Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


藤岡市譲原の文明の板碑。

文明の板碑
板碑は総高約2mで、阿弥陀三尊仏を表す梵字(種子)が刻まれている。室町時代の文明(1469~86年)の銘がある。室町時代のもので、しかも露天にもかかわらず非常に状態が良く、梵字もはっきり読める。

当地の横田一族が一揆により滅んだ際に、生き残った者が供養のため建てたと伝えられている。横田一族の素性は不明。

引きの写真しか撮ってこなかったが、道路端すぐの2mくらいの高さのところにある。金網フェンスと板碑の間は1mもなく、後も畑になっており入るのが憚られたため道路越しの写真しかない。

藤岡市の解説版も道路側を向いており、読めないと思うぞこれは。もう少し考えて欲しい。

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前橋市稲荷新田町の薬師堂。

稲荷新田の薬師様 (1)
稲荷新田の薬師様 (2)
平成4年(1992年)建立の薬師堂内には、多数の石仏が安置されている。千数百体あると言うが、数えたわけではないの分からないが、もうちょっと少ないような気がする。

稲荷新田の薬師様 (3)
この「薬師さま」に願をかけると万病に効くと言われ、周辺地域からも参拝する人が多い。願をかけるときは手を水で濡らし、具合の悪い石仏の部分をなでることから、俗に「濡れ薬師」とも呼ばれる。

伝説では、ある武士が石仏を背負ってここまで来たが、重くなったのでここに留まりたいのだと思い、当地に安置したといわれる。

ただ、石仏は「薬師さま」と呼ばれているが、印相や像容から阿弥陀如来と考えられている。風化と信仰(なでる)による摩耗が激しく判然としないが、特徴から南北朝期のものと推定される。

多数の石仏があるのは、「薬師さま」に願をかけた人々が石工に頼んで造り、奉納したものといわれる。

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前橋市亀里町阿内宿の石幢。

亀里町阿内宿の石幢 (1)
亀里町阿内宿の石幢 (2)
石幢は安山岩製で明応7年(1498年)の銘がある。前橋市内でも、古い時期のものである。

銘文に「時正七分全得逆修善根」とあるので、生前供養のため造立したことが分かる(逆修)。また「七分全得」とは、死者の供養はその福の七分の一を死者が受け、七分の六を供養した者が受けるというが、生前に自分で供養を行えば、七分全部得ることになるという意味。まあ、死者と供養者が同一なのだから、そうだよね。

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前橋市青梨子町の神明山正法寺。

正法寺 (1)
正法寺 (2)
正法寺の由緒は不明。

正法寺 (3)
一石に六地蔵が彫られている。

正法寺 (7)
三体薬師。正法寺の近郷に別々に祀られていた3体の薬師如来を、平成12年(2000年)に移したもの。

正法寺 (4)
文明18年(1486年)銘のある六地蔵石幢。輪廻車の穴があるものとしては前橋市最古である。群馬県内でみても3番目に古い。付いている車は後付けと思う。ちなみに、県内最古は高崎市下滝町・慈眼寺の文明3年(1471年)。

正法寺 (5)
正法寺 (6)
塔身には檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵が配置されている。新しい塔身に地蔵像だけ埋め込む補修をしたのかな?


