Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


甘楽郡甘楽町秋畑の建長の板碑。

建長の板碑 (1)
板碑は養学寺(廃寺)跡にあり、高さ302cm、幅43cm、厚さ12~14cm。結晶片岩製で建長3年(1251年)の銘がある。甘楽町では2番目に古く、群馬県内でも4番目に古い板碑である。

建長の板碑 (2)
碑の上部に胎蔵界大日如来を示す梵字を刻む。碑文は亡くなった母親のために、5人の子供が大日如来を祀って供養する旨が書かれている。

平成5年(1993年)に当碑を10mばかり移動した際、元は別の場所に建っていたものを移し、建て直していることが分かったという。

建長の板碑 (4)
建長の板碑 (5)
付近には他の板碑やその残骸が残っており、この辺では古くから板碑での供養が行われていたことを示している。

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甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

城町薬師堂の石仏 (1)
織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の信仰を集めていた。ここは下薬師。高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されている。

城町薬師堂の石仏 (2)
向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。この石仏は上薬師から遷されたといわれている。

中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。(これは重文ではない)

左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。頭部が欠損しているうえ風化が激しい。

薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置からこの3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ19cm、頭部が欠損してしまっている。

今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気もする・・・。

言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち着いて見てられなかったんだよね。

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甘楽郡甘楽町上野の医王山今宮寺。

今宮寺 (1)
今宮寺 (2)
今宮寺 (3)
今宮寺の由緒は不明。

今宮寺 (4)
今宮寺 (5)
天引石に彫られた阿弥陀三尊石仏。
主尊・阿弥陀如来(中央)、脇侍・観音菩薩(向かって右)、勢至菩薩(同左)を配している。高さ67cm、幅65cm、厚さ20cm。

天引石は砂岩のため、三尊仏はかなり風化が進んでいる。

今宮寺 (6)
三尊仏とともに覆屋内には2基の板碑があった。詳細は不明。

今宮寺 (7)
今宮寺 (8)
境内にある今宮寺稲荷。
立派な石祠は昭和54年(1979年)の再建。由緒碑らしきものがあったが、ほとんど判読できず・・・。わずかに読めたのは、「今宮寺稲荷の創建は不詳なり」。

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館林市日向町の義民地蔵。

義民地蔵 (1)
義民地蔵 (2)
徳川綱吉が館林藩主だった時代、役人が「目こぼれ」と称し年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。これに対し、小沼昌左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛、小沼久四郎、栗原三左衛門ら18名の名主たちが代表となって藩に申し立てを行った。

しかし役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。これにより農民救済の願いはかなったが、直訴は死罪のため18名は捕えられ、延宝4年(1676年)日向刑場において処刑された。

その後、元禄17年(1704年)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため地蔵尊が造られ供養された。以後「義民地蔵」と呼ばれている。

ここは日向刑場跡である。館林藩の刑場が天和・貞享(1681~87年)のころ当地(日向村)から青栁村へ移されたため、刑場跡地に地蔵尊を建てることが可能であった。

館林藩では本事件のすぐ後の享保3年(1718年)にも「館林騒動」と呼ばれる直訴事件が起こっており(当時の藩主は松平清武)、藩としての統治能力がかなり低かったと考えられる。

関連
 「館林騒動・三義人の供養塔 -教学院-
 「志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-

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太田市藪塚町の新井家の五輪塔。

新井家の五輪塔
新井家の墓地内にある凝灰岩製の五輪塔。空輪、風輪は欠落しており、他の石材で代用されている。空輪を除いた高さは85cm。火輪、水輪は三分の一ほど欠損していたが、昭和60年(1985年)に風化を防止する化学処理をした際に復元している。

五輪塔は火輪の直線的な稜線、軒端の垂直に近い切り口、水輪の膨らみなどから鎌倉初期のものと考えらる。旧藪塚本町に現存する五輪塔では最古・最大のものである。

新井家は新田義重の曾孫・荒井覚義の末裔と考えられる。ちなみに、荒井覚義の兄・新田政義は鎌倉時代に新田氏が没落するきっかけを作った人物である。

ちょっと話が逸れるが・・・。
政義は寛元2年(1244年)京都大番役時に、幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心し、断られると今度は幕府に無許可で勝手に出家し幕府への出仕を拒否してしまった。妻の実家である足利氏の取り成しがあったから、所領総没収にはならなかったが、これにより新田氏の没落は決定的となってしまった。

