Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 前橋市(旧市部)


前橋市(旧郡部を除く)

前橋市総社歴史資料館
前橋市総社町・立石諏訪神社
前橋市総社町・熊谷稲荷神社
総社町の総鎮守 -総社神明宮-
前橋市小屋原町・稲荷神社
八咫鏡を作った石凝姥命を祀る -鏡神社-
前橋市東大室町・大室神社
大室城本丸跡に鎮座 -大室神社-
大胡城主・牧野康成の開基 -湯清寺-
国定忠治の愛妾・お徳の旧家屋 -観昌寺 その2-
大室太郎の墓 -観昌寺-
笂井町の氏神様 -笂井近戸神社-
前橋市・稲荷新田の薬師さま
前橋市亀里町・阿内宿の石幢
軍神・岩佐直治中佐の墓 -松竹院-
室町時代の鰐口 -東福寺-
前橋市最古の六地蔵石幢 -正法寺-
前橋市上青梨子町・淡島神社
前橋市青梨子町・菅原神社
「関東の名工」小林源太郎の彫刻 -植野稲荷神社-
天狗岩用水開削時の丁間台 -丁間稲荷神社-
高須隼人の墓 -正幸寺 その2-
慈覚大師の創建 -禅養寺-
歴代前橋藩主の崇敬社 -山王日枝神社-
石造阿弥陀如来三尊像 -後閑円満寺-
前橋市上大島町・近戸神社
百番観音 -浄土院-
前橋市・公田の岩舟地蔵
前橋市・小島田の阿弥陀如来坐像
群馬県最古の供養碑 -小島田の供養碑-
前橋市・江木の宝塔
前橋市江木町・六所神社
津久井磯の遺徳碑 -隆興寺 その2-
前橋公園の「楫取素彦と松陰の短刀」銅像
旧普蔵寺供養塔 -最善寺 その2-
前橋市・今井神社古墳
前橋市・富田の宝塔
前橋市・正円寺古墳
上州七福神・福禄寿を祀る -正円寺-
前橋市・桂萱大塚古墳
前橋城の鬼門除け -早虎稲荷神社-
前橋市・片貝能満虚空蔵地蔵尊
片貝神社の太々神楽 -片貝神社-
平敦盛の供養塔 -泉蔵寺-
赤い御霊石伝説 -小石神社-
「おくまんさま」の三つ足八咫烏石 -前橋市・熊野神社-
佐藤垢石の碑
お沓の言い伝え -前橋市・上新田雷電神社-
前橋市・鳥羽の大日如来および笠塔婆
応永の宝塔 -大福寺-
青栁大師 -龍蔵寺-
石田玄圭の墓
養蚕神楽 -春日神社-
「生糸のまち前橋」の近代化遺産 -旧安田銀行担保倉庫-
前橋市出身の英霊を祀る -厩橋護国神社-
日本最初の製糸工場 -前橋製糸場跡-
楫取素彦・寿夫妻の発願 -清光寺-
筑波山信仰 -無量寿寺-
前橋市日輪寺町・菅原神社
十一面観音伝説 -日輪寺-
魚遊寺伝説 -乗明院-
伝教大師・最澄の創建 -善光寺-
意外と怖い長壁神 -長壁神社-
静御前のお墓??
酒井重忠の建立 -観民稲荷神社-
市街地の発電所 -柳原発電所-
御真影御里御坊 -妙安寺-
赤穂浪士・矢頭右衛門七の母の墓 -大蓮寺-
広瀬川 白く流れたり -広瀬川遊歩道-
徳川家康の8男・仙千代を祀る -正幸寺-
酒井忠世の開基 -隆興寺-
松平直矩の開基 -永寿寺-
新田義貞の首塚? -新田塚古墳-
新田義貞の首級を持ち帰った(?)「覚明」の墓 -宝禅寺-
神明宮の外宮? -前橋千代田・稲荷神社-
太田道灌の建立?? -前橋千代田・神明宮-
酒井重忠所縁の寺 -源英寺-
前橋公園の日本庭園
学校院若王子大明神 -御霊神社-
中臣羽鳥連の墓 -釈迦尊寺-
名馬「磨墨」の蹄がご神体 -駒形神社-
大坂戦籠城之図 -前橋文学館 その2-
萩原朔太郎記念・水と緑と誌のまち前橋文学館
前橋厄除け大師 -蓮華院-
総社神社の別当寺 -徳蔵寺-
上野国府跡? -宮鍋神社-
名馬・磨墨の墓 -祝昌寺-
前橋市・金冠塚古墳
前橋市・亀塚山古墳
前橋市・天神山古墳
前橋市・天川二子山古墳
前橋市総社町・遠見山古墳
前橋市総社町・愛宕山古墳
鎌倉坂伝説 -善勝寺-
酒井忠世家臣・本城氏の墓 -長昌寺-
初代前橋市長・下村善太郎の墓 -龍海院 その2-
白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-
松平(直基)家の崇敬社 -前橋東照宮-
復活のイエス -前橋聖マッテア教会-
群馬初のカトリック教会 -前橋カトリック教会-
群馬初の公会堂 -群馬会館-
昭和時代の群馬の顔 -群馬県庁昭和庁舎-
江戸時代の年貢貯蔵庫 -上泉郷蔵-
剣聖・上泉信綱の墓 -西林寺-
安産の神様と巨石群 -産泰神社-
石川氏の墓 -最善寺-
前橋・大室公園 その6 -旧関根家住宅-
前橋・大室公園 その5 -前二子古墳-
前橋・大室公園 その4 -中二子古墳-
前橋・大室公園 その3 -後二子古墳-
前橋・大室公園 その2 -小二子古墳-
前橋・大室公園 その1 -M・1号古墳-
赤城神社 その3 -二宮・赤城神社-
前橋・八幡山古墳
単層四脚の総門 -大徳寺-
常盤御前のお墓? -極楽寺-
静御前のお墓? -養行寺-
上野国の総鎮守 -総社神社-
初めて見たオリンピックのメダル -総合スポーツセンター・スポーツ資料館-
岩神の飛石 -岩神稲荷神社-
お虎が淵伝説 -虎姫観音-
のんびり散策 その2 -敷島公園・ばら園-
のんびり散策 -敷島公園-
お艶のその後・・・ -お艶が岩/お艶観音-
淀君のお墓? -元景寺-
上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-
秋元氏歴代の墓所 -宝塔山古墳-
秋元氏の菩提寺 -光巌寺-
徳川譜代・酒井家の菩提寺 -龍海院-
明治時代の迎賓館 -臨江閣-
水道タンクと資料館 -前橋市水道資料館-
ネコも入りたがる記念館 -萩原朔太郎記念館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-

