安中市原市の月桂山久昌寺。

久昌寺 (1)
久昌寺 (2)
久昌寺 (3)
久昌寺は大永5年(1525年)安中忠清の開基、月巣玄鶴の開山と伝わる。忠清は松井田(西)城より現在の久昌寺の地に移って榎下城を築いている。

榎下城は忠清の子・忠政が永禄2年(1559年)に安中城を築いて移るまでの35年間、安中氏の本拠地として機能した。

久昌寺 (4)
久昌寺 (5)
安中忠清の墓。
安中氏は桓武平氏の平維茂の末裔とする説と、後嵯峨天皇の第一皇子・宗尊親王の末裔とする説があるが、いずれも定かではない。どちらも皇族につながり、いかにも・・・な系譜である。

ちなみに、維茂は平将門の乱を鎮圧した繁盛の孫であり、宗尊親王は鎌倉幕府6代将軍で初の皇族将軍である。

一般的には、安中氏は長享元年(1487年)に越後から移住してきたとされるが、これも諸説あるようで、結局は安中氏の由緒はよく分からないと言うこと。ただ、安中氏(忠政・忠清の子)が当地一体を野尻から安中に改めたことは確からしい。

ところで、久昌寺には安中忠清の位牌とともに、井伊直孝(彦根藩2代藩主)の位牌も残されている。直孝は幼少時安中で過ごしているが、久昌寺との繋がりはよく分からない。直孝の戒名が「久昌院殿豪徳天英大居士」であることから、久昌寺の寺名の由来になったものと思われる。(「安中市下後閑・威徳山北野寺」参照)