高崎市新町の新町宿見透し灯籠。

見透し灯籠
国道17号と旧中山道の分岐点に、昭和53年(1978年)復元の見透し灯籠が建っている。(元の灯籠は高崎市大八木町の諏訪神社にあるらしい。)

神流川が荒れるたびに川筋が変わり、夜道を歩く旅人を悩ませていた。そこで、新町宿と神流川対岸の本庄宿に灯籠を建て、旅人の安全を図ろうと計画した。

新町宿では、12年間にわたり建設費用を貯え、文化12年(1815年)に見透し灯籠を建設した。

文化7年(1810年)新町宿・高瀬屋に宿泊した俳人・小林一茶は、なかば強制的に建設資金として12文寄進させられている。

一茶文学碑
高瀬屋があったところには、小林一茶文学碑が建っている。

一茶は持ち合わせが少なくいったんは断ったが、最終的には上記の通り12文を寄進している。相場は16文だったとか。このときのことを、「手枕や 小言いうても 来る蛍」と詠んでいる。

対岸の本庄宿の見透し灯籠は、神流川橋の欄干にある(こちらも復元で元の灯籠は大光寺というお寺にあるらしい)。

ところで本庄宿では、新町側の見透し灯籠も本庄宿の戸谷半兵衛が建てたことになっている。

おぉ~っと埼玉県、事実無根の話を広めるな!