前回に引き続き沼田市上発地町の迦葉山龍華院弥勒護国寺。

弥勒寺
案内図の右上に真田伊賀守墓というのが見える。実はこれが弥勒寺に来た真の目的だったのだ。そう、真田沼田藩5代藩主・信利の墓。但し「伝」だけど。

伝真田信利の墓 (1)
伝真田信利の墓 (2)
本堂裏手の歴代住職を墓を過ぎると、ぽつんとひとつの宝篋印塔が建っている。ひっそりと、寂しく、目立たないように・・・。

松代藩主になっていた叔父の信政が明暦4年(1658年)に死去、信政の子・幸道を後継者とした。信利は信之の長男・信吉の子であることを理由に、自分が後継者だと幕府に訴えた。結局この訴えは認められず。

これ以降、信利は10万石の松代藩に対抗するため、寛文2年(1662年)より領内総検地を行い表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出した。領民から見れば約5倍近い増税である。過酷な取立ても相まって、領民は飢餓に苦しみ餓死者がでるような悲惨な状況になった。

延宝8年(1680年)には両国橋改修の用材の調達を材木商大和屋から請負ったが、折からの台風により用材は流出し、納入期日に間に合わないという不始末を起こした。天和元年(1681年)、杉木茂左衛門の直訴も起き、真田沼田藩は改易となった。
(上毛かるた紀行 「天下の義人 茂左衛門」参照。)

信利は山形藩奥平家にお預け(配流)となり、その後奥平家の宇都宮への転封に従って山形から宇都宮に移り、元禄元年(1688年)宇都宮で死去。享年54歳。弥勒寺に埋葬されたといわれる。

信利は信之長男の家系と言うプライドがあったんだろうけど。それにしても相当な圧政を敷いていたようなので改易はしょうがないかな。