伊勢崎市富塚町の金剛山円福寺。

富塚円福寺 (1)
富塚円福寺 (2)
円福寺は弘長3年(1263年)実庵祖真の開創と伝わる。応永15年(1408年)那波教元(のりもと)が堂宇を再建している。寺域は那波城の出城である富塚城の一部と考えられている。

富塚円福寺 (3)
墓地にある2基の宝篋印塔は、ともに塔身四面にそれぞれに金剛界四仏の種子を刻む。小形であるが、基礎の反花や屋蓋の隅飾突起などに、室町から戦国期の特徴が見られる。

富塚円福寺 (4)
左側の塔には「勝巌塔」の銘と、長享3年(1489年)の年号が刻まれている。那波教元の法号が「勝巌常英大居士」であり教元の墓と推定される。教元が堂宇を再建したとされる応永15年と長享3年では80年も離れているので、供養墓かもしれない。

那波氏は鎌倉幕府草創期の重臣・大江広元の子・政広を祖とし、政広が上野国那波郡の地頭として入部し那波氏を称したことに始まる。那波氏のことで思い出したのは、天増寺境内に「那波小太郎・小次郎の墓」と伝わる宝篋印塔があること。
(「那波小太郎と小次郎の墓・大陽山天増寺 その2」参照)

那波教元とどんな関係なのか、関係ないのかも分からないけど・・・。