Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: みどり市


みどり市東町座間の童謡ふるさと館。

童謡ふるさと館 (1)
童謡ふるさと館 (2)
童謡ふるさと館は平成元年(1989年)に、童謡「うさぎとかめ」などの作詞者「石原和三郎」の顕彰と文化振興を目的として開館した。

童謡ふるさと館 (3)
童謡ふるさと館 (4)
童謡ふるさと館 (5)
「うさぎとかめ」「はなさかじじい」「金太郎」「大黒様」など、数多くの童謡を作詞した、東町花輪(旧勢多郡東村)出身の石原和三郎の写真や略歴、自筆原稿等の資料の他、童謡のパネル展示がある。

童謡ふるさと館 (6)
童謡ふるさと館 (7)
平成18年(2006年)からは、木のぬくもりを感じさせる「うさぎとかめ」のからくりおもちゃも展示している。

石原和三郎(1865年~1922年)は、旧勢多郡東村の名誉村民。群馬県尋常師範学校(現、群馬大教育学部)で学び、花輪小へ教員として赴任し、後に校長も務めている。

もうちょっと色んなものがあるのかと思っていたけど、残念ながらたいしたものはなかった。子どもはもちろん大人も楽しめます、ってことになってるけど・・・・・。

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みどり市東町花輪の今泉嘉一郎の生家。

今泉嘉一郎
今泉嘉一郎は慶応3年(1867年)東村花輪に生まれた。その後明治45年(1912年)に、友人だった白石元治郎とともに、初の民間製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEグループ)を設立した。

衆議院議員や日刊工業新聞社長などを歴任し、日本の製鋼、鋼管技術の育成、発展に尽力、昭和16年(1941年)に亡くなっている。

今泉嘉一郎の生家 (1)
今泉嘉一郎の生家 (2)
今泉嘉一郎の生家 (3)
門構えは腕木門と称される造りで、屋根面にむくりをつけた「起り破風」を持ち、門と一体をなす屋根塀と異なる意匠となっている。

今泉嘉一郎の生家 (4)
今泉嘉一郎の生家 (5)
主屋は、江戸時代末期に建てられたと考えられ、木造2階一部平屋建で、背面屋根を葺き下ろしている。嘉一郎の母・常子は当時では珍しい女医で、ここで医院を営んでいた。

嘉一郎は花輪小学校校舎の改築や、旧東村への電気の敷設に多額の寄付を寄せるなど郷土への思いも強く、現在も地元の人々の敬愛を集めている。

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みどり市東町花輪の旧花輪小学校記念館。

最初に書いておくが、タイトルの今泉嘉一郎は、日本鋼管創業者のひとり。現在日本鋼管は川崎製鉄と合併し、JFEスチールグループ。

旧花輪小記念館 (1)
旧花輪小記念館 (3)
旧花輪小学校は、明治6年(1873年)5月の開校。現在の木造校舎は、卒業生でもある今泉嘉一郎の寄付により建てられた。昭和6年(1931年)の建設で、外部の建具がアルミサッシに取り替えられた他は、建築当初の姿をそのまま留めている。

旧花輪小記念館 (4)
旧花輪小記念館 (5)
4間×5間の教室と北側片廊下の形式は、明治後半から昭和初期にかけて作られた典型的な木造校舎と言える。特に、屋根上に設置された換気口は県内では他に例がなく、デザイン的にも優れている。

平成13年(2001年)3月に小学校の統廃合により廃校となったが、地元の努力により、平成15年(2003年)旧花輪小学校記念館となった。

旧花輪小記念館 (6)
旧花輪小記念館 (7)
今泉嘉一郎の立派な銅像と展示パネル。ゆかりの品や功績の数々など、さまざまな資料が展示されている。

旧花輪小記念館 (8)
卒業生には今泉嘉一郎の他に、童謡「うさぎとかめ」の作詞をし、童謡の父と称される石原和三郎がいる。和三郎は後に花輪小の校長も務めている。

2人とも旧勢多郡東村の名誉村民である。

歳がばれるけど、オレも小学校6年間、ずぅ~っと木造校舎だった。オレの学校も、こんな感じだったと思う。

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みどり市大間々町塩原の貴船(きぶね)神社。

貴船神社 (1)
貴船神社 (2)
天暦10年(956年)、東国が干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)が、降雨と五穀豊穣をもたらしてくれた。そのため、この地に祀られたという。現在地に建立されたのは、寛文8年(1668年)といわれている。

