吾妻郡中之条町五反田の空閑の墓。

空閑の墓 (1)
前回の旧五反田学校へ向かっている時、道を間違えてしまい「あれっ?」って思った時に、偶然この案内板を見つけたので寄ってみた。
(旧五反田学校は「明治時代の小学校建築 -旧五反田学校-」参照)

和利堂 (1)
車を路駐し(ほとんど車は通らなそうだったので)歩っていくとお堂が見えてくる。和利堂とある。空閑の住居跡をお堂としたのかな?(勝手な想像)

和利堂 (2)
和利堂 (3)
和利堂境内にはいろいろな石仏があった。

空閑の墓 (2)
和利堂の脇に空閑の墓がある。空閑は江戸時代に当地に住み着いていた僧侶。

永禄6年(1563年)岩櫃城が武田信玄、真田幸隆らに攻められ落城。城主・斎藤憲広は越後の上杉謙信を頼り落ち延びたが、その末子・城虎丸は嵩山城に籠もり奮闘。しかし永禄8年(1565年)遂に落城。

嵩山  (1)
若き城主・城虎丸(18歳といわれる)は大天狗岩から身を投げ自害したという。また多くの女性も同様に大天狗岩から身を投げたという。

この嵩山城の犠牲者を弔うため、元禄15年(1702年)に空閑と地元の人たちが、嵩山の登山口を1番とする坂東三十三観音を建立した。(その後、秩父三十四観音、西国三十三観音も建立)

空閑の素性は調べてもよく分からなかったが、地域の人から嵩山城落城の話を聞いて、僧侶として菩提を弔い供養しようと思ったんだろうね。