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前橋市総社町総社の総社歴史資料館。

総社歴史資料館 (1)
総社資料館が老朽化(耐震上の問題)し休館していたが、平成28年(2016年)に現在地へ移転、新築の総社歴史資料館としてオープンした。

1Fは「山王廃寺」や「総社古墳群」、「総社藩主・秋元氏」関連の展示。
総社歴史資料館 (2)
総社歴史資料館 (3)
大正時代初めに塔の心柱を支える塔心礎が偶然発見され、東日本を代表する古代の寺院であったことが分かった山王廃寺。

総社歴史資料館 (4)
総社歴史資料館 (5)
総社歴史資料館 (6)
総社歴史資料館 (7)
「放光寺」の文字瓦や軒丸瓦などは実物が展示されている。

放光寺は世界遺産「上野三碑」のひとつである山ノ上碑の碑文に登場する。山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、完全な形の碑では日本最古とされる。山ノ上碑は放光寺の僧・長利が、亡母の黒売刀自を供養するとともに、一族の系譜を記した墓誌。山ノ上碑の隣にある山ノ上古墳の被葬者が黒売刀自。

放光寺に関しては諸説あったが、山王廃寺から文字瓦が出土したことから、現在では放光寺=山王廃寺と推定されている。

関連
 「祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
 「白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-

総社歴史資料館 (8)
総社歴史資料館 (9)
宝塔山古墳の家形石棺(レプリカ)とその破片(実物)。

総社歴史資料館 (10)
総社歴史資料館 (11)
総社二子山古墳出土の頭椎太刀と遠見山古墳出土の馬形埴輪。

2Fは古代から現代までの生活に関する展示。
総社歴史資料館 (12)
総社歴史資料館 (13)
総社歴史資料館 (14)
総社歴史資料館 (15)
農耕機具、養蚕器具、鍋の歴史、計量器具など。

総社地区はある意味、歴史の宝庫なので見応えがある。

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前橋市総社町植野の立石諏訪神社。

立石諏訪神社 (1)
立石諏訪神社 (2)
立石諏訪神社は文禄4年(1596年)総社藩主・諏訪頼水が上諏訪神社、下諏訪神社の2社を字元屋敷に勧請したのが始まりと伝わる。明治31年(1898年)利根川の洪水により下諏訪神社の社殿が崩壊・流出したため、明治32年(1899年)に上社・下社を合祀し、諏訪神社として現在地に遷座している。

立石諏訪神社 (3)
立石諏訪神社 (4)
立石諏訪神社 (5)
現在の社殿は平成26年(2014年)の新築。旧拝殿は上下両社を合わせたため、三間社の中央間をはさんで、東西に礼拝場を持つ特殊な構造であったという。

立石諏訪神社 (6)
参道には平成26年(2014年)氏子の皆さんが奉納した石灯籠が並ぶ。

立石諏訪神社 (7)
立石諏訪神社 (8)
成田山不動尊の石碑と不動明王像。

立石諏訪神社に伝わる獅子舞は前橋市の重要無形民俗文化財に指定されており、毎年秋の例祭時に奉納される。一人立ちの三頭の獅子とカンカチの計4人による豪快な舞。獅子頭の顎紐を修理した際、内部から「壬正徳弐歳」と書かれた布が見つかっており、正徳2年(1712年)には既に行われていたと考えられる。

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前橋市総社町総社の熊谷稲荷神社。

熊谷稲荷神社 (1)
熊谷稲荷神社 (2)
熊谷稲荷神社は宝暦6年(1709年)、熊谷(埼玉県)の稲荷神社の分霊を勧請したといわれる。それ以前から神社があったようだが詳細は不明。