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多野郡神流町柏木の阿弥陀三尊画像板碑。

阿弥陀三尊画像板碑 (1)
阿弥陀三尊画像板碑 (2)
阿弥陀三尊画像板碑(中央)は、秩父産の緑泥片岩製で総高110cm、最大幅32cm。

阿弥陀三尊画像板碑 (3)
阿弥陀如来、勢至観音(右脇侍)・観音菩薩(左脇侍)の三尊が雲に乗った来迎図を線刻したもの。乾元2年(1303年)の銘がある。

この板碑は昭和初期まで地中に埋まっており、画像が良好な状態で残されている。

画像板碑は県内でも13基(といわれる)しか確認されていない貴重なものである。

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前橋市問屋町の丁間(ちょうけん)稲荷神社。

丁間稲荷神社 (1)
慶長7年(1602年)の総社藩・秋元長朝による天狗岩用水開削の際、丁間台(測量器)を据え測量の起点としたといわれている。

天狗岩用水完成後、水田守護神を祭祀していたが、天保年間(1831~45年)に京都・伏見稲荷を勧請した。

丁間稲荷神社 (2)
丁間稲荷神社 (3)
丁間稲荷神社 (4)
現在の社殿は昭和38年(1963年)の再建。社殿は総社稲荷山古墳上に鎮座している。丁間稲荷神社があるので、稲荷山古墳と呼ばれるようになったのであろう。

丁間稲荷神社 (5)
境内の笠薬師塔婆。総高112cmで県内最古の様式を持つ笠塔婆。塔身4面には釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来が、二重の火炎光背とともに薄肉彫りされている。笠石の様式から、平安末期から鎌倉時代初期の造立と推定される。

道路建設のため、300m北から丁間稲荷神社の境内に移設されている。

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前橋市後閑町の医王山円満寺。

後閑円満寺 (1)
後閑円満寺 (2)
後閑円満寺は貞観3年(861年)慈覚大師の開基と伝わる古刹である。慈覚大師は第3代天台座主で、最澄、空海などとともに八唐八家のひとりに数えられる。

後閑円満寺 (3)
後閑円満寺 (4)
本堂は平成21年(2009年)の改築で、本尊の薬師如来を祀る。本尊の薬師如来像は、檜の寄木造りで円光背を持つ。鎌倉時代の造立と推定される。

後閑円満寺 (5)
後閑円満寺 (6)
境外に「お薬師さま」と呼ばれる三石三尊像がある。現在は境外だが、昔は境内の北境だったという。

「お薬師さま」と呼ばれているが、石造の阿弥陀三尊坐像(阿弥陀如来と観音菩薩・勢至菩薩)。角閃安山岩製で半肉彫りの陽刻。阿弥陀如来像は宝珠形に近い丸みの舟形状の光背を持つ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

なぜ「お薬師さま」と呼ばれているかは知らないが、薬師如来は病気平癒に功徳があるといわれるので、そういう伝聞が広がったから? それとも、単純に見誤ったからか。

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前橋市上大島町の光明山浄土院長福寺。

浄土院 (1)
浄土院は寛永年間(1624~45年)快円法印の開基と伝わるが、享保年間(1716~36年)に焼失したため詳細は不明。

浄土院 (2)
浄土院 (3)
現在の本堂は平成4年(1992年)の建立。

浄土院 (4)
旧本堂の物と思われる瓦が境内にあった。

浄土院 (5)
浄土院と隣接している百番観音堂。浄土院の境内?宝暦年間(1751~64年)以前の創建で、昭和8年(1933年)の再建。上大島町自治会、百番観世音親交会のみなさんが管理している。

浄土院 (6)
浄土院 (7)
堂内には、西国三十三番、秩父三十四番、板東三十三番の計百体の観音様が祀られている。

浄土院 (8)
観音堂前には多数の石仏や供養塔が集められている。右端に写っている白衣観音は、昭和54年(1979年)地元老人会が先人を偲び建立したもの。

浄土院 (9)
阿弥陀三尊石仏。風化が進んでいるが、覆屋を造り保存している。

浄土院 (10)
「戦国時代の作ともいわれる役行者像」と説明碑があったが、薬師三尊像のようにも見える。両脇侍(日光・月光)もいるし。それともオレが像を見間違えた?

