Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: みどり市


みどり市

みどり市笠懸町・天神山古墳群3号墳
みどり市笠懸町・来迎阿弥陀三尊笠塔婆
みどり市笠懸町・青龍山清泉寺
新田義重の創建 ー鹿田赤城神社ー
みどり市笠懸町・金山神社
みどり市笠懸町・久永山長昌寺
みどり市笠懸町・西鹿田中島遺跡
みどり市笠懸町・中島の薬師如来
大和郡山藩主・本多政長夫妻の菩提を弔う ー長寿院ー
みどり市笠懸町・岩松山地蔵院
みどり市笠懸町・臥龍庵
二子山のご本尊ではないけど・・・ -寝釈迦像-
貧乏神・疫病神追放神社 -招福神社-
みどり市東町・太郎神社
プロモ動画があります -正福寺-
桐原地区の鎮守様 -八宮神社-
みどり市大間々町・遠之久保稲荷神社
梵字を刻んだ種子六尊の庚申塔 -みどり市・日輪寺-
弘法大師の開創 -南光寺-
柿薬師 -光栄寺-
古代人が闊歩した野山? -岩宿の里-
松島家の菩提寺 -松源寺-
閉館時間を過ぎていた・・・ -陶器と良寛書の館-
水彩の詩画を通して生命の尊さを語る -富弘美術館-
大間々・浅原の百観音
名誉県民・長谷川四郎元衆議院議員が眠る -世音寺-
はっきり言ってつまらない博物館 -岩宿博物館-
旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-
渡良瀬川・草木ダムと草木湖
童謡の父・石原和三郎 -童謡ふるさと館-
日本近代製鉄の父・今泉嘉一郎の生家
今泉嘉一郎の母校 -旧花輪小記念館-
珍しい水おみくじ -貴船神社-
未完成のお地蔵様 -角地蔵-
大間々・穴原薬師堂
樹齢1,000年(?)の大杉 -小平の大杉-
楠木正成の愛馬を供養? -岩穴観音-
大間々・庚申塔および大日如来像
岡登景能の墓 -国瑞寺-
江戸時代の年貢貯蔵庫 その2 -桐原郷蔵-
伝説の鍾乳洞? -小平鍾乳洞-
優雅に回る水車 -野口水車保存館-
山田氏および里見兄弟の墓
関東の耶馬溪 -高津戸峡-
大間々の鎮守 -大間々・神明宮-
コノドントって何? -大間々博物館-

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みどり市笠懸町西鹿田の天神山古墳群3号墳。

天神山3号墳 (1)
天神山古墳群は、昭和52年(1977年)の道路改修工事の際に発見された6基の古墳群。石室の形態が竪穴式と横穴式の双方確認され、前者は6世紀後半、後者は7世紀中頃の築造と推定される。

6基の内、現在3号墳のみ保存されており、昭和58年(1983年)の調査で、竪穴式石室が確認されている。

天神山3号墳 (2)
天神山3号墳 (3)
すぐ上は墓地になっている。年代的に円墳だったと思うが、発見時には削平され墓地になっていたのだろう。

金網内に何があるのかと覗いて見たが、何? 状態。3号墳の石室は全長2.13m、幅0.7mなので、どうやら石室が保存されているような気がする。

天神山3号墳 (4)
いろいろ調べてみたら「みどり市地域文化財総合整備計画」という資料内に発掘時の写真があったので借用しました。ちょっと見づらいけど。

天神山3号墳 (5)
内部から直刀3本が発見されている。発見された直刀は、岩宿博物館に保存されている。みどり市には古墳が20基程度と少なく、出土品そのものが貴重である。こちらの写真はみどり市HPから借用。

ちなみに、この墓地の向かって右端に前回の「来迎阿弥陀三尊笠塔婆」がある。
(「みどり市笠懸町西鹿田・来迎阿弥陀三尊笠塔婆」参照)

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みどり市笠懸町西鹿田の来迎阿弥陀三尊笠塔婆。

来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (1)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (2)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩と勢至菩薩)の来迎図を薄肉彫りした笠塔婆である。現在、笠石は失われている。天神山産出の凝灰岩製で、総高105cm(阿弥陀如来像は25cm、観音菩薩像・勢至菩薩像は各17cm)。阿弥陀如来は蓮華座で来迎印を結ぶ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

来迎図は阿弥陀三尊が死者の魂を瑞雲に乗って迎えにくるのを表現したもの。死後に阿弥陀浄土に生まれ変わろうと願う、浄土信仰の高まりを示している。

浄土宗開祖・法然の弟子・智明が、法然から与えられた阿弥陀如来像を桐生まで持ち帰り崇禅寺を開いて以降、現在の東毛地区には早くから浄土信仰が広まっている(鎌倉時代初期)。(「智明上人の開創 -崇禅寺-」参照)

