Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


高崎市山名町の来迎阿弥陀画像板碑。

来迎阿弥陀画像板碑 (1)
来迎阿弥陀画像板碑 (2)
板碑は祠のような覆屋内にあり、厳重に鍵が掛けられていて見ることはできない。

来迎阿弥陀画像板碑 (3)
解説版に載っている板碑拓本の拡大写真。板碑は高さ97.5cm、幅33cm、厚さ5cmで、剣菱形の緑泥片岩の上半に薄肉彫りで右斜めを向いた阿弥陀如来を刻んでおり、下半に建治4年(1278年)の銘がある。

阿弥陀如来の頭部には放射状の頭光が線刻されている(この部分は拓本写真からも分かる)。印相は来迎印結び蓮座の上に立ち、信仰者の臨終を極楽浄土に迎える「阿弥陀来迎」の型式をとっている。

鉄扉に2つ丸い穴(窓)が開いているので覗けたのかもしれないが、何かあると嫌なのでやめておいた。

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渋川市渋川(上郷)の迦陵山千音寺跡。

千音寺跡 (1)
千音寺に関してはよく分からないが、その墓地に五輪塔がある。総高114cmで永享6年(1434年)の銘がある。旧渋川市地区で年号を刻む最古の五輪塔である。

千音寺跡 (2)
永享の五輪塔の向かって右隣りには延徳4年(1492年)銘の宝篋印塔がある。

これらの宝塔類は今成氏祖先の墓と伝えられている。今成氏については分からない。

千音寺跡 (3)
千音寺跡 (4)
千音寺跡 (5)
子育て地蔵尊。幟に迦陵山千音寺とあるので、旧千音寺の地蔵堂だと思う。由緒などは分からないが、きれいに整備されており地域の方々から篤く信仰されているのが分かる。

千音寺跡 (6)
地蔵堂の脇には、先の大戦で戦死した地元の方々の慰霊碑。合掌。

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渋川市渋川(下郷)の子育地蔵。

下郷の子育地蔵 (1)
真光寺37世・義範は、当時まだ残っていた口減らし(間引き)の風習を強く戒めていた。義範は宝暦11年(1761年)に亡くなるが、その徳を偲んだ人々が明和3年(1766年)に子育地蔵を建立した。

下郷の子育地蔵 (2)
赤子を抱き片膝がけで座る半肉彫りの地蔵尊は、総高262cm、像高約1m。2段目の台石には、打ち出の小槌やかくれ蓑などもが刻まれている。

当所は、義範が隠居後を過ごした竜雲庵跡である。

北橘町八崎の角谷戸薬師堂の天井絵に「間引き絵」があり、間引きの風習はなかなか無くならなかったことを示している。(「天井の間引き絵 -角谷戸薬師堂-」参照)

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藤岡市篠塚の道標付笠石四角塔。

道標付笠石四角塔 (1)
道標付笠石四角塔 (2)
道標付笠石四角塔は篠塚地区の通称「東四ツ辻」に建っている。総高は128.9cmで、天明7年(1787年)の銘がある。塔身部の3面に薬師如来や地蔵菩薩の名が3体ずつ刻まれている。

道標付笠石四角塔 (3)
道標付笠石四角塔 (4)
蓮華台座の東面に「右くらかの・左ふしおか」、南面に「右志んまち・左よしい」と刻まれ、道標にもなっている。

笠塔婆は本来供養塔であるので、元は供養塔として建てられたが、道ばただった(もしくは後に道ばたになった)ため、道標の役割も付加されたものと考えられる。

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渋川市北橘町分郷八崎の東円山観音堂。

東円山観音堂 (1)
東円山観音堂 (2)
東円山観音堂は元々お寺だったと思われるが、由緒などは分からない。仁王門には大悲殿の扁額が掛かる。

東円山観音堂 (3)
東円山観音堂 (4)
仁王門は平成23年(2011年)の再建。仁王像は享保2年(1717年)の造像で、大正13年(1924年)に修繕の記録が残る。旧北橘村では唯一の仁王像。

東円山観音堂 (5)
東円山観音堂 (6)
東円山観音堂 (7)
東円山観音堂 (8)
境内には青面金剛塔、閻魔像、脱衣婆像、庚申塔、馬頭観世音、念仏供養塔(百万遍塔)など多種・多数の石仏・供養塔がある。最初の写真中央の青面金剛塔は寛政12年(1800年)の銘がある。