まあ、政義の心中を代弁すれば、源氏の本宗家は既になく(実朝は建保7年:1219年に暗殺されている)、「北条ごときが大きな顔しやがって。オレは源氏の本流だ!」って感じだったんだと思う。

4代後の義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、新田氏が世に再浮上したのは、これから約90年後のことである。

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桐生市梅田町の栖松寺の石幢。

栖松寺石幢 (1)
栖松寺石幢 (2)
栖松寺(せいしょうじ)ということだが、観音堂が残っているのみで、お寺としては廃寺? 移転? 合併? なのかな。ただ、墓地はあった。

栖松寺石幢 (3)
栖松寺石幢 (4)
傍らにある石幢。
安山岩製で、宝珠および台座が欠損し、高さは1.05m。竿石の中央部直径29cm、七角形の龕部の六面に地蔵尊、一面に阿弥陀如来像が彫られている。大永2年(1522年)の銘がある。

昭和49年(1974年)に盗難に遭ったが、平成7年(1995年)に発見され、現在地に戻されている。

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太田市新田中江田町の辻地蔵尊。

辻地蔵 (1)
辻地蔵 (2)
辻地蔵は正徳5年(1715年)に中江田本郷地区に住んでいた椎名長兵衛が、西国33ヶ所、坂東33ヶ所、秩父34ヶ所の合計100ヶ所の観音札所を無事に参詣したのを記念して建立したもの。

お地蔵様は、高さ120cm、幅30cmで台座に銘文が刻まれている。

新しい道標が脇にあるが、それには「三本辻地蔵尊」とある。お地蔵さんのある場所は、日光例幣使道から利根川中瀬の渡しに通じる三叉路であった場所。なので、三本辻地蔵尊らしい。

利根川に通じる道は斜めの道であったため、明治時代後期に施行された耕地整理の際、消滅したという。

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太田市新田中江田町の旧来迎寺の宝篋印塔。

旧来迎寺跡の宝篋印塔
安養山来迎寺は明治元年(1868年)の火災により焼失し、寺は800m北へ移転され墓地だけが残っている。

その墓地に応安3年(1370年)の銘がある宝篋印塔が建っている。相輪・塔身は他の石造物の石材を使っているが、他の部分は残り、基礎の4面には銘文が刻まれている。銘文には宝篋印塔を造立した18人の僧侶の名前が刻まれている。

当時(南北朝期)は岩松氏が新田荘を治めていたため、北朝側の年号が刻まれていると思われる。岩松氏は足利氏と新田氏の両方と姻戚関係にあったので、その立場を上手く利用し足利氏から新田荘領有を認めさせ、さらに新田氏の惣領職も奪い栄えていく。

ついでに、戦国時代になると家臣の横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落している。

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太田市新田木崎町の旧常楽寺の石塔群。

紫雲山常楽寺はもともと当地にあったが、明治25年(1892年)に連蔵寺、円通寺と合併し上田島町に移転し、墓地だけが元の場所に残っている。
(現在の常楽寺は「花の寺 -常楽寺-」参照)

旧常楽寺の石塔群 (1)
墓地内の五輪塔3基、宝篋印塔3基が太田市の重文に指定されている。

旧常楽寺の石塔群 (2)
旧常楽寺の石塔群 (3)
五輪塔1基には延文4年(1359年)の銘がある。他の2基も同時代の造立と考えられる。宝篋印塔3基には暦応4年(1341年)、康永3年(1344年)、貞和2年(1346年)の銘がある。

いずれも北朝の年号であり、当時新田荘が足利氏の勢力圏となっていたことを示している。

ところで、上の写真でも分かるように、真ん中の宝篋印塔(貞和2年銘)の塔身上部が欠け落ちてしまっている。自然崩落なのか、いたずらなどによる破壊なのか分からないが・・・。康永3年銘の宝篋印塔もだいぶ傾いている。何か手をうった方がいいと思うぞ。

太田市の文化財課はこのことを知っているのか?

