Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


安中市松井田町五料の夜泣き地蔵。

夜泣き地蔵 (1)
旧中山道沿いに建っているお地蔵さん。このお地蔵さんには逸話があり、夜泣き地蔵と呼ばれている。(写真1番右)

ある日、荷を運んでいた馬子が荷物のバランスを取るため、落ちていたお地蔵さんの首を荷に積み、深谷(埼玉県)まで行ったところで首を捨ててしまった。すると、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるようになったので、首を五料まで戻してお地蔵さんに乗せたという。

この物語は「日本昔話」で「五料の地蔵さん」として放送されている。その際は、首だけ持っていったのではなく、お地蔵さんそのものを持っていったことになっている。主に子どもが観る番組なので、首というのはダイレクトすぎるので配慮したってことだね。

夜泣き地蔵 (2)
夜泣き地蔵 (3)
夜泣き地蔵の足下には、とれた首が置かれている。これが持っていかれた首なのか不明(お地蔵さんに首はあるので)だが、ちょっと怖い光景である。

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邑楽郡板倉町籾谷の光応山安勝寺。

安勝寺 (1)
安勝寺は昭和27年(1952年)に、光明山安楽寺と正応山最勝寺が合併してできた寺。

安楽寺は正長元年(1428年)僧・光尊の創建。最勝寺は承応年間(1652~54年)僧・光研の創建。

歴代住職の墓地にあった過去碑には、光尊が初代(開基)と記されていたので、寺名は安勝寺になっているが安楽寺の寺歴を引き継いでいるらしい。

安勝寺 (2)
安勝寺 (3)
安楽寺は慶応元年(1865年)に火災により堂宇を焼失。火災後、無住となっていた最勝寺の本堂と阿弥陀堂を安楽寺の境内に移築している。

安勝寺 (4)
安勝寺 (5)
最勝寺から移築された阿弥陀堂と阿弥陀如来木像。阿弥陀如来木像は寄木造りで、鎌倉から南北朝初期のものと推定される。群馬県内では数少ない「清涼寺式阿弥陀如来像」である。

「清涼寺式阿弥陀如来像」とは、髪の毛を縄を巻いたように表している如来像を一般的に言う。(何とか撮った写真では、まったく判別できない・・・)

安勝寺 (6)
安勝寺 (7)
梵鐘は宝暦4年(1754年)佐野の大河太郎兵衛と崎山五左衛門の鋳造。高さ99cm、口径76cmで、光明真言と仏具紋様が刻まれている。この仏具紋様の美術的価値が認められ、戦時中の供出を免れている。

安勝寺 (8)
安勝寺 (9)
安勝寺 (10)
通称「亀の子様」と呼ばれる金亀宝篋印塔。亀の上に宝篋印塔が乗せられている形になっている。

謂われは、寛文11年(1671年)に籾谷村の旱沼に光り輝く石亀が現れたたため、村人は八角形の大石で動けないようにした。その後、宝暦7年(1757年)の大雨の際に金色の光りを放ち石亀が再び動き出したため、光明真言を刻んだ宝篋印塔を石亀の上に置き、2度と動き出さないようにしたもの。

「亀の子様」にお祈りすると、百日咳に良く効くといわれている。

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邑楽郡板倉町大曲の石水山淨蓮院。

淨蓮院 (1)
淨蓮院の創建は不詳だが、開山の周應上人の位牌に寛永19年(1642年)とあるため、江戸初期と推定される。

淨蓮院 (2)
現在の本堂は昭和11年(1936年)の改築。

淨蓮院 (3)
境内の大日堂は、伝承によると日光東照宮建立に携わっていた宮大工が手がけたものとされている。大日如来像や不動明王像が安置されているらしいが、中は見えなかった。

淨蓮院 (4)
大日堂前には板碑や石仏が並んでいる。後からここに集めたんだと思う。

淨蓮院 (5)
十王十仏板碑。嘉暦元年(1326年)の銘がある。蓮台の上に不動明王、観音菩薩などの十仏の種子が刻まれている。群馬県内で最古の十王十仏板碑といわれる。