東円山観音堂 (9)
特徴のある石仏だが地蔵菩薩とあった。全文字は読めなかったが、奉納・供養の文字と寛文8年(1668年)の銘があった。

境内の石仏群は写真以外にもたくさんあり、当時の民間信仰の実情を知る上で貴重な民俗資料となっている。そのため石仏が一括で渋川市の重文に指定されている。

東円山観音堂 (10)
東円山観音堂 (11)
建立年は分からないが、比較的新しめの観音堂。ご本尊は千手観音。

東円山観音堂 (12)
東円山観音堂 (13)
観音堂内部は天井絵も施され、欄間彫刻も見事だ。千手観音像は厨子内のようだ。千手観音像は行基作といわれ、永承4年(1049年)に僧・順永が安置したといわれている。

東円山観音堂 (14)
鰐口は青銅製で直径120cmの大きさ。明治18年(1885年)の鋳造。伊勢崎市の石山観音に次ぐ大きさかな。(「日本一(?)の大鰐口 -万徳寺(石山観音)-」参照)

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富岡市田篠の石造如来三尊坐像。

田篠の石造三尊坐像 (1)
田篠の石造如来三尊坐像は、「原田篠の薬師様」と地域での信仰も厚い。南北朝時代(1300年代後半)の特徴を有している。いずれも材質は牛伏砂岩である。右から阿弥陀如来、胎蔵大日如来、弥勒菩薩である。地元では「薬師様」と呼ばれているが、なぜか薬師如来は含まれていない。(この3体が富岡市の重文になっている)

田篠の石造三尊坐像 (2)
坐像の隣に一石三尊石像がある。これ薬師三尊像? 風化していてわかりずらいのとオレの知識不足のため、明確には分からない。

当所には他にも石仏があるので、すべてまとめて「薬師様」と信仰されてきたと考えた方がいいのだろう。

「石造如来三尊坐像」というのが富岡市の重文の名称だが、これはまぎらわしいな。

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富岡市妙義町菅原の女神像碑と十一面観音菩薩碑。

女神像碑 (1)
女神像碑 (2)
女神像碑は高さ77cm、幅31cmの自然石に、線刻で女性の合掌像が刻まれている。裏面に永徳2年(1382年)の銘がある。ちなみに、永徳は南北朝期の北朝の年号。現在でも女性像がはっきり見て取れるが、この女性が何を表しているかは不明。

十一面観音菩薩碑 (1)
十一面観音菩薩碑 (2)
十一面観音菩薩碑は高さ117cm、幅40cmの自然石に、線刻で十一面観音が刻まれている。残念ながら逆光だったことと苔が多数付いていることなどから、線が見える程度で像容は分からず。

女神像と十一面観音像があるのは菅原の波己曽神社跡地。妙義山麓には「七波己曽」と呼ばれる7社の波己曽神社があったが、ここはそのひとつ。有名なのは元波己曽神社の妙義神社。その他、現在も波己曽神社として残っているのは1社のみで、他に合祀されたりしている。3社は場所も不明のようである。

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太田市富若町の名号角塔婆。

富若の名号角塔婆 (1)
富若の名号角塔婆 (2)
富若の名号角塔婆は高さ78cmであるが、上部が欠けているため本来の高さは不明。幅は28cm。みどり市笠懸町産出の天神山凝灰岩製。正面に永仁5年(1297年)の銘がある。「南無阿弥陀仏」の六字名号が4面に刻まれており、造立者は薗田(園田)氏一門と推定される。

名号角塔婆は中世の浄土宗信仰にもとづく供養塔で、県内では太田市、桐生市、みどり市の各一部地域の35基しか確認されていない。これは薗田氏の支配地と共通している。鎌倉初期の当主・薗田成家が京都に巡廻警護に上がった際、法然に師事・出家し智明となり、当地に浄土宗を広めたためと考えられている。

関連
 「智明上人の開創 -崇禅寺-
 「名号角塔婆 -永福寺-
 「矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆

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甘楽郡甘楽町天引の圓通閣の地蔵菩薩坐像。

円通閣 (1)
円通閣 (2)
円通閣 (3)
圓通閣(観音堂)の詳細は不明。

円通閣 (4)
円通閣 (5)
境内の地蔵菩薩坐像3体。
天引砂岩で作られており、室町時代初期から中期の作と推定される。元々は境内に散在していたが、覆屋内に安置・保存している。向かって右から
 高さ95cm、幅43.6cm、厚さ39cm。
 高さ52cm、幅36.6cm、厚さ21.4cm。光背の上部が欠損している。
 高さ70cm、幅48cm、厚さ27cm。光背はほぼ欠損している。

中世の地蔵信仰を示す貴重な石仏である。ただ、砂岩でできているため劣化が進んでおり、今後さらなる保存法も検討した方がいいと思う。

円通閣 (6)
石段脇の石仏はみな首がなくなっていた。明治初年の廃仏毀釈の影響だと思う。「神仏分離」の拡大解釈による数年の出来事ではあるが、各地にその痕跡が残る。

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前橋市粕川町稲里の馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊。

馬頭観音石像 (1)
馬頭観音石像 (2)
馬頭観音立像は三面六臂で安山岩製。像高は基壇含め185cm、塔身90cm、延享4年(1794年)稲里村民の建立。

事情は知らないが、修理跡が痛々しい。真っ二つになってしまっていたようだ。

笠かぶり地蔵 (1)
笠かぶり地蔵 (2)
馬頭観音像のすぐ隣にある笠かぶり地蔵尊立像。こちらも延享4年(1794年)の建立。笠をかぶった出生比丘形。台座の連弁も完備している。

どちらも貴重な石造文化財として、前橋市の重文に指定されている(もともと粕川村の重文)。

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前橋市横沢町の石塔婆。

横沢の石塔婆 (1)
横沢の石塔婆は赤城山から噴出した輝石安山岩製で、頂面に大日如来、南面に観音菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来、東面に薬師如来を意味する種子(梵字)が刻まれている。

横沢の石塔婆 (2)
紀年銘は、観音菩薩に暦応2年(1339年)、阿弥陀如来に暦応5年(1342年)、釈迦如来に康永2年(1343年)とあり、3つの年に渡っている。いずれも南北朝期の北朝の年号。どの年も2月18日の観音菩薩の有縁日であることから、観音信仰の対象として造られたものと考えられている。

また、願主の長源子満が康永2年(1343年)に亡くなったと思わせる「辞世敬白」との銘文も刻まれている。

横沢の石塔婆 (3)
付近に宝篋印塔の残片があったが、当地は満福庵という寺院があったらしい。

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前橋市大前田町の世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像。

世良田薬師(1)
世良田薬師(2)
世良田薬師堂には、阿弥陀如来坐像と薬師如来坐像が納められている。ちょうと日差しの関係で、薬師如来坐像に直射日光が当たっていて・・・。

世良田薬師(3)
阿弥陀如来坐像は凝灰岩製で、総高70cm、像高42.5cm、総幅48cm、像幅32cm。石材は旧笠懸町の天神山からの産出。上段に連弁が薄肉彫りされた2段の蓮座と舟形光背を持つ。彫刻の手法などから、鎌倉時代後期の造立と推定されている。保存状態が非常に良く、前橋市の重文になっている。

世良田薬師(4)
日差しで見づらいけど、薬師如来坐像。

世良田薬師(5)
世良田薬師(6)
世良田薬師(7)
薬師堂の前には、石仏、仏塔などが多数ある。元々は寺院だった?

世良田薬師(8)
大前田町夜泣き伝説の石「夜泣き石」というのがあった。伝説は調べても分からなかったが、子どもの夜泣きが治るという石か、それとも石が泣くのか?

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藤岡市鬼石の慶石山福持寺。

福持寺 (1)
福持寺 (2)
福持寺は天平年間(729~49年)行基の開創と伝わる。行基手彫りの地蔵菩薩を祀ったのが始まりとされ、地蔵院と称した。建久6年(1195年)に梶原景時の3男・福持丸が当地で落馬により死去したのでここに葬ったことから、景時が大旦那(中興開基)となり寺号を福持寺に改めたといわれる。

福持寺 (3)
山門横の「光明真言 五百億遍 供養塔」。光明真言は梵字23字(最後の休符を入れても24字)とは言え、五百億遍とは。

福持寺 (4)
福持寺 (5)
本堂は平成21年(2009年)に改修されている。山門は東向きだが本堂は南向き。昔は山門の先に本堂があったのかもしれない。現在、山門の先は墓地になっている。

