Tigerdreamの上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: みどり市


みどり市

二子山のご本尊ではないけど・・・ -寝釈迦像-
貧乏神・疫病神追放神社 -招福神社-
みどり市東町・太郎神社
プロモ動画があります -正福寺-
桐原地区の鎮守様 -八宮神社-
みどり市大間々町・遠之久保稲荷神社
梵字を刻んだ種子六尊の庚申塔 -みどり市・日輪寺-
弘法大師の開創 -南光寺-
柿薬師 -光栄寺-
古代人が闊歩した野山? -岩宿の里-
松島家の菩提寺 -松源寺-
閉館時間を過ぎていた・・・ -陶器と良寛書の館-
水彩の詩画を通して生命の尊さを語る -富弘美術館-
大間々・浅原の百観音
名誉県民・長谷川四郎元衆議院議員が眠る -世音寺-
はっきり言ってつまらない博物館 -岩宿博物館-
旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-
渡良瀬川・草木ダムと草木湖
童謡の父・石原和三郎 -童謡ふるさと館-
日本近代製鉄の父・今泉嘉一郎の生家
今泉嘉一郎の母校 -旧花輪小記念館-
珍しい水おみくじ -貴船神社-
未完成のお地蔵様 -角地蔵-
大間々・穴原薬師堂
樹齢1,000年(?)の大杉 -小平の大杉-
楠木正成の愛馬を供養? -岩穴観音-
大間々・庚申塔および大日如来像
岡登景能の墓 -国瑞寺-
江戸時代の年貢貯蔵庫 その2 -桐原郷蔵-
伝説の鍾乳洞? -小平鍾乳洞-
優雅に回る水車 -野口水車保存館-
山田氏および里見兄弟の墓
関東の耶馬溪 -高津戸峡-
大間々の鎮守 -大間々・神明宮-
コノドントって何? -大間々博物館-

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みどり市東町草木の寝釈迦像。
前回の招福神社のある草木ドライブインの裏にある。
(「貧乏神・疫病神追放神社 -招福神社-」参照)
これも草木ドライブインが設置したものだと思う。

寝釈迦 (1)
寝釈迦 (2)
寝釈迦 (3)
蓮座に横たわるお釈迦様。

寝釈迦 (4)
蓮座の下には長寿亀。

寝釈迦 (5)
寝釈迦像の傍らには弘法大師蔵。弘法大師が寝釈迦像(もちろん本尊)を見て開眼したとの言い伝えもあることから、弘法大師像があるのだと思う。

寝釈迦 (6)
説明版にあるように、本当の寝釈迦像(本尊)は二子山という山中にある。草木ドライブインから車で5分ほどのところに登山口があり、そこから延々道なき道を6kmも登って行くらしい。登山口から約1時間半かかるという。

本格的な「登山」になるので、当然のことのようにそちらには行かない。と言うか行けない。(行かれる人は十分な登山装備とクマよけの鈴などの準備が必要)

寝釈迦(本尊)
寝釈迦像の本尊。(みどり市のHPから)
不動岩と呼ばれる巨岩に彫られ、長さ3.68m、幅1.3mの大きさ。

寝釈迦像の制作には諸説あるが、江戸時代後期に足尾銅山に送られ、病死した人々の菩提を弔うためとする説が有力である。弘法大師の時代とは、かなり年代が違うなぁ~。



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みどり市東町草木の招福神社。
と言っても、正式な神社ではなく、草木ドライブインが設置したお遊び神社(だと思う)。