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みどり市笠懸町鹿の青龍山清泉寺。

清泉寺 (1)
清泉寺の創建年代は不詳だが、良尊和尚の創建と伝わる。寛永17年(1640年)俊海和尚の再興。再興の俊海が世良田・長楽寺の出のため、江戸時代は長楽寺末の「山五ヶ寺」として重要視されていた。

他の「山五ヶ寺」は、伊勢崎・華蔵寺、赤堀・大光寺、新里・善昌寺、国定・養寿寺。

清泉寺 (2)
本堂は文政5年(1822年)に焼失、同13年(1830年)に再建。昭和54年(1979年)に改築されている。

清泉寺 (3)
本堂前の人物像。誰なのか見てこなかった。台座に名前があるが、写真からは読み取れない。

清泉寺 (4)
清泉寺 (5)
六地蔵が2つあった。ひとつは平成16年(2004年)、一石六地蔵は昭和(年数読めず)の奉納。

清泉寺 (6)
「泉澤城戦没者之供養塔」というのがあった。泉澤城は鹿田山南麓(清泉寺付近一帯)に築かれた城。築城年代などは分からないが、金山城の支城となっていた。泉澤城のめぐる合戦があったのかな。

清泉寺 (7)
歴代住職の墓。この中に再興とされる俊海の墓はない。そのため、3世・俊鎮の再興との説もある。創建の良尊は享保7年(1722年)建立の供養塔がある。

ひとつだけ宝篋印塔があるが、俊賢大和尚とあった。入寂年が享保(1716~36年)と読めたので、良尊の供養塔を建てたのは俊賢かもしれない。

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みどり市笠懸町鹿の赤城神社。
背後の山が「鹿田山」というので鹿田赤城神社と呼ばれる。笠懸村誌(昭和62年:1987年)では山際赤城神社とされている。

鹿田赤城神社 (1)
鹿田赤城神社 (2)
鹿田赤城神社は新田氏の祖・義重が、三夜沢赤城神社の分霊を勧請したと伝わる。そうすると、平安末から鎌倉初期の創建か。

鹿田赤城神社 (3)
奥側の灯籠は昭和9年(1934年)に奉納。

鹿田赤城神社 (4)
鹿田赤城神社 (5)
鹿田赤城神社 (6)
こぶりな社殿の前に建つ狛犬は昭和3年(1928年)の奉納。

鹿田赤城神社 (7)
社殿裏に生品社、榛名社、菅原社、稲荷社などの境内社・末社群が並んでいる。

鹿田赤城神社 (9)
鹿田赤城神社のすぐ西側に地区公民館がある。その入口にも新しい鳥居が建っていた。公民館に駐車場があり、ここにクルマを停めればよかった。

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みどり市笠懸町西鹿田の金山神社。

金山神社 (1)
金山神社の創建は不詳。境内にあった由緒碑には創建のことは書かれておらず。この碑が残念ながら風化(摩耗)と雨シミで非常に読みづらく、読み落としがあったかもしれないが。

鳥居は金属製。由緒碑には「鳥居は元禄4年(1691年)奉納の石鳥居」と書かれているので、由緒碑建立(昭和53年:1978年)以降金属製の鳥居が建立されたようだ。

金山神社 (2)
社殿は一段高いところにある。

金山神社 (3)
金山神社 (4)
金山神社 (5)
社殿の創建などは不明。ご祭神(主祭神)は金山毘古命と金山比賣命。両神は鉱山(金属)の神とされるが、この地に鉱山でもあったのかな。まあ、他にも子孫繁栄や安産のご利益もあるけど。

金山神社 (6)
金山神社 (7)
境内社の蚕影神社。

金山神社 (8)
金山神社 (9)
社殿下は広くなっており、鉄棒や滑り台など遊具が設置されている。地域の子ども達の遊び場になっているのだろう。

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みどり市笠懸町西鹿田の久永山長昌寺。

長昌寺 (1)
長昌寺は天元元年(978年)慶範和尚の開山と伝わる。その後、寛永2年(1625年)に忠慶和尚の開山、当地領主の旗本・久永源兵衛重勝の開基で中興されている。創建から中興までの期間が長く、またその間の資料もなく、創建に関しては不明な点が多い。

長昌寺 (2)
長昌寺 (3)
本堂は天保11年(1841年)に焼失、同15年(1845年)の再建。昭和62年(1987年)に大改修が行われている。

天保の火災により、当時の住職は7日間の「遠慮」という処罰を受けたとの記録が残っている。「遠慮」とは江戸時代の軽微な刑罰。現在の「謹慎」かな。

長昌寺 (4)
長昌寺 (5)
境内の大日堂。大日如来を祀る。由緒は不詳だが、境外にあったものを明治期以降に合併、境内に移している。

長昌寺の墓地には2基の古墳がある(長昌寺A号墳・B号墳)。
長昌寺 (6)
A号分は径17m、高さ2.5mの円墳で、7世紀前半の築造と推定される。墳丘を囲むように石仏や庚申塔が多数並べられている(もちろん後世の手による)。