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伊勢崎市鹿島町の上西根の五輪塔。

上西根の五輪塔 (1)
上西根の五輪塔は、凝灰岩製で総高121cmと比較的小型の五輪塔。欠損部が少なく、原形をそのまま今日に伝えている。

上西根の五輪塔 (2)
形態は頂部にやや単調な空・風輪を置き、屋蓋にあたる火輪は軒口の厚みが少なく、反りは真反(しんそり)に近い。水輪は直径41cmに対し、高さが29cmと低い。鎌倉末期(1300年代前半)の作と推定される。

この付近は、上植木七屋敷のひとつである三蔵院屋敷跡と伝えられ、凝灰岩の石塔や宝塔などの残欠が多数散見されることから、仏教信仰の篤い地域であったと考えられる。

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沼田市白沢町尾合の利法山禅定院功徳寺。

禅定院 (1)
禅定院は承和14年(847年)慈覚大師(延暦寺第三代座主)の開創と伝わる古刹である。

禅定院 (2)
参道入り口にある宝篋印塔。銘文に廻国供養の意をなし、明和4年(1767年)佐野村(現在の高崎市)大心によって建てられたとある。高さ3.5mで白沢地区内を代表的する宝篋印塔。

禅定院 (3)
山門は沼田城の東門を移築したと伝わる。大正13年(1913年)落雷により本堂や庫裏を焼失したが、山門は類焼を免れている。

禅定院 (4)
禅定院 (5)
本堂は昭和48年(1973年)に片品村の梁讃寺の本堂を移築したもの。外観が比較的きれいなので、最近改修しているようだ。

ご本尊は延命地蔵。慈覚大師が作った石彫りという。(見てない)別名「田植え地蔵」という。これには謂れがあって、田植え時期に農家の手伝いをする男が現れ、村人が後を付けてみると禅定院の門あたりで消えてしまった。和尚さんに聞くと、田植えの時期にご本尊によく泥が付いているのを不思議に思っていたが、ご本尊の延命地蔵が田植えの手伝いに行っていたのではないかということだった。

これから「田植え地蔵」と呼ばれるようになったとさ。

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沼田市白沢町岩室の岩室神社。

岩室神社 (1)
岩室神社 (2)
岩室神社 (3)
岩室神社の由緒は不明。ご祭神は日本武尊と建御名方命(たけみなかたのかみ)。日本武尊は北毛地区では多くの神社(特に武尊神社)に祀られている。建御名方命は諏訪大社のご祭神として有名。

岩室神社 (4)
庚申五重塔は寛文12年(1672年)に、村の中村新兵衛ほか8名により建立されたもの。高さ2.1m。

層塔形式の庚申塔はこの地域特有といわれ、当初供養塔として造立されたが、江戸時代に民俗信仰と結びつき庚申供養塔となったようだ。

岩室神社 (5)
写真も撮ったし帰ろうと思ったら、社殿の裏から「ガサッ、ガサッ」という音が。ふと見たら何かいる!! ダッシュで逃げる。離れた所から見ると、何だか分からないが動物がいた(よく撮れてないけど)。

今年は各地で熊の出没が相次いるので、本当にビビった。(訪問は10月末)

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前橋市粕倉町の諏訪山東昌寺。

東昌寺 (1)
東昌寺 (2)
東昌寺の由緒は不明。伝教大師(最澄)の開基という伝承がある。

東昌寺 (3)
東昌寺 (4)
歴代住職の墓地に石殿がある。中には石像が安置されている。石殿の両脇に「当寺中興開山 堅者法印元栄」とある。江戸時代中期頃の住職らしい。

東昌寺 (5)
東昌寺 (6)
境内にある如意輪観音が彫られている二十二夜塔と虚空蔵菩薩(?)が彫られている宝塔。二十二夜塔には寛政11年(1799年)、宝塔には延享2年(1745年)の銘がある。

東昌寺 (7)
東昌寺 (8)
前橋市の重文になっている石像薬師如来坐像。由緒などは不明だが、凝灰岩製のため風化がかなり進んでいる。

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前橋市東大室町の赤城山最善寺。
最善寺には大室城主・石川氏の墓があり訪問済みだが、旧普蔵寺から移された供養塔もあり再訪した。(「石川氏の墓 -最善寺-」参照)

最善寺2 (1)
旧普蔵寺供養塔は、高さ134cmの輝石安山岩製の板碑型供養塔。この供養塔は、東大室にあった普蔵寺(廃寺)に安置されていたもの。正面を将棋の駒形に彫り込み、その中に阿弥陀三尊の種子と銘文「為之凡四型康生元乙亥十一」(康生元年:1455年)が刻まれている。