淨蓮院 (6)
猿田彦命と天細女命(あめのうずめのみこと)の双体道祖神。両尊が銚子と盃を手にしている祝言像で、寛延2年(1749年)の銘がある。館林・邑楽地区に双体道祖神は少なく、板倉町では唯一のもの。

ちなみに、天細女命は天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、岩戸前で少しエロティックな踊りを踊った女神。一説に、猿田彦命と夫婦になったともいわれている。これが2神の祝言像になっているようだ。

淨蓮院 (7)
大日堂が少し高いところにあるが、その横に滑り台らしきものがあった。昔から子供たちの遊び場だったんだろうね。(訪問当日は誰もいなかったけど)

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邑楽郡千代田町舞木の御所山大林寺。

大林寺 (1)
大林寺 (2)
大林寺は天慶3年(940年)大侃天徳の開創と伝わる。

大林寺 (3)
境内にある板碑。南北朝初期の建武5年(1338年)の銘がある。緑泥片岩製で、高さ107cm、幅32cm、厚さ4cm。阿弥陀如来の下に観音菩薩・勢至菩薩を種子で刻む阿弥陀三尊種子板碑である。

足利のすぐ近所で南朝の年号が記されているのが面白い。建武5年は新田義貞が討死した年なので、まだ渡良瀬川西岸・南岸は新田氏の強い勢力圏であったことが分かる。まあ、当然か。

ちなみに当時(から数年後には)、富岡・甘楽では既に北朝の影響下にあったことが諸々の遺構で分かっている。

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邑楽郡千代田町赤岩の弘安の板碑。

弘安の板碑 (1)
弘安の板碑 (2)
当所には光恩寺の僧・弘順が創建した弘永寺があったが、明治初期に廃寺となっている。観音堂のみ残り、平成28年(2016年)に修築されている。

弘安の板碑 (3)
青面金剛像(左)、二十三夜塔(中)、出羽三山碑(右)などがあり、往事を偲ばせる。

弘安の板碑 (4)
鎌倉時代の弘安6年(1283年)銘の板碑。緑泥片岩製で、高さ72cm、幅26cm、厚さ3cm。蓮座の上に種子の阿弥陀如来が刻まれている。

千代田町に現存する板碑の中でも古い時代のもので、当地の歴史を知るうえで貴重である。

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北群馬郡榛東村山子田の御堀地蔵堂の板碑。

御堀地蔵堂の板碑 (1)
地蔵堂は延命地蔵を祀る。戦国期に現在地に移されたと伝えられている。

御堀地蔵堂の板碑 (2)
堂内に延命地蔵が見られなかったが、厨子らしきものが見えたので、その中にあるのかもしれない。

御堀地蔵堂の板碑 (3)
堂内に置かれている板碑は高さ68cm、最大幅38cm、厚さ3cmの緑泥片岩製で、「逆修 応永5年(1398年)」の銘がある。逆修とは、一般的に生前に予め死後の冥福を祈って仏事を行うこと。

地蔵堂の境内は湯浅一族の墓所で、立派な宝篋印塔などが多数建っている。湯浅家は当地を治めていた名士で、戦国期に武田氏からの領地安堵状が出され、現存しているという。

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甘楽郡下仁田町下仁田の安養山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺は、鎌倉時代の有力御家人・畠山重忠の弟である重俊が、兄の菩提を弔うために開山した。重忠の没年は元久2年(1205年)なので、この辺りの創建と思われる。

清泉寺 (2)
山門の天井絵。

清泉寺 (3)
清泉寺 (4)
現在の本堂は文政11年(1828年)の再建。

清泉寺 (5)
清泉寺 (6)
梵鐘は安永9年(1780年)、地元の鋳物師・太田長左衛門尉藤原順本によって鋳造された。高さ142.5cm、口径75cm。寺の概略と畠山家先祖の追福のために鋳造された旨、銘文が刻まれている。

鋳物師名として「太田長左衛門尉藤原順本」と下仁田町のHPに書かれているのでそのまま書いたが、これはどう解釈すればいいの?左衛門尉って官名(後世は受領名が多い)だと思うが・・・。それとも太田長左衛門と藤原順本の2人?