招福神社 (1)
招福神社 (2)
招福神社の由緒(?)は知らないが、一部マニアには有名らしい(笑)。

招福神社 (3)
招福神社 (4)
招福神社 (5)
大黒様が鎮座し、その奥に貧乏神と厄病神も鎮座(?)している。疫病神と貧乏神は、どちらがどちらか分からない。

招福神社 (6)
大声で「貧乏神・疫病神出て行け!」と言いながら、ご神木を3回叩いて3回蹴飛ばすこと、だそうだ。

けっこうやっている人がいるようで、ご神木は削れているうえに割れている(笑)。

草木ドライブイン
その後、ドライブイン脇の布袋様(招福七福神とある)に祈願すると福が来るらしい。

「貧乏・疫病は心の問題」
「プラス思考に気分転換。元気に笑ってストレス解消」
「スッキリ気分で人生邁進」
だそうだ。

多くの人が写真は撮っていたが、実際にご神木を叩いたり蹴ったりしている人は、ひとりもいなかった。さすがに出来ないよなぁ~。

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みどり市東町神戸の太郎神社。

太郎神社 (1)
太郎神社 (2)
太郎神社の由緒は不明だが、鳥居脇の石灯籠に寛保(1741~43年)の銘が読み取れた。

太郎神社 (3)
太郎神社 (4)
拝殿に大黒様が座っておられた。何?? 太郎神社のご祭神は大国主なのかもしれない。

太郎神社 (5)
拝殿奥にお御輿が見えた。

太郎神社 (6)
本殿は覆屋内だが、板間から覗くことができる。

太郎神社 (7)
境内の根性大明神。文政2年(1819年)の銘がある。金精様のことだね。金精様は子宝、安産、縁結びや性病に霊験があるとされる。

何の姿かは、ご想像の通り(笑)。



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みどり市大間々町小平の小平山正福寺。

正福寺 (1)
正福寺は貞和5年(1349年)僧義幸の開山と伝わる。

正福寺 (2)
正福寺 (3)
正福寺 (4)
現在の本堂は明和7年(1770年)の建立。もちろん、後に数度の改修を経ているが、築200年以上の歴史を誇る。

本尊は阿弥陀如来で、檜の寄木造りの等身大像。江戸中期の制作と考えられている。

住職は日光山輪王寺より任免され、その上で世襲を許可されているという。これが凄いことなのかは知識がなく分からないが・・・。また、本堂の天井絵や欄間彫刻などは、日光東照宮の影響を色濃く反映しているという(予約しないと拝観できない)。

そんな本堂内や本尊(阿弥陀如来像)を紹介した動画がYou Tubeにアップされていた。正福寺のプロモーション動画らしい。


いろいろ文章で書くより観てもらった方が確かだね。

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みどり市大間町桐原の八宮神社。

八宮神社 (1)
八宮神社の由緒は不明だが、赤城神社の8番目の分社から名付けられたという。また他説では、八幡神社に赤城神社が合祀された神社ともいわれる。地元では「はちまんさま」といわれているので、後者が有力?

八宮神社 (2)
八宮神社 (3)
八宮神社 (4)
八宮神社 (5)
周りが杉木立で覆われているためか、物静かな雰囲気が漂う。

八宮神社 (6)
全景を見ると林の中にあるように見える。境内として整備されている部分は狭いのだが、木々の部分も元々は神域だったと考えられる。今もかな?

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みどり市大間々町桐原の遠之久保稲荷神社。

遠之久保稲荷神社 (1)
遠之久保稲荷神社 (2)
遠之久保稲荷神社 (3)
遠之久保稲荷神社の由緒は不明である。

遠之久保稲荷神社 (4)
遠之久保稲荷神社 (5)
遠之久保稲荷神社 (6)
遠之久保稲荷神社 (7)
平成7年(1995年)に町道の拡張に伴い、当地に移転、社殿を新築している。

「遠之久保」と書いたが、これは鳥居にそうあったので。「遠ノ久保」(標柱)、「遠乃久保」(拝殿扁額)と色々表記があり、どれが正式なのかは、神社の歴史含めて分からない。

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みどり市大間々町浅原の慈雲山日輪寺。

日輪寺 (1)
日輪寺は延暦年間(782~806年)の創建と伝わる古刹である。

日輪寺 (2)
日輪寺 (3)
慶応3年(1867年)に火災により堂宇を焼失。大正13年(1924年)に再興されている。

日輪寺 (4)
本堂裏手にある梵字を刻んだ種子六尊の庚申塔。自然石を使っている。

日輪寺 (5)
庚申塔の隣には青面金剛像もあった。

これらの石塔・石像は庚申信仰から来ており、庚申の本尊は青面金剛とされているため、セットで彫られたり置かれていることが多い。ただ、この2石は時代が違うように見えるので、後に集められたと考えた方がいいと思う。

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みどり市笠懸町阿佐美の日輪山南光寺。

南光寺 (1)
南光寺は鎌倉時代に弘法大師がこの地に巡錫され、行基作の白衣観音菩薩を本尊として創建したといわれる。

南光寺 (2)
本堂は間口六間入母屋造りで瓦葺である。

南光寺 (3)
南光寺 (4)
南光寺 (5)
弘法大師蔵が安置されている大師堂。

南光寺 (6)
門前に五輪塔が3基あったが、細かいことは分からず。

建武2年(1335年)護良親王に仕えた南方(みなみのかた)が入山したとされる。南方は護良親王が足利尊氏の弟・直義に殺害された後、新田氏を頼って当地に来、親王の菩提を弔ったといわれる。そのため、南光寺となったと考えられる。