高龗神は水の神とされてるが、雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められている。

貴船神社 (3)
貴船神社 (4)
現在の社殿は昭和46年(1971年)に建立されたもの。本殿の写真を撮ろうとすると、どうしても隣の建屋がジャマになる。お守りとか売っている建屋なんだけど・・・。

おみくじがあったので引いてみた(300円)。ところが、開いてみると何も書いてない。なんだよぉ~っ!、って思ったんだけど、よくよく見ると水に浸けると浮き出てくるという。

ということで、手水舎で水に浸けてみた。おぉ~っ、出てきた出てきた。「小吉」だったんだけど、内容はあんまり良いことは書かれてなかった。

これは、水おみくじと言うらしい。

写真に撮ってくればよかった・・・・・。(水おみくじは、境内の木の枝に結んできた。)

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みどり市大間々町上神梅の角地蔵。

深沢の角地蔵 (1)
天正7年(1579年)、太田金山城主・由良国繁と黒川谷深沢城主・阿久沢能登守や沢入城・松島式部小輔古柏らが合戦となり、その時の戦死者を葬った所を千人塚または桐生塚と呼んでいた。

深沢の角地蔵 (2)
その後、宝暦2年(1752年)に正円寺・盈仙和尚が、石工を招き仏像を彫らせたが、不思議なことばかり起こるので、石工が逃げ出したという。そのため、頭部が未完成で四角に残ったので、「角地蔵」と呼ばれている。

このことについて、天明2年(1782年)高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりという」と書いてある。
(高山彦九郎に関しては、「勤皇の先駆者 -高山彦九郎記念館-」参照。)

地元の人は寸法ちがいで出来ず、「間違い地蔵」と呼んでいる。

深沢の角地蔵 (3)
地蔵堂の脇には、不動明王(左)が鎮座していた。

やっぱり、四角い頭のお地蔵さんには、違和感があるね。

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みどり市大間々町塩原の穴原薬師堂。

穴原薬師堂 (1)
薬師堂の建立は定かでないが、明治頃の古書には、大同年間(806年~809年)弘法大師作という如来像があったという。

穴原薬師堂 (2)
穴原薬師堂 (3)
山門は建築上の特徴等から、寛政4年(1792年)頃に竣工したものと推察され、大間々町に現存する唯一の楼門遺構でもある。山門楼上には16羅漢の木像が安置されているらしい。

穴原薬師堂 (4)
穴原薬師堂 (5)
薬師堂は享保15年(1730年)の建立で、二間四方の宝形造り、金属板葺き(元萱葺)である。内部には薬師如来を中心に、左右に日光・月光菩薩があり、後ろに12神将と呼ぶ眷族が配されている。

穴原薬師堂 (6)
薬師堂脇にあった石仏。馬鳴(めみょう)菩薩というらしい。貧窮の衆生に衣服を与える菩薩として祀られる養蚕機織の仏。

それにしても、立派な山門(楼門)である。

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みどり市大間々町小平茂木の小平の大杉。

小平の大杉 (1)
小平の大杉 (2)
枝の年輪は300を超えるものもあり、それから推察して樹齢約1,000年を経ているものと考えられる。

小平の大杉 (3)
小平の大杉 (4)
根元周囲7.8m、目通り周囲6.9m、樹高45mを誇る。地元では霊木として崇め、大切にされている。

前回の岩穴観音からの帰りに見つけたんだけど、幹の太さに思わず車を停めて見学。あんまり車が通るような場所ではないので、そんなに時代のダメージ(環境汚染、振動など)受けているようには見えなかった。

まさに、霊木といえる立派さ!!