浄土院 (11)
二十二夜塔(左)と二十三夜塔。

百番観音堂では、毎月16日に十六日念仏が奉納されるほか、3月15日、7月15日には天道念仏も行われている。

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前橋市公田町の岩舟地蔵。

公田の岩舟地蔵 (1)
岩舟地蔵は嘉永3年(1850年)の建立。当時は覆屋があったようだが、現在は焼失したためない。

公田の岩舟地蔵 (2)
昔、具合の悪い人がお地蔵様が建っているところを通りかかった際、体調が回復するとともに神様の啓示をを受けて、このお地蔵様を建立したといわれる。

台座が舟の形をしていることから、「岩舟地蔵」と呼ばれるようになった。

頭の痛いとき、腹の痛いときなどにお願いして治ったら、頭なら赤い頭巾、腹なら赤い腹巻きを作ってお礼参りをするのが慣わし。イボを治したいときはお地蔵様のその場所を撫で、半紙に包んだ米をお地蔵様の足下に埋めると治るという。

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前橋市小島田町の阿弥陀如来坐像。

小島田の阿弥陀如来像 (1)
阿弥陀如来坐像は円墳(経6m、高さ1.8m)上に造立されている。

小島田の阿弥陀如来像 (2)
高さ62.5cm、幅35.5cmの安山岩製で延徳5年の銘がある。ただ、延徳4年に明応に改元されているので、単純計算で1493年。なぜ延徳5年になっているかなど、経緯は不明。

地元では、なぜか「薬師さま」と呼ばれているらしい。阿弥陀如来像を薬師如来像と見誤っていたのかも。

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前橋市小島田町の供養碑。

小島田の供養碑 (1)
小島田の供養碑 (2)
小島田の供養碑は群馬県最古の板碑で、仁治元年(1240年)の銘がある。橘清重が幼くして亡くなった我が子のために建立。橘清重は京の都から来た役人で、そのまま小島田に土着したらしい。

小島田の供養碑 (3)
高さ125cmで安山岩製。中央上部に浮き出るように阿弥陀如来坐像が彫られている。
阿弥陀如来の右側に観音菩薩を表す種子(サ)、左側には勢至観音を表す種子(サク)が刻まれている。

故人を供養する石造物として板碑と同様の要素をもっており、板碑を含めても群馬県最古である。

ちなみに、群馬県で2番目に古い供養費(板碑)は、甘楽町の仁治3年(1242年)の板碑。ついでに、3番目は富岡市の仁治4年(1243年)の板碑である。

関連
 「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
 「富岡市最古の板碑 -仁治の碑-

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前橋市江木町の宝塔。

江木の宝塔 (1)
江木の宝塔は安山岩製で総高約2m。塔身の下部に小さな欠損が見られるが、ほぼ完全な形をとどめている。紀年名は刻まれてなが、室町時代(前半)の造立と推定される。

江木の宝塔 (2)
塔身は底部が狭く、全体としてお椀型に近い形をしている。笠(屋蓋)は上側の反りに対して、下側の反りが浅くなっている。

宝塔はもともと江木町字大日から移されたという。ここは江戸末期まで西方寺というお寺だったようだ(元治元年:1864年に焼失)。

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前橋市馬場町の稲荷神社。

馬場稲荷神社 (1)
馬場稲荷神社の由緒は不明。

馬場稲荷神社 (2)
馬場稲荷神社 (3)
馬場稲荷神社 (4)
一の鳥居の扁額には「稲荷大明神」「雷電王」「山神十羅刹」、二の鳥居には「天王宮」。天王宮は後から合祀されたときに、元の鳥居を持ってきたのだろう。

馬場稲荷神社 (5)
馬場稲荷神社 (6)
馬場稲荷神社 (7)
拝殿と本殿。

馬場稲荷神社 (8)
鳥居の東側にある「あ・うん石仏」。2体で「阿形」「吽形」を表している。風化が進んでいるのとコケが覆っており分かりずらいが、向かって右が阿形、左が吽形と思われる。

馬場稲荷神社 (9)
馬場稲荷神社 (13)
馬頭観音。三面六臂で表情は憤怒相で表されている。手には剣や蓮華などを持ち、胸の前で印を結んでいる。台座に寛延4年(1751年)の銘がある。

馬場稲荷神社 (10)
馬頭観音の台座の脇にも馬頭観音がある。こちらは一面二臂。

馬場稲荷神社 (11)
馬場稲荷神社 (12)
お堂の中にはお地蔵さんなど、いくつかの石仏が納められている。前橋市の文化財に指定されているあ・うん石仏は露座なのに。どういうお地蔵さんなのだろう?