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みどり市大間々町大間々の瑠璃光山光栄寺。

光栄寺 (1)
光栄寺 (2)
光栄寺は慶長8年(1603年)に良瑜上人と大間々六人衆によって創建されたと伝わる。

大間々六人衆とは高草木家、長澤家、大塚家、金子家、佐藤家、須永家のことで、大間々を開拓した主要メンバー。現在も4家が大間々に居住している。

光栄寺 (3)
光栄寺 (4)
光栄寺 (5)
山門は仁王像が鎮座する仁王門だが、裏には風神・雷神が陣取っていた。

光栄寺 (6)
光栄寺 (7)
本尊は良瑜上人が携えてきた薬師如来。この薬師如来は柿の木に刻まれた一木造り、一尺三寸の尊像で行基作と伝えられる。柿薬師と称されている。

柿薬師は元寇のおりに国家安泰を祈願し海中に投げた仏像であり、それが讃岐国多度津屏風ヶ浦の海中より出現したものという。柿薬師秘仏となっている。

本堂にはその他、元禄9年(1696年)の閻魔大王と霜除観世音・不動・愛染・地蔵・吉祥天などの諸仏が安置されている。

光栄寺 (8)
本堂前にあった「くるま観音」。交通事故により亡くなった方の菩提を弔うために建立されたもので、交通事故撲滅を祈念するもの。

11月7日、8日の縁日は大間々町の大祭になってるという。

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みどり市笠懸町の岩宿の里。

岩宿の里 (1)
岩宿の里 (2)
岩宿遺跡や岩宿博物館周辺は、稲荷山、琴平山を中心に里山を形成して「岩宿の里」と呼ばれ、整備されている。

岩宿遺跡と岩宿博物館は訪問済みだが、笠懸方面に行ったので再度全体を見学してきた。
旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-
はっきり言ってつまらない博物館 -岩宿博物館-

岩宿の里 (3)
「岩宿人の広場」にある復元された旧石器時代の住居。獣の骨を模してる? でも周りに草がけっこう生えていて、近寄る気にもならず。

岩宿の里 (4)
「ちびっこ広場」には滑り台を中心に、いろんな遊具が設置されている。

岩宿の里 (5)
「鹿の川沼」では釣りをしている人が大勢いた。周囲には桜の木が植えられ、春には花見の人で賑わうという。

岩宿の里 (6)
岩宿の里 (7)
岩宿博物館と鹿の川沼の間にハス池がある。ハスのことはよく分かんないし、旬も過ぎているみたいだったけど、1輪だけ写真を撮ってきた。

岩宿の里 (8)
岩宿博物館で行っている農業体験学習で、古代米(赤米、黒米)を種まきから収穫までを昔ながらの手法で栽培している。見た目、現代米との違いは分からず。味とかが違うのかね。

岩宿の里 (9)
岩宿の里 (10)
ハス池の脇に、お年寄りのための健康器具が設置されていた。わき腹伸ばし、上体捻り、ぶら下がり機など10種類くらいあった。個人的に気に入ったのは腰捻り。

「岩宿の里」と言えばカタクリらしいが、季節が合わず。

結局、オレの「岩宿の里」の印象は、「健康器具」しか残らなかった・・・。

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みどり市大間々町塩原の光輝山松源寺。

松源寺 (1)
松源寺 (2)
松源寺の創建は寛永8年(1631年)、松島信次の開基、的傳文當大和尚が開山したのが始まりという。松島家の菩提寺である。開基の松島信次は、松島武部少輔の一族で鳥海弥三郎の子孫。

松源寺 (3)
寺宝は円空作の薬師如来坐像。円空は延宝9年(1681年)に貫前神社に貫前神社に滞在していた記録が残っている。

松源寺 (4)
松源寺 (5)
境内の六地蔵は近在一の大きさを誇る。

松島信次という人は、調べたけどよく分からず。鳥海弥三郎は、奥州・安倍氏の直系らしく、東北きっての秀麗な山・鳥海山の名は、鳥海弥三郎からきている、という説もあるらしい。

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みどり市東町沢入の陶器と良寛書の館。

陶器と良寛書の館 (1)
陶器と良寛書の館 (2)
地元出身の実業家である松嶋健壽氏(1914~95年)が、生家と収集した品々を市に寄贈したもの。

松嶋コレクションは、良寛書の扇面1点と掛け軸(復刻版)4点をはじめ、有田焼・九谷焼など日本各地の陶磁器と中国・韓国・東南アジアの陶磁器約1000点に及ぶ。これらの中から約150点を展示、一般公開している。

