みどり市大間々町上神梅の角地蔵。

深沢の角地蔵 (1)
天正7年(1579年)、太田金山城主・由良国繁と黒川谷深沢城主・阿久沢能登守や沢入城・松島式部小輔古柏らが合戦となり、その時の戦死者を葬った所を千人塚または桐生塚と呼んでいた。

深沢の角地蔵 (2)
その後、宝暦2年(1752年)に正円寺・盈仙和尚が、石工を招き仏像を彫らせたが、不思議なことばかり起こるので、石工が逃げ出したという。そのため、頭部が未完成で四角に残ったので、「角地蔵」と呼ばれている。

このことについて、天明2年(1782年)高山彦九郎が深沢宿を通った時の日記に、「石工に申付けたるに石工価にあたらて半途にして逃げたりという」と書いてある。
(高山彦九郎に関しては、「太田市細谷町・高山彦九郎記念館」参照。)

地元の人は寸法ちがいで出来ず、「間違い地蔵」と呼んでいる。

深沢の角地蔵 (3)
地蔵堂の脇には、不動明王(左)が鎮座していた。

やっぱり、四角い頭のお地蔵さんには、違和感があるね。