安中市松井田町新堀の大泉山補陀寺。

補陀寺 (1)
補陀寺は応永7年(1400年)無極慧徹禅師が草庵を結んだのが始まりとされる。慧徹は美濃国に大泉山補陀寺を開創していたが、弟子に寺を譲って諸国を遍歴した際に当地に来ている。美濃国の補陀寺が兵火にかかり焼失したとの報により、応永12年(1405年)に一宇を建立し美濃国の寺号を移し、これを大泉山補陀寺と名付けている。

総門には「関左法窟」の扁額が掛かる。「関左法窟」は関東一の道場という意味。書は月舟宗胡。月舟宗胡は江戸初期の僧で、曹洞宗開祖・道元の教えへの回帰と古規を重んじる宗統復興運動を主導している。月舟宗胡は16歳から修行のため諸国を廻っており、その道中で各地で書を残している。

補陀寺 (2)
中門の扁額は山号の「大泉山」。これも月舟宗胡の書。

補陀寺 (3)
本堂は度々焼失しており、安中忠政や大道寺政繁などが再建や修築を行っている。北条氏家臣・大道寺政繁は補陀寺を菩提寺とし、天正18年(1590年)の松井田城落城まで当地を居館としていた。なお、松井田城の落城は豊臣秀吉の小田原攻め(北条攻め)時だが、翌年の再建時に現在地へ移っている。

現在の本堂は明和6年(1769年)の建立である。

補陀寺 (4)
本堂の扁額(補陀禅林)も月舟宗胡の書である。

補陀寺 (5)
補陀寺 (6)
本堂脇にある大道寺政繁の墓。宝篋印塔の中央部は後から造られたものらしく、よく見ると大道寺政繁のプロフィールが刻まれていた。

大道寺氏は北条氏家中では「御由緒家」と呼ばれる家柄で、代々北条氏の宿老的役割を務めている。政繁は内政手腕に優れ、その辣腕振りを遺憾なく発揮したと伝えられている。松井田城落城後、政繁は秀吉軍に加わり北条方の諸城(忍城・武蔵松山城・鉢形城・八王子城)の攻略に加担している。

しかし小田原城落城後、北条氏政・氏照などと共に戦犯とされ、切腹をさせられている。秀吉から寝返りを嫌われたなど諸説あるが定かではない。松井田城は前田利家・利長父子を中心とした豊臣軍に攻略されたが、江戸時代に前田家の行列が松井田宿を通るたびに、政繁の墓は悔しさの余り汗を流したという。しかし、なぜ涙ではなく汗なんだろう?