長昌寺 (7)
墳丘上には五輪塔、層塔がある。

長昌寺 (8)
B号分は径20m、高さ2mの円墳で、6世紀後半の築造と推定される。

長昌寺 (9)
墳丘は削平されており、歴代住職の墓になっている。

地方を領有している旗本って、領地からむしり取るイメージしかなかったが、久永氏は長昌寺を開基しただけでなく、脇差し一振りを寄進している。その脇差しはみどり市の重文になっている。

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みどり市笠懸町西鹿田の西鹿田中島遺跡。

西鹿田中島遺跡 (1)
西鹿田中島遺跡は縄文時代草創期(約1万3千年前)の集落遺跡。東日本における縄文時代の定住生活や、その具体的な内容を知る上で重要な遺跡として、平成16年(2004年)に国の史跡に指定されている。

現在は「西鹿田中島遺跡史跡公園」として整備されている。

西鹿田中島遺跡 (2)
西鹿田中島遺跡 (3)
集中部Cと土坑群との解説板があった。知識がなくよく分からないが、集中部Cと呼ばれる場所からは、長脚鏃(ちょうきゃくぞく:やじりの一種)などが見つかっている。

75号土坑(写真)はフラスコ型で、木の実などの貯蔵に適した形をしているという。

西鹿田中島遺跡 (4)
第11号住居跡。ここからは多縄文系土器や石鏃を作った時の未製品の石くずが見つかっている。

西鹿田中島遺跡 (5)
西鹿田中島遺跡 (6)
西鹿田中島遺跡 (7)
立派なガイダンス施設もある。史跡公園の来場者が休息できたり、西鹿田中島遺跡についてより深く学習できるよう史跡の解説、出土品や縄文時代草創期の景観を復元した展示模型、史跡の解説映像などが置かれている。

実際には中に入っていないので、中の写真はみどり市のHPから拝借してます。

西鹿田中島遺跡 (8)
遺跡から見た赤城山。赤城山は縄文時代には噴火も収まり、現在とほぼ同じ形状(裾野など)をしていたと考えられるので、縄文の人々もこの赤城山をみていたのかなぁ。なんて考えると感慨深い。

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みどり市笠懸町西鹿田の中島の薬師如来。

中島の薬師如来 (1)
中島の薬師如来 (2)
中島地区の薬師堂内に2基の薬師如来が祀られている。

中島の薬師如来 (3)
向かって左の薬師如来像は、安山岩製で像高46cmの半肉彫坐像。光背上部は欠損している。右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印を結び、左手には薬壺を持っている。戦国時代の造立と考えられ、みどり市指定の重要文化財となっている。

右側の薬師如来については情報がなく分からない。見た目の感じとして、もう少し造立年代は新しいようだ。

2基の薬師如来は目(眼)の神様として、地域の人々の信仰を受けている。

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みどり市笠懸町阿佐美の高松山長寿院天龍寺。

長寿院 (1)
長寿院は室町時代の創建と伝わる阿弥陀堂を当地に移し、延宝8年(1680年)阿弥陀堂住職・天龍禅師の開山、大和郡山藩主・本多家の開基。

長寿院の創建には次のような経緯がある。
延宝7年(1679年)大和郡山藩主・本多政長が死去。天龍禅師が本多家の江戸屋敷に奥方を訪ねお悔やみを申した際、奥方から政長を弔うため一堂を建立してくれと頼まれた。その上で、2尺余り(60cm強)の地蔵菩薩像を賜った。その奥方も政長の後を追うように同年に死去。

そこで阿弥陀堂を移し、政長の院殿号「高松院殿」、奥方の院殿号「長寿院殿」と天龍禅師の法名から「高松山長寿院天龍寺」とした。

本多政長は徳川四天王・本多忠勝の5世孫。奥方は土佐藩主・山内忠豊の娘。忠豊は有名な山内一豊の孫。天龍禅師は山内家と縁の深い湘南禅師の弟子。その関係で、天龍禅師は政長奥方にお悔やみを言いに行ったようだ。

長寿院 (2)
長寿院 (3)
長寿院 (4)
本堂は明和2年(1765年)の建立。寛政12年(1800年)、嘉永6年(1863年)などに改築・改修。もちろん以降も修築が行われている。昭和41年(1966年)に屋根を瓦葺きにしている。

本尊は阿弥陀如来。政長奥方から賜った地蔵菩薩像は、現在も本堂に安置されているという。写真ではよく分からないけど。

長寿院 (5)
歴代住職墓地にある開山・天龍禅師の墓。

長寿院 (6)
長寿院 (7)
長寿院 (8)
境内の竹沢薬師。由緒などは不明。以前は長寿院の東400mのところにあったが、寛政12年(1800年)に長寿院境内に移されている。厄除け薬師として地域住民から信仰されている。