熊谷稲荷神社は大小路古墳(総社7号墳)の墳丘上に建つ。大小路古墳は直径約20m、高さ2mの円墳。

熊谷稲荷神社 (3)
社殿は光厳寺東北の紅葉山の日枝神社を移築したといわれ、桃山時代の様式をもつ。

熊谷稲荷神社 (4)
昭和2年(1927年)銘の絹笠大神。

熊谷稲荷神社 (5)
多数のお地蔵さん(?)。風化していてよく分からない。

創建にまつわる逸話を少し。
寛永10年(1633年)に総社藩主・秋元泰朝が甲斐谷村へ移封となり、総社藩は廃藩となった。その後は高崎藩(安藤重長)の領地となり、安藤重長は3男・重富(重常とも)に総社を与え、重富は高田弥兵太を代官として総社を管理させた。

重富、高田は重税を課したため農民は困窮し、遂には宝暦6年(1709年)幕府への直訴に及んだ。その際、直訴代表は捕らえられたが、熊谷の稲荷神社で祈願したところ、訴えが認められ死罪も免れることができた。これらは稲荷神社のご加護によるとし、稲荷神社を勧請し熊谷稲荷神社と改称したという。

訴えが認められた裏には、老中・秋元喬朝(泰朝の子・富朝の養嗣子)の援助があった。秋元氏は藩主時代の善政も含め、総社に於いて崇敬されている。

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前橋市総社町総社の神明宮。総社大神宮、粟島大神宮とも呼ばれる。

総社神明宮 (1)
総社神明宮 (2)
総社神明宮は慶長9年(1604年)総社藩主・秋元長朝が伊勢神宮を勧請し創建。総社城の大手門西にあたる。

総社神明宮 (3)
伊勢神宮の遙拝殿。天明8年(1788年)に外宮、寛政3年(1791年)には内宮の遙拝殿を造営した。遙拝殿は12本の丸柱の門構えの特殊な構造となっている。現在の遙拝殿が当時のものかなどは分からない。

総社神明宮 (4)
総社神明宮 (5)
社殿は平成24年(2012年)に改修が行われている。

総社神明宮 (6)
百番供養塔、六十六部供養塔。百番供養塔は100ヶ所の札所を巡礼した記念塔。一般的には西国33札所、坂東33札所、秩父34札所の組合わせが多い。六十六部供養塔は、全国六十六ヶ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納することを目的とした巡礼の記念塔。

総社神明宮 (7)
総社町道路元標。大正9年(1920年)に道路法の規定により道程の基準点として設置されたもの。

総社は総社城の城下町であり、佐渡奉行街道の宿場町でもあった。本陣、脇本陣、問屋が置かれ、安永2年(1773年)には曽我家(問屋)へ高山彦九郎が宿泊している。

ところで、総社神明宮は境内のほぼ全域が月極駐車場になっており、興醒めもいいところ。いろいろ事情はあるのだろうが・・・。

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前橋市小屋原町の稲荷神社。

小屋原稲荷神社 (1)
小屋原稲荷神社 (2)
小屋原稲荷神社は慶長年間(1596~1615年)に、住民が農作物の豊作が続くこと、住民が安心して暮らせるようにと創建したという。

小屋原稲荷神社 (3)
二ノ鳥居は平成25年(2013年)の建立。

小屋原稲荷神社 (4)
小屋原稲荷神社 (5)
小屋原稲荷神社 (6)
小屋原稲荷神社 (7)
社殿は創建と同時に造営され、その後宝暦8年(1758年)に改修されている。現在の社殿は昭和11年(1936年)の建立。

小屋原稲荷神社 (8)
小屋原稲荷神社 (9)
「多野叶山貫通石」というものがあった。石に貫通穴が開いていることから「初志貫徹」「難関突破」「祈願成就」の御利益があるパワースポットだという。多野叶山とは、多野郡神流町の叶山のことだろうか。

ちなみに、神流町の叶山は石灰を産出するので、現在も石灰鉱山として稼働している(秩父太平洋セメント)。石灰岩が雨などの浸食で穴が開いたのを、縁起の良い石としているってことかな。

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前橋市江田町の鏡神社。

鏡神社 (1)
鏡神社の創建は不詳だが、大和国の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)から石凝姥命(いしこりどめのみこと)の分霊を勧請したと伝わる。また「上野国神名帳」記載の「鏡明神」は鏡神社のことだとされる。

石凝姥命を勧請したのは上野国国府(総社神社周辺と推定されている)に大和国から呼び寄せられた鏡作りの技術者だと考えられている。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。

鏡神社 (2)
鏡神社 (3)
向かって右側(東?)からの入口に建つ鳥居。

鏡神社 (4)
鏡神社 (5)
鏡神社 (6)
上野国神名帳に記載されている古社だが、その後朽ち果てるほどに廃れていたが、慶長年間(1596~1615年)に富澤氏・小野里氏の手で再建されている。富澤氏・小野里氏についてはよく分からないが、現在も江田町には富澤(富沢)さん・小野里さんが多数お住まいである。

鏡神社 (7)
余り広くない境内に多数の境内社・末社が並んでいる。

鏡神社 (8)
道を挟んでの境外にも末社が鎮座している。

鏡神社 (9)
旧鳥居の扁額だと思うが、現在は拝殿に掲額されている。この扁額かは分からないが、安永年間(1772~81年)に岩松義寄が揮毫した扁額を鳥居に掲げたところ、神社前を乗馬で通行する人が必ず落馬したため、扁額を撤去したら事故は起こらなくなったという。この扁額は宝物とし現存している。

