前回に引き続き、前橋市苗ヶ島町の霊松山金剛寺。
金剛寺の墓地には、東宮鐡男(とうみやかねお)陸軍大佐の墓がある。

東宮大佐180ピクセル
東宮大佐は明治24年(1892年)生まれ、前橋中から陸軍士官学校に進学、大正4年(1915年)陸軍歩兵少尉に任官。大正14年(1925年)大尉に進級し、翌年独立守備隊第2大隊中隊長に就き、奉天に屯在する。

昭和3年(1928年)の張作霖爆殺事件では、爆破のスイッチを押したという。

爆殺事件後、満蒙開拓移民の構想を抱き、実行に移していく。この構想は満州を日本の生命線としていた関東軍首脳の興味を捕らえた。

昭和6年(1931年)の満州事変以降に日本からの満州国への移民は本格化し、農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団(開拓団)が日本の各地で結成された。

満州開拓移民の募集には、「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

東宮鐵男の墓 (1)
東宮鐵男の墓 (2)
東宮大佐自身は、満蒙開拓が軌道に乗ることを見ることなく、昭和12年(1937年)上海にて戦死している。左胸に被弾した東宮大佐は、もはや助からないことを自覚し、部下にノートと鉛筆を出させ、
 うれしさや 秋晴れの野に 部下と共
という辞世の句を残し絶命した。享年45歳。

満蒙移民は終戦直前のソ連の参戦で、その多くが国境地帯の取り残され、帰国には困難を極めた。帰国途中での死亡、行方不明、ソ連・シベリアの収容所へ送られたものも多かった。

このような満蒙開拓団の悲劇のため、東宮家は長らく移民関連資料を秘匿していた。しかし平成18年(2006年)NHKの求めに応じ、一部を提供している。いかなる批評をされても仕方ないとの判断だったようだ。

国策として行われた満蒙開拓移民に関しては、様々な意見があるだろう。日中戦争と結び付けたり、後の中国残留孤児問題の発端でもあり、批判的な意見も多いかもしれない。

しかし軍事的な目的もさることながら、各地農村の疲弊を目にした救済策であることも事実であり、こういう視点をもった軍人はいなかったのも事実である。

最後に、東宮大佐の葬儀は盛大を極め、後の首相・東条英機や岸信介も参列している。