館林市当郷町の巨法山善長禅寺。
2011年7月に、榊原康政の愛妾「お辻」の供養塔を見に行ったが、今回は前回見そびれた松平忠次(榊原康政の孫)の生母・祥室院のお墓を見に行った。
(「「お辻」の供養塔 -善長寺-」参照)

善長寺 (1)
善長寺 (2)
祥室院のお墓。この宝篋印塔は高さが4.89mもある立派なもの。

祥室院は松平康元(下総国関宿城主)の娘で、徳川家康の姪にあたる。榊原康政の長男・大須賀忠政に嫁ぎ、忠次を産んでいる。

ちょっと余談だが、松平康元の父・久松俊勝は徳川家康の生母の再婚相手である。なので、康元は家康の異父弟になる。

その後、大須賀忠政が慶長12年(1607年)に病没すると、徳川家康の命により菅沼定芳(伊勢長島城主)に再嫁している。元和9年(1623年)に近江国膳所で病没したが、忠次が菅沼家に分骨を願い出て、善長寺にお墓を建立したという。

善長寺 (3)
墓域前には2基の石灯籠が建てられており、向かって左の1基には寛永10年(1633年)の銘がある。ただ、正面からだと平成8年(1996年)の墓修理時に植樹した木が大きくなり、石灯籠自体が見づらくなってしまっている。

榊原康政は「徳川四天王」に数えられる猛将で初代館林藩主であるが、その後は3男・康勝が継いでいる。長男・忠政は大須賀家(実母の実家)を継いでおり、2男・忠長は夭逝していた。

康勝は26歳という若さで亡くなり、勝政という庶子がいたが、家老の策略もあり、大須賀家当主(遠江横須賀藩主)になっていた忠次が3代館林藩主になった。なお、忠次は母(祥室院)が家康の姪であったことから、1代に限り松平姓を名乗ることを許されている。なので、榊原ではなく松平忠次なのだ。

忠次が榊原家を継いだときはまだ10歳であったため、逆に大須賀家は断絶している。