最善寺2 (2)
最善寺2 (3)
最善寺2 (4)
最善寺2 (5)
最善寺2 (6)
前回紹介しなかった境内の石仏群。

最善寺2 (7)
阿修羅像。元前橋市長の萩原弥惣治氏が建立したとあった。

最善寺2 (8)
松尾芭蕉像。

阿修羅と松尾芭蕉は、はっきり言って位置づけがよく分からない(笑)。

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高崎市中室田町大久保の岩井堂。

岩井堂の石幢 (1)
岩井堂は永禄年間(1558~70年)石井讃岐守の発願で、長年寺7世・天産受蓮を招いて開創。上野国観音霊場の第22番札所になっている。

ちなみに石井讃岐守(石井信房)は里見義堯と長野業政の娘との間の子。業政の養子になったとされる。当時は室田鷹留城主で、永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、鷹留城も落城。石井讃岐守も討死したとされる(諸説有り)。

岩井堂の石幢 (2)
お堂は後ろの崖をえぐるように建っており、平成5年(1993年)に改修されている。中を覗いてみたけど、観音様は見えなかった。改修の際、仏像や墨書された板などが多数確認され、特に秩父34霊場に関わる観音像が8体発見されている。当時は34体あったと思われる。

岩井堂の石幢 (3)
お堂の石段下には石幢があり、竿石には文明4年(1472年)の銘がある。残念ながら龕部は失われているが、輪廻車のはめ込まれていた穴は残っている。高崎市の重文に指定されている。

岩井堂の創建と石幢の造立年が合わないことから、岩井堂自体の開創がもっと古い可能性もある。

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吾妻郡中之条町上沢渡の北向三十三番観世音。

北向第三十三番観音 (1)
北向第三十三番観音 (2)
北向三十三番観世音は、明治35年(1902年)に赤痢や凍霜害の犠牲者の慰霊と天下泰平、村民安徳、現世利益を祈願して造られた。

北向第三十三番観音 (3)
旧沢田村は明治29年(1896年)に赤痢が蔓延し、多くの犠牲者をだした。また明治34年(1901年)には凍霜害の被害により、作物の実りが悪く村全体が困窮していた。村人は相談の上、沢渡温泉に近い北向の斜面を借り受け、観音像を造立した。

北向第三十三番観音 (4)
馬頭観音の台座には、発願主や世話人、石工の名前が刻まれている。

現在も7月29日には久森前尻地区の方々により草刈りや掃除を行い、供養とお祈りを続けている(「お山刈り」と呼ぶ)。

北向の斜面に観音様が多数造立されているんだけど、全景を撮って来なかったので分かりづらいかも。

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富岡市下丹生の正寿山永隣寺。

永隣寺 (1)
永隣寺 (2)
永隣寺は永禄7年(1564年)、国峰城主・小幡信氏の開基と伝わる。

永隣寺 (3)
永隣寺 (4)
永隣寺 (5)
江戸時代に数度にわたり火災で全焼したが、明治30年(1897年)に再建されている。

永隣寺 (6)
永隣寺 (7)
境内に鳥居がありお堂のようなものがあったので、中を覗いたら何もなかった。何??

永隣寺 (8)
石段下に奪衣婆像があった。奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

生前に死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだといわれる。確かに、山門から境内へと墓地の分かれ道に鎮座している。

この奪衣婆像は帽子や肩掛けを付けており(檀家の方が付けたのかな?)、遠目からは本当にお婆さんが腰かけているように見えた。

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安中市下秋間の聖不動威怒明王(しょうふどういぬみょうおう)。

聖不動威怒明王 (1)
桂昌寺14世・乾海和尚が元禄13年(1700年)に寺領に十三仏を造立。その1番・聖不動威怒明王をこの地と定めた。ここは昔より良水があり、動物・鳥類が傷ついた体を休めるようになり、聖不動威怒明王像を奉安したのが始まりという。