清泉寺 (7)
清泉寺 (8)
墓地にある宝篋印塔。この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇をかたどった軸部と中台を置く形式のもの。富岡・甘楽地域では唯一の須弥壇式宝篋印塔である。造立は明徳2年(1391年)で、下仁田町では最古の宝篋印塔。

ちなみに、明徳は北朝の年号。明徳2年は南朝では元中8年。富岡・甘楽地区に残る石塔は、そのほとんどが北朝の年号を用いている。この地区が北朝側の影響下にあった証拠である。

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北群馬郡榛東村広馬場の医王山宮昌寺。

宮昌寺 (1)
宮昌寺は伝教大師(最澄)創建の船尾山坊のひとつ。養和元年(1181年)に千葉(平)常将により船尾山系が焼失した際、薬師如来がここの池に飛来したので、寺を建て祀ったのが始まりという。

関連
 「空から飛来した観音様 -矢落観音-
 「五重塔がある! -柳沢寺-
 「平(千葉)常将を祀る -常将神社-

当初は天台宗・真珠山医王寺といい、薬師信仰霊場として栄えたが、戦国期に荒廃。文禄2年(1593年)井伊直政が寺を再興。その後、寛永8年(1631年)に曹洞宗に改宗した際に、宮昌寺と改称している。

宮昌寺 (2)
門前にある「道元禅師と老典座の出会い」像。道元とは曹洞宗の開祖、典座は食事を作る係(僧)。

道元 「如何ぞ行者、人を使はざる」
    (なぜ若い者を使わないのか)
典座 「他は是れ吾にあらず」
    (自分が与えられた仕事を他人に任せては、自分の修行にならない)
道元 「天日且つ恁のごとく熱し、如何ぞ恁地にする」
    (炎天下でなぜそれほどなさるのか)
典座 「更に何れの時をか待たん」
    (今を外して一体いずれの時を待つのか)

中国で修行中の若き道元が、老典座の自己に対する厳しい修行態度に深く感銘を受けたという逸話(だそうだ)。

宮昌寺 (3)
宮昌寺 (4)
宮昌寺 (5)
宮昌寺 (6)
楼門(仁王門)は平成17年(2005年)の建立。

宮昌寺 (7)
通用門との表示があったが、旧山門かな。

宮昌寺 (8)
宮昌寺 (9)
本尊の釈迦如来を祀る。寺歴からすると薬師如来が本尊のような気もするが、戦国期荒廃した際寺宝は散逸したとされている。ちなみに、飛来した薬師如来像は行基作といわれる。

宮昌寺 (10)
本堂脇に六角堂がある。位牌堂と思われる。

宮昌寺 (11)
境内にある「穴薬師」。室町から江戸にかけての像立といわれる(時期が広いな)。丘の中腹にある洞穴内に祀られていたが、昭和57年(1982年)に境内に遷された。

ところで、道元の典座教訓像見て、仏教に詳しい訳ではないが「更に何れの時をか待たん」は真理だと思った。

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富岡市下高尾の仁治の碑。

仁治の碑 (1)
仁治の碑は高さ276cm、最大幅96cmの緑泥片岩製。仁治4年(1243年)の銘がある。富岡市最古の板碑で、県内でも3番目に古い。

仁治の碑 (2)
上部に五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)と薬師如来を表す梵字が刻まれている。天台密教系の信仰に基づいている。

造立者として、「壬生・六人部(むとべ)・小野・藤原・春日・物部・大宅・安部」など20数人の名前が列記されている。これらの人物は当時の有力者と考えられ、当地の歴史を知るうえでも貴重な資料となっている。

甘楽町にある「仁治3年の板碑」と基本的に同一構成だが、こちらは県の重文指定。甘楽町は1年古いが、風化が進んでいるためか、甘楽町の重文とまり。
(「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-」参照)