福持寺 (6)
福持寺 (7)
福持寺 (8)
境内の不動堂。不動明王が鎮座している。

福持寺 (9)
福持寺 (10)
福持寺 (11)
弘法大師御影堂。

福持寺 (12)
福持寺 (13)
福持寺 (14)
太子堂。聖徳太子16歳を祀っている。鬼石町の上町にあった太子堂を大正6年(1917年)に福持寺に移転したもの。

福持寺 (15)
福持寺 (16)
福持寺 (17)
地蔵堂。

福持寺 (18)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ147cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (19)
文永8年(1271年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ127cm。蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。

福持寺 (20)
文永7年(1270年)銘の板碑。緑泥片岩製で高さ 65cm。他の2碑同様、蓮座上に阿弥陀種子が刻まれている。碑下部の紀年銘のところで切れているので、下部は大きく欠損しているようだ。

群馬県内の板碑(供養塔)の最古は仁治元年(1240年)なので、文永銘の板碑は古い部類に入る。そのため、3碑とも相当風化が進んでいる。貴重な板碑なのだから、覆屋などで保護した方がいいと思う。

ところで、藤岡市のHPでは3基目の板碑の紀年銘を文永8年としている。しかし現地の旧鬼石町の案内板には文永7年とある。現物も文永7と見えた。自信はないが・・・。

参考(群馬県内最古ベスト3)
 「群馬県最古の供養碑 -小島田の供養碑-
 「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
 「富岡市最古の板碑 -仁治の碑-

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藤岡市譲原の文明の板碑。

文明の板碑
板碑は総高約2mで、阿弥陀三尊仏を表す梵字(種子)が刻まれている。室町時代の文明(1469~86年)の銘がある。室町時代のもので、しかも露天にもかかわらず非常に状態が良く、梵字もはっきり読める。

当地の横田一族が一揆により滅んだ際に、生き残った者が供養のため建てたと伝えられている。横田一族の素性は不明。

引きの写真しか撮ってこなかったが、道路端すぐの2mくらいの高さのところにある。金網フェンスと板碑の間は1mもなく、後も畑になっており入るのが憚られたため道路越しの写真しかない。

藤岡市の解説版も道路側を向いており、読めないと思うぞこれは。もう少し考えて欲しい。

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前橋市稲荷新田町の薬師堂。

稲荷新田の薬師様 (1)
稲荷新田の薬師様 (2)
平成4年(1992年)建立の薬師堂内には、多数の石仏が安置されている。千数百体あると言うが、数えたわけではないの分からないが、もうちょっと少ないような気がする。

稲荷新田の薬師様 (3)
この「薬師さま」に願をかけると万病に効くと言われ、周辺地域からも参拝する人が多い。願をかけるときは手を水で濡らし、具合の悪い石仏の部分をなでることから、俗に「濡れ薬師」とも呼ばれる。

伝説では、ある武士が石仏を背負ってここまで来たが、重くなったのでここに留まりたいのだと思い、当地に安置したといわれる。

ただ、石仏は「薬師さま」と呼ばれているが、印相や像容から阿弥陀如来と考えられている。風化と信仰(なでる)による摩耗が激しく判然としないが、特徴から南北朝期のものと推定される。

多数の石仏があるのは、「薬師さま」に願をかけた人々が石工に頼んで造り、奉納したものといわれる。

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前橋市亀里町阿内宿の石幢。

亀里町阿内宿の石幢 (1)
亀里町阿内宿の石幢 (2)
石幢は安山岩製で明応7年(1498年)の銘がある。前橋市内でも、古い時期のものである。

銘文に「時正七分全得逆修善根」とあるので、生前供養のため造立したことが分かる(逆修)。また「七分全得」とは、死者の供養はその福の七分の一を死者が受け、七分の六を供養した者が受けるというが、生前に自分で供養を行えば、七分全部得ることになるという意味。まあ、死者と供養者が同一なのだから、そうだよね。

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前橋市青梨子町の神明山正法寺。

正法寺 (1)
正法寺 (2)
正法寺の由緒は不明。

正法寺 (3)
一石に六地蔵が彫られている。

正法寺 (7)
三体薬師。正法寺の近郷に別々に祀られていた3体の薬師如来を、平成12年(2000年)に移したもの。

正法寺 (4)
文明18年(1486年)銘のある六地蔵石幢。輪廻車の穴があるものとしては前橋市最古である。群馬県内でみても3番目に古い。付いている車は後付けと思う。ちなみに、県内最古は高崎市下滝町・慈眼寺の文明3年(1471年)。

正法寺 (5)
正法寺 (6)
塔身には檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵が配置されている。新しい塔身に地蔵像だけ埋め込む補修をしたのかな?