義寄の頃から岩松家では「ネズミ除け」「キツネ憑封じ」などの呪術まがいのことを行っており、そいうことから馬が怯えたのかな。

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前橋市東大室町の大室神社。

東大室神社 (1)
大室神社の旧名称は近戸神社で、明治41年(1908年)に近郷の十数社を合祀して大室神社となった。旧近戸神社の由緒は不詳。

地図には東大室神社と記載されているが、正式には大室神社のようだ。

東大室神社 (2)
東大室神社 (3)
鳥居の扁額は「大室神社」。

東大室神社 (4)
東大室神社 (5)
東大室神社 (6)
大正3年(1914年)に現在地に社殿を造営、中神沢から遷座している。拝殿の扁額も「大室神社」。

東大室神社 (7)
拝殿に由緒書きらしきものが掲示されているのだが、まったく読めなかった。

前回紹介した西大室町の「大室神社」と同しく明治41年に大室神社と改称しているので、東西の旧大室村(当時は荒砥村)がそれぞれ大室神社を鎮守としていたのだろう。

その後、事情は知らないが東大室側は便宜上、東大室神社と表記されるようになった?
(西大室町の大室神社は地図に「大室神社」と記載されている)

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前橋市西大室町の大室神社。

大室神社 (1)
大室神社の旧名称は熊野神社で、明治41年(1908年)に近郷の十数社を合祀して大室神社となった。旧熊野神社の創建は不詳だが、江戸中期に大室城本丸跡である当地に遷座している。

大室神社 (2)
大室神社 (3)
大室神社 (4)
鳥居は2つあるが、2つ目の扁額が大室神社。また、参道から少し外れたところにもう1基ある。合祀された神社の鳥居かも。

大室神社 (5)
大室神社 (6)
拝殿内には江戸末期から明治にかけての国学者・井上正香が所持していた漢籍が保管されている。

大室神社 (7)
本殿には明治11年(1878年)に発掘調査が行われ前二子・後二子古墳などから出土した遺物(太刀、馬具、土師器、高台椀など)が宝物として保管されていた。現在は前橋市教育委員会に収蔵。

大室古墳群は下記参照。
 「M-1号古墳」「小二子古墳」「後二子古墳」「中二子古墳」「前二子古墳
 
大室神社 (8)
東神沢川に架かっていた太鼓橋。平成23年(2011年)の復元。

大室神社 (9)
大室神社 (10)
日清・日露戦没者紀念碑にならんで、「軍馬慶徴紀年紀念碑」が建っている。この辺りは軍馬が飼育されていた?

ところで、大室城は二の丸跡の東側、南側、北側に、現在も水を湛えた堀が残っている。事前知識なく行ったので、まったく気づかなかった。

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前橋市西大室町の月照山湯清寺。

湯清寺 (1)
湯清寺は慶長2年(1597年)大胡城主・牧野康成の開基、長善寺・大通祖参の開山。

湯清寺 (2)
湯清寺 (3)
本堂は明治12年(1879年)に火災により焼失。古文書など、記録や什宝も焼失した。現在の本堂は昭和7年(1932年)の再建。

湯清寺 (4)
廻国供養塔。廻国は一般的には日本全国66国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納めることを言う。霊場は固定化されていないので、いろいろな「廻国」があったようだ。

湯清寺 (5)
猿田彦大神。築山のようになっているが、見ると庚申塔などが集められている。

牧野康成の戒名が月照院殿なので、月照山という山号から牧野家の関係寺と分かる。ちなみに、牧野家の菩提寺は堀越町の養林寺。
(「牧野家の菩提寺 -養林寺-」参照)

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前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。
(「大室太郎の墓 -観昌寺-」参照)
観昌寺には、国定忠治の愛妾・お徳が居住していた家屋が移築されている。

お徳の旧家屋
観昌寺は明治17年(1884年)に火災により旧庫裏が焼失。そのため旧赤堀町から国定忠治の愛妾・菊池徳が住んでいた家屋を移築し使用していた。現在は法事会館として使用されている。

国定忠治には「お鶴」という本妻がいたが、職業柄(?)愛妾もたくさんいた。伝えられているだけで「つま」「お町」「貞」「お徳」がいる。「お徳」は忠治晩年の愛妾。

国定忠治は大戸の関所破りの罪で嘉永3年(1850年)に磔刑で処刑されたが、「お徳」が遺体の一部を盗みだし養寿寺と善応寺に埋葬したといわれる。

「お徳」は猛々しい性格の女性だったといわれ、忠治の死後は「女国定」「女侠」と呼ばれるほどだった。後に自ら事業に乗り出し、大地主となっている。そのため、立派な家の住んでいたようだ。

関連
 「国定忠治の墓 -養寿寺-
 「国定忠治の墓 その2 -善応寺 その2-」 

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前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。

観昌寺 (1)
観昌寺の創建は不詳だが、室町初期建立の石塔が多数あることなどから、これ以前の創建と推定される。天正18年(1533年)に慶円上人が中興開山したといわれる。

観昌寺 (2)
山門脇の六地蔵。

観昌寺 (3)
観昌寺 (4)
現在の本堂は昭和55年(1980年)の新築。

観昌寺 (5)
阿弥陀如来石像(写真手前右)は室町期の造立と推定されている。光背に六地蔵を配している。阿弥陀浄土へ六地蔵が送り届けるという意味を持っていると考えられる。その他にも多数の宝篋印塔などの石塔が並んでいる。