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みどり市大間々町小平狸原の岩穴観音。

岩穴観音 (1)

岩穴観音 (2)
楠木正成の愛馬の供養のために祀ったのが始まり、といわれるが伝説の域を出ない。

岩穴観音 (3)
岩穴観音 (4)
山門から急な石段を登ると小平地があり、前殿(?)なのか囲いがある。

岩穴観音 (5)
岩穴観音 (6)
岩穴は奥行き約30尺(9.1m)・高さ約10尺(3m)の自然洞窟で、その奥に石仏が二体安置してある。この本尊は観音様と呼ばれているが、実際に安置されているのは、室町期の地蔵菩薩坐像(凝灰岩)と、戦国期の阿弥陀如来坐像(砂岩質)であり、像種が異なっている。

岩穴観音は馬の神様として広く知られ、盛んな時には日に何百頭もの馬が飼い主に連れられ参詣にきたという。

小平鍾乳洞や野口水車保存館の前の道をひたすら奥へ。大間々の1番奥なのか(?)、だんだん道が狭くなってきて(車がすれ違えないくらい)心細かった・・・・・。

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みどり市大間々町浅原馬場の庚申塔および大日如来像。

大日如来像と庚申塚 (1)
大日如来像と庚申塚 (2)
「庚申塔」と通称されている石造物は、重制石幢の一種で輪廻車孔付きである。元亀4年(1573年)に朝原村の弥左衛門以下47人の村人が、庚申供養のために造立したものといわれる。元亀4年の造立は、北関東では最も古い部類に入る。

大日如来像と庚申塚 (3)
中央の大日如来像は、寛永6年(1629年)に造立され、智拳印を結んで
いる。鏡海上人という僧を中心に、当時の朝原村の農民たちが、村が末永く繁栄することを願って造立したものといわれている。

庚申塔と大日如来像は、別個の目的で造立されたものが、後にあたかも一組で作られたかのようにまとめられた。

大日如来像と庚申塚 (4)
向かって左側にも、多数の石仏群があった。

通りかかった地元のおばあちゃん(見た目80歳くらい)は、時の殿様が持ってこられたもの、と言っていた。戦国期この辺は阿久沢能登守直崇が弟・左馬助に治めさせていた、と案内板に書いてあったけど、よく分かんないです。

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みどり市笠懸町阿左美の鳳陽山国瑞寺。
ここには岡登用水で有名な、岡登次郎兵衛景能(かげよし)の墓がある。

国瑞寺 (2)
国瑞寺は延宝元年(1673年)独湛禅師の開山、岡登景能の開基。

開山の独湛は黄檗宗開祖・隠元の高弟。中国(明国)出身。景能が黄檗宗・鉄牛禅師と親交があったため、独湛を招請したようだ。

国瑞寺 (3)
本堂は昭和10年(1935年)の建立。

国瑞寺 (4)
岡登景能の墓。
景能は寛文元年(1661年)に代官になり、さらに足尾銅山奉行もつとめ、産出銅を運搬する銅山街道を整備し、中心の宿として大原宿を設置。それと並行して渡良瀬川から岡登用水を開削して宿用水とし、笠懸野の開発を行った。

寛文12年(1672年)、10年以上の年月をかけて完成した岡登用水は長さ24kmに達し、旧笠懸町、旧薮塚本町、旧新田町、旧赤堀町、旧勢多東村などの7ヶ町村にて、農作が可能となった。

その善政は住民から慕われていたが、余りの名声にこれを妬む者の讒言により、貞享4年(1687年)自刃している。

岡登景能は、岡上景能が正しいらしい。景能死後(自刃)、末裔が岡登を名乗ったため、岡上景能も岡登景能と書かれるようになった。

岡登景能関連記事
 「岡登景能の勧進 -神明宮-
 「岡登景能を祀る -岡登霊神社-

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みどり市大間々町桐原の桐原郷蔵。

桐原郷蔵 (1)
桐原郷蔵 (2)
郷蔵は江戸時代、年貢を一時的に貯蔵するために造られたもので、桐原村の郷蔵は、弘化4年(1847年)に建造されたものである。

寛政2年(1790年)に幕府から貯穀令が出され、村々には郷蔵を建てるように命じられた。しかし、桐原村の場合資金不足のため、すぐには建設できなかった。そのため、民家の蔵を借りて代用していたという。

弘化3年(1846年)に、長年の懸案事項であった郷蔵建設が本格化し、村の入会地であった手振山の立木や葛根を売り払い、資金13両で建設された。それ以来、明治初期まで郷蔵として使用されてきた。

桐原郷蔵 (3)
建設当初は板葺きであったが、数度の改修を経て現在は鉄板瓦葺きとなっている。

関係する古文書も豊富にあり、その経緯等を知ることができる。史料の概要は、近世中期以降の典型的な村方文書群といえる。

郷蔵訪問は、前橋の上泉郷蔵に続き2例目である。
(「江戸時代の年貢貯蔵庫 -上泉郷蔵-」参照)

