前橋市本町の高浜山松竹院梅林寺。

松竹院 (1)
松竹院は前橋城内の高浜曲輪内に永禄元年(1558年)に創建。そのため山号を高浜山という。

松竹院 (2)
松竹院 (3)
昭和20年(1945年)の前橋大空襲にて寺は焼失したが、昭和39年(1964年)に再建された。

岩佐空佐
松竹院 (4)
松竹院 (5)
岩佐直治海軍中佐の墓。享年26歳。
岩佐中佐は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際、「甲標的」と呼ばれる小型潜水艇で海中より決死の攻撃を敢行し戦死した。この決死の攻撃による戦功が評価され「軍神」と呼ばれた。(他の戦死者と合わせた「九軍神」のひとり)

岩佐中佐らの死は連合艦隊の空母機動部隊艦載機による真珠湾攻撃より前で、対米戦初の戦死者である。

甲標的
グアムに残る「甲標的」。
「甲標的」での攻撃は決して「特攻」ではないが、出撃した10名は決死の覚悟であったことは事実である。岩佐中佐は出撃時に「私の最後の任務達成に向けて出撃致します。終いに臨み伊号第二十二潜水艦の武運長久を祈ります。さようなら」と挨拶し、その覚悟が分かる。

計画は真珠湾内に潜入して海底で待機し、艦載機による空襲後に撃ち漏らした敵艦を、装備している2本の魚雷で攻撃、湾外に脱出するというものだったが・・・。

松竹院 (6)
墓所には岩佐中佐の両親に宛てた遺書が碑として建立されている。

松竹院 (7)
当時、「軍神岩佐中佐」という歌が作られている。

良い悪いは別にして、「九軍神」(甲標的による戦死者)は大々的に海軍合同葬が行われるなど、戦意高揚に利用された面もある。しかし、岩佐中佐をはじめとした英霊のおかげで今日の平和・繁栄があることを、現在を生きる我々は決して忘れてはいけない。