桐生市梅田町の梅田山西方寺。

西方寺 (1)
観応元年(1350年)に時の領主・桐生国綱(桐生氏5代)が、古くから阿弥陀堂のあった場所に浄土宗西方寺を建立した。後に7代豊綱の代に臨済宗に改められ、14代親綱まで桐生氏の菩提寺となっていた。

現在の「梅田山」の山号は明治時代を迎えてからのもので、明治22年(1889年)までは 「宝樹山」という山号だった。

西方寺 (2)
文政6年(1823年)に全焼した本堂は、大正10年(1921年)の再建。さらに昭和40年代に大改築されている。

西方寺 (3)
石造の十三重塔は20mと日本一の高さを誇り、桐生塔と呼ばれている。十三重塔とは仏陀の舎利・遺髪・遺物などを納める塔で、釈迦の慰霊碑、仏教のシンボル的な意味合いをもつ。平成4年(1992年)の建立。

西方寺 (4)
桐生氏の墓所は本堂左の高台にある。層塔1基、五輪塔13基が並び、この中の4基だけ銘文が判読でき、義綱、親康、重綱、助綱のものである。

開基の桐生国綱は桐生氏中興の祖で、桐生城築城・下瀞堀掘削・高津戸城攻略などにより、桐生氏の基礎を築いた。

13代助綱の時、周辺の小領主を討ち桐生氏の全盛期を迎えるが、助綱の養子・14代親綱が実家(佐野氏)からの家臣を優遇するなど内紛が生じたうえ、太田の由良氏と対立。

天正元年(1573年)由良成繁の軍勢に攻められ柄杓山城は落城。桐生氏は220余年の歴史に幕を下ろす。

*桐生氏の系譜には諸説ある。