と言うことなんだけど、着いたのが16時15分。えっ?? 閉まってる。

確か17時まで開いていて、入館は16時30分までだったはず。ちょっとショック!! 見学したかったというのもあるけど、みどり市東町ってうちからけっこう遠いんだよね。

家に帰ってきてから調べてみたら、去年の10月から16時閉館と、開館時間が短縮されていた。

常に最新情報を入手しておかないとダメだね。

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みどり市東町草木の富弘美術館。

富弘美術館 (1)
富弘美術館 (2)
旧勢多郡東村出身の画家・詩人星野富弘の作品を展示した美術館である。1991年(平成3年)東村立の美術館として、老人福祉施設を改装して開館。建物の老朽化に伴い、2005年(平成17年)に新しい富弘美術館が開館。

富弘美術館 (3)
富弘美術館 (4)
星野富弘は、1970年(昭和45年)中学校教員時代に頸髄を損傷、手足の自由を失う。病院に入院中、口に筆をくわえて文や絵を書き始める。

富弘美術館 (5)
富弘美術館 (6)
富弘美術館 (7)
透明感あふれる水彩で描かれた草花と、素朴で美しい詩の世界から、見る者に「生きることのすばらしさ」「生きる勇気」を与えると評判になり、全国各地で「花の詩画展」開催され、随筆が教科書に掲載された。

富弘美術館 (8)
美術館の後ろには草木湖が。草木湖へつながる散策路も整備されている。

美術館をつくる計画があがった当初、星野は「どうせハコものを作っても、そのうちクモの巣が張ってしまうのでは・・・。」とためらっていたが、連日たくさんの来館者でにぎわい、開館96日目で入館者が10万人を超え、2010年(平成22年)には入館者600万人を数えている。

2006年(平成18年)には、障害を克服し永年優れた詩画の創作活動を続け、多くの人々に生命の尊さを伝え、深い感動と生きる勇気を与えた功績から、群馬県名誉県民の称号を贈られている。

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みどり市大間々町浅原の百観音。
地名から「浅原の百観音」と呼ばれている。

百観音 (1)
百観音 (2)
浅原の百観音は、天保10年(1839年)から天保12年(1841年)にかけて造立されたものである。

天保の大飢饉の際、浅原村の星野新次郎が西国33か所、坂東33か所を巡り、それらの寺院の観音像を手本に、常陸の石工・外山直吉満親を自分の家に住まわせ彫らせたもの。

その後、秩父34か所も追加し、百観音としたという。

百観音 (3)
百観音 (4)
観音像は浮彫されており、左側に寺院名と観音名、右側に札所番号が彫られている。といっても、もう文字はほとんど判読できない。

お気軽に札所めぐりができた時代じゃないし、飢饉ということもあり俗に言う「私財を投じて」ということなんだろうけど、1番は「村人のために」ということなんだろうね。

今もすっごい綺麗になっていて、地元の人たちが守っているという気持ちが伝わってきた。

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みどり市大間々町桐原の南王山世音寺。
ここには、群馬県名誉県民・長谷川四郎元衆議院議員が眠っている。

世音寺 (1)
世音寺 (2)
世音寺 (3)
お寺のことは、けっこう調べたんだけど良く分からなかった。

世音寺 (4)
長谷川四郎が眠る長谷川家の墓地。

長谷川四郎
長谷川四郎は、明治38年(1905年)に大間々町に生まれる。魚乾物商を営みながら政界への進出を伺い、桐生商工会議所副会頭、群馬県議を経て、1949年(昭和24年)年に旧群馬2区から衆議院議員に当選。

昭和61年(1986年)に引退するまで当選14回を数えた。その間に衆議院副議長、農林大臣、建設大臣を歴任。昭和61年(1986年)に81歳で死去。同年、群馬県名誉県民第1号に認定されている。

ちなみに名誉県民は、長谷川四郎以外に、土屋文明(詩人)、福田赳夫(元首相)、福澤一朗(画家)、小渕恵三(元首相)、牛久保海平(元サンデン社長)、星野富弘(画家)、中曽根康弘(元首相)の各氏。また最近、福田康夫(元首相)を名誉県民にする意思を知事が明らかにしている。