ちなみに、群馬県内の板碑では、前橋市・小島田の供養碑が仁治元年(1240年)で1番古い。甘楽町の仁治3年、この仁治4年と続く。

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甘楽郡甘楽町小川の仁治の板碑。

仁治の板碑 (1)
仁治に板碑は、高さ348cm、幅83cm、厚さ9cmの緑泥片岩製で、仁治3年(1242年)の銘がある。甘楽町最古の板碑である。群馬県内でも2番目に古い。

ちなみに、甘楽町で2番目に古い板碑は、養学寺跡にある建長3年(1251年)銘の板碑。(「甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-」参照)

仁治の板碑 (2)
金剛界五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)を表す梵字が刻まれている。碑文から集団・結衆(仏と縁を結ぶ)によって建てられた碑と言える。

しかし風化が進んでおり、ほぼ判読できない。どうやら長い間、付近を通る鎌倉街道の石橋にされていた影響が大きいようだ。

貴重な板碑と認められ、現在地へ移転されたのは明治14年(1881年)になってからである。

なお、富岡市下高尾に「仁治の碑」(仁治4年:1243年)と呼ばれる五智如来と薬師如来を表す梵字を刻んだ板碑があるが、別の板碑なのでお間違えないように。
ちなみに、富岡市の「仁治の碑」は状態も良く(梵字も判読できる)、群馬県の重文になっている。まだ行ってないので、そのうちにでも。

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甘楽郡甘楽町秋畑の建長の板碑。

建長の板碑 (1)
板碑は養学寺(廃寺)跡にあり、高さ302cm、幅43cm、厚さ12~14cm。結晶片岩製で建長3年(1251年)の銘がある。甘楽町では2番目に古く、群馬県内でも4番目に古い板碑である。

建長の板碑 (2)
碑の上部に胎蔵界大日如来を示す梵字を刻む。碑文は亡くなった母親のために、5人の子供が大日如来を祀って供養する旨が書かれている。

平成5年(1993年)に当碑を10mばかり移動した際、元は別の場所に建っていたものを移し、建て直していることが分かったという。

建長の板碑 (4)
建長の板碑 (5)
付近には他の板碑やその残骸が残っており、この辺では古くから板碑での供養が行われていたことを示している。

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甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

城町薬師堂の石仏 (1)
織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の信仰を集めていた。ここは下薬師。高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されている。

城町薬師堂の石仏 (2)
向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。この石仏は上薬師から遷されたといわれている。

中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。(これは重文ではない)

左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。頭部が欠損しているうえ風化が激しい。

薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置からこの3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ19cm、頭部が欠損してしまっている。

今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気もする・・・。

言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち着いて見てられなかったんだよね。

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甘楽郡甘楽町上野の医王山今宮寺。

今宮寺 (1)
今宮寺 (2)
今宮寺 (3)
今宮寺の由緒は不明。

今宮寺 (4)
今宮寺 (5)
天引石に彫られた阿弥陀三尊石仏。
主尊・阿弥陀如来(中央)、脇侍・観音菩薩(向かって右)、勢至菩薩(同左)を配している。高さ67cm、幅65cm、厚さ20cm。

天引石は砂岩のため、三尊仏はかなり風化が進んでいる。

今宮寺 (6)
三尊仏とともに覆屋内には2基の板碑があった。詳細は不明。

今宮寺 (7)
今宮寺 (8)
境内にある今宮寺稲荷。
立派な石祠は昭和54年(1979年)の再建。由緒碑らしきものがあったが、ほとんど判読できず・・・。わずかに読めたのは、「今宮寺稲荷の創建は不詳なり」。

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館林市日向町の義民地蔵。

義民地蔵 (1)
義民地蔵 (2)
徳川綱吉が館林藩主だった時代、役人が「目こぼれ」と称し年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。これに対し、小沼昌左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛、小沼久四郎、栗原三左衛門ら18名の名主たちが代表となって藩に申し立てを行った。

しかし役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。これにより農民救済の願いはかなったが、直訴は死罪のため18名は捕えられ、延宝4年(1676年)日向刑場において処刑された。

その後、元禄17年(1704年)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため地蔵尊が造られ供養された。以後「義民地蔵」と呼ばれている。