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多野郡神流町柏木の阿弥陀三尊画像板碑。

阿弥陀三尊画像板碑 (1)
阿弥陀三尊画像板碑 (2)
阿弥陀三尊画像板碑(中央)は、秩父産の緑泥片岩製で総高110cm、最大幅32cm。

阿弥陀三尊画像板碑 (3)
阿弥陀如来、勢至観音(右脇侍)・観音菩薩(左脇侍)の三尊が雲に乗った来迎図を線刻したもの。乾元2年(1303年)の銘がある。

この板碑は昭和初期まで地中に埋まっており、画像が良好な状態で残されている。

画像板碑は県内でも13基(といわれる)しか確認されていない貴重なものである。

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前橋市問屋町の丁間(ちょうけん)稲荷神社。

丁間稲荷神社 (1)
慶長7年(1602年)の総社藩・秋元長朝による天狗岩用水開削の際、丁間台(測量器)を据え測量の起点としたといわれている。

天狗岩用水完成後、水田守護神を祭祀していたが、天保年間(1831~45年)に京都・伏見稲荷を勧請した。

丁間稲荷神社 (2)
丁間稲荷神社 (3)
丁間稲荷神社 (4)
現在の社殿は昭和38年(1963年)の再建。社殿は総社稲荷山古墳上に鎮座している。丁間稲荷神社があるので、稲荷山古墳と呼ばれるようになったのであろう。

丁間稲荷神社 (5)
境内の笠薬師塔婆。総高112cmで県内最古の様式を持つ笠塔婆。塔身4面には釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来が、二重の火炎光背とともに薄肉彫りされている。笠石の様式から、平安末期から鎌倉時代初期の造立と推定される。

道路建設のため、300m北から丁間稲荷神社の境内に移設されている。

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前橋市後閑町の医王山円満寺。

後閑円満寺 (1)
後閑円満寺 (2)
後閑円満寺は貞観3年(861年)慈覚大師の開基と伝わる古刹である。慈覚大師は第3代天台座主で、最澄、空海などとともに八唐八家のひとりに数えられる。

後閑円満寺 (3)
後閑円満寺 (4)
本堂は平成21年(2009年)の改築で、本尊の薬師如来を祀る。本尊の薬師如来像は、檜の寄木造りで円光背を持つ。鎌倉時代の造立と推定される。

後閑円満寺 (5)
後閑円満寺 (6)
境外に「お薬師さま」と呼ばれる三石三尊像がある。現在は境外だが、昔は境内の北境だったという。

「お薬師さま」と呼ばれているが、石造の阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来と観音菩薩・勢至菩薩)。角閃安山岩製で半肉彫りの陽刻。阿弥陀如来像は宝珠形に近い丸みの舟形状の光背を持つ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

なぜ「お薬師さま」と呼ばれているかは知らないが、薬師如来は病気平癒に功徳があるといわれるので、そういう伝聞が広がったから? それとも、単純に見誤ったからか。

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前橋市上大島町の光明山浄土院長福寺。

浄土院 (1)
浄土院は寛永年間(1624~45年)快円法印の開基と伝わるが、享保年間(1716~36年)に焼失したため詳細は不明。

浄土院 (2)
浄土院 (3)
現在の本堂は平成4年(1992年)の建立。

浄土院 (4)
旧本堂の物と思われる瓦が境内にあった。

浄土院 (5)
浄土院と隣接している百番観音堂。浄土院の境内?宝暦年間(1751~64年)以前の創建で、昭和8年(1933年)の再建。上大島町自治会、百番観世音親交会のみなさんが管理している。

浄土院 (6)
浄土院 (7)
堂内には、西国三十三番、秩父三十四番、板東三十三番の計百体の観音様が祀られている。

浄土院 (8)
観音堂前には多数の石仏や供養塔が集められている。右端に写っている白衣観音は、昭和54年(1979年)地元老人会が先人を偲び建立したもの。

浄土院 (9)
阿弥陀三尊石仏。風化が進んでいるが、覆屋を造り保存している。

浄土院 (10)
「戦国時代の作ともいわれる役行者像」と説明碑があったが、薬師三尊像のようにも見える。両脇侍(日光・月光)もいるし。それともオレが像を見間違えた?