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みどり市笠懸町阿佐美の岩松山地蔵院延寿寺。

地蔵院 (1)
地蔵院は寛文年間(1661~73年)南光寺4世・良栄上人が同寺境内にあった地蔵堂を移して開山。

南光寺は慶長年間(1596~1615年)に赤石永真が中興しているが、赤石氏は新田岩松氏の家臣であった。地蔵院の山号が「岩松山」なのは、地蔵院の創建にも赤石氏が開基的な役割を果たしているのではないだろうか。

地蔵院 (2)
地蔵院 (3)
境内入口に大きな不動明王像がある。「岩宿不動尊」とある。プレートに新田氏家紋の大中黒・新田一つ引が書かれている。

地蔵院 (4)
地蔵院 (5)
本堂は嘉永6年(1853年)に南光寺16世・螢幢上人が隠居する際に建立。この頃には地蔵院は南光寺住職の隠居寺となっていたようだ。

現在の本堂は平成17年(2005年)の新築建立。屋根の鴟尾が光り輝いている。

地蔵院 (6)
本堂前には宝塔、供養塔や石仏がまとめられている。

地蔵院 (7)
中央の宝塔は延享元年(1744年)の造立。

地蔵院 (8)
歴代住職の墓地。前列中央は開山の良栄上人。

天文年間(1532~55年)に岩松氏は横瀬氏(後の由良氏)の下克上にて没落したが、そのころ赤石氏の先祖・赤石筑後も横瀬氏によって金山城外で切腹させられたと伝わる。以降、赤石氏は当地に土着したと考えられる。

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みどり市笠懸町久宮(くぐう)の臥龍庵。

臥龍庵 (1)
臥龍庵は元禄9年(1696年)国瑞寺開山の独湛禅師の創建と伝えられる。ただ、独湛は天和元年(1681年)までには笠懸を離れているので、創建は国瑞寺2世・大梁和尚と考えられる。

臥龍庵 (2)
臥龍庵 (3)
臥龍庵 (4)
創建当初は質素な庵室のみであったが、宝暦8年(1758年)に久々宇村名主・高橋十兵衛が自分の所有地を提供し本堂を建立している。

「臥龍庵」以外に「四天王尊」の扁額も掛かっているが、享和元年(1801年)に四天王像を安置している。四天王は諸病を治す霊験があるとされ、参拝者が絶えなかったという。そのため従前地(字元庵)では手狭になったため、天保7年(1837年)に現在地(字西浦)へ移転している。

臥龍庵 (5)
本尊の観音菩薩像と四天王像。

臥龍庵 (6)
本堂脇の庚申塔や供養塔。

久々宇村は武州(埼玉県)本庄近郊の利根川沿岸にあり、利根川の氾濫に度々遭遇し難渋していた。そこで岡登景能が開発した笠懸野に希望者を移住させて、新たに笠懸野の「久々宇村」としたと伝えられている。埼玉・久々宇村は現在本庄市になっている。

寛文年間(1661~73年)の記録には「久々宇村」の名は見られないので、それ以降の臥龍庵創建(元禄9年)までに移住が進み、村が形成されたと考えられる。

久々宇村には阿弥陀堂があったが焼失してしまったため、村人が国瑞寺に臥龍庵の創建を依頼したという。移住してきて、何かと苦労があったと思われるので、何か信仰できるものが欲しかったと言うことかな。

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みどり市東町草木の寝釈迦像。
前回の招福神社のある草木ドライブインの裏にある。
(「貧乏神・疫病神追放神社 -招福神社-」参照)
これも草木ドライブインが設置したものだと思う。

寝釈迦 (1)
寝釈迦 (2)
寝釈迦 (3)
蓮座に横たわるお釈迦様。

寝釈迦 (4)
蓮座の下には長寿亀。

寝釈迦 (5)
寝釈迦像の傍らには弘法大師蔵。弘法大師が寝釈迦像(もちろん本尊)を見て開眼したとの言い伝えもあることから、弘法大師像があるのだと思う。

寝釈迦 (6)
説明版にあるように、本当の寝釈迦像(本尊)は二子山という山中にある。草木ドライブインから車で5分ほどのところに登山口があり、そこから延々道なき道を6kmも登って行くらしい。登山口から約1時間半かかるという。

本格的な「登山」になるので、当然のことのようにそちらには行かない。と言うか行けない。(行かれる人は十分な登山装備とクマよけの鈴などの準備が必要)

寝釈迦(本尊)
寝釈迦像の本尊。(みどり市のHPから)
不動岩と呼ばれる巨岩に彫られ、長さ3.68m、幅1.3mの大きさ。

寝釈迦像の制作には諸説あるが、江戸時代後期に足尾銅山に送られ、病死した人々の菩提を弔うためとする説が有力である。弘法大師の時代とは、かなり年代が違うなぁ~。



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みどり市東町草木の招福神社。
と言っても、正式な神社ではなく、草木ドライブインが設置したお遊び神社(だと思う)。