ここは日向刑場跡である。館林藩の刑場が天和・貞享(1681~87年)のころ当地(日向村)から青栁村へ移されたため、刑場跡地に地蔵尊を建てることが可能であった。

館林藩では本事件のすぐ後の享保3年(1718年)にも「館林騒動」と呼ばれる直訴事件が起こっており(当時の藩主は松平清武)、藩としての統治能力がかなり低かったと考えられる。

関連
 「館林騒動・三義人の供養塔 -教学院-
 「志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-

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太田市藪塚町の新井家の五輪塔。

新井家の五輪塔
新井家の墓地内にある凝灰岩製の五輪塔。空輪、風輪は欠落しており、他の石材で代用されている。空輪を除いた高さは85cm。火輪、水輪は三分の一ほど欠損していたが、昭和60年(1985年)に風化を防止する化学処理をした際に復元している。

五輪塔は火輪の直線的な稜線、軒端の垂直に近い切り口、水輪の膨らみなどから鎌倉初期のものと考えらる。旧藪塚本町に現存する五輪塔では最古・最大のものである。

新井家は新田義重の曾孫・荒井覚義の末裔と考えられる。ちなみに、荒井覚義の兄・新田政義は鎌倉時代に新田氏が没落するきっかけを作った人物である。

ちょっと話が逸れるが・・・。
政義は寛元2年(1244年)京都大番役時に、幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心し、断られると今度は幕府に無許可で勝手に出家し幕府への出仕を拒否してしまった。妻の実家である足利氏の取り成しがあったから、所領総没収にはならなかったが、これにより新田氏の没落は決定的となってしまった。

まあ、政義の心中を代弁すれば、源氏の本宗家は既になく(実朝は建保7年:1219年に暗殺されている)、「北条ごときが大きな顔しやがって。オレは源氏の本流だ!」って感じだったんだと思う。

4代後の義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、新田氏が世に再浮上したのは、これから約90年後のことである。

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桐生市梅田町の栖松寺の石幢。

栖松寺石幢 (1)
栖松寺石幢 (2)
栖松寺(せいしょうじ)ということだが、観音堂が残っているのみで、お寺としては廃寺? 移転? 合併? なのかな。ただ、墓地はあった。

栖松寺石幢 (3)
栖松寺石幢 (4)
傍らにある石幢。
安山岩製で、宝珠および台座が欠損し、高さは1.05m。竿石の中央部直径29cm、七角形の龕部の六面に地蔵尊、一面に阿弥陀如来像が彫られている。大永2年(1522年)の銘がある。

昭和49年(1974年)に盗難に遭ったが、平成7年(1995年)に発見され、現在地に戻されている。

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太田市新田中江田町の辻地蔵尊。

辻地蔵 (1)
辻地蔵 (2)
辻地蔵は正徳5年(1715年)に中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合計100ヶ所の観音札所を無事に参詣したのを記念して建立したもの。

お地蔵様は、高さ120cm、幅30cmで台座に銘文が刻まれている。

新しい道標が脇にあるが、それには「三本辻地蔵尊」とある。お地蔵さんのある場所は、日光例幣使道から利根川中瀬の渡しに通じる三叉路であった場所。なので、三本辻地蔵尊らしい。

利根川に通じる道は斜めの道であったため、明治時代後期に施行された耕地整理の際、消滅したという。

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太田市新田中江田町の旧来迎寺の宝篋印塔。

旧来迎寺跡の宝篋印塔
安養山来迎寺は明治元年(1868年)の火災により焼失し、寺は800m北へ移転され墓地だけが残っている。

その墓地に応安3年(1370年)の銘がある宝篋印塔が建っている。相輪・塔身は他の石造物の石材を使っているが、他の部分は残り、基礎の4面には銘文が刻まれている。銘文には宝篋印塔を造立した18人の僧侶の名前が刻まれている。

当時(南北朝期)は岩松氏が新田荘を治めていたため、北朝側の年号が刻まれていると思われる。岩松氏は足利氏と新田氏の両方と姻戚関係にあったので、その立場を上手く利用し足利氏から新田荘領有を認めさせ、さらに新田氏の惣領職も奪い栄えていく。