馬場稲荷神社の境内東側には多くの石仏・石像があるが、東隣にはかつて(江戸期)観音寺というお寺があったとのことなので、その名残かもしれない。


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高崎市小八木町の慈雲山妙典寺。

妙典寺 (1)
妙典寺 (2)
妙典寺 (3)
妙典寺の由緒は不明。

妙典寺 (4)
墓地の北側に鎌倉時代中期頃の板碑と五輪塔がある。

妙典寺 (5)
板碑は高さ215cm、最大幅58cm、厚さ9cmで緑泥片岩製。阿弥陀三尊を表す3個の梵字(種子)が薬研で彫られ、康元2年(1257年)の銘がある。高崎市に現存する板碑では最大にして最古である。

妙典寺 (6)
板碑の隣にある五輪塔は凝灰岩製で、板碑と同年代の造立と推定されるが、紀年銘が見られず不明。

ちなみに、高崎市で銘が残る最古の五輪塔は阿久津町・玄頂寺の康永2年(1343年)銘である。(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)

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高崎市吉井町馬庭の薬師堂。

馬庭の薬師堂 (1)
吉井高のすぐ北側に薬師堂があり、その堂内に3体の石仏が安置されている。3体とも坐像で牛伏砂岩製。

馬庭の薬師堂 (2)
写真左が薬師如来坐像。左手に薬壷を持ち、光背は桃形である。厚肉彫りで肩の張りは大きく、膝は張りが少ない。

中央は阿弥陀如来座像。阿弥陀定印を結び、頭部はやや猪首状である。通肩厚肉彫りで肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高99.5cm。

右は地蔵菩薩坐像。秘印を結び、光背は舟形、頭部はやや猪首状、通肩厚肉彫りで、肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高86.5cm。

3体とも砂岩製なので、風化が進んでいる。お堂ができる前は露座であったためであろう。

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高崎市上大島町の笠塔婆。

安養寺跡の笠塔婆 (1)
安養寺跡の笠塔婆 (2)
この笠塔婆は、高さ94cm、幅34cm、厚さ29cmの安山岩製。正面下部に文永元年(1264年)の銘がある。群馬県内最古の笠塔婆である。

安養寺跡の笠塔婆 (3)
正面に阿弥陀如来像半陽刻されている。実は左右の側面にも不動明王像、毘沙門天像が線刻されていたのだが、見落としていた。

安養寺跡の笠塔婆 (4)
ここは安養寺というお寺だったらしいが、現在は上大島町の公民館になっている。

安養寺跡の笠塔婆 (5)
安養寺跡の笠塔婆 (6)
笠塔婆の横には石塔群、公民館脇には六地蔵が残されており、寺跡であることを偲ばせる。ただ六地蔵は相当新しそうだが。

公民館の西(?)の民家庭先にも石塔が数基見えたので(もちろん入っていない)、安養寺もそれなりに大きかったと思われる。

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高崎市上里見町本庄の地蔵尊坐像。

本庄辻の地蔵尊 (1)
本庄辻は、旧草津街道と中山道から風戸峠を経由してきた榛名道との交点で、そこに宝暦12年(1762年)銘の地蔵尊坐像が鎮座している。竿石は妙義、高崎、榛名方向を示す道標になっている。(後付けのようだが)

本庄辻の地蔵尊 (2)
地蔵尊のお顔は穏やかである。

本庄辻の地蔵尊 (3)
少し高い岩の上に鎮座しており、非常に見えずらい。当時は往来する人々を温かく見守っていたのだろうが、現在はほとんど気がつかれないだろう。我ながら、よく見つけたものだ。

