高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。