高崎市箕郷町富岡の金富山長純寺。
前回、長野氏累代の墓所がある長年寺に行ってきたが、長純寺にも長野業正(なりまさ)の墓がある。(「長野氏累代の墓 -長年寺-」参照。)

長年寺 (4)
長年寺 (2)
明応6年(1497年)、長野業正の父・長野憲業(のりなり)が開祖。なお、憲業は初名を信業(のぶなり)と言うが、信業と憲業は別人で兄弟という説もある。

長年寺 (3)
長年寺 (5)
本堂窓には、長野氏の家紋・檜扇(ひおうぎ)が描かれている。

長年寺 (1)
境内の案内標識に従って、業正のお墓を目指すのだが、これが意外と坂道を登ることになる。梅林と思われるところに、入口の標識が。

長年寺 (6)
業正は長野氏箕輪城主の中でも、もっとも知・仁・勇を備えた名将といわれる。武田信玄の数度にわたる猛攻にも屈せず、長野氏の全盛期を築いた。

死去する前、嫡男の業盛(なりもり)を呼び、「私が死んだ後、一里塚と変わらないような墓を作れ。わが法要は無用。敵の首を墓前に一つでも多く供えよ。敵に降伏してはならない。運が尽きたなら潔く討死せよ。」と遺言したという。

これを見ると、墓が質素なのもうなずける。また、業盛が箕輪城落城に際して、業正の位牌を拝み、一族郎党とともに潔く自害したのも、遺言を守ったということ。まだ19歳という若さであった。(「埋もれた名城? -箕輪城-」参照。)