富岡市一ノ宮の尾崎山光明院阿弥陀寺。

光明院 (1)
光明院 (2)
光明院は天元4年(981年)貫前神社の祠官・尾崎志摩守光明の開基とされる。その後火災により什器・記録などを焼失。寺の細かい縁起など一切不明となっている。

中興は清和源氏であり多田源氏の祖である源(多田)満仲の子・美丈麿とされる(法名・源賢法院)。多田源氏と上野国のつながりといえば、満仲の嫡子・頼光の四天王のひとりに碓井貞光がいるけど。

光明院 (3)
光明院は貫前神社の別当寺であった。また、貞和5年(1345年)と記された棟札があったといわれる。それは足利尊氏が堂宇を造営した証だといわれる。なぜかは不明だが。

光明院 (4)
山門脇に「群馬自由民権の碑」が建っている。当時(明治17年:1884年)の住職・日々遜が自由民権運動の活動家であったため、3月の演説会に1000人の群衆が集まるなど、5月の群馬事件の発端となったから。(但し、人数は数十人から200人、1000人と諸説ある)

群馬事件というのは、自由党急進派と農民による自由民権運動の激化事件。自由党の急進派が農民の不満を利用し政府転覆を計画したものである。

ただ、結局は丹生村(現富岡市上丹生)の岡部為作邸を打ち壊した程度で終息した。
(岡部家は「富岡市上丹生・岡部温故館」参照)

農民の困窮からくる不満を利用し、自らの野望を達成しようとする手段はオレ的にはまったく受け入れられない。現在この手法は左翼に受け継がれており、住民の行政に対する反対運動が起こると、どこからともなく左翼活動家が現れて、その活動自体を乗っ取って行き、いつの間にかイデオロギー闘争に化けてしまうのだ。

古くは三里塚(成田)、最近では沖縄の基地問題などは典型である。住民たちの純粋な不満の解消は置き去りにされ、政治闘争化してしまうことになる。なので、現実的な対策がとられず、結局住民たちの不満は最後まで解消されない。

光明院 (5)
碑文もきれいごとしか書いてない。まあ、あからさまなことは書けないのは、分かっているけど・・・。

*決して自由民権運動全体を否定するものではないので誤解なきよう