招福神社 (1)
招福神社 (2)
招福神社の由緒(?)は知らないが、一部マニアには有名らしい(笑)。

招福神社 (3)
招福神社 (4)
招福神社 (5)
大黒様が鎮座し、その奥に貧乏神と厄病神も鎮座(?)している。疫病神と貧乏神は、どちらがどちらか分からない。

招福神社 (6)
大声で「貧乏神・疫病神出て行け!」と言いながら、ご神木を3回叩いて3回蹴飛ばすこと、だそうだ。

けっこうやっている人がいるようで、ご神木は削れているうえに割れている(笑)。

草木ドライブイン
その後、ドライブイン脇の布袋様(招福七福神とある)に祈願すると福が来るらしい。

「貧乏・疫病は心の問題」
「プラス思考に気分転換。元気に笑ってストレス解消」
「スッキリ気分で人生邁進」
だそうだ。

多くの人が写真は撮っていたが、実際にご神木を叩いたり蹴ったりしている人は、ひとりもいなかった。さすがに出来ないよなぁ~。

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みどり市東町神戸の太郎神社。

太郎神社 (1)
太郎神社 (2)
太郎神社の由緒は不明だが、鳥居脇の石灯籠に寛保(1741~43年)の銘が読み取れた。

太郎神社 (3)
太郎神社 (4)
拝殿に大黒様が座っておられた。何?? 太郎神社のご祭神は大国主なのかもしれない。

太郎神社 (5)
拝殿奥にお御輿が見えた。

太郎神社 (6)
本殿は覆屋内だが、板間から覗くことができる。

太郎神社 (7)
境内の根性大明神。文政2年(1819年)の銘がある。金精様のことだね。金精様は子宝、安産、縁結びや性病に霊験があるとされる。

何の姿かは、ご想像の通り(笑)。



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みどり市大間々町小平の小平山正福寺。

正福寺 (1)
正福寺は貞和5年(1349年)僧義幸の開山と伝わる。

正福寺 (2)
正福寺 (3)
正福寺 (4)
現在の本堂は明和7年(1770年)の建立。もちろん、後に数度の改修を経ているが、築200年以上の歴史を誇る。

本尊は阿弥陀如来で、檜の寄木造りの等身大像。江戸中期の制作と考えられている。

住職は日光山輪王寺より任免され、その上で世襲を許可されているという。これが凄いことなのかは知識がなく分からないが・・・。また、本堂の天井絵や欄間彫刻などは、日光東照宮の影響を色濃く反映しているという(予約しないと拝観できない)。

そんな本堂内や本尊(阿弥陀如来像)を紹介した動画がYou Tubeにアップされていた。正福寺のプロモーション動画らしい。


いろいろ文章で書くより観てもらった方が確かだね。

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みどり市大間町桐原の八宮神社。

八宮神社 (1)
八宮神社の由緒は不明だが、赤城神社の8番目の分社から名付けられたという。また他説では、八幡神社に赤城神社が合祀された神社ともいわれる。地元では「はちまんさま」といわれているので、後者が有力?

八宮神社 (2)
八宮神社 (3)
八宮神社 (4)
八宮神社 (5)
周りが杉木立で覆われているためか、物静かな雰囲気が漂う。

八宮神社 (6)
全景を見ると林の中にあるように見える。境内として整備されている部分は狭いのだが、木々の部分も元々は神域だったと考えられる。今もかな?

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みどり市大間々町桐原の遠之久保稲荷神社。

遠之久保稲荷神社 (1)
遠之久保稲荷神社 (2)
遠之久保稲荷神社 (3)
遠之久保稲荷神社の由緒は不明である。

遠之久保稲荷神社 (4)
遠之久保稲荷神社 (5)
遠之久保稲荷神社 (6)
遠之久保稲荷神社 (7)
平成7年(1995年)に町道の拡張に伴い、当地に移転、社殿を新築している。

「遠之久保」と書いたが、これは鳥居にそうあったので。「遠ノ久保」(標柱)、「遠乃久保」(拝殿扁額)と色々表記があり、どれが正式なのかは、神社の歴史含めて分からない。

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みどり市大間々町浅原の慈雲山日輪寺。

日輪寺 (1)
日輪寺は延暦年間(782~806年)の創建と伝わる古刹である。

日輪寺 (2)
日輪寺 (3)
慶応3年(1867年)に火災により堂宇を焼失。大正13年(1924年)に再興されている。

日輪寺 (4)
本堂裏手にある梵字を刻んだ種子六尊の庚申塔。自然石を使っている。

日輪寺 (5)
庚申塔の隣には青面金剛像もあった。

これらの石塔・石像は庚申信仰から来ており、庚申の本尊は青面金剛とされているため、セットで彫られたり置かれていることが多い。ただ、この2石は時代が違うように見えるので、後に集められたと考えた方がいいと思う。

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みどり市笠懸町阿佐美の日輪山南光寺。

南光寺 (1)
南光寺は鎌倉時代に弘法大師がこの地に巡錫され、行基作の白衣観音菩薩を本尊として創建したといわれる。その後、慶長年間(1596~1615年)に赤石永真が中興している。

