高崎市井出町の伝・長野業盛のお墓。
今回は事前調査もばっちりで、道に迷うこともなく到着。

長野業盛の墓 (1)
長野業盛の墓 (3)

長野業盛の墓 (2)
長野業盛は、永禄4年(1561年)父・業正の後を継ぎ箕輪城主になった。14歳の若さであった。今なら中学生。

永禄9年(1566年)武田信玄は2万の軍勢で箕輪城を攻めた。迎え撃つ長野軍は1,500。圧倒的な武田軍の前に、長野軍はなすすべなし。意を決した業盛は自ら残兵を率いて、大手口から打って出て武田軍に割って入り、28人を切り捨てたという(伝説だけど・・・・・)。

しかし圧倒的な軍勢のため形勢は逆転せず、業盛自身も負傷してしまった。業盛は城内に戻ると、御前曲輪の持仏堂に入り自害した。享年19歳。

落城後、遺骸は当地の僧・法如によって、ここに葬られたと伝えられている。

そういう時代だからと言えばしょーがないけど、19歳でよく奮闘したということ。辞世の句は、「春風に梅も桜も散り果てて 名のみ残れる箕輪の山里」。