高崎市箕郷町和田山の和田の館跡。

和田の館跡 (1)
和田の館跡は鎌倉幕府の侍所別当などを務めた和田義盛の6男・義信、もしくは8男・義国の館跡と伝わる。

延暦3年(1213年)に、執権・北条氏との争い(和田合戦)で敗れた和田氏の内、義盛の6男・義信、もしくは8男・義国が上野国に逃れ、当地に住み着いたとされる。

和田の館跡 (2)
和田の館跡 (3)
三方を山に囲まれた地形は、潜居(隠れ住む)には適している。周囲には濠跡も認められるという。よく分からなかったけど。現在も当地には和田氏末裔の方々(名字は異なるが)が、多く在住しておられる。

次第に勢力を増した和田氏は、寛喜2年(1230年)もしくは寛元元年(1243年)に赤坂(後の和田、現高崎)に移り、上野和田氏の祖となった。ちなみに、「上野国誌」は上野和田氏の祖を義信とし、「和田記」では義国としている。