観昌寺 (6)
観昌寺 (7)
大室太郎の墓といわれる多宝塔。
大室太郎は南北朝期の地元豪族といわれるが、よく分からない。

観昌寺は本堂でアンサンブルコンサートや落語会を開催するなど、檀家や地域の皆さんとの交流を図っている。

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前橋市笂井(うつぼい)町の近戸神社。

笂井近戸神社 (1)
笂井近戸神社 (2)
笂井近戸神社は南北朝期に、南朝方の藤原氏の人物がこの地に来て地名を宇津保井と名付け、春日大社の末社として祠を建て千鹿頭明神と称したのが始まりと伝わる。

笂井近戸神社 (3)
笂井近戸神社 (4)
鳥居は宝永2年(1705年)に宝蔵寺(近戸神社の別当寺)の良寧らの寄進といわれる。

笂井近戸神社 (5)
笂井近戸神社 (6)
笂井近戸神社 (7)
社殿は豊臣秀吉の小田原攻め時(天正18年:1590年)に焼失したが、宝永2年(1705年)に再建されている。

笂井近戸神社 (8)
奉納されている絵馬は、女性が近戸神社に参拝している様子を描いているようだ。

笂井近戸神社 (9)
神楽殿。春の例祭では産泰神社の太々神楽が行われる。

笂井近戸神社 (10)
笂井近戸神社 (11)
境内社の絹笠神社。岩(?)はご神体なのか。

いつの頃からか、宇津保井を笂井と書くようになったと言う。笂(矢を入れる竹製の筒)を作る職人さんが多かったから?

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前橋市稲荷新田町の薬師堂。

稲荷新田の薬師様 (1)
稲荷新田の薬師様 (2)
平成4年(1992年)建立の薬師堂内には、多数の石仏が安置されている。千数百体あると言うが、数えたわけではないの分からないが、もうちょっと少ないような気がする。

稲荷新田の薬師様 (3)
この「薬師さま」に願をかけると万病に効くと言われ、周辺地域からも参拝する人が多い。願をかけるときは手を水で濡らし、具合の悪い石仏の部分をなでることから、俗に「濡れ薬師」とも呼ばれる。

伝説では、ある武士が石仏を背負ってここまで来たが、重くなったのでここに留まりたいのだと思い、当地に安置したといわれる。

ただ、石仏は「薬師さま」と呼ばれているが、印相や像容から阿弥陀如来と考えられている。風化と信仰(なでる)による摩耗が激しく判然としないが、特徴から南北朝期のものと推定される。

多数の石仏があるのは、「薬師さま」に願をかけた人々が石工に頼んで造り、奉納したものといわれる。

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前橋市亀里町阿内宿の石幢。

亀里町阿内宿の石幢 (1)
亀里町阿内宿の石幢 (2)
石幢は安山岩製で明応7年(1498年)の銘がある。前橋市内でも、古い時期のものである。

銘文に「時正七分全得逆修善根」とあるので、生前供養のため造立したことが分かる(逆修)。また「七分全得」とは、死者の供養はその福の七分の一を死者が受け、七分の六を供養した者が受けるというが、生前に自分で供養を行えば、七分全部得ることになるという意味。まあ、死者と供養者が同一なのだから、そうだよね。

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前橋市本町の高浜山松竹院梅林寺。

松竹院 (1)
松竹院は前橋城内の高浜曲輪内に永禄元年(1558年)に創建。そのため山号を高浜山という。

松竹院 (2)
松竹院 (3)
昭和20年(1945年)の前橋大空襲にて寺は焼失したが、昭和39年(1964年)に再建された。

岩佐空佐
松竹院 (4)
松竹院 (5)
岩佐直治海軍中佐の墓。享年26歳。
岩佐中佐は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際、「甲標的」と呼ばれる小型潜水艇で海中より決死の攻撃を敢行し戦死した。この決死の攻撃による戦功が評価され「軍神」と呼ばれた。(他の戦死者と合わせた「九軍神」のひとり)

岩佐中佐らの死は連合艦隊の空母機動部隊艦載機による真珠湾攻撃より前で、対米戦初の戦死者である。

甲標的
グアムに残る「甲標的」。
「甲標的」での攻撃は決して「特攻」ではないが、出撃した10名は決死の覚悟であったことは事実である。岩佐中佐は出撃時に「私の最後の任務達成に向けて出撃致します。終いに臨み伊号第二十二潜水艦の武運長久を祈ります。さようなら」と挨拶し、その覚悟が分かる。

計画は真珠湾内に潜入して海底で待機し、艦載機による空襲後に撃ち漏らした敵艦を、装備している2本の魚雷で攻撃、湾外に脱出するというものだったが・・・。

松竹院 (6)
墓所には岩佐中佐の両親に宛てた遺書が碑として建立されている。

松竹院 (7)
当時、「軍神岩佐中佐」という歌が作られている。

良い悪いは別にして、「九軍神」(甲標的による戦死者)は大々的に海軍合同葬が行われるなど、戦意高揚に利用された面もある。しかし、岩佐中佐をはじめとした英霊のおかげで今日の平和・繁栄があることを、現在を生きる我々は決して忘れてはいけない。