また、古老の夢に不動明王が現れ、お告げに従い崖崩れで埋まった同不動を見つけ、現在の場所に移したとも伝えられている。

聖不動威怒明王 (2)
聖不動威怒明王 (3)
聖不動威怒明王 (4)
聖不動威怒明王像は秋間石造りで、元禄13年と桂昌寺14世・乾海和尚の銘がある。

近年には参拝すると「病まずにポックリ逝ける」と、お年寄りらの口コミで広まり、参拝に訪れる人が多い。

どういう経緯で「ぽっくり不動」と呼ばれるようになったかは不明。

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安中市鷺宮の聖観音碑。

聖観音碑 (1)
聖観音碑は安山岩の中央に自在観音、右下に勢至観音、左下に普賢観音の観音三尊が半肉彫りされている。造立年や造立者は不明だが、その特徴から鎌倉時代、もしくはそれ以前と考えられている。

聖観音碑 (2)
高さは180cm、下部幅66cm、中央幅75cm。地元では「おびんづる様」とも呼ばれ、崇拝されている。

江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていたという。しかし馬に乗ったまま渡ろうとすると、必ず馬が暴れ落馬するので、村人が改めると観音三尊が彫られていることが分かったので、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれている。

そう言えば、世界遺産への登録を目指している金井沢碑(上野三碑のひとつ)も、江戸時代に農家の洗濯石として使われていたというから、こういうことはよくあったのかもしれない。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

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富岡市南後箇の額部神社。

額部神社 (1)
額部神社 (2)
額部神社の創建は不明だが、小幡藩歴代藩主の崇敬を受け、祭祀料などの寄付を賜っていた。

明治42年(1909年)に岡本・岩染・南後箇の諸社を合祀し、染箇岡神社となる(地名を一字ずつ取った)。その後、明治45年(1912年)野上の諸社も合祀し、現在の額部神社となる。

額部神社 (3)
額部神社 (4)
額部神社 (5)
額部神社 (6)
ご祭神は学問の神である菅原道真。地元受験生には人気のスポットらしい。とは言え、絵馬などが飾ってあるでもなし。

額部神社 (7)
額部神社 (8)
建治2年(1276年)建立の石造地蔵菩薩像。像の頭光背の上部が斜めに欠けているが、半肉彫の地蔵菩薩は完形で残っている。

鎌倉時代の特徴をよく表しており、また群馬県内最古の半肉彫石造地蔵である。

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富岡市岡本の西方寺。

西方寺 (1)
西方寺 (2)
西方寺 (3)
西方寺 (4)
西方寺の由緒は不明。

西方寺 (5)
元応2年銘と貞治2年銘の板碑。両板碑とも石材は地元の点紋緑泥片岩

西方寺 (6)
鎌倉時代末、元応2年(1320年)の建立。上部が割れて(欠けて)いるが、高さ242cmを誇る。群馬県内で2番目に大きい。

西方寺 (7)
南北朝期、貞治2年(1363年)の建立。大日如来が刻まれている。貞治は北朝の年号。

富岡から甘楽、下仁田にかけて北朝の勢力下にあったのか、意外と北朝方に縁故のものがある。
 富岡・光厳寺(北朝初代・光厳天皇の開基)
 下仁田・貞治6年銘の板碑
 甘楽・観応元年の五輪塔(庭谷の五輪塔)

西方寺 (8)
門前の「力士 桺川子之吉の碑」。地元出身の力士なのか、調べても分からなかった。

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富岡市星田の虚空蔵堂。

星田虚空蔵堂 (1)
星田虚空蔵堂 (2)
星田虚空蔵堂 (3)
虚空蔵堂は岩棚の山の中腹にある「満願窟」に包み込まれるように建っている。本尊が何でも願いをい叶えてくれることから「満願虚空蔵菩薩」と呼ばれているので、「満願窟」と言われている。

星田虚空蔵堂 (4)
お堂と岩の隙間から裏側に入ることができる。

星田虚空蔵堂 (5)
堂内に虚空蔵菩薩像は安置されていない。通常は近くの伝宗寺に安置されており、年に1度(例祭:1月第3日曜)お堂に移されご開帳される。

仁寿4年(854年)に慈覚大師が当地を訪れたところ、田んぼの井戸から星が出て、このお堂の場所まで飛び菩薩が現れたと伝えられている。慈覚大師がその菩薩像を彫り、岩窟に安置したという。星田という地名の由来でもある。

ちなみに慈覚大師は入唐八家のひとり。唐に留学した高僧ということ。他には最澄や空海が数えられている。

星田虚空蔵堂 (7)
境内にある名号塔。宝暦13年(1763年)妙善法尼の建立。芝増上寺の大僧正・佑天上人の自筆の名号を刻んでいる。宝暦13年は佑天上人の没後45年目。高さ273cmと大型で、石材は「満願窟」と同じ凝灰岩製。