長谷川四郎は高等小学校卒(今でいう中卒くらい)で、貧困の中で苦労し国会議員にまでの登りつめた。時代が違うかもしれないけど、人間学歴だけじゃないね。

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みどり市笠懸町阿左美の岩宿博物館。

岩宿博物館 (1)
平成6年(1994年)に笠懸野岩宿文化資料館として開館。平成16年(2004年)に岩宿博物館と名称変更している。

岩宿博物館 (2)
岩宿博物館 (3)
岩宿博物館 (4)
岩宿遺跡では、発掘によって2つの石器文化が確認されている。下層のものは、岩宿Ⅰ石器文化と呼ばれ、基部を加工したナイフ形石器と刃部を磨いた局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭のものである。

上層の岩宿Ⅱ石器文化は、切出形ナイフ形石器などを含む後期旧石器時代後半(2万5000年前)の石器群である。

岩宿博物館 (5)
マンモスの骨格標本があった。さすがに石器だけの展示では、間が持たないことがよく分かってる(笑)。

岩宿博物館 (6)
マンモスの化石が置いてあり、触れると「証明書」がもらえる。まあ、もらえるというか、勝手に持って帰ってくるというか・・・。

残念ながら、個人的に石器にまったく興味がなく、加工した「石」を見ても歴史的な意義を理解する気にもならず。さらに、旧石器時代を「岩宿時代」なんて勝手に呼んで悦に入ってるのも気に入らない。

今までいろんな博物館や資料館に行ってきたけど、これほど興味を引くものがなかったのは初めて・・・。有料の博物館・資料館では、間違いなく最低ランク。今年のAwardワースト1位が早くも決定?

岩宿博物館はつまらなかったが、岩宿遺跡の歴史的な意義を否定している訳ではないので、誤解なきよう。(岩宿遺跡は「旧石器時代の存在を証明 -岩宿遺跡-」参照)

おまけ。
岩宿博物館がある一帯は「岩宿の里」と呼ばれているようで、岩宿遺跡や岩宿人の広場、ちびっこ広場などがある。

岡上景能
そんなところで、岡登景能の銅像をみつけた。景能は渡良瀬川から岡登用水を開削して宿用水とし、笠懸野の開発を行っている。

はっきり言って、博物館がめちゃくちゃつまんなかったので、岡登景能の銅像だけで記事にしようかと思ったくらいだ。

岡登景能関連記事
 「岡登景能の勧進 -神明宮-
 「岡登景能を祀る -岡登霊神社-
 「岡登景能の墓 -国瑞寺-

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みどり市笠懸町阿左美の岩宿遺跡。

岩宿遺跡 (1)
岩宿遺跡 (2)
昭和21年(1946年)、地元の考古学者であった相澤忠洋によって、関東ローム層から黒曜石の石器片が発見された。

昭和24年(1949年)には、明らかに人為と認められる槍先形石器を発見。その後、明治大との本格的な調査により、日本における旧石器時代の存在が証明されることとなった。

写真は岩宿遺跡A地点と呼ばれており、1番上の石垣あたりから石器が見つかっている。

岩宿遺跡 (3)
道路の反対側はB地点と呼ばれ、そこには相澤忠洋の銅像がある。最初に相澤が「槍先形尖頭器」を発見したのは、こちらのB地点である。

岩宿遺跡 (4)
B地点には、平成2年(1990年)に完成した岩宿遺跡遺構保護観察施設(通称岩宿ドーム)もある。

岩宿遺跡 (5)
ドーム内から実際の地層を見ることができる。写真右側の茶色の部分。

岩宿遺跡 (6)
ドームでは、岩宿遺跡に関するビデオを上映しており、ド素人のオレにも理解できるくらいの優しい作り。多分、小学生向けの教育ビデオなんだと思う。

相澤忠洋は、納豆の行商をしながら独学で土器・石器の採集を行っていた。これは少しでも考古学に打ち込む時間を作るためであったらしいが、「行商人風情が」と、相澤の功績を否定する人もいた。

しかし相澤の考古学への情熱は冷める事はなく、地道な研究活動を続けた結果、数多くの旧石器遺跡を発見することで、、日本の旧石器時代の存在を証明した考古学者として、正当な評価がなされるようになった。

昭和42年(1967年)には、第1回吉川英治文化賞を受賞している。

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みどり市東町座間の草木ダムと草木湖。

草木ダム (1)
渡良瀬川に建設されたダムで、昔は神戸(ごうど)ダムと言った。首都圏への利水と、渡良瀬川・利根川の治水を目的とした利根川水系8ダムのひとつである。

1967年(昭和42年)より工事に着手したが、反対運動などもあり完成したのは1977年(昭和52年)。計画に対して7年遅れとなった。

草木ダム (2)
草木ダム (3)
草木ダム (4)
堤高140mの重力式コンクリートダムで、利根川水系では奈良俣ダムの158mに次いで高い。(奈良俣ダムは、「日本屈指のロックフィルダム -奈良俣ダム-」参照。)

