邑楽郡千代田町上五箇の愛宕神社。
愛宕神社の創建は不詳。
境内の一角に「亀田鵬斎翁誕生の地碑」が建っている。
亀田鵬斎は、宝暦2年(1752年)千代田町上五箇に生まれだが、父が江戸に出たため江戸で育つ(江戸生まれという説もある)。6歳にして三井親和に書を、飯塚肥山に素読を習う。14歳の時、儒学者・井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜いていたという。
天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際は、難民救済のためすべての蔵書を売り払い、それに充てたという。また、赤穂浪士のために私財を投じて泉岳寺に顕彰碑を建てている。
文政9年(1826年)75年の生涯を閉じる。
扁額の「愛宕祠」のは亀田鵬斎の筆による。
拝殿内の扁額「伊勢大々御神楽」は、鵬斎の子・綾瀬の筆。
境内の芭蕉の句碑。「子規ま年久か(ほととぎすまねくか) 麦のむら尾花」
(写真まったく見えず申し訳ないです)
句碑の碑陰(裏)は、紫峰庵夫雪を顕彰する「夫雪翁誌碑」になっている。碑の撰文と書は、綾瀬の養子・鶯谷による。碑の建立は慶応2年(1866年)。ちなみに、この紫峰庵夫雪は三世になる。綾瀬に漢学を学んでいる。
(初代に関しては、「初代 紫峰庵夫雪の墓・天徳山授楽寺」参照)
亀田鵬斎(扁額)、綾瀬(拝殿内扁額)、鶯谷(撰文書)を合わせ、「亀田三先生の筆跡」と呼ばれている。
愛宕神社の創建は不詳。
境内の一角に「亀田鵬斎翁誕生の地碑」が建っている。
亀田鵬斎は、宝暦2年(1752年)千代田町上五箇に生まれだが、父が江戸に出たため江戸で育つ(江戸生まれという説もある)。6歳にして三井親和に書を、飯塚肥山に素読を習う。14歳の時、儒学者・井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜いていたという。
天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際は、難民救済のためすべての蔵書を売り払い、それに充てたという。また、赤穂浪士のために私財を投じて泉岳寺に顕彰碑を建てている。
文政9年(1826年)75年の生涯を閉じる。
扁額の「愛宕祠」のは亀田鵬斎の筆による。
拝殿内の扁額「伊勢大々御神楽」は、鵬斎の子・綾瀬の筆。
境内の芭蕉の句碑。「子規ま年久か(ほととぎすまねくか) 麦のむら尾花」
(写真まったく見えず申し訳ないです)
句碑の碑陰(裏)は、紫峰庵夫雪を顕彰する「夫雪翁誌碑」になっている。碑の撰文と書は、綾瀬の養子・鶯谷による。碑の建立は慶応2年(1866年)。ちなみに、この紫峰庵夫雪は三世になる。綾瀬に漢学を学んでいる。
(初代に関しては、「初代 紫峰庵夫雪の墓・天徳山授楽寺」参照)
亀田鵬斎(扁額)、綾瀬(拝殿内扁額)、鶯谷(撰文書)を合わせ、「亀田三先生の筆跡」と呼ばれている。
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