館林市本町2丁目の白峰山大道寺。

大道寺 (1)
大道寺 (2)
大道寺 (3)
大道寺は同じ浄土宗の善導寺の寺務を行う役寺で、明治時代に善導寺から独立している。

大道寺 (4)
大道寺 (5)
境内にある館林藩士・生田萬(よろず)の父祖の墓。ここにあるのは、曽祖父・曾祖母、祖父・祖母、父、母、妹の5基。

生田萬は享和元年(1801年)館林藩藩士の子として生まれる。平田篤胤の門下生となり、文政11年(1828年)に藩政改革の建白書を提出したことで館林藩を追われる(この時の藩主は越智松平氏)。天保7年(1836年)越後柏崎に移っている。

天保8年(1837年)の「天保の大飢饉」で困窮した領民を救おうと、柏崎大久保陣屋を襲撃するも失敗。自刃している。37歳。生田萬の墓は新潟県柏崎市にある。

当時の館林藩(越智松平家)の藩政がどんなものだったかの知識はないが、一般的には弘化2年(1845年)に入った秋元家が民政に力を注ぎ、文武奨励などを行い藩政改革に成功したといわれている。

藩主の当たり外れ(失礼!)って、けっこうあるよね。