邑楽郡邑楽町篠塚の霊松山大信寺。

大信寺 (1)
大信寺 (2)
大信寺 (3)
大信寺は宝亀年間(770~81年)に日光・輪王寺を開いた勝道上人が光善寺林(現在の大信寺から東南700m)に修行のための草庵を結んだのが始まりという。

大信寺 (4)
弘仁2年(811年)、弘法大師が勝道上人の足跡を訪ね当地に来た際、自ら薬師如来像を彫って薬師堂を建立したといわれる。

大信寺となったのは、篠塚伊賀守重廣菩提寺となった暦応年間(1338~42年)のこと。

大信寺 (5)
大信寺 (6)
大信寺から数十mのところにある、篠塚伊賀守重廣の供養塔。供養塔(宝篋印塔)には「大信寺殿智證大禅定門」と戒名が刻まれている。

大信寺 (7)
この地に生まれた重廣は、新田義貞の鎌倉攻めで勇名をとどろかすなど、新田義貞四天王のひとりに数えられる。重廣は6尺5寸、今で言うと195cmの大男で、4尺3寸(129cm)の太刀や8尺(240cm)の金棒を使いこなす怪力の持ち主であった。

また太平記の新田義貞を狙う敵兵を倒したシーンでは「両膝合わせて、さかさまに蹴倒す」とあり、これはドロップキックのように飛び蹴りをしたと思われる。

大信寺 (8)
大信寺 (9)
重廣は怪力の持ち主だったと書いたが、その証拠となるものがある。重廣がひとりで担いだと伝えられる長さ245cm、400kgの碇石とでかいお手玉石。(碇石の実物は茨城県神栖市波崎にある)

重廣は四国今治・世田山城の合戦で落城後、ひとりで敵中へ繰り出し「篠塚伊賀守重廣なり。討ちとって勲功にあずかれい」と名乗ると、みな重廣の名を聞いて怖気づき、敵方は退いてしまったという。そのため敵陣を悠然と通り、敵の船で脱出したという逸話も残っている。