ついでに、戦国時代になると家臣の横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落している。

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太田市新田木崎町の旧常楽寺の石塔群。

紫雲山常楽寺はもともと当地にあったが、明治25年(1892年)に連蔵寺、円通寺と合併し上田島町に移転し、墓地だけが元の場所に残っている。
(現在の常楽寺は「花の寺 -常楽寺-」参照)

旧常楽寺の石塔群 (1)
墓地内の五輪塔3基、宝篋印塔3基が太田市の重文に指定されている。

旧常楽寺の石塔群 (2)
旧常楽寺の石塔群 (3)
五輪塔1基には延文4年(1359年)の銘がある。他の2基も同時代の造立と考えられる。宝篋印塔3基には暦応4年(1341年)、康永3年(1344年)、貞和2年(1346年)の銘がある。

いずれも北朝の年号であり、当時新田荘が足利氏の勢力圏となっていたことを示している。

ところで、上の写真でも分かるように、真ん中の宝篋印塔(貞和2年銘)の塔身上部が欠け落ちてしまっている。自然崩落なのか、いたずらなどによる破壊なのか分からないが・・・。康永3年銘の宝篋印塔もだいぶ傾いている。何か手をうった方がいいと思うぞ。

太田市の文化財課はこのことを知っているのか?

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伊勢崎市鹿島町の上西根の五輪塔。

上西根の五輪塔 (1)
上西根の五輪塔は、凝灰岩製で総高121cmと比較的小型の五輪塔。欠損部が少なく、原形をそのまま今日に伝えている。

上西根の五輪塔 (2)
形態は頂部にやや単調な空・風輪を置き、屋蓋にあたる火輪は軒口の厚みが少なく、反りは真反(しんそり)に近い。水輪は直径41cmに対し、高さが29cmと低い。鎌倉末期(1300年代前半)の作と推定される。

この付近は、上植木七屋敷のひとつである三蔵院屋敷跡と伝えられ、凝灰岩の石塔や宝塔などの残欠が多数散見されることから、仏教信仰の篤い地域であったと考えられる。

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沼田市白沢町尾合の利法山禅定院功徳寺。

禅定院 (1)
禅定院は承和14年(847年)慈覚大師(延暦寺第三代座主)の開創と伝わる古刹である。

禅定院 (2)
参道入り口にある宝篋印塔。銘文に廻国供養の意をなし、明和4年(1767年)佐野村(現在の高崎市)大心によって建てられたとある。高さ3.5mで白沢地区内を代表的する宝篋印塔。

禅定院 (3)
山門は沼田城の東門を移築したと伝わる。大正13年(1913年)落雷により本堂や庫裏を焼失したが、山門は類焼を免れている。

禅定院 (4)
禅定院 (5)
本堂は昭和48年(1973年)に片品村の梁讃寺の本堂を移築したもの。外観が比較的きれいなので、最近改修しているようだ。

ご本尊は延命地蔵。慈覚大師が作った石彫りという。(見てない)別名「田植え地蔵」という。これには謂れがあって、田植え時期に農家の手伝いをする男が現れ、村人が後を付けてみると禅定院の門あたりで消えてしまった。和尚さんに聞くと、田植えの時期にご本尊によく泥が付いているのを不思議に思っていたが、ご本尊の延命地蔵が田植えの手伝いに行っていたのではないかということだった。

これから「田植え地蔵」と呼ばれるようになったとさ。

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沼田市白沢町岩室の岩室神社。

岩室神社 (1)
岩室神社 (2)
岩室神社 (3)
岩室神社の由緒は不明。ご祭神は日本武尊と建御名方命(たけみなかたのかみ)。日本武尊は北毛地区では多くの神社(特に武尊神社)に祀られている。建御名方命は諏訪大社のご祭神として有名。

岩室神社 (4)
庚申五重塔は寛文12年(1672年)に、村の中村新兵衛ほか8名により建立されたもの。高さ2.1m。

層塔形式の庚申塔はこの地域特有といわれ、当初供養塔として造立されたが、江戸時代に民俗信仰と結びつき庚申供養塔となったようだ。

岩室神社 (5)
写真も撮ったし帰ろうと思ったら、社殿の裏から「ガサッ、ガサッ」という音が。ふと見たら何かいる!! ダッシュで逃げる。離れた所から見ると、何だか分からないが動物がいた(よく撮れてないけど)。