草木ダム (5)
草木ダム (6)
草木ダム (7)
ダム湖である草木湖は、総貯水容量が約6000万トンと利根川水系でも屈指の規模を誇る人造湖である。平成17年(2005年)には、ダム湖百選に選ばれている。

草木ダム (8)
道路沿いに、きれいな展望台がある。

反対運動で完成が7年遅れたというけど、八ツ場ダムに比べれば・・・・・。

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みどり市東町座間の童謡ふるさと館。

童謡ふるさと館 (1)
童謡ふるさと館 (2)
童謡ふるさと館は平成元年(1989年)に、童謡「うさぎとかめ」などの作詞者「石原和三郎」の顕彰と文化振興を目的として開館した。

童謡ふるさと館 (3)
童謡ふるさと館 (4)
童謡ふるさと館 (5)
「うさぎとかめ」「はなさかじじい」「金太郎」「大黒様」など、数多くの童謡を作詞した、東町花輪(旧勢多郡東村)出身の石原和三郎の写真や略歴、自筆原稿等の資料の他、童謡のパネル展示がある。

童謡ふるさと館 (6)
童謡ふるさと館 (7)
平成18年(2006年)からは、木のぬくもりを感じさせる「うさぎとかめ」のからくりおもちゃも展示している。

石原和三郎(1865年~1922年)は、旧勢多郡東村の名誉村民。群馬県尋常師範学校(現、群馬大教育学部)で学び、花輪小へ教員として赴任し、後に校長も務めている。

もうちょっと色んなものがあるのかと思っていたけど、残念ながらたいしたものはなかった。子どもはもちろん大人も楽しめます、ってことになってるけど・・・・・。

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みどり市東町花輪の今泉嘉一郎の生家。

今泉嘉一郎
今泉嘉一郎は慶応3年(1867年)東村花輪に生まれた。その後明治45年(1912年)に、友人だった白石元治郎とともに、初の民間製鉄会社である日本鋼管(現在のJFEグループ)を設立した。

衆議院議員や日刊工業新聞社長などを歴任し、日本の製鋼、鋼管技術の育成、発展に尽力、昭和16年(1941年)に亡くなっている。

今泉嘉一郎の生家 (1)
今泉嘉一郎の生家 (2)
今泉嘉一郎の生家 (3)
門構えは腕木門と称される造りで、屋根面にむくりをつけた「起り破風」を持ち、門と一体をなす屋根塀と異なる意匠となっている。

今泉嘉一郎の生家 (4)
今泉嘉一郎の生家 (5)
主屋は、江戸時代末期に建てられたと考えられ、木造2階一部平屋建で、背面屋根を葺き下ろしている。嘉一郎の母・常子は当時では珍しい女医で、ここで医院を営んでいた。

嘉一郎は花輪小学校校舎の改築や、旧東村への電気の敷設に多額の寄付を寄せるなど郷土への思いも強く、現在も地元の人々の敬愛を集めている。

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みどり市東町花輪の旧花輪小学校記念館。

最初に書いておくが、タイトルの今泉嘉一郎は、日本鋼管創業者のひとり。現在日本鋼管は川崎製鉄と合併し、JFEスチールグループ。

旧花輪小記念館 (1)
旧花輪小記念館 (3)
旧花輪小学校は、明治6年(1873年)5月の開校。現在の木造校舎は、卒業生でもある今泉嘉一郎の寄付により建てられた。昭和6年(1931年)の建設で、外部の建具がアルミサッシに取り替えられた他は、建築当初の姿をそのまま留めている。

旧花輪小記念館 (4)
旧花輪小記念館 (5)
4間×5間の教室と北側片廊下の形式は、明治後半から昭和初期にかけて作られた典型的な木造校舎と言える。特に、屋根上に設置された換気口は県内では他に例がなく、デザイン的にも優れている。

