前回に引き続き、伊勢崎市昭和町の大陽山天増寺。
ここには那波小太郎・小次郎兄弟の墓がある。

那波小太郎・小次郎の墓 (1)
那波小太郎・小次郎の墓 (2)
那波小太郎・小次郎兄弟って誰?? 兄弟に関して何の知識もないので、解説版の丸写し(抜粋)だが・・・。

『天正18年(1590年)赤石城主・那波駿河守顕宗の留守中、那波小太郎宗昌、小次郎宗繁の2人の兄弟が、母と幼い弟とともに留守を守っていた。

そんな時、粕川の東岸に敵が出撃してきたため、兄弟はただちに軍勢を率いて出撃した。(敵の詳細は不明)しかしこの時の戦いで、小太郎・小次郎の2人の兄弟は、討ち死にしてしまった。

里人たちは、2人の死を悼んで2つの塚を築いて弔ったが、いつか1つの塚は失われた。後に天増寺が建てられ、その塚も寺の中となった。墓は宝篋印塔というもので、形式、手法とも戦国末期のものである。』

那波氏は鎌倉幕府草創期の重臣・大江広元の子・政広を祖とし、政広が上野国那波郡の地頭として入部し、那波氏を称したことに始まる。

いろいろ調べてみたんだけど、駿河守顕宗は資料に見られたが、小太郎宗昌、小次郎宗繁の名は見当たらず。

顕宗が、奥州九戸の陣で戦死、那波氏は断絶したという。ただ、顕宗の次男が上杉氏の家臣・安田能元の養子となって、那波氏の血脈を後世に伝えたらしい。小太郎、小次郎兄弟と、この次男の関係は分からず。

また、那波氏は赤石城を、太田の由良氏に奪われたという記録があるので、粕川東岸に現れた敵は由良氏のようだ。

断片的な情報を寄せ集めてみたけど、こういう調査も楽しいね。時間があったら、後で情報をつなぎ合わせてみるよ。