利根郡川場村谷地の萬松山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺 (2)
桂昌寺は応永3年(1396年)に当地を治めていた地頭・大友氏の墓守のため開創されたとされる。

大友氏は戦国時代の大友義鎮(宗麟)が有名だが、藤原秀郷の流れをくむ大友能直に始まる。能直が源頼朝に重用され、豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に任じられている。その大友氏が現在の沼田・川場村一帯の地頭であったという。桂昌寺は大友氏の館跡とされる。

桂昌寺 (3)
本堂は茅葺き屋根を改修した歴史のありそうな造り。

桂昌寺 (4)
「薄幸の女流歌人」と称される江口きち(江口家)の墓。

向かって1番右が、きちと廣寿(兄)の墓。墓石の前面にきちの戒名、左面には廣寿の戒名が刻まれている。右面には、きちの辞世二首の内のひとつ「大いなる」の歌が刻まれている。(真ん中は両親の墓、左は妹夫婦の墓である。)

江口きち (1)
江口きちは大正2年(1913年)に川場村谷地の生まれ。

江口きち (2)
幼少時から学業優秀で、昭和2年(1927年)にはアメリカから川場小に贈られた「青い目の人形」を学校代表として受け取っている。卒業後は沼田の裁縫所で和裁を習ったりしたが、昭和5年(1930年)沼田郵便局に勤めている。しかし翌年、母親が急死したため川場に戻り父・兄・妹の面倒を見ることになった。

苦しい生活、生来の厭世観、実らない恋(18歳年長者と不倫関係にあった)への苦悩などが入りまじり、昭和13年(1938年)兄・廣寿とともに青酸カリによる服毒自殺。享年25歳。

江口きち (3)
自分で仕立てた純白のドレスを身につけ、胸には真っ赤なバラの花がつけられていたという・・・。また、枕元には辞世の句・二首があった。
 「睡たらひて夜は明けにけうつそみに 聴きをさめなる雀鳴き初む」
 「大いなるこの寂けさや天地の 時刻あやまたず夜は明けにけり」

生活の辛苦を舐め叶わぬ恋の果て、自ら命を絶った薄幸の歌人。その生活について、ここではだいぶ端折ったけど、けっこう厳しい状況であったようだ。

純白のドレス(レプリカ)は川場村歴史民俗資料館に展示されている。
(「川場村天神・川場村歴史民俗資料館」参照)