今年は各地で熊の出没が相次いるので、本当にビビった。(訪問は10月末)

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前橋市粕倉町の諏訪山東昌寺。

東昌寺 (1)
東昌寺 (2)
東昌寺の由緒は不明。伝教大師(最澄)の開基という伝承がある。

東昌寺 (3)
東昌寺 (4)
歴代住職の墓地に石殿がある。中には石像が安置されている。石殿の両脇に「当寺中興開山 堅者法印元栄」とある。江戸時代中期頃の住職らしい。

東昌寺 (5)
東昌寺 (6)
境内にある如意輪観音が彫られている二十二夜塔と虚空蔵菩薩(?)が彫られている宝塔。二十二夜塔には寛政11年(1799年)、宝塔には延享2年(1745年)の銘がある。

東昌寺 (7)
東昌寺 (8)
前橋市の重文になっている石像薬師如来坐像。由緒などは不明だが、凝灰岩製のため風化がかなり進んでいる。

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前橋市東大室町の赤城山最善寺。
最善寺には大室城主・石川氏の墓があり訪問済みだが、旧普蔵寺から移された供養塔もあり再訪した。(「石川氏の墓 -最善寺-」参照)

最善寺2 (1)
旧普蔵寺供養塔は、高さ134cmの輝石安山岩製の板碑型供養塔。この供養塔は、東大室にあった普蔵寺(廃寺)に安置されていたもの。正面を将棋の駒形に彫り込み、その中に阿弥陀三尊の種子と銘文「為之凡四型康生元乙亥十一」(康生元年:1455年)が刻まれている。

最善寺2 (2)
最善寺2 (3)
最善寺2 (4)
最善寺2 (5)
最善寺2 (6)
前回紹介しなかった境内の石仏群。

最善寺2 (7)
阿修羅像。元前橋市長の萩原弥惣治氏が建立したとあった。

最善寺2 (8)
松尾芭蕉像。

阿修羅と松尾芭蕉は、はっきり言って位置づけがよく分からない(笑)。

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高崎市中室田町大久保の岩井堂。

岩井堂の石幢 (1)
岩井堂は永禄年間(1558~70年)石井讃岐守の発願で、長年寺7世・天産受蓮を招いて開創。上野国観音霊場の第22番札所になっている。

ちなみに石井讃岐守(石井信房)は里見義堯と長野業政の娘との間の子。業政の養子になったとされる。当時は室田鷹留城主で、永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、鷹留城も落城。石井讃岐守も討死したとされる(諸説有り)。

岩井堂の石幢 (2)
お堂は後ろの崖をえぐるように建っており、平成5年(1993年)に改修されている。中を覗いてみたけど、観音様は見えなかった。改修の際、仏像や墨書された板などが多数確認され、特に秩父34霊場に関わる観音像が8体発見されている。当時は34体あったと思われる。

岩井堂の石幢 (3)
お堂の石段下には石幢があり、竿石には文明4年(1472年)の銘がある。残念ながら龕部は失われているが、輪廻車のはめ込まれていた穴は残っている。高崎市の重文に指定されている。

岩井堂の創建と石幢の造立年が合わないことから、岩井堂自体の開創がもっと古い可能性もある。

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吾妻郡中之条町上沢渡の北向三十三番観世音。

北向第三十三番観音 (1)
北向第三十三番観音 (2)
北向三十三番観世音は、明治35年(1902年)に赤痢や凍霜害の犠牲者の慰霊と天下泰平、村民安徳、現世利益を祈願して造られた。

北向第三十三番観音 (3)
旧沢田村は明治29年(1896年)に赤痢が蔓延し、多くの犠牲者をだした。また明治34年(1901年)には凍霜害の被害により、作物の実りが悪く村全体が困窮していた。村人は相談の上、沢渡温泉に近い北向の斜面を借り受け、観音像を造立した。

