織田信長の二男と言えば、信雄(のぶかつ)。
信雄は天下の安土城を焼いてしまったりと、あんまり評判は芳しくない。

そんな信雄は、1615年に徳川家康から大和国(奈良県)宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられている。後に上野国甘楽郡は4男の信良に分地している。以後、織田信雄の家系が、7代にわたり甘楽郡小幡藩を治めていた。

信雄家系図
小幡織田氏の家系図(甘楽町歴史民俗資料館より)。

織田家7代の墓碑 (2)
その織田家7代の墓碑が甘楽郡甘楽町の祟福寺にある。当初は別のお寺が菩提寺だったらしいが、ちょっと揉め事があったみたいで、こちらに移ったようだ。

織田家7代の墓碑 (4)
織田信雄の墓。

織田家7代の墓碑 (5)
本能寺の変で、信長と嫡男の信忠が倒れたのが天正10年(1582年)。その後信雄は秀吉についたり、家康についたり。なんとか戦国時代を生き抜き、寛永7年(1630年)京都で死去している。享年73歳。徳川家光が将軍の時代。信雄のお墓は京都にあるが、ここに分骨されたという。

織田家7代の墓碑 (6)
織田家7代の墓碑 (7)
織田家7代の墓碑
本堂横には位牌堂があり、織田家7代の位牌が安置されている。お賽銭箱には織田家の木瓜の家紋が。

信雄に関しては、家康と小牧・長久手で秀吉と戦った後のことは、ほとんど知らなかった。今回いろいろ調べてみたら、関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将に祭り上げられそうになっていた。豊臣家の生贄にされそうになったということ。家康方に逃げたらしい。