赤石氏は新田岩松氏の家臣であったが、岩松氏が横瀬氏(由良氏)の下克上により没落した後、当地に土着したものと考えられる。

南光寺 (2)
本堂は明治22年(1889年)に焼失、同26年(1893年)に再建されている。間口六間入母屋造りで瓦葺である。

南光寺 (3)
南光寺 (4)
南光寺 (5)
弘法大師蔵が安置されている大師堂。

南光寺 (6)
門前に五輪塔が3基ある。中央のものは、さんのう塚(古墳)から昭和56年(1981年)に移設。水輪に石仏が彫られており、鎌倉時代の造立と推定される。ちなみに、さんのう塚は現在水田になっている。他の2基も他所からの移設。

建武2年(1335年)護良親王に仕えた南方(みなみのかた)が入山したとされる。南方は護良親王が足利尊氏の弟・直義に殺害された後、新田氏を頼って当地に来、親王の菩提を弔ったといわれる。そのため、南光寺となったと考えられる。

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みどり市大間々町大間々の瑠璃光山光栄寺。

光栄寺 (1)
光栄寺 (2)
光栄寺は慶長8年(1603年)に良瑜上人と大間々六人衆によって創建されたと伝わる。

大間々六人衆とは高草木家、長澤家、大塚家、金子家、佐藤家、須永家のことで、大間々を開拓した主要メンバー。現在も4家が大間々に居住している。

光栄寺 (3)
光栄寺 (4)
光栄寺 (5)
山門は仁王像が鎮座する仁王門だが、裏には風神・雷神が陣取っていた。

光栄寺 (6)
光栄寺 (7)
本尊は良瑜上人が携えてきた薬師如来。この薬師如来は柿の木に刻まれた一木造り、一尺三寸の尊像で行基作と伝えられる。柿薬師と称されている。

柿薬師は元寇のおりに国家安泰を祈願し海中に投げた仏像であり、それが讃岐国多度津屏風ヶ浦の海中より出現したものという。柿薬師秘仏となっている。

本堂にはその他、元禄9年(1696年)の閻魔大王と霜除観世音・不動・愛染・地蔵・吉祥天などの諸仏が安置されている。

光栄寺 (8)
本堂前にあった「くるま観音」。交通事故により亡くなった方の菩提を弔うために建立されたもので、交通事故撲滅を祈念するもの。

11月7日、8日の縁日は大間々町の大祭になってるという。

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みどり市笠懸町の岩宿の里。

岩宿の里 (1)
岩宿の里 (2)
岩宿遺跡や岩宿博物館周辺は、稲荷山、琴平山を中心に里山を形成して「岩宿の里」と呼ばれ、整備されている。

岩宿遺跡と岩宿博物館は訪問済みだが、笠懸方面に行ったので再度全体を見学してきた。
旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-
はっきり言ってつまらない博物館 -岩宿博物館-

岩宿の里 (3)
「岩宿人の広場」にある復元された旧石器時代の住居。獣の骨を模してる? でも周りに草がけっこう生えていて、近寄る気にもならず。

岩宿の里 (4)
「ちびっこ広場」には滑り台を中心に、いろんな遊具が設置されている。

岩宿の里 (5)
「鹿の川沼」では釣りをしている人が大勢いた。周囲には桜の木が植えられ、春には花見の人で賑わうという。

岩宿の里 (6)
岩宿の里 (7)
岩宿博物館と鹿の川沼の間にハス池がある。ハスのことはよく分かんないし、旬も過ぎているみたいだったけど、1輪だけ写真を撮ってきた。

岩宿の里 (8)
岩宿博物館で行っている農業体験学習で、古代米(赤米、黒米)を種まきから収穫までを昔ながらの手法で栽培している。見た目、現代米との違いは分からず。味とかが違うのかね。

岩宿の里 (9)
岩宿の里 (10)
ハス池の脇に、お年寄りのための健康器具が設置されていた。わき腹伸ばし、上体捻り、ぶら下がり機など10種類くらいあった。個人的に気に入ったのは腰捻り。

「岩宿の里」と言えばカタクリらしいが、季節が合わず。

結局、オレの「岩宿の里」の印象は、「健康器具」しか残らなかった・・・。

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みどり市大間々町塩原の光輝山松源寺。

松源寺 (1)
松源寺 (2)
松源寺の創建は寛永8年(1631年)、松島信次の開基、的傳文當大和尚が開山したのが始まりという。松島家の菩提寺である。開基の松島信次は、松島武部少輔の一族で鳥海弥三郎の子孫。

松源寺 (3)
寺宝は円空作の薬師如来坐像。円空は延宝9年(1681年)に貫前神社に貫前神社に滞在していた記録が残っている。

松源寺 (4)
松源寺 (5)
境内の六地蔵は近在一の大きさを誇る。

松島信次という人は、調べたけどよく分からず。鳥海弥三郎は、奥州・安倍氏の直系らしく、東北きっての秀麗な山・鳥海山の名は、鳥海弥三郎からきている、という説もあるらしい。