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安中市松井田町五料の夜泣き地蔵。

夜泣き地蔵 (1)
旧中山道沿いに建っているお地蔵さん。このお地蔵さんには逸話があり、夜泣き地蔵と呼ばれている。(写真1番右)

ある日、荷を運んでいた馬子が荷物のバランスを取るため、落ちていたお地蔵さんの首を荷に積み、深谷(埼玉県)まで行ったところで首を捨ててしまった。すると、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるようになったので、首を五料まで戻してお地蔵さんに乗せたという。

この物語は「日本昔話」で「五料の地蔵さん」として放送されている。その際は、首だけ持っていったのではなく、お地蔵さんそのものを持っていったことになっている。主に子どもが観る番組なので、首というのはダイレクトすぎるので配慮したってことだね。

夜泣き地蔵 (2)
夜泣き地蔵 (3)
夜泣き地蔵の足下には、とれた首が置かれている。これが持っていかれた首なのか不明(お地蔵さんに首はあるので)だが、ちょっと怖い光景である。

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邑楽郡板倉町籾谷の光応山安勝寺。

安勝寺 (1)
安勝寺は昭和27年(1952年)に、光明山安楽寺と正応山最勝寺が合併してできた寺。

安楽寺は正長元年(1428年)僧・光尊の創建。最勝寺は承応年間(1652~54年)僧・光研の創建。

歴代住職の墓地にあった過去碑には、光尊が初代(開基)と記されていたので、寺名は安勝寺になっているが安楽寺の寺歴を引き継いでいるらしい。

安勝寺 (2)
安勝寺 (3)
安楽寺は慶応元年(1865年)に火災により堂宇を焼失。火災後、無住となっていた最勝寺の本堂と阿弥陀堂を安楽寺の境内に移築している。

安勝寺 (4)
安勝寺 (5)
最勝寺から移築された阿弥陀堂と阿弥陀如来木像。阿弥陀如来木像は寄木造りで、鎌倉から南北朝初期のものと推定される。群馬県内では数少ない「清涼寺式阿弥陀如来像」である。

「清涼寺式阿弥陀如来像」とは、髪の毛を縄を巻いたように表している如来像を一般的に言う。(何とか撮った写真では、まったく判別できない・・・)

安勝寺 (6)
安勝寺 (7)
梵鐘は宝暦4年(1754年)佐野の大河太郎兵衛と崎山五左衛門の鋳造。高さ99cm、口径76cmで、光明真言と仏具紋様が刻まれている。この仏具紋様の美術的価値が認められ、戦時中の供出を免れている。

安勝寺 (8)
安勝寺 (9)
安勝寺 (10)
通称「亀の子様」と呼ばれる金亀宝篋印塔。亀の上に宝篋印塔が乗せられている形になっている。

謂われは、寛文11年(1671年)に籾谷村の旱沼に光り輝く石亀が現れたたため、村人は八角形の大石で動けないようにした。その後、宝暦7年(1757年)の大雨の際に金色の光りを放ち石亀が再び動き出したため、光明真言を刻んだ宝篋印塔を石亀の上に置き、2度と動き出さないようにしたもの。

「亀の子様」にお祈りすると、百日咳に良く効くといわれている。

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邑楽郡板倉町大曲の石水山淨蓮院。

淨蓮院 (1)
淨蓮院の創建は不詳だが、開山の周應上人の位牌に寛永19年(1642年)とあるため、江戸初期と推定される。

淨蓮院 (2)
現在の本堂は昭和11年(1936年)の改築。

淨蓮院 (3)
境内の大日堂は、伝承によると日光東照宮建立に携わっていた宮大工が手がけたものとされている。大日如来像や不動明王像が安置されているらしいが、中は見えなかった。

