高崎市九蔵町の青龍山大雲寺。
大雲寺の由緒はよく分からなかった。
大雲寺には高崎市の重文に指定されている武居梅坡(ばいは)の「水墨雲竜の図」がある。でも、大雲寺を訪れた理由は別にあり、武田信玄の軍師として有名な山本勘助のご子孫の墓があるということ。
山本勘助のご子孫の墓。「山本菅助入道道鬼七世孫山本菅助菅原晴生墓」とある。
「甲陽軍鑑」には名を勘介、諱を晴幸、出家後道鬼を称したとあるが、山本菅助が正しいらしい。
山本勘助は永禄4年(1561年)の川中島の戦いで、「啄木鳥戦法」で上杉謙信軍に挑んだが謙信に見破られ討死している(とされる)。
山本勘助の名は、甲陽軍鑑とその影響を受けた江戸時代の軍記物にしか登場しないことから、永らく実在が疑問視されてきた。しかし近年は「山本勘助」に比定される可能性のある「山本菅助」の存在が「市河文書」や「真下家所蔵文書」など、複数の文書上から確認されている。
但し、山本勘助の実在と軍師であったかは別の問題であると考えているが、それ以上の知識はオレにはない。
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