何でも叶うなら、来年は参拝してみようかな。

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甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆。
以前紹介した笠塔婆と同じ天引地区にある。(「甘楽町・天引の笠塔婆と板碑」参照)

笠塔婆 (1)
笠塔婆は地元で産出する天引石(砂岩)で造立されている。総高174cm(基礎高62
cm、塔身高105cm、笠石高7cm)、幅は塔身下部で40.5cm、上部で36.5cm、厚さ21cmの扁平角柱状である。

笠塔婆 (2)
塔身正面を輪郭線で囲み、その中の上部中央の蓮坐上に阿弥陀如来、向かって右下に観音菩薩、左下に勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を刻んでいる。その中央下に正安元年(1299年)の銘があり、これは群馬県内で3番目に古い笠塔婆である。

さらに塔身向かって右側面下部に不動明王、左側面に愛染明王の種子が薬研彫りで刻まれている。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐため保存修理等が実施されている。風化を防ぐためには覆屋も付けた方がいいね。

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伊勢崎市上蓮町の阿弥陀・地蔵石仏。

上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (1)
上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (2)
蓮座に座して通肩の法衣をまとい、弥陀の定印を結ぶ阿弥陀如来像。その右上方に同じく蓮座に座して、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩像。右下方には合掌する男女像の計4体が彫られている。下部を台座として、他の部分は光背としている。

角閃石安山岩製で高さは66cm。室町中期の造立と考えられている。

阿弥陀如来は極楽浄土で来世の利益を授け、地蔵菩薩は六道の衆生を救済する功徳があるとされる。この両方の信仰が融合していたことを示す石仏である。

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前橋市大前田の地蔵菩薩石像。

大前田の地蔵菩薩石像 (1)
大前田の地蔵菩薩石像 (2)
前橋市のHPにも現地にも解説・案内などがなく、由緒も含めて何も分からない。ただ、石像が傾いてるなぁ~との印象。

この地蔵菩薩石像は前橋市の重要有形民俗文化財に指定されているんだから、何か解説板くらい立てて欲しいところだ。大前田町は前橋市と合併する前は勢多郡宮城村なので、宮城村の文化財指定を前橋市が引き継いだと思われるが・・・。

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前橋市富田町の宝塔。

富田の宝塔 (1)
富田の宝塔は輝石安山岩製で、総高205.9cmの相輪・笠石・塔身・基礎からなり、室町時代初期の特徴を示している。

富田の宝塔 (2)
相輪の請花には蓮弁が陰刻されている。相輪は上から宝珠、竜車、九輪、請花・伏鉢、露盤。塔身は上部が太く、下部に行くにしたがって細くなる亀型となっている。

宝塔は一般的には赤城塔といわれ、県内では赤城南麓(前橋市、旧勢多郡、桐生市方面)に多く分布している。

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高崎市倉渕町三ノ倉の三倉山全透院。

全透院 (1)
全透院 (2)
全透院は延徳元年(1489年)木部新九郎の開基と伝わる。木部氏は応永(1394~1427年)から永正(1504~20年)の始めまで三ノ倉地方を支配していた。

その後、大戸(現、東吾妻町)を拠点とする浦野氏に支配が代わり、大永2年(1522年)に浦野重勝が堂宇を建立し、長年寺5世・紹舜を招き中興開基している。全透院は浦野重勝の法名「青霄院関翁全透居士」にちなんでいる。

全透院 (3)
全透院 (4)
重勝の子・重成、重次は武田氏に従い倉渕地方を支配している。そのためか、本堂の屋根には武田菱が掲げられている。(アップの写真を撮ってくるのを忘れた・・・)

全透院 (5)
本堂隣の地蔵堂。堂内には室町初期の造立と推定される延命地蔵像が安置されている。地蔵堂は全透院の前身の寺であったと考えられる。

全透院 (6)
墓地の入口にある閻魔大王と奪衣婆像。

全透院 (7)
全透院 (8)
全透院 (9)
境内には十三仏霊場があった。十三仏は冥界の審理に関わる13の仏で、13の追善供養を司る仏としても知られている。

ちなみに十三仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩。

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伊勢崎市境小此木の小柴山福寿院宝存寺。
院号の福寿院で通っている。