平成13年(2001年)3月に小学校の統廃合により廃校となったが、地元の努力により、平成15年(2003年)旧花輪小学校記念館となった。

旧花輪小記念館 (6)
旧花輪小記念館 (7)
今泉嘉一郎の立派な銅像と展示パネル。ゆかりの品や功績の数々など、さまざまな資料が展示されている。

旧花輪小記念館 (8)
卒業生には今泉嘉一郎の他に、童謡「うさぎとかめ」の作詞をし、童謡の父と称される石原和三郎がいる。和三郎は後に花輪小の校長も務めている。

2人とも旧勢多郡東村の名誉村民である。

歳がばれるけど、オレも小学校6年間、ずぅ~っと木造校舎だった。オレの学校も、こんな感じだったと思う。

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みどり市大間々町塩原の貴船(きぶね)神社。

貴船神社 (1)
貴船神社 (2)
天暦10年(956年)、東国が干ばつに襲われたとき、山城国(京都)の貴船神社の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)が、降雨と五穀豊穣をもたらしてくれた。そのため、この地に祀られたという。現在地に建立されたのは、寛文8年(1668年)といわれている。

高龗神は水の神とされてるが、雨をともなう龍神としての信仰があり、特に雨乞いの神として崇められている。

貴船神社 (3)
貴船神社 (4)
現在の社殿は昭和46年(1971年)に建立されたもの。本殿の写真を撮ろうとすると、どうしても隣の建屋がジャマになる。お守りとか売っている建屋なんだけど・・・。

おみくじがあったので引いてみた(300円)。ところが、開いてみると何も書いてない。なんだよぉ~っ!、って思ったんだけど、よくよく見ると水に浸けると浮き出てくるという。

ということで、手水舎で水に浸けてみた。おぉ~っ、出てきた出てきた。「小吉」だったんだけど、内容はあんまり良いことは書かれてなかった。

これは、水おみくじと言うらしい。

写真に撮ってくればよかった・・・・・。(水おみくじは、境内の木の枝に結んできた。)

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みどり市大間々町上神梅の角地蔵。

深沢の角地蔵 (1)
天正7年(1579年)、太田金山城主・由良国繁と黒川谷深沢城主・阿久沢能登守や沢入城・松島式部小輔古柏らが合戦となり、その時の戦死者を葬った所を千人塚または桐生塚と呼んでいた。

深沢の角地蔵 (2)
その後、宝暦2年(1752年)に正円寺・盈仙和尚が、石工を招き仏像を彫らせたが、不思議なことばかり起こるので、石工が逃げ出したという。そのため、頭部が未完成で四角に残ったので、「角地蔵」と呼ばれている。

このことについて、天明2年(1782年)高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりという」と書いてある。
(高山彦九郎に関しては、「勤皇の先駆者 -高山彦九郎記念館-」参照。)

地元の人は寸法ちがいで出来ず、「間違い地蔵」と呼んでいる。

深沢の角地蔵 (3)
地蔵堂の脇には、不動明王(左)が鎮座していた。

やっぱり、四角い頭のお地蔵さんには、違和感があるね。

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みどり市大間々町塩原の穴原薬師堂。

穴原薬師堂 (1)
薬師堂の建立は定かでないが、明治頃の古書には、大同年間(806年~809年)弘法大師作という如来像があったという。

穴原薬師堂 (2)
穴原薬師堂 (3)
山門は建築上の特徴等から、寛政4年(1792年)頃に竣工したものと推察され、大間々町に現存する唯一の楼門遺構でもある。山門楼上には16羅漢の木像が安置されているらしい。

穴原薬師堂 (4)
穴原薬師堂 (5)
薬師堂は享保15年(1730年)の建立で、二間四方の宝形造り、金属板葺き(元萱葺)である。内部には薬師如来を中心に、左右に日光・月光菩薩があり、後ろに12神将と呼ぶ眷族が配されている。

穴原薬師堂 (6)
薬師堂脇にあった石仏。馬鳴(めみょう)菩薩というらしい。貧窮の衆生に衣服を与える菩薩として祀られる養蚕機織の仏。

それにしても、立派な山門(楼門)である。

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みどり市大間々町小平茂木の小平の大杉。

小平の大杉 (1)
小平の大杉 (2)
枝の年輪は300を超えるものもあり、それから推察して樹齢約1,000年を経ているものと考えられる。

小平の大杉 (3)
小平の大杉 (4)
根元周囲7.8m、目通り周囲6.9m、樹高45mを誇る。地元では霊木として崇め、大切にされている。

前回の岩穴観音からの帰りに見つけたんだけど、幹の太さに思わず車を停めて見学。あんまり車が通るような場所ではないので、そんなに時代のダメージ(環境汚染、振動など)受けているようには見えなかった。

まさに、霊木といえる立派さ!!

