高崎市倉渕町三ノ倉の榛名山座主の森。

榛名山座主の森 (1)
榛名山座主の森 (2)
榛名山座主の森は榛名山座主・快尊、忠尊、快承の墓といわれる。森という名称だが、円墳のような形状である。昔は鬱蒼とした森の中にあったのかもしれない。

座主とは一般的に天台宗のトップをことを言うが、住職の最上位職の別称でもある。榛名山座主とは、榛名神社の僧職の最高位のこと。神社の僧職というとおかしく感じるが、榛名神社(に限らないが)は古くから神仏習合が定着し、山中には9世紀ごろの僧坊とされる巌山遺跡もある。(神社から仏教が排除されたのは、明治の神仏分離以降のこと)

榛名山座主は藤原道長の子孫が代々受け継いだとされており、快尊は道長4代の孫・忠実の子孫といわれ、4代榛名山座主である。忠尊、快承は快尊の子。

快尊父子は榛名山執行職・頼印と座主の座を争い、烏川沿岸で敗死したという。快尊、忠尊は観応3年(1352年)、快承は文和2年(1353年)の死去。抗争に勝利した頼印は鎌倉公方の信任厚く、鶴岡八幡宮社家執事などを経て、応安4年(1371年)に榛名山座主に就いている。

快尊父子と頼印の争いは、榛名山の支配権をめぐる争いだが、当時の南北朝の代理戦争的な意味合いもあった。

榛名山座主の森 (3)
榛名山座主の森 (4)
鎌倉時代末と推定される多宝塔の残骸と2基の板碑などがある。板碑には元享2年(1321年)の銘が読み取れる。

それぞれが僧兵を指揮し争ったのだろうか? 権力争いはいつの時代も立場を超えて起こるものだ。