浄土院 (11)
二十二夜塔(左)と二十三夜塔。

百番観音堂では、毎月16日に十六日念仏が奉納されるほか、3月15日、7月15日には天道念仏も行われている。

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前橋市公田町の岩舟地蔵。

公田の岩舟地蔵 (1)
岩舟地蔵は嘉永3年(1850年)の建立。当時は覆屋があったようだが、現在は焼失したためない。

公田の岩舟地蔵 (2)
昔、具合の悪い人がお地蔵様が建っているところを通りかかった際、体調が回復するとともに神様の啓示をを受けて、このお地蔵様を建立したといわれる。

台座が舟の形をしていることから、「岩舟地蔵」と呼ばれるようになった。

頭の痛いとき、腹の痛いときなどにお願いして治ったら、頭なら赤い頭巾、腹なら赤い腹巻きを作ってお礼参りをするのが慣わし。イボを治したいときはお地蔵様のその場所を撫で、半紙に包んだ米をお地蔵様の足下に埋めると治るという。

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前橋市小島田町の阿弥陀如来坐像。

小島田の阿弥陀如来像 (1)
阿弥陀如来坐像は円墳(経6m、高さ1.8m)上に造立されている。

小島田の阿弥陀如来像 (2)
高さ62.5cm、幅35.5cmの安山岩製で延徳5年の銘がある。ただ、延徳4年に明応に改元されているので、単純計算で1493年。なぜ延徳5年になっているかなど、経緯は不明。

地元では、なぜか「薬師さま」と呼ばれているらしい。阿弥陀如来像を薬師如来像と見誤っていたのかも。

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前橋市小島田町の供養碑。

小島田の供養碑 (1)
小島田の供養碑 (2)
小島田の供養碑は群馬県最古の板碑で、仁治元年(1240年)の銘がある。橘清重が幼くして亡くなった我が子のために建立。橘清重は京の都から来た役人で、そのまま小島田に土着したらしい。

小島田の供養碑 (3)
高さ125cmで安山岩製。中央上部に浮き出るように阿弥陀如来坐像が彫られている。
阿弥陀如来の右側に観音菩薩を表す種子(サ)、左側には勢至観音を表す種子(サク)が刻まれている。

故人を供養する石造物として板碑と同様の要素をもっており、板碑を含めても群馬県最古である。

ちなみに、群馬県で2番目に古い供養費(板碑)は、甘楽町の仁治3年(1242年)の板碑。ついでに、3番目は富岡市の仁治4年(1243年)の板碑である。

関連
 「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
 「富岡市最古の板碑 -仁治の碑-

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前橋市江木町の宝塔。

江木の宝塔 (1)
江木の宝塔は安山岩製で総高約2m。塔身の下部に小さな欠損が見られるが、ほぼ完全な形をとどめている。紀年名は刻まれてなが、室町時代(前半)の造立と推定される。

江木の宝塔 (2)
塔身は底部が狭く、全体としてお椀型に近い形をしている。笠(屋蓋)は上側の反りに対して、下側の反りが浅くなっている。

宝塔はもともと江木町字大日から移されたという。ここは江戸末期まで西方寺というお寺だったようだ(元治元年:1864年に焼失)。

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前橋市馬場町の稲荷神社。

馬場稲荷神社 (1)
馬場稲荷神社の由緒は不明。

馬場稲荷神社 (2)
馬場稲荷神社 (3)
馬場稲荷神社 (4)
一の鳥居の扁額には「稲荷大明神」「雷電王」「山神十羅刹」、二の鳥居には「天王宮」。天王宮は後から合祀されたときに、元の鳥居を持ってきたのだろう。

馬場稲荷神社 (5)
馬場稲荷神社 (6)
馬場稲荷神社 (7)
拝殿と本殿。

馬場稲荷神社 (8)
鳥居の東側にある「あ・うん石仏」。2体で「阿形」「吽形」を表している。風化が進んでいるのとコケが覆っており分かりずらいが、向かって右が阿形、左が吽形と思われる。