北向第三十三番観音 (4)
馬頭観音の台座には、発願主や世話人、石工の名前が刻まれている。

現在も7月29日には久森前尻地区の方々により草刈りや掃除を行い、供養とお祈りを続けている(「お山刈り」と呼ぶ)。

北向の斜面に観音様が多数造立されているんだけど、全景を撮って来なかったので分かりづらいかも。

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富岡市下丹生の正寿山永隣寺。

永隣寺 (1)
永隣寺 (2)
永隣寺は永禄7年(1564年)、国峰城主・小幡信氏の開基と伝わる。

永隣寺 (3)
永隣寺 (4)
永隣寺 (5)
江戸時代に数度にわたり火災で全焼したが、明治30年(1897年)に再建されている。

永隣寺 (6)
永隣寺 (7)
境内に鳥居がありお堂のようなものがあったので、中を覗いたら何もなかった。何??

永隣寺 (8)
石段下に奪衣婆像があった。奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

生前に死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだといわれる。確かに、山門から境内へと墓地の分かれ道に鎮座している。

この奪衣婆像は帽子や肩掛けを付けており(檀家の方が付けたのかな?)、遠目からは本当にお婆さんが腰かけているように見えた。

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安中市下秋間の聖不動威怒明王(しょうふどういぬみょうおう)。

聖不動威怒明王 (1)
桂昌寺14世・乾海和尚が元禄13年(1700年)に寺領に十三仏を造立。その1番・聖不動威怒明王をこの地と定めた。ここは昔より良水があり、動物・鳥類が傷ついた体を休めるようになり、聖不動威怒明王像を奉安したのが始まりという。

また、古老の夢に不動明王が現れ、お告げに従い崖崩れで埋まった同不動を見つけ、現在の場所に移したとも伝えられている。

聖不動威怒明王 (2)
聖不動威怒明王 (3)
聖不動威怒明王 (4)
聖不動威怒明王像は秋間石造りで、元禄13年と桂昌寺14世・乾海和尚の銘がある。

近年には参拝すると「病まずにポックリ逝ける」と、お年寄りらの口コミで広まり、参拝に訪れる人が多い。

どういう経緯で「ぽっくり不動」と呼ばれるようになったかは不明。

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安中市鷺宮の聖観音碑。

聖観音碑 (1)
聖観音碑は安山岩の中央に自在観音、右下に勢至観音、左下に普賢観音の観音三尊が半肉彫りされている。造立年や造立者は不明だが、その特徴から鎌倉時代、もしくはそれ以前と考えられている。

聖観音碑 (2)
高さは180cm、下部幅66cm、中央幅75cm。地元では「おびんづる様」とも呼ばれ、崇拝されている。

江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていたという。しかし馬に乗ったまま渡ろうとすると、必ず馬が暴れ落馬するので、村人が改めると観音三尊が彫られていることが分かったので、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれている。

そう言えば、世界遺産への登録を目指している金井沢碑(上野三碑のひとつ)も、江戸時代に農家の洗濯石として使われていたというから、こういうことはよくあったのかもしれない。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

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富岡市南後箇の額部神社。

額部神社 (1)
額部神社 (2)
額部神社の創建は不明だが、小幡藩歴代藩主の崇敬を受け、祭祀料などの寄付を賜っていた。

明治42年(1909年)に岡本・岩染・南後箇の諸社を合祀し、染箇岡神社となる(地名を一字ずつ取った)。その後、明治45年(1912年)野上の諸社も合祀し、現在の額部神社となる。

額部神社 (3)
額部神社 (4)
額部神社 (5)
額部神社 (6)
ご祭神は学問の神である菅原道真。地元受験生には人気のスポットらしい。とは言え、絵馬などが飾ってあるでもなし。

額部神社 (7)
額部神社 (8)
建治2年(1276年)建立の石造地蔵菩薩像。像の頭光背の上部が斜めに欠けているが、半肉彫の地蔵菩薩は完形で残っている。

鎌倉時代の特徴をよく表しており、また群馬県内最古の半肉彫石造地蔵である。

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