淨蓮院 (4)
大日堂前には板碑や石仏が並んでいる。後からここに集めたんだと思う。

淨蓮院 (5)
十王十仏板碑。嘉暦元年(1326年)の銘がある。蓮台の上に不動明王、観音菩薩などの十仏の種子が刻まれている。群馬県内で最古の十王十仏板碑といわれる。

淨蓮院 (6)
猿田彦命と天細女命(あめのうずめのみこと)の双体道祖神。両尊が銚子と盃を手にしている祝言像で、寛延2年(1749年)の銘がある。館林・邑楽地区に双体道祖神は少なく、板倉町では唯一のもの。

ちなみに、天細女命は天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、岩戸前で少しエロティックな踊りを踊った女神。一説に、猿田彦命と夫婦になったともいわれている。これが2神の祝言像になっているようだ。

淨蓮院 (7)
大日堂が少し高いところにあるが、その横に滑り台らしきものがあった。昔から子供たちの遊び場だったんだろうね。(訪問当日は誰もいなかったけど)

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邑楽郡千代田町舞木の大林寺。

大林寺 (1)
大林寺 (2)
大林寺の由緒は不明。

大林寺 (3)
境内にある板碑。南北朝初期の建武5年(1338年)の銘がある。緑泥片岩製で、高さ107cm、幅32cm、厚さ4cm。阿弥陀如来の下に観音菩薩・勢至菩薩を種子で刻む阿弥陀三尊種子板碑である。

足利のすぐ近所で南朝の年号が記されているのが面白い。建武5年は新田義貞が討死した年なので、まだ渡良瀬川西岸・南岸は新田氏の強い勢力圏であったことが分かる。まあ、当然か。

ちなみに当時(から数年後には)、富岡・甘楽では既に北朝の影響下にあったことが諸々の遺構で分かっている。

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邑楽郡千代田町赤岩の弘安の板碑。

弘安の板碑 (1)
弘安の板碑 (2)
当所には光恩寺の僧・弘順が創建した弘永寺があったが、明治初期に廃寺となっている。観音堂のみ残り、平成28年(2016年)に修築されている。

弘安の板碑 (3)
青面金剛像(左)、二十三夜塔(中)、出羽三山碑(右)などがあり、往事を偲ばせる。

弘安の板碑 (4)
鎌倉時代の弘安6年(1283年)銘の板碑。緑泥片岩製で、高さ72cm、幅26cm、厚さ3cm。蓮座の上に種子の阿弥陀如来が刻まれている。

千代田町に現存する板碑の中でも古い時代のもので、当地の歴史を知るうえで貴重である。

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北群馬郡榛東村山子田の御堀地蔵堂の板碑。

御堀地蔵堂の板碑 (1)
地蔵堂は延命地蔵を祀る。戦国期に現在地に移されたと伝えられている。

御堀地蔵堂の板碑 (2)
堂内に延命地蔵が見られなかったが、厨子らしきものが見えたので、その中にあるのかもしれない。

御堀地蔵堂の板碑 (3)
堂内に置かれている板碑は高さ68cm、最大幅38cm、厚さ3cmの緑泥片岩製で、「逆修 応永5年(1398年)」の銘がある。逆修とは、一般的に生前に予め死後の冥福を祈って仏事を行うこと。

地蔵堂の境内は湯浅一族の墓所で、立派な宝篋印塔などが多数建っている。湯浅家は当地を治めていた名士で、戦国期に武田氏からの領地安堵状が出され、現存しているという。

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甘楽郡下仁田町下仁田の安養山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺は、鎌倉時代の有力御家人・畠山重忠の弟である重俊が、兄の菩提を弔うために開山した。重忠の没年は元久2年(1205年)なので、この辺りの創建と思われる。

清泉寺 (2)
山門の天井絵。

清泉寺 (3)
清泉寺 (4)
現在の本堂は文政11年(1828年)の再建。

清泉寺 (5)
清泉寺 (6)
梵鐘は安永9年(1780年)、地元の鋳物師・太田長左衛門尉藤原順本によって鋳造された。高さ142.5cm、口径75cm。寺の概略と畠山家先祖の追福のために鋳造された旨、銘文が刻まれている。

鋳物師名として「太田長左衛門尉藤原順本」と下仁田町のHPに書かれているのでそのまま書いたが、これはどう解釈すればいいの?左衛門尉って官名(後世は受領名が多い)だと思うが・・・。それとも太田長左衛門と藤原順本の2人?