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みどり市東町沢入の陶器と良寛書の館。

陶器と良寛書の館 (1)
陶器と良寛書の館 (2)
地元出身の実業家である松嶋健壽氏(1914~95年)が、生家と収集した品々を市に寄贈したもの。

松嶋コレクションは、良寛書の扇面1点と掛け軸(復刻版)4点をはじめ、有田焼・九谷焼など日本各地の陶磁器と中国・韓国・東南アジアの陶磁器約1000点に及ぶ。これらの中から約150点を展示、一般公開している。

と言うことなんだけど、着いたのが16時15分。えっ?? 閉まってる。

確か17時まで開いていて、入館は16時30分までだったはず。ちょっとショック!! 見学したかったというのもあるけど、みどり市東町ってうちからけっこう遠いんだよね。

家に帰ってきてから調べてみたら、去年の10月から16時閉館と、開館時間が短縮されていた。

常に最新情報を入手しておかないとダメだね。

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みどり市東町草木の富弘美術館。

富弘美術館 (1)
富弘美術館 (2)
旧勢多郡東村出身の画家・詩人星野富弘の作品を展示した美術館である。1991年(平成3年)東村立の美術館として、老人福祉施設を改装して開館。建物の老朽化に伴い、2005年(平成17年)に新しい富弘美術館が開館。

富弘美術館 (3)
富弘美術館 (4)
星野富弘は、1970年(昭和45年)中学校教員時代に頸髄を損傷、手足の自由を失う。病院に入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始める。

富弘美術館 (5)
富弘美術館 (6)
富弘美術館 (7)
透明感あふれる水彩で描かれた草花と、素朴で美しい詩の世界から、見る者に「生きることのすばらしさ」「生きる勇気」を与えると評判になり、全国各地で「花の詩画展」開催され、随筆が教科書に掲載された。

富弘美術館 (8)
美術館の後ろには草木湖が。草木湖へつながる散策路も整備されている。

美術館をつくる計画があがった当初、星野は「どうせハコものを作っても、そのうちクモの巣が張ってしまうのでは・・・。」とためらっていたが、連日たくさんの来館者でにぎわい、開館96日目で入館者が10万人を超え、2010年(平成22年)には入館者600万人を数えている。

2006年(平成18年)には、障害を克服し永年優れた詩画の創作活動を続け、多くの人々に生命の尊さを伝え、深い感動と生きる勇気を与えた功績から、群馬県名誉県民の称号を贈られている。

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みどり市大間々町浅原の百観音。
地名から「浅原の百観音」と呼ばれている。

百観音 (1)
百観音 (2)
浅原の百観音は、天保10年(1839年)から天保12年(1841年)にかけて造立されたものである。

天保の大飢饉の際、浅原村の星野新次郎が西国33か所、坂東33か所を巡り、それらの寺院の観音像を手本に、常陸の石工・外山直吉満親を自分の家に住まわせ彫らせたもの。

その後、秩父34か所も追加し、百観音としたという。

百観音 (3)
百観音 (4)
観音像は浮彫されており、左側に寺院名と観音名、右側に札所番号が彫られている。といっても、もう文字はほとんど判読できない。

お気軽に札所めぐりができた時代じゃないし、飢饉ということもあり俗に言う「私財を投じて」ということなんだろうけど、1番は「村人のために」ということなんだろうね。

今もすっごい綺麗になっていて、地元の人たちが守っているという気持ちが伝わってきた。

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みどり市大間々町桐原の南王山世音寺。
ここには、群馬県名誉県民・長谷川四郎元衆議院議員が眠っている。

世音寺 (1)
世音寺 (2)
世音寺 (3)
お寺のことは、けっこう調べたんだけど良く分からなかった。

世音寺 (4)
長谷川四郎が眠る長谷川家の墓地。

長谷川四郎
長谷川四郎は、明治38年(1905年)に大間々町に生まれる。魚乾物商を営みながら政界への進出を伺い、桐生商工会議所副会頭、群馬県議を経て、1949年(昭和24年)年に旧群馬2区から衆議院議員に当選。

昭和61年(1986年)に引退するまで当選14回を数えた。その間に衆議院副議長、農林大臣、建設大臣を歴任。昭和61年(1986年)に81歳で死去。同年、群馬県名誉県民第1号に認定されている。

ちなみに名誉県民は、長谷川四郎以外に、土屋文明(詩人)、福田赳夫(元首相)、福澤一朗(画家)、小渕恵三(元首相)、牛久保海平(元サンデン社長)、星野富弘(画家)、中曽根康弘(元首相)の各氏。また最近、福田康夫(元首相)を名誉県民にする意思を知事が明らかにしている。