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みどり市大間々町小平狸原の岩穴観音。

岩穴観音 (1)

岩穴観音 (2)
楠木正成の愛馬の供養のために祀ったのが始まり、といわれるが伝説の域を出ない。

岩穴観音 (3)
岩穴観音 (4)
山門から急な石段を登ると小平地があり、前殿(?)なのか囲いがある。

岩穴観音 (5)
岩穴観音 (6)
岩穴は奥行き約30尺(9.1m)・高さ約10尺(3m)の自然洞窟で、その奥に石仏が二体安置してある。この本尊は観音様と呼ばれているが、実際に安置されているのは、室町期の地蔵菩薩坐像(凝灰岩)と、戦国期の阿弥陀如来坐像(砂岩質)であり、像種が異なっている。

岩穴観音は馬の神様として広く知られ、盛んな時には日に何百頭もの馬が飼い主に連れられ参詣にきたという。

小平鍾乳洞や野口水車保存館の前の道をひたすら奥へ。大間々の1番奥なのか(?)、だんだん道が狭くなってきて(車がすれ違えないくらい)心細かった・・・・・。

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みどり市大間々町浅原馬場の庚申塔および大日如来像。

大日如来像と庚申塚 (1)
大日如来像と庚申塚 (2)
「庚申塔」と通称されている石造物は、重制石幢の一種で輪廻車孔付きである。元亀4年(1573年)に朝原村の弥左衛門以下47人の村人が、庚申供養のために造立したものといわれる。元亀4年の造立は、北関東では最も古い部類に入る。

大日如来像と庚申塚 (3)
中央の大日如来像は、寛永6年(1629年)に造立され、智拳印を結んで
いる。鏡海上人という僧を中心に、当時の朝原村の農民たちが、村が末永く繁栄することを願って造立したものといわれている。

庚申塔と大日如来像は、別個の目的で造立されたものが、後にあたかも一組で作られたかのようにまとめられた。

大日如来像と庚申塚 (4)
向かって左側にも、多数の石仏群があった。

通りかかった地元のおばあちゃん(見た目80歳くらい)は、時の殿様が持ってこられたもの、と言っていた。戦国期この辺は阿久沢能登守直崇が弟・左馬助に治めさせていた、と案内板に書いてあったけど、よく分かんないです。

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みどり市笠懸町阿左美の鳳陽山国瑞寺。
ここには岡登用水で有名な、岡登次郎兵衛景能(かげよし)の墓がある。

国瑞寺 (1)
国瑞寺 (2)
国瑞寺 (3)
国瑞寺の所縁は、調べてみたけど良く分かんなかった。

国瑞寺 (4)
景能は寛文元年(1661年)に代官になり、さらに足尾銅山奉行もつとめ、産出銅を運搬する銅山街道を整備し、中心の宿として大原宿を設置。それと並行して渡良瀬川から岡登用水を開削して宿用水とし、笠懸野の開発を行った。

寛文12年(1672年)、10年以上の年月をかけて完成した岡登用水は長さ24kmに達し、旧笠懸町、旧薮塚本町、旧新田町、旧赤堀町、旧勢多東村などの7ヶ町村にて、農作が可能となった。

その善政は住民から慕われていたが、余りの名声にこれを妬む者の讒言により、貞享4年(1687年)自刃している。

岡登景能は、岡上景能が正しいらしい。景能死後(自刃)、末裔が岡登を名乗ったため、岡上景能も岡登景能と書かれるようになった。

岡登景能関連記事
 「岡登景能の勧進 -神明宮-
 「岡登景能を祀る -岡登霊神社-

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みどり市大間々町桐原の桐原郷蔵。

桐原郷蔵 (1)
桐原郷蔵 (2)
郷蔵は江戸時代、年貢を一時的に貯蔵するために造られたもので、桐原村の郷蔵は、弘化4年(1847年)に建造されたものである。

寛政2年(1790年)に幕府から貯穀令が出され、村々には郷蔵を建てるように命じられた。しかし、桐原村の場合資金不足のため、すぐには建設できなかった。そのため、民家の蔵を借りて代用していたという。

弘化3年(1846年)に、長年の懸案事項であった郷蔵建設が本格化し、村の入会地であった手振山の立木や葛根を売り払い、資金13両で建設された。それ以来、明治初期まで郷蔵として使用されてきた。

桐原郷蔵 (3)
建設当初は板葺きであったが、数度の改修を経て現在は鉄板瓦葺きとなっている。

関係する古文書も豊富にあり、その経緯等を知ることができる。史料の概要は、近世中期以降の典型的な村方文書群といえる。

郷蔵訪問は、前橋の上泉郷蔵に続き2例目である。
(「江戸時代の年貢貯蔵庫 -上泉郷蔵-」参照)

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