清泉寺 (7)
清泉寺 (8)
墓地にある宝篋印塔。この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇をかたどった軸部と中台を置く形式のもの。富岡・甘楽地域では唯一の須弥壇式宝篋印塔である。造立は明徳2年(1391年)で、下仁田町では最古の宝篋印塔。

ちなみに、明徳は北朝の年号。明徳2年は南朝では元中8年。富岡・甘楽地区に残る石塔は、そのほとんどが北朝の年号を用いている。この地区が北朝側の影響下にあった証拠である。

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北群馬郡榛東村広馬場の医王山宮昌寺。

宮昌寺 (1)
宮昌寺は伝教大師(最澄)創建の船尾山坊のひとつ。養和元年(1181年)に千葉(平)常将により船尾山系が焼失した際、薬師如来がここの池に飛来したので、寺を建て祀ったのが始まりという。

関連
 「空から飛来した観音様 -矢落観音-
 「五重塔がある! -柳沢寺-
 「平(千葉)常将を祀る -常将神社-

当初は天台宗・真珠山医王寺といい、薬師信仰霊場として栄えたが、戦国期に荒廃。文禄2年(1593年)井伊直政が寺を再興。その後、寛永8年(1631年)に曹洞宗に改宗した際に、宮昌寺と改称している。

宮昌寺 (2)
門前にある「道元禅師と老典座の出会い」像。道元とは曹洞宗の開祖、典座は食事を作る係(僧)。

道元 「如何ぞ行者、人を使はざる」
    (なぜ若い者を使わないのか)
典座 「他は是れ吾にあらず」
    (自分が与えられた仕事を他人に任せては、自分の修行にならない)
道元 「天日且つ恁のごとく熱し、如何ぞ恁地にする」
    (炎天下でなぜそれほどなさるのか)
典座 「更に何れの時をか待たん」
    (今を外して一体いずれの時を待つのか)

中国で修行中の若き道元が、老典座の自己に対する厳しい修行態度に深く感銘を受けたという逸話(だそうだ)。

宮昌寺 (3)
宮昌寺 (4)
宮昌寺 (5)
宮昌寺 (6)
楼門(仁王門)は平成17年(2005年)の建立。

宮昌寺 (7)
通用門との表示があったが、旧山門かな。

宮昌寺 (8)
宮昌寺 (9)
本尊の釈迦如来を祀る。寺歴からすると薬師如来が本尊のような気もするが、戦国期荒廃した際寺宝は散逸したとされている。ちなみに、飛来した薬師如来像は行基作といわれる。

宮昌寺 (10)
本堂脇に六角堂がある。位牌堂と思われる。

宮昌寺 (11)
境内にある「穴薬師」。室町から江戸にかけての像立といわれる(時期が広いな)。丘の中腹にある洞穴内に祀られていたが、昭和57年(1982年)に境内に遷された。

ところで、道元の典座教訓像見て、仏教に詳しい訳ではないが「更に何れの時をか待たん」は真理だと思った。

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富岡市下高尾の仁治の碑。

仁治の碑 (1)
仁治の碑は高さ276cm、最大幅96cmの緑泥片岩製。仁治4年(1243年)の銘がある。富岡市最古の板碑で、県内でも3番目に古い。

仁治の碑 (2)
上部に五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)と薬師如来を表す梵字が刻まれている。天台密教系の信仰に基づいている。

造立者として、「壬生・六人部(むとべ)・小野・藤原・春日・物部・大宅・安部」など20数人の名前が列記されている。これらの人物は当時の有力者と考えられ、当地の歴史を知るうえでも貴重な資料となっている。