長谷川四郎は高等小学校卒(今でいう中卒くらい)で、貧困の中で苦労し国会議員にまでの登りつめた。時代が違うかもしれないけど、人間学歴だけじゃないね。

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みどり市笠懸町阿左美の岩宿博物館。

岩宿博物館 (1)
平成6年(1994年)に笠懸野岩宿文化資料館として開館。平成16年(2004年)に岩宿博物館と名称変更している。

岩宿博物館 (2)
岩宿博物館 (3)
岩宿博物館 (4)
岩宿遺跡では、発掘によって2つの石器文化が確認されている。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである。

上層の岩宿Ⅱ石器文化は、切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。

岩宿博物館 (5)
マンモスの骨格標本があった。さすがに石器だけの展示では、間が持たないことがよく分かってる(笑)。

岩宿博物館 (6)
マンモスの化石が置いてあり、触れると「証明書」がもらえる。まあ、もらえるというか、勝手に持って帰ってくるというか・・・。

残念ながら、個人的に石器にまったく興味がなく、加工した「石」を見ても歴史的な意義を理解する気にもならず。さらに、旧石器時代を「岩宿時代」なんて勝手に呼んで悦に入ってるのも気に入らない。

今までいろんな博物館や資料館に行ってきたけど、これほど興味を引くものがなかったのは初めて・・・。有料の博物館・資料館では、間違いなく最低ランク。今年のAwardワースト1位が早くも決定?

岩宿博物館はつまらなかったが、岩宿遺跡の歴史的な意義を否定している訳ではないので、誤解なきよう。(岩宿遺跡は「旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-」参照)

おまけ。
岩宿博物館がある一帯は「岩宿の里」と呼ばれているようで、岩宿遺跡や岩宿人の広場、ちびっこ広場などがある。

岡上景能
そんなところで、岡登景能の銅像をみつけた。景能は渡良瀬川から岡登用水を開削して宿用水とし、笠懸野の開発を行っている。

はっきり言って、博物館がめちゃくちゃつまんなかったので、岡登景能の銅像だけで記事にしようかと思ったくらいだ。

岡登景能関連記事
 「岡登景能の勧進 -神明宮-
 「岡登景能を祀る -岡登霊神社-
 「岡登景能の墓 -国瑞寺-

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みどり市笠懸町阿左美の岩宿遺跡。

岩宿遺跡 (1)
岩宿遺跡 (2)
昭和21年(1946年)、地元の考古学者であった相澤忠洋によって、関東ローム層から黒曜石の石器片が発見された。

昭和24年(1949年)には、明らかに人為と認められる槍先形石器を発見。その後、明治大との本格的な調査により、日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。

写真は岩宿遺跡A地点と呼ばれており、1番上の石垣あたりから石器が見つかっている。

岩宿遺跡 (3)
道路の反対側はB地点と呼ばれ、そこには相澤忠洋の銅像がある。最初に相澤が「槍先形尖頭器」を発見したのは、こちらのB地点である。

岩宿遺跡 (4)
B地点には、平成2年(1990年)に完成した岩宿遺跡遺構保護観察施設(通称岩宿ドーム)もある。

岩宿遺跡 (5)
ドーム内から実際の地層を見ることができる。写真右側の茶色の部分。

岩宿遺跡 (6)
ドームでは、岩宿遺跡に関するビデオを上映しており、ド素人のオレにも理解できるくらいの優しい作り。多分、小学生向けの教育ビデオなんだと思う。

相澤忠洋は、納豆の行商をしながら独学で土器・石器の採集を行っていた。これは少しでも考古学に打ち込む時間を作るためであったらしいが、「行商人風情が」と、相澤の功績を否定する人もいた。

しかし相澤の考古学への情熱は冷める事はなく、地道な研究活動を続けた結果、数多くの旧石器遺跡を発見することで、、日本の旧石器時代の存在を証明した考古学者として、正当な評価がなされるようになった。

昭和42年(1967年)には、第1回吉川英治文化賞を受賞している。

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みどり市東町座間の草木ダムと草木湖。

草木ダム (1)
渡良瀬川に建設されたダムで、昔は神戸(ごうど)ダムと言った。首都圏への利水と、渡良瀬川・利根川の治水を目的とした利根川水系8ダムのひとつである。

1967年(昭和42年)より工事に着手したが、反対運動などもあり完成したのは1977年(昭和52年)。計画に対して7年遅れとなった。

草木ダム (2)
草木ダム (3)
草木ダム (4)
堤高140mの重力式コンクリートダムで、利根川水系では奈良俣ダムの158mに次いで高い。(奈良俣ダムは、「日本屈指のロックフィルダム -奈良俣ダム-」参照。)

草木ダム (5)
草木ダム (6)
草木ダム (7)
ダム湖である草木湖は、総貯水容量が約6000万トンと利根川水系でも屈指の規模を誇る人造湖である。平成17年(2005年)には、ダム湖百選に選ばれている。

草木ダム (8)
道路沿いに、きれいな展望台がある。

反対運動で完成が7年遅れたというけど、八ツ場ダムに比べれば・・・・・。

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