高崎市吉井町小串の広願山地勝寺。

地勝寺 (2)
慶長10年(1605年)に地蔵寺として創建。明治41年(1908年)に東深沢の勝持寺と合併したことにより、地勝寺と改称している。

本尊の地蔵菩薩像は恵心僧都の作と伝わり、永禄4年(1561年)の洪水の時、当地に流れ着いたのを里人が祀ったという。この地蔵菩薩が本尊になったため地蔵寺と称した。また、この地蔵様はネコを使って蚕を食うネズミを退治してくれる霊験があるとされ、地元では「ネコ地蔵」と呼び崇拝している。

地勝寺 (6)
鎌倉時代から戦国時代にかけて、この地を治めていた小串氏の墓がある。小串氏は永禄6年(1563年)武田信玄の侵攻により滅亡。末裔は土着したという。

寺の開山と小串氏の滅亡は時期的に合わないので、末裔の方が後に祖先を祀ったということかな。

地勝寺 (3)
地勝寺 (4)
境内には南北朝時代の作である、薬師如来坐像がある。
牛伏砂岩の石造りで、左手に薬壷を持ち、光背は舟形をしている。大きさは総高66cm、総幅35.5cm、像高35.5cm、像幅25.5cmである。

地勝寺 (5)
一石阿弥陀三尊像もあるということだったので探したら、木の陰にあった。
その名の通り、ひとつの石に阿弥陀三尊がそれぞれ彫られている。主尊である阿弥陀如来は坐像で、脇侍観音・勢至菩薩は立像である。こちらも南北朝時代の作で、総高95.5cm、総幅41.5cmで、主尊の像高19cm、像幅16.5cmである。

本尊の地蔵菩薩像の由緒には他説もある。豊臣秀吉が紀州・根来寺を焼き討ちした際、ある僧が聖徳太子の御作と伝わる尊像を背負い脱出した。その末裔の雄角なる者が、その像を携え現在地に至りて地蔵寺を創建したという。こちらの説では地蔵像は聖徳太子作となる。