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みどり市大間々町小平の小平鍾乳洞。

小平鍾乳洞 (1)
明治7年(1874年)に発見され、160文の入洞料で一般公開されていたが、その後10年位で入り口が埋まってしまい、昭和59年(1984年)に入り口が発掘されるまで、伝説と化していた鍾乳洞。

鍾乳洞があったという言い伝えだけが残っていたが、「岩屋参詣人名記」や「岩穴くどき」など、鍾乳洞の存在を裏づける古文書が見つかったことから、再発見に至る。

小平鍾乳洞 (2)
全長93mと小規模ながらも、変化に富んだ鍾乳石が見られる。

小平鍾乳洞 (3)
小平鍾乳洞 (4)
小平鍾乳洞 (5)
小平鍾乳洞 (6)
小平鍾乳洞 (7)
洞穴の内側はススなどの汚れもなく、非常に美しい状態を保っている。他にあまり例を見ないボックスワーク、重力の法則に反して曲がったストローなどの貴重な二次生成物があり、学術的にも重要な鍾乳洞と言われている。

小平鍾乳洞 (8)
前を歩いていたおばさん(失礼!)が、突然「きゃーっ!気持ち悪い!」なんて叫ぶもんだから、何があるのかと思ったら・・・、ネットにコウモリがとまっていた。

学術的には貴重なものが多いみたいだけど、93mってのちょっと短いね。あっと言う間に出口でした。

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みどり市大間々町小平の野口水車保存館。

野口水車保存館 (1)
屋内型最大級の「野口水車」が保存されている。

野口水車保存館 (2)
野口水車保存館 (3)
野口水車保存館 (4)
この水車は、明治43年(1910年)に材木商・野口金太郎氏が建造し、昭和30年(1955年)頃まで約45年間、精米の動力として稼働していた。

平成2年(1990年)に、水車一式が野口家から旧大間々町に寄贈され、修理・修復し平成4年(1992年)保存館に移設された。

水輪の直径3間(5.64m)、幅2尺6寸(0.8m)、羽根板50枚、搗臼(つきうす)16個(石)、挽臼(ひきうす)1個(台)。

野口水車保存館 (5)
野口水車保存館 (6)
杵は毎分48回往復する。精米まで約48時間かかると聞いた。この日も16個ある搗臼のうち、1個だけだが精米を行っていた。  管理人さん曰く、「需要がないんで・・・。」

優雅に回る水車の回転は、なんとなく心が和む。また、歯車のかみ合わせ、杵を持ち上げる仕組み(木組み)など、オレは見ていて飽きなかった。ただ、水車の回転をずっと見ていると目が回る。

野口水車保存館 (7)
野口水車保存館 (8)
野口水車保存館に隣接して「屋外型・上掛水車」があった。

ところで、オレも最初間違っていたんだけど、「野口、水車保存館」ではなく、「野口水車、保存館」。

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みどり市大間々町高津戸青木の山田氏および里見兄弟の墓。

里見兄弟の墓 (1)
高津戸峡の東側に、標高約270mの要害山がある。そこに平安末の寛治2年(1088年)、山田七郎平吉之が高津戸城を築いた。しかし、山田氏は室町時代初めの観応2年(1351年)、桐生国綱によって滅ぼされたといわれている。

その後、天正5年(1577年)里見勝政、勝安兄弟が、桐生氏に謀殺(形の上は自害)された父の仇を討つため、上杉謙信の支援を受けて高津戸城を再興し立て籠もった。

しかし、北条を後ろ盾とする太田金山城の由良氏の怒りを買い、宿願を果たせぬまま、兄弟は壮烈な最期を遂げている。天正6年(1578年)のこと。

里見兄弟の墓 (2)
里見兄弟の墓 (3)
道端の阿弥陀堂脇には、30数基分の五輪塔があり、山田氏や里見勢(里見兄弟含む)の墓といわれている。

里見兄弟の墓 (4)
里見兄弟の墓 (5)
里見兄弟の墓 (6)
里見兄弟の墓と称される五輪塔は、凝灰岩製であり形式的には鎌倉時代から南北朝時代にかけてのもので、時代が一致しない。また、勝政、勝安兄弟が、里見氏の系譜に見られないことなどから、里見兄弟にまつわる史話は、伝承の域を出ないとされている。

