太田市脇屋町の脇屋山正法寺。



醍醐寺開山の聖宝が、源経基の請願を受け延喜年間(901年~923年)に開山。元歴年間(1184年~1185年)新田義重が堂塔を修理し、元弘年間(1131年~1334年)に脇屋義助が脇屋郷、大般若経を寄進したと伝えられ、脇屋氏の菩提寺となった。



仁王門には2体の仁王像が。開口しているのが「阿」、閉口しているのが「吽」。貞亨2年(1685年)京都の大仏師、左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。


本堂横には、新田義貞の弟・脇屋義助像がある。また、本堂裏には、義助の遺髪塚がある。
脇屋義助は、兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。中国・四国方面の総大将に任命され、四国にわたるも伊予国(愛媛県)で発病し、そのまま病没している。1342年、38歳だった。
義貞、義助とも、故郷の新田荘から遠く離れた地で亡くなっおり、その無念さを思うと・・・。
勝者は歴史の表舞台で、往々にして実像以上の評価を得るが、敗者はその記録が残るだけ。厳しいもんだね。
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