馬場稲荷神社 (9)
馬場稲荷神社 (13)
馬頭観音。三面六臂で表情は憤怒相で表されている。手には剣や蓮華などを持ち、胸の前で印を結んでいる。台座に寛延4年(1751年)の銘がある。

馬場稲荷神社 (10)
馬頭観音の台座の脇にも馬頭観音がある。こちらは一面二臂。

馬場稲荷神社 (11)
馬場稲荷神社 (12)
お堂の中にはお地蔵さんなど、いくつかの石仏が納められている。前橋市の文化財に指定されているあ・うん石仏は露座なのに。どういうお地蔵さんなのだろう?

馬場稲荷神社の境内東側には多くの石仏・石像があるが、東隣にはかつて(江戸期)観音寺というお寺があったとのことなので、その名残かもしれない。


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高崎市小八木町の慈雲山妙典寺。

妙典寺 (1)
妙典寺 (2)
妙典寺 (3)
妙典寺は久安元年(1145念)の秀存法師の開基と伝わる。

妙典寺 (4)
墓地の北側に鎌倉時代中期頃の板碑と五輪塔がある。

妙典寺 (5)
板碑は高さ215cm、最大幅58cm、厚さ9cmで緑泥片岩製。阿弥陀三尊を表す3個の梵字(種子)が薬研で彫られ、康元2年(1257年)の銘がある。高崎市に現存する板碑では最大にして最古である。

妙典寺 (6)
板碑の隣にある五輪塔は凝灰岩製で、板碑と同年代の造立と推定されるが、紀年銘が見られず不明。

ちなみに、高崎市で銘が残る最古の五輪塔は阿久津町・玄頂寺の康永2年(1343年)銘である。(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)

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高崎市吉井町馬庭の薬師堂。

馬庭の薬師堂 (1)
吉井高のすぐ北側に薬師堂があり、その堂内に3体の石仏が安置されている。3体とも坐像で牛伏砂岩製。

馬庭の薬師堂 (2)
写真左が薬師如来坐像。左手に薬壷を持ち、光背は桃形である。厚肉彫りで肩の張りは大きく、膝は張りが少ない。

中央は阿弥陀如来座像。阿弥陀定印を結び、頭部はやや猪首状である。通肩厚肉彫りで肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高99.5cm。

右は地蔵菩薩坐像。秘印を結び、光背は舟形、頭部はやや猪首状、通肩厚肉彫りで、肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高86.5cm。

3体とも砂岩製なので、風化が進んでいる。お堂ができる前は露座であったためであろう。

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高崎市上大島町の笠塔婆。

安養寺跡の笠塔婆 (1)
安養寺跡の笠塔婆 (2)
この笠塔婆は、高さ94cm、幅34cm、厚さ29cmの安山岩製。正面下部に文永元年(1264年)の銘がある。群馬県内最古の笠塔婆である。

安養寺跡の笠塔婆 (3)
正面に阿弥陀如来像半陽刻されている。実は左右の側面にも不動明王像、毘沙門天像が線刻されていたのだが、見落としていた。

安養寺跡の笠塔婆 (4)
ここは安養寺というお寺だったらしいが、現在は上大島町の公民館になっている。

安養寺跡の笠塔婆 (5)
安養寺跡の笠塔婆 (6)
笠塔婆の横には石塔群、公民館脇には六地蔵が残されており、寺跡であることを偲ばせる。ただ六地蔵は相当新しそうだが。

公民館の西(?)の民家庭先にも石塔が数基見えたので(もちろん入っていない)、安養寺もそれなりに大きかったと思われる。

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高崎市上里見町本庄の地蔵尊坐像。

本庄辻の地蔵尊 (1)
本庄辻は、旧草津街道と中山道から風戸峠を経由してきた榛名道との交点で、そこに宝暦12年(1762年)銘の地蔵尊坐像が鎮座している。竿石は妙義、高崎、榛名方向を示す道標になっている。(後付けのようだが)

本庄辻の地蔵尊 (2)
地蔵尊のお顔は穏やかである。

本庄辻の地蔵尊 (3)
少し高い岩の上に鎮座しており、非常に見えずらい。当時は往来する人々を温かく見守っていたのだろうが、現在はほとんど気がつかれないだろう。我ながら、よく見つけたものだ。

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