でも、こういう伝承が残っているのは、これに類似した事実があったからだと個人的には考えている。まるっきりオリジナルの戦記もの作るのは、けっこう大変だと思うからさ。

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みどり市大間々町高津戸の高津戸峡。

足尾山地から流れ出る渡良瀬川の中流に位置する。吾妻峡とともに「関東の耶馬渓」と称される。(吾妻峡は、上毛かるた紀行「耶馬溪しのぐ吾妻峡」参照。)

高津戸峡 (1)
高津戸峡 (2)
高津戸峡にかかる「はねたき橋」は、歩行者専用橋で、全長120m、全幅3.5m。その名は「水が飛散する様が滝のように見える」ことに由来する。はねたき橋は、横、縦どちらから見ても三角形に見える。

高津戸峡 (3)
高津戸峡 (4)
高津戸峡 (5)
はねたき橋から見た高津戸峡。

高津戸峡 (6)
高津戸峡 (7)
遊歩道があったので、ちょっと下に降りてみた。下流の高津戸橋までの間、約500mにわたり遊歩道が整備されている。写真はないけど、ポットホールやゴリラ岩などの奇勝を見ることができる。

高津戸峡 (8)
少し下流(ながめ余興場あたり)では、川面が少しグリーンっぽく見えた。

ながめ余興場
番外編になるが、ながめ余興場。

ながめ余興場は、昭和12年(1937年)に竣工した木造二階建の劇場建築。形式は切妻造り妻入りと称されるもので、建物正面の中央に唐破風をつけて客の入場口とし、その左右には千鳥破風を付けるなど、劇場らしい変化に富んでいる。

しかし、はねたき橋から遊歩道へ降りたはいいが、帰りの登りに太ももが・・・。

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みどり市大間々町大間々の神明宮。

大間々・神明宮 (1)
貞和3年(1347年)に伊勢神宮から勧請したと伝わり、慶長2年(1597年)現在地に仮宮を建て、慶長4年(1599年)に中興遷座している。

大間々・神明宮 (2)
大間々・神明宮 (3)
大間々・神明宮 (4)
鎮座650年、中興遷座400年の記念事業として、多くの氏子崇敬者からの寄進により、平成12年(2000年)総檜造りの社殿が完成している。

新しいというだけではなく、この拝殿は重厚感がありすばらしい。オレの好きなタイプの拝殿である。

天保2年(1831年)には、渡辺崋山が神明宮を訪れ、すぐ裏にある高津戸峡(はね瀧)のことを書いている。

ここからはねたき橋(高津戸峡)方面へ抜けられるので、珍しく歩いて行ったんだよ。(と言っても、5分もかからずに着くんだけどね。)

ということで、次は高津戸峡ね。

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みどり市大間々町の大間々博物館。
通称「コノドント館」と呼ばれる。

大間々博物館 (1)
大間々地域の資料を展示する大間々町歴史民俗館として、昭和63年(1988年)に開館した。平成18年(2006年)、みどり市発足に伴いみどり市大間々博物館に名称変更。

大間々博物館 (2)
大間々博物館 (3)
大間々在住の研究者・林信悟氏によって、日本で最初に発見された古生物化石「コノドント」。昭和33年(1958年)のこと。

長い間正体不明の化石だったが、この1mmにも満たない微小な化石が、近年になって最初の魚類の歯であることが分かり、脊椎動物の進化を探るうえで、重要な化石とされている。なので、大間々博物館を通称「コノドント館」という。

大間々博物館 (4)
自然展示関係では、恐竜や化石関係の展示も多い。

大間々博物館 (5)
大間々博物館 (6)
大間々博物館 (7)
縄文中期の瀬戸ヶ原遺跡出土品や、古墳時代後期の国土古墳や杉森古墳などからの出土物。

大間々博物館 (8)
大間々博物館 (9)
この博物館は、大正10年(1921年)に建築された旧大間々銀行を修復したもの。1階奥には金庫室がそのまま展示室になっている。金庫室なので、中国からの渡来銭、江戸時代の貨幣、日本の近代紙幣など、お金に関する展示。

ここをなんでコノドント館っていうのか知らなかったんだけど、理由だけは分かった。まだコノドントに関しては、よく分かってないので、もらってきたレポートを読んで勉強するよ。

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