高崎市下斎田町の小栗又一忠道の墓。

小栗又一の墓 (1)
小栗又一の墓 (2)
田口家墓地内に小栗又一忠道の墓がある。

小栗又一忠道は、有名な小栗上野介忠順の養嗣子。子のいなかった小栗上野介忠順は旗本・日下家より鉞子(よきこ)を養女に迎え、また旗本・駒井家から忠道を婿に迎え養嗣子とした。(斬首後、実子(女子)が誕生している)

小栗上野介の父・忠高は小栗家に婿養子に入っており、後に小栗家に生まれた義弟は日下家に養子に出されたため、逆にその子を養女に迎えることで血脈を小栗家に戻そうとしたと考えられている。

小栗又一の墓 (3)
小栗又一の墓 (4)
慶応4年(1868年)新政府軍から追捕令が発せられたことを受け、忠順は忠道を高崎藩へ派遣したが、取り調べもなく烏川河原で斬首された。忠道も同様に、取り調べもなく高崎城内にで斬首されている。

忠道の遺体(この時は胴体のみ)は下斎田村(当時)の名主・田口氏が引き取り墓を作り埋葬した。

小栗父子の首級は、館林に来ていた東山道総督・岩倉具定の首実検を受けた後、法輪寺墓地に葬られた。後に2人の首級は旧権田村の住民により盗み出され、忠順の首級は権田村の東善寺、忠道の首級は田口家墓地内に葬られている。

新政府の管轄下にあった首級を盗んだため、権田村の住民はこれを決して口外せず、子孫にのみ伝え供養を続けてきた。このことを世間に発したのは、昭和30年代後半になってからであり、なんと小栗父子斬首から100年近く経っていた。