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前橋市三河町の朝雲山東福寺。

東福寺 (1)
東福寺は永禄2年(1559年)日輪寺の僧・宥智が、現在の川端町に創建。その後、寛永13年(1636年)に前橋藩主・酒井忠世が現在地へ移転させている。

東福寺 (2)
東福寺 (3)
本堂は東南アジア的な趣があり、特徴的な造りをしている。

東福寺 (4)
本堂前の仏足石。

東福寺 (5)
鰐口は青銅製で径14.5cm、縁4cm、中央6.7cm。応永13年(1405年)の銘がある。表裏ともに7条の同心円の紐があり、撞座、中区、銘文帯に区分されている。前橋市の重文に指定されている。(写真の本堂に吊されているのは重文の鰐口ではない)

銘文中に「武蔵国比企郡延益郷地蔵堂」(現小川町)とあり、元々は延益郷の地蔵堂に掛けられていたものと考えられている。東福寺の所有となった経緯は不明だが、諸説が言い伝えられている。

前橋市のHPに、赤城山地蔵岳山頂の地蔵堂→勢多郡粕川村西福寺→東福寺とあるが、これも真偽不明である。

銘のある鰐口としては県内で2番目に古いものである。県内最古は、伊勢崎市の延文2年(1357年)銘。

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前橋市青梨子町の神明山正法寺。

正法寺 (1)
正法寺 (2)
正法寺の由緒は不明。

正法寺 (3)
一石に六地蔵が彫られている。

正法寺 (7)
三体薬師。正法寺の近郷に別々に祀られていた3体の薬師如来を、平成12年(2000年)に移したもの。

正法寺 (4)
文明18年(1486年)銘のある六地蔵石幢。輪廻車の穴があるものとしては前橋市最古である。群馬県内でみても3番目に古い。付いている車は後付けと思う。ちなみに、県内最古は高崎市下滝町・慈眼寺の文明3年(1471年)。

正法寺 (5)
正法寺 (6)
塔身には檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵が配置されている。新しい塔身に地蔵像だけ埋め込む補修をしたのかな?


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前橋市上青梨子町の淡島神社。

上青梨子淡島神社 (1)
上青梨子淡島神社は天長年間(824~34年)の創建と伝わる。意外にも長い歴史を誇っている。安永5年(1776年)の再建ともあるが、廃れていた神社を再建したのか社殿を再建したのかは不明。

上青梨子淡島神社 (2)
上青梨子淡島神社 (3)
明治45年(1912年)、神明宮に淡島神社、琴平宮を合祀し大木神社となったが、昭和35年(1960年)に淡島神社と改称している。

上青梨子淡島神社 (4)
鳥居脇の双体道祖神。

淡島神社では上青梨子町の盆踊りが隔年で行われる。上青梨の盆踊りは300年の歴史がある伝統芸能行事である。踊りの種類は、古くから「三つ打ち」「回り打ち」「手ぬぐい踊り」「石投げ」「糸挽き」の5種類があり、先祖の霊を慰めるだけでなく、日照りの時には雨乞いの踊りとして、豊作の時には豊年踊りとして行われていた。

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前橋市青梨子町の菅原神社。

青梨子菅原神社 (1)
青梨子菅原神社 (2)
青梨子菅原神社 (3)
青梨子菅原神社は寛永12年(1635年)の創建と伝わる。

青梨子菅原神社 (4)
参道は両側からの木々に覆われ、ちょっと前屈みにならないと歩きづらいくらい。

青梨子菅原神社 (5)
青梨子菅原神社 (6)
青梨子菅原神社 (7)
二の鳥居には元禄6年(1693年)の文字が彫られている。

青梨子菅原神社 (8)
青梨子菅原神社 (9)
青梨子菅原神社 (10)
大きくなく質素な社殿だが、雰囲気は良い。

青梨子菅原神社 (11)
菅原神社らしく牛の像がある。
菅原道真と牛の逸話は、道真が丑年生まれで丑の日に亡くなったとか、茸狩りの時に牛が寄ってきたとか、太宰府に流されていくときに藤原氏の刺客を倒したとか、いろいろある。

青梨子菅原神社 (12)
宮中献納俳句の碑。
地元の方の俳句が献納句に選ばれたのだろうか? だとしたら、相当すごいことだと思う。

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前橋市総社町桜ヶ丘の植野稲荷神社。

植野稲荷神社 (1)
植野稲荷神社 (2)
植野稲荷神社の創建は不詳だが、赤松氏の創建と伝わる。赤松氏は(総社)勝山城主で、新田義貞の鎌倉攻め(元弘3年:1333年)に参加したといわれる。

植野稲荷神社 (3)
植野稲荷神社 (4)
植野稲荷神社 (5)
正保年間(1645~48年)に赤松氏の末裔・関口氏が石祠を建立。現在の社殿は元治元年(1864年)の再建。平成6年(1994年)に修復されている。

