高崎市箕郷町西明屋の青龍山松山寺。

松山寺 (1)
松山寺 (2)
松山寺 (3)
松山寺の由緒は調べたが分からなかった。

松山寺 (4)
松山寺 (5)
梵鐘は享保12年(1727年)、代官・下田理左衛門が鋳造し松山寺に寄進したものである。しかし延亨元年(1745年)火災により鳥有(うゆう)に帰す。その後、理左衛門の孫・理太夫政廣が天明3年(1783年)に改鋳している。戦時中も供出を免れている。

下田家はもともと長野氏の家臣(家老とも)。武田信玄の箕輪城攻めの際に時の当主・正勝は長野業盛とともに討死し、下田家は当地に土着している。その後、天和2年(1682年)に白岩、富岡、西明屋など近郷7村が安房勝山藩(酒井氏)の所領となり陣屋が置かれ、下田家(正勝子孫)が代官となっている。

下田家の屋敷のうち書院と庭園が残っており、庭園は赤穂浪士・堀部安兵衛が設計・築造したといわれている。
(「堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-」参照)