宝存寺 (1)
宝存寺は延長4年(926年)独朗日円の開基、開山は法印宗順と伝えられている。元徳3年(1331年)小此木長光の祈願所となっている。

上記は門前の案内板の内容だが、同じ旧境町にある瑳珂比神社の由緒では、小此木長光が天文15年(1546年)に石動明神の分霊を境城内に勧進したとある。
(「石剱稲荷大明神 -瑳珂比神社-」参照)
小此木長光の年代が200年も違うけど・・・。

宝存寺 (2)
宝存寺 (3)
鐘楼門は徳川時代中期の建造。

宝存寺 (4)
宝存寺 (5)
堂宇は文政年間(1818~30年)に焼失したが、嘉永6年(1853年)に再建されている。嘉永6年と言えば、ペリーが黒船でやってきた年。平成に入り改修されている。

宝存寺 (6)
旧境町最古といわれる宝篋印塔と五輪塔。宝存寺創建時からのものといわれる。ただし案内板がなかったので、違っていたら失礼。

当初は瑠璃久山という山号だったが、明治43年(1910年)に小柴山観音寺と合併し小柴山の山号となっている。

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前橋市千代田町3丁目の熊野神社。

熊野神社 (1)
熊野神社 (2)
熊野神社の創建は不詳だが、出雲の八束熊野からの勧請といわれる。熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集め「恩熊野様」と崇拝されてきた。この「恩熊野様」が子どもたちには「おくまんさま」と聞こえたため、「おくまんさま」と称され親しまれてきた。

熊野神社 (3)
熊野神社 (4)
熊野神社 (5)
社殿は太平洋戦争中に焼失したが直後に再建。しかし平成4年(1992年)台風により奥の院が崩壊。それを機に社殿を大修復している。

拝殿の西壁面には、八咫烏御影石がはめ込まれており、触れれば運気が取りこまれるという。古来より「開運の扉」として崇められている。

熊野神社 (6)
境内東側には三つ足八咫烏石がある。八咫烏は幸運を導く太陽の中にいるとされる神の使者である。平成4年(1992年)の台風で奥の院が崩壊し、その再建時に基礎石の中に三つの足跡のある石を発見し、開運の証として祀ったもの。

熊野神社 (7)
そう言われると烏の足跡が三つあるように見えなくもないが・・・。

熊野神社 (8)
熊野神社 (9)
社殿のすぐ右手にある笠欠け三猿塔。奉納時(江戸時代と推定)は笠をかぶっていたが、空襲の爆風により笠を失った。戦果を避け神社境内に避難していた人々の身を守ったと伝えられている。

熊野神社では昭和49年(1974年)から大酉祭が行われている。かつて大酉祭は、現在の前橋スズランの場所にあった小石神社にて行われて、商売繁盛を願う市として糸商人をはじめ商店街が賑わっていた。小石神社は昭和46年(1971年)に敷島公園西に移転し、大酉祭は熊野神社に引き継がれ現在に至っている。

大酉祭は、初市祭り・七夕祭り・前橋祭りと並ぶ前橋4大祭りのひとつといわれる祭りであり、当日は熊手や縁起物などを売るたくさんの露店が並び、多くの参拝客で賑わう。

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前橋市鳥羽町の大日如来像と笠塔婆。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (1)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (2)
前橋市の重文である大日如来坐像と笠塔婆は、鳥羽町の東部公民館の敷地内にある。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (3)
大日如来坐像は一石で彫刻された大日如来の舟形石造坐像で、頭部に宝冠をいただいている。後部の舟形状の光背上部が欠けてしまっている。比較的顔幅が広く、ふくよかな体躯をしている。鎌倉時代中期ごろの造立と推定されている。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (4)
笠塔婆と言うが、笠は失われており塔身のみが残る。角閃石安山岩製で、正面に光背をかたどった薬研彫りの中に阿弥陀三尊坐像を彫刻している。中尊は三日月状の台座に座り、右脇侍は観音菩薩の坐像、左脇侍は合掌する勢至菩薩の坐像。鎌倉時代後期の造立と推定されている。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (5)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (6)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (7)
同所には、淡島様石塔、青面金剛像や石仏などが多数ある。他所からここへ集めたものと思われる。

露天に置かれているため、大日如来坐像も笠塔婆も風化が進んでいる。覆屋を作るなどして、保護した方がいいと思う・・・。

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