植野稲荷神社 (6)
植野稲荷神社 (7)
植野稲荷神社 (8)
拝殿の彫刻は「関東の名工」と称された熊谷出身の小林源太郎正俊の傑作。

植野稲荷神社 (9)
植野稲荷神社 (10)
神楽殿。植野稲荷神社の太々神楽は、江戸末期に群馬郡六郷村(現高崎市小塙町)烏子神社から伝承されたと伝えられている。

江戸初期(前橋藩主が酒井忠世のころ)、境内に希なる榎の大木があったことから、一本木稲荷神社とも称する。この榎の大木は、現在はない(枯れた?)ようだ。

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前橋市問屋町の丁間(ちょうけん)稲荷神社。

丁間稲荷神社 (1)
慶長7年(1602年)の総社藩・秋元長朝による天狗岩用水開削の際、丁間台(測量器)を据え測量の起点としたといわれている。

天狗岩用水完成後、水田守護神を祭祀していたが、天保年間(1831~45年)に京都・伏見稲荷を勧請した。

丁間稲荷神社 (2)
丁間稲荷神社 (3)
丁間稲荷神社 (4)
現在の社殿は昭和38年(1963年)の再建。社殿は総社稲荷山古墳上に鎮座している。丁間稲荷神社があるので、稲荷山古墳と呼ばれるようになったのであろう。

丁間稲荷神社 (5)
境内の笠薬師塔婆。総高112cmで県内最古の様式を持つ笠塔婆。塔身4面には釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来が、二重の火炎光背とともに薄肉彫りされている。笠石の様式から、平安末期から鎌倉時代初期の造立と推定される。

道路建設のため、300m北から丁間稲荷神社の境内に移設されている。

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前橋市三河町の狐雲山正幸寺。
真田家改易後、沼田の再検地を行った高須隼人のお墓があるので再訪した。
(以前の訪問記は「徳川家康の8男・仙千代を祀る -正幸寺-」参照)

真田家沼田藩5代・真田信利が、本家松代藩の跡継ぎ争いに破れ、本家と対抗するため表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出したことから領民は飢餓に苦しみ、杉木茂左衛門の直訴騒動を起こし信利は改易された(別要因もあり)。
(「伝・真田信利の墓 -迦葉山弥勒寺 その2-」参照)

高須家は前橋藩主・酒井家の家老職の家柄で、忠世・忠清などが老中として江戸にいることが多かったため、実質地元を取り仕切っていた。代々「隼人」を名乗っている。

真田家改易後、沼田は幕府の天領となり、再検地を行ったのが5代目高須隼人である。

高須隼人の墓 (1)
高須家墓所。寛永6年(1629年)から延享4年(1746年)までの37基の石殿型石塔がある。

高須隼人の墓 (2)
5代目隼人の墓。名を広儒(ひろもと)と言う。
旧真田沼田藩の再検地で、実際以上に重くなっていた年貢が大きく軽減されることになったので、沼田領民からは「お助け縄」と呼ばれ感謝された。5代目隼人は、正徳3年(1713年)に亡くなってている。

酒井氏の姫路転封(寛延2年:1749年)に伴い、高須家も姫路へ移っている。高須家のその後の詳細は不明であるが、天保年間(1831~45年)に断絶したと伝えられている。

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前橋市山王町の日吉山禅養寺。

禅養寺 (1)
禅養寺は貞観2年(860年)慈覚大師の創建と伝わる。慈覚大師、貞観と言えば、お隣の後閑町円福寺と同じ由緒となる(円福寺は貞観3年の創建)。
(後閑円福寺は「石造阿弥陀如来三尊像 -後閑円満寺-」参照)

ついでに、日枝神社も同年の創建と伝わっており、山王日吉神社を勧請している。禅養寺も山号を「日吉山」というので、日吉神社を守護神としているか、日枝神社の別当寺だったと考えられる。
(日枝神社は「歴代前橋藩主の崇敬社 -山王日枝神社-」参照)

禅養寺 (2)
禅養寺 (3)
境内の十王像。11番目には奪衣婆像もあった。十王の中では閻魔大王が有名で、奪衣婆との組み合わせは多いが、十王が勢揃いしているのは珍しい。

禅養寺 (4)
禅養寺 (5)
本堂は寛政5年(1793年)の再建。柏木村(現高崎市箕郷町)の大工・貞宴を棟梁とする、のべ1899人が携わった記録が残っている。

禅養寺 (6)
本堂屋根には、皇室・菊のご紋と酒井家の家紋(片喰)がある。皇室との関係はよく分からないが、元亀元年(1570年)に詔を得て天皇の万福と天下安泰を祈っている記録があるらしい。

酒井家との関係は、前橋藩主時代に度々社殿・玉垣等の修復を行った記録があり、酒井家の崇拝を受けていたようだ。

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前橋市山王町の日枝神社。

山王日枝神社 (1)
山王日枝神社 (2)
山王日枝神社は、貞観2年(860年)嵯峨天皇の皇子・忠長親王が上野国大守に任ぜられたのを祝し、山王日吉神社の分霊を勧請したのが始まりという。

山王日枝神社 (3)
山王日枝神社 (4)
山王日枝神社 (5)
現在の社殿は、永禄年間(1558~70年)の再建といわれ、最近では平成3年(1991年)に修復、平成17年(2005年)に屋根の葺き替え(銅板葺)を行っている。

山王日枝神社 (6)
神楽殿。
4月に神楽が行われるようだが、行うのは後閑・飯玉神社の関係者(神楽保存会のみなさん)らしい。

山王日枝神社は歴史が長いだけに、源頼朝が参詣して300余町歩を寄進したとの記録もある。また江戸時代には徳川家光が神田を献じたり歴代前橋藩主の崇拝を受けるなどしている。

