉永5年は、ペリーが浦賀に来航する前年である。

三川は郷学校「桃渓書院」設立や藩校「造士館」で経済学・詩文・吏事などを教え、安中藩の教育向上に貢献した。

ちなみに、三川の使えた板倉勝明は安政遠足(あんせいとおあし)を行ったことで有名。

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安中市安中(3丁目)の久光山妙光院。

妙光院 (1)
妙光院 (2)
妙光院 (3)
妙光院 (4)
妙光院は応永年間(1394~1428年)慶秀法印の開山と伝わる。永禄2年(1559年)安中忠政が祈願所として再興したといわれる。

妙光院 (5)
永禄2年(1559年)安中忠政が祈願所として堂宇を再建。以後、井伊直勝、板倉重形も祈願所とするなど、歴代安中藩主から崇敬を受けた。

妙光院 (6)
安中藩は井伊直政長男・直勝に始まるが、板倉家は天和元年(1681年)から元禄15年(1702年)、寛延2年(1749年)から明治4年(1802年)の廃藩置県まで、2回計140余年に渡り藩主を務めている。

写真では分かりづらいが、屋根には「板倉九曜巴」の家紋が輝いている。板倉家藩主時代(2回目と思われる)に本堂は再建されているようだ。

妙光院 (7)
妙光院墓地には、新島襄の祖父・弁治と弟・雙六の墓がある。祖父・弁治は明治3年(1870年)85歳、弟・雙六は明治4年(1871年)25歳で亡くなっている。

妙光院は新島家の菩提寺なのかな。ちなみに、新島襄の両親(民治、とみ)の墓は、襄とともに京都にある。

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高崎市倉渕町三ノ倉の榛名山座主の森。

榛名山座主の森 (1)
榛名山座主の森 (2)
榛名山座主の森は榛名山座主・快尊、忠尊、快承の墓といわれる。森という名称だが、円墳のような形状である。昔は鬱蒼とした森の中にあったのかもしれない。

座主とは一般的に天台宗のトップをことを言うが、住職の最上位職の別称でもある。榛名山座主とは、榛名神社の僧職の最高位のこと。神社の僧職というとおかしく感じるが、榛名神社(に限らないが)は古くから神仏習合が定着し、山中には9世紀ごろの僧坊とされる巌山遺跡もある。(神社から仏教が排除されたのは、明治の神仏分離以降のこと)

榛名山座主は藤原道長の子孫が代々受け継いだとされており、快尊は道長4代の孫・忠実の子孫といわれ、4代榛名山座主である。忠尊、快承は快尊の子。

快尊父子は榛名山執行職・頼印と座主の座を争い、烏川沿岸で敗死したしたという。快尊、忠尊は観応3年(1352年)、快承は文和2年(1353年)の死去。抗争に勝利した頼印は鎌倉公方の信任厚く、鶴岡八幡宮社家執事などを経て、応安4年(1371年)に榛名山座主に就いている。

快尊父子と頼印の争いは、榛名山の支配権をめぐる争いだが、当時の南北朝の代理戦争的な意味合いもあった。

榛名山座主の森 (3)
榛名山座主の森 (4)
鎌倉時代末と推定される多宝塔の残骸と2基の板碑などがある。板碑には元享2年(1321年)の銘が読み取れる。

それぞれが僧兵を指揮し争ったのだろうか? 権力争いはいつの時代も立場を超えて起こるものだ。

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