甘楽町にある「仁治3年の板碑」と基本的に同一構成だが、こちらは県の重文指定。甘楽町は1年古いが、風化が進んでいるためか、甘楽町の重文とまり。
(「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-」参照)

ちなみに、群馬県内の板碑では、前橋市・小島田の供養碑が仁治元年(1240年)で1番古い。甘楽町の仁治3年、この仁治4年と続く。

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甘楽郡甘楽町小川の仁治の板碑。

仁治の板碑 (1)
仁治に板碑は、高さ348cm、幅83cm、厚さ9cmの緑泥片岩製で、仁治3年(1242年)の銘がある。甘楽町最古の板碑である。群馬県内でも2番目に古い。

ちなみに、甘楽町で2番目に古い板碑は、養学寺跡にある建長3年(1251年)銘の板碑。(「甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-」参照)

仁治の板碑 (2)
金剛界五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)を表す梵字が刻まれている。碑文から集団・結衆(仏と縁を結ぶ)によって建てられた碑と言える。

しかし風化が進んでおり、ほぼ判読できない。どうやら長い間、付近を通る鎌倉街道の石橋にされていた影響が大きいようだ。

貴重な板碑と認められ、現在地へ移転されたのは明治14年(1881年)になってからである。

なお、富岡市下高尾に「仁治の碑」(仁治4年:1243年)と呼ばれる五智如来と薬師如来を表す梵字を刻んだ板碑があるが、別の板碑なのでお間違えないように。
ちなみに、富岡市の「仁治の碑」は状態も良く(梵字も判読できる)、群馬県の重文になっている。まだ行ってないので、そのうちにでも。

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甘楽郡甘楽町秋畑の建長の板碑。

建長の板碑 (1)
板碑は養学寺(廃寺)跡にあり、高さ302cm、幅43cm、厚さ12~14cm。結晶片岩製で建長3年(1251年)の銘がある。甘楽町では2番目に古く、群馬県内でも4番目に古い板碑である。

建長の板碑 (2)
碑の上部に胎蔵界大日如来を示す梵字を刻む。碑文は亡くなった母親のために、5人の子供が大日如来を祀って供養する旨が書かれている。

平成5年(1993年)に当碑を10mばかり移動した際、元は別の場所に建っていたものを移し、建て直していることが分かったという。

建長の板碑 (4)
建長の板碑 (5)
付近には他の板碑やその残骸が残っており、この辺では古くから板碑での供養が行われていたことを示している。

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甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

城町薬師堂の石仏 (1)
織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の信仰を集めていた。ここは下薬師。高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されている。

城町薬師堂の石仏 (2)
向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。この石仏は上薬師から遷されたといわれている。

中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。(これは重文ではない)

左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。頭部が欠損しているうえ風化が激しい。

薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置からこの3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ19cm、頭部が欠損してしまっている。

今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気もする・・・。

言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち着いて見てられなかったんだよね。

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甘楽郡甘楽町上野の医王山今宮寺。

今宮寺 (1)
今宮寺 (2)
今宮寺 (3)
今宮寺の由緒は不明。

今宮寺 (4)
今宮寺 (5)
天引石に彫られた阿弥陀三尊石仏。
主尊・阿弥陀如来(中央)、脇侍・観音菩薩(向かって右)、勢至菩薩(同左)を配している。高さ67cm、幅65cm、厚さ20cm。

天引石は砂岩のため、三尊仏はかなり風化が進んでいる。

今宮寺 (6)
三尊仏とともに覆屋内には2基の板碑があった。詳細は不明。

今宮寺 (7)
今宮寺 (8)
境内にある今宮寺稲荷。
立派な石祠は昭和54年(1979年)の再建。由緒碑らしきものがあったが、ほとんど判読できず・・・。わずかに読めたのは、「今宮寺稲荷の創建は不詳なり」。

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