山王町の地名は、山王日吉神社からと考えられている。

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前橋市後閑町の医王山円満寺。

後閑円満寺 (1)
後閑円満寺 (2)
後閑円満寺は貞観3年(861年)慈覚大師の開基と伝わる古刹である。慈覚大師は第3代天台座主で、最澄、空海などとともに八唐八家のひとりに数えられる。

後閑円満寺 (3)
後閑円満寺 (4)
本堂は平成21年(2009年)の改築で、本尊の薬師如来を祀る。本尊の薬師如来像は、檜の寄木造りで円光背を持つ。鎌倉時代の造立と推定される。

後閑円満寺 (5)
後閑円満寺 (6)
境外に「お薬師さま」と呼ばれる三石三尊像がある。現在は境外だが、昔は境内の北境だったという。

「お薬師さま」と呼ばれているが、石造の阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来と観音菩薩・勢至菩薩)。角閃安山岩製で半肉彫りの陽刻。阿弥陀如来像は宝珠形に近い丸みの舟形状の光背を持つ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

なぜ「お薬師さま」と呼ばれているかは知らないが、薬師如来は病気平癒に功徳があるといわれるので、そういう伝聞が広がったから? それとも、単純に見誤ったからか。

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前橋市上大島町の近戸神社。

上大島近戸神社 (1)
上大島近戸神社 (2)
上大島近戸神社の創建は不詳。文久2年(1817年)建立の欅造り鳥居が老朽化したため、昭和63年(1988年)に現在の石造鳥居が再建されている。

上大島近戸神社 (3)
上大島近戸神社 (4)
拝殿は文政11年(1828年)、本殿は文化元年(1804年)の建立。平成17年(2005年)に改修されている。

上大島近戸神社 (5)
社殿を囲むように南側・東側に境内末社群(雷電神社、日枝神社、天満宮、八坂神社など)が鎮座している。

上大島近戸神社 (6)
拝殿の扁額は源俊純の揮毫。
源俊純は幕末から明治初年にかけての岩松家当主(岩松俊純)。明治維新後に新田氏の嫡流争いが由良氏とあったが、俊純が男爵の地位を授かり決着している。

俊純が家督を継いだのは安政元年(1855年)なので、扁額自体はそれ以降のものかな。

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前橋市上大島町の光明山浄土院長福寺。

浄土院 (1)
浄土院は寛永年間(1624~45年)快円法印の開基と伝わるが、享保年間(1716~36年)に焼失したため詳細は不明。

浄土院 (2)
浄土院 (3)
現在の本堂は平成4年(1992年)の建立。

浄土院 (4)
旧本堂の物と思われる瓦が境内にあった。

浄土院 (5)
浄土院と隣接している百番観音堂。浄土院の境内?宝暦年間(1751~64年)以前の創建で、昭和8年(1933年)の再建。上大島町自治会、百番観世音親交会のみなさんが管理している。

浄土院 (6)
浄土院 (7)
堂内には、西国三十三番、秩父三十四番、板東三十三番の計百体の観音様が祀られている。

浄土院 (8)
観音堂前には多数の石仏や供養塔が集められている。右端に写っている白衣観音は、昭和54年(1979年)地元老人会が先人を偲び建立したもの。

浄土院 (9)
阿弥陀三尊石仏。風化が進んでいるが、覆屋を造り保存している。

浄土院 (10)
「戦国時代の作ともいわれる役行者像」と説明碑があったが、薬師三尊像のようにも見える。両脇侍(日光・月光)もいるし。それともオレが像を見間違えた?

浄土院 (11)
二十二夜塔(左)と二十三夜塔。

百番観音堂では、毎月16日に十六日念仏が奉納されるほか、3月15日、7月15日には天道念仏も行われている。

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前橋市公田町の岩舟地蔵。

公田の岩舟地蔵 (1)
岩舟地蔵は嘉永3年(1850年)の建立。当時は覆屋があったようだが、現在は焼失したためない。

公田の岩舟地蔵 (2)
昔、具合の悪い人がお地蔵様が建っているところを通りかかった際、体調が回復するとともに神様の啓示をを受けて、このお地蔵様を建立したといわれる。

台座が舟の形をしていることから、「岩舟地蔵」と呼ばれるようになった。

頭の痛いとき、腹の痛いときなどにお願いして治ったら、頭なら赤い頭巾、腹なら赤い腹巻きを作ってお礼参りをするのが慣わし。イボを治したいときはお地蔵様のその場所を撫で、半紙に包んだ米をお地蔵様の足下に埋めると治るという。

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前橋市小島田町の阿弥陀如来坐像。

小島田の阿弥陀如来像 (1)
阿弥陀如来坐像は円墳(経6m、高さ1.8m)上に造立されている。

小島田の阿弥陀如来像 (2)
高さ62.5cm、幅35.5cmの安山岩製で延徳5年の銘がある。ただ、延徳4年に明応に改元されているので、単純計算で1493年。なぜ延徳5年になっているかなど、経緯は不明。

地元では、なぜか「薬師さま」と呼ばれているらしい。阿弥陀如来像を薬師如来像と見誤っていたのかも。

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