伊勢崎市境伊与久の赤城山龍昌院宝積寺。

龍昌寺 (1)
龍昌寺 (2)
龍昌院は戦国時代の武将大谷吉継の孫・隆昌の創建。創建年の詳細は不明だが、大谷吉継の孫の時代なので、江戸時代初期(1630~50年頃?)と推定される。本堂は昭和62年(1987年)改築。

龍昌寺 (3)
観音堂は明治40年(1907年)に修復され、聖観音が祀られている。本堂同様の唐獅子牡丹の彫り物が刻まれている。

龍昌寺 (4)
龍昌寺 (5)
龍昌寺 (6)
本堂裏にある大谷隆昌の墓。どれが大谷隆昌の墓か分からなかった。

龍昌院にはネコがいっぱいいた(飼いネコなのか野良ネコなのかは不明)んだけど、ちょうど墓所入り口にいたネコがカメラ目線でポージング。

ところで、何で大谷吉継の孫が群馬の伊予久にいたのか?
大谷吉継は関ヶ原の戦いで西軍(石田三成方)につき、小早川秀秋の裏切りなどにより討死している。

吉継の嫡男・義治は吉継とともに関ヶ原の戦いに参陣、越前に落ち延びその後浪人となり、慶長19年(1614年)大坂冬の陣の際に大坂城に入場。真田幸村らとともに奮戦。翌年の大坂夏の陣にて討死している。子の吉之は大坂の陣後、帰農したとされる。

2男・頼継は関ヶ原の戦い後、15歳で病死。3男・泰重は詳細不明だが、その息子が越前藩士になっているという。

隆昌は義治の子と推定されるが、伊与久に蟄居、厩橋城主酒井氏に仕え大坂冬の陣と夏の陣に参陣、功績により徳川幕府より伊予久に50石を拝領したという。

大谷義治は天正9年(1581年)の生まれといわれており、大坂夏の陣のときは34歳。長男は吉之なので、隆昌は2男以降。慶長20年(1615年)に大坂夏の陣に参陣できる年齢になっている?ちょっと年齢的に厳しいような気もするが、まあそういう言い伝え。

でも、なぜ伊与久にいたかは分からず・・・。